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2025-12-14 39:12

第10話 女性の教育近代化と社会進出の架け橋となった人 渡邉辰五郎の話

房総文明ラジオは房総半島に新しい文明をつくろうを合言葉に、房総にまつわる様々な情報を発信するポッドキャストです。


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みんなでおもちつき2025

2025年12月28日(日) 10時30分~14時

NANSO CAMP(NANSO M&E) (千葉県いすみ市引田118 )

大人・中学生 一人2,200円/小学生一人550円/未就学児無料 (すべて税込)

※参加費には、お餅つき体験と出来上がったお餅およびトッピングの代金が含まれます。


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参考情報


文献


東京家政大学博物館紀要 第17集 P.35~54 「渡邉辰五郎の先見性ー渡邉辰五郎、那珂通世(なかみちよ)、福沢諭吉を通じて見た女子教育」 中村清二

https://tokyo-kasei.repo.nii.ac.jp/records/10340


その時輝いてー残したい長南の自然・歴史文化ー 永嶋まつ子 千葉日報社


長南町史 昭和48年発行 長南町史編さん委員会 


千葉県教育百年史


ウェブサイト


東京家政大学 令和8年度 東京家政大学の教育改革について

https://www.tokyo-kasei.ac.jp/about/news/kasei_news_250321_R8.pdf


東京家政大学 歴史と沿革

https://www.tokyo-kasei.ac.jp/about/history.html


東京家政大学 140年の歩み

https://www.tokyo-kasei.ac.jp/about/kaseipress90_140.pdf



サマリー

このエピソードでは、渡邉辰五郎が日本における女性教育の近代化と社会進出に貢献している様子が語られています。彼の取り組みを通じて、教育制度の変革やジェンダー論の重要性が考察され、これらの背景が現代に与えている影響が検討されます。渡邉辰五郎は明治時代の教育改革において、特に女性の教育の近代化に寄与している重要な人物です。彼の活動は、日本全体の教育制度の発展に大きな影響を及ぼし、義務教育の展開にも寄与しています。エピソードでは、千葉県の教育近代化における中道夫の役割や女子教育の重要性が強調されています。また、福澤諭吉との関わりを通じて、渡邉の先見性や功績についても語られています。渡邉辰五郎は、日本における女性の教育近代化と社会進出を推進している重要な人物です。

渡邉辰五郎の背景
この番組は、「房総半島に新しい文明を作ろう!」を合言葉に、千葉県は、房総にまつわる様々な情報を発信するポッドキャスト番組です。
ナビゲーターは、房総文明ミュージアムよりYOSSYがお送りいたします。
はい、前回からなんとですね、予定外におよそ1ヶ月も間が空いてしまいました。
久しぶりの収録でですね、マイク入れる声の慣れないところなんですけども、久しぶりにやっていこうと思っています。
10月の末にもそんなこと言ってたと思うんですけど、11月は本格的に風邪をひいてしまいまして、
しかも11月1年でおそらく一番忙しい時期にあたってしまったので、もう本当にスケジュール的にもしっちゃかめっちゃかになってしまって、
大変厳しい時期を過ごしていました。
今年の風邪は、僕がひいた風邪はですね、喉にくるタイプで、もう11月本当に声が出なくなってしまったこともあって、
それで声がしゃがれたまま戻らなかったので、もうしばらくずっと収録自体控えてたんですけども、
喉が痛くてですね、喋れなくなったりとかしていました。
そんな中なのに、11月は本当にイベントですとか、いろんな業務をスケジュール的にみっちり入れてたので、
もう完全にデスマッチみたいになってしまってですね、譜のループが回り続けてしまったというふうな情けない状況になってしまいました。
風邪をひくっていうことを予定に組み込んどかなかった、予想に組み込んどかなかったっていうのが一番悪いんですけども、
イベントが盛りだくさんの時期でですね、仕事なんかたくさんあって、
ちょっと風邪が良くなってきたかなと思っては、もう仕事を取り戻そうと思ってまたちょっと無理をして、
社会進出の影響
それで倒れてっていうのを繰り返してしまいましたね。
いつも余裕があるような仕事をしたいなと常々思ってるんですけど、なかなかそれがうまくできないっていうのが人生思い通りにいかないものです。
今考えるとですね、一回ガッツリと休んで、それで体調を完全に回復させてからやればよかったんじゃないかとか、
後からは覚えるんですけども、その当時にはそういう旗は回らないんですよね。
なんかこう、いろいろ考えさせられました。
はい、走行しているうちに季節は冬、もう12月ですね、本格的に寒くなってきました。
朝早く起きると窓ガラスが凍ってたりですとか、霜が降りてたりですとか、そういったのを見て、
冬だなぁと、空気が澄んでるんでちょっと逆に気持ちよかったりするんですけども、やっぱり冬っていうのは寒さが厳しいので、
ちょっとね、いろんなことを心が内静的になるというかですね、そういう時期だなと思っています。
秋は先ほど話したようにちょっと体調不良もあり、しかもイベント盛りだくさんで忙しかったこともあって、
うちはですね、庭、畑、山、それぞれ管理しているところがたくさんあるので、非常に広い面積をやっているので、
草刈りをしたりだとかですね、木を切っていかなくちゃいけないっていうのがあるんですけども、
今年は本当に全然できていなくて、野山管理できていないと草木が生い茂ってしまうのを見ていると、
草刈りしたいとか、枝を切りまくりたいっていうふうに思って、それ自体が心のストレスになってくるんですよね。
何か心が荒んでくる原因が草木が伸びてくるっていう、そういう関係にあったりします。
今年の冬にですね、ちょっとそれも頑張って何とかしていきたいなと思っているんですけども、
もしですね、野山で汗流すのが好きみたいな人がいたら、ぜひ手伝っていただきたいななんて勝手なことを考えていたりします。
さて、話は変わりまして、私たちがやっている株式会社スターレットの一つの授業として、星空スクールという授業をやっております。
これは要するにいわゆる私塾みたいなもので、小学生ですとか中学生向けにいろいろな学びの機会を提供するというような授業になっております。
そういったことを通して、今までに数十人、もしかすると100人を超えるような生徒たちといろいろ話をしてきているという感じですね。
こういうことをやっていると、どうしても教育の問題ですとか、あるいは日本の未来を考えてどういうふうに教育をしていけばいいのか、
学びの機会を提供していけばいいのかなんていうのが考えざるを得ないんですよね。
そういうことに、最近僕は関心を持ち続けています。
教育学も含めて、社会学という大きな学問ジャンルの中にジェンダー論という議論があるんですけども、
性差と言い換えてもいいと思うんですが、男女間の性別に関するジェンダーギャップと呼ばれるようなもの、
差がどうして生まれるのかですとか、どうやったらこれを解消ですとか解決していくというようなことができるのかというのを掘り下げていく学問ジャンルかなと思います。
さまざまな社会課題が起きていく中で、このジェンダー論も今大きく問題になってきているものだと思うんですけども。
今日はですね、そんなジェンダー論もかかってくるかなと思うんですが、日本の女性教育の近代化に人生を捧げた人物の話をしてみたいと思っています。
第10話 女性の教育近代化と社会進出の架け橋となった人
ここからが本編になります。
明治時代と教育制度
今回の本編では渡辺達五郎という人物を取り上げてその話をしていきたいと思っているんですけども、
この渡辺達五郎の話をしようと思った、あの実はきっかけがありまして、それは東京家政大学でですね、東京にある大学の家政学部、
家に政治の精と書いて家政というものですけども、家政学部というのの学部が、学部の名称が変更になるというニュースをたまたま目にしたからでした。
東京家政大学のホームページに行くと、ニュースのトピックのところにですね、令和8年度、東京家政大学の教育について、
というページがあります。東京家政大学、その中のちょっと文章を読み上げてみたいと思うんですけども、東京家政大学では、見学の理念、自主自立を軸に創立150周年に向け策定した、東京家政大学ビジョン150周年に向け、
人をつなぐ専門力のさらなる発展に向け、現代及び未来に求められる人物像に沿った能力育成を図るべく、令和8年度より新たな教育組織を設置します。
そして、その設置しますというところの下に競争、これは共につくると書いて競争ですね、競争デザイン学部、過去、家政学部より名称変更予定というふうに書いてありまして、この競争デザイン学部についてですね、
この競争デザイン学部っていうのは何なのかというと、競争デザイン学部は知る、学ぶ、体験するに加え、創造することを重視し、そしてその中に、
これまで、家政学部にて培ってきた専門分野の学術的知識と伝統ある充実した実践技術を基盤に、ものづくりを超えて、作り手と人や社会が互いに生きていくという、
新たな価値を創造するための学びを提供していきますというふうに書かれています。
この東京家政大学の名前にも関されている家政、たぶん家政学部の名前があるかもしれませんが、この家政学部について、
実はこの東京家政大学創始者の人の名前が渡辺達五郎という人です。この人は千葉県に住んでいて、
ちょうどいいあれかなと思って、渡辺達五郎さんの話を今日はしてみようと思います。
さて、この後渡辺達五郎さんという方のいろいろな話をしていきたいなと思っているんですけども、その前に渡辺さんにお話をさせていただきたいと思います。
この辺りの歴史背景を抑えることによって、渡辺達五郎さんがいかに頑張ったのかという話をさせていただきたいと思います。
渡辺達五郎さんが活躍した明治時代の学校制度と、あともう一つは女性教育の実態ということについて話をしていきたいと思っています。
この辺りの歴史背景を抑えることによって、渡辺達五郎さんがいかに頑張ったのか、いかにすごかったのかというのがわかりやすくなってくると思いますので、ちょっとお付き合いいただければと思っています。
次第は明治時代ですね。江戸時代が終わって、いろんな幕末維新の動乱があって、江戸幕府が倒れて明治政府という新しい政府が出来上がった頃の話になっています。
この時代の日本人のリーダー層の人たちは非常に強い危機感を持って政治運営をしていたというのがあります。
なぜかというと、欧州列強と呼ばれた国々が世界中の国を植民地にしていくという時代にありましたので、下手をすると自分たちの国も植民地にされてしまったりだとか、
という形で外国勢力に、とにかくこの時代は弱肉強食と思われていましたから、食われてしまうんではないかという危機感があったわけですね。
なのでこの時代の2つのスローガン、1つ目が不国共兵ですね。国を止ませて兵隊を強くしよう。
もう1つが食産工業ですね。産業を増やして、いろんな新しい仕事、職業を作っていって地域を潤していきましょうというような考え方が広まっていた時代になります。
そんな中で、明治のリーダーたちの先見の目があったということだと思うんですけども、教育改革というのもこのままじゃいけないということで、いろんな動きがあったというのが明治時代ですね。
そんなところから始まっていきます。本当にざっくりとなんですけども、明治時代の日本の教育の大きな流れを少しだけ確認していきたいと思っています。
まずは明治5年、1872年に交付された学政という政府の方針です。学生の学は学ぶ、政は制度の政ですね。
この学政を発令して、日本全国に体系的な学校システムを作っていきますよという宣言を政府がしました。
まあ、しましたって聞くと、それは当たり前なんじゃないのって皆さん思われるかもしれないんですけども、
それはもう本当に現代に生きてて、小学校、中学校に子どもたちが行くのが当たり前という感覚だったから、そう思われるかもしれないんですけども、
実はこの学政という制度が発令されて、政府が日本全国に学校を作っていこうということを言ったら、
この地域の現場の方では非常に大きな反発を食らうというようなことがあったりしたんですね、実は。
学校を作る費用を地域の人たちが負担しなくちゃいけないというのがまず大きな税金ですよね。
税金の問題があって、それが嫌で一揮を起こしたり、反乱を起こしたり、みたいなことがあったりとかしたので、
学校を作るということ自体もそれが当たり前の時代じゃなかったんだっていうのを、
まず基本に念頭において話を聞いていただかなきゃいけないなと思っています。
女性の社会進出
もう一つ、この後出てくるんですけども、学校に子どもたちを通わせるということ自体に対しての反発も非常に熱欲ありました。
何でかというと、その当時の人々にとっては子どもたちっていうのも貴重な労働力にカウントされてたからです。
本当にこのあたりの時代感覚、その当時に生きてた人々の感覚っていうのが分かっていないと、
この後の話が分かりづらいというところがあったりするので、
まずは本当にそういう状況だったんだっていうのを知っておいていただくことが大事かなと思っています。
学生が指向されて、その後教育例っていうのも出るんですけども、
政府の方もいろんな試行錯誤、この当時どういう教育システムを作ったらいいのかっていうのは誰一人分からなかったので、
みんながいろんなことを言い合うんですね。
やれイギリス式がいいんだ、やれフランス式がいいんだ、やれドイツ式だ、アメリカ式だっていうような形でですね、
いろんな人がいろんなことを言い合って、それに基づいていろんなトライが行われて、
徐々に日本の学校システムっていうのは構築されていくっていうのが、この明治時代の教育史の特徴になっていきます。
そんな困難があって、今度は明治19年に学校例という政府の方針が施行されます。
これは当時のですね、文部大臣の森有則という人が中心になって、この森有則さんは結構有名人ですけども、
森有則が中心になって、小学校例、中学校例、そして帝国大学例などといった、
体系だった学校システムの発表されて、これをやっていきますよっていうようなことが決まってたということになります。
これによって、この小学校例によって、日本の基本的な国民全員がですね、4年間の義務教育を受けることが確立されてきました。
日本全国に小学校というのができて、そこで4年間の義務教育を受けてください、というようなことが発令されてったということなんですね。
それまでどうだったかというと、実は義務教育ではなくて、
生かせたい親は生かせるし、生かせたくない親は生かせない、というようなことが起きてた。
この学校例が施行されたことによって、少なくとも4年間は生かせなくてはいけない、というようなことが整い始めてたということですね。
もちろんこの法律が施行されても、いろんな状況下で学校に行けないという子どもたちはたくさんいたんですけども、
一旦この学校例で義務教育というのが確立したということになっています。
千葉県の教育状況
さらには、この明治19年から数えて4年後ですね、明治23年、1890年です。
教育直後というものが発布されます。
これは制度というよりは国民の道徳、基本的な日本の国民道徳というのを、
国民にしっかりと明示していくというようなものから発令された、天皇の言葉として発布されたものなんですけども、
実は教育直後というのは、教育現場に非常に大きな影響を与えたというふうにも言われたりします。
ちょっと今日はその本題ではないので、そこは詳しく話さないんですけど、教育直後は明治23年だったんだということです。
なんとなく教育直後というと、一番最初の方に出されてたんじゃないかって思われるかもしれないんですけど、
実は明治23年なんですよね。こういった形で教育のシステムがどんどん整っていったという形ですね。
今、小学校は6年間、義務教育が6年間になっていますけども、これは実は1907年のことです。日露戦争が終わるか終わらないかという時ですね。
義務教育が4年から6年に延長されたというふうになっています。
さて今まで話してきたことが、いわゆる日本史における教育の歴史になっています。
では、暴走半島の千葉県はどうだったかっていうのを、ちょっとこれから見ていきたいと思っています。
まず千葉県教育百年史という本によると、千葉県のここの本の中で修学状況、学校にどれだけの子たちが行っているのかという調査結果が出てきます。
千葉県の修学状況、いろんなデータがあると思うんですけども、ここでは明治19年。
明治19年というと先ほど学校例が発令された年ですね。1886年の当時の状況はどうだったかっていうのを、ちゃんと当時の千葉県自治体が調べているということですね。
その当時、1886年の時はどうだったかというと、修学率はなんと皆さんどのぐらいだと思いますか?
この当時の修学率はなんと40%台となっています。
つまり、学校に行っている子よりも学校に行っていない子の方が多いというのが千葉県の現状でした。
それ自体もそんな感じなのかと思われるかもしれないんですけども、これはこの40%台というのは男女合わせてなんですね。
つまりというかですね、実はこの男女合わせて40%台で、さらに女子の状況はもっと過酷なものになっていたんです。
なんとこの千葉県教育百年寺によると、男子の数数に比べて3分の1程度しか女子は学校に行っていないという現状がありました。
つまり、全体の修学率は40%台で、そのうち女子はさらにどんどん学校に行っている子は少なくて、行っている子は2割から3割ぐらいだったと考えられるわけです。
千葉県のいろんな地域によってこの統計データは差異があるので一概には言えないんですけども、どの地域でもおしなべて女子の修学率は男子より低かったということができます。
そして全体としても千葉県の中では4割ぐらいしか学校にまだ行けていなかったということですね。
さらに千葉県教育百年寺によると、この義務教育4年間の子たちが何人卒業できたかという統計データが載っているんですけども、
実はその統計データの中でも卒業できる子っていうのは入学した子に比べて少ないんですね。
途中で退学してしまったというような形になってくるんですけども、これも非常に多かった。
途中で学校に、主には経済的な理由だと思うんですけども、行けなくなってしまうという子が当時はたくさんいたということですね。
この卒業できなかった割合っていうのも、男子よりも女子の方が多かったというような状況がありました。
江戸時代にですね、寺小屋という仕組みがあったっていうのは割とよく知られている事実なので、
そういったものの延長線上で、日本人は昔から学校だとか学び屋に通ってたっていうふうな、
そういう社会通念みたいなのがあったりするんですけども、実は寺小屋に通ってたっていう子たちも多く一部になっていまして、
この明治期に至ってもですね、小学校に行けてなかったっていう子たちは非常にたくさんいたということですね。
敷地立だとかにもこれは跳ね返ってきていて、当時日本では文章を、文字を読み書きすることができない人がたくさんいたというような時代になっています。
福沢諭吉と渡邉辰五郎の関係
そうするとですね、まず一つは産業ですよね。産業的にも、例えば文字で命令を出すっていうの、指示を出すっていうのに答えられない人がいると、
ちょっと勝手が悪いっていうのがあったりします。あともう一つはやはり軍隊ですね。
軍の指示っていうのが読み書きができないといろんな支障が出てくるっていうことがありますので、
こういったことをクリアしていかなくちゃいけないっていうような課題意識があったということもできます。
そういう時代だったということをですね、学校が当たり前ではなかった。
それをこう変えていこう、改善していこうっていうふうに立ち上がった人たちが目的にたくさん出てきたという話です。
そんな立ち上がってた人の最初のヒットっていうのと、人物として必ず上がる人がいます。
その人が福沢諭吉ですね。この慶応義塾大学の創始者でもあり、
日本の教育史の中において、日本の教育の近代化において貢献した大人物として名前が挙げられる人です。
ちょっと前まで日本の一万円札のですね、肖像になった方が福沢諭吉ですね。
この人は明治に学問のすすめという本を出して、これはもう空前のダイベストセラーです。
もういろんな人がこの学問のすすめに影響を受けて、
自分のいろんな事業というかチャレンジを始めるっていうようなことをやった人ですね。
さらにはこの学問のすすめ以降に福沢諭吉がいろんな本を書くんですけども、
その影響を受けて自由民権運動ですね。自由民権運動に突き進んでいくっていう人たちもたくさんいた。
そういった大きな影響を与えた人っていうのがこの福沢諭吉になっています。
で、なんでこの福沢諭吉の話をしたかというと、この後出てくる渡辺達五郎さんに、
渡辺達五郎にですね、大きく関係してくるのがこの福沢諭吉だからなんですね。
ちょっと渡辺達五郎さん置いといて話をするとですね、
この暴走文明ラジオでは今後多分福沢諭吉は繰り返し出てくることになると思っています。
なぜならば、暴走文明ラジオって文明っていう字がついてると思うんですけど、
この文明っていう言葉をですね、日本に広めたのも福沢諭吉ですし、
それから僕がこれから考えていきたいと思っている文明学、文明のことを考えることっていうのの中で、
日本の歴史においてこの福沢諭吉なしには絶対に語れないからなんですね。
それぐらいすごい人です。
もう本当に日本の近代化を考える上では絶対外せない人物が福沢諭吉になっています。
もっともっとどっかの段階で掘り下げていきたいなと思ってるんですけども、
今回はそんな感じの簡単な紹介ですね。
福沢諭吉さんをなんで出したかっていうと、
先ほど言ったように渡辺達五郎に関係してくるんですが、
それはどうしてなのかっていうのがちょっとこれからの説明になります。
またこれもどっかの話でしたいと思うんですけど、
実は千葉県って最初からできた県ではなくて、
千葉県は本当はちっちゃーな藩の集まりでしたので、
ちっちゃーな県がいっぱいできたっていう時代が明治期にあって、
それが徐々にくっついていって、
だんだん大きくなっていって千葉県になっていくっていう歴史が実はあったりするんですけども、
くっついてくっついて、ちょっと大きくなりだしたぐらいの時に、
千葉県令、いわゆる千葉県知事ですね。
その当時はまだ議会制ではなかったので、
政府がこの人を千葉県の一番偉い人にするっていう形で命名した人が千葉県令っていうのになったんですけども、
この千葉県令になったっていう方が千葉原八原さんっていうことです。
八原さんって言っては千葉原っていう人ですね。
この人が明治政府の命令を受けて、
千葉県の教育近代化の始まり
知事を受けて千葉県令になって千葉県のいろんな近代化を進めていくっていう人になるんですけども、
この人が千葉県の近代化を進めていくにあたって教育も大事だっていうふうに考えていて、
ただ先ほど申し上げた通り、まだまだ学校に通ってる人も少ない。
教育システム整ってない。
実際、教育というのは教える人と教えられる人がいるわけで、
教えられる人は学生ですけども、教える人も育てなくてはいけないんですよね。
じゃあそれもどうするかっていうのをいろいろ考えていて、
もう本当にゼロからのスタートですよね。
こういったときにどうすればいいんだろうって言って、相談したのが福澤由吉だったんですね。
当時の千葉県令や千葉原八原さんからどうしたらいいですかって相談を受けて、
福澤由吉はちょうどいい人がいるから紹介するよって言って、
紹介した人が慶応義塾の卒業生でもあった中道夫という人物でした。
道夫って聞くと今で言うと女性の名前みたいに聞こえるかもしれないですけど、
この人は男性です。中道夫さんという人を紹介したんですね。
ちょっとこういう感じのことがあるから行ってみない?って中さんは依頼を受けて、
じゃあ自分から行ってきましょうっていうことで、
この人が千葉県の教育システムを整えるために行ってきます。
千葉県令、千葉原の要請を受けて、中道夫さんは千葉師範学校というのと、
その後できる千葉女子師範学校の教師長として赴任してきます。
教師長というのは今で言うところの教頭先生みたいな位置づけなんですけど、
もうちょっと偉い格ですね。教師を束ねている人みたいな感じなんですけど、
中道夫さんという人が千葉県に来て、千葉県の教育システムを整えていくっていうことをやってたというわけです。
第10話の渡辺立頃の話をするにあたって、今回大きく参考にしたドキュメントがあるんですけども、
それをまず最初に説明させていただきます。
それが東京家政大学博物館企業第17集の35ページから54ページまでに出てくる文章です。
渡辺立頃の先見性、渡辺立頃、中道夫、福沢諭吉を通じてみた女子教育というのを書かれた中村誠治さんの文章に基づいて、
今回のエピソードは作られていることが多いです。
この渡辺立頃の先見性という文章の中からちょっと抜き出して話をしてみたいと思っています。
先ほど言ったように福沢諭吉、千葉県で柴原八原の相談を受けて福沢諭吉が紹介した中道夫という人が千葉県の師範学校、
そして千葉県女子師範学校の教師長として赴任してきたというところですね。
その人がどういうことをしていたのかというのが先ほどの論文で書かれています。
新しい教育方法の模索
ここから引用です。
学生交付以来、全国に管立の師範学校が設立されていたが、初期にはカリキュラムも教科書も整わないという状況であった。
そこで中道夫は権利、柴原八原から委ねられた師範学校経営に際し、新しい様式教育を実現しようとした。
国語、算数、英語について新しい教育方法を試みた。
というふうに出てきます。
まあ大変ですよね。
本当にゼロから先生の教え方も最初から作っていかなくちゃいけないというですね。
本当に鶏が先か卵が先かみたいな話なんですけども、
そういうのもやっていかなくちゃいけなかったという話です。
中道夫は千葉師範学校、これはまあいわゆる男性の方だと思うんですけど、
千葉女子師範学校、こちらの方、女性ですね。
こちらの方の教師長も勤めておりましたので、
女子教育の方も考えなくてはなりませんでした。
さらに文章が論文で続いてきます。
さらにこの中道夫はですね、女子特有の教科として裁縫家、裁縫というのは裁縫、縫う方ですね。
裁縫家の教授法を考えていた。
そしてここで渡辺達五郎がやっと登場してきます。
当時渡辺達五郎は千葉県長南町の長南小学校で裁縫を教え、名声を得ていたが、
画期的な雛形による教授法を考案し、同時に明治7年、日本最初の裁縫教科書を編集した。
中道夫はその活躍に着目し、明治12年千葉師範学校の教師法に抜擢した。
この時から和洋洋裁練習所、東京女子師範学校、教律女子職業学校などを通じ、
修正この二人の交流が続くことになった、という風に論文では出てきます。
何と言いますか、いかにも明治時代らしいエピソードなんですよね。
僕はこの文章を読んだ時になんか面白いなと思ってしまったんですけども、
まずは千葉県令がですね、教育システムを新しい、近代化したものを作っていかなくてはダメだと、
気合を入れて何かやろうとしていたわけです。
そこに相談を受けた福沢由吉が派遣した中道夫さん、
じゃあ期待に応えて、頑張って新しい教育システムを作りましょうということで、
今度はですね、洋式の全く新しい教育システムを、
渡邉辰五郎の活躍
トライアンドエラーでやっていこうとしていたわけですね。
その人が中道夫さんがですね、女子教育の中では裁縫家というですね、
新しいクラスも作りたいなと思っていたと。
そうしたところ、千葉県の長南町。
長南町っていうのは千葉県の防災半島の千葉市より南にぐわっと下っていって、
ちょうど半島の真ん中あたりにある町なんですけど、
割と山勝ちなエリアです。
交通の余所ではあるんですけども、結構山勝ちなエリアになっていまして、
そこの千葉市とかから見てもかなり田舎の方ですよね。
そこの小学校の先生をやってた渡部達五郎を見出すんですよね。
噂になっていたというか、評判になっていたという話なんですけども、
それでその人をですね、いきなり市販学校の教授に抜擢する。
こういうところが明治時期の人たちのすごいところだなと僕は思うんですけども、
それであなたなかなか面白いねということで抜擢しちゃうんですよね。
そこからのさらに渡部達五郎がすごかったっていうのが実はあるんですけども、
本当に魚が水を得たように活躍していくっていう風になっていきます。
後半では、いよいよ渡部達五郎の話、人生をメインに据えて話をしていきたいと思ってるんですけども、
この渡部達五郎が出てきた背景を知っていくと、
この日本の教育システムを近代化させるぞっていう風に努力し続けた人たちが
他にもこういう形でたくさんいたっていうのがわかってくるかなと思いまして、
背景の方から説明させてもらいました。
おそらく渡部達五郎もほぼ間違いなく福沢諭吉の学問の説明などは読んでたんじゃないかなと思っています。
非常に勉強熱心な人でしたから、読んでたんじゃないかなと思うんですよね。
その福沢諭吉の教えを学んだ中見一夫から抜擢されたということで、
もう本当に自分の身をですね、人生を捧げて千葉県の教育をなんとかしようっていう風に考えたんじゃないかななんて思ったりします。
本当にこの辺りが歴史の面白いところなんですよね。
ちょっとですね、今回話が長くなってしまったので、
一旦ここで打ち切らせていただいて、後半にまた次の機会にですね、
いよいよ渡部達五郎がどんなことをやってたのかっていうのを話をしていきたいなと思っています。
ここからはお知らせやイベントのご案内をさせていただきます。
まずはイテッツブックスのご紹介をさせてください。
イテッツブックスは廃線の危機にある泉鉄道、ご扶養になった本を寄贈していただくことで、
応援していこうというプロジェクトになっています。
皆様からの寄贈本を使って収益を上げて、泉鉄道の売上アップに貢献したり、
地域の企業化の支援や、あるいは地域イベントの活性化などに使わせてもらっています。
今も寄贈本大募集中です。
詳しくは概要欄のリンクからか、イテッツブックスでご検索ください。
イテッツブックス関連のイベントの告知です。
残念ながらですね、12月に予定していた大原ブックパークは、
天候の影響により中止になってしまったんですけども、
来月、もう2026年ですね、
2026年1月3日にまた大原ブックパークを、
泉市の泉レンタルスペースナルセにて開催いたします。
この日はナルセの方々のご好意で、
新春の餅つき大会も同時にやらせていただきますので、
もし古本市に興味がある方は、ぜひお越しいただければと思っています。
さて、おすすめの地域イベントとして、
今回はお餅つきイベントを紹介させていただきます。
私たちと非常に親交が深い、
本当に同じ移住者仲間でいろいろな苦労を共にしてきた、
ゆい農園さんというご夫婦がいらっしゃるんですけども、
そこの方々と一緒にお餅つき大会をやります。
その大会は、しかも南総キャンプさんというキャンプ場で開催しますので、
本当に広々とした空間の中で、
みんなでお餅つきをしてそのお餅を食べる、
こういう体験をできますので、
ぜひまだお餅つきをやったことがないという方は、
お越しいただければと思っています。
ゆい農園さんは、もう10年以上前になるのかな、
移住、いすみに移住されてきて、旦那さんの方は収納されて、
今もう米農家として活躍されています。
奥さんの方は今和菓子の出展をいろんなイベントでやっていて、
大人気の和菓子作家として有名な方です。
そんな2人と一緒にお餅つきをやりますので、
もし興味があればぜひ概要欄にイベントのリンク貼っておきますので、
見てみてください。
ずっと何でもやっているので、
本当に楽しいイベントなので、ぜひお越しください。
エンディングです。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
放送文明ラジオでは皆様からのメッセージをお待ちしております。
感想やご意見、取り扱ってほしいテーマや耳寄り情報など、
何でも結構です。
概要欄のフォームよりお送りいただけばありがたいです。
番組で今回ご紹介した情報は、
概要欄か放送文明ミュージアムのウェブサイトに貼っておきますので、
ご参照ください。
最後に今回もDJコーナーです。
今回はですね、僕が大好きなザ・ビートルズが
11月21日に発売したアンソロジー4から撮らせてもらいます。
最近このアンソロジー4ずっと延々と聞きまくっていますね。
ビートルズ大好きなんですけども、
その中から今日は2曲。
1曲目はI've Just Seen Your Faceっていう曲ですね。
この曲、実は僕すごい好きな曲なんですけども、
それが収録されてたので良かったので、
これぜひ聴いてみてください。流れるような音楽ですね。
2曲目がLove You Tooという曲です。
この曲も僕すごい好きな曲なんですけども、
今回も収録されて本当に飛び上がるほど嬉しかった曲ですね。
ビートルズの曲っていうのは、いろんなジャンルのタイプの曲があって、
それこそロックバンドとして認識されてはいますけども、
ポップスもそうですし、民族音楽みたいなジャンルも
結構いろんなものが作られていて、
飽きがこないですね。今聴いても全然新しいっていう、
本当に不思議な音楽を紡ぎ出されているバンドになっています。
他の曲も良い曲ばかりなので、ぜひ聴いてみてください。
それでは今回もありがとうございました。またどうぞよろしくお願いします。
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