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2025-12-16 46:07

第11話 女性の教育近代化と社会進出の架け橋となった人 渡邉辰五郎の話その2

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文献


東京家政大学博物館紀要 第17集 P.35~54 「渡邉辰五郎の先見性ー渡邉辰五郎、那珂通世(なかみちよ)、福沢諭吉を通じて見た女子教育」 中村清二


https://tokyo-kasei.repo.nii.ac.jp/records/10340


その時輝いてー残したい長南の自然・歴史文化ー 永嶋まつ子 千葉日報社


長南町史 昭和48年発行 長南町史編さん委員会 


千葉県教育百年史


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東京家政大学 渡邉辰五郎・青木誠四郎コレクション(デジタルアーカイブ)


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サマリー

このエピソードでは、千葉県長南町出身の渡辺達五郎が女性教育の近代化に寄与し、女性の社会進出を後押ししている様子が描かれています。彼の教育に対する情熱や地域社会への貢献が特に強調されています。渡邉辰五郎は町南小学校で裁縫を教え、女の子たちの教育への道を開いています。さらに、彼が考案した裁縫の教授法や教科書は広まり、千葉県の女子教育に大きな影響を与えています。渡辺達五郎は女性の教育と社会進出を促進するための活動を展開しており、彼の著書『たちぬいの教え』は平易な言葉で裁縫技術を広め、女性たちが自立できる道を開こうとしています。彼は女性の教育近代化や社会進出を促進するための架け橋となった重要な人物です。

渡邉辰五郎の影響
房総文明ラジオ。この番組は、房総半島に新しい文明を作ろう を合言葉に、千葉県は房総にまつわる様々な情報を発信するポッドキャス番組です。
ナビゲーターは、房総文明ミュージアムよりYOSSYがお送りいたします。 はい、今回で第11回目の収録となります。
今回はまずですね、ちょっと別のポッドキャス番組を紹介させてもらおうと思っています。 それが再演トーク科学系ポッドキャストという番組になっています。
この番組は、科学をエンタメっぽくおしゃべりするポッドキャス番組と銘打って、 研究者のレンさんとイギリス駐在員のエマさんのお二人がいろんなトークを繰り広げていくというような番組になっています。
僕も昔から聞かせてもらっていて、 科学だけではなくて人生史だとか、そういったのも本当に面白い番組になっています。
面白ければぜひ聞いてみていただきたいんですけども。 その再演トークさんが最近トリビアアワードという企画をやっていらっしゃいました。
この企画は、いろんな方からトリビアですね。 昔トリビアの泉って番組ありましたけど、あのトリビアです。
僕も大好きな番組でしたけども、1分間で最も人の耳を奪う話を集めるっていう企画で、いろんな方がトリビアを応募されて、それが再演トークの番組の中で紹介されて、
それをリスナー投票で誰が一番面白かったかっていうのをトリビアアワードとして表彰し合うっていうようなイベントになっていました。
本当にこの集まってきたトリビアが本当すごくてですね、どれもこれも本当にすごい面白い、いろんな意味で面白いトリビアが集まっていて、この企画自体まず聞いてみていただきたいなと思ってるんですけども。
で、つい最近ですね、12月11日に再演トークさんの方でこのトリビアアワードの結果発表っていうのが出されています。
そちらの方をぜひ聞いていただければという話なんですけども、そのトリビアのいろんなですね、トリビアが面白いんですけど、ちょっとこのトリビアの中で僕が少し気になったトークみたいなのがありまして、
それをこのポッドキャストとは別でですね、再演トークさんが開かれている議論の場において、ちょっと問題提起してみたところ、思いのほかいろんな大きな議論になってしまってですね、
そんなことも少しこのトリビアアワードの結果発表の中で触れていただいているので、もし関心があればですね、ぜひ聞いていただければと思っています。
僕が問題提起したことっていうのは、民族伝承、民話みたいなものですね。民話だとか、ある意味演技活技みたいなものと、その科学との関係性っていうのをどういうふうに捉えるかっていうところの観点の話で、
少し議論を吹っ掛けさせてもらったみたいな形になってしまったんですけど、そんなところもあってですね、大分ツイッターだとか、Xだとか、そういったところで盛り上がったので、そんなところも見ていただければいいのかなと思って、今回ご紹介させていただきます。
第11話 女性の教育近代化と社会進出の架け橋となった人
渡辺達五郎の話 その2
渡辺達五郎の生い立ち
今回は前回からに引き続きまして、千葉県の長南町出身で、後に東京化成大学の創設者となりました渡辺達五郎の人生を見ていきたいと思っています。
まだ聞いてない方は第10話から聞いてみていただけると幸いです。 それではこちらここから本編になります。
渡辺達五郎の人生を見ていきたいなと思うんですけども、話を分かりやすくするために大きく2つのパートに分けて話をしたいと思っています。
まず前半パートは第10話で出てきた中道雄に見出されて千葉女子師範学校の教師法として大抜擢されるところまでの話をしたいと思っています。
後半戦はそれ以降の活躍について見ていきたいと思っています。
今回の話は前回に引き続き、東京化成大学の博物館企業の渡辺達五郎の専権性という論文、プラスアルファでその時輝いて残したい長南の自然歴史文化
長島松子著、千葉日報社出版の本、並びに長南町史、こちらの方は昭和48年に発行した長南町のですね、歴史編参委員会の書物、これらに基づいて話を構成しております。
まずは渡辺達五郎の老いたち、幼少期にかけての話を見ていきたいと思っています。渡辺達五郎は1844年千葉県長南町に誕生しました。
1844年というと1853年がペリーが来た年ですから、それから遡ること10年ぐらい昔に、江戸時代ですよね、江戸時代の末期に生まれたということになります。
父は常松、母は葉屋という名前だったそうですが、この千葉県長南町の政権というのが非常に貧しくて極貧の生活を送っていたというふうに記録されています。
母親の葉屋は夏頃が5歳の時に亡くなってしまって、父親一人で育てしなくてはいけないんですけども、父親の方は出稼ぎに江戸に行ったりですとか、そういったことをして、幼少期はおじなどの親類に預けられて育てられたそうです。
ほどなくして父親が仕事にあぶれて、また長南町に戻ってくるんですけども、生活はあまり改善しなかったみたいで、かなり貧しい状況が続いたんですけども、その時に少しだけ寺小屋に行くことができたというふうに記録が残っています。
この辰頃の思想ですとか、後々の活躍ぶりを見るにつけても、やはりこの幼少期の極貧時代というのが一つキーポイントになっていたのではないかなと思っています。
江戸時代末期から明治期初期にかけては、日本はいろんな要因で生活が苦しくなってしまったということがありましたので、千葉県の長南町であってもかなり生活は苦しかったのではないかなと思いますね。
さて、転機は辰頃14歳の時です。この時に志を立ててというふうに本には出てくるんですけども、何か辰頃の中で決意を固めたのか、父親の元を飛び立って江戸に行くという決断をしたようです。
若干、今でいうと中学校2年生くらいの感覚ですよね。その辰頃は江戸に行くと。何かしらの方向を、要するにどっかのお店に入って、徹地として働くというようなことをできないかと模索したみたいです。
ただ、それも最初はなかなかうまくいかなかったみたいで、本当になかなか大変だったみたいなんですけども、最終的に日本橋にあった鳥井聖吉という人のところで、徹地暴行をすることになりました。
この徹地暴行制度というのも、教科書なんかには出てこないんですけども、江戸時代からよく行われていたもので、要するに指定制度という、誰かの弟子になって、自分のなりわいになるような技術ですとか、そういったものを学んでいくという制度なんですけども、
いろんな書物だとか、あるいは小説だとか、映画だとかの世界を見るに、この徹地暴行の人たちというのは、もちろんいいタラのお師匠さんなんかもいたんではないかと思うんですけども、大概扱いとしてはかなりひどかった人権的なものがかなり制限された状態で、小気使われていたというような状況があったと考えられます。
で、立頃もこの鳥居聖地のところで徹地暴行をすることになったんですけども、かなりつらかった日々を過ごしたようです。
この鳥居聖地のお店は何のお店だったのかというと、それが和裁の仕立て屋だったということですね。
巻物のいろんな仕立てをやるっていうところが鳥居聖地のお店であって、そこの徹地暴行をすることになったという話ですね。
ただ、そこで徹地暴行をするようになったんですけども、針だとか布だとか、そういったものを手にすることっていうのはなかなか許してもらえないで、ずっと来る日も来る日も雑用の連続だったというようなことを解雇しているそうです。
何度も何度も辞めてしまおうか、田舎に帰ろうかって考えたようなんですけども、ここで諦めてしまってはというので、なんとかそこに踏みとどまって、ようやく数年して主事に認められて、いろんな仕事を教えてもらうということができたというふうになっています。
で、辰頃は、徹地暴行の大変な仕事を終わった後で、主人の許可を得て、夏の日の夜、仕事がないときに限って寺小屋に通うことを許してもらったということですね。
まあだから全部辰頃は自分の意思でそういったことをやってたんじゃないかなと思うんですけども、ただその寺小屋に行った際にも月謝っていうのを払うことがあったので、その月謝を払うことができずに何とかしようということで、お店の方でですね、短物を裁断するときに出てくる歯切れを継ぎ足してですね、たすきを作って、それを打ってこの月謝に当てたというような話が残っています。
相当な苦労をして寺小屋に通ったっていうことですよね。
で、ただこの寺小屋に通ったことっていうのは、辰頃にとってある種の転機になりました。
そこで、算額ですとか、文字の読み書きももちろんですけども、そういったものを学んだというふうになっています。
後々にこれがかなり効いてくるということで、辰頃が自分でした選択っていうのが、なかなか後から効いてくるので、本当に工学士の強い人だったんだろうなと思っています。
辰頃はこのデッチ方向で10年間頑張りまして、一通りおそらく腕を磨いてですね、技を身につけて、
一通りの仕立て作業ができるようになった、ではないかと思います。
仕立て屋としての成功
ようやく法行人としての勤めが終わって、今度はですね、24歳の時にまた千葉県の長南町に戻ってきます。
で、実家の政権を仕立て屋としてですね、開業するということを始めます。
渡部辰頃、24歳の時ですね。
で、この長南町での仕立て屋は非常に評判になったみたいで、もちろん江戸帰りの技術を持っているっていうところもあったんだと思うんですけども、
渡部辰頃の腕前自体がそもそも良かったんだろうなと考えられます。
そんなこんながあって、仕立て屋として繁盛するというふうに、大繁盛するというふうに書かれているので、
お店の方はですね、ちょっと経済的にも少し潤ったというふうに考えられるんじゃないかと思う次第です。
そんなこんながあったんですけども、さらにですね、渡部辰頃は周りの家の子供たちを集めて、
仕立ての勉強を教えるっていうようなことも始めてたようですね。
で、それも評判になっていたと。
仕立て屋として自分が着物を作るっていうのももちろんやってましたし、
それの傍らで周りの人たちに仕立ての基本を教えていくっていうようなこともやっていたと。
だから自分の仕事も熱心だし、人に教えるのも熱心っていうようなことだったようですよね。
この辺りがこの渡部辰頃の不思議なところで、
何かこうあったんでしょうね、人に教えるっていうことに対して喜びを見出すタイプの人だったんではないかなと思っています。
そんなこんなが続いて日々が過ぎていきます。
女性教育の発展
またさらに転機が訪れるのは渡部辰頃30歳の時ですね。
この時に第10話でご紹介した学生ですね。
いろんなところに学校を作りますよっていう政府の方針が発表されて、長南町にも小学校っていうのができるようになりました。
それが長南小学校なんですけども、長南小学校ができて、そこに子供たちが通うっていう話になるんですけども、
実はその長南小学校で集まってきた子供たちっていうのがみんな男の子だったそうなんですね。
当時のこの長南町の家の人たちの考え方がここからもうちょっとわかるかなと思うんですけども、
その小学校に通って勉強するっていうのは男の子のやることだ、女の子のやることではないっていうふうに考えられたと推察されます。
こういう時代だったということですよね。
ただ、それを役人の人だとかはいろいろ危惧するわけです。
男女ともに教育するっていうのが政府の方針でしたから、そういったものをやっていかなくちゃいけないっていうちょっとした焦りなんかもあったんではないかと思います。
それでどうしたかっていうところで、実はですね、ここで渡辺たつごろが先ほど自分の家で塾をやってたっていうのが聞いてくるんですけども、
渡辺たつごろさんの話を聞きつけて、そこではたくさんの若い娘たちが仕立てのことを学んでいると。
渡辺たつごろさんの腕もいいし、人柄も良さそうだということで、渡辺たつごろに声がかかるんですね。
町南小学校での教育改革
渡辺たつごろさんと、もし良ければ小学校でその仕立てのことを教えてくれませんかと声をかけるわけです。
先生の資格みたいなのを渡辺たつごろは持ってなかったので、ここでも渡辺たつごろは先生の補助っていう形で小学校に行くようになったみたいなんですけども、
それが、町南小学校では女の子たちが学校に通うっていうことが実現できた、そうなんですね。
ただ、ここから強調しておきたいんですけども、ここからのたつごろがすごいんです。
すさまじいことを、すさまじい速さでやっていくっていうふうに見えるんですよね。
なんていうのかな、本当に見据えた魚というか、自分の活躍の場を見出したんだと思います。
どんなことをやっていくかっていうのをこれから説明していくんですけど、まずその30歳の時に、町南小学校で裁縫を教授していきます。
すいません、ここから仕立てというままで言葉を使ってたんですけど、それを裁縫という言葉に切り替えていきたいと思っています。
なんでかというと、町南小学校では裁縫科というクラスができて、そちらの方で渡辺たつごろは裁縫を教授していくっていうことになりましたので、
これからは仕立てということは裁縫という言葉に切り替えて説明をしていきたいと思っています。
渡辺たつごろは努力ともう一つは創意工夫、もうめちゃくちゃ工夫する人だったんだと思われるんですよね。
しかも、その工夫をどんどんどんどん人に広めていくということも全く厭わなかった。
自分のスキルだとかノウハウをバンバン人に公開していくっていうようなことをやっていきます。
で、一番僕がすごかったなと思うのは、この町南小学校でひな形を使った授業っていうのをやり始めたことなんです。
ひな形っていうのは、要するに何分の1スケールの服を通ってくる師女に習わせた。
要するに着せ替え人形みたいなもんだと思うんですけども、少しスケールを下げた服をこういうふうに作るんだよっていうふうに形で、まず教えて。
で、その服のサイズを縮尺を変えていくことで、子供用だったり大人用だったり女性用だったり男性用だったりっていうのを服を作れるようにするっていうようなことを教えたみたいなんですね。
で、これもう一つすごい合理的なのは、布を節約できることなんです。
つまり、例えば大人用の着物を作ろうと思ったら、それだけの布を確保してやらなくてはいけないわけで、教えられる側の方の学生にとっては経済的な負担っていうのが非常に大きいことになりますよね。
それがひな形であれば、使う布は何分の1かで積むようになるわけです。
で、そうすることによって経済的に苦しいという家庭の家であっても、娘を学校に通わせることができるっていうことを考えたんではないかと思っています。
本当にこういった形で、あとは型をですね、最初に教えて、それに基づいて縫わせていくだとか、そういったことをやっていったと。
で、何がすごいって、この30歳の時に渡辺達頃は裁縫の教科書を自分で変算して作っていることなんです。
もうおそらくは、こういうものを作った方がいいっていうのが頭にないと、このスピード感は説明ができないんですよね。
で、おそらくこういった背景には、ずっと10年間自分がデッチウォークをし続けたことの、感情の裏返しがあったんではないかなと思っています。
もっと効率的にやれば、もっとたくさんの人が多くのことを学べるのにっていうふうに考えてたんじゃないかなと僕は思うんですよね。
で、当時の法行制度、法行人の制度っていうのは、体系だった教え方っていうのがあったわけではなくて、
要するに見て盗め、聞いて盗め、そういう世界です。教えられるんじゃなくて、技を盗んでいく。
誰からか教えてくれるわけじゃなくて、自分で考えて、自分で盗めっていうようなことを言われてしまう世界だったんですよね。
で、もちろんそういうのの良し悪しもあると思うんですけども、やはり経済的に苦しい過程が多い地域の中で、
このやり方をしててはダメだと、たつ頃は考えたんじゃないかなと思うんですよね。
それで、できるだけたくさんの人が、できるだけ優しく裁縫の仕方を学ぶにはどうしたらいいかっていうのを考え続けたんじゃないかと僕は思っています。
そんなこんなで長男小学校で、その教授法を自分の中で工夫を重ねて、どんどんどんどん新しいものにしていく、確立していくっていうことを渡辺たつ頃はやってきました。
千葉市藩学校での新たな挑戦
さらに渡辺たつ頃は工夫を重ねていきます。渡辺たつ頃は33歳の時、3年経った後ですね、この時に裁縫をかけずっていうのを作り上げて、
それによる一斉授業っていうのを始めるようになります。裁縫をかけずっていうのは、要するに、今でいうと黒板に図を貼り出して、それに基づいて先生が説明するっていうような、こういうタイプのやり方ですね。
これ、皆さん見たかったらですね、東京科生大学のホームページの方に、実際に渡辺たつ頃が作った教科書とかが見ることができる。
直接Webのアーカイブで見ることができるので、ぜひ見てみてほしいんですけども、その渡辺たつ頃がですね、工年たち縫いの教えっていう本を書いてるんですね。
この中で、かけずによる教授法っていうのが出てきます。先生がですね、挿し棒で、この洋服はこういうふうに作るんだよっていうのを説明している図が出てくるんですけども、
このかけずっていうのを考案して授業をやり始めたっていうのも渡辺たつ頃が工夫してやったことの一つだそうなんですね。
こうすることによって、たくさんの人が一度に多くのことを学ぶことができるっていうのを意図したみたいです。
なんか、図を見ててもですね、聴いている生徒たちがたくさん首を上に向けて図を見ている図があって面白いんですけども、なかなか本当にいい工夫法だと思います。
で、このかけずの方法を発明した次の都市なんですけども、これがまたすごくて、市原にですね、長南町の隣に市原市っていう市があるんですけども、
そこに鶴舞小学校っていう小学校ができました。
で、そうしたら長南町の長南小学校の評判を聞きつけた鶴舞小学校の方から、
すいません、渡辺たつ頃さん、市原の鶴舞小学校でも裁縫を教えてくれませんかってお呼びがかかるんですよね。
で、これ実際に長南町から市原鶴舞って結構な距離がありまして、しかも山勝ちなエリアなんです。
だいぶ坂道いろいろ登ったり下ったりしなくちゃいけないんですけども、それを渡辺たつ頃は厭わずに行きましょうということで許可して、
で、毎日長南と市原を歩いて、往復して、授業をして、また帰ってくるっていうようなことをやってたらしいんですよね。
本当すごすぎる。体力的にもそうですし、気力的にも、何か情熱があって出ないと本当にできないようなことだと思っています。
で、ここでいよいよ第10話とつながってくるわけです。
そういった形で長南小学校、そして鶴舞小学校で授業をしていた渡辺たつ頃の評判はどんどん広まっていきます。
さらに、先ほど言った裁縫の教科書ですね。
こちらの方もいろんな人に読んでもらうようになって、なんかすごい人がいるなぁという名声というか噂、評判というのがどんどん広まっていったわけです。
そして、中道夫が福沢諭吉の紹介を受けて、千葉県令の依頼を受けて千葉市藩学校の学校長に就任します。1878年のことです。
それで、その次の年に中道夫の招きで、なんと千葉市藩学校の教師補に抜擢されるわけですね。
千葉市藩学校というのは千葉市にありましたから、長南町市原市からだいぶ遠いんですけども、そちらの方の教師補に、いきなりですよね。
あの時、渡辺たつ頃、35歳です。
先生の先生になってくれっていうことですよね。
市藩学校の市藩っていうのは先生っていう意味で、要するに先生を養成する学校っていうのが市藩学校になります。
日本全国にいろんなところに市藩学校っていうのの元になったところなんですけど、今は教育大学だとか、大学の教育学部が置いてあるパターンが多いですね。
その元になったのが市藩学校。千葉県初の市藩学校の学校長になった中道夫が、いろんなところで渡辺たつ頃の評判を聞いたんだと思うんですね。
そんな人がいるんであれば、ぜひ来てほしいということで招いたんだろうなと思っています。
こうして見ていくと渡辺たつ頃さん、どんどん自分の実力ですごいことを成し遂げていくって感じなんですけども。
中道夫さんから要請があって、千葉市藩学校の教授となる。
これが35歳の時になります。
ここからもすごいんですよね、渡辺たつ頃さん。
35歳で教授になって、千葉県中の女子たちを教える先生を育てなくてはいけないと。
これは言ってみれば大事業なわけですよね。
ここで渡辺たつ頃さん、なんと36歳の時、つまり千葉市藩学校の教授になって1年後です。
これがこの年に普通裁縫教授書という本を書きます。
渡辺たつ頃さん、36歳の時です。
この普通裁縫教授書、その当時の千葉県の裁縫科の授業で使われるだけではなくて、
全国の女子市藩学校、女学校の教科書となっていくんですよね。
教育学を体系的に学んだわけではない渡辺たつ頃なんですけども、
これ本当に体調で、これも大学のライブで見ることができるので、ものすごいしっかりした想定の本になっています。
これもきっと自分の頭の中に物ができてたんだと思うんですよね。
もちろんいろんなものを吸収しながらやってたんだと思うんですけども、
その普通裁縫教授書っていうのを、36歳の時に書き上げて作っていくと。
こういった形で千葉の女子市藩学校でも評判になっていたんだと思っています。
先ほどの中道夫とのつながりで、もっともっと話が大きくなっていくんですけども、
中道夫は千葉の市藩学校の最初は教師長だったんですけど、その後は学長になります。
さらに、1479年なので赴任してから2年後、千葉県の教育会の会長にも就任します。
要するに千葉県の教育のトップになったわけですね。
やり方ですとか、そういったものが評価されたのか、
この2年後、さらに1881年に東京女子市藩学校の校長を兼務することになります。
千葉市藩学校と東京女子市藩学校の校長を兼務すると。
なかなか激務だと思うんですけども、行くことになったと。
そしたら、今度また東京に渡辺達五郎を呼び寄せるんですね。
1881年渡辺達五郎が37歳の時、東京の湯島に和洋裁縫練習所というのを設立いたします。
この実は和洋裁縫練習所というのが、今の東京家政大学の前身になっているものなんですね。
37歳の時にそれをやり始めてたと。
この年にはその教員となって、練習所で裁縫を50人に教授していたという記録が残っています。
本当に大忙しですよね。教科書も書いてるわ、教えなくてはいけないわ。
女性の教育の重要性
千葉市藩学校で教えてるし、東京女子市藩学校でも教えてると。
さらには和洋裁縫練習所という施設を湯島に作って、
そこで先生の先生を要請してたんだと思うんですけども、裁縫を教えられるような人材を作っていくということにも取り組んでいった。
この同年、渡辺達五郎は普通裁縫算術書という本を書き記します。
これもまた面白くて、なんでかというと、この本では裁縫に必要な算術、算数のことですね。
算数をわかりやすく解説しています。
なぜそれが必要なのかっていうのを渡辺達五郎が書いている文章があるんですね。
何かっていうと、それが福沢諭吉の思想にどうも寄っているようなところがあるのが面白いところだと思っています。
福沢諭吉はその著書の中で、女性も算数であるとか物理を学んでいく必要があると。
自分の経済を自立させることによって、社会にいろんなことをできるようになるということをずっと唱えていた人なんですね。
それを読まずかはもちろん今はわからないんですけども、渡辺達五郎の本の中にもそれが出てきます。
渡辺達五郎はその本の中で、他人の手を借りずに自由に裁縫を行うということを基本理念として持っていたみたいなんですね。
それが東京和泉大学の自主自立っていう見学の精神にもなっているみたいなんですけども。
この他人の手を借りずにっていうところがポイントだと思っていまして。
というのは、この時代、女性に限らず男性もそうなんですけども、読み書きであるとか、あるいは算数であるとかっていうところが基本的なものができないっていう人も多くいました。
その場合、洋服を作る、和服でもいいんですけども、服を作る際には布をどのくらい買って、それを割り算しなくてはいけないと思うんですね。
一番大きな長さでこれくらいで、それをこういうふうに割っていくと、このくらいの布が必要だっていうのを解けなくてはいけないんですけども。
それがなかなか計算ができずに、その計算を誰かにやってもらう。
それが、番頭の力を借りるっていうふうに表現されてるんですけども、
ご福典で番頭の人に算数をやってもらって、自分がそのものを受け取って、後は縫うだけっていうようにしてもらう。
ここまでやってもらうっていうところを、なんとかしなくてはいけないっていうふうに、どうも考えたみたいなんです。
そういった考えに基づいて、普通裁縫算術書という本まで作って、こういうふうに計算すれば、こういうふうに服が作れるからっていうのをわかりやすく解説していく。
渡辺達郷の思想性っていうのが、この本に現れているということができると思います。
女子教育への貢献
さらに1882年、渡辺達郷38歳の時です。
たちぬいの教えという本をまた出版します。
この本がもう究極的に僕の中では福沢諭吉の学問のすすめに重なってくる本なんですよね。
というのは、このたちぬいの教え、東京和泉大学のライブラリーで本の全文を読むことができるので、もし興味ある方はぜひ見てみてほしいんですけども、
わかりやすく、平易な、ひらがなでほとんど書かれています。漢字は、関数字だとか漢字で書かれてるんですけど、ほとんど使われてなくて、ひらがなで、しかもわかりやすい文章で記述されている。
この時代、まだまだ漢文の時代で、漢字は男字と呼ばれてたんですけども、口語体に対して文語体という形ですよね。
本に関しては、わかりづらい文章というのが一般的だったんですけども、それをわかりやすくできるだけ話し言葉に近い形で記述する。
さらには、ひらがなで書くということを徹底した本を、38歳の時に渡辺達頃は出版しています。
これなんかも、おそらくは、より多くの人たちに裁縫の技術を学んでもらって、裾野を広げることですよね。
それで女性が立身出世していく、自分の身を立てていくということをできるようにするということを狙ったんじゃないかなと思っています。
本当にここまできて、教科書を、授業法を確立して、教科書も自分で書いて、学校も自分で作って、算数画とか付属するようなことも全部自分で教科書を書いて、
さらには、一般書、より裁縫が一般の人たちに広まるような一般書、今で言えるところの新書みたいなものですよね。
新書っていうか、もっと絵本みたいな感じかもしれないですね、感覚的には。
それをどんどん世の中に広めていくということをやっていったということです。
ここまでのことが認められたのか、何なのかなんですけども、なんとですね、1883年、達頃が39歳の時です。
文部科学省の御用係に任用されます。
御用係というのは、今で言うと専門家会議に出るような人っていう感じですね。
アドバイザリーボードのアドバイザーみたいな位置付けですけども、文部科学省っていう国のトップ機関ですよね。
それの御用係に任用されたというところまで行ってしまったと。
30歳の時に長男小学校で教え始めたので、たった10年間で文部科学省の御用係まで行く。
明治時代のすごさっていうのもここに詰まってると思うんですけども、
渡辺達頃の実力もすごかったというようなことができるのかなと思っています。
その後も渡辺達頃は女子教育の充実に向けて取り組み続けたようで、
先ほど吉島に作った和洋裁縫練習所とはまた別に、女子の職業訓練学校っていうのを立ち上げる設立に関与することになります。
これが実は今の教立女子大になっていて、
現代の教育と課題
まとめると東京和製大学の創設者でもあり、
教立女子大学の創設にも関わっていたっていう人物が渡辺達頃ということで、
本当にすごい人ですよね。忙しかったと思います。
その後また教科書を発行したりだとか、いろいろなことをやっていって、
63歳、病気でおしまいつつ亡くなったというのが渡辺達頃の人生になっています。
本当にすごい人ですよね。
こういう勉強熱心な人たちっていうのが明治時代を作っていったと思うと、
結構胸が熱くなるなと思うんですけども。
渡辺達頃の功績を称えた石碑っていうのが長野町に建てられています。
面白くてですね、この石碑を建てようって言った中心人物が長野武さんっていう人なんですね。
この長野武さんの話は別にしようと思ってるんですけども、
長野武さんっていう女性の方なんですけども、
この方の人生がそれこそ渡辺達頃がやりたかったこと、実現している人生なんですよね。
そういうことを日本全国に広めていった功績を称えてくれた人自体が、
その渡辺達頃の思想を実現してたっていうこういう面白い関係にあります。
長南町の長福寿寺っていうところにお墓の近くに石碑が建っているということなので、
もし興味がある方はそちらの石碑を見に行ってみるといいかもしれません。
今回のテーマである渡辺達頃の話は、東京火星大学の看板学部だと思うんですけども、
火星学部っていうのの名称変更のニュースを見てですね、ちょっと取り上げてみようかなと思っていました。
実はこの火星学、英語ではホームエコノミクスって言うんですけども、
ホームエコノミクスは日本だけではなくて、西欧で特にアメリカで発達した学問領域になっていまして、
ホームエコノミクスという形で研究が進められたわけなんですけども、
実はアメリカの方では、もう今この火星学っていう言葉をやめて、別の言葉にしようという風になってしまっています。
それがホームエコノミクスではなくて、ファミリアンコンシューマーサイエンスということで、
家族と消費者の化学、一見すると何のことなのかなって思うような言葉なんですけども、
そちらの方にお控えが進んでいるという話がありますね。
日本の火星学っていうのも、先ほどの創生デザインっていう形で言葉が変わっているっていうことなんですけども、
渡辺達五郎が理想としていたところの視点で今の時代を見たときに、
必ずしも理想通りになっているわけではないんじゃないかなというところを僕なんかは感じていたりしますね。
男女間の格差、ジェンダー論っていうのの話も一番最初に出しましたけども、
もちろんその良くなっているところはたくさんあって、
経済的な格差だとかは明治時代から比べると格段に改善されたっていうところはあると思うんですけども、
一方で日本の男女間の格差っていうのの開きは、
いろんな国と比べてもやはり遅れをとっているっていう指摘もたくさんありますし、
現状を見ているとまだまだ課題がたくさんあるんだろうなっていう話はそこここで聞くわけですよね。
こういうのの解決自体を先送りにして、
渡辺達五郎が本当にやりたかったことの先にあることを感じ取らずに、
違うことを目指してしまうっていうのは、やはり先代の積み上げてきたものに対する貢献が薄いような気がするので。
やはり新しい未来みたいなのをみんなで考えていかなくちゃいけないっていうところに来ているんだろうなと僕は思っています。
ぶっちゃけた話、今の日本で女性がめちゃくちゃ活躍してるみたいな県や自治体ってあんまり想像つかないような気がするんですよね。
首長が女性になっただとか、社長が女性になっただとか、そういう話っていうのはもちろんいろいろありますけども、
お忍びで女性がすごい活躍しているっていう場所って今はなかなか日本ではないような気がするんです。
逆に言うとそうやってチャンスだと思っていて、
もう本当にいっそのこと暴走半島なんかは女性が一番活躍している地域になればいいんじゃないかなと勝手に僕なんかは思ってたりしますね。
そういうこと言うと男性側が活躍してないみたいに想像しちゃう人がいて、
なんかそれも僕はすごいおかしな話だなと思うんですよ。
男性も一番活躍している地域を目指せばいいし、女性も一番活躍している地域を目指せばいいっていう、
この両立てができないっていうのはなんかおかしな考え方じゃないかなと思ったりするんですよね。
その理想を追い求めるのがもし活性学なんだとしたら、
まだまだ現代においてやれることはたくさんあるんじゃないかなと僕は思ってたりします。
そんなこんなで渡目達郷さんのすごさみたいなのをちょっとでも感じていただきたくて今回のエピソードを収録してみました。
次回また今度に渡目達郷さんの思想を継いだ長野武さんの話なんかもしてみたいなと思っていますので、
楽しみにお待ちいただければと思っています。
ここからはお知らせやイベントのご案内をさせていただきます。
まずは一鉄ブックスのご案内です。
一鉄ブックスは廃線の危機にある磯見鉄道、
ご扶養になった本を寄贈いただくことで応援していこうというプロジェクトになっています。
皆様からの寄贈本を使って収益を上げて、
磯見鉄道の売り上げアップに貢献したり、
地域の企業化の支援や地域イベントの活性化などに使わせてもらっています。
今も寄贈本を大募集中です。
詳しくは概要欄のリンクからか一鉄ブックスでご検索ください。
イベントの告知です。
まず大原ブックパークですね。
一鉄ブックスのイベントとして、
大原ブックパーク25回目を来年1月3日の土曜日に
いつもの磯見レンタルスペース鳴瀬にて開催します。
新春ということで、
新しい年に本でも読むかという心意気の方は
ぜひいらしていただければと思っています。
続いてオススメ地域イベントです。
私たちも非常にお世話になっている
ユイ農園という農家さん兼和菓子職人のご夫婦と
一緒にお餅つき大会をやります。
12月28日日曜日の10時半から14時2時までです。
場所は南総キャンプさんというキャンプ場を
一部でやることになっていまして、
広々とした空間の中でつきたてのお餅、
お餅つきやったことない人もたくさんいらっしゃると思うんですけども、
本当にお米を蒸すところから始まって、
薄で木根を使ってついて、
それをみんなで食べるというようなイベントになっていますので、
ぜひお餅つきやったことない人は参加してみてください。
どうぞよろしくお願いします。
放送文明ラジオでは皆様からのメッセージをお待ちしております 感想やご意見取り扱ってほしいテーマや耳寄り情報など何でも結構です
概要欄のホームよりお送りください もしくはXのアカウント欄とかもありますのでそちらの方でコメント頂ければ幸いです
番組でご紹介した情報は概要欄か放送文明ミュージアムのウェブサイトをご参照ください はい最後にDJコーナーをお送りします
今回は女性ボーカル2曲をお送りしますというか ただ勝手に名前を挙げてるだけですけども
まず1曲目は東京事変の閃光少女という曲をあげたいと思っています これはですね最近僕もハマっている漫画で普通の軽音部っていう漫画があるんですけど
その中で出てきたあの曲あのこの漫画の中で実際の曲が出てくるんですよね でその
1曲の一つなんですけども あのなんて言いますかねこの漫画であのこの閃光少女が出てきたときに僕の頭の中で本当に
閃光少女がかかったのでなんかすごいなぁと思わされたあの っていうエピソードがありますまあただのエピソードなんですけどあのはい
まずは東京事変の閃光少女ですね で2曲目がアドちゃんのですねアシュラちゃんアドのアシュラちゃんっていう曲です
あのアドちゃん大好きなんですけどもこのアシュラちゃん もっと人気になってほしいなっていう曲であのここであげさせてもらいました
さて今回もありがとうございますまたどうぞよろしくお願いします
46:07

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