1. ブックカタリスト
  2. BC057『人を賢くする道具』と..

収録前の準備として読書メモを作るのが常なのですが、それをやるまではちょっと気楽に構えていました。面白いことはいっぱいあるし、いくつか拾えばOKだろう、くらいに。

しかしいざ実際に作りはじめてみると「とても一時間の収録で手に負える本ではないし、二週間やそこらの準備で太刀打ちできる本でもない」と思い知りました。

よって大きくかじ取りを変更します。本編でもお話していますが「一冊の本を、一年かけてゆっくり読んで行く」というアプローチです。

具体的にそれをどう進めて行くのかは、サポーター向け記事として別途を投稿しますので、ご興味あればサポーター・プランの検討もお願いします(宣伝終わり)。

本書の概要

今回のメモは以下です。

◇ブックカタリストBC057用のメモ - 倉下忠憲の発想工房

本の概要だけなら、比較的簡単にまとめられます。

『人を賢くする道具』の原題は、『Things That Make Us SMART』で、「人を賢くするThings」です。で本文にもありますが、Thingsは人を賢くするだけでなく愚かにもします。人が make した thingsによって 人がある性質に makeされるという循環的な構造がある、と著者は指摘します。

人類の歴史(あるいは文化の発展)は「私たち自身を make する things を makeすること」の繰り返しによって生まれてきている、というのが基盤となる視点で、つまり「小さなクレーンが作れれば、それよりも大きいクレーンを作ることができ、その大きなクレーンが作れれば、さらにそれよりも大きなクレーンが作れる」的に、道具作りが別の道具作りへと接続していく(しかもメタ的に上に登っていける)というのがこうしたthingsの面白いところです。

その上で、著者は人の知的作業を体験型と内省型に分類し、現代の(1993年当時の)テクノロジーは体験型に偏りすぎているのではないか、と指摘します。すると、二つの知的作業のバランスが崩れて、人は「愚かに」なってしまう。でも、それは人間の性質が「愚か」なわけではなく、人の性質をうまくいかせていないテクノロジーやその運用に問題があるのではないか、というのが著者の問題意識です。つまり、「Things That Make Us 体験的」なものが強まっている、ということです。

ここでの「体験的」とは「受動的」「反応的」であり、自分の心の声(これが内省です)が力を持たず、ただ周りの状態(環境)によって自分の行動が決まってしまう状態が含意されています。著者は書いていませんが、そうした状態は資本主義=消費主義社会に利することは間違いないでしょうし、政治がポピュリズムに傾いてしまう契機にもなります。まさにオルテガが言う「大衆」が生まれるわけです。

だからテクノロジーそのものやそれを使うための道具のデザインをしっかり考えようよ、人間の二つの認知をうまく働かせるようにしようと、と主張しているのが本書と言ってよいでしょう。

以上のようにざっとまとめることはできるのですが、各論についてはさらに他の分野と接続できる話が多い点と、ひとつのチャプタに話題が盛りだくさんなことが本書の「読解」を難しくしています。難易度が高いというのではなく、新設のテーマパークに入ったら遊びたいアトラクションがあってどこから行こうか迷ってしまう、的な難しさです。

なので「一年書けてゆっくり本を読んでいこう」プロジェクトが発足した次第です。

話の後半では「最近のノートツール」についても言及していますが、たぶん本書を読めばノートツールや情報整理ツールをどう自分で運用したらいいのかをかなりそもそも論から考え直すことができるかと思います。



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サマリー

第57回のポッドキャストでは、「人を賢くする道具」と「セカンドブレイン」という本の内容が話題になっています。本では、人間の認知とテクノロジーの関係について探求されており、第一章で体験的認知と内静的認知の違いに触れ、第二章では体験と内政的な推論の関係について説明され、第三章ではボトムアップ型とトップダウン型の認知の選択肢について議論されています。また、本の読み方や学習についても考察され、学習には蓄積型、調整型、再構造化型の3つのモードがあり、人間の学習には再構造化が欠かせないことが指摘されています。さらに、物理的な収納や情報の整理方法についても考えられ、情報のスタイルや見せ方を変えることの重要性が述べられています。Obsidianのようなツールが、情報の多様性を実現する可能性を持っているということが示唆されています。

人を賢くする道具とは
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。今回のお便りの紹介です。
デラメガネさんから本に書き込みをするようになったきっかけは、ブックカタリストのラシタさんによる
読書は半分アウトプットという言葉を聞いたからでしたが、どの回の言葉か忘れてしまいました。
文字起こしのおかげですべてはノートから始まるからだとわかりました。ありがとうございました。
文字起こしがないとまず見つけられないですよね。
そういう意味でいうと、前回軽く触れた文字起こしプロジェクトは割といい方向に流れているのではないか。
そうですね。これいろいろ深いものがあって、YouTubeとかでも検索するのが難しいけど、ブログだったら全部検索できるからいい。
テキストの強さがはっきり現れた現象ですね。
そうですね。そこら辺をうまいこと絡めつつ、それが見つけられる嬉しさみたいなのも上手に活用していただけると役に立つかもしれないですね。
俺たちもどこで何話したか忘れてたりするので、そういう時に使えると便利かもっていうところですね。
そうですね。こうやって回が増えていけばいくほどテキストで残しておく価値が高まってくる。
2,3回しか放送なかったら全部聞いたりするんですけど、57回ですから。
単純に57時間。
なのでテキストからサーチして見つけてくれるっていう。
もっといくと、GPTさんに聞いたらこの回ですよって教えてくれるのが一番いいんですけど、普通に検索できるだけでもだいぶ違いますね。
そうですね。これは今後もいろいろやっていこうと思うので、皆様のご協力などなど期待したいと思います。一緒に便利なやつを作れたらいいですね。
そうですね。
ということで、今回は第57回、倉下さんの番で、人を賢くする道具とセカンドブレインをテーマに語りたいと思います。
よろしくお願いします。前回はアフタートークか。今回取り上げる本は人を賢くする道具、ディエノーマンさんのちくま学芸文庫から出ている本で、文庫化されたのが2020年だったかな。
結構最近なんですけど、本自体は1993かな。原著の方は1993年発売なんで、少し前の本なんですけども、僕が去年読んだ本の中では一番ビビットな本やったんで、結構時間も経ちましたし、今回改めて取り上げてみようという試みです。
原著が93年、日本本が1996年って書いてまして、だからだいぶ経って。
20年以上前、単純に。
単純にそんだけ時間が経って文庫化されるということは、それ自身でバリューがある、読む価値があるという一つのパラメーターになるんですけど、確かに読む価値があって。
読み物としての面白さも十分旧題点なんですけど、僕が長年興味を持っている知的生産の技術というとちょっと狭く感じますけども、読み書き考えるという人間の知的能力をいかに発揮させるのかというテーマというかプロジェクトに深く関係するとともに、
最近僕自分で、自分が使う用の情報ツールを作ってるんですけど、そういうツールをどうデザインしていけばいいのか、どう組み立てていけばいいのかという観点でも非常に資産に富む本でしたね。
これはちなみに倉下さんに勧められて、記録によると9月12日に買っていて、現在多分3章ぐらいまで読んだのかな。
印象としてめっちゃ面白いんだけど、すげー難しくて整理するのが大変で、なかなか読み進められない。
まさにそうですね。一応そういう本なんですけども、初始情報だけ簡単にさらっておくと、
現代がTHINGS THAT MAKE USと簡単な単語でできてるんですけども、なかなか顔蓄の深いタイトルで、ことが僕たちを作る。
このことっていうのが難しいんですけども、ここで言うと人間が作ったものっていうことを多分指してると思うんですけど、人間が作ったものがさらに僕たち人間を作っていくという現象をタイトルにして、
9題がDefending Human Attributes in the Age of the Machineと、機械時代において人間という性質や属性っていうのを擁護していこうっていうタイトルで、
道具ってついてるんで、ノウハウ論かなとも思うんですけど、実際は結構人間論というか、人の性質っていう意味での人生とは何かっていうところを機械と対比することで明らかにしていくような本で、
これが1993年に書かれているというのはかなり先進的な見方が提供されていたんではないかなと思います。
シングスをことっていうふうに言われてたんですけど、どっちかっていうとイメージとしてはオブジェクト、ものなんじゃないかと思うんですけど。
ああ、えっとね、そうか。事物ということね。
ああ、それならOKです。
本編の中でアーティファクトっていう言葉が出てくるんだけど、作られたものというような印象でいいと思います。
著者のD.A. Normanという方は認知科学者、認知工学者で、誰のためのデザインという本でもかなり有名なんですけど、初期のAppleのHuman Interface Guidelineというのを作るのに関与された方らしく、
テクノロジーと人間の関係
つまり現在使われているUIとかUXとかっていう概念の、現代のパソコンのその概念をかなり派手な段階で固めた方で、
おそらくこの分野に関わっている人やったら知らない人はいない類の人だと思います。
多分、AppleのHuman Interface Guidelineという話を聞く限りで言うと、今のすべてにつながっているぐらいの、デジタルツールのすべてをこの人が基本づけた、形作ったみたいなイメージがありますね。
あると思います。どれぐらい重要な方で。つまりAppleってことはデジタル製品ということで、片側にデジタル製品をどうデザインするか。
もう片側にそれを使う人がそこにいるという、機械だけでもなく人間だけでもなく、人間の認知を踏まえた機械のデザインっていうフォークスを占めた方で、
多分今の僕たちのデザイン観でとったら当たり前の話なんですね。機械じゃなくて人間が使いやすいようにしようっていうのは多分デザインの現場でも当たり前に言われてますけど、
その当たり前を導けた人っていう印象がありますね。
知らんかったですね。AppleのHuman Interface Guidelineに関わっていたっていうのは知らなかったです。
僕もGoogleって初めて知ったんですけど。ともかくそれぐらいインパクトの大きい人で。読み物として、面白いので一回読み終えて取り上げようと思って、結構時間が経ってたんで、
この本を取り上げようと思って決めた後に、恒例の読書メモを作り始めたんですよ。
僕は大体、どんな本でもA4の紙1枚に、その本で重要なことをピックアップして、頭の中でこういうことを喋ろうという段取り付けして、本番に挑むんですけど、
一章ぐらいでA4に1枚が埋まってしまったんですね。
というと10枚ぐらいいる計算ですね、単純に。
で、2枚目になった段階で、これは無理やと。この本をちょっと包括的に語るのは、おそらくこの時間では無理だろうと思ったんで、
本一冊ではなく、僕が関心を抱いている、考えるための道具っていうテーマを持って、考えるための道具とこの本をクロスするところだけをチョイスしようと今回は決めました。
一回では終わらん系ってことですね、これもやろうと思ったら。
で、ゴリゴさんがシリーズものを始め張りましたけど、これはシリーズものでやるんじゃなくて、この本僕、多分1年通してゆっくり読んでいこうと思うんで、読書ノートを少しずつ取りながら読み進めていこうと思い直しております。
1回読書メモ作ったらもうそれでいいっていう気持ちでしたけど、取り出してから大いに方針が間違ってるという気がついたんで、1つのプロジェクトにすることにしました。
どうのように進めていくのかはまだ決めてないんですけど、画面見てる方はわかりますが、スクラップボックスに書き留めたメモを列挙していくか、
自分なりに読書メモを作ってPDFとかで共有するかはちょっと考えてないですけど、少しずつこの本を読み解いていくっていうプロジェクトを据えた上で、今回はとりあえず僕が読み解けたところだけを紹介するという試みにさせていただきます。
まさに大学の林校みたいな感じになってくる。
そうしないと、ちょっと語りきれない本で。ゴリラさんが言われたように、面白いことの話が書いてあるんですけど、体系だってはいない。記述が体系だっていなくて。
それはそうだったかもしれない。
連想的な話がどーっと広がっていった。あれ、元の話どこ行った?みたいなことが結構起こってるんで、腰を据えてまとめる必要がある本ですし、僕の関心テーマに深く関わってる本なんで、そのコストをかけるだけの価値があるかなと今感じてるとこですね。
大抵の本で、一冊、目次パッと見た後に中身パラパラと読み解きながら、さっき言った栄養の紙にまとめていけるんですけど、まとめていけるのはなぜかというと、二つあって、一つはそのことに詳しくないから、特に書くことが思いつかないから、簡単な記述にまとまるのと、
もう一個は、ある程度詳しいからチャンク化できる。あるキーワードを書いておけば、その周辺のキーワードを思い出すことが期待できるということがあって、短い記述でもまとめられるんですけど、ある程度知ってるけど、新しい知見がワッと出てくるんですね、この本って。
なので書き始めると、もうネットワークが広がりすぎてまとまりきれないという感じだったんで、一つずつの章が1から2章ずつぐらいをちょっとずつまとめていく方が、より理解が深まるかなということで、新しい。だから多分1年後ぐらいに、もう一回この本をちゃんと全体で取り上げられたらなと思ってます。
いいですね。2024年の第1回をそれにするっていう。
そういう目標でやっていけたらなというところで、一応今回はその全体をざっと軽く拾っていくのと、考えるための道具っていう観点で、よりちょっと広げてみるっていう2つのことをやってみようと思います。
章立てなんですけど、1から10章ありまして、全部読んでいくと長いので、概要を説明しながらいくと、第1章が人間重心のテクノロジーと、これが多分本章の一番強い問題意識なんですけど、ここでいうテクノロジーっていうのはコンピューター技術だけじゃなくて、人類が作り上げてきた技術、相対を意味するんですけど、
その技術っていうのが人間の知的能力を助けてくれもするし、愚かにもしてしまう。愚かにするのは問題だよねと著者は思っている。
著者が特に興味、認知工学者として興味があるのは、人間をエンハンスするテクノロジーの中でも、人間の知的な能力とか認知能力を改善してくれる、あるいは向上してくれるものを著者は興味を持っていて、それを一応アーティファクトと人工物と読んでいると。
アーティファクトという言葉はマジック・ザ・ギャザリングをしている人はすごいなじみの言葉なんですけど、アーティファクトのアートはアートの技術っていう意味のアートだと思うんですけど、人間が作ったもの、人工物と。その中でも認知のアーティファクトを著者が注目していると。
そういうアーティファクトが人類を助けてくれたのは確かなんですけど、昨今ちょっと問題が起きてると。この昨今ってもちろん1993年の昨今ですけど。ヒューマンエラーっていうのが問題視されるようになってきてると。
ここが一番現代でも問題視されてるんですけど、ヒューマンエラーがなぜ起こるのか。ヒューマンエラーって必ず起こるものとして想定性ってシステム解説で言われると思うんですけど。そもそもヒューマンエラーって何やねんっていうことに、著者は突っ込んでるわけですね。
人間の脳にとって非常にうまくできることと、そうでないことがあると。そうでないことをさせたら、それはうまくはいかないだろうと。そうではないことをなぜさせられてるかっていうと、機械を中心に人間の生活とかシステム運用が組み立てられているからだという話の流れで。これはもうまさにその通りですね。
例えば、僕、つい最近、久しぶりにマクドナルドに行ったんですよ、朝に。早朝なんで、7時とか6時半とかなんですけど、結構高齢者の方がスタッフやったんですね。人手不足なんか何かはしてませんけど。おじいちゃん。おじいちゃんと言っても問題ない。
なんかセットを注文したんですけど、レジでめっちゃボタンを探してるんですよ。僕が言ったメールのボタンをね。チーズ抜きってオーダーしたらまたこう探す。
システム慣れした人間がすると非常に何かまずいことが起きてるような気がしますけど、例えば厨房にそのオーダーを繰り返して伝えることやったら、瞬時に終わるわけですね。そのおじいちゃんでも。
体験的認知と内静的認知
うん。そのなんとかセットチーズネットでおしまいですよね。音声入力を受け付けてくれてそれが認識されてメニューが表示されるとかなってても多分そのおじいちゃんは上手く使えると思うんですけど、めちゃくちゃ種類の多いしかもすごく似通ったものの中からビジュアルがあるんかないかはこっちからは分からないけど、ボタンを探し出すっていう動作は人間向きではないんですよね。
そういう非人間的なシステムがワンサカーってその社会の中で人間が住んでてでヒューマンエラーを起こすって言われてるけど、それは何か違うんじゃないかっていう問題意識が多分本書とか著者の一番の肯定にある認識なんではないかと思います。
ちょうどやっぱこの時代ぐらいですよね。機械化が進み始めて機械を使うと俺たちは便利になる。主に管理側の都合っていうものが進み始め、あの言ったらあれなんですよね。声で言っても何も問題ないはずだけれども、
本部が売上データを確保して取りやすくするためにボタン化して売上をごまかさないために記録を残させるようにして、そんなものがなかった時代は逆に言えば不要だった。
間違いなく不要だったし、新たな能力を求められてるし、その能力は間違いなく人間のナチュラルな性質に基づいてはいない能力が求められてると。本にはないんですけど、要するにフォーディズムって言って、
T型フォードを作るときに、LINEを新しく設計した人間が動かずに物が動くことによって、超効率的に物を組み立てられるようになった。あるいはテイラー主義って言われてる、いろいろ人間の効率性とか生産性を数値で測っていこうと。
そして改善しようっていう姿勢?価値観?間違いなく資本主義に内在するとまでは言わないけど、と非常に相性が良い考え方なんですけど、そうした性質が基本的に人間の認知と合っていない。
その人間の認知をベースに組み立てるというよりは、さっき言われたように機械的あるいは測定しやすいように作られたシステムに人間が合わせなければならなくなっている状況を、著者は危惧してるし憂いてもいるというところが大書で確認されます。
マクドナルドとかイメージなんですけど、レジにボタンが20個ぐらい付いてて、1個1個にちっちゃい字で何とかセットって書いてあって、色分けはしてあるんだけど、その色分けの基準もよくわからない基準で色が分けてあって。
最近のMacはタブレットですね、ディスプレイ。だから何か押したらまたサブメニューが開いて、また押したらサブメニューが開いて、だから階層構造わかってないと全く使えないやつですね、きっと。
そうですね、そこがある程度予算かけてくれたらいいんだけど、そういうのが安いものを使われていると、間違えた時に戻るボタンを押すのに秒で待たされて。
そうやって待たされて怒るのもなんかもう既に僕らが読されてるわけですけど、なんかそのおじいちゃんが楽しそうにしようとしているようには見えなかったんですよね。
それはもう間違いなく靴だし、何ていうかもう漫画からドラマからあらゆるシーンで出てきそうなやつですよね、もう。
だから、若いうちは柔軟性があるからシステムに対応できますけど、そこを抜きにした時によくわからない苦労をさせられてるっていうのがそこではっきり示されたかなと。
僕はそう感じたんですね。
一応その第一章で最後のほうに、次の章につながる話が最後に出てくるんですけど、機械とは違う人間の認知っていうのが2種類あると。
1つが体験的認知。で、もう1個が内緒的認知と言うんで。
内緒。
内緒、内静的、内静的認知と言われてるもの。
著者が読んでるもので、大まかに言うと、ファスト&スローという本に出てくるシステム1とシステム2が対応する、あるいは結構な部分重なる違いですね、この2つの違いっていうのは。
システム1とシステム2っていうと非常にドライというか、その表現だけでは中身が見えてきませんけども、体験的と内静的っていうとちょっとわかりやすいですよね。
体験的っていうのは、まさにその状況に入っている状態。
例えば物語を楽しんでるとか、スポーツで、自分がスポーツして盛り上がっているとき、集中しているときっていうのが体験的認知。
その行為そのものについて、一歩引いた視点で考えるということをしているのが内静的認知。
一応自分の本、僕の本で言うと、思うと考えるというのを分けましたが、それもちょっと対応するのかなと思います。
どちらが優れているという話ではなくて、この2つがうまく働くことで人間の総合的な認知っていうのが動いていくのだけれども、
昨今体験的が強すぎるんではないかなという懸念が一応示されて、第2章に移ります。
第2章が世界を体験するということで、さっき言った体験的な認知の話、プラスアルファが掘り下げられるんですけども、ここもいろんな話が出てくるんですが。
哲学の話とか出てきましたよね、ここで。
ちょっしゃが2章の冒頭で、博物館の物足りなさっていうのを挙げてまして。
博物館に行ったら、いろんなエキサイティングな体験をさせてくれて、興味を持ってはもらえるんだけども、そこで終わってしまってると。
例えば、ある現象がすごいってなったときに、その現象を支えている科学的な原理ってなんだろうっていう詳しい説明まで入れてないと。
だから、博物館に行って楽しんのは楽しんだけど、出て行ったときに科学的な知識が増えているかっていうと、そうではないと。
逆に、ゲーム。ここではゲームセンターって言われて、さすがに1993年やなという感じがするんですが、ゲームクリエイターは実に見事な仕事をしていると。
例えば、最初、ゲームセンターに行くと、すべてのゲームは止まっているわけじゃなくて、必ず画面が動いているわけですね。デモ画面というのが。
それに興味を持ってゲームをプレイし始めると、よくできたゲームは最初チュートリアルみたいなのがありまして、それで操作を徐々に覚えていくと。
熟練したら難しいものがやっていくと。知らん間にすごいマスターになっていると。かなり時間軸を走るとそういう流れになっているんですね。
だから、体験しているだけじゃなくて、体験にプラスアルファはその人の技術の向上が段階的に設計されていると。
著者が言うには、博物館にはそのような知識を体験し組み立てていくデザインが欠けているし、そうあった方がいいのではないかという。
この世界における体験重視型の反面、落ち着いて考えるためのテクノロジーが欠けているのではないかと問題提起されると。
体験と内政的な推論
ここからがこの本の一番難しいところなんですけど。
僕らのいわゆる頭の良さ、知性って呼ばれているものは、先ほど言った校舎の方の内政的な知性で、内政的な推論には限界がないと著者は言うんですね。
論理の輪は5ステップしたら終わるということはない。論理の輪はいくらでも続けていける。
ただし、人間の脳の短期記憶では無理やから、さっき言った認知のテクノロジーを使う必要がある。
内政的な認知を支えるテクノロジーがあることで、僕たちは内政的な推論をうまく使うことができる。
それによって、例えば計画をしたりとか、内容の良し悪しを見極めることができる。
計画を立てたり、内容の良し悪しを見極めるって、情報が複数並んでないとできないんですよね。
Aだけが提示されるというのでは無理で、AとBとCとDが並んでないと比較検討はできない。
だから、この段階で体験と内政的推論というのが、方向が逆なんですね。
体験型というのは、AになっているときはもうAしかない。Aに没頭するという状況。
一つのことしかやっていない。
だから、サッカーの試合でプレーに集中しているときに、その日の仮例について検討する人はないわけですよね、おそらく。
ボトムアップ型とトップダウン型の選択肢
だから、2つを上手く働かせると言っても、2つを同時に上手く働かせることはできないわけですね。
片方を強く働かせたら、もう片方は確実に抑制されてしまう。
推論の面白いところなんですけど、体験というのは反応とも著者は言い換えてるんですけど、刺激に対して起こるものなんですよね。
例えば、僕の本で言ったと思うと考えるっていう言葉扱いを分けましたけど、あることについて思ってみようって思わないじゃないですか。
考えてみようとは思いますよね。思うっていうのは意思とは関係なく起こる反応的なものだよと。
逆に言うと、そうじゃない考える型の注意っていうのは、意図的に対象を選ぶことができる。
僕の前回で限りある時間の使い方という本で、トップダウン型認知とボトムアップ型認知っていう2分け方が出てきまして、
ちょうどこれが全くそれに相当するなと。
対象を選べることはトップダウンなんですね。反応するのはボトムアップなんですよね。
現状圧倒的に強いのはボトムアップ型。
今、欠落しているのはトップダウン型と。
なぜトップダウン型が優勢じゃないのか劣勢なのか、ボトムアップ型認知が強いのかというと、
これはコンテンツにはまらせるためですよね、要するに。
もっと言うと消費を促すためですよね。
ボトムアップ型は比較したりとか検討したりとか吟味するっていう頭が働くわけですよ。
そうすると、これは買わなくていいよっていう考えがむかびやすいのはこっちなんですね。
トップダウンの方。
トップダウンの方。
ボトムアップ型だと、歌欲しいっていう気持ちそのままに買うっていう構造が結びつくわけで。
だから資本主義って言うとちょっと言葉は強いですけど、
その中ではそのテクノロジーって多分ボトムアップ型認知が自然に強まっていく?
ものすげー簡単に言うと、売る側はたくさんのものを売りたいので、
よく考えさせて売ろうとするのではなくて、直感的に欲しいって思わせようとめちゃめちゃ工夫がされていて、
多くのものがよく考えてから買いましょうねっていう売り方をしておらず、
これ欲しい買おうって思わせるように、あらゆる仕組みがそうなってきている。
そうですね。そこの買い物レベルはまだいいんですけど、もう一個メタになると、
ボトムアップ型とトップダウン型のメディアをどちらを好みますかというのも、
トップダウンでないと選べないですね。
メディアって言うと、例えばどのアニメを見るとか。
あるやつはツイッターをよく見るとか、あるいは本を読むとか、何でもいいですけど。
だからさっきの話はツイッターの中での反応でしたけど、
ツイッターというメディアをどう使うのかっていうのも結局トップダウンなわけですね。
だから僕らがもしボトムアップしかなかったら、ボトムアップから抜け出せないんですね。
ボトムアップ的環境にいることそのものが非選択的な規定になって、
デファクトスタンダードになってしまって、僕らはトップダウンに抜け出ることができない。
だからトップダウンがあるだけで一つメタに立てますし選べますけど、
そこが一つもないとずっと同じ状態、しかも要するに資本主義的広告状態に留められてしまうと。
だから1993年よりもはるかに、2023年の方がはるかにこの著者が指摘している問題は、
より深刻さを増しているなと。
なんかこの時代はまだちょっとパソコンがうまく使えへんぐらいの話でしたけど、
たぶんライフスタイルそのものにこの問題は影響。
まあそりゃそうですね、スマートフォンって日常的にずっと触ってますからね。
昔はパソコン使う時間だけの話でしたけど、
これは今現在では人生をどう生きるかという問題に深く関わっている、
この2つのモードをどちらを選ぶかっていうところが結構早めの段階で指摘されてたと。
社会の仕組みとしてもあらゆるものがトップダウンではなくボトムアップで作られるというか、
そういう体験をするものばかりになっているし、
例えばスマートフォンという道具がそういうトップダウン的な使い方ではなく、
ボトムアップ的な使い方を誘発する道具になっている気がしますね。
特にスマートフォン、特にiPhoneはそうですけど、
アプリというものの外に出られないじゃないですか。
あれはかなり主体性を奪われている体験やなと最近は思いますね。
もともとはあれですよね。1個のことしかやらないからシンプルでいいだったはずですよね。
確かに。でも結局どんなアプリがあるのかというものも、
もうすでにある選択の幅の中でしか決められていませんし、
しかも僕の体験で言うと、大抵Twitterとかで見つけたアプリを使うという感じで、
もはやトップダウンで何かを探して比較してということがかなり少なくなっているし、
そういうことしにくいですよね。iPhoneだと。
例えばMacだとアプリのページを何ページか開いておいて、
どれがいいか選ぶってやりやすいですけど、iPhoneだと致命的にやりにくいんで、
学習の3つのモード
だからもう示された情報を受け入れるか受け入れないかぐらいの選択肢しかない。
だから小さい画面って結構危ないというか良くない気がしますね。
このトップダウンを働かせているという意味では、
わりかし選択肢を狭めていくツールなんじゃないかなという気がします。
画面が小さいということ自体が熱中させるものなので、
ボトムアップ型的なものを作用させようとする。
だからピッタリなんですね。広告とiPhoneって恐ろしく相性がいいんでしょうね、きっと。
検索と広告がおそらく2010年代に検索と広告がすごく相性が良かったけれども、
実はさらに言うと小さい画面がすごく相性が良いものなのかもしれない。
ますますその中に閉じ込めていく。
iPhoneのスマートフォンを問題視する声っていうのは色々上がってますけど、
それはある種ラッダイト的なものもあるでしょうけど、
認知的にも支援、支持される話であるとも思いますね、きっと。
そうですよね。物理的にこの小さい画面だけを集中して見続けているのと、
40インチクラスのテレビとか画面を見ているのと、
物理的に見ている範囲が全然違いますもんね。
ということはおそらく脳の働きもそこで変わっていくだろうというような話が、
この本の中からでも推測されるんですが、
一応話を先に進めると、さっき言ったように人間の脳にはモードがあると。
一応二項対立で2つに分類されてますけど、
著者はそこまで単純な話ではないけど、この本では一応分かりやすいように2つに分類していると。
求められる心のモードが内製的なものにもかかわらず、
ツールが体験的なものを演発するのであれば、
良くないことが起こるだろうし、その逆もあると。
だから、モードとツールのあり方を合致させるデザインが良いんだろうという話が半分で、
後半半分が別の話なんですけど、
モードが2種類あるように人間の学習にも種類があって、
それを大きく、3パターンあると。
1個は蓄積。英語で何て書いてるのかわからないですけど、
単純に増やすことで。
例えば英単語を1000個知ってますと、新しい1000個目を覚えますというのが蓄積型の学習。
付け足していく感じ、ひたすら。
初期の頃はこの作業も難しいんですけど、1回確立されると後は非常に簡単になっていくと。
プログラミングで言うと、アペンドっていうのを使うと配列に要素を付け足せるんですけど、
存在しない配列にはアペンドできないので、最初に配列を宣言する必要があると。
その宣言に結構人間は苦労するけど、1回それができたら後は同じようにアペンドしていくだけで。
つまり同じ心の処理方式で物事を増やしていく。
英単語を覚えるっていうことを1回確立したら、あと英単語を増やしていくのは事務作業とは言いませんけども、
ある様式を同じように使い回すことができる。
そういう形で増えていくのが蓄積型。
再構造化の重要性
調整っていうのが、ある種その自分ができることをもう1回やると。
やった時にちょっと前より上手くなるとか、ちょっと今の状況にできた形に少し合わせるっていうのが調整。
この調整をしてないと人のスキルはだんだん時間とともに劣っていくという話。
ここまでの2つは著者が言うに、さっき言った体験的なもの。
だから考えることはほぼしなくていい。
おそらく愚直に。
意識下で行われそうなイメージですかね。
愚直に繰り返すことで、体が勝手に覚えていくようなイメージかな、簡単に言うと。
最後に残された3つ目、再構造化が体験じゃなくて耐性的なものであると。
この耐性モードはシステムにと一緒で非常に骨の折れる作業だと。
だから人を教育するためにはこの構造化をいかに補助するかが大切だと、
著者は書いてるんですけど、再構造化って何かってあんまり説明してないんですよ。
言いたいことは多分わかるんですけど、このリストラクチャリングかな、英語にすると。
具体的にどのようなものを指していいのかは、結構アバウトに通り過ぎられてるんで、
ここはちょっと読者がちゃんと考えなければならないと思うんですけども。
例えば、今僕がやってることはこれ再構造化と思うんですよ。
本の内容を読んで、その本の内容をゴリゴさんに説明するために、
一つのリニアな構造に変換してるわけですよね、今これ。
上手くできてるかどうかは別として。
文章で書いてあったものを一回分解して、アウトライン的に並べ替えたり、
強弱をつけたりして、必要なところだけを話すようにする。
これはかなり日的なエネルギーを使ってやってるわけですけど、
これはおそらくこういうことが、著者が言う再構造化だと。
正解かどうかわからないですけど、思います。
だからこの3段階目の学習が、
著者が言う理解を1段階深めるためには、ここが避けては通れないんだということを述べてて、
テクノロジーはこれを支援できたらよろしかろうという話がされます。
ちゃんとGPTに要約してって投げるっていう。
投げてもらって、読んだだけでも結局ダメなので。
だからそれは結局、学習の手前、2段階目で止まっている感じかな、きっとね。
あれは結局自分で要約してなんぼっていうところで、
チャットGPTを使ってる人も結局いろんな論文を要約してもらった上で、
結局自分でスクリプトを書くために使ってはるんで、
そこの最終的なプロセスがあるから意味があるんだって。
要約したものを読んで、うんうんわかったでは多分学習にはなってないんでしょうね。
ちょうどあれですよね、そういう意味でチャットGPTでは学習ができないということを、
わかりやすく示せるのが最高増加という話なんじゃないかなって思って。
だから、勉強論の話でここはちゃんと掘り下げて考えたいところではあります。
だからあれですよね、書いてあることをリニアに書いてあるままに理解する、
理解ではないのか。飲み込むだけでは最高増加はできない。
ということだと思います。
本の読み方について
その話の引き継ぎで3章が、表現の持つパワーという話で、
これも前半中半後半で話が違うんですけど、
最初にソクラテスが書き文字を嫌ったという話が出てきまして。
これは超有名な話なんですけど。
なぜソクラテスがそれを嫌ったかというと、
彼が大好きな問答ができないからだと。
質問して答えを受けて、質問を返して答えを受けてっていうやり取りができないから、
人が考える力を失うんではないかというような記憶をされていて。
例えばですけど、昔の本って、昔っていうのは古代技者じゃないですけど、
たぶん中世ぐらいまで戻ると、本を読むのって目読じゃなかったんですよね。
一人で読む目読じゃなくて、前に本読んでくれる人がいて、
それを前に座った人たちがフンフンと聞いているというタイプの読書で、
どう見ても体験型なんですね。体験型の認知。
一方で、どれぐらいの人がそれをやっているかわからないんですけど、
僕らが今、目読するときに、一行読むと。
それってどうかなとか、これって本当なのかなって思うことはあるじゃないですか。
この思っている段階で、体験型から一歩、内製型にモードがずれてるんですよね。
昔の人たちは、一行一行、古代技者よりもっとこっちで、中世ヨーロッパの人たちですけど、
文献を洗う人たちっていうのは、その一文一文を読み解いていたわけですね。
この文はどういう意味かっていうのを、その著者の過去の話とか、
時点を引き下がって、この語彙はどう使われていたかっていうことを丹念に読み解いていたと。
これは、確かに著者から答えが返ってくる問答ではないものの、
一文一文に対して、自分に対して疑問をぶつけている。
セルフ問答が行われていると。
これは別に、ソクラテスが心配したようなことは、むしろ起こってなくて、
逆のことがちゃんと起きているんではないかと。
十分に内省がされている。
ここをちゃんとできたら全然いいし、そういう方向に行こうぜという話なんですけど。
逆に言うと、小説は体験型って非常によくわかるじゃないですか。
それは間違いなく体験型読書なんですけど。
ノンファンポンでも一緒なんですよね。
ノンファンポンでも、頭から最後まで読んで、
この方法すごいで終わってたら、それは結局体験型読書なんですよ。
書かれている情報が知識であろうが、ノウハウであろうが、
つまりストーリーじゃなかろうが、結局それは体験型読書。
情報を受動的に受け取って、何かしらの反応とか感想を返す以上で終わっているのは体験型なんですね。
本をより深く理解しようと思った頃に何回もこのポッドキャストで言ってますけど、
やっぱり自分の言葉で語り直す、まとめ直すっていうことを、
あるいは書かれたことについて自分で別の視点から調べるといったことをしないと、
認知のモードが切り替わらずということは理解できない。
理解できた気分を味わっているだけで理解できていない。
もうこれは言っちゃっていいんじゃないかなと、この本を読んでて思いました。
この本を、この本をじゃないですね。
本を読むのであれば、読み終えただけでは読み終えたと言えない。
読み終えたとは言えるけど、
読み終えたではいいのか、理解できた、本が身になったとは言えない。
本が身になったというメタファーを使っていいんであれば、本人が身になったとはとても言えない。
で、昨今のビジネス書って、図解でホニャララとか、わかりやすくホニャララって言って、
それは本当にすごく知識を得るために良さそうに覚えるんですけど、
それって体験型読書で終わらせましょうっていう話なんですよね。
内省をさせようとしないように本もそうなってきている。
だから骨が折れると著者が言ってましたから、まさにその通りで。
ある種の知識が書いてある本を、俺が俺を読んだぞっていう体験的な、
ある種のエンターテイメントを崩さない。
絶対にはいいですけど、崩さないように書かれている。
でもそれは例えば小説を読んだ程度と同じぐらいしか知識っていうのは増えてない。
だからそういうエンターテイメントとして読むなら問題ないんですけども、
もし書かれてあることを身につけて実践して、あるいは自分の知的精神に活かしたいと思うのであれば、
読みっぱではダメで、一回自分の中から外に出すアウトプットをしないと脳がそのように働いていない。
だから理解しようがない。
その人の頭がいいとか悪いとかじゃなくて、脳のモードが体験になってたら体験で終わってしまう。
心持ちとかの問題ですらなくて、そのモードの問題なんで。
だから初めて自分の中からそれについて語ろうとした時に、初めて理解っていうボンが開く。
それまではずっと閉じてるってことですね。
3種類の学習の話でいうと、読んだ段階で蓄積はできているみたいなイメージなんですかね。
おそらく知識は特に知っていることやったら、つまり配列が宣言されていることやったら多分簡単な蓄積ができるでしょうね。
ああ、そっか。適切な配列が作られていない、構造化がされていなければ蓄積すら難しい。
すら難しいと思う、きっと。
で、ある程度自分が知っていれば割と蓄積はしやすくって、読み終えた後、もう一度再構造化することで次なる蓄積へもつながるようになる。
だから、その再構築化というプロセスを一回挟めば、本を読めば読むほど本が読みやすくなっていくと思います。
飛躍的にできるようになるってことですよね。
その理解の差、この体験だけに済ませないっていうところの観点は、ここまで僕らが勉強系で話してきたところも重なりますし、脳のメカニズムの話も重なりますし、
ここは避けて通れない話題ですね。
僕、別にやってるポッドキャストで打ち合わせキャストっていうのがあるんですけど、
読者さんの感想で、聞いてるうちに自分が考えたいことが思い浮かんで、なかなか先に進められない。
ついつい一時停止してしまうっていうような感想を見かけて、それは僕は非常に嬉しいかなって思ったんですけど。
聞いてる人に体験から抜け出て、相手の内省を促しているコンテンツになっているんだろうし、
できればこのポッドキャストもそのようになってほしいなと。
だから、面白い本日で語られたのを聞く体験から、
再構造化の重要性
その語られたことって何だろうっていうことを、もう一段自分の言葉であるいは自分の文脈に落とし直して表現してもらえたら、
こうやって本を紹介している価値があるなという感じです。
聞いてもらってからその本を読んでもらうというのは、用語でいう再構造化にめっちゃ役に立ちそうな気がしますよね。
あるいは、脳が下準備ができている。また変数はできていないけど、こういう変数を作ればいいかもしれないぐらいの準備ができている気がしますね。
同じ内容だとしても、何て言うんだろう。和舎が2人いるので、際が見つけやすいということは立体的にしやすい。構造的に作りやすい。構造を作りやすいというのか。
だから、こうやって僕らが喋っている段階で、僕はもう話を終えるたびに1回内省モードに変えているもんね。
これ一人喋りだとずっと自分の体験型で留まっているところを、自分が言ったことを相手のリアクションを得ながら、
ん?っていう感じに考え直しているから、こういうスイッチが起こるのも2人の特徴かな。
再構造化がしやすい。語ったことについてもう一度再構造化ができる。
多分、再構造化されたものも再構造化の対象で、どんどんその構造が大きくなっていくことを人は多分知識を得るということだと呼ぶんだろうと思いますけども。
そうですね。そして面白いのがあれですね。さっきの知識を、違う、再構造化が進んでいると蓄積が楽になる。
これは体験からでも言えると思うけど、あるジャンルのことがわかっていると、その本すごく読みやすくなるのは、おそらくそういうことだと思うんだけど。
間違いなくそうで、その比喩というか、この表現ですごくハマるなと思って。よくできた表現ですね、やっぱ。
システムとかって言い方をよくしてて、さすがにコンピューターと人間の認知を両方通じている人だからこそのメタフォーかなっていう。
片方で人間は機械的ではないとか言いながら、人間の認知をシステムって呼んでて、そこは混ざらないんやとちょっと思ったんやけど、違うもんや。
著者の中では多分違うもんなんでしょうけど。
システムっていう単語があれなんじゃないですか。俺たちが勝手に。
機械的に感じてる?
日本語だとそうなってしまう?どうなんだろう、実際は。
生態系もシステムやからね、エコシステムっていうから、多分アルファベットで見たらもっと有機的なものも含まれるんでしょうね、きっと。
組織、体制、方式みたいな言い方をしているからな、方式、仕組み。コンピューターを使った処理機構という意図もあるけれども、そうじゃないニュアンスもやっぱ日本語でもそうなのかな。
コンピューターを見過ぎているからそう思ってしまう。
確かにね。日常会話であんまり見かけないからシステム、日本語でカタカナやと。
機械システムしか聞かなくて、それ以外の時って系って言葉使うよね、世界系とかの系っていう感じで使うことが多いから。
機械を彷彿させるものがちょっと気になったんですが、それが第3章の前半の話で、後半が人間の認知に合わせた問題の出し方で
人間の発揮される知能は変わってくるぞという話で、これTKSさんが私たちはどう学んでいるのだろうかっていう本で紹介されたのと全く同じなんですけども。
その辺は有名な話、現代で有名な話なんで、サクッと飛ばしまして。
第4章のアーティファクトを人間に適合させるというのもサクッと飛ばしまして、時間がないので。
第5章、人間の心っていうところで、人間の心がどんな性質を持っているのかと。
ちょっと面白かったのが、ロジック、ロジカルなものって人工物なんですよ、アーティファクトだと指摘されてて、まっさにその通りやなと思ったんですよね。
僕らが言う物語、ナラティブっていうのは多分人工物じゃなくて、ナラティブっていうその在り方、物語の中身は人工物ですけど、物語という形式というか、
物語というものは人間生来というか生物的な、おそらく脳のメカニズムに由来するものであると。
論理が人工物やから、ある人にとったらそれはむちゃくちゃ受け入れづらいんですね。なんせ人工物ですから。
論理的な意見か、物事。
だからある種訓練をしないと身につかないものにはなっていると。
その代わり、一度身につけると非常に使いやすい。なぜならば作られたものやからなんですね。
道具やから、その用途に最適な形になっているし、無駄なものは一切ないと。
論理は道具か。確かにそれはすごいな。
だから、著者が認知のアーティファクトという言い方をしたときに、物的なものと情報的なものを2つを分類して、物的なものというのがペンとかですね、ノートとか。
認知的なものという情報的なものというのが、足し算とかもそうですし、ロジック、ロジカル、三段論法とかもそうですし、推論とかもそうでしょうけど。
そのようなものも相互して認知のアーティファクトといって、一番分かりやすい、見やすいというか、僕らが分かりやすいのが論理というものと。
論理は道具やから、使いこなせれば、習熟して使いこなせればすごい使えるけど、そうじゃない人は訓練がしないと使えない。
情報の整理方法
だから、日本語とかを覚えるのにも幼少期の時間を使うのと同じで、論理もはい、論理です。使いましょうというわけにはいかないと。
一定の訓練がいると。これは結構面白い指摘でした。
足し算なんてそうですよね。
うん、そう。
超論理で道具で訓練しないとできるようにならない。
しかも、その足し算ってある種の抽象モデルなんですよね。
つまり、リンゴ1個とバナナ1個足して何になりますって、これロジックじゃないと答えられないんですね。
1足す1というわけにはいかない。
言語学系の話とかだとよくありますよね。分けるという概念がなくてだとか、足し算とか3より大きい数字という概念を理解しないとか、数字すらも論理か。
3個までは人間の認知、多分マジカルナンバー以下の数なんで認知はできるでしょうけど、それ以外の数字を扱えるようになる、いわゆる僕らが小学校の頃叩き込まれるありとあらゆることが人工的な認知のアーティファクトというわけですね。
もう当たり前に使えるから認識しないですけど、そういうものが僕らの日常生活にはいっぱいあるということですね。
そしてそれは人間が正徳的に得ているものではないことがまず前提じゃないといけない。それは結構気づいていなかったというか、その程度のことはできるわけじゃないんだな。
簡単にはできない。でも学びやすいように覚えやすいように道具やから作られている。
だから例えば新しく作られた言葉も発音しにくい長い言葉は多分生き残れないじゃないですか。その言語淘汰において。
テフテフって言葉は消えましたよね。
その論理も難しいけども、人間が理解して使いやすい部分だけがちゃんと残ってるはずなので、覚えるのは苦労するけど絶対覚えられないというわけではない。調整された道具のはずっていうのは著者も言ってますね。
そうですね。言語もそうなんですもんね。そもそものところで。
その人間の心は基本的に意味解釈物語を好むので、機械はさっき言ったように、論理が一番わかりやすいけど、その中心に必要のないものは全部切り捨てるわけですね。
リンゴ1個とバナナ1個足して何になりますは1たす1イコールっていう抽象化された記号に置き換えられると。だからこそ汎用性があるわけですけど、人間の心はその1たす1はっていうのに意味を見出せない。当然記号ですから。
なので、この心の方に記号を合わせようとすると、エラーが起きるということを再確認している。これ1章で掲げられたのが、さらに展開されているという内容が6章で、ようやく7章に。今回取り上げた。
やっと本番が来た。
もうだいぶ後半なんですけど、7章が僕の興味の範囲で一番面白かったんですけど、物にはそれが収まるべき場所があるっていう商題なんですけど。これ、ウートン特許机という、すごい昔に作られた発明品のキャッチコピーだったらしいんですよ。
で、7章やからたぶんゴリゴさんまだここ読んでないと思うんですけど。 読んでない。
えーとね、仏壇とかで開き戸ってあるじゃないですか。バーって開くの。閉じて。昔の化粧箱とかも、始め閉じてるけど開いたら左右に横に広がって、そこに収納があるみたいな、そういう机。机って収納机。
観音開きをしたら。
始め閉じてて何もないんだけど、観音開きをしたらその内側に引き出しがいっぱいついてる。
タンスみたいなのもそんなイメージのやつありますね。
で、そのウートン特許の机っていうのはその引き出しが全部全部全部開いたら100個ある。引き出しが100個ついてる引き出しらしく。で、この物にはそれが収まるべき場所があるっていうのはつまり、その資料とかメールとかカードをそのグループごとに1個1個場所を割り当てたら必ず収納できますよという力技収納なんですよ。
タッチコピーとしてそのたくさんあることがいかに素晴らしいかを言いたいやつですよね。これは。
普段よく使う2、3個覚えててもごくたまにしか使わないようなものが100個のうちのどこに置かれていたかを覚える能力を人間に求めること自体が間違ってるわけですね。
それは遥か昔にそういうのがあって、それをもうちょっと時代が下がると縦型ファイルキャビネットというのが生まれたと。これも現代で知ってる人があんまりいないと思うんですけど。
ちょっと深めの引き出し開けたらファイルが縦に立ったまま並んでいると。そのファイル1個1個には何か情報とか資料とか集まっていて、アルファベット順か時系列順に並んでいると。
なので探したいものがあったらアルファベット順か時系列順を頼りにして情報を探せということで。これは現代ではごく普通なんですけど、さらに言うとそのファイルキャビネットはフォルダを使うことによってファイルをさらに区分できると。
今すげー当たり前のことを力指してますけど。なので階層構造が作れるわけですね。それを使うことによって。さっきのウートンドッキューの机って階層がないんですよ。全部100個がフラットに並んでるだけ。だから情報階層ができないから、農家学で言うとチャンクが作れないと。だから1個1個を全部覚えながらやらないといけないんですね。
その代わり、このファイルキャビネットの場合は、あるグループ、書類という集まりのグループをさらにグループ化できると。こうすると脳はだいぶ覚えるものが減るからグッと使いやすい。これが最高の解決ではないけど、少なくともウートンドッキューの机よりは情報を構造化する役に立つ収納だったと。
ある著者に当てられたビジネス研究者の手紙の中で、その人がどうやって情報整理してるかを教えてくれるっていうところがあって。まず机がL字に2つ並んでると。1個の机の前には予定表が、もう1個の机の前にはタスクリストがあると。
さっき言った縦型ファイルキャビネットもあり、パイルキャビネットっていうのもあると。パイルキャビネットって多分見たことはないかもしれませんけど、3×4とか5×4の区切りがある8個。
引き出しがいっぱいあるやつみたいなイメージですよね。引き出さないのか、穴があるっていうのか。
すごい細かく区切られた3段ボックスをイメージしてください。
カラーボックスの狭いやつ。
それが3×4ぐらいでその穴が開いてて、書類をパッと横に入れられるだけの空間があるのがパイルキャビネットで。その人、縦型ファイルキャビネットもあるけど、そのパイルキャビネットも使ってるし、ホワイトボードもあるし、本棚もあるしっていうふうにいろいろ分けてて、その情報の用途とか役割に合わせて置く場所を変えてると。
縦型ファイルキャビネットは、普段は参照してないけど置いとかなあかんものが並んでる。パイルキャビネットは机の近くにあって、今動いているアクティブなものを置いておく場所と。
このように分けることで、脳は少なくとも全部のことを覚えてる必要はなくて、あの情報についてはこの棚にあるし、しかもそれがアクティブなものやったら、おそらくそのパイルキャビネットの3×4ぐらいの構造やったらどこの辺にあるかわかるじゃないですか。
だからそれを引き出して使うし、普段参照してないけどたまにあるものはパイルキャビネットの時系列とかアルファベットで探すっていうふうに整理の軸を用途に合わせて複数持つことによって、手紙を送れた人は非常に最適化した働き方ができているという話で。
これが僕が一番面白いなと思ったんですけど、パソコンがこっちとは逆方向に向かってるなという気がするんですよ。
おだしょー 俺まさに今の話を聞いてて、1990年から現代へ向かってのファイル整理の仕方がこういうふうに変わってきているなっていう。なんかもうそれを30年前に予言していたのかっていうような印象だったんですけど。
一応、序章はこの話の後に、特に情報っていうのは物質がないわけですから、よりどこに直すのかが重要な問題になってきて。
情報の目的別分類
マガキンズ金物店っていう30万種の商品を扱っているお店があるとして、たぶんネジとか金物を扱っているお店だと思うんですけど、30万種あるとして、ゴリゴさんがその店を設計するとしたら、どんなふうに商品を並べるかっていう。並べます?
おだしょー デジタルを使わないと無理。
たとえば、物をたくさん並べるっていうので、辞書っていうのはアルファベット順に並んでると。しかし、金物店でアルファベット順に並んでても見つけられるわけがないですよね。そこでは目的別によって、しかもそれが階層別に区別されてると。
この辺の売り場にはたぶん打つもの、打たれるもの、喰いきとかがあって、その隣には多分占めるものみたいなのがあってっていうふうに用途別に分けられて、しかもそれぞれの売り場でその用途について詳しい人がいると。
だから自分がやりたいことをはっきりしてて、その売り場に行けば目的物はまず見つかるだろうというものになっていると。で、この著者は別にこのやり方を真似しなさいって話じゃなくて、この目的別っていうことの重要性を説いてるんですね、ここで。どう使うのかに合わせてデザインしなさいと。
で、アルファベット順っていうのはもうアナログの国訓の策なんですね、要するに。整列させるための。ゴリスさんが言われたように、まさにデジタルであれば名前でも検索できるし、デジタル情報に用途っていうタグがあれば、その用途に合わせて検索もできると。
だから、この段階でデジタルで検索できるようにせよと、申してるわけですね。これはもうさすがに先見の目があるなと思ってて。最後にナビゲーションのメタファーっていうのがあって、そういうものを探すときって、ナビゲーションという言葉がよく使われらしいんですね。
確かにナビゲーションって言われるかなと。で、ナビゲーションが難しいっていうことをナビゲーションの問題と言うらしいんですけど、著者が言うにはそのナビゲーションの問題という言い方自体が問題認識を誤らせてると。なぜならナビゲーションっていうのは目的地を見つけて、そこに向かっての道順を探していく行為ですよね、基本的には。
でも、僕らの脳はそんなふうにはなってないだろうと言うんですね。で、例えばコレゴさんに、頭の中に今自分の携帯電話の番号を思い浮かべてくださいって言ったら、パッて思い浮かびますよね。
階層じゃないなぁ。
欲しているものの言葉を記述するだけで見つかる。で、著者はその記述によるナビゲーションこそが、特にデジタル的なものの解になるっていうことを1993年に書いてまして。
現代はそれが当たり前とは言いませんけど、よりナチュラル。スポットライトもそれに近いですね。Macのスポットライトもそれに近いですけど、記述によってそれを見つける。
多分、GPTもそれの流れに汲むかなと思うんですけど、人間が思ったことを言う、じゃあ答えがそのまま返ってくるっていうのが多分最高の形で、ようやく現代がここにたどり着きつつあるのかなと。
だから、彼の人間理解とコンピューターの関係をどうデザインするのかっていう知見というか予感っていうのは、ものの見事にその方向に沿って進んできたなという感じですね。
固定的な情報表現
すべてがこれですよね。デジタルがたどってきたところで言うと、検索エンジンがYahooというディレクトリ型のものから検索言語を記述すればいいGoogle的なものに切り替わり。
多分、それではまだストレートにいけないから、おそらく次に来るであろうことが書いたらそのまま答えを教えてくれる。そのチャットGPTみたいなものになろうとしている。
目的別になっていることと、効率的で知的なエージェントが先ほど言った売り場の専門者がいることが、たぶん情報を見つける役割になるだろうと。
情報の専門的なエージェントがいるっていうのはどういうことかというと、これこれこういうことをしたいんですけどって言ったときに、これとこれが必要ですねとか、逆にこういう用途をしようと思っていて、これを探してるんですけどって言ったら、それじゃなくてこっちのほうがいいですねって言ってくれる人のことだと思うんですけど。
そこまでデジタルが進めば、たぶん僕らと情報の関係はもう一段階変わってくるでしょうね。きっと。
まさにそこに行く、まだそこには行けない。
行けないけど、今のところこれを探しています、はいどうぞの段階で。知的なエージェント感はまだないですけど。
でも、こっちが言ったことを解釈した上で、その用途に合わせて文脈を理解して情報を返すまでいけば、初めてちゃんとしたコンピューター、人間とコンピューターを人間の認知に合わせた形で接続するインターフェースが出来上がるっていう言い方ができると思うんですけど、ようやくその段階に入ってきたかなと。
結局、最初笑い話気味に言いましたけど、ぽちぽちボタンを押してるおじいちゃんのレジの店員って、ある種の疑虚化された僕らみたいなもんで、同じことなんですよね、結局。
結構頑張らされてる、コンピューターに合わせるように。そこからようやく解放されつつあるし、この問題はこれからどう勝ち取りされるのかっていう意味でも、この本は非常に示唆に富むのと、
並行して、僕が面白いと思った2つの机とかキャビネットがいくつもあるっていう観点。
例えば、僕は一時期、エヴァーノート強やったわけですけど、エヴァーノートに何でも入れようと。
さっき挙げたような情報を全部エヴァーノートに入れてようとしたんですけど。
うどんと机だったわけですね。
結局、確かに検索したら見つかると。タグでも絞り込めると。
保存する、見つけるまでは、おそらくあの時代一番完璧な解放を提示してくれてたツールだと思うんですけど、
全部見た目が一緒なんですよね。どんな情報も企画化されている。
それは人間の認知っていうと、表現によって頭の働き方が変わるのだとしたら、
見え方が全部同じイコール、つまり均一の表現は脳の働き方も均一になってしまう。
つまり、あんまり適切ではないのではないかということを最近思いつつあるんですよ。
保存したものを一箇所から見つけられるっていうことをするために、一元管理するっていうのは間違いなく最高の解放なんですけど、
見え方って違ったほうがいいんじゃないかなと。
例えば、アウトライナーはアウトライン操作するのが得意やけど、あれで文章を書くのはちょっとなっていう人が結構な数いるんですよね。
それは間違いなく頭にバレットがついてるからなんですよね。
バレットの有無だけで文章が書きづらくなるとしたら、
ノートの見え方が一緒であるないし違うってあるっていうのはもっと大きな影響を与えそうな気がしません?
機械の都合に合わせて情報が入ってるんですよね。やっぱりそれで言うと。
だから、全く同じツールとか場所に保存はしてるけど、
それがリストであればリストっぽく成形されて表示される。
ノートだったらノートっぽく成形されて表示されるっていう、
ユーザーの認知に合わせた形で表現を変えてくれる。
今は僕らはそれができないから、アプリケーションを分けることでそれを成立させてますけども、
カレンダーだったらGoogleカレンダーを使うとか、
ノートだったらホニャラララを使うとか、リストだったらリマインダーを使うとかってやってますけども、
それは便宜上そうなってるだけであって、
エバーノート的な思想でありながら情報を引き出して使う段階に、
アプリ的に見え方が違うツールがあってもいい?
いや、あってほしい。
あってほしいと感じてますし、
僕が最近使ってるツールもその思想に沿った形でデザインを進めてますね。
なんとなくその役割を果たすのはOS的なものなんじゃないかみたいな印象を受けるんですけどね。
今の話だと。
ある人はOSになるでしょうね。それができたとしたら。
現代のOSはやっとウートン特許の机を終わり、
縦型ファイルキャビネットを終わり、
このパイルキャビネットとホワイトボードと何かを混ぜるっていうのが
だいぶ組み込まれてくるようになったなっていう印象があって。
確かに。ファイルキャビネットはいいんやけど、パイルキャビネットが案外難しい。
大雑把に言うとMacOSで言うならば、最近の項目とかはパイルキャビネットに近い。
スポットライトが何って言ったらいいんだろうな、これは。
難しいな、そのメタファーで言うと。
デジタルならではだから既存のメタファーにはないよね、要するに。
それはそれでいいんやけど、だからパイルキャビネットは今のところ
デスクトップにファイルを置くが多分一番近い。
そうですね、そんなイメージはあるかも。
ただあれファイル単位でしか置けないじゃないですか。あれはちょっと物足りない。
ファイルとそのファイルに対するメモとかも一緒に横に並べておけるぐらいでないと。
情報の多様性と未来展望
あるいは何かをクリックしたらフォルダーの中に入っているファイルが
全部一気に開くとかそういうの。VSコードではできるけど。
そういう風になったらより情報を扱いやすくなりそうな気はしますね。
だから僕今までいかにしてデジタルで縦型キャビネットを実現するかっていうのを考えてきた反面
ファイルキャビネットって言ったら固定するわけじゃないですか。
これあんまりデジタル的じゃないよなと思って避けてたんですよね。
でもやっぱり人間の認知においてある固定された場所に常に置かれているものっていうものの認知の安定感って多分半端ないよなと思うんですよ。
継続的に仕事ある毎日その対象についてプロジェクトを進めていくような場合は
むしろファイルキャビネット的な固定的な場所に置いておけた方がおそらくいいだろうと。
だから情報っていうのを均一的に扱うという視点じゃなくて
用途とか自分の使いたい感じに合わせて情報のスタイルとか見せ方とかを変えていくのが良いんだろうなというのを本性を読んで結構自分で肯定できたところがありますね。
なんかね、めっちゃ後出し感は強いんですけど
結構ね、Obsidianはそういう感じのことができやすいツールなのではないかなっていう気がして。
最近キャンバス機能が追加されたじゃないですか。
あれが僕がイメージするとファイルキャビネット的?固定じゃないですか。平面に固定されて。
それが使い方によって第二の軸になるかなというのはちょっと見てて思いましたね。
そうですね。キャビネットを使うだとか固定、よく使うものでいうファイルキャビネットとかってニュアンスで言うとデイリーノートのテンプレートのような気がするし。
テンプレートは近いね。
ホワイトボード的なものはキャンバスで代用できる。
本棚みたいなものをアトミックシンキングでいうトピックノートみたいなものだったり。
複数の整理ができて、あとはプラグインを張ることでプラグインとかCSSでもちろん限界はあるけれども今までのコンピューターに比べればかなり見た目を変えることができる。
できるね。
そういう意味でわりとノーマンさんが考えている未来に近いツールではあるんじゃないか。
そう考えるとこれから結構まだまだ伸びてくるんじゃないのかなっていう期待も持てた感じがしますね。
それをそこのObsidianのあらゆる機能をしかし内部はマークダウンファイルでやってるのが僕はもう偉大やなと思いますね。
ダメになってもマークダウンは死なないはやっぱ重要ですね。
重要ですね。マークダウンであるからこそユーザーが気軽に扱える。
これがだからバイナリのファイルとかで入力になんかすげえ項目数のあるフォームを埋めなければならないとかやったらもうまず間違いなく普及はしないでしょうけど。
マークダウンであることの偉さっていうのは多分ログシークも含めて何回評価しても評価しきれないものがあるなと思いますね。
やめたくなったら持って逃げればいいですからね。
しかも結局マークダウンじゃないやObsidianってWebViewerを使ってるだけ?
大雑把に言うとブラウザと拡張機能を内蔵したエディター?
だからあれ全く同じ機能はできないけどマークダウンをプレビューするのって結構自分でも簡単に作れるのよね。
ノードJSで使えればビューアーを作るのは簡単なんで。
だからむしろ僕はそのObsidianそのものというよりもマークダウンプラスWebPreviewerによってそれぞれひと勝手ちょっと多いけどいろんなノートタイプのエディターが出てくるっていう未来が多分一番好ましいんじゃないかなと思ってます。
あとは人がそこにどのぐらい手間をかけられるかっていう距離感がどこに落ち着くのか?
セカンドブレインの役割と再構築化の必要性
でも結局、例えば自分が自分の元に入ってくる雑多な情報をなくしたくないと、後で見つけたいっていうことのためにしかノートを使わない場合は、おそらくEvernoteが一番いい。
これも多分そう言っていいと思う。
でも、例えばノートっていうのを自分の知識を増やしていったりとか整理したりっていう役割を果たそうと思うんであれば、手間はかけなければならない。
なぜならば再構築化は避けられないからっていうことなんですよね。
面倒なら広まらないのは間違いないんですけど、でも面倒じゃないツールはその役割を果たさない可能性が非常に高いんですよね。
再構造化をできるノートじゃないと。
知識の構築には多分役立たないので、そこは最低限の理解としては持っておきたいなというところが、実は最初に挙げた、一番最初に挙げたタイトル、セカンドブレインについてようやく返ってくるんですけど。
セカンドブレインの話題っていうのは英語圏で特に多いんですけど、どんなツールを使うとかどういうノートを取るのかっていう話で盛り上がるわけじゃないですか。
でも正直どうでもいいんですよね。
手を動かして自分でノートを作ることを日々やっていくかどうかっていうことだけが多分一番コアなポイントで、もちろんツールによってやりやすくてやりにくくて変わってくるでしょうけど、
ツール選びに空けくれてる暇があるんであればともかくノートを書いたほうがいい。書き終えたノートについて自分で考えて書き方そのものをアップデートしていくっていうことを続けることがおそらくセカンドブレイン的なもの。
再構造化することが必要っていうのは知識の理解のために必要っていうのは当たり前なんですけど、人間が道具を手先のように使えるという表現をするじゃないですか。例えばバットとか。
慣れると身体化するって言いますよね。道具の扱いに。
もしセカンドブレインが文脈通りに自分の第二の脳であるんであれば、習熟、つまり道具化することは避けられないですよね。
どうしたらセカンドブレイン化できるかってそのノートに書き込むこととそのノートから読み出すことを習熟するしかないですね。
時間と手間って避けられないことで、結果として10万とか20万のノートがあるっていうのは素晴らしいことですけど、
実際その10万とか20万のノートを作るために払った手間暇があなたの知的能力を向上させているわけじゃないですか。
だとしたら、セカンドブレイン議論って基本的なことを見落としてないかなという懸念がこの本を読んでても感じたんですよ。
大体の人たちは楽をすることを求める。それは脳の特性なので。
セカンドブレインが盛り上がる界隈って大体生産性向上が好きな人とかなり重なるところがある印象で、僕も実際そうですけど。
効率化で侵食してはいけない領域が多分ここにはあって、その観点を忘れないようにしないと僕らは楽を求めてしまうものなので。
例えば自分がノート作りとかでやってることを自動化で省力化しましたって嬉しいですって言って、
致命的なことを損なっている可能性があるっていう、そういうことが起こるっていうのをこの本を読んで思いましたし、
自分自身をちょっと覚えとかなあかんなという感じはしました。
自動化、自分もここ2年ぐらいのテーマで言うと、自動化の罠に騙されないようにするみたいなのは結構気にしているところではあって。
その例えで毎回出てきて申し訳ないんですけど、ノーションとかは憧れてしまうという罠があるような気がして。
便利になることが目的になってしまう。
写真アルバムとかを作るとか、ライフログ的なデータベースを作るんであれば間違いなく有能なんですが。
趣味を華やかにするのにめちゃめちゃ有能なんですよ、たぶん。
ただここで、いわゆるノートテイキングっていうものを何ていうジャンルで読んだらいいのかわからないですけど、
知的生産の技術とか、こういうノートテイキングの領域ではノーションは固すぎて扱えないし、余計なことに気が散りすぎることが普通に起こりやすくて。
静かでテキスト中心のツールの効果
今回触れませんでしたけど、どちらのノーのモードでも、体験的でも内省的でも集中していることが必要だと。
気が散るものは基本的に全部ダメだと。
その気が散り方は、外側からの気が散り方もあるし、自分の内側から出てくる気が散り方もあると。
心の声によって妨げられる気が散り方もあると。
だから、内省的な認知を発揮させるためのツールは、基本的に静かでなければ静かっていうのは、つまり余計な情報が表示されない方がいいだろうと。
そう考えたときに、ちょっとノーションは余計な情報が表示されすぎてるなとは思いますね。
極論、それだとオフラインじゃないとダメですからね。余計な情報をなくそうと思ったら。
本当にそうで、おそらくポメラはそういうことだと思うけどな。ポメラが根強い人気があるのは。
電源が、電波に繋がらないスマホにしないといけないっていうか。
スマホでも、しかもアプリを入れとくとまずい。
1個しかアプリがないスマホにする。
正直、ボタンを押したらエディターが開くっていうスマートフォンは、つまりポメラってことだから。
Kindleのいいところとかもそれだからね。
思っている以上にその機械が表示している。僕らの目に入る情報と脳の働きっていうのが影響してるし。
集中とか脳をシステムに起動させるために、脳の機能を自分で意識的に働かせることはできなくて、注意を向けることしかできないから。
環境の方でうまいことを調整していって働かせやすくするということが有能で、その意味で余計な情報が出てこないタイプの。
OCDANもそうで、スクラップボックスもそうですけど、基本的にテキストしかないっていうところは必須とは言わんけど、備えておいたほうがいい。
テキストエディターとかでも普通にいいと思うんですけどね。そういうノートテイキングの意味では。
俺はもうね、一番にお勧めするのであればAppleのメモ帳でいいんじゃないかって思っていて。
なるほど。
Macを使ってないとダメか、その話でいうと。
確かに。
Macを使っていると前提するならば、MacとiPhoneを使っているならメモ帳で十分なんじゃないか、とりあえず入門としては。
入門としてはそうで、何か機能が不足を感じたときに初めてその機能を担えるツールを探すぐらいの順番で行ったほうが、僕はいいかなと思いますね。
なんかすごい、本書でいうとアーティファクトを買いました。はい、これで問題解決ですっていうわけにはいかず、そのアーティファクトに習熟することが必ず必要だと。
だから習熟が難しいツールは何かを始めるまでのスパンがすごく長くなってしまうと。
それはまさにさっき挙げているノーションが代表例ですけど、ノイズが少なくすぐに使い始められて何回も気軽に使えるツールであればあるほど望ましく、僕らはともかくとして一般的にはアナログのノートなんですね。
基本的には。
そうだな、それが一番ですね。最強はそれかもですね。
その入門式の低さとか短さでいうとやっぱり紙のノートは圧倒的に強くて。
でもやっぱりこれって情報量増えたら困るよねっていうことを実感したら初めてデータベースの的なものに探ってみてもいいかなという感じで。
だから何よりも道具は使うことで自分の中で身体化するっていう観点をまず覚えておいて、自分の読み書き読んだものを外に出すという働きで最高増加が進む。
この2つさえ抑えておけば正直ツールはもう何でもいいなと。ツール選びが楽しいのはわかりますが。
それは趣味として大いに楽しむべきだと思いますよ。
でもそこはそういうのが重要だと分かった上でやるのと何か最高のツールさえ手に入れば問題はすべて解決するんだと思って探すのではやっぱり違いがあるので。
ここはこの手の話をするときはちょっと抑えておきたいなと強く思った次第でございます。
ということでBook Catalystは番組を支援していただけるサポーターを募集しておりますので気になる方概要欄のリンクから飛べる公式ページをご確認ください。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
01:23:26

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