1. ブックカタリスト
  2. BC015『実力も運のうち 能力..

今回はマイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を取り上げます。

ちなみに、すごく売れている本ですが、結構難しいというか噛みごたえのある本です。

関連情報

本書の内容の序盤に関しては、以下の動画をみれば掴めると思います。ただし、本書の一番の論点は後半部分にあるので、できればそちらも押さえておきたいところです。

TED:能力主義の横暴

倉下の読み

日本語のタイトルは『実力も運のうち 能力主義は正義か?』ですが、原題は『The Tyranny of Merit: What’s Become of the Common Good?』です。

* Tyranny:専制政治,横暴

* Merit:値する,優れた価値、功績、

* Meritism:実力主義・能力主義

* Common Good:共通善

イギリスの社会学者のマイケル・ヤングが1958年の『The Rise of the Meritocracy』ですでに予見していた「能力主義」(Meritism)が持つ弊害を、現代の状況において確認し、その打開策を探る、というのが本書のテーマです。

で、原題に注目してみると、「Common Good」(共通善)という言葉が出てきます。倉下の読みでは、この言葉こそが本書の鍵です。日本語のタイトルに引きつければ、「能力主義は正義か。もし正義でないとしたら、何が正義になりうるのか」を論じた本、ということ。

その点を見過ごして、能力主義が良くないものだと主張しているだけの本だと捉えると、本書の大切な部分を読み過ごしていることになります。でもって、そこから論じられる展開こそが、コミュニタリアニズムを主張する著者の思想に合流するものです。

そして、もっとつっこんだことを言えば、「能力主義は正義ではない。実はこれこそが正義なのだ」という議論しかできないならば、それは王様の首をすげ替えているにすぎません。そうではなく、「私たちにとっての正義とは何だろうか」という議論を始めるためのきっかけを提供することが本書の一番の贈り物だと思います。

なので、「この本では具体的な代替が提示されていない」のような批判はまったく読み落としです。そうではなく、そうした代替がトップダウンで提示されてしまう状況そのものが、私たちの協同的な議論を棄損してしまっているというのが、現代的な状況なのだと倉下は考えます。

目次

* 序論―入学すること

* 第1章 勝者と敗者

* 第2章 「偉大なのは善良だから」―能力の道徳の簡単な歴史

* 第3章 出世のレトリック

* 第4章 学歴偏重主義―何より受け入れがたい偏見

* 第5章 成功の倫理学

* 第6章 選別装置

* 第7章 労働を承認する

* 結論―能力と共通善

著者の他の著作と関連回

* 『これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』

* 『完全な人間を目指さなくてもよい理由-遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』

* 『公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)』

* 『それをお金で買いますか 市場主義の限界』

* ◇BC005『これからの「正義」の話をしよう』 - ブックカタリスト



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面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第15回の本日は、「実力も運のうち、能力主義は正義か?」について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
今回はクラシタのターンなんですけども、「実力も運のうち」ということで、著者がマイケル・サンデルさんで、以前どっかの会で出てきましたし、たびたび言及されている方なんですけども、
現代の政治哲学者の方で有名ですし、日本でもいくつかの本でヒットされていて、今回の本もかなり話題になっているらしく、やはりこのタイトルが特徴的というか象徴的というか、
運も実力のうちという言い方を逆転させて、実力も運のうちと。で、能力主義は正義かというサブタイトルで内容補強している感じなんですけども。
はい、いきなりですけども。
現代をちょっと見てみたいので、英語のもともとのタイトルを見たいんですけども、
The Trainee of Merit。日本語のカタカナでメリットって言うとちょっとわかりにくいんですけど、ある種の能力とか功績とかっていう意味で、
Traineeっていうのが応募者とか先制政治っていう意味なんですね。なので、能力主義の応募というのが現代なんですよ。
結構違いますね、いきなり。
かなり違っていて。で、サブタイトル、現代のサブタイトルがWhat's Become of the Common Good?ということで。
Common Goodって日本語で訳しにくいんですけど、共通然という言い方をされるんですけども、共通然はどのようになるのかというタイトルで、結構現代とタイトルが離れてるんですよね。
たしか第5回でそのマイケル・サンデルさんのこれからの正義の話をしようを話したと思うんですけど、この中でも結構その実力も運のうちっていうフレーズとほぼ同じ意味の言葉は使われていましたよね。
そんなようなことを言っているっていうか、それが良かったから引き継いでそのタイトルにしているっていうのは結構あるのかもしれないですね。
もしかしたら名付けには何かしら意図というかあるんでしょうし、話の流れとしてもサンデルさんのこれまでの議論を引き継ぐ形なんで、別にこのタイトルが間違いというわけじゃないんですけど、
能力主義が正義かどうかという疑問を持ってこの本を読み始めると、結論にたどり着いたときにうまくフに落ちないとか着地がずれてるような感じを受けるかもしれない。
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なぜならばこの本が議論するのは能力主義が正義かではなくて、副題の後半の方、共通然はいかにしてなるのか、共通然をいかにして作れるのかっていうのがサンデルさんの一番この本の主要なテーマですね、言いたいこと。
能力云々ではなくて共通然について考えないといけないぞっていうことなんですね。
ただしもちろん前半部分の大半は能力主義とは何ぞやと、能力主義のここが問題やっていうのを5、6章分ぐらい使って議論して組み立てていって、最後の最後にやっぱり共通然で重要だよねっていう話になるんで、
ちょっと回りくどいというんではないですけど、議論の組み立て方がまっすぐではないですね。
これからの正義の話をしようも、今だから言えるんですけど、同じパターンだったと思います。
この人はそのパターンなんですよね。前提条件をすっげえいっぱい説明した上で、最後の最後にちょこっと自分の意見が入っている。
そういうことですね。真に議論すべきは後半の方なんで、僕もそこの後半には注目しているんですけど、もちろんその前半部分で展開されている能力主義が持つ弊害っていうのも現代的な課題なんですよね。
能力主義の横暴っていう言葉で検索していただければ、多分TEDの動画が見つかるんですよ。
これマイケル・サンデルさんが10分ぐらいの動画で、この本の大元通のある話を展開されていて、正直それを見れば前半は概ね理解できると思います。
じゃあ10分でそれを見て、あと6章7章が結論あたりを読めば、おおむねは理解できてしまう。
おおむねは理解できます。話の一応全体の構成が序論から入って、1章から7章で最後結論なんですけど、まず1章の勝者と敗者っていうところで、
おそらくこの本の半分ぐらいの概要がまずこういうことが起きているよっていう話があって、それは実際にどういう状況で、どんな問題を含んでいるのかっていうのをよりディープに議論していくのが2章からの続くところで、
少しずつ後半あたりから、その著者が能力主義は問題だ、だったらどうしたらいいのかっていうところで、最終的に古文のグッドっていうのを作り上げないと、
この能力主義の弊害は乗り越えられないよっていう話になってるんで、もしざっと掴みたかったら、さっき言われたように動画をまず見て、ああなるほどかっていうので、後半あたり、1章と後半あたりを読めばおおむね大丈夫だと思います。
めっちゃ思います。全部これからの正義の話をしようという話を思い出すというか、あれも難しかったと感じたのは、やっぱりそういう流れに持っていきたいという話が分からなかったことなんですよね。
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まず、この人の話はいつになったら出てくるのってずっと思いながら読んでいたので、そうだっていう前提があるとまずかなり読みやすくなりますね。
だから基本的には序盤は能力主義っていうものの、それはまず一体何なのかと弊害についての話なんですけど、本の承諾の話、順番とは別にここで組み立てていくんですけど、その能力主義、メディクトラシーと英語では言うんですけど、
これはマイケル・ヤングっていうイギリスの社会学者の方が本の中で、論文館の中で提出された考え方なんですね。能力主義。一見これは表面的には良い概念なんですね。
能力主義っていうのは、例えばその人の地位とか生まれとか立場によってその人のやりたいこと、仕事とか制約されるんじゃなくて、その人が持つ能力によってそれは選ばれるべきだという考え方で、
これは要するに貴族政治とかが打破されて個々の人たちが自由になった結果、貴族だからこういうことをするとかじゃなくて、この人はこの能力を持ってるからこの能力に見合った仕事をしようっていう考え方の転換を示しているのが一つの能力主義なんですよ。
今で言う、誰もがきっと常識だと思ってそうなことですよね。ただその前まではそれは常識ではなかったことだった。
当然こういう状況は良い。もちろん人権という観点から見たときに良いとは言いつつも、1958年の時代から実はそこには危ういものがあるのではないかとこのヤングさんは指摘していて、サンデルさんはそれを発掘して、ほとんど未来を見てきたかのような話で書かれている。
ヤングさんが将来こういうことが起こるだろうって考えてた疑念がほぼ起きてる。ほぼ起きてるっていうのは、例えばこう言うとちょっといろいろ問題がありますけども、アメリカのトランプさんが当選してしまったというような、いわゆるポピュリズム的なものが民主主義の議論とか塾議に打ち勝ってしまうようなことが起きるというようなことが書かれていまして、実際にその通りになっちゃってるよと。
で、能力で人を選ぶって悪くはないというか、例えばお医者さんが2人いてどっちに見てもらいたいかって言ったら別に能力がある方に見てもらいたいじゃないですか。能力がない人よりは。
もう普通に同じ料金ならどう考えてもそっちがいいですね。
それを仮に能力主義と言ったときに、その能力主義がどんな弊害を起こすのかという話なんですけども、これはなかなか難しい問題なんですけど、簡単に言うと能力がある人が、いわゆる自由競争で打ち勝つと。
で、自分の地位を手に入れると。これは貴族なんかで競争が決まっているものじゃなくて、それぞれの能力に応じた競争なんだからいいんですけども、彼らは競争に勝ったという自負を持ってしまうと。
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調子に乗る。
簡単に言うとおごりなんですよね。だからそういうおごりを持ってしまうと。逆に負けた人は競争に負けたという結果を得るわけですね。
これが例えば貴族制ならば、貴族が貴族であるのはその人の能力は全く関係がないじゃないですか。
生まれだけですよね。
生まれだけなんで、あるとき貴族は気づくはずなんですよね。自分ってただ生まれだけなんだなっていうことに気づいてしまうと。
そうするとおごりっていうのを非常に持ちにくい。持つ人間もいるにしろ多くの人は、例えば自分よりも身分が下の人間で、自分よりも優れてる人間がいることに気がついてしまうと。
逆に貴族じゃない人たちは、貧しい環境にいることを自分のせいにはしないんですよね。生まれのせいなのか。
おだしょー 俺のせいではない。それは確実にそうですね。
つまりここは競争によって、個人の努力とかによって結果が得られるとしたら、逆算的にその競争の結果は全て自己責任になってしまうんですよね。
最近問題になってそうだっていうまさにそれですね。
まさにそういうことなんですね。この問題がサンディさんが一番懸念してる問題で、格差が広がるとかいろいろ問題はあるけども、勝った人が負けた人を見下してしまう態度。
これは単純な不平等というよりも、その分断ですよね。気持ちが分かれてしまうっていう。
ここがもちろん不平等は問題にしろ、こっちのほうがもっと民主主義にとってインパクトがある問題であろうというのが、この本の一番の主張ですね。
民主主義にとって問題になりインパクトがあるっていうふうに考えると、すごい腑に落ちるというか、多数決をするときに分断というのはすごく良くないなっていうのは思いますね。
だからサンディさんは一応哲学者ですけど、分類としては政治哲学の分野の方なんで、政治っていうのを前提として、どのようにして良い政治を成せるかっていう話なんですね。
だから政治が必要かどうかっていう前提は一回もうスルーして、政治はあると。政治はあってその政治をどう成すかっていうときに、能力主義が引き起こすであろう分断がインパクトがでかいという話なんですね。
確かブックカタリストでもちょいちょい分断っていう言葉はよく話していて、これはその今一番避けねばならないのではないかみたいなことはよく話している。まさにそれですよね。
一章はそういう概論の話だけど、二章はその能力主義っていう価値観、考え方がどのような歴史を経て出てきたかっていう話で、これもまたかなり長い話なんですけど、その点の価値観っていうのは道徳観とか倫理観に関わっているという話で、
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西洋における宗教的な考え方、簡単に言うとキリスト教的な考え方が背景にあるというところで、西洋主義の場合では神と人間っていうものの関係性を考えるわけですね、基本的には。
対立するいろんな進学的な考え方がありまして、神に神を認めている人たちがいて、その神に対して祈りを捧げるとか宗教的交流することで救済が得られるっていう考える人もいるわけです。
別軸では、人間が何をしようが神は人間のその意思に関わることはないと、人間が何しても救われるやつは救われるし、救われないやつは救われないっていう説を持つ人たちがいるわけですね。
で、その2つの見た場合にどちらがより完全な神かっていうと、後者の神なんですね。つまり人間が何をしようが自分が決めたことをするっていう方が、人間の行為の結果によって行為を変える神よりもより完全であると。
完全体な感じはする。
つまり前者の場合は人間の行為に干渉されてしまうんですね。神の行為が。だからそれはあまりにも不完全である。だからより突き詰めると、神っていうのは人間が何をしようが救済される人間とされない人間はあらかじめ決まっているという考え方があって、それは一つ強かったんですけど。
例えば宗教を必要としている人間にとって、その考え方は非常に不安定らしいんですよね。不安を呼ぶ。
都合が悪いですよね。やる側もやられる側も。
教会に行ってお祈りをしようが、救われるか救われないかは変わらないって言われるよりは、お祈りを重ねましょう。そうしたら救われるかもって言われたほうが安心は得られますよね。
だから、いろんな信学者が神の完全性を言ってきつつも、どちらかというと現実的には、こうすれば救われるっていう考え方がちょいちょい出てくると。
宗教改革っていうのがありまして、ルターという方がいたんですけども、よく話題の中で免罪符っていうやつがありまして、教会からそのお札を買ったら人間の罪が言及されるみたいなやつなんですけど。
悪いことを許してもらうのを金で解決するやつですよね。必ずしもそれだけではなかったっぽいですけど。
だからルターというのは、教会が権力を持ちすぎていることをやめさせた。個人の信仰が大切だと。教会の権力っていうのは重要じゃないってなったんですけども。
結局その教会が打破されて、個人が信仰に戻った時にどうなったかっていうと、その個人が信仰したら救済が得られるって、結局その元々の構造は変わらんままなんですよね。
その中で非常にややこしいレトリックが出てくるんですけども、神が私たちを何にしても裁きか裁きかじゃないかを変えないということを受け入れた上で、でも何か救済される印みたいなのがあるんではないかっていう考え方が出てくるんですね。
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サンデルさんが言っていることではなくて、キリスト教の歴史として。
しかも超有名な別の本がありまして、プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神というマックスウェーバーという方が書かれた本がありまして、
岩波新書で若干薄めの本で出てるんですけど、その中で出てくる分析をサンデルさんが引き継いでるという感じです。今喋ってる分析は。
ちょっと昔の話ってことですね。
で、その救済の印って何かなんだろうっていう理屈で、神様は人間を適当には作ったりしてないと。個々の役割を最大限生かす仕事、転職という言い方するんですけど、転職をするように作られていると。
つまり仕事を全うしている人は神の方向性に合っている人だというふうに考えて、だからちゃんと働いている人は救済される印を持っているという推論が、ちゃんと働けば救済されるという推論にスライドするんですよ。
だんだんサンデルさんの主張に近づいてきている方向が感じられますね。
だから始めはその印、結果としてのものだったのが、いつの間にかその手段になるんですね。
それがいわゆる資本主義の序盤を支えたと言われる勤労と勤欲。
しっかり真面目に働いてお金をどんどん貯めていきましょうって、これかなりキリスト教的な考え方なんですけど、それが資本主義とぴったりマッチしたという話に繋がっていくんですけど。
話の歴史的にはそのようにキリスト教的な考え方において、自分が神の方向性に沿うことをしていれば救済に値する人間であるという考え方がかつてあったと。
よくよく現代に転じてみれば、それは結局同じことになっているんじゃないかということで、次、現代編に視点が移るんですね。
宗教じゃなくても、そういう考え方が今、そういう考え方というのが広まっているんじゃないかと。
それは結局、例えば誰かすごい人が企業なり芸術なりヒットして大金を手にしたときに、その人はそれに値する人だという考え方。
それに見合ったポテンシャルを持っている人だというふうに捉える、捉えがちなことがあるんだと。
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その人は別にたまたまその利益を得たんじゃなくて、それに見合う仕事をして、それに見合う人間であるから、そのような地位を得たりお金を得たりできているというふうに捉えがちだと。
やるとそのように捉えないと、その人たちは不安なんですね。その地位にいることがたまたまなんですっていうのは結構不安なんですよ。
運が良かったからって言えないですよね。
自分が頑張ったからここの地位にいるんだって言った方がはるかにすっきり納得できちゃうんですよね。
これはつまり、ある人がそこに受ける影響っていうのは、ある説理の中にあると。
たまたまではなくて、それが神の見心であるとか、市場に評価されるとか何でもいいですけど、何かの説理に沿ってその地位を手にしているっていう考え方が実は全然変わってないんだと。
かつては神様がお前はこういう運命だっていうものを決めていて、神様にお祈りをしても救われるかどうかは分からなかったと言われていたものが、
現代の社会でもお前はこういうことができる能力だってたまたま神様に決められているのと同じ概念?
その中で結局本人が頑張ったからその成果を得られたっていうふうに、行為と結果がダイレクトにつながってるんですよね。
だからそこにたまたま性っていうものは全くないというかあったとしても、要素の度合いとしては非常に薄い。本人の頑張りのおかげだと。
彼が救われるのは祈りを欠かさなかったとか仕事をしたとか苦難に乗り越えたからっていうふうに、ある種の結果が逆算的にその行為を正当化するというか、ここは結びついちゃってるんですよね。
それはだから宗教における救いでも社会における成功でも変わらないと。
全て本人の意思と努力によってその結果を得たという認識を肯定する思想は多いけども、さっき言ったようにたまたまである思想っていうのは全然弱いという状況が今あるということなんです。
たまたまだっていうことにみんな気づいてないとかたまたまだなんて思ってもいないってことですよね、みんなして。
思いたくもないという方がより強い。
そういうのもあるかもしれないですね。
なので、現代の思想的な流れとしていろいろゴタゴタあったけど、最終的に節理主義っていうのに結びついた能力主義。
能力があり、その人が頑張ってきたから今その人がその成果を得ている。
その対価が例えばいくらであっても、例えば金融会社のCEOのボーナスみたいな金額であっても、それは何ら倫理的にもとることはない。
なぜなら彼はそれぐらいの努力をしてきたからだっていうふうにまるっと結論付けられてしまうんですね。
難しく考えなければ学校教育ではそういうことを教えられているというイメージですね。
そういうふうに続いてきた考え方が現在やばいことになっていると。
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この本の冒頭で、大学入試における不正の例が一つ出てくるんですけど、
ちょっと変な人たちにお金を渡すとちょっと受かりやすくなったりとか、あるいは受かるためのマルキテクニックを教えてもらえたりするっていうのを
著名人たちが利用してて、それが非常に批判を浴びたということなんですけど、あんまり良くないことですね。
日本でも何かあったイメージですね。昔あったって感じなのかな、裏口入学みたいな。
アメリカの場合は裏口入力とは別に、すごいたくさんの寄付をしている家庭の息子は受かりやすいみたいなのがあるわけですね。
堂々裏口なんだ。
これは通用口の別ルートもあると。この2つは世間一般において、あまり良くないよねっていう価値観ですけど、
逆に正門から入る人たちは、むしろ競争に打ち勝った、そこに入る正当な権利を持っている人たちって逆に受け入れますよね。
でも、サンデルさんが言うには、そうやって門口をくぐる人たちの7割から8割は全部裕福な家庭の人たちだと。
それは本当に公正なのだろうかという問題提起があるんですね。
これはあれですね、同じ話出てきましたね。これからの正義の話をしようでも。大学の入学とかっていうのは。
先ほどここまで僕らがめくめくと流れてきた話ですけど、大学の入学で裏口入力はダメだけど、
正門から試験を受けて受かる人たちはいかにも正当に感じられますけど、その正当な感覚を本当に正当なのだろうかという問題提起がこの本でなされているわけですね。
たとえば、そういうお金が貧しい人たちは勉強できるような環境がなかった。時間を確保することができなかった。教えてくれるような人がいなかった。
それって運が悪かっただけだよねって言えるっていう言い方なんですかね。
だからそこには運の影響もあるよねっていうことを言いたいんですけど、じゃあ、たとえば、そのような差別を一切撤廃できたとしましょう。生まれによる差別を撤廃できたとしましょう。
それが本当に、そのような状態になることが本当に正義に繋がるのかっていうことにもサンデルさんは疑問を呈しているわけです。
正義に繋がるかどうか、それが。
そうです。本当にそうすることが共通点とか正義に繋がるのか。
例えばですけど、子供が生まれたら親元から全部引き取られて政府の機関で育てられるみたいなことにしたら、親元による競争はなくなりますよね。
でもそうすると今度は個人の自由がなくなりますよね。
正義ではないですね。それは正義ではない。
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自由を奪わざるを得ないところがある。
で、仮に奇跡的なことでできたとしても、そこの大学に受かるっていうことに価値があるのであれば、恐ろしく激しい競争が行われますよね。
そして、例えば大学に100人しか入れないとしますよね。
2000人応募したとするじゃないですか、そこに。
そしたら100人しか受からないわけですけど。
単純に言って、例えばそのうちの2000人中の20人、30人は、さすがにちょっとこの大学は辞めた方がいいよねっていう人がいるかもしれませんけど、
めっちゃみんなが努力してるんやったら、その2000人中たぶん500人ぐらいは、その受かる100人とほとんど差がないはずなんですよ、能力的に。
だから結局運なんですね。
5点、10点しか点数変わらなくて、たまたまテストの問題が違う問題だったらこの人が受かったかもしれない。
っていうこともあるんですよ。だから結局運が出てくるんですよね。
で、運が出てくるにもかかわらず、その結果が競争で勝った自分の力だって認識されてしまうんですよ、どうしようが。
運のおかげって誰も思わなくなってしまう。
つまり逆に、公正な環境、スタート地点を公正にすればするほど、その結果は個人の努力のおかげになってしまうんですよ。
たまたま運が良かっただけど、誰も思わなくなってしまう。
最初の一番厳しい貴族の世界であれば、運の要素がかなりはっきり認識されるんですけど、そこから競争が開かれれば開かれるほど、運じゃなくて自分の力で勝ったって誤解するようにどんどんなっていくんですよね、環境整備すればするほど。
これが彼が言う能力主義の弊害なんです。
つまり、能力主義が十分に行われていない、つまり中途半端に不平等が残っているから、この現代の問題があるよっていうことじゃなくて、仮に能力主義を徹底したとしても、やっぱりそこには問題が残るっていう話なんですね。
ここの論点を見とかないと、本省はまだ十分読めてないと思います。
能力主義の不十分さじゃなくて、十分さを徹底したとしても、そこにはおそらく慢心とか他人を見下すってしまうっていう、政治とか社会共同生活を破綻させかねない要素が残ってしまう。
だから、やめ彫刻しようっていうのが、一応この本の前半の流れですね。
ここまではまだサンデルさんの主張ではなくて、何なのかっていう説明段階ってことですよね。
そうですね。
一つこの本で面白いなと感じたエピソードなんですけど、さっき言った大学入るのに難しくなって、それを実力と勘違いしていく問題に対して、サンデルさんが一つ面白い施策、解決策を述べてるんですけど。
アイデアってことですか?
アイデアですね。現実に立候補されてるわけじゃなくて、こうしたらいいんじゃないかっていうかなり突拍子もないアイデアなんですけど、さっきの話、試験を行うときに、学力的にどうしても無理な人は指揮するにして、残ったメンバーをくじ引きで選べましょうって言うんですよ、大学の合格者を。
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実はそれで変わらんってことですよね、サンデルさんが言いたいのは。
そうそう、やってることはほとんど変わらんし、変わらんにもかかわらず、そうして受かった人たちは、自分が受かったことは抽選の結果でしかないって痛感するよねってサンデルさんは言うんですね。
あー、そう思わせることが大事だと。
そういうことなんです。
実力で俺は受かったって思わせたらダメなんだってことなんですね。
それは結局、人を見下すことになるし、人を見下した結果として、例えば、現代の政治家の大半で大卒なんですけど、大卒の人たちは、高卒の人たちを仮に見下してたとしたら、それでまともな政治なんて行われるわけないですよね。
なぜなら、アメリカにおいてすら大卒でない人の方が数が多いんですよ。だから、代表になれてないわけですね。国民の代表になれてないわけですね、それは。
高学歴の人の代表ですよね、あくまでも。
そうそう。だから、そういうふうな慢心が政治にも悪影響を与えるんで、すごい有名な大学に入れたのって、俺すごく運良かったんだっていうしかないっていう。
もちろん足切りの学力は超えてるわけで、勉強してることは認めているけども、それ以上の結果って運でしかないよっていうことを裏からじゃなくて表に出してしまったほうが、実はいいんではないかって結構トリッキーなこと言われてる。
結構過激ですよね、言ってること。日本のシステムだとめっちゃ簡単に実践できるような気がして、センター試験で9割取れたら東大くじ引きに参加できます。
8割取れたら何々大学くじ引きに参加できますって、そうしましょうってことですよね。
いうことです。例えば、アメリカの大学とかでは、黒人がこれまで入学しにくい環境があったから、黒人が何枠か優先的に取りましょうっていうのがあるんですけど、それも直接取るんじゃなくて、黒人枠の抽選回数を。
黒人の人の場合は2回くじ引いていいよとかそういうことにすれば、差別に対する逆差別を入れつつも、結局その実力主義の弊害に陥らなくて済むんではないかっていう話で。結構システム的には練られてるというか、実現的なんですけど。
でも採用する大学は多分ほとんどいないんだろうなと思うんですけど、なぜならばそうするとその大学のネームバリューが落ちるからなんですよね。
サンデルさんのキャラ的には真反対というか、めっちゃみんなに嫌われそうな意見ですよね、その意見っていうのは。特にアメリカでもっと嫌われそう。
お前らエリートぶってるけどそれは本当にエリートなのかって言ってるんで。しかもエリートっていう考え方をなくそうと。だからさっき言ったように、運でしかない大学のネームバリューはもちろん今のネームバリューが10としたら5とか6とかに落ちると思うんですよ。
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その大学出身ですっていうのが運の強い人間ですっていうのとちょっとニファーズが入ってくるんで。だからその大学がネームバリューを重視してたらこの施策は取られないと言うけど、真なる理念を目指すのであればもしかしたら本当にくじ引きの方が良いのかもしれないです。
だから昔は一つの大学に浮かれるほどの学力を持つ人の数がそれほど多くなかったから、今のやり方、前のやり方でもうまくいってるかもしれないですけど、その学力に上がれる人がもうむちゃむちゃの数になってるんで。頭の良さっていうのが増えてるんで。だから入学試験そのものが実は非常に狭い門番の機能しか果たしてないんではないかなとちょっと考えた事例ですね、これは。
実際確かに最近ドラゴン桜とかもドラマ化して話題になってたりもするけど、過剰競争ではありますよね。やっぱその試験のテクニックを身につけるってやはり本質ではないので、学習の。一つのやっぱり効率の良い学び方としてあるかもしれないけど。
でもそれをみんながやるじゃないですか。だいぶ前にアイスホッケーで誰もヘルメットかぶらない問題。それと同じで、1点の合格を選ぶために数時間学生が眠らずに勉強してるような状況が生まれてると。でも運であれば足切り以上の点数取ったら運であればそこまで必死に1点争わないじゃないですか。
だからその競争に参加する子どもたちの精神的負担も減るのではないかと思われております。
なんかあの高校3年生ね、普通に授業行って帰り道に遊びながら帰ってくるっていうのが普通の風景になりますよね。そういう風になれば。
まあだからこれがどこまで、この制度が拒絶される度合いが高いほど、現代において能力主義はもう前提のように浸透しているということでしょうね。おそらく。
言われてみると思ったんですけど、その能力主義というものを疑いようがない、これまでの社会で生活していると、何がおかしいのかということを考えることがすごく難しいですね。
もう1個だけ面白い話なんですけど、どんな社会がいいのかっていうのを個々人に考えてもらうっていう試行実験をしたときに、
ジョン・ロールズって人が無知のベールっていう考え方を出したんですけど、自分がどんなものの裕福か、それとも貧困のもとで生まれてくるかがわからない状況で、こういう社会制度がいいよって選ぶのが一番正義を全うする社会になるだろうとロールさん言ってるわけですけど、
サネさんそれを紹介した上でちょっとアレンジをこうやってて、もしわかるとしたらどうするかと。
自分がどういうのになるかわかるとしたら。
裕福になるか貧困になるかわかるとしたらどうするだろうかと。
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例えばですけど、貧困の場合は能力主義の社会の方が良さそうですよね。貴族主義の場合は能力があっても上に上がれないんだから、能力主義で上がっていきたいと。
お金持ちで生まれるんであれば貴族制度の社会の方が逆転されないわけですから、安定感があるわけですから、貴族社会を選ぶっていう敬語が出てきそうですけど、サネさんは本当にそうかなと言うんですね。
自分が仮に金持ちだったとしますよね。金持ちの下で生まれるから比較的有利な立場で競争に参加できるとしたときに、貴族制社会で勝ってもそれはさっき言われたようにたまたまの勝ちではならない。
でもそれがもし自由競争の社会で自分が有利な立場でその競争に参加できるのであれば、すごい自尊心も満たされますよね。
だからもしかしたらそうなるんじゃないかと。逆の方も、初めから勝てないゲームってわかってるんだったら、貴族社会に行って自尊心築けてない方を選ぶんではないかと、こういうことが起こり得るんではないかって言われてて。でも確かにそれはあるなとちょっと僕は思ったんですよね。
言われないと気づけないですけど、言われたらそれはあるかもしれないですね。
この思考実験は、いかにも哲学者らしい面白い話でしたね。
めっちゃあれですね。その話を聞くと、ジョン・ロールズが考えていたことは、古典経済学で現代の行動経済学を踏まえると、サンデルさんみたいな考え方になるんじゃないかっていう。
なるほどね。
なんか一段階進んだ感じがしますね。
はい、それは確かにそうです。だから若干ロールズさん自身がインテリ的な考え方をしすぎている気はしますが、後半のテーマに入りたいんですけども。
共通点について考えるという話なんですけど、これまでの先ほど言ってた収入とか、社会的地位を人間の価値と置き換えるような感じっていうのを考えようとした時に、
アメリカの連続ドラマで、ブレイキング・バットっていうドラマがありまして、冴えない科学教師がひょんなことから非合法の麻薬を作るんですけども。
それがね、すごい純度が高い麻薬で、すごい高価な値段がつくんですよね。
この2つの仕事、科学教師の仕事と麻薬を作る仕事を、経済的価値で見れば圧倒的に麻薬を作ることだけど、そっちの仕事をしてるからといって、彼が意義ある仕事をしているとは言えないだろうと。
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むしろ、科学者として学生を教えてる方がはるかに意義があるはずだと。つまり、たくさん仕事を稼いでるから、それだけでその人が価値あることをしているとはまず言えないとおっしゃるわけですね。
感覚的にはすごく納得できます。
例えば、人気のあるブログがPVを持ってるとして、PVあるブログがすべて意義あるブログとは言えないとは言えるんですよね。
結局、そこのブログにおいて、例えばページが多数分割されていることによってPV稼いでたとしたら、それは意義ある仕事をしてないんですよね。
だから、その行為の価値っていうのが経済的なバリューにあるとは別軸に判断する軸があるのだと。あるというか、判断するためにはそういう別軸がないと。
経済モデルだけでは、善悪というか、何が善なのか何が価値があるのかっていうのは測れないというのがまずスタート地点なんですよ。
この時点でちょっと難しい話があって、そうは言っても、麻薬を作る方がいいって言う人もいるじゃないかっていう反論は立つんですよね。
価値観としてそっちの方がいいってことですか。
価値についてはいろいろ論争があるけど、とりあえずサンデールさんの議論のスタートでは、その人の行為の価値っていうのは経済的なバリューだけで測れるものではないと。これは別にそうですね。
よくある感じですね。
そうした時に育ててみた時に何が価値を感じられるものになってるかっていうと、簡単に言うと貢献なんですけど、サンデールさんは私たちが消費者として何かをするんじゃなくて、
生産者として他者に何を与えられるかによって、その人の仕事とか役割の意義とか価値っていうのが決まってくるのではないかと。
生産者と消費者っていう対比軸が出てくるんですけど、仮に共通然っていうものを消費者が一番満足する形、消費者の満足を最大化する形、
この段階ですでに多数の最大幸福を思いつくんですけど、消費者が一番満足する形、つまり消費が最大化する形イコール経済活動が一番活発になる形を仮に善と予言であれば、さっきの言ったような非合法の麻薬を売るっていうことは良いことになるでしょうけど、
でもその結論に頷きがたいとしたら、そうじゃないんだと、消費を最大化させることではないんだと、消費者を満足させることではないんだと、そうじゃなくて生産者として他者に何を与えられるか、どんな貢献をできるかが善であると。
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もうだからこの段階ですでに価値を与える他者っていうのが出てくるんですね、ここの段階で。それはもう話の流れ的に共同体っていうのにつながっていくんですけどね。これが共通線への話の流れなんですけど、ある人の仕事の社会的な地位とか価値とか意義とかっていうものを消費者として見るんじゃなくて、生産者としてどんなことができるのかっていうふうに考えてみようではないかっていう渡りから、
サンデル議論が始まります。
ここからサンデルモードですね。
はい、サンデルモードです。
一回確認しておきたいのが、共通線、英語だとCommon Good、これがそもそもどういうものなのかっていうのをちょっと確認しておきたいのですが。
つまり、この段階ですら共通線のあり方っていうのがまだ定まってなくて、先ほど言われたように、そこの社会にいる人たちが一番消費を最大化させる、つまりお金の自由を与えて好きなものを買えて幸福になるっていう形にすることを、そういうことに関与しているものは良いと言えるっていうスタイル。
だから、その共通線というものに向かってやる行為を良いと呼ぶものを共通線って言うわけですね。
まずあれなんですね。じゃあ共通線とは何なのかというところから考える本でもあるというか、共通線っていう言葉が出てくるけど、共通線が何なのかっていうのがやっぱり一言で説明するのは難しい。
というか、はっきりしてない。つまり共通線は何かっていうのを言い切れないんですね。この話は後半、最後に解説するんですけど、だから混乱しといてください。
だから共通線って何なのかっていうのを疑問に思いながら話を聞いていけばいいんですね。
そうです。だからこの本のテーマが共通線はいかになせるかっていうのは関係してるんで、後で出てくるんですけど、とりあえず2つのパターンがあって、サンディアさんは消費者側の共通線の考え方は否定したいんですね。
消費者側っていうのが市場理論とまるっきりつながっちゃうんですね。とりあえず消費を最大化させておけば世の中に貢献していると言えるだろうっていう考え方は否定したいと。
そうじゃなくて、生産者として、生産者って言い方が難しいんですけど、一人の市民としてその自分の生み出す何かが他者に良い影響を与えるようなものでありたいと。そのことが共通線につながるという話なんですけど、
共通線とは単に思考っていうのは好みを蓄積することでも、消費者の幸福を最大化することでもないと、自らの思考について批判的に考察すること、理想としては思考を向上あるいは改善することであり、それによって価値ある充実した人生を送ろうとすることだと、この段階で定義されてるんですね。
42:08
これは彼自身の定義なんです。だから、かなり頭の良さそうなことを言っておられますけども、市民的概念の視点からは経済において我々が演じる最も重要な役割は消費者ではなく生産者としての役割だ。なぜならば我々は生産者として同胞の市民の必要を生み出す財とサービスを提供する能力を養い発揮して社会的評価を得るからだ。
社会的評価っていうのがポイントなんですね。例えば僕が何か買ったとしますよね。何でもいいんですけど買いもしたとしますよね。例えばコレクションとか集めたりガチャ引いたりしますけど、それで社会的評価が得られるかというと得られないんですよね。その行為だけでは。
みんなから褒められるわけではない。
でも例えば僕が本を書いて出版したと。じゃあそのうちの何人かが面白かったですと言ってもらえると。これはだからそれによって社会的知識が上昇するかどうかは別にして社会的な評価を得てますよね。
買い物しただけでは消費者で終わるんですけど、生産者的な行為をすると他者に対して自分が影響を与えられると。その影響にフィードバックによって自分は社会的地位というか承認を得られると。その承認は自身の尊厳、自分っていうのは多少価値があるんだなと思える感覚にもつながってくると。
消費をしてるだけではそれはもう永遠に得られないですね。残念ながら。買い物した満足は得られますけど、そこには他者が出てこないんで。だから生産者から生産者に生産者を重視した方がいいよとさんねさんはおっしゃるんですけども、僕が読んでて思ったのは前回かな。
コンバージェンスカルチャーっていう話が出たんですけど、例えば、いつも見てる番組の謎解きをする掲示板のグループって、そこに投稿するっていうのはあれはもう消費者じゃなくなってるんですよね。
消費しているからそっち側に行ってますね。
そこの掲示板に投稿すると、いわゆる新しい情報を持ってきたり、おーすげーっていうふうに社会的、小さいグループですけど社会的承認が得られてるんですね。だから僕たちは単独の性質として消費者を持ってるんじゃなくて、その消費者的立場から一瞬で生産的立場に変えられるんですよね。変わっていける。
だから言論選挙もそうなんですけど、観客って話が出てきますけども、あれもだから単にコンテンツを消費してるだけじゃなくて、実はもうフィードバックを与えることで生産側にコミットできてると。
だからサンデロさんの中では消費と生産っていうのが完全に分断されてたんですけど、僕がここを読んだときは、実はそこってスライドできるんじゃないかなと。
だから消費者であっても、仕事じゃない形で生産に関わることができるんではないかなっていうのが一つ疑問として思ったところで、これは本論には関係ないんですけど、これ一つ掘り下げられる話だなと思った次第です。
45:13
サンデロさんは生産者と消費者というものが明確に違うっていうふうに言っていて、生産者になるということこそが共通点に結びつく行為だっていうイメージですかね。
そんな感じですね。だからもちろん買う人と作る人っていうのは一人の人間に同居するんですけど、今現在って市場主義原理でいうと、働く人、生産者とか労働者をフォーカスするんじゃなくて、消費者の私たちを何とかしようという感じなんですけど、そのおかげで労働者が軽んじられてると。
そうじゃなくて、むしろ労働というものとか労働者というものを再フォーカスすべきであると。そうでないと私たちの共同的な考え方っていうのがいつまで経っても育たないよっていうことですね。
これに関して俺が思うようなちょっと疑問なんですけど、働けない人、社会に価値を与えられない人を弾いてしまうような考え方なんじゃないかってちょっと思ったんですけど。
全く僕も同じことを思いました。結局、だから今労働者が軽んじられてて、例えば金融業界に働いててお金を右から左に動かす人が大金を得てて、戦亡の話を得てるのは良くないと。
だから今まで日常的に日常を支える、欠かせない労働してる人たちを優遇する税制に変えましょうとかいう話が出てきて、それはもう全くそうやなと思うんですけど、結局それでも先ほどゴルゴさんが言われたように、働けない人とかっていうものがどうやって尊厳を得たらいいのか問題って絶対に残るよなと。
それは言及されてないんですね、残念ながら。
そうなんだ、誰でも気づきそうなツッコミどころなんですけどね、そこは。現代のもう一つの多様性みたいなものを簡単に無視してしまっているというか、ちょっとそういう印象を感じますね、それは。
だからこれ結局最終的に全部が円満にはいかないでしょうけど、現在支流になりつつある労働の形勢っていうのをまず復活、改善しようっていうところがサンデーさんの狙いなんでしょうけど、やっぱり査定として言われた問題は最後まで気になりましたね。
それは結局別の疎外を生んでるんではないかと。でもさっき僕が言ったように、労働はできなくても消費者として。
価値は提供できるってことですよね、評価を得ることができる。
だからそこがもしかしたら解決策になるんかなという気がしますが、本編の中では論じられてないです、これその問題は。結構大きい問題だと思います。
48:01
そこは割と無視してはいけないような印象はありつつも、あとはサンデルさんがこの後の話ですかね。
結局のところ、彼が目指すところっていうのは非常に古典的なんですけども、話し合うことなんですよね。
古典的ですね。
これは市場主義の社会では物質的成功を道徳的成功の印と解釈する誘惑につきまとわれると、それは繰り返し抗う必要がある誘惑だと。
そのための一つの方法が共通点への真に価値ある貢献とは何か。市場の最低のどこが的外れなのかについて慎重かつ民主的な考察を行う方法を論じ、規定することだと。
その方法を話し合ってすぐに決まるものではないと、簡単な結論を得られるものではないとした上で、結局そのような熟議することが必要なんだと。
つまり共通点って何だろうって、みんなで話し合うことが必要なんだとおっしゃってるんですよ。
そうですよね、と思うというか。あんまり答えは出てこないですね。
つまりこれが共通点ですよ、はいって言うんじゃなくて、そもそもそのような話し合いが避けられてることが問題だと彼は言うんですね。
ああ、そういう言い方か。
市場とか消費というものが実に素晴らしいのは論争を呼ばないことなんですね。つまり経済成長しましょうっていうことに右も左も反対はしないわけですよ。
普通みんなが絶対いいっていう。
お金を500円使えるよりも1000円使える方がいいよねっていうのは議論を必要としないんですよね。
それは結局、逆に言うとさっき言ったように細かい、例えば麻薬を売ることが非合法で良くないかどうかっていうのは議論を呼びますよね。
単純にこれが絶対いいとは言い切りづらいところがあって、そうじゃない考え方もあるんじゃないかって言えちゃうんですけど、
そういう議論は消費目を向けた瞬間にまるっと回避できるんですよ。
みんな豊かになりましょうって言っておけば、それぞれの人が好きにお金を使ったらいいんじゃないですか。
それが自由のリベラルなあり方じゃないですかっていうそのあり方って実は個々のおいての議論を全く回避してるというか剥奪してるんですね。
みんなにとって良いことは何だろうっていう議論がややこしいから、そんなことは考えないでみんなが個々の自由を満喫できるように経済成長していきゃいいじゃないかって言っておけば何の議論もなくなるんですよね。
非常にそれは滑らかでスムーズなんですけど、そこに結局共同体というものが一切立ち上がらないっていう話なんです。
勉強と同じだって思って今の話で言うと。
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なるほど、勉強と同じ。
楽をするものは身につかない。
消費に任せていればみんなして考えなくて良くて楽なんですよね。
そういうことそういうこと。
そういう楽なことをしていては良い社会というものはできないんじゃないのかっていう同じような概念なのかなってちょっと思って。
でも近いと思いますそれは結局のところ。
消費っていうのを焦点にしてたら議論は避けられるし個々の幸福度、満足度は上げられていくんだけど、結局それは他人と対話することを避けているわけですね。
他人と対話することを避けることで例えば高学歴が低学歴を見下すとか、政治的価値観の違う人の言うことを全く無視するとかっていうことが起きてしまうと。
それが結局分断という形で現れるわけなんですね。
共通点とは何かを考えようぜって言うともう本当に凄まじい議論の応酬が生まれるんですけど、その議論に参加しているということで一つの共同体がそこにできるんですよね。
そういう議論をしているというのは共通の価値観ですよね。
そこで何とか苦心して答えを出していこうという試みの中で、真の統一的な意見はその時には生まれないかもしれないけど、あいつのことなんて知らんよっていうふうに消費者的に分断される形ではなくなるだろうと。
そういう試みが今までケチョンケチョンにされてきたし、非常主義っていうのは大体そのようになりがちだと。個人をむしろ分断して捉えがちだと。消費しときゃ何でもいいわけですから彼らにとっては。
だからそこを変えていこうっていうところが、これまでの話の全体を想像した上で出てくるサンデルさんの言いたいことですね。
めっちゃ古典的なところというか、本来政治とはそういうものだったよねっていうのを思い出させるというか。
まさにそうですね。
みんなで考えないといけないんですよね。争いながらというか、議論しながら。それがなくなっていると言えるかもしれない。
特に個人の生活においてはほとんどそれに近くなっていて、他人がどうしてようが別に自分が自分の満足を追求できることがある種の善であるというような感じ方になっていて。
僕も半ばリベラル。個人が個人の統一的なものに支配されて自分の善を決められるよりは、それぞれが自分の善を追求していける方がはるかにいいと思ってたんですけど。
でも結局それってだから分断になってるよなっていうのは確かに思いましたね。
分断を生んでしまいますよね。しかもその理由がやっぱり楽だからなんじゃないかっていう気がして。
めんどくさいですよね。人に何か言われたら、お前そんなんじゃなくてちゃんと働き屋って言われるのだって嫌だし。
でも例えば働き屋って言われるときに、これこれこういう理由で働けないんですとか働きたいですっていうような議論をすると、今度働き屋って言ってた人がああなるほどそういう理由もあるんかっていう風に考え方が変わっていくこともあると。
54:09
その中で何か共通的に言えることがないんじゃないかって探していくアプローチでない限り、いわゆる他の人を気にするようなことはなくなるし、それは結局民主主義の分断を生むと。
だからアリストテレスまで遡って彼は言ってるんですけど、それこそが政治の主要な仕事だったはずだと。
それはねすっげー思いますね、ほんとそうだわっていう。
この共同体にとって善なるものは何かっていうのを議論していこうって言われたはずなのに、なんかその主張原理が入り込んできて、なんか自由に競争を整えたら、あとはそれぞれの人たちが自分の能力によって自分に得たいものを得る。
はいそれでいいじゃないかっていう風に流れてきたけど、それは良くないんではないかっていうのがこの話の後半部分で。
タイトルのコモングッドはいかになせるかっていうのは、そのような議論においてにしかなせないと。
だからコモングッドっていうのを誰かが制度が作って、はいコモングッドに向かって進みましょうっていうものではなくて、みんなでコモングッドについて考えていこうっていうことがコモングッドには必要なんだっていう話ですね。
おーなんかすごいですね。やっぱこの人は今回はちょっとツッコミどころは気にはなったけど、すごいですね言ってることはやはり。
はい。もちろんだから彼はそのコミュニティっていうのを大切する立場の人なんで、結論がそうなるのはもちろんそうなんですけど。
でも前半の議論をともかくして後半の議論はまさしくそうやなと。問題をついているなと。
結局その能力主義、この本のタイトルだけ見ると、能力主義なんてなくした方がいいんじゃないっていうような本に思うんですけど、そういうわけじゃないですよね。
だってさっき言ったようにお医者さんは能力がある人を選びたいわけなんで、それは別に能力があっていいんですけど。
タイトル、現代の方から見る能力主義の先生大坊さんっていう、能力主義だけで問題を解決しようとする姿勢が悪いと。
彼の鬼殺命の本かな、それをお金で買いますかか、は結局市場原理主義、市場主義じゃなくて市場だけで問題をすべて解決しようとする姿勢に問題を投げかけてるんですけど。
これも一緒なんですね。だから能力っていうものだけの一本で解決したらダメなんですね、やっぱり。それとは別軸の何か善を決める軸を持った方がいいと。
それはみんなの議論の中でしか生まれてこないんじゃないかっていう体なんで、だから能力主義だけを取り上げてこの本をやや言うのはちょっと違うんですね。
そうか、その良いこととか正しいことっていうのはそんなシンプルに考えられるもんじゃねえぞっていう。
当たり前なんだけど、やっぱりそういうことを言ってるってことなんですよね。市場に任せればいいはダメだし、能力に任せればいいはダメだし、もっとみんなで考えないとっていう。
ということですね。だから、ある種のものごとがスマートに進むためにその議論っていうものが徹底的に回避されている社会の状況があって、それはもう自分自身もそこに加担してきた感じが強くするんですよね。
57:14
最近ツイッターでもなんか違うなと思ってもスルーするんですよね。なんか一時その反論を詰めたり。
そっちの方が楽だもんってなるもん。
ツイッターという場がそれに向いてないにはあるしろ、でも人の意見に自分の意見をぶつけていくっていうこと自体をなくしてしまうのはやっぱり間違ってるでしょうし。
だから、どういうシステムがそれを解決するのかは僕にはわからないですけど、サンネルさんが危惧している議論、共通のものに向かっての議論がなくなっていく感覚っていうのは多分危ういとは思いますね。
そうですね、これもまさにその哲学のおかげというかすごい考えさせられますね。
なんかそのツイッターでやっぱり議論というものは多分無理だと思うので、その何か他の手段がいると思うんですよね。
こういう民主主義的なというか、市民たちでこういう何らかの議論をするとして。
っていうとまあじゃあどういう方法を取ったらいいのかとか、そもそもやっぱりツイッターってない方がいいんじゃないのかみたいなことにもなってくるし。
難しいんですよね。だから通りすがりで議論できちゃうんですよね、ツイッターって。だからその人のことを全然知らんと吹っかけられるんですけど。
でも逆に普段からツイッターを追っている人の場合って結構こみ入った議論もできちゃうんですよね。
そこに境界がないんですよね。いきなりの一元さんと常連さんの境界がないんで。そこがツイッターの面白いところであり難しいところなんですけども。
だからやっぱりコミュニティが閉じたものが流行ってきているっていうのは結局そういうことなんだろうなってことですよね。難しいことを言おうと思うとバックグラウンドがいる。
そうですね。そこの共有が絶対必要っていうのはあって。でもそればっかりしていると面倒くさいガヤガヤしたことを避けていると結局分断しているだけだという話で。
別の人から聞いた話なんですけど、アメリカに住んでいる方でバリバリ左の方なのかな。その人の住んでいる地域はバリバリ右やと。周りの人とは政治の話はできへんという話なんですけど。
ツリー仲間の人とは普通に喋れるんですね。ツリーの話ができるから。でも政治の話はしないと。
でも僕が思ったんですけど、政治思想の人が違う人でもツリーの話ならできるっていうのは結構でかい話だなと思うんですよね。
そうやって話しているとそこに人を感じるじゃないですか。そうすると例えば反対意見の人だって敵に思えないというか。
話を聞いてやろうってなりますよね、感情的に。
人間って自分の中に正義の感覚があると相手を悪として断罪して話なんか聞く耳持たないっていう感じになるんですけど、顔を見合わせて喋っているだけでその感覚はだいぶ和らぐんですね。
で、サンデルさんが話し合いをしようって言ってもそこにあると思ってて。
1:00:03
顔っていうか別にこうやってリアルに会う必要はないんですけど、その人の政治思想全体を含めたその人が何を考えているのかっていうところから話していければ、
今のギスギスした空気を避けつつも何か実りのある意見交換ができるようではないかなと個人的に思っているんですが。
そういうのを解決するITツールが出てきたら面白いですね。
そうですね、なんか多様な趣味で。確かに釣りで一緒に仲良くなれれば健全という言い方になるのかな。
良いきっかけですよね、そういう。
そうか、関係ない人というか共通の趣味を見出せるような人の属性が一つだけではないので、そこを踏まえていろんな人とやっぱり多様な人と知り合えるようになるような仕組みですよね。きっと欲しいのは。
そうなってきたときに、そこで意見交換とかがちゃんと醸成されていけば、あんまりにも極端な意見というのは減って、
世の中いろんな微妙な事業で動いてるんだなっていうところから話を始められるんではないかなと。
今は物事を簡単にしすぎて、背景情報とか全部もうまるっと聞き切られた上で極論と極論の戦いになってるんで、
それではもう議論もヘタクレもないよなという感じなんですが、そこを変えていった方がいいだろうなと、そういうことを考えた一冊でした。
非常に面白いんですけど、さっき言ったように、とりあえず本当に言いたいことは最後まで言わないとわからないので。
さらに言ったら、5章まではこれからの正義の話をしようと大雑把に一緒ですよね、5章ぐらいまで。
よりディープな実例が紹介されてるのと、さっき言ったように、能力主義という考え方がどのような歴史でやってきてるのかっていうのにも一生疲れてるんで、その掘り下げ部分ですね。
後半は話を聞いて、実際に話の流れとしても後半になると一気に盛り上がるっていうイメージで。
どうせ読むんやったら最初から、中盤は飛ばしてもいいですけど、最後ちょっとじっくり読まれた方が本章はつかみやすいかなと思います。
俺電子で買ったからわかんないんですけど、これって分厚いんですか?
結構分厚いです。
字のサイズも結構ちっちゃい。
376ページハードカバーで。
結構分厚めのやつですね。
だから、中盤でへこたれる可能性はあります。
話がまだ見えてこない段階でちょっと。
これからの正義の話をしように、挫折した俺のストーリーと同じだなっていう。
そこの点さえ踏まえれば、でも確かに議論に値する良い本やと思います。
感想や質問などがあれば、ハッシュタグ、カタカナでブックカタリストをつけて呟いていただけるとありがたいです。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
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