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2025-04-08 56:35

ゲスト回BC111 えむおーさんと『庭の話』

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今回は、えむおーさんをゲストにお迎えして、宇野常寛さんの『庭の話』をご紹介いただきました。

タイトルだけではなかなか伝わってこない、本書の魅力についてたくさんお話いただきました。

書誌情報

* 出版社

* 講談社

* 出版日

* 2024/12/11

* 著者

* 宇野常寛

* 目次

* #1 プラットフォームから「庭」へ

* #2 「動いている庭」と多自然ガーデニング

* #3 「庭」の条件

* #4 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ

* #5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ

* #6 「浪費」から「制作」へ

* #7 すでに回復されている「中動態の世界」

* #8 「家」から「庭」へ

* #9 孤独について

* #10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ

* #11 戦争と一人の女、疫病と一人の男

* #12 弱い自立

* #13 消費から制作へ

* #14 「庭の条件」から「人間の条件」へ

倉下の感想

帯に「庭」と「制作」の文字があったので、「庭をつくる」という話かなと勝手な先入観を抱いていたのですが、どうやら違ったようです。

まず「庭」について徹底的に考え、「庭」の限界性すらも考えた上で、「制作」へと至る。そのような議論のダイナミズムがある本なのだと理解しました。

倉下自身も、昨今のインターネットの(わりと悲惨な)状況と、自分の手で何かを「つくる」ことの意義を重ねて考えていたので、本書はぜひとも読んでみたいと思います(すでに買ってあります)。

なんにせよ、現代では「どう生きるのか」という絶対的な指針が喪失しつつあるわけですが、本書はそれを考える重要な一冊になりそうです。



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サマリー

このエピソードでは、ゲストのえむおーさんと共に、うねつねひろの著書『庭の話』について深掘りします。本書は、SNS社会における相互評価の問題点や、比喩的な2話の重要性を探る内容です。エピソードでは、庭の概念とその社会的な意味について語られます。特に、銭湯の例を通じて、関与できるが支配できない場所の重要性が強調され、現代社会におけるSNSの影響について考察されます。戦争と女性の関係についても考慮し、事物とのコミュニケーションや創作の重要性が議論されます。特に、SNSの力を弱める要素としての「2話」と創作が提案され、その深い考察が展開されます。庭の話を通じて、人間関係や公共性の重要性について考察され、SNSとの関係や教育スタイルについても触れ、孤独と創作の関連性が探求されます。リボンさんと共に『庭の話』についての意見や感想を交えながら、リスナーとの交流を図る様子が描かれています。

ゲストとの対話
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。今回は、ゲストの方に来ていただいておりまして、ゲストのえむおーさんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
経緯は、倉下さんに説明していただくのが一番いいですよね。
そうですね。えむおーさんがSNSとかご自身のセンスで、庭の話という本が面白いとおっしゃられて、感想とかでも書かれておられまして、実は僕も庭の本を買ってたんですけど、面白そうであるがゆえに読んでなかったんですよ。
ここは一回、えむおーさんに感想を聞いてから読むかどうか決めようかなと思ったので、今回はえむおーさんにお話を聞きたいなと思ってお呼びさせていただきました。
はい。同じく私も庭の話というのはタイトル以上のことを何も知らなくて、予習として以前えむおーさんがお話しされたやつだけ知っている。それ以上の予備知識は全くなしっていうので臨んでおります。
お二人が読むかどうかは私にかかっているってことですね。
まさにそういうことですね。
そうですね。めっちゃそうなっている。
頑張ります。
はい。ということで今回は111回、えむおーさんに庭の話について語っていただきたいと思います。
はい。よろしくお願いします。
はい。よろしくお願いします。では早速話をしていきます。
うねつねひろさんという方が書かれた、庭の話という本を紹介します。講談社が出てるやつですね。私がですね、まずこれを目にしたきっかけは、うのさんのノートなんです。
ノートとっておくの?
そうですね。はい。暇と退屈の倫理学って多分お二人もブックカタレンスで紹介してたと思うんですけども、私もこの本が好きでですね、一回読んで手放してもう一回買って読んでっていうのを12月にしたんですね。
で、読み終わって次一冊何を持つかなと思った時に、だまたま暇と退屈の倫理学経由なのか、ノートでうのさんが書かれた、この庭の話の解説記事っていうのかな、というのが書かれておりまして。
視聴者本人によるその本の解説みたいなやつ?
そうですね。庭の話の楽しみ方って感じなのかな。
庭の話が100倍面白くなる自己解説テキスト?
まさにそれです。
それを読んでですね、まさにその時私が思っていた、SNSの付き合い方へのヒントが得られるかなと思いまして、もうそのまま買って読んだという次第です。
まずこの帯がいいんですよ。
帯がね。
国文広一郎さんの名前が書いてあって、暇と退屈の倫理学、中道体の世界への、かつもくすべき挑戦が現れた、情報社会論より走られた、庭と政策という提案を私は目を離すことができずにいるっていうようになっていて、国文さんのファンなんですけど、私が。
国文さんが目を離さないってことはですね、これ相当面白いんだろうなと思って読んでいきました。
なるほど。
本の内容に行っていくんですけども、冒頭にですね、今日の人類社会はSNSプラットフォーム上で展開されているユーザー間の情報発信による総合評価の連鎖と、その結果としての世論形成が支配的な力を持っている。
書かれておりまして、まさに我々が、私が今感じている、SNSに感じる違和感というか問題点っていうのが、一言でズバッと書かれてるなという印象を受けました。
第1章がですね、長いんです。340ページ本があって、本自体も結構分厚いんですけど、大体他の章が30ページぐらいに対して、この章だけ50ページあるんですよね。
2つの章に分ける案もあったという話なんですが、1個の章としてバーッと書き上げてですね、この第1章がまさに問題提起。なぜ2話が必要かという話が書かれてるんですね。
なるほど。2話っていうのは、物理的な2話じゃなくて、比喩的概念としての2話っていう理解でいいですかね。
まさにそうです。比喩的な表現ですね。2話の話って出てるんですけども、SNSの力を弱める存在として、2話であると。
2話っていうのが、こういう条件ですって、またこの後紹介するんですけども、ひとまず今こんな感じで捉えてください。
SNS問題点っていうのが第1章書かれておりまして、たくさんあるんですけども、我々もたくさん感じてると思うんですが、
宇野さんはですね、人間間の相互評価が超効率的に行えるっていうのが、SNSの問題点の1つだと。
相互評価そのものじゃなくて、効率的であることが問題。
まさにそうですね。相互評価自体は必要だとも言ってるんです。ただこれがですね、SNSはもういいね1つで評価をしており、
このいいねの数で認められた感が味わえると。この辺がですね、非常に罠というか。
またですね、引用コメントっていうのも危険だっていう存在がありまして、この引用コメントっていうのがですね、誰かのポストを引用する形で自分のコメントを書くんですけども、
対して分かってなくても、なんかこう主語の大きなポストだとか、ちょっと炎上バズってる系のポストに対してですね、
軽くポンとコメントを添えて引用すると、あたかも分かってる感を出せるんですよね。
この分かってる感がですね、また自分の自己肯定感と言いますか、自分があたかも世界に触れている感覚っていうのをね、味わいさせてしまうと。
こういうコスパ良い相互評価っていうのが、SNSにも今あると。これが非常に問題だという話なんですね。
引用のコメントと相互評価っていうのは何か繋がってる感じなんですか?今の話で言うと。
えっとですね、世界に触れている感覚を味わうっていう側面が引用コメントでは強いようですね。
ちょっとこの冒頭にですね、Anywhereな人々、Somewhereな人々っていう章があるんです。
ちょっと難しくなっちゃうんですけども、要はですね、一般人である我々ですが、Somewhereな人々なんですね。
どこかで生きてる、どこかでしか生きられないという感じ。
に対してAnywhereな人々っていうのはどこでも生きられると。パソコン1個あれば世界中どこでも飛び立って仕事ができると。
そんなイメージだといいと思うんですよね。
このAnywhereな人々に対してですね、Somewhereな人々っていうのが、世界に触れている感覚。
自分が世界を動かしているとか、こういう感覚をですね、味わえないんですよ。
これがですね、SNS、Xとかを想像してもらえばいいと思うんですけども。
我々Somewhereなんですけども、どこからでもですね、数秒でこの世界に物申すことができるんですね。
しかもこれがSNSっていうのは、アカウントが発行されるわけで、我々の背景っていうのを全部排除することができるんです。
例えば身体制限とか、身体制限があるとか、あるいはどこかで住んでるとか、それでも全部取っ払ってですね、コメントだけで世界に触れている感覚を味わえる。
これが非常に超効率的に相互評価を行うっていうのを後押ししてるって形ですかね。
そういう繋がり方みたいなイメージか。
ちなみにうのさんの考え方だと、そうやってツイートしていることは世界には全然実際は触れてないぞということがあるわけですよね。
そうですね。触れている感覚っていうのは何度も出てくるんですけども、それは実際に今までは投票だったんです。
我々が政治に参加するっていうのが唯一世界に触れている感覚。
それがTwitterXが出てきた結果ですね。いつでもどこでもできるっていう感じですかね。
いつでもどこでもできたら問題があるということですね、ということは。
そうですね。できすぎてしまう。何年も世界を支配しているようにも感じてしまうみたいな。
実際には支配してないというふうに言ってるんですけど。
まあそうでしょうね、そりゃ。
そんなとこですかね。
なるほど。
またですね、このSNS問題点のもう1個目はですね、こういった人間間の相互評価超効率が行えるってものの他に、
実はその現状っていうのはユーザーからのボトムアップで作られてるっていうところなんですね。
もともとTwitterはね、もっともっとギークな世界のツールだったと思うんですけども、
それがいつしか市民権得てですね、いろんな人が使うようになって、
いろんな使い方の可能性があったと思うんですけども、
今の使い方っていうのを、要はいいね、バズる、引用コメント、炎上みたいな、
誰かの生き死にに影響してしまうようなツールになってしまってるっていうのは、
ユーザーからのボトムアップで作られてるっていうのも、この後つながってくる問題点の1つなんですよね。
つまり僕らのニーズを無視してるわけじゃなくて、むしろ僕らのニーズに寄り添ってるからこの形になっているということですか。
まさにその通りです。
なるほど。
今この2つが問題点っていうふうに分析してます。
2話の導入
はい。
このSNSに対する解決策っていうんで、いくつかあるわけですよ。
はい。
今2つ紹介するんですけども、この2つを紹介して、解決策としてあるよねってありながら、
でもそれって解決策になってないよねっていうのが書かれてました。
なるほど。
これもなるほどなと思ったんですけども、まずオンライン上のSNSっていうのを物に対する解決策として、
SNS辞めて街に出ようっていう解決策があるんですね。
はい、わかります。
オフラインで人と会おうみたいな。
これはですね、解決になってないと。
なんでかっていうと、SNSの問題点っていうのは人間間の相互評価っていうのが超効率的に行われることであって、
SNSの問題点を解決するためには力を弱める必要があると。
この人と会ってもですね、力を弱めることにはつながってないんですと。
なるほど。
そうですね。で、街に出ても、我々結局その街をですね、スマホを通して見ちゃってるので、
例えばツイッターでバズった場所とか、バイオスポットとか、そんな風に見てしまっていると。
結局それをポストすることによって人間間の相互評価ってまた怒られてしまうので。
むしろ街に出てSNSをしているだけだと。
その通りです。
だから解決になってないよってとこなんですよね。
もう一個はですね、Xなんかがやり玉になるんですけども、
このプラットフォーム側が悪いだろうと。
プラットフォーム側を変えるとか、色マスクを排除するみたいな、そんな解決策も上がるんだけども、
先ほど言った通りに、Xインスタグラムの今の現状っていうのはですね、
ユーザーからのボトムアップで作られているので、結局それは解決になってないと。
その人たちがいなくなったとしても状況は変わらないだろうと。
そうですね。で、SNSを新しく作り変えたところで、結局我々のニーズが変わるわけじゃないので、
同じ道を辿ってしまうだろうというところが挙げられてるんですね。
視聴者がそう考えているということですね。
そうですね。で、この2つですね。
じゃあどうするかっていう解決策として提示されているのが2話なんです。
そこに2話が出てくるわけですね。
人間間の相互評価の力を弱める存在として、相互評価ゲームをですね、相対化っていうふうにキーワードが出てくるんですけども、
するものとして、今我々は2話が必要であるというふうに提示されています。
で、じゃあ2話って何かって話なんです。
はい。
で、キーワードはですね、いろいろ書いてあるんですけども、自分がしっかりと関与できるが、支配できない場なんですね。
なるほど。
ちょっと2話を想像してもらうとですね、私たちこの庭に草木を植えることはできるんですよね。
そうですね。
自分の庭、自分の庭に花を植えるとか、そういったふうに関与することはできると。
ただ実は一方で支配はできないっていうんです。
何かっていうと、庭っていうのは常に外の世界に晒されているので、虫が来るし、雑草の種は飛んでくるし、
どんどんどんどんこの外部からいろんな生命体というか、いろんな影響が来てですね、
この花だけを育てたいんだけども、周りに草花、別の草花が育ってきてしまうっていうふうになっていて、
支配はできないと。
この関与できるが支配できない場という存在が、私たちに何ができて、何ができないのかっていうのを再確認させてくれるっていうんですね。
SNSの影響と庭の定義
それがまさにSNS相対化させる、SNSだけの力を弱める存在になるだろうっていう話なんです。
ちなみにその庭の定義じゃないですけど、性質の一つが関与はできるが支配はできない性質を持ったもの、
ないしは場所みたいなのを庭と書きかっこつきで呼んでいるということですか。
そうですね。
SNSって案外それ自体が関与はできて支配ができない場みたいな印象があったりするんですけど、
これですね、タイムラインとかで見ると結構そんな感じはするんですけども、
でも実はSNSっていろんな意見が出ていそうで、意見が多様化しないんですよね。
結局バズる、炎上みたいな強い言葉のものに囚われてしまって、
我々がですね、こう言えばみんなが反応するだろうっていうふうに自然と思考がそっちに寄ってしまうと。
だから全然意見が多様化するどころか、一歩になってしまっていて、関与もできてない状態。
関与もできないし支配もできない場所。
なんかそんな感じの案だって話なんですよね。
逆に僕らはでも、僕らがむしろあそこは支配されている場所ですね。むしろ。
そうなんです。しかもなのに支配できてる感があるんですよ。
感がある、なるほどなるほど。
非常にそこは厄介だっていうところなんですよね。
でじゃあ、もうちょっと関与できるが支配できない場所っていう具体例なんですけども、
銭湯の例とその社会的役割
これがですね、ちょっと面白い。銭湯。
お風呂屋さん。
まさか庭の話を読んで銭湯の話が出てくるとは思わなかったんですけど、
銭湯はですね、ちょっと想像をまたしてほしいんですが、
我々ここ行くじゃないですか。行くとする。お風呂入ります。
まず誰もがですね、着飾らないんですよ。
そうだね、着飾られないよね。
あるがままの世界っていうのを押し付けるわけですよね。
拒否できひんもんね、確かに。
しかもですね、その場にいる方々と交流といっても、
顔なじみが目と目を合わせて営釈するぐらい。
なるほど。
それぐらいの交流しかないと。でもそれが実は関与できてるんですよね。
なるほど。
ちょっとこう言って、あいつもの人がいるなとか、
あるいはなんていうかな、今日はこの人来てないなとか、
声をかけるわけでもなくけども、
ここに一種のちょっとした社会というか、
それがいろんな常に外にさらけ出されてるような庭っていうのに今つながってくる。
例えばその話を受けて考えると、
銭湯っていうのが庭であれば、
対比的に自分の家のお風呂っていうのは庭ではないってことですよね。
つまり支配できてしまいますね、自分のお風呂の中っていうのは。
言われてみれば確かにそうですね。
だから同じお湯に浸かるという行為の中でも、
そのある種の公共性に半分開かれた場所っていうのが、
庭性を持つということですね。
もうそうなんです。
くらえさん読みました?これ。
読んでないから聞いてるんですよ。はい、どうぞ。
その半分開かれてるってやっぱりその通りで、
家じゃダメなんですよね。開かれてないから。
なるほど。
で、庭の外じゃダメなんですよ。
開かれすぎちゃってるんで。
なるほどね。シェアハウスとかは?
これはどうなんだろうな。
ちょっと庭。でもだいぶ特殊性の強い庭ですよね。
でも確かに自分の部屋と公共性の間にある場所だから、
そこで運用されてるルール次第によっては、
庭性を帯びる気はなんとなく予想できるね。
いや、でももしかしたらですよ、
そこは支配できちゃうかもしれませんよね。
そうか、権力関係によって支配できる場合があるかもしれないね。
それはあり得る。
確かに。
やっぱりその外に開かれてるっていうのが大事かもしれません。
そうかそうか、確かに。
偶発性、偶然の出会いみたいなものが起こりうたりする。
シェアハウスは普通起こり得ないっすね。
確かに。
反公共性っていうのも結構実は大事なキーワードなんですよね。
で、あともう一個の無事なの庭っていうある福祉施設なんですけども、
小民家なんですね。
で、そこをこの庭たりうる社会福祉施設っていうのかな、
その小民家で来る患者さんと施設の人がいるんです。
そこでは一般的な仕事が難しい方々が、
いろんな内職っていうんですかね、
ちょっと仕事をしてくと。
それはみんなで同じことをするんじゃなくてですね、
それぞれの場所でそれぞれが好きかってやってるんです。
で、互いに交流はないんですね。
ただ何人かは同じ作業をしているんです。
で、何人かは一人でやってるんです。
この辺が、大丈夫ですかね。
はい。
この辺がですね、反公共性、半分開かれた社会っていうのに繋がってくる。
なるほど。
面白い実験、実験というか面白い場所なんですよねっていうのを紹介されてました。
という形でですね、銭湯と無事なの庭と、
今言った関与できるが支配できない場っていう存在が、
このSNSの力を弱める存在として提示されてるんですね。
ちなみにですけど、本に書かれてあるかどうかわかりませんけど、
共同体と孤独の考察
私たちの人類の始まりから、こちら今に至るまで、
その庭的なものは一般的な存在やったのか、
それとも今特殊に必要とされているものなのか、
著者はどう考えてるんですよね。
もともと人類が持ってたのに失われていると考えているのか、
今新たに必要になっているものだと考えられているのか、
どういう位置づけなんかなっていうのがちょっと疑問やったんですけど。
なるほどね。
その辺りは、今だからより必要って感じですかね。
なるほど、はい。
このSNSっていうのが存在した結果、
そういう場所が今まで以上に必要になってきた、
な感じでいいのかなと思うんです。
はい。
イメージとしては、昔はほとんどのものが庭的なものだったんじゃないのかなっていう印象はあって、
現代が家が子になって、社会全体も子になって、
閉じてきているが故に、もうちょっと開かれているものが重要なんじゃって言いたいんじゃないかっていう感じのことを予想してました。
なるほど。
こんな感じで話をするとですね、
ご近所付き合いだとか、そういったものが庭になり得るのかななんてちょっと思うんです。
はい。
で、それがですね、全く違うと。
ダメなんだ。
なるほど。
僕もこれ読んでてですね、なるほどなと。
じゃあ隣近所と反公共性ということだから、庭に出て話すればいいんかななんてちょっと思ったんですけども、
これはむしろダメなんだという話がありまして。
なるほど。
共同体っていう話で出てくるんですね。
うんうん。
脱SNSとしてよく言われるのが、SNSやめて街に出ようとか、
人とのオフラインのつながりを強くしようとかっていうふうに言われるんですけども、
そもそも人とのつながりっていうのはSNSは強いんですよね。
うんうんうん。
オフラインで会うっていうのは、つながり自体の力を弱めるわけじゃないので、
必要なのはこの共同体回帰、人とオフラインで会おうじゃなく全く逆の視点なんですと。
むしろこの共同体回帰は危険だって話なんですね。
なるほど。
教員の私とすればですね、ちょっとびっくりしたんですけども、ぐさっときたんですけども、
ちょっと学校の先生目線の話しますね。
我々先生結構ですね、クラスで仲良くとか言うんですよ。
みんなで協力しようって言うんですよ。
で、ただこれがいじめ生むんだと。
帰ってきたウルトラマンっていう、ありますよね。
その中の一つ、怪獣使いと少年っていうですね、お話がありまして、
これ調べてみたら結構深い話だったんですけども、
簡単に言うと、村社会なんです。
小さな村があって、そこに男の子と宇宙人がいると。
で、宇宙人と男の子は仲が良くなるんですね。
で、ある時男の子が宇宙人のためにパンを買おうと思うんです。
で、パンを買いに行ったらですね、パン売ってくれないんですよ。
なんでかっていうと、宇宙人のために買うんだろうと。
で、宇宙人なんかダメだろうと。
ウルトラマンにとっては、宇宙人って倒すべき存在なんで。
だからですね、男の子はですね、パンすら買えなくなってしまうんです。
で、そういう、これが共同体なんだぞと。
人との繋がりっていうのがある。
で、それをですね、小さな村の単位で考えていくと、
結局その空気読むだとか、
なってしまって、それがいじめの温床になってしまう。
それをなくすために、我々は100円あれば、
誰でもパンが買える社会っていうのを資本主義で勝ち取ったんだと。
にもかかわらず、お前たちだと。私たち先生です。
みんなで仲良くって、また共同体回帰させるのかと。
すごくその反省はしました、そこで。
なるほど。でも、他の人と仲良くすることそのものが悪いことではないような気がするんですけどね。
これがですね、基本的にこの共同体社会で得をするのは、強者なんですって。
まあそうでしょうね。
だから弱者っていうのはですね、助け合えることができないんですね。
例えば、力のある人が、余裕のある人が助けましょうと。
それはまあいいことのように思えるんですけども、
人はですね、これは私の意見なんですけど、
道徳の得じゃなく、尊徳の得できると思ってるんで、
助けてくれない人をですね、いつまでも助けてくれないんですよ。
つまり、お互いの助け合いの交換が続いている間はいいけど、
片っぽだけがずっと立たせ続ける関係は永続しないだろうということですね。
そうですね。
だから、例えば身体的な制限があるとか、言語的な言葉が通じないとか、
いろんなことがあると思うんですけども、結局そういうものですね。
助け合うことに参加できない人っていうのが、
我々、排除させた、よくある凶悪事件の犯罪者の人っていうのを背景で例えてみると、
孤独だったみたいな。
だから、みんなで仲良くしていこうよみたいな感じで言われるんだけども、
大事なのは、孤独でも生きられる社会じゃないのって話なんですね。
そうですね、確かに。
で、その孤独っていうのが次のキーワードになるんですけども、
孤独のグルメっていうドラマ、お二人は知ってますか?
知ってます。多分全部見てます。
大好きなんですよ、私も。
あそこはですね、あれで行われてる、おじさんがご飯食べて、
ご飯との、これがうまいっていうだけのドラマなんですけども、
なんか惹かれちゃうんですよね。
これなんでかなって思うとですね、そこはご飯という事物とのコミュニケーションっていうのがあるわけなんです。
事物とのコミュニケーションか。
孤独っていうのは、事物とのコミュニケーションを生むんですよね。
おっしゃりたいことはわかりますが、逆に言うと、
人とコミュニケーションしている人は事物とのコミュニケーションが生まれがたいという話が背景にはあるんですかね、それは。
そうですね。
孤独…
孤独でないと生まれにくいかな。
人とのコミュニケーションがいっぱいだから、事物とコミュニケーションする余裕がなさそうだみたいなイメージかも。
そうですね、そんなニュアンスですかね。
人間間の相互評価っていうのが、SNSは強みだって話をしたと思うんだけども、
この事物とのコミュニケーションっていうのはですね、その人間間の評価っていうのは繋がらないので、
この事物とのコミュニケーションっていうのが、SNSの力を弱めるキーワードなんだっていうんで、
2話の条件と戦争
ここでですね、2話の条件っていうのに、さっきの関与できるが支配できない場に、
事物とのコミュニケーションをする場というキーワードが追加されるわけなんですね。
はい、なるほど。
じゃあ、この関与できるが支配できない場、事物とのコミュニケーションをする場、こういう2話ですね、
先頭だとか、そういったものをいろんな社会に、それぞれに用意すればいいのかっていうのが、
ここから推測されるわけなんですけど、2話の話ですし、
SNSの力を弱める存在としての2話っていう提案なんで、
そうかそうかと、じゃあ2話を作り続けていけばいいんだななんていうふうに思うんですけども、
これがですね、もう後半になってきて、戦争と女の話、戦争と女っていう章があるんです。
ここ急になんか文章体変わるんですけども、
戦争と女っていう小説があるらしいんですね。
なるほど。
これを使って紹介してるんですけども、
実は関与できるが支配できない場とか、事物とのコミュニケーションの場としての2話っていうのを考えてたんだと、解決策として。
で、いろいろ考えた結果、実はそれはふさわしくないと。
なんでかっていうと、我々はこの関与できるが支配できない場とか、事物とのコミュニケーションをする場っていうのが究極的に存在している状態を知ってると。
それが戦争だって言うんですよね。
戦争状態中。
そうですね。
これはですね、生きるか死ぬかみたいな世界でですね、関与できる支配できない、確か2話の条件を全部取り揃えてるんだけども、
これが解決策であってはずがないって話なんです。
まあそうですね。
あってほしくはないですね。
だから今までずっと丁寧にですね、2話っていうのはこういう存在で、こういうのが大事で、こういう条件があるから、これをやってSNSの力を上げていこうっていうふうに考えていったのに、
たどり着いたら戦争だった。
戦争だったと。やっぱりダメでしたっていうのがこの本なんです。
創作の重要性
なるほど。
これはですね、私の意見なんですけど、痺れました。
全体の14章のうちその章が11章に位置付けられるわけですが、もうそれは失敗でしたで最後までいくんですか?
何かあるんですかね、その後。
失敗なんです。
失敗で終わるんですね。
なるほど。
こんなに丁寧に書かれてるのに考察してるのに。
なんかね、2話で終わりですっていう話も考えたらしいんですけども、
それじゃダメなんだと。やっぱり批評家なんでこの人、UNOさんって。
ちゃんと批評してくって、自分の意見もちょっと批評してって言うんで、
これはダメだって言うんで、そこにですね、2話は大事なんですと。
だけど2話だけじゃうまくいかないんで、もう一個キーワードを付け足しますっていうのがこの第2章なんですね。
12章から始まる。
12、13、14っていうんで書かれてるところになります。
ここがですね、創作なんですね。
そうか、じゃあタイトルは2話の話なんだけど、本当は2話では足りないからあと3章書きました話なんですね。
そうなんです。
この国文さんのさっき冒頭言った帯に、2話と製作という提案っていうのがあってまして。
確かに。
これの製作っていうのは創作。2話だけでは不十分なんで、っていうんで創作を取り入れようっていうようなんですね。
そういうことなのか。2話を製作することじゃないのか。2話と製作は別の話なんですね。
そうなんです。
そうなんや。はい、なるほど。
じゃあ創作って何かって言うと、国文さんがひまと大学の倫理学でちょっと触れてるんですよ、創作っていうのを。
はい。
で、この創作っていうのは何かを作ることで、そのまま。それはもうまさにですね、事物とのコミュニケーションを生み出すんですね。
で、ものづくりってちょっとやってみるとわかるんですけども、関与できると支配できないんですよ。
意外に自分の理想のものを作るって無理なんですよね。自分の影響力の有限性も自覚させるんです。
うん、確かに。
しかも創作のいいところって満足できないんです。
ああ、確かにね。
理想のものって完成しないんですよね。
常に作り続けていくので、ひまと大学の倫理学で満足を生み出さないから、記号的消費が終わらないっていう風にあったと思うんですけど、満足できないっていうのは結構負の意味で使われてたんですけど、確か。
ここではですね、満足できないから、事物とのコミュニケーションを熱中し続けることができるっていう風になってるんですね。
なるほど。
で、私の話になっちゃうんですけど、創作と聞いてですね、ああと思うわけですよ。
創作してたんです、私。
自作ツールの話なんですね。
なるほど。
ああ、そういえばめっちゃ熱中されてましたね。
本当に、今はコードを書いてないんですけども、あの時期ですね、めちゃめちゃハマっていて、毎日夢中になってコードを書いている時期があったんですね。
それは間違いなく事物とのコミュニケーションがあったんです。
事物っていうのはアプリですね。
自分はどういう見た目がいいのかとか、どんな機能が欲しいのかとか、それはどういうコードで実装できるのかとか、もう夢中になって作ってる時期がありまして、これはですね、人間科の総評価なんて入りっこないんですよ。
まあ誰かに褒められたくてやってるわけではないですよね。
そうなんです。
だから、なるほど、創作って確かに、なるほどななんて思ってですね。
あと、もう一個の話をするとですね、数学の話にもつなげたいんですけども、私は数学の教師なんですが、数学の問題を解いている時って、私は制作、創作に近いねって感じてるんですよね。
なるほど。
なんかもう夢中で解いてるんですよ。
解きながら、条件は何かな、これならこれが使えるかなって動かしてみて、2個3個と次に繋がる道があったらですね、さあどこに行こうかとか考えて、こっち行ってみて、あ、ダメだ、また元に戻ろうみたいな。
平気で1時間2時間かかっちゃうんですよね。
この数学もですね、実は自分の回答を創作するというか。
なるほどね。
解法を制作、創作するって意味では通じるものがあるんかななんて思いまして、もう疲れていてもついやっちゃうんですよ。
自作ツールも数学もですね、夜寝ながら考えちゃうんですよ。
うん。
あ、これがいいかなとか。
もう本当そこはですね、私とコード、私と数学っていうコミュニケーションっていうのが存在してるななんて思ってですね。
だから私、2話っていう話も非常にしっくりきたんですけども、創作っていうのも非常に大事だなと。
2話と創作っていうのを2つ提案されていましたけども、この2つがSNSの力を弱めるって意味では確かに納得だんかなっていうのが読んだ感想です。
SNSの影響
ちなみに弱めるとおっしゃってたんで、つまり抹消せよとは言ってないわけですよね、当然のように。
言ってないですね。
だから言ったら相互承認も1つの枠組みとして必要という認識があるわけですよね、ギット。
そうだと思います。
だから相互承認と2話と製作の3本柱がバランスよく走っているのが良い状況というような想定なんでしょうかね。
そうですね、多分これ片っぽじゃダメなんですよね。
なるほど。
両輪というかその良いバランス。やっぱりSNSの力をなくすじゃなくて弱めるっていうふうに書いてるのはそういう意味があるんかななんて感じましたね。
あと事物とのコミュニケーションのそのコミュニケーションは内容が定義されてます。それかコミュニケーションっぽいものみたいな認識でいいんですかね。
これちょっと読んだんですけども定義はされてないと思います。
僕らがコミュニケーションとしてイメージできるようなものでいいということなんですね。
そうですね。
言葉による意思思想などの伝達。
ここで言葉を使わへんわけやん、基本的に言うと。例えば使わへんわけじゃないけど、事物から言葉が返ってくるわけじゃないから、それはどうなん?それはコミュニケーション、言語的なあれ…。
いくつか辞書を見てみると言葉文字微振りなどによって意思感情思考情報などを伝達交換することとか、動物同士の間で行われる微振りや音声などによる情報伝達とかも、人間同士みたいな言い方をしている辞書もあるか。
難しいよね。事物そのものは意思の発表面をしない存在を事物というわけで、例えば事物とのコミュニケーションって聞いて、それがどんなものだろうかとイメージできる場合とできない場合がありそうな気がしますけどね。僕はなんとなく言いたいことはわかりますけども。
なんか思ったのはですね、数学の作家のどっちに進もうかなーにもあると思うんだけども、結局自分自身が書いてるんで、本当は自分自身がコントロールできてるはずなんですけども、書いたことないけど小説なんかもそれに近いと思うんです。
キャラクターが勝手に動き出すって感じで、作っていく過程でですね、向こう側からあるベクトルが来るんですよね。ずっとまっすぐ進むんじゃなくて、ちょっとずつ曲がっていったりとか、あるいはフィギュアなんかも作ったことないんですけど、作ると多分ここ削りたくなるとか。
なるほどね。促されると。
促されるそうですね。促されるものっていうのがコミュニケーションたるものなんかなーなんて思いました。
なるほどね。だから逆に言うと、ジブスとのコミュニケーションから僕たちの人間のコミュニケーションを考えることも多分できるでしょうね。おそらくは。
そうですね。確かにそうですね。
例えば僕らがこうやって二人喋っている時に、実はお互いに影響を受け合って喋り続けているってことが多分起きてて、相手を支配しようと思ってもおそらくそれはできないみたいな観点から対人のコミュニケーションも多分考えられそうですね。
対話ですよね。
うんうんうんうん、なるほど。
多分その私がこう喋ってて、Aって方向に向かおうとしていても、多分誰かのコメント、問い、そういったもので多分BとかCにもう常になりうるんですよね。
多分それがまたその、申し上げたようにジブスのコミュニケーションが人同士のコミュニケーションにまあ多分そっちにも影響するでしょうし、
SNSはそれがないんでしょうね。
まあないわけではないけど起こりにくい、ないでしょう、抑制されている印象はありますね。
早すぎるなって印象がありますね。
早すぎるし、情報量が少なすぎるっていうこともあるんでしょうね、きっとね。
まあ著者の意見でいうのはあれですよね、やっぱその評価しか重視されなくなってしまって、何て言うんだろう、その意思疎通ではないことが目的化している気がする。
まあ代表例が論破ですよね、論破は絶コミュニケーションの表明ですかそれは。
論破した方がいっぱいいいねもらえるから、やっぱそこに頑張った方が、何て言うんだろう、ちゃんと対話をするよりも満足度が高い。
満足度が高いっていうことがあるっていう、コスパ的に承認欲求を満たせるのが、実はコミュニケーションしない方が得っていうのが、そういうルールのゲームがSNSでは行われやすいということがあるんでしょうね。
すごいですね、ソーシャルネットワークなのに、なんかちょっとまあ当初思い描いてた形とは違うんかななんて。
でもまさにだからそれがソーシャルネットワーク。
社会のネットワークはそこだった。
うのさんが近所付き合いを禁じてたのは、近所付き合いこそが監視権力になるからですね、お互いのあの人がいい人やからとかいう理由で誰かに権力が集まって人気投票に、近所付き合いこそが多分その根源にある。
それを僕らはSNSを拡大して、ただその村ゲームをでかいプラットフォームでやってるだけの話っていうことでしょきっと。
そうですね、村なんですよ。
庭と人間関係の再構築
巨大な村っていうだけのことを、だから僕らが共同体を意識すると常に村意識に引っ張られるから、そうじゃない形の人間関係を回復しようっていう提案なんだと予想しますけども。
そうですね、その提案としてその庭と製作っていう、創作っていう、まさにそうでした。
やっぱ切り口が、切り口っていうか出てきた答えが暇と退屈の倫理学に帰ってくるんだなっていう感じがして。
そうなんです、私も読んでて、ちょっと途中に出てくるんですよ、一回国文さんの話は。
一回置かれるんですね、置いといてって形で。
最終的にまたその国文さんの話にまた戻ろうっていうんで、その庭の話が終わった時にちょっともう一回国文さんの話に戻ってみようっていうんで戻ってきて。
その続編とまで言わないんですけども、結構セットで読むといろんな気づきがあるんじゃないかななんて思いました。
あとまあ庭って場所の話だと思うんですけど、半分開かれた公共性の話って、これ実は訂正可能性の哲学とも多分つながる感じが話を聞いてて思ったんですけど。
訂正可能性って言ったら、いつでも誰かに訂正される可能性があるということは、つまり対象を支配しきれないことってことなんですね。
例えば他の人が何か言う、あるいは明日の自分が違うことを考えるっていう可能性に開かれているということは、これは支配しきれていないということなんで、この東さんの思想とも何かつながりを僕はちょっと聞きながら感じてました。
あれですね、現代のそういう感じの哲学思想系の人たちが案外似たような答えみたい、答えではないんだけど解決のヒントみたいなものを見出しているかもしれない。
その辺でまた新しい論が立てられそうな気もしますが、でもやっぱり庭を製作する話だと思ってたんで、違う話だったんだってわかったのは非常に良い。
タイトル見ても何もわからんすよね。こんなわからないタイトルないわって思うんだけど。
SNSと教育の関連性
僕、タイトルはそうなんですよ。これ手に取る人いるんですかね。
タイトルだけで手に取ることは多分ないんじゃない。やっぱり宇野さんの新作やからで買う人が多いと思いますけども、その口ですけど。
SNSに対する疑問っていうのをさっき冒頭に言ったと思うんですけども、ツイッターを辞めたっていう経緯があったんですけども、この本を読みながらなんですが、SNSどうかしたいなーなんて思っていて手に取ったんです。
でも多分手に取るタイトルじゃないんですよ。
全然違うよね。
もう少しそのタイトルだけについて言えばあったのかな、どうなのかな。
まあそうね、これはまあそうよね。
まあ、編集者が提案したら違うタイトルになりそうな気はするけども、これどっかの連載をまとめた本ですよね確か。
そうですね、そうですね。
その連載の時のタイトルをそのまま使った。で、おそらくその連載の1回目を書いてた時は、最後まで2話で行けるという感じだったと思うんで。
書きながら著者が考えた経緯なので、その2話が戦争に繋がるっていう発見が多分第1回目のビジョンではなかったから、このタイトルになったんでしょうし、それが最後まで行ったということだと思いますけど。
いや非常に、非常にこうなんだろうな、結構難しかったんです、私にとっては。
だから、あのー、なんていうのかな、この、ちょっと自分でこれチャレンジしようと思って、
まあ、ブックカタリストで話をしているという、この状況がまたチャレンジなんですけども、
読んだ本について語ろうと思った時に、結構いろんなところに行くんですよ、この本が。
ほうほうほう。
で、多分語れなかったところもたくさんあると思うんですよね。でも語る上で私はですね、ちょっと全部を語るのは無理だと思ったんで、
引き算してたんですね。この引き算が非常に自分の理解に助かって、
読んじゃあ目次戻って、この今の内容は、この本のどういう立ち位置なのかと。
で、じゃあこれは何だろうな、引き算した方がいいのかどうかっていうのは常に自分に問いかけながら読んでいった結果、
まあ理解、理解というか自分なりの解釈ができたなっていう意味では非常に良い経験になりました。
うーん、まあだから別に前編、SNSがどうかという話じゃなくて、いろんな話題が出ている本ということですよね。
そうですね、もう途中忘れちゃいますもん。
そうか。非常に読むゲージがかなり高まりましたけど、教員をされているということで、
例えば自分の今後の教育スタイルと、この2話や制作の話が何か結びつくのか、あるいはもう全然違う領域に落ち着いたのか、
その辺だけちょっと聞かせていただければ。
そうですね、まあもともと私が教員っていう存在、私にとっての教員という存在と、
多分SNSっていう存在が全く離れて存在しているので、
この2話の話って多分だいぶプライベート、私のSNSに対する付け方っていうのを考えさせてくれたんで、
生徒がどうこうっていうのはあんま思わなかったですね。
教育という営みと、例えば2話とか制作みたいなのに関連はありました?
孤独でいいんだっていうのは非常に良い発見でした。
ああ、だからまあ仲良くさせなくてもいいみたいな感じ。
むしろその側面を強く押しすぎてしまってはいけないなっていう。
なるほど。
仲良くさせようとするから、生きない人たちが出てきて、
そういう人たちを追い詰めてしまう側面があってはダメだなと。
なるほど。
そういう反省はありましたね。
じゃあ孤独な立場にいる人がいたときには何か制作を進めるということになるのかな?
ちょっと前に話題になったんですけども、
昼休みに本読んでる子に対して、みんなで遊ぼうよっていう。
おせっかいやない。
本当にそれはやめようって話になったんですね。
ツイッター上で。
それぞれ好きなことやってるんだから認めていこうよなんて話になったんですけども、
多分そういうのに通じるんかな。
そうか、そうか。
でも日本の昔の価値観では、みんなで一緒に遊ぼうよが道徳的にたらしとされてきたわけですね。
熱血の鬱陶しい先生が構ってくるって感じ。
村社会の影響と制作
ムラですよね。
そういうメンタリティでSNS使ったらそれはひどいことにはなりますよね。
結構、宇野さんの話ってグサグサくるんですけど、
宇野さんの教育に対する考え方って、
これもまた聞いててそうだよな、そうだけど宇野さんならそういうよなっていうふうに納得したんですけど、
今の教員は全員クビにしろと。
村社会で育っている、村という学校で育っている先生が、
村から脱出することができないっていうふうに言ってて、
これは実現は難しいだろうし、
これを怪盗するのは厳しいと思うんだけども、宇野さんならそう言うだろうなと納得はしました。
ちなみにご自身の、自分自身とか周りにいらっしゃる先生とかを見た時に、
やっぱり村意識が強い感じはありますか?
もうね、どんどん減ってきましたね。
でしょうね。
僕の感じでも、例えば物理の先生とかってもう唯我独尊みたいな感じの人で、
村意識ゼロやった。
教える教科とかにもよるかもしれないですけど、そんなに村っぽい人たちばかりではないかなという予想はありますけど。
小中になればなるほど、結構村の力が強いんだろうな。
小学校、中学校、そうだと。
中学校イメージなんですけど、半分の先生は村だった。
ああ、そうか。
高校からか。
高校は、あとさらに多分高校によってすごく色が強まってくると思う。
確かに確かに、そりゃそうだ。
それの納得したのは、やっぱり教者だったんだろうなっていう先生が。
まあ、そうやね。そりゃそうだ。
経営のコミュニケーション能力があって、ご自身の学校、学生時代もですね、きっと教者的な立場だったんだろうし。
だからこそ先生になって。
そして今、それを強要してはいかんと。
そう。小学生の頃、学校が嫌いだった人が先生になる可能性はかなり低いですもんね。
かなり低いですね。
そうか。僕らの時代だとちょうどGTOみたいなヤンキーが先生になるっていうんで、村社会を破壊するみたいなが一つの。
転機になったのかもしれないですね。
サブカルチャーがありましたよね、あの時代は。
確かにありましたね。
なんかね、読書感想文とかもそうだしね、なんかそのね、道徳的な文章を読まされて感想を書かされるのとかね、すげー嫌いでね。
だいぶそういうので悪いこと書いて先生に嫌われたりとかもあったしね。
だから一般的に多くの場合、僕らが成人する段階で村社会的な文化価値を染み込ませて大人になってくる以上、どこかでそれを脱色するというか、
少し抜くための何かが必要で、そのために作るっていう、制作してみることをチャレンジするっていうのは多分バランスを取る上ではなんか良さそうな感じがしますね。
あとMOさんの話聞くと、数学の問題に熱中できることで既に一部解決できているわけで。
確かに。
もうまんま自分の職業とストレートに繋がっとるやんっていう印象で。
ほんまや。
これが本当びっくりするんですけど、関与できるが支配できない場っていうのを考えた時に、私高校の担任してるんですけど、進路指導がまさにこれなんですよね。
その生徒、学生に関与はできるんだけど支配できない。だからこそ関与できた時の喜びみたいなのがあるんですよ。
逆説的にね、確かに。
家に帰る場合は一人で数学やって、これはSNSやったほうがいいんじゃないかっていうぐらい。
そうそう。だから思ったんですよね。ある種作ることに熱中するっていうのはある種自閉モードに入るわけですよね。
それは社会的な相互運用の中から弾かれてしまうことで、そればっかりっていうのはやっぱりちょっと問題があるんじゃないかなと。
でも勉強の哲学なんじゃないかなと思ったんですけど。
そのキモいのをどこかできっと抜け出すはずで、あとその段階はきっとキモいんですよ。
だからすごくある時期自閉的になっていって、SNSに帰ってくるとバランスよく使えるようになるっていうビジョンが描けるのかな。
かもしれない。
今、SNSを辞めたわけじゃなく、BlueSkyとかMixi2なんかをやってるんですけども、非常にうまく使えてるなって感じはあります。
なるほどね。
いい距離感っていうかな。
やっぱりプラットフォームの差っていうのもゼロではないということですよね。
それは感じるんですけど、ただおそらく10年、20年すれば戻すか。
同じになる気がする。
Mixi2は永遠にならないと思うよ。
Mixi2はならないし。
なる前に潰れるっていう。
そういう意味ね。
BlueSkyが人口が増えたら同じようになるでしょうね。
M5さんとかの場合、人間関係を違う場所に移っているから、そういうのでやっぱりやり方が変わりますよね。
そうですね。確かにね。
X、Twitterも教員アカウントっていうのがいっぱいありまして、その方々が作り出す空気感って出来ちゃうんですよ。
そこに村ができる。
村ができたんです。村のボスみたいなのがいてですね。
もしかしたら私もその中の人にだったかもしれないんですけど、Aと言ったらやっぱりAってついてくる。
なるほど。
逆に引用コメントでBって言ってくる。
はい、わかります。
なんかね、結局AかBしか離れられないんですよ。
なるほどね。
そのタイムラインが。
もういいかなって。
そうか。だから、関与できるか支配できないような、そのサプライズ、驚き、嬉しさみたいなのもそこのタイムラインではなかったわけですね。
関与できなくなってしまったんじゃないですか。その感じで言うと。
そうですね。確かに。
でも全然否定はしないんですけどね。SNSを否定するわけじゃないんですけども。
否定するのは村社会空気ですよね。
そうですね。
そんなとこですかね。だいたい。
リスナーとの交流
はい、ということで今回のご意見ご感想ありましたらお便りフォームやツイッターやブルース会のハッシュタグ、カタカナ、ブックカタリストにお寄せください。
今回はゲスト会なので多分感想がすごく喜ばれると思います。
よろしくお願いします。
リボンさんはツイッターに感想してもらっても見つけられるんですか?
見つけられない。確かに。
確かにそうですね。
じゃあ見つけたら個別に文章だけ引用しておくれます。
ありがとうございます。
ブルース会なら見つけられる。
ブルース会なら見つけられます。
じゃあブルース会のほうがいいですね。
ありがとうございます。
はい、ということでブックカタリストサポーターも募集しておりますのでよかったら概要欄などご覧ください。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
56:35

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