変化を感じる瞬間
こんにちは、いわみです。
2月12日の水曜日、いかがお過ごしでしょうか。
こちらはちょっと雨が降ってますね。
相変わらず寒いですが。
ちょっと前の配信で、雑談を少なめにして、本題をキュッと喋るっていうテーマにしたいと話したんですけど、
やっぱり僕は、余る弱というか、言った途端に雑談をしたくなるっていう、そういう困った癖がありまして、
今日は雑談から入ってみようと思うんですが、前の配信でも話したように、自分の話したことを、音声配信ですね、話したことをテキスト化するっていうね、
文字起こしして、それをAIでまとめて、それに手を加えてテキスト化するっていうのを何回かやってみたんですよ。
結構全部で2000文字ぐらいになってますね。
多分話した内容で20分ぐらいかな。
結構その時に編集も入ってるんで、多分元の話してる時間は30分ぐらいだらだら喋っている時もあるんですけど、
大体それを落としたりとか、休憩とか挟んで20分ぐらいにまとめて、それをテキスト化するとね、大体3000文字ぐらいになるんですよ一旦。
でもそれテキスト化したやつも割といらない部分があるから、それをバサバサ切り落としていくと、大体2千何百文字ぐらいで収まるなっていうのが、
ここ3回ぐらいのペースは大体そんな感じなんですけど。
特に方向性みたいのは決めてないんですけど、これ1000文字にできるとね、ワンコンテンツ、ワンテーマみたいなね、そういうのに近くなるかなと思いますけど、
10分で1000文字、もしくは1500文字にすると、あれですよね、情報は読みやすくなるし、そぎ落とし力が増すと思うんですけど、
これやったことない人には何のことかわからないかもしれないけど、短くする方がね、コンテンツって難しいんですよ。
だからね、20分とか30分喋るのは簡単だけど、10分で喋りきるってね、むしろ難しいんですよね。やってみるとわかりますけど。
僕はね、最近それをやろうと思っているけど、なかなかダラダラ喋っちゃうなっていうのは、やっぱり集中力というか、その技術もないし、それをやるには結構ね、必死にならないとできないっていうことがね、やっとわかりましたね。
それで今日の本題というか話してみたいことも、雑談の続きみたいな感じなんですけど、何の話かというと、なんか最近時代がね、すごい転換期を迎えているなっていう話をしてみたいんですよ。
歴史的な視点
これ似てるようなことを何回か話しているんですが、最近その思いが強くなって、これね、難しいのは、別に何がどうなったから時代がすごく変わっているっていうのはね、まだピンポイントで言えないし、
もうちょっと経ってもピンポイントでは言えないと思うんですけど、なんとなくというか、肌感覚でね、なんか全然今までと違うなっていうのをね、思わずにいられないというか、毎日感じている感じなんですよね、それを。
だから他のね、皆さんの話も聞いてみたいなって思うけど、でもね、例えば僕が知り合いに、最近さ、時代変わっているようにすごく感じないって言っても、いや別にって言う人も結構いるような気はしていて、
これなんていうかね、言ってみれば捉え方の問題なわけですけど、世界がAだと思っている人は世界がAに見えるし、Bだと思っている人はBに見えるし、それがAからBに変わったなと思ったらそう見えるっていうね、それだけの話なんで、
そうだから目に見える変化ではないんだけど、でも変化しているなって思っていて、それでね、そうだからこれ多分10年とか20年経つと、あ、明らかにあの時変化してたよなって思うんですけど、
僕ね、この話をする時に思い出すことがあって、それが1960年代のことなんですね。もちろん僕はその時に生まれてないんですけど、でも本とか小説とか映画とかでもその当時のことって結構話題に今でもなると思うんですよね。
たぶん69年ぐらいがすごい日本の転換点だったっていうのは、たぶん今歴史的にはね、そのぐらいの70年代前後、60年代後半ですよね。
何が、その時何があったかというと、その当時は大学紛争みたいなのがたぶんね、全教頭っていうんですかね、そういうのがあって、そこから日本は急にね、そこから戦後から高度経済成長みたいなのに入っていくその境目だったわけですね。
たぶんその69年とか60年代後半っていうのは、それでなんとなくですけど、僕はその次のターニングポイントがたぶん今年になるんじゃないかなという気がしていて、
その昔でいうとこの大学紛争みたいなのが、今特に別に日本では起きていないけど、でも細かいところで言ったらね、いくつか挙げられるものはあると思うんですよ。
例えば今年だけで言ってもいろいろね、大体その選挙ですけど僕は思うのは、アメリカの大統領選とか、この間の兵庫県の県知事とか、その2つはね、ネットがマスメディアを超えたっていうね、その分水型だったと思うんですけど、
たぶんこれが一番大きいんじゃないかなと。人々の意識のその発信元になるメディアがマスメディアからインターネットに変わったっていうね、たぶんこれが一番分かりやすいポイントだと思うんですよね。
でもさっきも言ったように、それは特に目に見えるね、何かの出来事とか事故が起きたとか事件とかね、そういうものじゃないから、ぱっと見は分かりづらいんだけど、でもその意識の大元ね、いってみれば泉の出どころみたいなのが、水の出どころみたいなのが、穴が変わったっていうことだから、
それはだから違う水が流れ始めるし、それがずっと続いていくと、海というか水溜りというか、大きな海の水質が多分変わり始めてますよね。
僕は多分それをね、結構人より敏感に感じているような気がしていて、これ何でかなと思うと、多分僕はね、そんなに人と会ってないからだと思うんですよ。
これね、逆かと思う人もいるかもしれないけど、でも毎日会社に行って同じ人に会って、通勤電車とか乗ってね、街の変化を見ていると逆にね、気づかないことってあるんじゃないかなという気がしていて、僕はだいたい家で一人で仕事をしていて、そんな人付き合いとかもね、もともとないんですけど、本当に一人で仕事をするようになってからさらに減ったわけですが、
でもね、だから世の中は見えてないってわけじゃなくて、そういう面ももちろんあるかもしれないけど、でも反対にあんまり人と会ってなくて、限られたところしか見ていないから気づく変化みたいなのもね、あるような気がするんですよね。
僕の今の主な情報源はネットなわけですけど、インターネットのニュースっていうのもあるし、実際に仕事とかで、これもネット経由ですけど、やり取りをすることもあって、それぐらいしかね、主な情報ソースというか、変化を感じるもとっていうのはないんですけど、それだけしかないから。
あともう一個家族っていうね、そういうの3つあるとして、仕事の関係と家族とそのネットの情報っていうね、その3つしかね、そのチャンネルがないから、だからよりね、変化を感じやすいんじゃないかなって自分では思ってたりするんですが、最近読んだ本で、男性のね、優位性みたいなのがどんどん下がっているっていう内容を読んだんですよ。
くましろとおるさんっていう、最近僕が何回か紹介している精神科医のお医者さんで、そのブログとかを書いていて、最近いろんなね、記事、なんだっけな、ブックス&アップスとか有名なサイトありましたよね。あれでも多分コラム書いている方だ。
で、僕もそこで知ったんですけど、その人結構本を出していてね、くましろとおるさんって、それで最近読んだ本ですごい長いんですけど、健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会の不自由さについてっていうね、すごく長いタイトルの本なんですけど、今のタイトルです。
その本にね、精神科医の検知から見た生きづらさみたいなのを書いている本なんですね。それで本の内容を直接喋っているわけじゃないんですけど、僕が思った主観もだいぶ入るんですが、そこでね、今その社会に適応できない人が増えていて、
その基準というか、合格ラインみたいなのがどんどん上がっていくから、そこにたどり着けない人が増えているよみたいな話があったんですね。それでタイトルにもあるこの清潔さっていうのがあるんですけど、この清潔さもね、結構格差があるってことが書いてあって、僕はね、そこを盲点になったので、面白いなと思ったんですよ。
これはどういうことかというと、その清潔さというか服装とか、お風呂に入ったりすることって大事だけど、そんなに意識していないじゃないですか、多くの人は。僕はそうなんですけど。
だいたいお風呂に入るし、服装も1日か2日に一遍は洗濯しますけど、それって必ずしも全ての人ができることじゃないっていうことが本に書いてあって、これはかなり無意識だけど、これは教育でしつけられたことなんだっていうことが書いてあったんですよ。
それでそこに適応するのに、幼少期からしつけられてると簡単に適応できるんだけど、文化としてそこにあんまり頓着しないような家庭に育つと、大人になってからそこに適応するのに苦労する人が世の中にはいるんだっていうことを知ったわけですよ。
あんまり普段生活していると出会わないけど、なんとなく想像はできますよね。たまにドロドロの服を着たおじさんとかおじいさんとかいると思いますけど、それは社会というか会社とか職場には出てこないから目立たないわけだけど、
でも社会には一定数そういう人がいて、そういう人たちは多分適応するのに困難しているわけですよね。あまり気づかれてないんだけど、そういう人たちがいるっていうことは、僕たちはそれを多分受け入れられてないわけですよね。
あまり身なりを清潔にしていない人たちっていうの。男性の優位性って話から始まったんですけど、これね、たぶんちょっと昔まではそんなこともなかったというか、たとえ多少不潔というか汚らしい格好をした人とか匂う人がいたとしても、
ネットの影響と社会変化
その人はね、すごい力の強い男性だと、多くの人はその人に一目置かざるを得ないというか、あまり逆らえなかったわけですよね。もっと言うと、排除はできなかったわけです。なぜそうなっていたかというと、社会がそういう仕組みになっていたからというのがそのままなんですけど、
会社とかよりももっと村とか共同体のあれが強いと、本当に村社会だと多分権力っていうのは結構固定されていて、その上にいる人は基本的におじさんとか男性なわけですけど、そこでね、そういう人たちが多少汚かったりとか臭い人がいても別にあんまり関係ないというか、
それによってね、おじさんたちの権力が上がったり下がったりすることはあんまりないじゃないですか。でも今の社会はそうじゃなくて、ちょっと匂ったりとか小汚い格好をしている人はもうあっという間にね、排除されて見えないところに行ってしまうっていうね、だからまあ僕らの目につかないわけですけど、
それで思うのが、インターネットには多分そういう人たちもね、普通に混ざっているわけだと思うんですよ。ネットだとそこね、向こうにいる人のね、どういう人って顔も見えないし服装も見えないしね、もっと言えばお風呂入っているのかご飯食べているのかとかもわからないから、ただ言葉とアカウントというかそれしか認識するものはないわけだけど、
その中には普段僕らが目にしないような人たちも一定数混じっている可能性は高くて、そこにさっき言ったような、あまりそのね、みなりを清潔にしたりとかする習慣を持てなかった大人の人たちっていうのがいるかもしれないと。
それで世の中にルサンチマンというか、すごいネタ見とかソネ見とかね、鬱屈した感情を持ち合わせている人の中にそういう人たちがね、結構紛れてるんじゃないかっていう気がしたんですよね。
これはもうね、本と感想とは、さっき言った本の感想とは全然関係なくて、僕の雑感なんですけど、それで最初の話と無理やりつなげてみると、社会がすごく変化していくポイントだと思っていて、
ネットの情報がね、マスメディアを超えた、影響力がマスメディアを超えたからっていうのが一つの大きな原因であるとして、それでそのネットの世界には今まで僕らが触れてこなかったけど、でも実は結構存在していて、しかも人たちがいて、
その人たちの中には全てじゃないけど、ネットでしかお目にかかれないような人たちの中には、世の中にすごく鬱屈した見方をね、感情を抱え込んでいる人たちがいて、それが結構ね、僕らの目にダイレクトに入ってきているんだとしたら、
それはもう何かしらの影響がないと考える方がおかしいと思うんで、だから影響がすごく出てくると思うんですよ。僕は思うにもうその影響は出てきているんじゃないかなと思っていて、
もしその世の中の炎上を起こしたりとか、なんかそういう誹謗中傷みたいのを一人で何百投稿もしているような、ちょっと普通に考えたらどうかしているとしか思えない人たちが、もしかしたらね、その実態はね、今までの社会の中では目にしなかったよね、
家の中でずっと引きこもっている、ドロドロの箱で引きこもっている人たちがそれを起こしているとしたら、ある意味ではその人たちは世の中に発信する機会を持ったわけで、今まで誰もこっちを見てくれなかった世界が自分の方を見てくれているっていうのは結構な変化というか、もっと言うと結構快楽もあるかもしれないですよね。
今まで本当にね、アナグラみたいなところで生きてきた人がいきなりその世界の脚光を浴びるとしたら、それはもう何か麻薬的な興奮があるんじゃないかと想像できますけど、その人たちの感情というか意見が多くの人に触れて多少なりとも影響するとしたら、それも一つの時代が変化しているポイントのね、厳選の中の一つということになりますよね。
多様性の再定義
イメージすると、今までコンコンと流れていた水の中に別の水脈が紛れ込んでいて、その中にものすごい猛毒みたいなのが入ってみたいな、そういうイメージとも捉えられますよね。
猛毒というのはちょっと偏見があるというか、その人たちも普通に生きているわけだから、悪くはないのかもしれないけど、どんどん話をすっ飛ばしていってしまいますけど、僕はその現象というのは長い目で見たらそんなに悪いことじゃないのかなって実は思っているんですよ。
なんでかというと、そういう人たちも今までは目に触れてこなかったけど、ちゃんといたわけで、世の中の普通に生きている人たちがみんなの目につくというのは別に悪いことじゃないじゃないですかと思うんですよ。
ある意味それが本当の多様性ということになるんだとしたら、今まではその世界の1億人いる中の半分くらいの人しか水面に見えてこなかったとしたら、その残りの半分の人たちが今ね、全部かわからないけど、その中の半分の数パーセントの人がインターネットの登場によって他の人の目につくとしたら、ある意味それは多様性じゃないですか。
かなり歪んだ多様性かもしれない、歪んだ現れ方かもしれないけど、だからもう少し時間が経てば落ち着くべき場所に落ち着くんじゃないかなとね、僕は楽観的に考えていたりしますが、この話はまとまらないですね絶対にね、どんどん広がっていくんで。
これはさすがにノートに文章化して起こせるものじゃない気はするんですけど、そういうときは前半の話と後半の話でテーマを分けてですね、テキスト化するみたいな方法もあるんで、そんなことをやってみようと思います。
だいぶ長くなってしまいましたが、お聞きいただいてありがとうございました。
良い一日を過ごしてください。
さよなら。