面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まず、今回いただいたコメントやお便りを紹介しようと思います。
ブルース界でですね、富士さんかな。 ブックカタリスト、先行配信と本配信で2回聞いていて、それぞれ発見があって楽しいは楽しいんだけど、
今回の先行配信3時間近くあって笑ってる。 往復時間でも聞き終わらないよ。2日かかるな。
あとはですね、それに続けて、先行配信はほぼ修正なし。 空白の確保とかしてないので、ライブ感あるし、人と人との会話ってそうだよね、こういう
注目とかあるよね、となるのが面白い。 ただ逆に言うと、本配信の時はgoryugoさんのこの巧妙な編集がなされているということですね。
そうですね。俺たちが天才的なペースで会話しているように聞こえるけど、そこまで頭の回転は早くない。
そうですね。最近体力がついてきたのか、長い時間喋っていても平気になってしまう。
でもこれはやっぱり、ある程度長く話すのはいいけど、長すぎると聞けない問題が出てくるから難しいところですね。
結局、長ければ優れているとか、ボリュームが多ければいいとは限らないというのは悩ましいところではありますね。
あとですね、SNSとかじゃないんですけど、スクラップボックスでこうさんが見せる手帳という中で、ブックカタリストの中に言及しているお話がありまして、
2日間にわたって記述がなされており、大雑把に言うと1日目ですかねが、知的好奇心を刺激される、面白い話ではあるけど難しい。
でまぁ、ちょっと中略。で最後に、いやー、なんかこの辺の話はスッと入ってこないなっていうのに続いてですね。
2日目の感想として、ちょっと興味を持ちづらい話だと思いながら聞いていたけど、分かりやすいし気づいたらへーと思いながら聞き入っていた。
ゴリゴさんの話術が素直にすごいっていう、大変ありがたい褒め言葉がございまして、ありがとうございます。
よく見つけましたね。
何だったかな、目についたそのリンクとか見ていてたまたま、本当偶然、全てのそういうものを全部見ているわけではないんですけども、
難しいことを難しくなさそうに話すというのは、できるだけ努力して意識してできるようにしたいとは思っていることなので、
そうですね。
素直に全然簡単じゃねえって思ったんですけども。
簡単ではなかった。この距離で聞いている僕も難しかったですから。
そうですね。ただ自分的にやっぱ、音楽が好きな人が学んできた集大成みたいな感覚はあって、そういう意味では自己満足度は非常に高い回でした。
なるほど。
はい、ということで。
一点だけ同じブルースカイで、脳が分かれば心が分かるかを取り扱ってほしいみたいなブルースカイの投稿がありまして、
はいはいはい。
変えました。
さすがやん。
まだ読み始めたばっかりですけど、読み終えて語れそうだったら取り上げると思います。
必ずピックアップするわけではないですが、言及していただいたものはちょっとチェックして読めるかどうか見てるんで、そういうのもハッシュタグつけていただければ、クラシタが見たいと思います。
そうですね。ゴリゴさんは読めるかどうか全くもって保証はできないけれども、言ってくれているということは認識しています。
はい。
はい。ということで、本日110回エスノグラフィ入門について語ります。
はい。今回はクラシタのターンということで、エスノグラフィ入門というチクマ新書の1817番の本でして、
出版が2024年の9月11日に出ておりまして、僕の購入履歴を見てみると同じ年、2024年の10月30日に買っているんですね、この本。
で、思い出してみたら同じ10月のブック語り層読書会というとこで、この本を紹介してくださっている方がいらっしゃって、これはと思って買ったという感じです。
そうか。じゃあ、本屋クラシタセンサーでは見つけられなかった。
そうですね。見つけてたけど、買うゲージがやや足りてなかった。
ああ、それが読書会で言われると買う気になれた。
あと20%なところの最後背中を押してくれたというところがありまして、それはちょっと理由がありましてですね。
著者が石岡智則さんという方で、専門は社会学とか身体文化論とか、現在日本大学の教授をやられているらしいんですけど、
その読書会で紹介されたときに、質的社会調査の方法という本に参加しておられるという話を聞きまして、
これ、僕、読んだことがある本なんです。2016年に出ている本で。
結構昔ですね。
名前の通り、質的社会調査をどのように進めたらいいのかっていうのを3人の著者の方が書かれておりまして、社会学で有名な岸さんとか石岡さんとか、
丸山さんというのは女性のホームレスの研究とかをなされている方で、この本も実は彼のツイッターで紹介されたというか、
この本読んだけど倉下さんが読んだらどんな感想を持つか気になったみたいなツイートがあって。
僕はこの本を読むまで、社会学的に対する関心ってほとんどなかったんですね。
僕の持っている分野の中では。でも言われたから読んでみて、この本が非常に面白くて頭の中に残ってて、
その読書会で話を聞いて、「あ、あの本の人が!」っていう感じで読んでみようかという感じで。
その質的社会調査法以外にもタイミングの社会学とかローカルボクサーの貧困世界という本を出版されてまして、
タイミングの社会学って、僕確かめてないですけど、帯に、
木の国は人文大使を2024度第2位になっているということで、結構人気の本やったような感じですね。
ローカルボクサーとか貧困世界みたいな話をやって、実際にフィリピンのボクシングジムに行きまして、
実際にそのジムに入って、ジムの練習も参加して。
そのレベルまでやってるんだ。
その人たちの生活を描くというようなエスノグラフィーを書いてきたという方が著者で、
本書はエスノグラフィーって何だろうとか、どういう意義があるんだろうみたいなことを、
比較的若い人、つまりこれから社会学を志そうと考えている人向けに、その魅力を語ろうというような感じで書かれている本です。
大きな章立てが1から6章ありまして、簡単に読むと、エスノグラフィーを体感するが第1章で、
第2章がフィールドに学ぶ、第3章が生活を書くで、第4章が時間に参与する、
第5章が対比的に読む、第6章が事例を通して説明するという構成なんですけども、
このような構成について後々説明しますが、一番最初冒頭の始めに、空気について語られてるんですね。
フィリピンとかの比較的貧しいボクシングジムのボクサーって、常に酸欠状態で空気不足っていう感じで、激しい練習をしているからなんですけど、
あ、比喩的な意味ではなくて、リアルな意味で。
ああ、ああ、という状況があると。そういう空気というものと連想して、
その著者がお父さんを東京に連れてきた時に、東京って平面の移動だけじゃなくて、上下の移動も激しいじゃないですか。地下鉄とかって。
お父さんがその階段とかを登っている時にすごく息切れされていたと。
で、実は肺を悪くされていると。それはその肺は悪くなるような仕事をされていたと。
だから空気って、僕たちはこうやって健常に生活しているときって、空気って意識しないですよね。普通に。
でも実際その空気っていうのは、人間と環境との関わりを一つ象徴するもので、例えばその空気が良い社会とそうじゃない社会があるとか、
仕事によって吸える空気が違うとか、あるいはその戦争における空気、つまり採累ガスとか、空気を買い替えとした攻撃というように、
結構空気っていろんなものにつながっている。でも僕たちはその空気っていうのを普段意識していないと。
で、空気について考えることで、実は今まで自分が見えてこなかったような社会の見え方をすると。
この空気について考えるというのは、つまり自分が当たり前と思っている、自明と思っている、意識していないことについて考えるっていう比喩として、
空気について考えること。これが一つ社会学的な意義として紹介されている。結構印象的でしたね。
社会学っていうのは当然社会について研究する学問なわけですけど、例えば統計的データみたいなものを駆使する社会学もあるわけですが、
統計的データ、つまり数字っていうのを扱う場合には具体的なその姿っていうのは捨てさせられる、捨てられてしまうと、見えなくなると。
もちろんそれは意義があるわけですね。僕たちが対象と向かい合っている時に、一旦数字っていう一歩を引いたもの、距離を取って見ることで、
今までとは違った見え方がするっていう一つの認識を作り変える効果がある。でも著者がやっているエスノグラフィーっていうのは逆だと。
離れるんじゃなくて近づくんだと。対象と今自分の距離をぐっと縮めることで、またそれとは
離れるの時とは違った認識の変容をもたらすっていうのが一つ、この統計的資料を使わない社会学としての価値があると。
で、その詰めるっていうことはそこにある、さっき統計的データでは捨てられてしまうような具体的な生活のリアルっていうのを捨てなくてよいと。
そのまま描き出せるっていうのが特徴と。
で、そういうためにじゃあどうしたらいいのかっていうのがそのエスノグラフィーの手法として数々あると。で、それが本書では紹介されると。
で、エスノグラフィー、はいはい。
そうそう、エスノグラフィーってっていう話なんですけど、そもそもエスノグラフィーという言葉は有名なものなんですか?
エスノグラフィーという言葉は多分学問の分野では結構有名なんですけど、そのまま直訳すると民族誌。
誌っていうのは雑誌の誌。エスノが民族でグラフィーが誌ですね。
で、名前の通りそれはどちらかというと人文学の分野で発展してきたものなんですね。
で、西洋の学者さんたちが、例えば未開のアメリカ、アフリカとかに行ってその現地の生活とかを描写するっていうふうに人類学で発展したその手法が社会学の分野。
例えば自分の国の中のスラム街に行くのような、同種の社会の中でより小さな具体的な社会に入り込むっていうふうに使われるようになってきた。
だから、もともとエスノグラフィーっていうのが人類、民族誌やけどもっと広い意味で社会学の分野では使われるようになっているということですね。
じゃあおそらく社会学の分野で言われるエスノグラフィーという概念はまあまあ新しい。
まあまあ新しいと思いますね。結構新しい。で、描かれるものとしては人類学の分野、人類学は多分広く言うと人間とは何かという問いを扱ってきたんですけど、
それはもっと社会学で私たちの生活とは何かっていうところをフォーカスすると。手法としては似てるけど対象としてはその学問によってちょっと違いがあるかなという感じは受けました。
そのエスノグラフィーの核心なんですが、これはまあ著者が考えるエスノグラフィーの核心なんで、別の著者は別の定義をすると思うんですけど、とりあえず生活を書くと。
書くっていうのはライティングの書くですけど、生活を書くこと。 エスノグラフィーとは生活を書くことである。
生活を書いてないものはエスノグラフィーとは言えないというような感じ。で、この新書の帯にも生活を書くっていうデカデカと書いてあったんですけど、
僕は生活を書くというキーワードにかなり惹かれたんですね。
で、その当たり前生活、僕らの身近にある生活っていうのを描くことでいろいろ具体的なもの、あるいは生活に密着したもの、いわゆる理論だけの机上の空論じゃないものを描いているものっていうのを結構好きなので、
そこは僕はこの自分がやっている知的生産についても関連する、あるいは共鳴するものがあるなとちょっと感じまして、
著者がこの本でどういうふうに人々の生活を拾い上げていったらいいのかを紹介してくれるっていう本になってまして、
さっき飛ばした1章から6章の説明なんですが、これちょっと読むとすごく長いんですけども、
初めにの一番最後に最終的な説明というのがありまして、結構長いパラフラですね。
そこの完成形に向かって少しずつ1章から記述を増やしていくっていう感じ、説明を少しずつ付け足していくという感じで話が進んでいくんですが、
今ここ読み上げようかなと思ったんですけどさすがに長いのでやめておきますが、
エスノグラフィーとは何なのかが章を追うごとにちょっとずつ説明が詳しくなる。
で、最終的に出来上がるものが一番最初に提示されていて、こういうものに向かって進んでいくんだなということで、
1章の部分からは最初は1文だけ、次に2文だけ増えて、3文増えてっていうふうに少しずつ記述が厚みを増していくように、
1章から6章の流れが構成されているっていうのが本書の衝突になってますね。これ結構面白かったです。
なんとなくなんですけど、やっぱ単純に日記の書き方入門に応用できそうですよね。
それはすると思います。
なんて言うんだろう、私日記に書くことがないんです問題。
この本を読まなければならないというわけではないけど、この本を読んだときに何を記述していったらいいのか、この平凡な私たちの生活において何を記述していったらいいのかっていうのを改めて考える観点にもなるかなという気がしますね。
そう、多分なんですけど、平凡な生活というのはその人にとって平凡なだけで、
他者から見たら何一つ平凡なことなんてなんならないぐらいなんですよね。
そうですね。そういう意味で観察の一つの手法というかを学ぶ、なんせもう社会学者っていうのは観察する人々なんですから、そういう人から学ぶというのはありかなと思います。
1章から6章までの内容を要約するんじゃなくて、むしろ技術的な話とかテクニック的な話とか、僕が面白いなと思った話をちょっと拾い上げていく流れでいきたいなと思うんですけども。
第1章がエスノグラフィーを体感するということで、エスノグラフィーってどんなものだろうかっていうのを
全体像をなんとなく知っておこう。
実際の論文とかを引きながら、実際にある論文とかを引きながら、エスノグラフィーの論文を引きながらこういう問題というのを語っていくと。
優れたエスノグラフィーには必ず印象的な場面が書かれていると。
一番最初に例として挙げられているのがマニラのスラム街の葬式の一場面なんですけど、スラム街の葬式が行われているところで同じ場所で
もうそのフレーズから印象的ですもんね。
まあ確かに。同じとこでね、確かにポーカーがあったかな。カードでトバッコしてあるんですよ、4人ぐらいが。
葬式の一場面で。
うん、葬式の隣で。
で、僕らから見たら、かなりギョッとする風景ですけど、話を聞いてみると、そこの家計の一番買った人は、例えば、家賃分の15%とかを募集の人に渡すと。
だから、もちろん日本から見たら不謹慎かもしれないけど、まず楽しい一夜を過ごすということと、総合扶助的なものがその家計によってなされていると。
そういう場面をまず描いて、それが自分が持っているテーマ、例えば貧困と貧困害における総合的な援助活動みたいなそのテーマと引き付けることでエスノグラフィっていう論文が出来上がっていくと。
まず何かしら自分がそのフィールドに入って驚いたことを出発点にするのが大切なことと書かれてまして。
で、エスノグラフィって当然その実際にフィールドに入って、さっき言ったようにボクシングジムに実際に入ったりするわけですけど、そうすると人見知りな人とかってできないんじゃないかなという疑問が思い浮かぶわけですが、
著者からするとそれは重要なことではないと。むしろその驚きを感じる心、好奇心が開かれているかどうかが重要だという話がありまして。これはまああらゆる知的生産に多分言えることなんじゃないかなとは思うんですよね。
そうか。言ったらなんだけど葬式の横でポーカーしてるのを見たって、何とも思わん人は当然何とも思わん。
それはもう当然何の出発点も見つけられないわけですし、何か例えばデータ集めて書いたとしても人の心を動かすような論文にはきっとならないでしょうから、まずその好奇心が開かれているかどうかっていうのがこのエスノグラフィがうまくいくかどうかの一つのポイントっていうのは非常に面白かったです。
もう一個フィードに入って仕事をするわけなので、見られながら観察するわけですね。例えば潜入操作というのがあるわけですけど、潜入調査とかっていうのは身分を隠して入る。
そうすると調査する人は調査する人と認識されてないわけですね。そこではその現場の中では。でもこれフィードバックする人っていうのはあの人は調査する人だと思われながら調査してるわけですね。
難しい。
そうそうそう。自分がどう振る舞うかによって相手もその行動を変えてしまうわけですから、うまく観察するっていうのは結構工夫が必要。
まあもちろんその潜入操作は潜入操作で工夫が必要で、これはまたこの前読んだ面白い話があったんですけど、ユニクロに潜入操作が書かれた人があって、で調査するときってそれはフィールドワークでも潜入操作でもメモが必要じゃないですか。書き留めるメモが。
うん。
で、面白いのはユニクロって言われたことはメモしなさいっていう文化、企業文化があるらしいんですよ。
うーん。
ということはメモしてても違和感は、誰からも違和感は、あの人は仕事のメモをしてるんだと思われるということがあるらしくて、他の現場に比べてメモしやすかったっていう話があってそれは面白かったです。
これはフィールドワークと潜入操作の違う、逆の性質なんですけど、フィールドワークではそのメモ、他の人が生活して一緒にしてるからメモしてることは非常に目立つわけですよね。
非常に。
でもそこでなんとなく溶け込もうとしなければいけないし、メモする、潜入操作ではメモしてはいけない環境ではメモできないし、メモしてもいい環境だったらメモしてもいいっていうふうに、性質的に違いがあるってこれちょっと観察のやり方として面白いなと思ったんですけど。
とりあえずエスノガルフィーで行うフィールドワークでは自分、あの人は観察者だって周りから見られながらもこっちが見ると。
逆に言うと潜入しなくていいんですね。生活っていうのはそこに常にあるわけですから、わざわざ特定のところに潜り込む必要なくて、そこにただあるもの、ボクシングの演習機やったらそこに繰り広げられてるものをいかに拾えるかっていうところが違いになっていると。
で、そのように自分の生活から他のフィールドに行って、そのフィールドの中に入って観察するっていうのが対象を二重写しに見るという話が出てきたんですけど、例えば水の中で生きている魚っていうのは自分が水の中にいるっていう認識はないわけですね。そもそも多分水っていう概念が多分ないとは思うんですけど。
うん、さっきの空気の話と繋がりますね。
で、例えばその魚が地上にたまたま打ち上げられた魚を観察してですよ。で、溺れて死んでるのを見たときに初めて自分は水に囲まれてるっていうことを気づくわけですね。
その時に二つのことが起きてるわけですね。それはだから外にいる魚が空気がないっていう生活を見るのとともに自分は水にいるっていうものを見てるわけですね。
二つのものを重ねて見てるわけですよ。ただ外の魚を見てるだけじゃなくてその魚の生活を通して自分の生活を見てるわけですね。
このフィールダークっていうのはつまりただ単に外部を見てるだけじゃなくて外部を通してさらに内部を見てるんですね。自分自身の環境を見ているっていうその二重写しがあるからこそ例えば自分の生活そのものが変わってきたりするわけですね。
例えばもっと水を大切にしようとか僕は安直ですけど、ような自分の生活そのものも変わっていく。変わっていくというか変わらざる得ない。
著者は強いられるというような表現をしてましたけど、仮にそのようなフィールドを見てしまったらもう前と同じ見方はできないわけですね。
ああもう自分は水を持ってるんだと常に思うようになってしまうっていうその変身が起こるっていうことも書かれてまして、まあこれも確かにそうだなというふうには思います。
※ピダ半の著者がピダ半の所を住んでたらキリスト教を辞めちゃってるんです。
※もうまんまですよね、聴者にとってはキリスト教が違うものだと思うようになってしまった。
だからフィールドのことはフィールドことだから 帰って今までの生活をしましょうというわけにはいかなくなってくるわけですね
そのような変身が起こる可能性が これは勉強の哲学のバカになるっていうのにちょっと近いかなという
ある種の変天変性を伴うものであるというのが フィールドワークの魅力であるんだろうなというのが
もしかしてキリスト教を広めようとしたら1人減らして終わったって 外から見たらバカですよね
でもそれぐらいディープな変質が起こると
内緒でフィールド調査の10回10のいましめというのが紹介されてるんですけど
その中で一つ興味深いと思ったのが 観察にはそれに適した移動速度があるという話で
これは非常に単純に考えたら 例えばフィールドを車でぐるっと回るのと
自転車で回るのと 歩いて回るのでは観察できる量とか質とかが全く変わってきますよね
できれば歩いた方がいいし ちょっと長距離だったら自転車の方がいいという話があって
例えば情報量といっても速度が違う以外に 多分匂いを感じるとかも変わってきますよね
その車で移動と歩いて移動では だからゆっくりある種のゆっくりが必要だと
これは多分一つのメタファーとして言えて 要するに例えば僕らが日常で何かを記録するときにも
焦ってたはいけないわけですね
ある程度のゆっくり落ち着いた速度で日常を観察するってことが多分必要だというふうに
遠慮 転用できるかなと思います
第2章はフィールドに学ぶなんですけど エスノグラフィーとは何かをかなりすっ飛ばしてきたんですけど
ここで具体的に説明するわけですけど 社会調査 様々な社会調査の中で
エスノグラフィーってどういう位置づけにあるんだろうかということで
まず社会学 社会調査の一分野だっていうことですよね
ということはそもそも まず社会学の中に位置づけ 調査位置づけてるわけですけども
社会学っていうのはね まず観察を基礎にすると 観察科学と
観察科学じゃないっていうのは理論科学みたいなもんですね
すべてが数式表が頭の中の変換だけでやっていけるもの
社会学っていうのは少なくともそうじゃない 例えばフィールドに入って人々の生活を観察するのもありますし
統計的データを見ることも観察に入ってます この場合は
何しろ何か実際にあることを観察してから 何か理論とかを考えるのが
まず社会学イコール経験学 いや経験学としての社会学っていうものがまず最初
そのバリエーションとして量的研究と質的研究があると
量的研究っていうのはさっき言ったように 統計的データとか数字を扱うもの
質的研究って多分まっすぐには定義できなくて 量的研究できないもの 全般っていうことだと思うんですけども
そういうものを扱う この2つがあって別にどっちが優劣があるわけじゃなくて
それぞれその研究の方向とかが違うと
さっき言った社会学は経験科学なんですけど 経験科学の中でも一分野としてフィールド科学というのがあると
ここでややこしいんですけどフィールド科学だからといって 質的研究というわけではないです
フィールドに入ってそこにいる例えば住民の数を数えたり 飛んでいる鳥を数えたりするのはこれはだから量的研究なわけですね
量がどのぐらい そこにはどのぐらいの人がいるのか
っていうことを数字で扱う場合はこれは量的研究になるわけですね
だから経験科学の中のフィールド科学の中の 質的研究っていうものがこのエスノグラフィーの性質成分ということになります
その質的研究の丸とエスノグラフィーはだいたい一致するということですか
だいたい一致します ほとんど一致します っていうかほぼ一致します
じゃあもう量的研究でないものはさっき言った前提を含めた量的研究でないものが全部エスノグラフィー
まあに近い まだほぼ一緒
何が違うかというと結構飛ばしますけど そういうふうに人々の生活の中に実際に入って参加してみるっていうのを
産与観察というらしいんですけど研究方法ですけどでも産与観察したとしてどんな論文を書くのかまだ決まってませんよね
産与観察して人々の生活を分厚く書く論文を書くっていうアプローチがエスノグラフィーなんですね
じゃあ産与観察をしてこの人たちが何食べてるかを統計を取れば量的研究になる
そういうふうになるけど最終的に人々の生活を分厚く書くっていうところに至るのがエスノグラフィーだと
だからとりあえず経験科学でありフィード科学でありその結果を生活を書くという分厚く書く
しかも特にモノグラフっていって複数の社会とかじゃなくてある一つのある一つの単一の社会の生活を分厚く描くものがエスノグラフィー
これは著者が考えている定義なんでいや違うって言う人もいるかもしれませんけど一旦そのような把握で本書の話はます
これ結構難しいですね
なんとなくのイメージなんですけどなんかねこうジャーナリストと呼ばれる人がやっていることとかもなんか近いような印象を受けるんですけど
その辺はね最後の章に出てくるんでもうさっき言いますけどやっぱりね一番著者が強調した違いはかけられる時間の長さだという話ですね
あーはーはーはーはー
ジャーナリストとかで当然長くても数年という単位でおそらく発表したのかしら実際はもっと短いでしょうねおそらく
数ヶ月とかがせいぜいですよね
この分野の人たちはちゃんとした研究を出すためには10年必要だみたいな話があるらしいですね
ピダハンもそうだった30年だった
だから実際の研究する時間はもうちょっと短かったでしょうも
例えば調べたりとか現地の人たちと交流してある程度自慢を整えて自分の理解もしてじゃあ入りましょうって出てきましたで論文書きます
トータルで10年で10年っていう単位でやるとやっぱりこれ学術研究ですねきっとね
それでしかある種の余裕がないとできない余裕というか金銭的バックアップができないっていうような感じで言うと
その時間の尺度っていうところが多分違いがあるんだろうという感じですね
じゃあ逆に言えば時間の尺度を除けば割と似ているとも言える
あとはキャッチーさを出さなくていいとかそのアウトプットのバイアスというか求められる方向性の違いっていうのも多少あるとは思いますが
それは確定の信念によって変わってくるでしょうけど
全体的に見たらやっぱりもう少し当たり前のものに注目するという点では違いがあるかな
ジャーナリストは当たり前じゃない点を見つけ出してきそうな印象はあるかな
もちろんここは学術的な議論じゃないから全体的にまたはずなことを言ってるかもしれないけどその辺で印象としての違いがありそうだなと思います
第3章が生活を書くということでさっき出てきたありふれた日々を記録していくと
特に細部の出来事に目を向けると
これをそのまま引用読みますけども
言い換えるなら劇的な事件を見るのは容易ですが
生活を見るのはそれよりも難しく練習を必要とするのですと
生活を見る目を鍛えることは重要な意味が備わっているにも関わらず
私たちが見過ごしてしまっている事態をきちんと見ることを可能にしてくれますということで
これはもちろんフィールドワーク自分とは違う社会でフィールドワークする時の心得ですけど
これはだからやっぱり自分の日記とかメモとか発想とかについても言える
僕が強調マークしたいのは練習を必要とするという文言だと思うんですよね
それですよね
結局練習しなければ人間は無意識で一日を過ごしてしまうので
僕らはとっぴなものに目を向けるっていう生物学的な特徴があるわけですから
異常なものの注意を向けやすいわけですから
毎日同じものを繰り返していると
多分特に見るものはないということになってしまうんで
やっぱり注意を向ける訓練っていうのが必要で
だからこういう社会学とかエストラグラフィックやってる方は
自分の日常生活を見る目も多分違ってきてるはずで
おそらく例えば水道が毎日ちゃんと出るってすごいなって思うと思うんですよね
おそらくこういう生活をしている人は
だからもちろん僕らが全員が違う文化に出かけてどうのこうのっていうことはできないにしろ
おそらく例えば旅行をして違う方言とか文化の中に入るとか
逆に美術館とか日記とか
なんか普段違う言葉遣いをする人たちの会に参加するとか
なんでもいいですよ
生活の中に異世界っていっぱい広がって
異社会がいっぱい広がってると思うんで
そこに参加して見る訓練をすることで
日常に帰ってきた時の目力みたいなのも変わってくるんじゃないかなというところ
さっきも言った話ですけど
エスノグラフィーはポルノグラフィーとは違うというキャッチーなフレーズがありまして
何も暴露しないんですね
そこに同じ人がいたら同じものが普通に介して生活ってのがそこに行われてると
だから目の違いだけなんだという点が一つ
日常生活批判としての社会学っていう話があって
これ結構難しいんですけども
社会学って何か社会的な問題を批判するときに
用いられがちなわけですけど
例えば東京の学者さんが沖縄の基地問題を批判するみたいなことがあるわけですけど
その東京の学者さんの生活は沖縄の基地とどう関係があるのか
全く関係がないと言えるのかみたいなことっていくらでも言えるわけですね結局
なぜならそうやって発言してた人たちも生活してるからですね
生活は何かしらの制度とか権力によって大体保持されてるわけですよ
基本的に
そんな完全に自由に生活ってことはないわけですね
だから批判する人も生活してるんだっていう観点から
その生活は制度とつながってるんだっていう観点から
生活そのものを独立したものじゃなくて
制度とつながっているものとして見る
だから生活を変えることで制度との変化も生まれるし
制度を変えることで生活も生まれるっていうふうにつながってみようという観点で
生活批判としての社会学っていう潮流がここ最近生まれてきているというような話が
ちょこっと紹介されてまして
これもなかなかふんふん思うという難しい話でしたね
社会学にそういう派閥が増えてきている
そういうことを考えて言っている人たちが増えてきているというような感じだと思います
第4章が時間に参与するということで
ここ結構大きいテーマなんですけど
この点を研究するときに
同じフィールドの人たちと同じ時間を過ごす必要があるという表現がありまして
それは同じ空間にいるだけではダメだと
この空間にいることと同じ時間を過ごすことの違いについて
分厚く語られてるんですけど
全部立てありまして
生活編っていう生活論というのがまず最初に出てきましてですよ
生活論って考えるときに
生活を論じる話なんですけども
生活には創始者がいないという話があって
あるいはみんなが創始者だという話があるんですけど
よし生活を作ろうと思って作るもんじゃないんですね結局
そういう生活っていうのは
人々の日常的な営みとか工夫とか努力とかが
複数積み重なって出来上がっていくものと
それは単純に僕が続けていくだけじゃなくて
僕の前に何かしてきた人たちがいて
で僕があってで僕がしてきた人が
人が来たことがまた次の人たちに繋がっていくっていう
一つの歴史的な時間の厚みをまず持っていると
生活っていうのはだからポッと生活だけがあるんじゃなくて
時間的厚みの中に生活というのは必ず存在しているという
まず話が確認されるのと
あと三つの主義という話がありまして
これ結構面白かったんですけど
近代技術主義と自然環境主義という
二つの大きなものの見方考え方がありまして
近代技術主義っていうのは
とりあえず新しいテクノロジーを取り入れろイエーイ