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2025-03-25 1:07:35

BC110『エスノグラフィ入門』

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今回は、倉下が『エスノグラフィ入門』を紹介しました。

倉下のこれからの本の書きかたについて、消しきれぬインパクトがあった一冊です。

目次

はじめに第1章 エスノグラフィを体感する第2章 フィールドに学ぶ第3章 生活を書く第4章 時間に参与する第5章 対比的に読む第6章 事例を通して説明するおわりに――次の一歩へ

本編で読み上げるのを断念した「最終的な説明」は以下です。

エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも[* ①不可量のもの]に注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には[* ②生活を書くことに]よって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている[* ③時間に参与する]ことが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を[* ④対比的に読むこと]で着眼点が定まっていく。そうしてできあがった[* ⑤事例の記述を通して]、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。

これが具体的にどういうことなのかを一つひとつの章を通り抜ける中で確認していく形式になっています。

収録時に倉下が見ていた読書メモは以下のページで確認できます。

◇ブックカタリストBC110用メモ | 倉下忠憲の発想工房

エスノグラフィとは

エスノグラフィとはそのまま訳せば「民族誌」で、人類学で発展してきた手法が社会学でも使われるようになっているようです。

倉下が一番注目したのはその手法が「生活を書くこと」に主眼を置いている点。"革命的"なものって派手で注目されやすいのですが、それでも私たちの人生の大半を構成しているのは間違いなく生活です。「地に足のついた」という表現で意識されるのも、生活(感覚)との接続でしょう。

人びとの生活のディティールを描くこと。それはごりゅさんがおっしゃられたように小説(文学)との営みとも重なってきます。そこには、人の「生」を考える上で決して捨象してはいけないものが含まれているといっても過言ではありません。

倉下はいわゆるライフハックな話題が大好きですが、結局それも「人生」=「生活」がその基盤にあるからです。日々の生活から考えること。日々の生活を判断の基準にすること。派手なものに目を奪われやすいからこそ、むしろそうしたものにより注意深く視線を向ける必要があるのではないかと考えます。

自分の仕事にひきつけて

もう一点、自分の仕事に引きつけて考えたときに、「大きな方法」に注目するのではなく、むしろ日常にあるさまざまな小さな方法とそのディティールに注目する方が、実は「役に立つ」のではないかと考えることができるようになりました。

ときどき思うのです。大上段で理論を打ち立てるノウハウが、その語りの中で自分の方法以外をすべて「役立たず」だと切り捨てているのって何か変ではないかな、と。純化された理論に説得力を持たせるためには必要な修辞なのでしょうが、実践は(つまり日常は)さまざまに雑多なもので満たされています。そうした場面において、純粋な理論は参考にはなっても、そのままの形で適用できるものではありません。

だからこそ、むしろディティールの語りからはじめ、そのディティールを通して何かしらの理論にアクセスすること。その順番が大切ではないかと思います。なぜなら、そのようにすれば一つの理論に回収できないものが雑多な形で残ってくれるからです。

昨今のノウハウ書のあまりにもthinな感じは、整合的に整えようとしすぎたあまりに、実践の中にある雑多さを悉くそぎ落としてしまった結果ではないか、なんてことを考えています。



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サマリー

エスノグラフィについての入門書『エスノグラフィ入門』が取り上げられ、著者の石岡智則はエスノグラフィーの重要性や意義を探ります。また、生活を描写することの重要性についても考察し、社会学的な視点が提案されます。エスノグラフィーでは、日常生活や地味な練習風景を詳細に記録することの重要性が強調され、著者は具体的なフィールドワークの事例を通して、エスノグラフィーの手法とその深い観察が人々の生活に与える影響を探ります。エスノグラフィーの基本概念や社会学の位置づけ、フィールドワークの重要性についても考察されています。特に、経験科学としてのエスノグラフィーがどのように生活を記録し理解するのか、時間の参加が求められる理由についても触れられています。エスノグラフィ入門では、生活環境主義の重要性とそれがエスノグラフィによって如何に支えられるかが深く探求されており、ボクサーの日常を通じて時間的秩序が生活感覚に与える影響が考察されています。エスノグラフィーは、フィールドワークを通じて生活を深く描写する手法であり、科学的妥当性についての疑問が提起される中、事例を通じて観察された現象を背景にある構造的関係とともに説明する重要性が強調されています。エスノグラフィーの手法を通じて、個人の経験をどのように客観化し、記述していくかが論じられ、具体的な生活のディティールを大切にしながら、学術的な意義や表現の方法についても反省が行われています。

ポッドキャストの紹介と視聴感想
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 まず、今回いただいたコメントやお便りを紹介しようと思います。
ブルース界でですね、富士さんかな。 ブックカタリスト、先行配信と本配信で2回聞いていて、それぞれ発見があって楽しいは楽しいんだけど、
今回の先行配信3時間近くあって笑ってる。 往復時間でも聞き終わらないよ。2日かかるな。
あとはですね、それに続けて、先行配信はほぼ修正なし。 空白の確保とかしてないので、ライブ感あるし、人と人との会話ってそうだよね、こういう
注目とかあるよね、となるのが面白い。 ただ逆に言うと、本配信の時はgoryugoさんのこの巧妙な編集がなされているということですね。
そうですね。俺たちが天才的なペースで会話しているように聞こえるけど、そこまで頭の回転は早くない。
そうですね。最近体力がついてきたのか、長い時間喋っていても平気になってしまう。
でもこれはやっぱり、ある程度長く話すのはいいけど、長すぎると聞けない問題が出てくるから難しいところですね。
結局、長ければ優れているとか、ボリュームが多ければいいとは限らないというのは悩ましいところではありますね。
あとですね、SNSとかじゃないんですけど、スクラップボックスでこうさんが見せる手帳という中で、ブックカタリストの中に言及しているお話がありまして、
2日間にわたって記述がなされており、大雑把に言うと1日目ですかねが、知的好奇心を刺激される、面白い話ではあるけど難しい。
でまぁ、ちょっと中略。で最後に、いやー、なんかこの辺の話はスッと入ってこないなっていうのに続いてですね。
2日目の感想として、ちょっと興味を持ちづらい話だと思いながら聞いていたけど、分かりやすいし気づいたらへーと思いながら聞き入っていた。
ゴリゴさんの話術が素直にすごいっていう、大変ありがたい褒め言葉がございまして、ありがとうございます。
よく見つけましたね。
何だったかな、目についたそのリンクとか見ていてたまたま、本当偶然、全てのそういうものを全部見ているわけではないんですけども、
難しいことを難しくなさそうに話すというのは、できるだけ努力して意識してできるようにしたいとは思っていることなので、
そうですね。
素直に全然簡単じゃねえって思ったんですけども。
簡単ではなかった。この距離で聞いている僕も難しかったですから。
そうですね。ただ自分的にやっぱ、音楽が好きな人が学んできた集大成みたいな感覚はあって、そういう意味では自己満足度は非常に高い回でした。
なるほど。
はい、ということで。
一点だけ同じブルースカイで、脳が分かれば心が分かるかを取り扱ってほしいみたいなブルースカイの投稿がありまして、
はいはいはい。
変えました。
さすがやん。
まだ読み始めたばっかりですけど、読み終えて語れそうだったら取り上げると思います。
必ずピックアップするわけではないですが、言及していただいたものはちょっとチェックして読めるかどうか見てるんで、そういうのもハッシュタグつけていただければ、クラシタが見たいと思います。
エスノグラフィ入門の内容
そうですね。ゴリゴさんは読めるかどうか全くもって保証はできないけれども、言ってくれているということは認識しています。
はい。
はい。ということで、本日110回エスノグラフィ入門について語ります。
はい。今回はクラシタのターンということで、エスノグラフィ入門というチクマ新書の1817番の本でして、
出版が2024年の9月11日に出ておりまして、僕の購入履歴を見てみると同じ年、2024年の10月30日に買っているんですね、この本。
で、思い出してみたら同じ10月のブック語り層読書会というとこで、この本を紹介してくださっている方がいらっしゃって、これはと思って買ったという感じです。
そうか。じゃあ、本屋クラシタセンサーでは見つけられなかった。
そうですね。見つけてたけど、買うゲージがやや足りてなかった。
ああ、それが読書会で言われると買う気になれた。
あと20%なところの最後背中を押してくれたというところがありまして、それはちょっと理由がありましてですね。
著者が石岡智則さんという方で、専門は社会学とか身体文化論とか、現在日本大学の教授をやられているらしいんですけど、
その読書会で紹介されたときに、質的社会調査の方法という本に参加しておられるという話を聞きまして、
これ、僕、読んだことがある本なんです。2016年に出ている本で。
結構昔ですね。
名前の通り、質的社会調査をどのように進めたらいいのかっていうのを3人の著者の方が書かれておりまして、社会学で有名な岸さんとか石岡さんとか、
丸山さんというのは女性のホームレスの研究とかをなされている方で、この本も実は彼のツイッターで紹介されたというか、
この本読んだけど倉下さんが読んだらどんな感想を持つか気になったみたいなツイートがあって。
僕はこの本を読むまで、社会学的に対する関心ってほとんどなかったんですね。
僕の持っている分野の中では。でも言われたから読んでみて、この本が非常に面白くて頭の中に残ってて、
その読書会で話を聞いて、「あ、あの本の人が!」っていう感じで読んでみようかという感じで。
その質的社会調査法以外にもタイミングの社会学とかローカルボクサーの貧困世界という本を出版されてまして、
タイミングの社会学って、僕確かめてないですけど、帯に、
木の国は人文大使を2024度第2位になっているということで、結構人気の本やったような感じですね。
ローカルボクサーとか貧困世界みたいな話をやって、実際にフィリピンのボクシングジムに行きまして、
実際にそのジムに入って、ジムの練習も参加して。
そのレベルまでやってるんだ。
その人たちの生活を描くというようなエスノグラフィーを書いてきたという方が著者で、
本書はエスノグラフィーって何だろうとか、どういう意義があるんだろうみたいなことを、
比較的若い人、つまりこれから社会学を志そうと考えている人向けに、その魅力を語ろうというような感じで書かれている本です。
大きな章立てが1から6章ありまして、簡単に読むと、エスノグラフィーを体感するが第1章で、
第2章がフィールドに学ぶ、第3章が生活を書くで、第4章が時間に参与する、
第5章が対比的に読む、第6章が事例を通して説明するという構成なんですけども、
このような構成について後々説明しますが、一番最初冒頭の始めに、空気について語られてるんですね。
フィリピンとかの比較的貧しいボクシングジムのボクサーって、常に酸欠状態で空気不足っていう感じで、激しい練習をしているからなんですけど、
あ、比喩的な意味ではなくて、リアルな意味で。
ああ、ああ、という状況があると。そういう空気というものと連想して、
その著者がお父さんを東京に連れてきた時に、東京って平面の移動だけじゃなくて、上下の移動も激しいじゃないですか。地下鉄とかって。
お父さんがその階段とかを登っている時にすごく息切れされていたと。
で、実は肺を悪くされていると。それはその肺は悪くなるような仕事をされていたと。
だから空気って、僕たちはこうやって健常に生活しているときって、空気って意識しないですよね。普通に。
でも実際その空気っていうのは、人間と環境との関わりを一つ象徴するもので、例えばその空気が良い社会とそうじゃない社会があるとか、
仕事によって吸える空気が違うとか、あるいはその戦争における空気、つまり採累ガスとか、空気を買い替えとした攻撃というように、
結構空気っていろんなものにつながっている。でも僕たちはその空気っていうのを普段意識していないと。
で、空気について考えることで、実は今まで自分が見えてこなかったような社会の見え方をすると。
この空気について考えるというのは、つまり自分が当たり前と思っている、自明と思っている、意識していないことについて考えるっていう比喩として、
空気について考えること。これが一つ社会学的な意義として紹介されている。結構印象的でしたね。
社会学っていうのは当然社会について研究する学問なわけですけど、例えば統計的データみたいなものを駆使する社会学もあるわけですが、
統計的データ、つまり数字っていうのを扱う場合には具体的なその姿っていうのは捨てさせられる、捨てられてしまうと、見えなくなると。
もちろんそれは意義があるわけですね。僕たちが対象と向かい合っている時に、一旦数字っていう一歩を引いたもの、距離を取って見ることで、
今までとは違った見え方がするっていう一つの認識を作り変える効果がある。でも著者がやっているエスノグラフィーっていうのは逆だと。
離れるんじゃなくて近づくんだと。対象と今自分の距離をぐっと縮めることで、またそれとは
離れるの時とは違った認識の変容をもたらすっていうのが一つ、この統計的資料を使わない社会学としての価値があると。
で、その詰めるっていうことはそこにある、さっき統計的データでは捨てられてしまうような具体的な生活のリアルっていうのを捨てなくてよいと。
そのまま描き出せるっていうのが特徴と。
で、そういうためにじゃあどうしたらいいのかっていうのがそのエスノグラフィーの手法として数々あると。で、それが本書では紹介されると。
で、エスノグラフィー、はいはい。
そうそう、エスノグラフィーってっていう話なんですけど、そもそもエスノグラフィーという言葉は有名なものなんですか?
エスノグラフィーという言葉は多分学問の分野では結構有名なんですけど、そのまま直訳すると民族誌。
誌っていうのは雑誌の誌。エスノが民族でグラフィーが誌ですね。
で、名前の通りそれはどちらかというと人文学の分野で発展してきたものなんですね。
で、西洋の学者さんたちが、例えば未開のアメリカ、アフリカとかに行ってその現地の生活とかを描写するっていうふうに人類学で発展したその手法が社会学の分野。
例えば自分の国の中のスラム街に行くのような、同種の社会の中でより小さな具体的な社会に入り込むっていうふうに使われるようになってきた。
だから、もともとエスノグラフィーっていうのが人類、民族誌やけどもっと広い意味で社会学の分野では使われるようになっているということですね。
じゃあおそらく社会学の分野で言われるエスノグラフィーという概念はまあまあ新しい。
まあまあ新しいと思いますね。結構新しい。で、描かれるものとしては人類学の分野、人類学は多分広く言うと人間とは何かという問いを扱ってきたんですけど、
それはもっと社会学で私たちの生活とは何かっていうところをフォーカスすると。手法としては似てるけど対象としてはその学問によってちょっと違いがあるかなという感じは受けました。
そのエスノグラフィーの核心なんですが、これはまあ著者が考えるエスノグラフィーの核心なんで、別の著者は別の定義をすると思うんですけど、とりあえず生活を書くと。
書くっていうのはライティングの書くですけど、生活を書くこと。 エスノグラフィーとは生活を書くことである。
生活を書いてないものはエスノグラフィーとは言えないというような感じ。で、この新書の帯にも生活を書くっていうデカデカと書いてあったんですけど、
僕は生活を書くというキーワードにかなり惹かれたんですね。
で、その当たり前生活、僕らの身近にある生活っていうのを描くことでいろいろ具体的なもの、あるいは生活に密着したもの、いわゆる理論だけの机上の空論じゃないものを描いているものっていうのを結構好きなので、
エスノグラフィの意義と特徴
生活を書くっていうアプローチからして僕は最初に興味を持ちましたね。ここが一番大切なところであり、僕がこの分野というかこの本に惹かれたところではあります。
その、あえて平凡なことを書くっていうのではないけど、あえてはいらんけど、平凡なことを書く中で見えてくるものがあるというスタンスが結構。
大儀室じゃなくて現場に行けっていう例えはあってますか?
多少あってるけど、もっと言うとエスノグラフィーって量気的な殺人も、不思議なミステリーの謎解きもないわけで、だから現場で事件が起きてない。
現場なんてかっこよくないのか。
事件すら起きてない。
発出上の物語なんだ。
そうそうそう。こっちかめみたいな感じでどっちかっていうと。
ただ日常がそこにあるという、そこに生活してる人にとったら平凡なことを書いていくっていう。
長い間研究したのでボクシングの例えが出てくるんですけど、ボクシングで言うと劇的なKOの試合じゃなくて、むしろ地味な練習風景、毎日の練習風景を分厚く書いていく。
あるいは練習だけじゃなくて、どんな生活スタイルで起きているのとか食事をしているのとかっていう、そういうことを丁寧に記録していくのがエスノグラフィーの核心であると。
ここが多分非常に大切なポイントなんですけど、そうした地味な練習風景を分厚く書くっていうのが一見簡単にそう見えて実は難しいんだと。
これは前回の観察の話も多分通じると思うんですけど、劇的な出来事が起きたら誰でも注目しますよね。
平凡に見える、あるいは毎日同じことを繰り返している僕らの日常を日記に書くっていうのは、その当たり前のことから何か拾い上げる目の力が必要なわけですね。
それは多分このエスノグラフィーをやるときにでも一緒だと。この当たり前に見えるもの、あるいはとっぴに誰でもが第一感で目を引くものじゃないものに目を向けるという行為がエスノグラフィーの中にはあると。
フィールドワークの実践
そこは僕はこの自分がやっている知的生産についても関連する、あるいは共鳴するものがあるなとちょっと感じまして、
著者がこの本でどういうふうに人々の生活を拾い上げていったらいいのかを紹介してくれるっていう本になってまして、
さっき飛ばした1章から6章の説明なんですが、これちょっと読むとすごく長いんですけども、
初めにの一番最後に最終的な説明というのがありまして、結構長いパラフラですね。
そこの完成形に向かって少しずつ1章から記述を増やしていくっていう感じ、説明を少しずつ付け足していくという感じで話が進んでいくんですが、
今ここ読み上げようかなと思ったんですけどさすがに長いのでやめておきますが、
エスノグラフィーとは何なのかが章を追うごとにちょっとずつ説明が詳しくなる。
で、最終的に出来上がるものが一番最初に提示されていて、こういうものに向かって進んでいくんだなということで、
1章の部分からは最初は1文だけ、次に2文だけ増えて、3文増えてっていうふうに少しずつ記述が厚みを増していくように、
1章から6章の流れが構成されているっていうのが本書の衝突になってますね。これ結構面白かったです。
なんとなくなんですけど、やっぱ単純に日記の書き方入門に応用できそうですよね。
それはすると思います。
なんて言うんだろう、私日記に書くことがないんです問題。
この本を読まなければならないというわけではないけど、この本を読んだときに何を記述していったらいいのか、この平凡な私たちの生活において何を記述していったらいいのかっていうのを改めて考える観点にもなるかなという気がしますね。
そう、多分なんですけど、平凡な生活というのはその人にとって平凡なだけで、
他者から見たら何一つ平凡なことなんてなんならないぐらいなんですよね。
そうですね。そういう意味で観察の一つの手法というかを学ぶ、なんせもう社会学者っていうのは観察する人々なんですから、そういう人から学ぶというのはありかなと思います。
1章から6章までの内容を要約するんじゃなくて、むしろ技術的な話とかテクニック的な話とか、僕が面白いなと思った話をちょっと拾い上げていく流れでいきたいなと思うんですけども。
第1章がエスノグラフィーを体感するということで、エスノグラフィーってどんなものだろうかっていうのを
全体像をなんとなく知っておこう。
実際の論文とかを引きながら、実際にある論文とかを引きながら、エスノグラフィーの論文を引きながらこういう問題というのを語っていくと。
優れたエスノグラフィーには必ず印象的な場面が書かれていると。
一番最初に例として挙げられているのがマニラのスラム街の葬式の一場面なんですけど、スラム街の葬式が行われているところで同じ場所で
もうそのフレーズから印象的ですもんね。
まあ確かに。同じとこでね、確かにポーカーがあったかな。カードでトバッコしてあるんですよ、4人ぐらいが。
葬式の一場面で。
うん、葬式の隣で。
で、僕らから見たら、かなりギョッとする風景ですけど、話を聞いてみると、そこの家計の一番買った人は、例えば、家賃分の15%とかを募集の人に渡すと。
だから、もちろん日本から見たら不謹慎かもしれないけど、まず楽しい一夜を過ごすということと、総合扶助的なものがその家計によってなされていると。
そういう場面をまず描いて、それが自分が持っているテーマ、例えば貧困と貧困害における総合的な援助活動みたいなそのテーマと引き付けることでエスノグラフィっていう論文が出来上がっていくと。
まず何かしら自分がそのフィールドに入って驚いたことを出発点にするのが大切なことと書かれてまして。
で、エスノグラフィって当然その実際にフィールドに入って、さっき言ったようにボクシングジムに実際に入ったりするわけですけど、そうすると人見知りな人とかってできないんじゃないかなという疑問が思い浮かぶわけですが、
著者からするとそれは重要なことではないと。むしろその驚きを感じる心、好奇心が開かれているかどうかが重要だという話がありまして。これはまああらゆる知的生産に多分言えることなんじゃないかなとは思うんですよね。
そうか。言ったらなんだけど葬式の横でポーカーしてるのを見たって、何とも思わん人は当然何とも思わん。
それはもう当然何の出発点も見つけられないわけですし、何か例えばデータ集めて書いたとしても人の心を動かすような論文にはきっとならないでしょうから、まずその好奇心が開かれているかどうかっていうのがこのエスノグラフィがうまくいくかどうかの一つのポイントっていうのは非常に面白かったです。
もう一個フィードに入って仕事をするわけなので、見られながら観察するわけですね。例えば潜入操作というのがあるわけですけど、潜入調査とかっていうのは身分を隠して入る。
そうすると調査する人は調査する人と認識されてないわけですね。そこではその現場の中では。でもこれフィードバックする人っていうのはあの人は調査する人だと思われながら調査してるわけですね。
難しい。
そうそうそう。自分がどう振る舞うかによって相手もその行動を変えてしまうわけですから、うまく観察するっていうのは結構工夫が必要。
まあもちろんその潜入操作は潜入操作で工夫が必要で、これはまたこの前読んだ面白い話があったんですけど、ユニクロに潜入操作が書かれた人があって、で調査するときってそれはフィールドワークでも潜入操作でもメモが必要じゃないですか。書き留めるメモが。
うん。
で、面白いのはユニクロって言われたことはメモしなさいっていう文化、企業文化があるらしいんですよ。
うーん。
ということはメモしてても違和感は、誰からも違和感は、あの人は仕事のメモをしてるんだと思われるということがあるらしくて、他の現場に比べてメモしやすかったっていう話があってそれは面白かったです。
これはフィールドワークと潜入操作の違う、逆の性質なんですけど、フィールドワークではそのメモ、他の人が生活して一緒にしてるからメモしてることは非常に目立つわけですよね。
非常に。
でもそこでなんとなく溶け込もうとしなければいけないし、メモする、潜入操作ではメモしてはいけない環境ではメモできないし、メモしてもいい環境だったらメモしてもいいっていうふうに、性質的に違いがあるってこれちょっと観察のやり方として面白いなと思ったんですけど。
とりあえずエスノガルフィーで行うフィールドワークでは自分、あの人は観察者だって周りから見られながらもこっちが見ると。
逆に言うと潜入しなくていいんですね。生活っていうのはそこに常にあるわけですから、わざわざ特定のところに潜り込む必要なくて、そこにただあるもの、ボクシングの演習機やったらそこに繰り広げられてるものをいかに拾えるかっていうところが違いになっていると。
で、そのように自分の生活から他のフィールドに行って、そのフィールドの中に入って観察するっていうのが対象を二重写しに見るという話が出てきたんですけど、例えば水の中で生きている魚っていうのは自分が水の中にいるっていう認識はないわけですね。そもそも多分水っていう概念が多分ないとは思うんですけど。
うん、さっきの空気の話と繋がりますね。
日常観察の重要性
で、例えばその魚が地上にたまたま打ち上げられた魚を観察してですよ。で、溺れて死んでるのを見たときに初めて自分は水に囲まれてるっていうことを気づくわけですね。
その時に二つのことが起きてるわけですね。それはだから外にいる魚が空気がないっていう生活を見るのとともに自分は水にいるっていうものを見てるわけですね。
二つのものを重ねて見てるわけですよ。ただ外の魚を見てるだけじゃなくてその魚の生活を通して自分の生活を見てるわけですね。
このフィールダークっていうのはつまりただ単に外部を見てるだけじゃなくて外部を通してさらに内部を見てるんですね。自分自身の環境を見ているっていうその二重写しがあるからこそ例えば自分の生活そのものが変わってきたりするわけですね。
例えばもっと水を大切にしようとか僕は安直ですけど、ような自分の生活そのものも変わっていく。変わっていくというか変わらざる得ない。
著者は強いられるというような表現をしてましたけど、仮にそのようなフィールドを見てしまったらもう前と同じ見方はできないわけですね。
ああもう自分は水を持ってるんだと常に思うようになってしまうっていうその変身が起こるっていうことも書かれてまして、まあこれも確かにそうだなというふうには思います。
※ピダ半の著者がピダ半の所を住んでたらキリスト教を辞めちゃってるんです。
※もうまんまですよね、聴者にとってはキリスト教が違うものだと思うようになってしまった。
だからフィールドのことはフィールドことだから 帰って今までの生活をしましょうというわけにはいかなくなってくるわけですね
そのような変身が起こる可能性が これは勉強の哲学のバカになるっていうのにちょっと近いかなという
ある種の変天変性を伴うものであるというのが フィールドワークの魅力であるんだろうなというのが
もしかしてキリスト教を広めようとしたら1人減らして終わったって 外から見たらバカですよね
でもそれぐらいディープな変質が起こると
内緒でフィールド調査の10回10のいましめというのが紹介されてるんですけど
その中で一つ興味深いと思ったのが 観察にはそれに適した移動速度があるという話で
これは非常に単純に考えたら 例えばフィールドを車でぐるっと回るのと
自転車で回るのと 歩いて回るのでは観察できる量とか質とかが全く変わってきますよね
できれば歩いた方がいいし ちょっと長距離だったら自転車の方がいいという話があって
例えば情報量といっても速度が違う以外に 多分匂いを感じるとかも変わってきますよね
その車で移動と歩いて移動では だからゆっくりある種のゆっくりが必要だと
これは多分一つのメタファーとして言えて 要するに例えば僕らが日常で何かを記録するときにも
焦ってたはいけないわけですね
ある程度のゆっくり落ち着いた速度で日常を観察するってことが多分必要だというふうに
遠慮 転用できるかなと思います
エスノグラフィーの基礎
で 最後に手と目で考えること つまり目で考えるっていうのは観察することなんですけど
書きましょうと 記録書きとめましょうと
おー なんか何もかも繋がっている
というこの2つで 当然エスノグラフィーっていうのは 作品 書かれた論文とか作品を指すわけです
最終的には書きますし 書くための準備でいろんなメモも必要だというふうに
この2つを通して書きながら考えることと 観察して考えること この2つを合わせてやっていきましょうということが
第1章で語られてまして ゴルゴさんもおっしゃられたように
ここでもうすごい知的精査のエッセンスが入ってると思うんですけど
面白いでしょ この
結局 あれですね 観点を変えた 書いて考えましょうっていう話で
だから実践 実際にやられている こういう研究では必ず行われている
この観察と記述の2つの路線で思考を進めていくっていうことが
ありありと書かれていて 基本的にこの第1章 納得ばっかりの章でした
社会学とフィールドワーク
第2章はフィールドに学ぶなんですけど エスノグラフィーとは何かをかなりすっ飛ばしてきたんですけど
ここで具体的に説明するわけですけど 社会調査 様々な社会調査の中で
エスノグラフィーってどういう位置づけにあるんだろうかということで
まず社会学 社会調査の一分野だっていうことですよね
ということはそもそも まず社会学の中に位置づけ 調査位置づけてるわけですけども
社会学っていうのはね まず観察を基礎にすると 観察科学と
観察科学じゃないっていうのは理論科学みたいなもんですね
すべてが数式表が頭の中の変換だけでやっていけるもの
社会学っていうのは少なくともそうじゃない 例えばフィールドに入って人々の生活を観察するのもありますし
統計的データを見ることも観察に入ってます この場合は
何しろ何か実際にあることを観察してから 何か理論とかを考えるのが
まず社会学イコール経験学 いや経験学としての社会学っていうものがまず最初
そのバリエーションとして量的研究と質的研究があると
量的研究っていうのはさっき言ったように 統計的データとか数字を扱うもの
質的研究って多分まっすぐには定義できなくて 量的研究できないもの 全般っていうことだと思うんですけども
そういうものを扱う この2つがあって別にどっちが優劣があるわけじゃなくて
それぞれその研究の方向とかが違うと
さっき言った社会学は経験科学なんですけど 経験科学の中でも一分野としてフィールド科学というのがあると
ここでややこしいんですけどフィールド科学だからといって 質的研究というわけではないです
フィールドに入ってそこにいる例えば住民の数を数えたり 飛んでいる鳥を数えたりするのはこれはだから量的研究なわけですね
量がどのぐらい そこにはどのぐらいの人がいるのか
っていうことを数字で扱う場合はこれは量的研究になるわけですね
だから経験科学の中のフィールド科学の中の 質的研究っていうものがこのエスノグラフィーの性質成分ということになります
その質的研究の丸とエスノグラフィーはだいたい一致するということですか
だいたい一致します ほとんど一致します っていうかほぼ一致します
じゃあもう量的研究でないものはさっき言った前提を含めた量的研究でないものが全部エスノグラフィー
まあに近い まだほぼ一緒
何が違うかというと結構飛ばしますけど そういうふうに人々の生活の中に実際に入って参加してみるっていうのを
産与観察というらしいんですけど研究方法ですけどでも産与観察したとしてどんな論文を書くのかまだ決まってませんよね
産与観察して人々の生活を分厚く書く論文を書くっていうアプローチがエスノグラフィーなんですね
じゃあ産与観察をしてこの人たちが何食べてるかを統計を取れば量的研究になる
そういうふうになるけど最終的に人々の生活を分厚く書くっていうところに至るのがエスノグラフィーだと
だからとりあえず経験科学でありフィード科学でありその結果を生活を書くという分厚く書く
しかも特にモノグラフっていって複数の社会とかじゃなくてある一つのある一つの単一の社会の生活を分厚く描くものがエスノグラフィー
生活の観察と時間の参与
これは著者が考えている定義なんでいや違うって言う人もいるかもしれませんけど一旦そのような把握で本書の話はます
これ結構難しいですね
なんとなくのイメージなんですけどなんかねこうジャーナリストと呼ばれる人がやっていることとかもなんか近いような印象を受けるんですけど
その辺はね最後の章に出てくるんでもうさっき言いますけどやっぱりね一番著者が強調した違いはかけられる時間の長さだという話ですね
あーはーはーはーはー
ジャーナリストとかで当然長くても数年という単位でおそらく発表したのかしら実際はもっと短いでしょうねおそらく
数ヶ月とかがせいぜいですよね
この分野の人たちはちゃんとした研究を出すためには10年必要だみたいな話があるらしいですね
ピダハンもそうだった30年だった
だから実際の研究する時間はもうちょっと短かったでしょうも
例えば調べたりとか現地の人たちと交流してある程度自慢を整えて自分の理解もしてじゃあ入りましょうって出てきましたで論文書きます
トータルで10年で10年っていう単位でやるとやっぱりこれ学術研究ですねきっとね
それでしかある種の余裕がないとできない余裕というか金銭的バックアップができないっていうような感じで言うと
その時間の尺度っていうところが多分違いがあるんだろうという感じですね
じゃあ逆に言えば時間の尺度を除けば割と似ているとも言える
あとはキャッチーさを出さなくていいとかそのアウトプットのバイアスというか求められる方向性の違いっていうのも多少あるとは思いますが
それは確定の信念によって変わってくるでしょうけど
全体的に見たらやっぱりもう少し当たり前のものに注目するという点では違いがあるかな
ジャーナリストは当たり前じゃない点を見つけ出してきそうな印象はあるかな
もちろんここは学術的な議論じゃないから全体的にまたはずなことを言ってるかもしれないけどその辺で印象としての違いがありそうだなと思います
第3章が生活を書くということでさっき出てきたありふれた日々を記録していくと
特に細部の出来事に目を向けると
これをそのまま引用読みますけども
言い換えるなら劇的な事件を見るのは容易ですが
生活を見るのはそれよりも難しく練習を必要とするのですと
生活を見る目を鍛えることは重要な意味が備わっているにも関わらず
私たちが見過ごしてしまっている事態をきちんと見ることを可能にしてくれますということで
これはもちろんフィールドワーク自分とは違う社会でフィールドワークする時の心得ですけど
これはだからやっぱり自分の日記とかメモとか発想とかについても言える
僕が強調マークしたいのは練習を必要とするという文言だと思うんですよね
それですよね
結局練習しなければ人間は無意識で一日を過ごしてしまうので
僕らはとっぴなものに目を向けるっていう生物学的な特徴があるわけですから
異常なものの注意を向けやすいわけですから
毎日同じものを繰り返していると
多分特に見るものはないということになってしまうんで
やっぱり注意を向ける訓練っていうのが必要で
だからこういう社会学とかエストラグラフィックやってる方は
自分の日常生活を見る目も多分違ってきてるはずで
おそらく例えば水道が毎日ちゃんと出るってすごいなって思うと思うんですよね
おそらくこういう生活をしている人は
だからもちろん僕らが全員が違う文化に出かけてどうのこうのっていうことはできないにしろ
おそらく例えば旅行をして違う方言とか文化の中に入るとか
逆に美術館とか日記とか
なんか普段違う言葉遣いをする人たちの会に参加するとか
なんでもいいですよ
生活の中に異世界っていっぱい広がって
異社会がいっぱい広がってると思うんで
そこに参加して見る訓練をすることで
日常に帰ってきた時の目力みたいなのも変わってくるんじゃないかなというところ
さっきも言った話ですけど
エスノグラフィーはポルノグラフィーとは違うというキャッチーなフレーズがありまして
何も暴露しないんですね
そこに同じ人がいたら同じものが普通に介して生活ってのがそこに行われてると
だから目の違いだけなんだという点が一つ
日常生活批判としての社会学っていう話があって
これ結構難しいんですけども
社会学って何か社会的な問題を批判するときに
用いられがちなわけですけど
例えば東京の学者さんが沖縄の基地問題を批判するみたいなことがあるわけですけど
その東京の学者さんの生活は沖縄の基地とどう関係があるのか
全く関係がないと言えるのかみたいなことっていくらでも言えるわけですね結局
なぜならそうやって発言してた人たちも生活してるからですね
生活は何かしらの制度とか権力によって大体保持されてるわけですよ
基本的に
そんな完全に自由に生活ってことはないわけですね
だから批判する人も生活してるんだっていう観点から
その生活は制度とつながってるんだっていう観点から
生活そのものを独立したものじゃなくて
制度とつながっているものとして見る
だから生活を変えることで制度との変化も生まれるし
制度を変えることで生活も生まれるっていうふうにつながってみようという観点で
生活批判としての社会学っていう潮流がここ最近生まれてきているというような話が
ちょこっと紹介されてまして
これもなかなかふんふん思うという難しい話でしたね
社会学にそういう派閥が増えてきている
そういうことを考えて言っている人たちが増えてきているというような感じだと思います
第4章が時間に参与するということで
ここ結構大きいテーマなんですけど
この点を研究するときに
同じフィールドの人たちと同じ時間を過ごす必要があるという表現がありまして
それは同じ空間にいるだけではダメだと
この空間にいることと同じ時間を過ごすことの違いについて
分厚く語られてるんですけど
全部立てありまして
生活編っていう生活論というのがまず最初に出てきましてですよ
生活論って考えるときに
生活を論じる話なんですけども
生活には創始者がいないという話があって
あるいはみんなが創始者だという話があるんですけど
よし生活を作ろうと思って作るもんじゃないんですね結局
そういう生活っていうのは
人々の日常的な営みとか工夫とか努力とかが
複数積み重なって出来上がっていくものと
それは単純に僕が続けていくだけじゃなくて
僕の前に何かしてきた人たちがいて
で僕があってで僕がしてきた人が
人が来たことがまた次の人たちに繋がっていくっていう
一つの歴史的な時間の厚みをまず持っていると
生活っていうのはだからポッと生活だけがあるんじゃなくて
時間的厚みの中に生活というのは必ず存在しているという
まず話が確認されるのと
あと三つの主義という話がありまして
これ結構面白かったんですけど
近代技術主義と自然環境主義という
二つの大きなものの見方考え方がありまして
近代技術主義っていうのは
とりあえず新しいテクノロジーを取り入れろイエーイ
生活環境主義の重要性
みたいな感じで大体官僚主義なんですねこれは
逆に自然環境主義っていうのは
自然っていうのは決して犯してはならない存在だと
何も破壊してはならぬという立場なんですね
両極端の二つ
そうじゃなくて生活環境主義
先ほど生活論から言ったときに
生活環境主義っていうのがありまして
これはだから新しい技術は取り入れてよしと
自然破壊も部分的には認めましょうと
ただしそれをどのようにその技術の取り入れとかするのを
判断する主体を生活に置くわけですね
人々の生活がこうなっているから
こういう技術は取り入れましょうとする
あるいはこの部分的にこの森は切りましょうという
だから自然が大切だから壊さないとか
技術を入ればいいっていう風な
その技術主義とか環境主義じゃなくて
人々の生活の観点からそれを使っていきましょうという話で
僕はそれが一番真っ当に思うんですけども
案外それって結構新しい考え方というか
ある種2つの原理主義からすると
ラディカルに感じられるんでしょうけど
生活の場の考え方倫理を
倫理を優先しようという考え方がある
この生活環境主義って非常にプラグマティックやなとは
ちょっと読みながら思ってましたが
むしろなぜこうなってないのかという感じがしますね
この主義というのはこの話とどう繋がってるんですか
ボクサーの日常と時間感覚
生活っていうのを大切にするっていう考え方ですね
社会を構成するものの中で
生活っていうものを重視するっていう考え方です
エスノグラフィ的な価値観
というよりも社会学における価値観としてある
社会学における価値観としてこういうものが認知されてきた
あるものである
だからその生活を大切にするためには
人の生活を知らなければならないから
エスノグラフィって重要だねって話になるわけですね
エスノグラフィが生活環境主義を
主張を強めるために役に立つ
そういう言い方もできると思う
エスノグラフィは生活を大切にしますけど
なぜ生活を大切にするんですかって
そういう考え方があるんですという話が
ここで生活論として語られていて
ここは直接また時間の話
さっき生活は時間の流れがあるっていうところで
時間が出てきましたが
より具体的な話が
後半のボクサーの典型的な1日という話であって
ボクサーって当然まず1日の練習があります
1週間で1週間ごとのメニューっていうのがありますよね
あとは試合と試合のサイクルがあると
このようにある種どういう時間単位を持つか
時間を分節化していくかっていうことが
それぞれの生活者の生活感覚っていうのを作っていると
だから単純にどう生きているかというか
どういう時間の分節化を持っているかが
生活感覚を強いる1つの鍵になっている
失業って仕事を失うことの困難の1つが
時間的予見の剥奪ってかなり難しい言葉が表現されてるんですけど
つまり仕事を失うと収入が失っただけじゃなくて
例えば来週の自分は何をしてるかとか
来月の自分はどれくらいのお金を持っているのかとか
っていうことが全くわからなくなると
だから単純に貧困になるだけじゃなくて
その時間的な感覚
さっき言った生活感覚が崩れてしまう
壊れてしまうっていう言葉は問題にあるんではないかと
時間的秩序が加わることで
初めて性が生活になるという表現がありまして
僕ここを太字にしたいんですけど
ただ生きてるだけでは生活って呼べないんですね
生活ができないっていうのは結構深い意味なんだ
生物としての生存ではない
だけではない
そこにプラスアルフはある時間的秩序があり
ある自分が信頼できる時間的秩序があって
そこに乗っかっていける構造が維持されているというものを
生活と呼べるということですね
といきなり仕事を辞めたら生活ができなくなるは
合議としては正しいのか
二重の意味でだからそれは経済的困難も取りつつ
生活って構造が崩れてしまうという困難さもあると
その時間的秩序っていうのを知るっていうことが
さっき言ったイスノグラフィーによって
時間が大切だってことね
ボクサーがどんな時間間隔で過ごしているのかを
一番よく知るには
ボクサーと同じことをすることなんですね
結局
この人試合も出てるんですか?
試合は出てないんじゃないかな
練習はしてたと書いてた同じように
試合は多分視覚的にできるんじゃないかな
そこら辺はわかりません
試合には出てないけど
試合する選手と同じように練習したりとか
起床したりっていう生活のサイクルを共にしてた
そういう人たちがどういう風な感覚で
生活を捉えているのかっていうのを見ていたと
だから生活を考える上で
そういうのを無視することはできないという観点
ここは結構重要だなと思いました
意外と面白いというか
言われてみると大したことなさそうだけど
意外と気づいていなかった
そうやね
だから例えばフリーランスのボクたちと
会社員の人たちの生活感覚の違い
この時間的地図の違いが多分だいぶ大きいでしょうね
きっと
であれか
土日を休まないと生活にならなくなるんだ
そうやね
何かの連続になるねきっとね
せいではあってもうまく生活できていない
だからその構造化
リズムを作るとかパターンを設けるみたいなことによって
初めて生活と呼べるものが立ち上がってくるっていう感覚は
これ指摘されて初めて気づいたんだけど
確かにそうだなという感じですね
そうですね
だから別に土日を休むに限らなくていいけど
何らかの生活を手に入れないといけないのか
そうだからそれはある種の縛りなわけね
制約なわけですね
この曜日にこれするしないっていう決めの縛り
制約ですけど
それがまさに人の認識の中の構造を作っていく
という指摘がなされておりまして
そうなんですね
だから自由だからいいっていうのは非常に単純で
あるいはそれを自分の生き方を正だけにしてしまうような
感じがあって
そのファイヤーしてしまった生活が
生活ではなくなってしまう
だからたとえめんどくさく感じでも
何曜日にゴミを出すってことかを継続していくことの中に
やっぱり生活っていうのがあるし
だから生活を壊すっていうのはやっぱり
その構造を壊すっていうことだと思っとくのが
いいと思いますねきっと
うーんまあそうか逆にそれを意識することで
なんかあの生きがいっていうと変だけど
人生にやっぱりリズムが出てきて
なんて言うんだろう
活力を取り戻す源になりそうだ
特にその退職されたお父さんみたいな人たちは
ここの意識があるかないかで
だいぶ変わってくると思いますね
社会学とフィールドの往復
普段ずっと日常的に構造化された生活をしてた人が
その構造から解け離れた途端に
急に生活ができなくなるっていう感じが
多分あると思うんですよ
ただ生きているだけになってしまう
で構造化した練習をしてない
構造化する練習をしてないと
生活を構造化するのも一気に
いきなりは多分できないと思うんで
なんかちょっとずつやってたほうがいい
練習してたほうがいい気がしますねこれは
そうですねそれは難しいというか
そうか構造化を生活をする練習をしないといけない
するといけないと思うね
やっぱりフリーランスの人が
自分の授業の時間割を
授業じゃない
仕事の時間割を作るっていう話を
頻繁に目にするんですけど
やっぱこれは関係があるでしょうね
この構造化っていうことと
うーんしないと
そうですねある意味会社は時間割作ってくれてると
言えなかないんですもんね
自分に好ましいかどうかは別としても
ある種の構造を与えてくれてるわけですけど
フリーランスって自由でいいですよね
っていう話ですけど
自由って本当に人の心を蝕むところがあるので
やっぱ自分なりの適切な構造化っていう
そうですよねだからその
時間割って言うとちょっとネガティブですけど
構造化って言うとちょっとポジティブに聞こえるんで
それは俺たちがやっぱ学校教育に
ネガティブな印象を抱いているから
でもやっぱあの構造があるから
僕らはある程度の基礎学力を学ぶことができたんだろうな
と思いますから
そうそれで言うとね
ちょっと近いところで
12時にお昼は
日本人ほぼ全員が当たり前になっていて
確かに
でも晩御飯の時間って規定によって
まちまちじゃないし
確かに確かにそりゃそうだ
これはね学校教育の力だなって
すげー思うんですよね
だからもう身体化されるわけね
そのルールそのものが
そう12時はご飯の時間というものだけは
身体化されてしまう
でこれもやっぱり
お昼が12時だって決まってると
やっぱ生活もそれに合わせて
調整されていくから
何時に食べようかって
毎回悩んでたらねやっぱ認知資源の
無駄だと思うんだよねきっと
お腹が空いたから食べようとか
あともうちょっと我慢しようとか
それが意外と良かったりする
だからねこの辺は面白い
生活をどう捉えるかっていう
いやどう捉えるか
僕たちが生活をどう捉えているのか
っていうことを分かると
いろいろ自分の生活も
変わってくるんじゃないかな
っていう気がしますね
第5章はね対比的に思うということで
読書術というか
社会学というと
古典とか論文とか
どう読んでいったらいいのかの話があって
これも紹介するとすごく長いんで
一つだけ紹介すると
先にフィールドに入りなさいと
文献を漁る前に
フィールドに入って
いろいろ見聞きして
驚いた後に
社会学の文献を読むと
そこに書かれていたものと
自分の言っているフィールドとの
差異があったら
それを確かめるために
またフィールドに戻っていく
っていうその往復運動をしなさい
そうやって考察を進めていきましょう
と書かれていて
まずフィールドに入るというところ
これは社会学じゃなくて
僕がやってるのは
ノウハウ論でも言えるんですけど
例えばデジタルノートで
まず使おうよっていう話から
まずちょっとやってみようと
その後読んだ時に書いてあったら
それを取り入れるとか取り入れないとか
っていう考えた方が
まず実感ができますし
判断もしやすいですし
やっぱり自分なりの
使い方を深めていく場合
やっぱりさっきに
文献中毒になる前に
まず使った方がいい
フィールドワークの重要性
っていう話として読めるなというのは
ちょっと第5章読んでて思います
そうですね
統計的におそらく
本を読むのが好きな人は
手を動かすのが遅くなりがちになるとは思う
だからまずフィールドに入る
まずやってみる
プログラミングだったら
まずコードを書いてみる
っていうところから始めてると
むしろその後の理解が
深まりやすい
事例の科学的妥当性
広まりやすいっていうところがあると思う
これは効率から言っても
その方が正しいような気がしますね
最後の第6章なんですけど
これはフィールド
行われてきたフィールドワークとか
それを通して生活を分厚く書く
エスノグラフィーにそのものの
持つ意義っていうのが確認される事例を
通して説明するんですけど
まずやっぱり
科学的な妥当性についての疑問が
抱かれるわけですね
統計的データって
すごく科学的な感じがするじゃないですか
客観的な
でも一つの事例しか見ていないと
そんなもので論文を書けるのか
あるいは書いて妥当性があるものになるのか
ということが
よく学生からも質問がされると
調査者が言うには
事例を説明してるんじゃないと
事例を通して説明しているんだと
事例そのものがある
それは描写するんだけども
そこにある
そこの奥にある
あるいはそこの背景にある
あるいは構造的関係があるものを
説明するという姿勢を取ることで
社会学的な理論とかを
全然無視してるわけじゃない
むしろここにある現象とその理論が
何らかの繋がりがあるということを
示そうとしてる点で
ある程度科学的であると認識できる
ものになるっていうところが
一つの説明と
さっきも出てきましたけど
本格的な事例調査は10年かかると
だから
たった一つの事例じゃないんです
著者にとっては絶対的な一つの事例なんですね
絶対的な一つ
そこのことは知り尽くしている
非常に詳しく知っている
知っているということ
例えば論文にその事例しか
書かれてなくても
実際著者らは
見た事例をちゃんと調べてるわけですね
当然のように
調べたとしても
例えば4つがあって
そのうちのこれが他の比べてどうですか
っていうことをわざわざ書くわけじゃないんですね
あくまでここがこうなってる
っていう一つのAについて書く
補佐的にBとかCについて
触れることはあるかもしれないけど
主題はAであることは変わらない
そのAについて非常に分厚く
書いていく時間をかけて書いていくから
言ったら
たった一つの事例って言うような
軽いもんじゃないわけですね
そこにあるのは非常に濃密な記述
であることが
このエスノグラフィーの一つの
特徴であり
他の論文とは違う点であると
そこで
一般的な
一つの指摘
例えばあれはこうなってるってことだけじゃなくて
なぜそれがそうなってるんだろうと
考えること
例えば貧困
アメリカで貧困のシングルマザーが
仕事につけないっていう状況を
見たときに
いろんなものが背後にあるわけですね
その単純じゃない
例えばその女性が能力を取ってるからみたいなことで
説明できないわけですよ
実際に起こる生活の様々なものを観察してみると
いろんなものが背景につながってる
こういう状況が起きてるのはこれこれこうだ
こういうこともあるみたいなことで
様々な論理の説明が
なされる
これは統計的にある理論を説明するために
この論理が
整理されると
全部省かれてしまうものが
エスノグラフィーの中では
全部豊かに残ってるわけですね
その論理的な背景のつながりが
ある論
一つの論理を説明
完成する論文って
その話だけしかしないわけですね
そこには背後にあるいろんな関係の話は
全部抜かれて
その論理を説明するものだけですけど
逆に生活をしたり
生活に関わる様々な
論理がそこにつながっていることが
見えてくる
だから統計的な
論文が
扱っているものとは
レイヤーが違うというか
視点が違うわけですね
それらと比べてどうこうという話ではないというのは
それを読んでて思いました
様々な関係とか
要因というのを見出せる
これが生活そのものを
分厚く描くことで見えてくるというところは
どういう点かな
エッセイの良さというのかな
雑多なものがそこに入っている
実際現実は雑多なもので
できているわけですから
主観と客観のバランス
そういう雑多さをそのまま残せるという点が
このエスノグラフィーの
科学的な論文としてのエスノグラフィーの
これは結構だから
エビデンスとか
統計的データしか認めない
という人からしたら痛んでしょうけど
むしろ生活のリアルというのは
ここにあるんだろうな
とは思いますね
科学的な妥当性という用語というか
科学とは
この著者が考える
科学とは何なのかというのが
俺が思うものと違うような気がするな
という
イメージが
本書を読めば多分
科学的なというものの定義が
少し変わってくるかもしれませんね
そういうことか
そういうこと
これは結構
論理的というのが国によって違うという話と
ちょっと似ていると思います
そういうのね
そうか
自分が思う科学的というものは
自然界の仕組みを解明すること
はいそれはわかる
うん
でも自然界の
例えば
ビリヤードの球を打ったら
こう力が当たって
壁に当たってあの球に当たって
トントントンっていくっていうのが非常に
モデル化された科学の考え方
シンプルな科学のイメージ
ただ生活はそれに還元できないよね
人々の生活
そこでだから
もちろん統計的な論理の整理も必要なんですけど
そればっかりしているときに
非常に複合的で雑多なものを
科学的な視点で
扱えるあるいは学術的な観点で
捉えられるようにも
なっておいた方がいいんではないかなという風には
僕はこの本を読んでいて思いましたね
用語としてはあれですね
学術的な観点なら何一つ不満はない
そういう言い方をしてもいいかもしれない
だってまあ
その
そこの
大学生が疑問にしている
客観性の問題なんですけど
明らかにそのもの
ある人がフィールドに入って
何かをその人の生活
人事にある生活を描いていく
著者の視点で描いていく統計的データを
使わずにということは客観性が
担保されていないと言われても仕方がない
わけですけども
物の捉え方というのは当然
人それぞれだと
物の捉え方は人それぞれだ
それぞれだというときにですよ
オスカー・ルイス
という社会学者の
ラショウモン的
手法というのがあって
いろんな捉え方があるとして
それをいろんな捉え方があると
ただ並べていく
Aという視点がある
Bという視点がある
Cという視点がある
そのまま並べていくことで
多元的な人々の捉え方によって
現実は違いますよという手法も
もちろんあると
それはいいんだけど
現実は多様ですよね
多様なことが言えないと
これが非常に重要なんですけど
例えばある人が
ものすごく貧困で
困っていると
そのときに
他の国でも困っている人
いますよねって話をしたところで
その切実さは
どこに行くのかというのが
議論のすり替えでしかない
この全てが平地される
ということはAもありますよねBもありますよね
というのは全てフラットになるわけですね
フラットになるということは
そこにある実存的な
思いっていうのが
どこにも行けなくなるわけですね
むしろ捨てさせられると
エスノグラフィっていうのは
むしろそこにあるその人が感じている
その現実を
ある人々にとっての現実を書くと
ポイントは
当然バイアスはあると
問題は私はこういう視点から
見てますよと
つまりバイアスがかかっている
示した上で書くわけですね
だから
むしろそれは客観性じゃないかもしれないけど
ある主観を
客観化することだと
当人が書いている
当人そのままの記述じゃなくて
外部の観察者として
その記述に迫ると
自分はバイアスが起きているということももちろん
踏まえて書くということで
完全な主観でも
完全な客観でもないけども
その主観から客観に
向かうベクトルを起こしているんだ
という話があってこの客観化という
観点は非常に
面白いと思いましたね
そうかだから多分なんだけど
著者が言おうとしている
科学的ということは
俺が思う客観的ということと
イコールにしたいのかな
まあそこはどうか分かりませんが
少なくとも
先ほどの言葉で学術的に
意義があるという
それは聞いていて思います
特に統計的データでは
失われていくような
人の性のリアルみたいなものを
記述して
そこに何かしら感じるものとか
問題視するものとか
あるいは共感するものがあったときに
それをちゃんと論文として
残していく社会問題として定義していく
っていう素材になっていく
という一つの役割みたいなのが
あるんではないかなということで
6章はそういうふうに
この手法で本当にいいのか
っていう疑問について答えているのが
第6章でございました
ここまでも結構
触れてきたんですけど最後にちょこっとだけ
やっぱりこの本を読んで
一番考えたのはやっぱり自分の仕事
に関してなんですけど
やっぱりこれまでずっと
ノウハウ書を書いてきたときに
書く仕事をしてきたときに
どうやってノウハウ書を書いたらいいのか
っていうのはずっと考えてきたわけですけど
一番最初は
例えば知的生産の
技術だったら知的生産の技術の
原理みたいなものを解き明かして
言ったらそのプリンシパル
統計的から
統計的データから導き出される
モデルを作ろうみたいなことを考えてたわけですね
いろんな人の話を聞くと
みんなバラバラなんですよ
エスノグラフィーの可能性
モデルを作るということはそもそも無理ではないか
っていうふうに
いたったんですけどそうしたときに
それぞれの人はみんな好き勝手やってるよね
終わりでは
これ話にならないわけですよ
当然僕は自分がやってることを
語りたいわけですけど
それを例えば
ただ自分がこうやってると語るだけでは
なんていうかね
袋工事に入ってしまう
他の人に役立つ何かが
示せない
このジレンマモデル化の不可能性と
個人に閉じた技能の
間をどうしたらいいのか
ずっと考えてたんですけど
本書から得られた視点でいうと
こういうふうに書けばいいんだ
というふうにちょっと思ったということなんですね
さっき言った客観化
つまり主観的な方向であって良しと
それをある程度客観に向けて
開いていく
完全に客観的なものじゃなくて
客観に向けて開いていく
書き方をすればいいし
それはエスノグラフィーが
生活を分厚く書くって言ってますけど
こういうほにゃらら知的生産術
っていう方法論でまとめる
というよりはある種のエッセイとして
自分が具体的に
どういうレベルで何を考えて
どう実践しているのかを
記述していくような方が多分
役に立つ本になるんじゃないかな
というのを
つまり例えば
新しいメールを
読んでてなんかこれこれこういう
タスクが発生しそうやっている時に
自分が何を実際にしているのかを
何を考えてどう処理しているのかを
示した方が
情報処理のシステムとかを
提示するよりは
むしろ役に立つんじゃないか
それがむしろ客観化に
つながるんじゃないかなっていうのを
読んでてありまして
これは第何回かで忘れましたけど
普通の相談っていうところで
二つの曲があるという
論理の話と実践の話で
二つの曲があるっていう話があったんですけど
そこに通じる話だなと
エスノグラフィーのような
科学的かどうか
疑問させられるような
でもしかし学術的に意義があるような書き方
っていうのを多分自分の
ノウハウを書くっていうことに
活かせるんじゃないかなということを感じたんで
すごく単純にエスノグラフィーについて
向いた興味もありますけど
それ以上に何かを書く
書き表すという
方式フォーマットについて
かなり目が開かされた
実践と理論の対比
本だった
っていうところが
一番大きな感想ですね
俺は多分
昔からこっち側から
しか書けなかったなって
すごい思っていて
むしろ
自分として必要なのはなので
いかに客観に近づけるか
っていうのを
この10年ぐらい
試行錯誤してきた
ような感じがしますね
やっぱり僕はこの
梅沢太郎とかいう学者に
憧れを持ってたんで
どうしても
学者的なものに対して
憧れみたいなのがずっとあって
そういう
学者は構造を
持っているみたいなイメージがあったってことなんですかね
それは
ある種のプリンシパルで整理して
体系化するのが偉いみたいな感じが
あったんですけどやっぱりそれは
ある種の理論ではできるけど
実践では多分無理なんで
生活に付随する方法というものでは
多分無理で
そこはこの本より
そこを目指す必要は多分無いんだなと
研究する人は研究する人で
別にいいんですけど
僕としてはこっちのタイプの
分厚くディティールを
記述していくような
本の方が多分いいでしょうし
ちょっと前に
考えの育て方っていう
KDPの本を出したんですけど
自分が
いかにデジタルカードで
失敗してきたかっていう話なんですけど
あれ結構エスノグラフィっぽい
雰囲気としてエッセイっぽい
ノウハウ処理になってたと思いますし
あれ結構反応が良かったんで
そこがあれですね
おそらく今回の本で
かなり明確に言語化された
自分がやってきたことそういうことやったんだな
って振り返りながら確認してきて
おそらく今後もこういう形で
なんかある種の
方法論を固めるというよりは
自分がやってることを
そのまま分厚く書いていく方が
いいんじゃないかな
っていうことを確認できたんで
仕事人生において
インパクトに残る本になりました
俺個人的には
この話を聞いていて
なんかねすごいね
いい意味でね文学みたいな
学問だなと思って
近いと思うそれは
小説書くのとめちゃめちゃ近そうだな
っていうか
小説もディティールを大切にするからね
逆に言うと
小説にも
そういう効果があるという言い方ができるような
気もするし
一応エスノグラフィーは
社会学の論文やから
事例を記述した後に
既存の社会学の
理論と結びつける作業が行われるわけですけど
小説はディティールだけですよね
そこの違いはあるにしても
ディティールから話を始める
という点は似てますし
例えば哲学で言うと現象学的なものも
こっち側に属するでしょうねきっとね
うーん
最近小説を読んでいるとね
そういうことばっかり考えるようになったね
うまく言えないんだけど
その物語的ではないことを
見るようになった
っていうと
これは多分なんだけど
エスノグラフィーを読むのは
小説を読むのと同じ感覚なんじゃないかな
っていう想像ができる
小説を記述している部分を
読むときは近いですよね
人の生活に入り込む視線を持つということですから
それは多分似てると思います
フィリピンの葬式のシーンとかも
まんま小説の書き出しやんって思ったんですよね
これで一本小説書けるやん
っていう想像
イメージで
どっちも生活を
日常にあるものを
決して無視しない
そこから話を始めるというところで
特に普通の小説
とか現代的な小説
とっぴなSFじゃないもの
の描き方は多分
共通項があるでしょうね
という感じで
もともと物語的にしか
エスノグラフィーに対する理解
物事をうまく
認識できない自分としては
非常に
分かりやすかった
どういう言い方をしたらいいんだろう
イメージしやすかった?
そういう感じかもしれない
っていう話だった気がします
エスノグラフィーに興味がある方は
超おすすめですけど
それ以外に書くとか
学術的なことを
深めたい方は
いろんな観点がいられる本かなと思います
俺はちなみに
この本の名前を聞くまで
エスノグラフィーという用語は
全く聞いたことはなかったです
そういうものなのね
っていうイメージができた気がする
ということで
今回のご意見ご感想などは
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あとはサポーターも
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よかったら概要欄などから詳細ご覧ください
それでは今回も
お聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
01:07:35

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