自己啓発と社会の考え方
はい、シゴクリラジオ大橋です。シゴクリラジオは、パーソナリティである私、仕事クリエイター大橋が、仕事づくりに関して話をしていく番組となっています。
今回ですね、テーマは若干、自己啓発と言いますか、仕事術、ちょっとわからないですけど、考え方みたいな話ですね。
要はですね、僕が社会と言っている言葉の定義というのは、自分も含めて、日本なら日本社会というのがありますが、大きな集団に属している。
共同体というのは、妄想であるみたいなこともできるんですけど、社会生活集団みたいな、世帯ってそうじゃないですか、整形を一にするみたいなのがあると思いますが、一にするか。
そういう感じで、かかっているコミュニティ、社会集団というのがあるわけですよね。
そういった中で、例えばマナーが悪いとかルールが違反だみたいなのがあると。僕がそれを動かしていないわけじゃないんでしょうけど、人によってはそれを不快に思ったりもしくは怪いと思うというようなことがあるかなと思います。
今回言いたいのは、なんかよくわかんないよね、みたいな人ってなくなるかっていう話なんですよ。これは結論的になくならない。
これって仕事づくりにどう関係がするかなんですけど、100%気持ちが良いことっていうのがあり得ないと僕は思っているんですね。
割合ですよ、さじ加減ではあるんですけど、あまり理想を追求しすぎるのもどうかなっていう話と、一方で、わかんないなみたいなのがある程度ある方が健全じゃないか説っていうのを話していきたいと思います。
心得じゃないですけど。そのあたりの感覚、価値観についてご興味ある方はぜひ引き続き聞いてみてください。今回もよろしくお願いいたします。
はい、四国にラジオ大橋です。
まずですね、テーマに入る前に、昨日ですね、ゲスト回テルイさんを迎えしてですね、特に公務員になったかみたいな、そのあたりの話を聞いている回ではありますので、
テルイさん、テルイ節ですよね。ぜひご堪能いただいていければいいかなと思います。
何だっけ、1000回ですか、バックナンバーから見えますので見てみてください。
今回ですね、冒頭でお話した通りで、自分が、リスナーのあなたが所属している社会、集団、コミュニティ、何でもいいんですよね、家族から、家族、家庭、会社、仕事をしていなかったら無職の方でも別にコミュニティありますし、
いろんなものがあると思うんですが、自分の中で想像してみてください。
そういうところで、みんながみんな気持ちいいってなかなか無くないですか。
それってそうだなと思うんですよ。
抽象的かもしれないですけど。
それこそ、人が集まれば嫌なやつというか、会わない人が出てくるみたいな。
一方で、そこから離れたらいい人ばっかりかというと、必ず会わない人が出てくる。
会わない人というのは、気が合わないみたいな、そういうのだけじゃなくて、何か想定してないよねとか、もしくはトラブルと言ってもいいでしょうね、を引き起こしてきたりする。
20代、もしくは学生の頃に考えたんですけど、そういう人たちがいない世界、ユートピアというか、それは変なんですけどね。
理想郷というのは自分にとっての理想郷ってことを言ってますね、今ね。
そういう理想の世界はあるんだろうか、みたいな。
現状ですね、冒頭で挙げたように、そんなのないんですよね。
なんかわかります?
要は自分だけが周りもそうだし、閉ざされてて、ごくごく一部の社会、世界、ワールドで生きてたら、それはたぶん成り立つと思うんですよ、そういう世界はね。
ちょっと意地悪というか、ちょっと嫌な言い方かもしれないですけど、うがってはないですね。
うがったっていうのじゃなくて、本質的に言うと、それは実は自分が一部しか見ようとしていないというのではないかっていうところがあるんですよね。
たぶんね、というとこです。
一方で、嫌な人とか、自分がストレスがかかるような人と毎日付き合い、それですり減って自分が身の危険を感じるとか、自分が大変だっていうのは、まず言っとくんですけど、それは違います。
そこまでは言ってない。だから、さじ加減なんですよね。
そんな感じがします。
たぶん。
それだと、もう自分は離れた方がいいですよね。
向こうから離れていくことは結構ないですよね。
僕の経験上そういうのはなくて、自分から離れていくしかないみたいなことが多い気がしますね。
だから離れていった時に、もう終わりだとかじゃなくて、次に行けばいいかなっていう感じですよね。
適応力が高い人はその次に行こうっていうのが、結構ポジティブに捉えている感じがします。
なんかちょっと違うんですけど、商店街じゃないですけど、あんまり人気がない場所があったり、あんまり荒れてるとは言わないですけど、人が来ない場所で、クリエイターみたいな人たちがいるんですよ。
古着だとか、ものづくりだとか、なんでもいいんですけど、そこに店を借りたりして、人が集まってくるようになる。
そうすると古着街みたいなのができたりすると。
みんなが絶対そうなるとは限らないですよ。
できるじゃないですか。
そうすると人気になるから、そこの土地代ですよね。
賃料が上がっていって、そこに今度は人気のショップがあるからということで、住宅ができてマンションができて、どんどん土地の値段が上がるんですよね。
人気があるってことはみんなが買いたいっていう、それだけの真理ですね。
そうすると元からいた若いクリエイターの人もどんどん年を取っていくんだけど、その人たちの賃料みたいなのがどんどん上がっていって、
売上がしっかりあるんだけど、それを超えてくるぐらいもしくは負担がかかるようになってきたんで、もうこの街にはいられなくなるみたいな。
割と都市開発とか、街の開発ってことでいうと、あるんじゃないかなと思います。
専門的にやってるわけじゃないんで、そんなのはレアケースかもしれないっていう人がいたら、ぜひ言っていただきたいんですけど、そうではないのかなと思ってます。
その時って、じゃあその場所で誰もいらないから、パイオニアみたいな開拓者みたいな感じで、自分が店をやるぞって言ってやっていって、最初誰もいなかったけど、
っていう人はどう考えたらいいのかっていうと、そこに固執して、今まだここの街を守るんだみたいなのも考え方によってはありますよね。
守るっていうのはちょっと変ですけど、でも賃料を上げたりするっていうのをみんながみんなしなくても、結局周りの経済、活動に合わせて上げていくことになるから、
結果的に追い出されてしまうっていうことが、追い出す意図がなくてもないと。
その街がもう錆びずに、ずっとまた新しい人が来てみたいなことを繰り返していったら栄えるんでしょうね。
だからどうってわけじゃないんですけど、その時に一つの視点として切り取ると、最初に入っていった若い人たちというか、これからやろうとした人たちが盛り上げていって、
それなのに追い出されてしまうという、それだけ見るととても悲しいようですけど、そんなもんなのかなと俯瞰して言うと思うわけですね。
その時に固執せずに次に行くみたいなことをふと思い出しました。
なんでこんな話してるかというと、くどいですけど、自分がやむとかストレスを抱えて動けないになったらやり過ぎですけど、
そうじゃなくて100%きれいと言いますか、理想と言いますか、うまく動けるってことって多分ないのかなと思うんですね。
コミュニティの形成と挑戦
例えば客商売であれば変なお客さんが来るとか、イベントをやる人だったら変な人が来るとか、トラブルを起こす人が出てくるとかあるんですよ。
それは別に闇でもなく、実践としてあるような気がしてて。
なんでかというと、それはネットで言えばアンチと言われている言葉。
アンチってなんだろう?アンチパーソン?何なんですかね。
アンチっていうのは反対能みたいな意味ですよね。
テーゼだったらアンチテーゼみたいな。
反発する人みたいな人で、あまりいい意味じゃないですよね。ネチネチ攻撃するとか、批判ではないですよね。
誹謗中傷までいくみたいなのがあるから、批判じゃないみたいなね。
アンチの定義は置いておきましょう。
そういう時に想定していない人が出てきたりすると。
これは一つの広がったというふうに、友人とも話したんですけど、広がったというふうに捉えられるような気がしますね。
そのコメントでもいいですね。
そういうのって、僕からすると社会という集団において、自分自身が所属していたり見ている社会集団というのがとても限られているなと。
僕自身が思ってまして。
もしかしたらリスナーのあなたは、僕が広い世界を見ているような気がするかもしれないですけど、ものすごく閉じられた、もしくは一部しか見えていないと思ってます。本当に。
そうなんですよ。
もっと言えば、自分が関わる人って限られた人ですし、その人たちと一生を生きていくという大げさですけど、その中で生きていくという感覚もあったりします。
一方で会わなかったら、ここから離脱したいという気持ちの余裕みたいなのが欲しいですから、そういうのは開拓をさぼらずにやったほうがいいかなとは思ってます。
冒頭お話した通り、自分が所属していたり関わっているところで、その立層ではない。
要は自分が100%気持ちよくやれるような状況っていうのは、作らなきゃいけないんですよね。
仮に作れたとしても、100%コントロールできる状態ってないんじゃないかなと思います。
要は気候変動しかり、災害しかり、自然も天候もあるじゃないですか。
あと人ってコントロールできないじゃないですか。
組織を率いる方もそうでしょうし、あと自分自身ですよね。
自分自身の気持ちもすらコントロールできなくないですか。
できます、100%。
そんな人は僕はあんまり見たことなくて、気持ちが乗るから人間って面白いんじゃないか。
もしくはそれがミスってたり、こうしたいんだけど体が動かないとかね。
それが面白いというよりも、人間らしいんじゃないのかなって思って話してます。
だから100%いい感じのところって多分ないんですよね。
っていうふうに僕は少なくとも考えて生きてるよっていう、そんな話ですね。
だから別に理想のものを追いかけるとかがダメじゃないんですけど、追いかけたとしても100%のものにはならないんじゃないですかって話です。
一瞬でも100%になったなと思った瞬間にまた壊れ始めるというかね。
身も蓋もないというか、夢もないかもしれないですけど、でもそんなもんかなと思います。
少なくとも、そこで周りとか他人とか社会とか集団とかコミュニティとかに、要は周りの他人の人ですよね。
周りの目じゃなくて周りの人自体を気にするか、もしくはその人を理解したいかと思うかっていうところでいくと、僕は割と理解したい。
だけどさっき言ったように攻撃されたりとか、こちらにヒゲが出るのであれば話はもう全然別の話で、そうじゃないという前提で、
こういう考えの人もいるんだなとか、こういう確かに理解もしようともできるんだなと。
理想の危険性
だけどそれも限度がありますからね。要はハイコンテキストと言われている文脈依存をするところで、その文脈の一部だけ切り取って、
攻撃するぞとかいうふうに取ったら全部切り取れるじゃないですか。
だからその切り取りっていうのの難しさというか、文脈を無視してそこだけ切り取ればっていうのはいくらでもできるわけです。
意図をすれば逆に全く逆のことも伝えられる。
全人類が、日本の人、日本にいる国民は全員学んで賢くなっていったっていうふうに思ってたんですけど、そんなことないですよね。
それはそうなんです。それは幻想なんですよね。
だからそれって僕がそう思いたいだけであって、なってるから別じゃないですか。
一方でもちろんネット社会なりSNS社会で慣れていって、なんかでっていうふうなリテラシーが増えていって、
見聞きできたり判断を流布したり、そんな簡単にデマだとか、フェイクニュースが難しいですけどね。
だけど本当かなっていう批判的に思うところがあるかないかみたいな問題もあって、本当かなって。
この人言ってること本当かなって思ってる方が僕は健全かなっていうふうに思ってます。
だけどそれが底上がりしたとかはないし、関係ないかなって思ってたりします。
だからもちろん一方でクローズドにしてコミュニティを閉じれば、関係性を閉じていけば、理想の関係みたいなのが100%になっていくと思うんですよ。近い。
100%ならないけど、95%。だけどそこで失うものは他の社会とかコミュニティとかの周りに対する感覚とか反応っていうのがなくなる。
織田島太郎状態じゃないんですけど、そうなってしまうんじゃないかなと思ったりしています。
だから良くも悪くも、悪く言えば自分と違うというか違うものも取り入れていくっていうことが大事だし、その違和感とか違うなと思いながらもやる感覚。
こういう人が違うなっていうところが、もしその違いが今ない、完璧にルーティンというか崩れてないというか違いがないんだったら、それは多分僕からすると崩壊というか良くない状況じゃないかなと思う。
そうじゃなくて適度な違和感というか違いを感じられるようであれば、それは割と理想的なもので。
それが強すぎるとストレスになるので環境を変えていくと。
この環境構築とかを一生やるというか、一生やっていくんじゃないのかなっていうふうにふと思いました。
だから一般的にはちょっとわかんないですけど、自分が気持ちよく動けたり働けたり生活できたりするので良さそうじゃないですか。
わかりますよ、それはそうなんです。
だけどそんな気持ちいいところだけってないかなと僕は思ったりします。
幸せな青い鳥じゃないですけど、そんなんないですよ。
どちらかというとそれを探すのであれば、自分で作っていくというのと探すのは両方セットでやっていってどうかというのが僕からの提案になるかなと思います。
今回はそんな感じで考え方ですよね。
コミュニティとか社会に対する感覚みたいなことを少しアウトプットしてみました。
久しぶりじゃないですかね、こういう話をするのね。
異なる視点の重要性
そんな話もしてますけど、主語くり的には無理に結びつけるわけじゃないですけど、
あまりにも理想100%とか150%200%を目指すのは多分それ実践的じゃないですよね。
ゲームというかね、空想的なものになっちゃう。
わかります?
サバイバルゲームじゃないけど、マインクラフトとかね、建物を作ったりとかできますけど、そこの理想の境を作るのは全然ありなんですよ。
だけどそれ実践となると現実になると、それは現実にできないじゃないですか。
もちろんそれを叶えようとして実現化していくのもありなんですけど、多分いろいろ違ってくるわけじゃないですか。本当に。
理想境って美しいんだけど、それは理想たるものがないからこそ美しさを感じるみたいな意味はあるんじゃないかなと思ってます。
ないから美しいみたいな、現実にね。
もしくは現実にないものをそこに人が見るんじゃないでしょうかね。
カルト集団とかもね、そんな思想があるような気がしますけど、それはぜひ気をつけてくださいね。
情報を遮断してね。だからコミュニティもそっちになるわけですよ。コミュニティも情報遮断し、何も与えずにそれがいいんだ、いいんだってずっと言い続けたらやばいわけですから。
それは足跡が聞こえてきたりすることもありますからね。
カルトがどうとかってことはないんですけど、少なくとも、あまり理想境を目指すと、そういうふうに足を踏み入れてしまう可能性もなくはない。
異物とは言いませんけど、お互い様ですよね。僕が異物っていうものじゃないですけど、異文化なり違った考え方ってことを持って、それを評価していただくこともありますから、
そういう違う考え方って、めちゃくちゃ大事なんですよね。それを受け入れられなくなったり、嫌だって思う人は、僕からすると塩梅が壊れてて、
酸っぱいのか、甘いのか、甘え梅みたいな梅干しみたいな、蜂蜜とか入れれば甘くなりますけど、それちょっと梅干しじゃないよねみたいな、それをどこまで許容できるかってことですね。
蜂蜜入れ梅干しを作っている人を否定しているわけじゃないですよ。バランスとしてどういうところでいくのかっていう。
甘々でいきたいっていう人もいると思うんで、それはそれこそ揉まれてあまりジーガーとかをあまり考えずに周りに貢献していくじゃないけど、貢献ってちょっと違いますね。周りの主導でいきたいみたいなのは。
周り、他人トリガーみたいなのでいきたいっていう人もいらっしゃると思うんで、それはちょっと僕もわかんないです。自分に合うものをやっていくしかない。
だけどそれは理想郷として、理想としてあまりにも作りすぎると今度は適応できなくなるっていうのないですかっていうところを一旦投げかけて今回は終わりたいと思います。
なんで私国理的にはその適応がいろいろできた方がいいので、案外としてちょっと伝わったかもわかりませんが、適度に違和感、もしくは適度な違いっていうのを受け入れつつね、それがあることがいいんじゃないかって逆になくなったらそれは何か違ってないかっていう。
みんないい人なんですよねって。多分ないって僕は思います。だから誰がダメとかそういうことは言わないですけど、そういうのって大事かなと思いながら生きてます。というわけで今回は以上となります。
私国理ラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。以上失礼いたします。