判断のメカニズム
自分に優しくするラジオ
こんばんは、そしてお目覚めの方はおはようございます。自分に優しくするラジオ、パーソナリティのソフィです。
この番組は、哲学・対話・身体・関係性・精神性の5つの軸から、自己一致とメンタルの安定を静かに探求するボッドキャストです。
さて今回は、第3章の締めくくりとして、哲学・心理学・臨床・言語構造・非暴力コミュニケーション・メタニッチ・主観と客観の統合モデルをすべて織り込み、判断から自由になるとはどういう状態かをお話ししていきます。
題しまして、第3章、心の声を聞く、第6回、人を苦しめるのは事柄ではなく判断である。判断が世界を作っているんですね。
例えば、思い描いていた未来が崩れたとき、人間関係が壊れたとき、何かを失ったとき、私たちはすぐに悲劇だと判断してしまいます。
でも、ストア派の哲学者エピクト・テトスはこう言いました。
人を悩ませるのは事柄そのものではなく、それに対する判断である。起きた出来事ではなく、それをどう見たか。この見方こそが苦しみの源になるの。
今日は判断とは何か、なぜ人はそこに苦しむのか、そして判断を緩めて生きるという新しい自由について考えていきましょう。
その前に前回の振り返りです。前回は、なぜ操縦すると心が整うのかというテーマでお話ししました。
思考から離れ動作を観察している距離と、今ここで何かをしている現在か、これらが揃ったとき、人はようやく自分の思考を穏やかに眺められる。
操縦とは思考を客体化する身体的プロトコルというふうに言いました。
なんとなくやっていたことに理由があって、新しい発見でした。
まだ聞いていない方はアーカイブもどうぞ。
それでは今日も最後までお付き合いください。
出来事は中立です。試験に落ちる。人に拒絶される。プロジェクトがうまくいかない。
これらは単なる事実に過ぎません。でも私たちはそこに意味をつけます。
私はダメだ。拒絶された。終わりだ。この瞬間、事実が物語に変わります。
苦しみは事実そのものからは生まれません。苦しみを生むのは意味付けという思考の反射です。
私たちは生き延びるために世界を解釈してきました。
けれどその解釈の仕方が固定化すると、出来事よりも自分の判断に縛られて生きるようになります。
私が気づいたのは、現実の辛さより解釈の辛さの方が深いということです。
例えば、ある企画が思うように進まなかった時、私は無意識にうまくいかないイコール自分の能力不足と結びつけていました。
でも本当は状況が整っていなかっただけ。失敗という言葉を使った瞬間に私は自分を観察することをやめ、物語の登場人物になってしまった。
人は判断によって世界を閉じる。逆に判断を観察できるようになると世界は再び開く。
ストア派の言葉がここで生きてきます。私たちは事柄ではなく判断によって苦しむ。
では判断が生まれるプロセスとはどういったものでしょうか。3段間やります。
1.刺激の需要。出来事が起きる。脳は下界の変化を知覚する。ここにはまだ意味はありませんね。
そして2.感情の反応。扁桃体や自律神経が動き、身体的な感覚が起きる。不安、怒り、緊張、これは反応であり、まだ判断ではありませんね。
では3つ目。意味付け。これはどうでしょう。これは悪いことだ。失敗した。拒絶された。この瞬間世界が物語化されます。
この3つのうち変えられるのは3番目だけ。出来事も感情もコントロールできません。けれどこの出来事をどう解釈するかは選べます。
つまり自由は判断の外にあるのです。判断を緩めるための技法としてNVC、非暴力コミュニケーションを私は採用しています。
心理学者マーシャル・ローゼンバーグが提唱した通称NVCは評価ではなく観察から始めるという実践法です。
まずはじめに観察。評価を入れず事実だけを描写する。例えば会議で私の提案が採用されなかった。これは事実ですね。
2番目。感情です。それに対して何を感じているかを言語化します。例えば少し落ち込んでいる。
そして3番目。ニーズです。感情の奥にある満たされなかった欲求を探るのです。例えば尊重されたいとかもっと貢献したいとか。そして最後にリクエストです。
その必要を満たすために具体的な行動を提案します。例えば次のミーティングでは意見を共有する時間を増やしたいなど。
NVCは判断を削ぐための構造言語です。感情を観察に戻すとき、人は世界と再び対話できる。判断をなくすのではなく、透明化する。
主観と客観の関係
これが意外と難しいんですね。思考の癖があって、透明化しているつもりでも透明になっていなかったり、もともと私たちはそれぞれの色眼鏡を持っています。
ですからここでも完璧を目指さず、できるだけそうしようと心がけることが大切なのではないでしょうか。
私はこのラジオの他に、日常生活でもなるべく自分に優しくすることを実践しているのですが、その中で気づいたことがあります。
主観でつながり、客観でリフレーミングするということ。
悲しいと悲しいと感じているは違います。気持ち言葉ですよね。前者は主観。体が反応している一次体験です。後者は客観。思考がその感情を観察している二次体験。
主観があって客観がある。主観で自分とつながり、客観でリフレーミングする。
この構造を理解すると感情に巻き込まれずに感情と関係を持てるようになります。悲しみを消すのではなく、私は今悲しみを感じていると語れるようになるのです。
この距離こそが判断の暴走を止めます。ストア派が言う判断の分離とは、冷静になることではなく、主観と客観を往復できる柔軟性のことです。
それがメタ認知であり、成熟した認識の構造です。心理学者ジョン・フラベルが提唱したメタ認知は、自分の思考をモニタリングする能力、自分の中で起きている思考、感情、判断のプロセスを観察する力です。
5つのステップを用意してみました。
1.出来事を観察する。〇〇が起きたと事実を記述。
2.感情をラベリングする。私は今〇〇を感じている。
3.ニーズを確認する。私は〇〇を求めている。欲求ですね。
4.思考を観察する。これがメタ認知。私はこの出来事をこういう意味として捉えている。
5.新しい解釈を選ぶ。これは失敗ではなく、再設計の機会かもしれない。
この5ステップで判断は反応ではなく、選択になります。苦しみを感じる瞬間は判断が自動化された瞬間でもあります。
そこに関節が入るだけで自由度が戻ってくるのです。
主観だけでは溺れるし、客観だけでは凍ってしまう。その間を往復できると人は成熟するのかもしれません。
心の声の重要性
心の声とは、主観の真実を客観の明石され包み直した音。つまり、体験と理解が一つになった時、響き渡るもの。
今日はストア派の哲学とNVC、そしてメタ認知を軸に判断というテーマを見てきました。
判断をなくすのではなく、判断と距離を持ち観察する。
その距離が余白を生みます。余白の中で心の声はようやく聞こえてきます。
人を苦しめるのは事柄ではなく判断である。
この言葉の意味は、出来事を冷たく受け流すということではなく、出来事を自分の意識の光で照らし直す自由を取り戻すこと。
主観で繋がり、客観でリフレーミングする。その往復の中に人は自分を取り戻すのかもしれません。