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こんばんは、そしてお目覚めの方はおはようございます。 自分に優しくするラジオ、ソフィです。
今日のテーマは、ルッキズム。 けれどこの話は見た目の話ではありません。もっともっと深い、自由のお話です。
誰かの視線に触れた瞬間、私たちの呼吸は少し浅くなります。 その視線が好意でも悪意でも。
見られていると感じた時、私たちは自分であることを一瞬忘れてしまう。 フランスの哲学者、サルトルは言いました。
他者のまなざしの中で人は物になる。 けれど私は思います。
同時にそのまなざしの中でも自分を選ぶ自由があると。 今日はその自由のお話をします。
見られることと自分であることの間で私たちはどう生きられるのか。 そしてその体をどう愛せるのか。
前回は身体反応としてのトラウマでした。 私たちは過去の痛みを記憶としてではなく、体の反応として抱えています。
安全を失った瞬間、体は守るように固まり、その防衛が長く続くと安心して存在するという感覚がやがて失われていきます。
けれど私たちはその反応を理解し直す自由を持っています。 恐怖に縛られていてもこの体は私を守ろうとしていると気づくことができる。
今日のテーマ、ルッキズムも同じ構造を持っているのではないでしょうか。 見られていることに緊張し評価されることに身構える、それは社会的トラウマとも言えるでしょう。
私はこれまで、そして今でも何度も見た目を意識してきました。 意識せざるを得なかったんです。
MCという仕事柄、皆さんの前に立つということが多く、綺麗ですねとありがたいことに言ってくださる方もいらっしゃいました。
でもどこかで実は胸がざわついていました。 なぜなら、褒め言葉の裏に美しくなければ勤まらないんだという声を感じてしまったからです。
存在そのものが条件付きに感じられたんです。 美しいなら存在していい、美しくないのならふさわしくない、
そんな取引のような思考が静かに自分の中に染み付いていきました。 私は加工アプリなしではとても自分の顔を晒せません。
整えた画像を見ると少しほっとするんです。 今思うと、それは同時に私は比較される対象になったのです。
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他人ではなく社会が作った理想像と比較して、 美しさ、若さ、痩せていること、
それらは商品としての理想であり、広告やメディアが作り出した消費されるからだ。 そして私たちはそのイメージを自分の内側にコピーする、それを自分の価値の基準にしてしまう。
でもそれは、誰かの物差しに自分の存在を預けることなんですよね。 そうしていつの間にか、生きる主体ではなく、評価される対象として生きてしまう。
ここで世界で起きている変化を見てみましょう。 ルッキズムとは外見による差別に対して、
世界では今、法や文化のレベルで見直しが進んでいます。 フランスでは外見差別禁止法が制定され、採用や教育の現場で見た目を理由に扱いを変えることは違法です。
考えてみれば法律など制定しなくてもそうであってほしいと思うんですけどね。 アメリカ・ニューヨーク市では2023年、体型や身長による差別禁止法が施行されました。
肥満や体格の違いで不利益を受けないようにする試みです。 韓国では履歴書から顔写真欄を削除する動きが進み、就職活動の文化そのものが変わり始めています。
一方、SNS上では美しさの多様化も進みつつあります。 ありのまま、個性、ナチュラル、
BDRがその代表でしょうか。 しかしその一方で、加工文化もさらに洗練され、AIが生成する理想的な顔で溢れています。
私もこちらに乗っかっています。 だって楽しんだもん。なんか変身願望とかあるじゃないですか。
ありません? なんかわーすごいみたいな。
つまり、理想像は姿を変えて再生産され続けているのです。 次に心理学から見たルッキズムの影響を見てみましょう。
お勉強みたいですね。 心理学の研究によれば、SNSの利用時間が長いほど自分の外見への不満が高まる傾向があると言われています。
外見の比較は自己価値を外部依存させ、自分を信じる力を弱めていく。 ただし、見た目を整えること自体が悪いわけではありません。
それは自己表現であり、安心のための儀式でもある。 問題なのは、整えないと愛されないという思い込みに支配されること。
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それが心の平和を奪う構造です。 ここで哲学からの視点を補助戦にしてみましょう。
哲学者サルトルは言いました。 他者の眼差しの中で人はものになる。
見られることで私たちは自由な存在から固定された存在へと変わる。 あの人はこういう人だとラベルを貼られる瞬間、私たちはそのラベルに自分を合わせてしまう。
ラベリング理論とかありますよね。 しかしサルトルはそこから逃げるのではなく、眼差しの中でなお自分を選ぶ自由があると説きます。
つまり自由とは見られないことではなく、見られながらも自分であること。 見られることを恐れずに誰の視線を通しても自分であり続けること。
その選択が存在の自由を取り戻す道だというのです。 かっこいいですね。
あなたが美しいと感じる瞬間はどんな瞬間ですか? その基準は本当に自分で選んだものでしょうか?
SNSを見て落ち込むとき、それは他人の光に照らされているのではなく、自分の光を一瞬忘れているだけかもしれません。
もし今日鏡を見たのなら、直す場所ではなく好きな場所を一つ見つけてください。 私もやってみます。
そして見た目を気にしてしまう自分を責めないでいようと思います。 外見を読み取る脳は人間としてごく自然な反応ですよね。
進化の過程、生き延びるための機能だったのではないでしょうか。 大切なことはその反応を悪と断罪しないこと、理解し引き受けること。
そこから自由が始まるような気がします。
今日のテーマはルッキズム、他者の眼差しの中で自由を生きるでした。
見た目で図られる社会の中で私たちはどうすれば自分であることを守られるのか。 その答えはもしかすると抵抗ではなく理解にあります。
他者の眼差しを恐れず、その中でも静かに呼吸しながら自分という光を選び続けること。
ルーでもハブでもキャンでもない、ビーの私たちを祝福しよう。 ここまでのお相手はソフィーでした。
またね。