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こんばんは、そしてお目覚めの方はおはようございます。自分に優しくするラジオ、ソフィーです。
今日は、ジェンダーと自由についてお話しします。けれどこれは、社会運動としてのジェンダーではありません。
私たちが日々の中でどう誰かと関わり、その関係を通してどう自分になるのか、その根本のお話です。
人は、生まれた瞬間から誰かの子供です。でも、母になる、父になるというのは、生物学的な出来事ではなく、
関係の中でゆっくりとかたちづくられていくプロセスです。
ここで前回のおさらいをしてみましょう。前回はルッキズムについてお話ししました。
見た目で価値が決まってしまう社会構造、そして他者の眼差しの中でどう自由を取り戻すか。
その回で私たちは、見られる体を越えて自分で選ぶ体を考えました。
今回はその続きを、見られる存在ではなく、関係の中で生まれる存在としての私たちを探ります。
少し私の話をさせてください。
私は母親としての役割を通し、自分のアイデンティティーを見出せたような気がしました。
母親という衣を脱ぐことはできません。なぜなら、私は母親だから。
後戻りもできません。意思を持ち、選択しました。
意思を持ち、選択しました。
しかしまだ人間ではなかったのです。
子供たちの母親として役割を全うしていく中で、間違い、戸惑い、反省し、学び、そして人間になっていったのです。
では、これまでは人間でなかったのでしょうか。
いいえ。
関係性が立たれた環境にあって、私は無償の愛を子供たちから始めてもらったのです。
そのことを通し、真に人間になったのだと思いました。
なぜなら、私たちの本質は愛だということを彼らが教えてくれたから。
子供たちが私の光、すなわち愛を鏡のように映し出してくれたのです。
これは私の人生のほんの一部です。
私は母親であることを通して自分を見出しました。
母という役割を持つことで、私はようやく誰かとして世界に存在できたような気がしました。
けれどそれは同時に重さでもありました。
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良き母でいよう。傷つけてはいけない。守りたい。
役割の義務感が葛藤を起こしました。
そしてある時、子供たちと離れることを余儀なくされました。
母親という役割の基盤が崩れ、私は初めて空洞に向き合いました。
泣かない日はなかったと思います。
私の空洞をくぐり抜けて誕生した命、母である役割を全うできない私、自分は不完全だと思いました。
でもその役割は、母、妻、娘、姉、友人、同僚、恋人、さまざまな役割の中の一つに過ぎなかったのです。
哲学者ハイデガンは、人間は他者と共にある存在だと言いました。
私たちは孤立した個体ではなく、関係の中でしか立ち上がらない。
母と子という関係もまた存在の形の一つです。
母親というのは生物学的なラベルではなく、存在の様式です。
心理学的にも、アイデンティティは関係性の鏡の中で発達すると言われています。
ウィニコットという精神分析家はこう述べました。
母親は鏡である。赤ん坊は母の顔に自分を見る。
つまり、母親とは相手の存在を映す装置。
それは固定的な役割ではなく、関係性を成立させる力なのです。
また、ボーボワールの有名な言葉がありますね。
人は女に生まれるのではない、女になるのだ。
私はこの言葉を今、こう置き換えたい。
人は母に生まれるのではない、母になるのだ。
さらに言えば、人は人間に生まれるのではない、人間になるのだ。
存在とは何者かになる家庭そのもの。
それは孤立して完結するものではなく、
常に関係の中で生成され続ける動的な構造です。
そして、この生成の中心にあるのが愛。
ハイデガンは、存在とは配慮であると述べました。
他者を思うこと、関係を大切にすること、
その配慮の中にこそ存在の本質がある。
そう、私たちの本質は愛なのだと思います。
あなたを人間にしたのは誰ですか?
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それは恋人かもしれないし、子供かもしれない。
あるいは、別れの痛みや喪失そのものかもしれません。
もし今、孤独を感じているなら、
それは関係がないのではなく、
関係を見直す時期にあるのかもしれません。
私たちは役割を演じるために生きているのではありません。
関係の中で存在を生成するために生きている。
だから、母であることも、女性であることも、
ただのラベルではなく、関係の形の一つ。
その形の内側に確かに愛がある。
そして、その愛が私たちを人間にするのだと思います。
ジェンダーは性別学的な性のことではありません。
それは、関係の中で生まれる存在の形。
母であること、父であること、どちらでもないこと。
すべてが関係の中で光を放つ一つの生き方です。
役割は私たちを縛るものではなく、
人間になるための扉。
ルーでもハブでもキャンでもない、
ビーの私たちを祝福しよう。
またね。