なんというのかな脳の中の普段使ってないスペースを刺激されて可動域が広がったみたいなそんな感じがした本でした。
ストレッチのような筋トレのようなですかね。
読み終えた後にちょっと頭の中がジンジンと熱くなるような筋肉痛みたいなそんな感じになりました。
誤解を招いたとしたら申し訳ないというタイトルにあります通り、この本はですね謝っているようで謝っていないよねっていう言い回しについて掘り下げた本になってます。
誤解を招いたとしたらの他にも不快な思いをさせたとしたらとか差別的な意図はなかったとかそういうつもりじゃなかったみたいなね。
そういったことを謝罪もどきと言ったりしてますが責任を回避するような言い回しを深く分析した本になっていました。
藤川直也さんという方は東大の準教授で言語哲学を専門とされているそうです。
言語哲学っていうジャンル学問の分野があるっていうことを私は初めて知りました。非常に知的好奇心をくすぐられる本でしたね。
このタイトルからいい意味で北辺を裏切られたポイントがありまして、誤解を招いたとしたら申し訳ないっていう不誠実な謝り方ですよね。
それを取り上げるとするならば、こういう言い回しはダメなんだっていうことを両断しそうな感じがするじゃないですか。
でもそう言うんじゃなかったんですな。もちろんいい言い回しだとは言ってはいませんけれども、何の誤解の余地もない解釈の余地もない会話、言い回しがいいかっていうとそういうことじゃないですよね。
言葉っていうのは誰が言ったかとか関係性とか状況によって意味や解釈って変わってくるところはあるので、
いとしたことと違う伝わり方をすることはもちろんあって、そこには言葉の遊びの部分、意味の遊びの部分があり、それこそがコミュニケーションの妙、人間関係の妙みたいなところもあって、
それを一刀両断しない、言ってしまうとこねくり回すような感じの面白さが藤川さんの文章にはありました。
もちろん根本にはこういった発言への行きどおりとか、政治家、経営者に対しての発言の責任を追求するっていうのはあるにせよ、
ホワイエコミュニケーションってそれだけじゃない面白さがあるよねっていうコミュニケーションをどのようにデザインするかというところに踏み込んでいるところがこの本の面白いところだなと思いました。
バナナはおやつに入りますかみたいな、小学生が先生に気になってごねるみたいなのがあるじゃないですか、今もあるのかな、どうだろう。
じゃあ何々はどうなんですかとか、何々がダメな理由は何ですかとか、証明してくださいとかすぐ言うみたいなのが小学校のクラス会ではあったりしましたけど、
ちょっとそういうへ理屈みたいなのってありますよね。この本を読んで裁判沙汰になったりすると、意外とそのへ理屈のカードの重ね合いみたいな、バナナはおやつに入りますか、何々は何々、定義はどうなってるんだみたいな論争をやっているところがあるんだなと思って、それが面白いなと思いました。
この本の中では政治家がある差別的な発言とか一方の思想に偏った発言のX、当時はツイッターかな、コメントにいいねを押しているってことについて、それはその発言を支持する、共感する意図はなかった。
ただ、ブックマークのためにそのいいねボタンを押したんだ、みたいに主張しているんですけれども、それはどうかなと思いますが、前後の発言からすれば、偏った思想とか差別的な意図があったんじゃないかという言い方もできるかなと思いますが、本人がそんなつもりじゃなかったと意図を認めていない場合、この悪意の証明みたいなことは非常に難しいんだなと思って、
そのあたりがすごく面白かったですね。
どういう判定になったか、判決になったかというのがこの本の中に出てくるので、ぜひ読んでみてほしいんですけど、一審と二審でも裁判官の判断はちょっと違っていて、そこも含めて面白いなと思いました。
意味と意図、意図をどういうふうに定義するかというところですかね。
あと私がこの本で一番確かにって思って面白かったのは、一軸の波という言葉が出てきました。
一軸の波っていうのは例えで、例えばどういうことを指すかと言いますと、私には外国人の友達がいっぱいいるんですが、と前置きしながら、
海外的、外国人差別的な発言をする。自分には友達がいっぱいいるから、差別主義者じゃないんだっていうことを前置きしながら、でもこういうのは嫌だよねっていう話をしたりとか、こういう権利を得るのはおかしいんじゃないかみたいな発言をする。
その前振りのことを一軸の波と言うそうです。
男尊女卑的に取られたら嫌なんだけど、家に帰ってご飯ができてないとイラッとするっていう発言があって、これはトランプ大統領の発言らしいんですが、
男尊女卑的に受け取られたら嫌なんだけどって前置きをすることで、ミソジニ女性嫌悪とか女性蔑視の傾向がある人だっていうカテゴライズを先回りして批判を制御しながら意見を言うっていうやり口ですね。
差別的な意味はないんだけどとか、悪いって言ってるわけじゃないんだけどなんとかだよねっていう。こうした前置きをつけておけば、ひどいことを言っても、公然とひどいことを言ってのけても責任を回避できる、攻撃を回避できるっていう、免罪風のような言葉であると。
これを言語哲学者のジェニファー・M・ソウルさんという方が、一軸の派と名付けたらしいんです。確かにと思って。一軸の派っていうのは、西洋の絵画とかで体を隠したりするのに使うことから来ているみたいなんですけど、言い得て妙だなと思いました。
一軸の派には二つの効力があって、一つは先に批判をシャットアウトする。この発言をしたのは差別主義者だからだっていうふうに結びつけるのは邪推だよっていうふうに先に言ってしまう、相手の推測を制限するっていう意図がありますね。
もう一つは、私もこれはすごいその通りだなと思ったんですけど、そうやって批判を回避しながら内輪に対してメッセージを送れるってことなんですよ。さっきのトランプさんの発言は、共感する男性がいるってことですよね。
とりあえず家に帰った時にご飯ができてないとイラッとするっていうのは、つまり食事ぐらいは女が作っておけよっていう、俺は外で忙しく働いてきてるんだから準備しとけよっていうことなんですけど、それに対して一定の数の方が口には出してないけどそうだよねそうだよねって思うってことだし、でも最近は何かとセクハラだ女性差別だって言われちゃって、
本音でしゃべれないというか、いきづらいよねっていう、連帯をうまいことを生み出せるということなんですよね。だから大きく言わないけど内心そう思っている中間層の人を言ってくれてありがとうみたいな感じで引き込むにはすごい有効な手段なんだろうなと思いました。
そういう意味でこれは非常に作意、悪意に満ちた前置き言い回しだなと思いましたけどね。
でも考えてみると政治家とか経緯者じゃなかったとしても、自分だって言っちゃうことはあるなとこれを読みながら思ったんですけど、例えばこう、ダメっていうわけじゃないけど職場で何々するのってどうかなと思うよねとか、最近の若い人が何々なのってどうかなと思うよねみたいなのを言っちゃうことってあるじゃないですか。
例えばそれはダメっていうわけじゃないけどとか、自分は古い価値観の人間ではない寛容なタイプだよっていうのを先に言いつつ、前置きしながらでも一かげんある一言言ってやりたいっていう欲求と、そこにあなたもそう思うでしょっていう共感を求める気持ちがうっすらあるわけですよね。
言っちゃうことはあるかなと思ったりして。
タイトルに戻って誤解を招いたとしたら申し訳ない、こういう謝り方を条件付き謝罪と表現されてます。この本では。何々だったとしたら謝ります、申し訳ない、罪を認めますっていうことなので、何々だったかどうかは相手に委ねられているってことですよね。
誤解をした、不快に思った方が悪い、みたいな責任転嫁なわけです。
でもこれも果たして自分に心当たりはないかというとそんなことはなくて。
例えばこの本に出てくるんですけど邪魔してたら悪いんだけど皆にしてくれない、みたいな頼み方を上司が部下にする。
二度手間だったら申し訳ないんだけど、すごく大変だったらこのままでいいんだけど、資料のこのページに直してほしいんだけど、もう一回送ってほしい、みたいなのって言っちゃうことあるなと思いまして。
この本には邪魔をしていたら申し訳ないと邪魔をして申し訳ないは全然違うと。
確かにそうですね。邪魔をして申し訳ないは今あなたの邪魔をしているよってことを認めてごめんなさいして既に謝っているけど、邪魔をしてたら申し訳ないは邪魔してるってことは認めてないってことなんですよね。
手間をかけたら申し訳ないと、手間をかけて申し訳ないは全然違くて、修正をお願いするんだったら、例えばパワポイントの資料みたいなこととか提出資料の修正をお願いするんだったら、手間をかけたとしたら申し訳ないじゃなくて手間をかけて申し訳ないっていうふうにはっきり認めて謝る方がいいなと思ったのでした。
さて、そろそろ今日の紙フレーズをご紹介したいと思います。
Aはどうしようもないクズだという主張に対する次の2つの聞き手のリアクションを比較してみよう。
1、いや、そんなことはない。いい人だよ。
2、今の発言は聞かなかったことにします。
どういうことを説明しようとしているかと言いますと、
Aさんのことはどうしようもないクズだといったのは、例えば同僚のBさんだとするじゃないですか。
それに対して聞き手であるCさんが、1のように、いやいやそんなことないよ。Aさんはいい人だよ。こんないいとこもあってこんな優秀だよみたいな否定をした場合、
発言者であるBさんは同僚のAさんを何らか評価してもいい、評していいということ自体は認めていて、
何だったらCさんも評価に加担していい、参加していい、コミットしていいと認めていることになるんじゃないかと。
でも、2のように今の発言は聞かなかったことにしますと言うと、
Bさんが同僚のAさんのことを何かとやかく言うこと自体、この場の発言自体を認めていませんという意味になって、
聞いて言えばBさんにもCさんにも発言の責任が生じないというわけなんですね。
ちょっとこの絵もわかりにくいんですけれども、発言の責任が生じるのは受け手がいるっていうことが非常に重要で、
つまり発言には責任と権利がセットになっていて、聞き手の人がそれを与えているということでしょうか。
現地を取るっていう言い方あるじゃないですか。
現地を取るっていうのは、発言をしたからにはこういう責任が生じますよっていうのを聞いた側が責任を提起することですよね。
その発言と同時に発生する権利と責任を認めているんです、聞いている人が。
でも聞かなかったことにしますっていう返しは、あなたはその発言をする権利自体から認めていない。
受け取りませんよっていう、かなり強い抹消、デリートな言葉だなと思いました。
聞かなかったことにします。
ありますか、使ったことありますか。
私は使ったことないけど、いい切り札だなと思いましたね。
例えば飲みの場とかで悪ノリ的にその場にいない誰かの悪口になったりとか、セクハラ的なちょっと卑猥な冗談っぽい会話があったときに、
便乗まではしない、一緒になって言ったりはしないけど、その場ではヘラヘラしちゃうとか、やだーみたいな、その場自体は壊さない感じにしちゃうことはあると思うんですよ。
それはそういう発言をこの場ですること自体は認めちゃってるってことになるわけですね。
でも言い返してみたとするじゃないですか、いやいやそんなことないですよ、ならないですよ、こんな良いところもありますとか。
言うと言い合いになったら受け入れられるかどうかは別として、
なりなりさんがいないこの場で何か評価、批評をみんなでするっていうこと自体は良しとしちゃってますよね。
でも聞かなかったことにしますというのは、この場でこの会話を持ち出すこと自体を否定できるという意味で、強い素晴らしいカードだと思いました。
そういう職場とか飲み会とか立ち話的な時に、不快な会話、ゴシップとかセクハラ的な話になっちゃった時に、
自分の身を守る護身術として、どこかで使ってみようかなって思った。
聞かなかったことにしますねって結構強い言葉だから、
ちょっと聞かなかったことにしますねぐらいかな、言い方としては。
でもそんな場面に出くわさないことが一番ですね。