1. あそびやさんの「不登校はギフトでしかない!」
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#35 不登校、目指すゴールはどこ?
2026-06-22 29:46

#35 不登校、目指すゴールはどこ?

不登校、目指すゴールはそれぞれ。ゴールによって、相談する相手も、話の内容も全然違うなーと思うのでした。
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サマリー

本エピソードでは、不登校や人間関係など、人生のあらゆるテーマにおいて、どのようなゴールを目指すかによって、取るべきアプローチや相談相手が大きく変わることを論じています。特に不登校のケースでは、子供が学校に戻ることをゴールとするのか、子供自身の幸せな居場所を見つけることをゴールとするのかで、親の対応も変化します。子供が不登校になる背景には必ず理由があり、親が自身の経験や常識にとらわれず、子供の言葉の裏にある感情や本当の願いを理解することが、子供との信頼関係を築き、共に幸せなゴールにたどり着く鍵となることを強調しています。

ゴール設定の重要性
みなさんこんにちは。ちょっと変わった造形教室あそびやさんをやっています。 ばばさくらです。
今日はまた引き続き、最近思っていることについてお話ししてみたいと思います。
今日お話ししたいのは、どんなことであっても、不登校であっても、人間関係のことにしても、
どんなテーマであっても、どのレベルでそれを解決したいかということによって、
話の内容が全然変わってくるなーっていうこと、そんなことを改めて思っています。
例えば、すごくわかりやすい例えをしてくれた人がいるんですけども、
ワンちゃんを飼ってたとして、そのワンちゃんが日頃生活にすごいストレスがあって、
自分の腕をガジガジガジガジ、朝から晩まで噛んでいる。
だからワンちゃんの腕がね、皮が剥けちゃって、傷になっちゃってる。
そういう時に、そこの傷にひたすら薬を塗り続けるっていうことをゴールにするのか、
それとも、そのワンちゃんのストレス自体を改善する、ストレスがないように工夫してあげたりとか、
そういう解決をするのか、ワンちゃんはストレスがなければ腕をかじる必要もなくなるのでね、
そういうことをゴールにするのか、ということで、相談する相手も違うし、
その中でどんな話をするかっていうのも全く違ってくるよなって思います。
それは人生の中のどんなテーマでもそうだなって思うんですけども、
例えば不登校のことで言ったら、どこをゴールにするのか。
学校に行きたくないって言った子供に対して、形として学校に戻れるっていうことをゴールにするのか、
それとも本当にその子が行きたい場所を探す、それを見つけるっていうことをゴールにする。
どうする子供の心からの笑顔をゴールにするのかっていうので、
それも相談する先も違ってくるし、そこでする話も違ってくるなって思います。
不登校におけるゴールの変化
だけど逆に思うことは、私自身を振り返ってみて、子供が学校に行きたくないって言ったときに、
最初は送り迎えしてあげたらまた行けるかなとかそういうふうに思って、
元のように楽しく学校に通えることをゴールにしていたし、
そこでそれがうまくいけばもうそれで解決なわけで、
だけどそうはならなかった。
ならなくて送り迎えしたりしても行きたい場所にはならなかったっていうときに、
そのゴールが変わっていく、変わらざるを得ない、
その状況を認めざるを得なくなって、親である私がその状況を認めざるを得なくなって、
教室がダメだったら、例えば学校の中にある別室に行ってみようとか、
先生に話をして、別の部屋を利用できるようにしてもらって行く。
そしてそれで楽しく行ったりとかするようになれば、もちろんまたそれが解決ってなったんだろうけども、
そうはならなかった。
だからそうすると、別室に一生懸命通えるようにいろいろやってみたけども、
ダメなのか、ここでも行けないのかってなると、
その状況をまた親として認めざるを得なくなる。
そうすると、じゃあ学校の外に何かいい場所がないかなって探し始める。
そうやってどんどんゴールが変わっていくものだなぁとも思います。
そうやっているうちに、例えばフリースクールでもない、
なんだろうなんだろうってどんどんどんどん探していくうちに、
どんどんどんどん深いところまでいろんな話をしたりとか考えたりするようになって、
本当のゴールに近づいていく。
なので、ゴールもそうやってどんどん変わっていくものだなって思います。
子供のギフトと親の成長
今言ったのは、その不登校の子どもを見守る親の側の話であって、
子ども側のゴールは最初から決まっているのかもしれない。
けれど、それを理解するために、親の方はそういういろんな段階があるのかなって思って、
見守る親の方が最後、本当に究極たどり着くゴールっていうのは、
生きていくのに一番大事なものってなんだろうっていうところに、
最後たどり着くのかなって思います。
だから、子どもが私にくれたギフト、
本当にこんなことがなければ、こんなに深く悩んだり探したりしなかっただろうから、
それは子どもがくれたギフトだなって思うから、
この道を歩いてきてよかった、歩かせてもらってよかったって私は心から思っています。
それは子どもが妥協しないでくれたからだなって思っていて、
子どもが妥協して、本当は嫌なんだけども我慢して教室に戻ったとか、
本当に大事なものを得られないまま、また我慢をして表現しないで、
自分の中に思いを閉じ込めてずっといたとしたら、
それは形としては解決、教室に戻ったとしたら解決ってなったかもしれないけども、
本当の本当の意味での解決にはならないわけだから、
だから子どもが諦めずに、本当にこれでもかこれでもかって、
時には命かけて表現してくれるっていうことは本当に感謝だなって、
もう頭が上がらないというか、そんなふうに今は思っています。
不登校の理由と子供の視点
どんな不登校も理由のない不登校って本当にないなって思っていて、
必ず必ず理由があるなって思います。
それが見えない時は、もう子どもが何言ってるのかわかんない、
何でも行けばいいじゃんとか、なんでそんなことが我慢できないのとか思ったりしちゃうけど、
だけどその理由っていうものを本当にわかった時、
私から見た世界は本当にがらりと変わったんですよね。
そこを見せてくれたっていうことがありがたかったなって思うんですけども、
前にもお話ししましたけども、
例えばうちの息子が最初に学校行きたくないって言ったのは、
チャイム着席、朝8時半に修行のチャイムが鳴るんですけども、
そのチャイムの時に教室の全員が着席していることが必要で、
その時に席につけてない子がいると、数えて何人席についてないっていうことを数えて、
それがその日のクラスのマイナスポイントになるっていうルールがあって、
それがあって、チャイム着席は嫌だって言ってたんですよね。
だけどその子供の拙い説明ではよくわかんなくってそう言われても、
最初聞いた時に、チャイムが鳴ったら席につくのは当たり前でしょうって思って、
座りなさいよって私は言ってたんですよね。
だけどそれからしばらく経って、よく話を聞いた時に子供が言ってたのは、
例えば誰かをちょっと助けたくて、その瞬間席についてなかったとして、
でもそういう時に周りの子たちはとにかく座れと、そんな子はほっといて、
とにかくクラスのマイナスポイントにならないように座れって言われるって。
それは学校全体を表してるんだって。
個人の思いとか個人の事情みたいなものよりも全体が大事っていうのかな。
全体の動きが大事っていうのかな。
そういう世界にはもういたくないんだっていうことを言ってて、
そう言われるとね、ああなるほど、そういう意味だったのかって思ったり、
一つ一つわけのわからないと思ってたことにもね、よく聞くと理由があって、
あるなって思ったりしました。
それはね、中学生、特に中学生ぐらいだと言葉にすることってまだまだ難しいんだなって思います。
その一つ目の理由は、やっぱりその環境しかわからないと言葉にしにくいっていうのかな。
そこから離れて初めて安心な場所に行くことができて初めて、
何が危険だったか、何が何に困ってたかっていうのが客観的に見れて言葉にできる。
それは本当にそうだなって思うんですよね。
子供が理由を言葉にしにくい理由
何て言うんだろう、例えば変な例えしかちょっと今思いつかないですけども、
靴履くのが嫌だって言ってる子がいて、
じゃあこの靴はどう?あの靴はどう?B3だったらどう?長靴だったらどう?運動靴だったらどう?っていろいろ勧めてもらって、
でもどうしてもどれも合わなくて、
でも実はもうそういう裸足でいたかったとか、
そういう時にあれはどう?これはどう?って言われてる時、分かんなくなっちゃうんですよね、本人としては。
なんかそれだったら、他の靴だったらいけるのかな?この靴だったら大丈夫なのかな?って。
でも裸足で、裸足が許された時に、私は裸足でいたかったんだよって分かるみたいな、
何て言うのかな、だからそこから離れて始めて、
そうそうそう、私が欲しかったのはこれって分かるっていう意味で、
その世界しか知らないと、何が嫌だとか何が困ってるとか、言葉にするのが難しいみたいなのがあるのかなっていうのが一つ。
あともう一つは、前ね子供が言ったんですけども、その瞬間に自分が味わうものっていうのは感情?
感情であって、最初に自分の中にあるのは言葉じゃない?嫌だなっていう感情だったり、
ふっと気が重くなるとか、イラッとするとか、拒絶の感情とか、
自分の中に起こる、最初に起こるものは感情だから、だからそれを言葉に置き換えるっていうのは、
もうすでに遠い?遠いっていう言い方をしてたけど、だいぶずれるっていう感じかな。
言葉に置き換えるっていうのは、その感情を言葉にした時に、
どんなに説明しても説明しきれないというか、
そういう意味で難しい?っていうふうに思います。
思うというか、後からやっぱり子供が言ってたこと?
それはね、本当にリアルな感想っていうか、リアルなことなんだなって思いました。
だからそういう意味で、不登校の理由を言葉で聞こうって言っても、
なかなか正確にはわからないっていうのは、そういうことなのかなって思います。
親の葛藤と自己受容
だから子供が言っていることを捉える時も、あんまり言葉尻で捉えないで、
その裏にあるもの、例えば自分自身で決めて歩いていきたいのかなとか、
そういういろんな言葉を総合して、そこの裏にある感情みたいなものを受け取ると、
少し実態に近づけるのかなって思ったり、
これは私が個人的に感じることであって、
皆さんはどういうふうに何を感じるのか、逆に私はとってもとっても聞いてみたいなって思うんですけど、
もちろんその子供の表現の仕方とか、キャラ、性格によっても、
親が体験することって全然違うから、
これはあくまで私が経験したこと、経験して思ったことなんだろうなって思うんですけどね。
そういうふうにしながら、子供が言っていることをキャッチできたとして、
大変なのはその先だなって思うんですけども、
その子供が言っていることを受け取った時に、親である自分がどう思うかっていうところ、
みんな、もちろん私自身、自分の通ってきた道、自分の経験してきたことに当てはめてしまう。
みんなそうなんじゃないかなって思うんですけども、
私の時代にはチャイムが鳴ったら、座るの当たり前だった。
私はできた。私にとっては当たり前だったから、あなたにでもできるよねとか、
そういうことを言っちゃう。
言わなかったとしても心の中で思ったりして、子供の言っていることを受け入れるのが難しい。
そこが一番大変なところかなって思うんですよね。
私はそうじゃなかったから、あなたもこうできるはずみたいに突っ跳ねてしまうと、
そこから先へはなかなか進めない。そこでストップ。
その先のゴールにはなかなかたどり着けなくなっちゃうよなって思います。
私は子供が3年間教室、足が向かなかったですけども、
1年目は子供が何言っているのかわからない。
何言っているのかさっぱりわからないという感じであっという間に1年が過ぎました。
2年目、2年生の時にやっと聞く耳を持つというか、
押しても引いても学校に行かないことはよくわかった。
じゃあ一体何を言っているんだろうって本気で耳を傾けたのが2年目。
それもあっという間に、2年目もあっという間に過ぎていきながら、
1年かかってやっと、ああそういうことを言っているのかってわかる。
でも受け入れられるかっていうとすぐに受け入れられるわけじゃなくて、あっという間に1年が経っちゃって。
3年目になった時に、よくわかった。子供が言っていることがよくわかった。
じゃああなたの思う道を行ったらいいよって本気で思えるようになって。
でも本気で思えるようになっても、
ふとした表紙でね、
ママ友とか誰かに、そんなことしてて大丈夫なのって言われたりすると揺らぐ。
自分のことを信じてたはず。子供のことを信じてたはず。
どっちかというと自分か。自分を信じているはずなのに、
え、やっぱりこれまずいかなって揺れる。
揺れることが辛いんですよね、自分として。
不安になったりとか揺れて、
急にその不安を子供に突然ぶつけたりとかして、
子供はびっくりしますよね。
そういう不安定な私が、
不安定になる私に対して自分が苦しいっていうか。
そこが私は何よりも一番大変でした。
自分を信じるっていうこと。
本当に大変でした。そこが一番。
親世代の常識と子供世代の価値観
で、そこまで来ると、何て言うんだろう。
結局、自分との戦い、自分が何と戦っているかっていうと、
自分の中にある当たり前、常識みたいなものを新しくするっていうのが大変なんだろうなと思って。
で、私の場合だったら、ずっと自分よりも相手を優先することがいいって思ってきて、
そうすることで褒められてきたし、
自分は我慢して相手に譲ったりとかしてきたし、
褒められること、評価されることで自分の価値っていうものを確認してきたし、
そういうのが当たり前できて、
だからチャイム着席でも座ることに疑問を持たないっていうか、
何をやってても座ると言われたら座る?何て言うんだろう。
そんなようなことをしていたから、
だから子どもがチャイム着席が嫌だって言っても理解できないし、
集団よりも個人が尊重されるみたいなことも考えれば当たり前のことなんだけども、
学校の中では集団の方が大事だろうってやっぱり自分もどこかで思っていて、
だからやっぱり教育ってすごいなって思うんですけど、
自分が子どもの時に経験したことっていうのは本当に深く深く自分の中に根付いているんだなって思って、
だから子どもが個人よりも全体が大事なんだって最初に言った時はそりゃそうだろうって思ったんですよね。
でもよくよく考えれば、そりゃそうだよねって自分が自分の気持ちが一番大事にされる、
なんていうのかな、していい。
自分の気持ちを一番大事にしていいっていう生き方をやっぱりしてほしいし、
世の中もそうであってほしいし、学校もそうであってほしいって思う。
私たち親世代は個人よりも集団の動きが大事って育ってきたから、
会社に入ったりとかしても、そんなもんだろうってみんなすり込まれているけども、
だから今の子どもたちに対してもそういうことを無意識で押し付けるけども、
でもよくよく考えるとそれって結構後々破綻していて、
ずっと一生あえて優先でなんて幸せには生きられなくて、
それで例えば夫婦の間がうまくいかなかったり親子の間がうまくいってなかったり、
そうやって破綻したものがたくさんあるんだけど、
それは見えないっていうか、持続可能じゃなかったっていうことには割と気づかない人がいっぱいいて、
子どもにも自分の時代と同じものを求めたりとかするけども、
でも子どもの話を聞いているうちに私はそうだよねって、
やっぱり自分の気持ちを大事にしなきゃ自分の幸せは始まらないって本当に思うようになって、
だけどそれをそんな今となっては当たり前のことも、
でもそのチェンジする時って結構大変なんですよね自分の中でって思います。
そこを柔軟に大人の方も柔軟に子どもとよく話をしながら本当に大事なものを見つけていこうって一緒になれたらね、
それは本当に素敵なゴールに必ずたどり着くんだなって思います。
だからその自分の今持っている当たり前の一つ一つがどうやって作られてきたかっていうことを
よく思い出すことっていうのは大事なのかなって思います。
結局最後そこに行くのかなって。
例えば外に行くときは靴を履くべきだとか、外に出るときは服を着るべきだとか、
そういう思い込みは別に変える必要は全然ないんだけど、
いらない思い込みもたくさんあって時代とともに変わったり、
本当に自分の幸せに結びつくものと結びつかないもの、
いろんなものを自分の中にみんな抱えているんだけども、
いらないものはちゃんと手放すっていうことをしていけたらいいなぁって思います。
今日はそんなお話でした。最後まで聞いてくださってありがとうございます。
じゃあねバイバイ。
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