邪推の本質
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。
まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、邪推の極みという話をしていきます。
はい、邪推の極みですね。
邪推というのは、横島な推測というね、まじで邪推ですね。
いわゆる疑う、勘ぐるというようなことですよね。
あなたが対人間関係において、相手のことを邪推する、疑ったり、
何かあることないことを考えているんじゃないかと勘ぐったりする。
もしそのようなことがあるのであれば、想定の一つとしてとどめておくといいですよというようなことなんですね。
とはいえ、今まで一度も人のことを疑ったことがないというようなことの方が少ないと思います。
誰しも、当然私も含めて、誰かを疑うということ、そういう状態になる、陥るというようなケースもあると思います。
ただ、可能性の一つとしてはそうかもしれないというような、そこにとどめておかないと、
仮に相手があなたが邪推した通りでなかったとしたら、行き違いが生まれるわけですよね。
考えるにとどめる、選択の一つ、戦略の一つにとどめるとして。
人間関係で戦略というとあまりよろしくないというか、本来であればですけれども、
ただ技術の過程の一つとして、人間関係も戦略の一つとまず捉えて、
そういう心持ちで関係性を構築していくということも、
おのつとあなた自身の技術、力量になっていきますから、
いくいくはそんなことを考えずとも、表も裏もない、自分自身で相手に向き合って、
何も問題がないというような、そういう状態になるのが理想ですけれども、
ただ時としてそうした人間関係で戦略が必要であるというような時に、
この邪推をするということは考えの一つにとどめておくと、想定の一つとしておくということですね。
相手のことを疑う状態にある時というのは、周りが見えなくなっている、
そのことしか考えられなくなるというようなことが往々にして起こり得ます。
人間関係の戦略
それはなぜそのような状態になるのかといったら、
その本人が、相手のことを疑っているその人自身が、
自分と相手は同じことを考えているというふうに、そう錯覚してしまうからなんですね。
自分が疑っているから、相手も自分のことを疑っているだろうとか、
そこまでいくと、邪推が極まっているというような状態になるわけですよ。
誰もが敵であり、自分の味方は一人もいないというような、
そこまでなると精神的にも追い込まれてしまいますから、
そうではないんだと、そういう側面ももしかしたらあるかもしれないし、
相手自身も本当に自分も相手のことを疑っていて、相手も自分のことを疑っているというような状況であるかもしれないけれども、
あくまでそれは想定の一つ。もし仮に最悪を想定すると、
今このようにお互い思っているだろうなというふうな可能性の一つなんですね。
何回も言っていますけれども。
あなたと相手が全く同じ考えなわけがないんですよ。
どれだけ近しい人であれ、どんな人とであれ、
自分と全く同じ人間というのは一人としていませんから、
それは考え方においても同じなわけで、
どれだけ近かろうとも全く同じなことはないわけですよ。
仮に疑い合っていたとしても、その疑い合っている部分が違うかもしれませんし、
これに関しては相互に確認を取る以外に、
本当に邪推し合っているのかという真実を確かめ合う方法がないんですね。
それは直接本人同士で確かめにくいのであれば、第三者に介入してもらう必要もありますし、
とにかく自分の考えの中だけで、
今、邪推をしているその状況の中だけで判断すると、
必ず相互の意見の食い違いが起こりますから、
その上でもう一方の可能性として、最良の可能性として、
自分自身は相手のことを疑ってしまっているけれども、
相手は自分のことを何とも思っていないかもしれない。
いい意味で何とも思っていない。
そうした別の想定もしておいて、
自分自身の選択の幅を広げておく。
いろんな角度から多角的に物事を見るといいなんてよく言いますけれども、
これもその一つで、
邪推が極まっているとそのようなことができませんから、
まずその状態に陥っている自分に気づくということですよね。
今、自分は相手のことを疑っている、周囲を疑っている。
ただこれはあくまで最悪の想定であり、
または別の可能性、選択肢もあるかもしれないなと。
気づいた時に、そういう選択肢があるんだなということを、
多角的な視点
深みにはまっていくことがなくなる、少なくなりますよね。
何よりも人のことを疑っている時は、
その本人が一番つらいと思うんですよ。
常に心に棘があるというか、
針のようなものが常に刺さっているという、
そういう心境になると思いますので、
とにかく人に対して疑いを持ってしまうと、
邪推をしてしまう。
もしかしたら横島のことを考えているんじゃないかというふうに、
そういうふうに推測をしてしまった場合には、
それはあくまで最悪のシナリオであると。
自分自身を救う意味でも、そうした考えを持った時には、
あくまで一つであると。
かつ、直接であれ第三者に加入してもらうであれ、
相互に確認をし合わないと、その状況を解消するに至りませんから、
まずその邪推をしてしまった時には、
相手に対して何らかのアクションを起こして、
意思を確認することが先決ですね。
一人で陥らないでくださいということです。
そしてあくまで選択の一つであるということなんですね。
つまり何が言いたいのかというと、
邪推の極み。
疑ったり、かんぐったりすることですよね。
してしまえば、きりがないわけです。
どこまでも疑える。
そういう状態にある時は、
疑っている、邪推をしている本人とその対象の人物、
同じ考えなんだろうなというふうに、
一人で深みにはまっていってしまう。
ですからあくまで、
仮に邪推をしたとしても、
それは可能性の一つである。
もし仮に最悪の状況を想定したら、
今邪推をしている内容が当てはまるだろうな、
というところに留めておくんですよ。
絶対そうだと。
というふうにですね、
偽の確信をしてしまうと、
行き違いが起こる可能性が大ですから、
そこは注意して。
あくまで選択肢の可能性の一つ。
最悪であればこう。
ただ別の可能性としてはこう。
というふうにですね、
その選択肢を自分の中でいくつか持っておく。
そのためにこの考え方を取り入れておく、
というようなことですね。
正善説、正悪説なんてありますけれども、
どっちかでないといけないということはないですから。
かつその場面場面、
人は立っている位置がね、
自分自身が立っている位置が変わると、
見る視点も変わってきますから、
どっちもね、あるというのが人ですから、
必ずどっちかというようなことではないです。
どちらも持っていていいんですね、
と私は思います。
ですから仮に、
邪推をしたときには、
これを思い出してみてください。
はい。
ありがとうございました。