1. あのさ、
  2. #29 まなざしの行方
2025-04-13 50:50

#29 まなざしの行方

「自分が思う自分と他者から見える自分の違い」をテーマに、今回は特に自分の容姿や身体を見られる、まなざされる経験やそこで生じる感情についてざっくばらんに話したよ。

みんなはどういう経験がある?


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take me high(er)のエピソードを聴いたよ/自分が思う自分と他人が思う自分のギャップ/他人の視線や評価に敏感になる/公の場で鏡越しに自分を見れない/服屋に行くのが苦手/美容院も苦手/その場に「ふさわしくない」と感じる/内面化させた自分嫌いとミソジニー/場所やそこにいる人、文化の違いで感じる気疲れと楽さ/バイト先で「最低限の化粧」を求められた/周囲のポジティブな言葉も助けにならない/自分が納得することが必要/「大丈夫」を重ねていく/自分の人生速度と社会の変化速度のギャップ/場所を変えてみることも一つ/一緒に悩みながら模索していこう


紹介したポッドキャスト💫

take me high(er) P. 101📨自分の好きになれないところをどう受け入れますか?


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感想や質問はこちらへ。ありがとう、大切に読みます。

[収録日:2025年4月11日]

サマリー

このエピソードでは、自分を見つめる視点と他者が見る視点の違いが探求されています。「take me higher」というポッドキャストを通じて、彼女は自分のコンプレックスや他者とのギャップについて考察しています。被写体として見られることに対する緊張感や不快感が語られ、特に他者からの視線に対する不安が浮き彫りになります。また、海外生活によって生まれた感情の変化やファッションへのアプローチについても考えられています。このエピソードでは、視線やまなざしが日本と他の文化でどう異なるか、特に女性としてのまなざされ方について述べられています。文化的背景がファッションや化粧の必要性を決定づけ、その影響が日常生活や職場に及んでいることが重要なテーマです。ポッドキャストでは、自己変革のプロセスや自分を納得させることの重要性について語られています。外部からの言葉が時に助けになるが、最終的な納得は自分の中で見つけるべきだと強調されています。

自分と他者の視点の違い
こんばんは、りょうこです。
むぎほです。
ポッドキャスト、あのさは、日常の些細なことから社会のこと、自分自身や人との関係性にまつわることなど、
結論も解決策もないけど、そんなグレーな話をそのままに語っていこう、という番組です。
はい。
えっと、あれ、今日は2週間ぶり?1週間ぶり?先週お休みだった?
1週、そう、先週お休みだったから2週間ぶりかな。
2週間ぶりです。久しぶり。
はい。
久しぶり。
ね。なんか毎週やってるから、なんか2週間、久しぶりとかね、あるよね。
ね。あるある。
で、今日のテーマは、えっと、私が出したのだけど、
えっと、自分から見える自分と他者、外側から見える自分についての違いについて、ちょっと話してみよう、みたいな感じです。
はい。
で、私はなんか超適当、適当というか、まあこれは結構割と長く考えていることで、
で、あと、あれかな、りょうちゃんが紹介してくれたポッドキャストを聞いて、
あ、なんか面白そう、これ話すの面白そうと思ったんだけど、どれだったっけな?
ハイヤーのやつかな?
そう、たぶん、テイクミハイヤー?
あ、そうだそうだ。
ポッドキャストの名前テイクミハイヤーだっけ?ハイヤーだけだっけ?
あ、どっちだっけ?なんかいつもあの、ポッドキャスト自体ではテイクミハイヤーって言うけど、
あの、ポッドキャスト自体の名前は、なんだあれ?
あ、テイクミハイヤーだ。
あ、テイクミハイヤー。
そう、ハイヤーマガジンっていうマガジンのポッドキャスト。
そうだそうだ。
で、テイクミハイヤーっていうポッドキャストの何話だっけ?
101話がりょうちゃんがあの、紹介してくれたやつ。
あ、そうだそうだ。
01かな。
それでなんかちょっと、自分、自分、
これのテーマとはまたちょっと違うんだけど、これをきっかけに私もちょっと考えたこと?
っていうのがちょっと今日のテーマになってる感じ。
だからこれが結構きっかけ、これ聞いてなんかいろいろ自分でも考えてて、
そうね、自分から見える自分と他者外から見える自分の違い。
で、
あれはその、どういうその考えのプロセスの中でこの問いに行き着いたの?
コンプレックスとの向き合い
が、なんか多分このもともとの私が聞いてたそのエピソードは、
その自分の好きになれないところをどう受け入れるかみたいな話で、
なんかその、自分のまあそういうあんまり好きじゃないところとか、
そういう部分をなんかその受け入れるのか、
なんかそれをまあ、自分がいいと思える形に修正なり、
形を整えてそういう自分が納得いく感じにするのか、
なんかどういうアプローチで、
まあその受け入れっていうのもまたいろいろな形があると思うんだけど、
するのかみたいなのについて話してて、
で、なんか私はそのそこの一歩手前というかそこに行き着く、
なんか自分の好きじゃないっていうその一歩手前で、
なんかそのまずそもそも自分がこう思ってる自分とか、
まあその自分がそれこそ物理的に鏡で見る自分の顔だったりとか、
あとは例えばその自分の仕草とか態度とか、
まあその癖とか、
あとまあ自分の思想だったりとか、
自分が自分はこう思ってるっていう風に思ってる自分と、
例えばその社会に出て、
まあ仕事で自分がどう見られてるとか、
あとはまあそれこそ生活の中で友達、
友人関係の中でこうどう見られてるのかっていうについて、
ちょっと話すのも面白いかなって思ったのと、
あとなんか前に多分りょうちゃんと話してて思ったっていうか、
なんかすごい似たような話をして、
なんかその私がりょうちゃんに言ったりょうちゃんの印象と、
りょうちゃんが自分自身で思っていた自分とのすごいギャップがあったっていう話を、
なんか多分今年頭あたりにしたと思うんだけど、
多分ポッドキャストでもちょっと話したよね。
したよね多分。
そうそうそうそう。
でなんかそれのことも同時に思い出して、
なんかやっぱりこう自分が思ってる自分と、
なんかその外から見られてる自分とのそのギャップって、
なんか想像以上にでかいなっていうのを結構改めて、
このエピソードを聞いてても思ったし、
なんかそのそうだね、なんか長くこう自分の中でいろいろ悩んでいたりというか、
すごい外からどう見られてるかみたいなのについてすごい結構悩んだりとか、
いろいろ考えたりしてきたから、
なんかそういうところのなんていうのかな、
差、ギャップみたいなものもすごくあるし、
なんかそれがいいか悪いか、
それがいいふうに出るか悪いふうに出るかっていうのを、
結構差があるとか違いがあって、
なんかそういうのについてもすごい話してみたいなっていうのが、
いろいろな方向にこうアイディアがどんどん膨らんでいって、
他者の目からの自分
なんかどこから話せばいいんだろう、わかんない、
そもそもなんかそのギャップがでかいよねっていうのは話したい、
なんかそこがたぶん一番重要なポイントというか、
年をとればとるほどじゃないけど、
なんか昔はそれこそなんか自分で思っている自分、
なんかすごいなんか髪の毛がボサボサで、
なんかあんまりこう見栄えが良くなくて、
みたいな感じの勝手に思ってるその自分のイメージとかが、
もうほんとは外とイコールっていうのを、
なんかすごいすごいなんか信じ込んでた、
強く信じてた、
で、なんか例えば外からなんか全然そんなじゃないよって言われても、
なんかそれを信じなかったし、
そうだよね。
ほんとにもうほんとそれがイコールで結ばれてて、
自分の中ではその自分が、
例えばその自分の思ってる自分がAだとしたら、
その外にいる自分もAでイコールだったんだけど、
なんかもうちょっとどんどん年をとるっていうか、
友人関係とかも変わって、
社会でのなんか自分のポジションっていうか、
その仕事してたりとか、
学校じゃないっていうのも大きいんだけど、
なんかこういろいろな経験をしていく中で、
自分が思っているその自分と、
その外側にいる自分、
外から見られている自分が、
イコールではないんだっていうことを、
もうちょっとなんか認識できるようになったっていうのがあるかな。
え、りょうちゃんある?
なんかそのギャップみたいな。
まあ、あるよね。
ありまくり。
ありまくりって言ってる。
え、そうなんか、
私もそのむーちゃんにシェアした、
このtake me higherのエピソードで、
この特にこのエピソードで話されてたのは、
なんかその視聴者の方のお便りみたいな感じで、
出たそうもので、
要旨に関することだよね。
だから自分の要旨に関する、
まあある部分への、
こう、自分にとってはものすごく気になる部分、
だけど他の人から見たら、
たぶん別に気にならないっていうことは、
自分でもわかりつつ、
でも気になるみたいな感情とかを話してたと思うんだけど、
なんか、
もう私はいろいろギャップありまくりなんだけど、
要旨とかも、
それこそやっぱ10代の頃ってめちゃくちゃさ、
10代はね。
誰々がかわいい、誰々はかわいくない、
誰々はかっこいい、誰々はかっこよくないとか、
かっこよさの基準、かわいさの基準みたいなのもすごくあって、
それに当てはまらない自分みたいなのは、
すごいコンプレックスだった。
けど、
なんか、
コンプレックスがありつつも、
それをどうにかしなければいけないまでは、
私はたぶんあんまり思いつめてなかった。
なんかそのコンプレックス、
例えば、
なんだろう、なんでもいいんだけど、
例えば鼻が低い、じゃあ高くしたいとか、
なんか目が小さい、目を大きくしたいとか、
理想としてそうだったらいいなとかは全然思ってたけど、
でも実際それを成形したいっていう欲求までは、
私はいかなかった。
っていうのも普通に怖かったから、
痛いの嫌だし、
っていうのがあったんだけど、
なんか、
それが時間がたって、
今も別にコンプレックスは全然あるんだけれども、
なんかすごいこの辺がねじれてるなと自分で思うんだけど、
なんかそのコンプレックスはあって、
でもすごい思いつめるほどではない。
けれども、
例えば公共の場で、
例えばトイレ行って、
自分の姿を鏡で見るのを見られるのがちょっと嫌とか、
自分が鏡の前で、
例えば化粧直しするとか、
髪の毛整えるみたいなものを見られるのがちょっと苦手だったり、
あとなんかやっぱ、
私洋服とか買う、そんな頻繁には買わないんだけど、
買うときとかもあんまお店で買いたくない人なのね。
なんかそれは、
単純にすごいお店の人ってもちろん接客しなきゃいけないから、
すごい声かけてくれるし、
声かけてくれるのがちょっと嫌っていうのもあるんだけど、
でもなんか自分のファッションとかを審査されてるみたいな気持ちに勝手になってしまって、
自分がその場にいるのがすごく恥ずかしいみたいな気持ちになる。
だからなんか自分の中の、
自分嫌いな感情、
自分嫌いであったり、
あるいはなんかちょっとミソジニー的な部分、
自分に対するみたいなのを内面化させて、
それがいまだに根強くあるみたいな部分も多分ある。
だからすごい我ながらねじれてるなぁとは思いつつ、
でも多分そういう部分はある。いまだに。
なんかこと用紙だけに関しても。
なんかでもちょっと似てるかも。
私もなんかそれはすごいわかる。
トイレとかで髪直したりとかするの。
なんかすごい人いるときとか絶対できない。
人がいるときに鏡を見るのが無理。
だから美容室とかもすごい辛いの。
なんかその常にさ、自分の顔が真ん前にあって、
美容師さんが後ろにいて、
鏡を見てる自分を見てるみたいなのがもう本当に嫌なの。
で、だから私はいつもなんか本を読むか、
スマホをいじるか、
で、なんかすごいお気に入りの美容師さんがいて、ニュージーランド行ったときに。
彼女はすっごい本好きで、
すごい話すのもうまくて、
で、家族で行ってたの。
だから私のお母さんも妹もその人のとこ行ってて、
もうなんかすごい私たちのことを長く知ってるから、
それぞれの性格も知ってるし、
私がそういうの好きじゃないっていうのもすごいわかってたから、
すっごい楽だったの。
もう超気が楽で、
なんか本当にちょっとたまに本の話して、
で、なんかそれこそ残りは私も本読んでるみたいな感じで、
すごいよかったんだけど、
でもそれがなかったら、
美容室とかもう本当つらくていけないっていう感じ。
なんか今、りょうちゃんの話聞いてる。
わかる。
わかるって思った。
なんかそのトイレとかでの感じも。
そうなの。すごい自意識過剰だなとは思うんだけど、
思う。
でもなんか美容室とかでも、
なんか鏡越しにしかも髪の毛も濡れてタオルまくれた状態とか、
もう顔だけがすごいフォーカス当たる状態で、
それを鏡越しに、別にその担当の人は、
私の顔なんてそうそうマジマジとは見てないし、
髪型とのバランスを見ているのであって、
そんな顔をなめまわすように見てるわけではないっていうのはわかってるんだけど、
わかっててもなんかすごい居心地の悪い。
悪いね。
だからなんか写真とかも自分撮るのも好きだし、
撮られたら撮られたで、
自分と一緒にいる友達とかとの思い入れとしてちゃんと残るから、
それはそれすごくいいんだけど、
被写体としての緊張感
一方でやっぱ被写体になるのはすごい苦手なの。
やっぱその撮られることによって自分が注目される、
自分の体とか顔とかを見られるみたいな、
ちゃんと見られるみたいなものが、
すごいなんか結構緊張が走るみたいなところがあって、
で、なんかやっぱそれは私の場合はさっきも言ったけど、
結構やっぱ自分が自分があんま好きじゃないみたいな部分と、
なんかやっぱそのミソジニをちょっと内面化させてる部分を、
なんか両方合わせ持ってる感じが自分の中ではするんだよね。
なんかその見られるみたいな視線が私はすごく嫌いっていうのがすごくあるかも。
なんかその鏡を見るのも自分自身も自分が見られてるとか、
なんか自分を見てる自分を誰かが見てるとか、
なんかほんととにかくその自分の他者とか外側からの、
そういう視線を自分が見える場所にあると、
なんかすごくなんか気持ち悪いっていうか、
なんか居心地が悪いというか、
なんか本当に、
なんか私は私として存在しているし、
別にそれに対してのなんか不満とかがあるわけではないんだけど、
なんかその物体としての自分自身への、
そういういろいろな視線をゼロにしたいみたいな気持ちが常にあって、
なんかそういう面からでの、
なんかその様子とかに関しての、
そう他者から外から見える自分っていうのはどうなのって聞かれたときに、
私はめっちゃ居心地悪いし、
なんかそういう視線が常にゼロであってほしいみたいなのはいつも思ってて、
洋服選びのアプローチ
そうね、なんか洋服とかもね、
私もだから、私はなんか割とこう、
もう自分が着心地がいいとか、
なんかほんと自分の心地よさに集中するようにする、
なんか洋服買いに行くときとかは、
なんかもうほんと、
なんか誰も話しかけないね、
私はもう私の好きな物を、
自分がいいと思う形で買いたいだけだからっていう、
そうね、
なんかそれもあって、なんか自分で洋服を作るっていうことに興味が出たのもある。
あー、
私が、
作ってるよね。
私の満足いく形で、
満足のいく、
それこそ記事で、
家で作るみたいな、
誰も話しかけないし、
なんか自分でオンラインで好きな型紙を見つけて、
ただそれを作るだけみたいな感じ、
そう、なんか店とかで話しかけないの超プレッシャー、
こっちとかあんまそういうのないから、
なんかよっぽど高級なお店とか行かないと、
なんか日本とか接客すごいじゃん、洋服屋さんの、
でもこっちは全然そういうのないから、
ほんと、
割と気が楽というか、
なんか結構、
オシャレなブティックとかそういう系のとこ行ったら、
結構接客、
まあ接客というかオーナーの人とかが話しかけてきたりとかはあるけど、
まあでもそれもそんなに、
なんかこんなのあるよみたいな感じで、
緩い感じだから、
接客っていう感じではないかな、
だから割と気が楽っていうのもあるかもしれない、
日本とかに比べたらかな、
なんか服屋とかは結構なんだろう、
なんか服を見に来てるんだけど、
一方で店員さんもそうだし、
他に来てるお客さんとか、
から自分が見られることに、
なんか、
なんかこの場にふさわしくないだろうって思われてそうみたいな、
めっちゃ自意識過剰って思うんだけど、
なんかその、
どんだけ自分が着飾ったところで、
なんか常にこの、
ここにある服を買うにふさわしくないみたいな、
すごいこじらせた考え方を、
前面化してる節があって、
なんか服は別に嫌いじゃないし、
だけど、なんか一方でそれを着てる自分が、
常になんか、
どれだけ好きで着てるものであっても、
なんかそのいつもいる場所なら、
例えばただ道歩いてるだけならどうってことないんだけど、
歩く道とかも、
例えばどこでもいいんだけど、
銀座とか、
なんか知らんけど、
東京とかの東京でもいいし、
別の都市でもいいんだけど、
やっぱなんか都市ですごく、
おしゃれな人がいっぱいいる中に、
自分がいるっていうのが、
いたたまれない気持ちになるのいつも。
でもりょうちゃんもおしゃれじゃん。
なんかそれを、
私がこういうなんかこじらせた考え方を披露すると、
なんかそういう感じで返されるんだけど、
なんだろう、たぶんもう、
なんか思考の癖みたいなのあるから、
オートでそういう風な方向に行くの?
そうそうそうそう。
だからなんかいつも恥ずかしいみたいな感じで、
それでやっぱりお店に行くのも、
なんかすごい恥ずかしくなってしまって、
行けなくなって、
なんかどうしてもやっぱ、
なんだろう、パンズとかはさ、
サイズとか結構物によって違うから、
なんか履いてみないとわからない。
試着しないと難しい。
そうっていうのがあるから、
なんかもうそういうのは意を決して、
今日は行くみたいな感じで行くんだけど、
でもなんかそれでも、
意気込みすぎて気づかれして、
何も買わずに帰ってくるっていうのが、
よくあるんだけど、
でもなんかもうそういう、
やっぱ試着しなきゃみたいなもの以外は、
なんかもう今ほとんどオンラインで買うようになった。
海外生活の影響
本当?もう全然気が楽?
そう。
なんかやっぱ誰にも見られてないっていうのが、
めちゃくちゃ楽って思って。
でもなかなかそういう、なんだろう、
そういうさ、自分の、
例えばこういう自分、私の場合だったらファッションだったり、
自分の見られる、自分の顔を見られるみたいなものもそうだし、
なんかそういうのはさ、
完全に自分のこの何十年って言うほどじゃないけど、
20数年とかで、
完全にやっぱりその自分の思考パターンとして、
癖づいていて、
それに対していろんな人がそんなことないよとか、
いろいろすごい温かい言葉を言ってくれるんだけど、
でもなんかあんまりそれって助けにならなくて、
結局なんか自分のその思考パターンはずっと繰り返してて、
だからなんか、
それはどうしたらいいんだろうというか、
どうにかしなきゃいけないっていうほどにまでは思ってない、
っていうのももうずっとそれで生きてきてるから、
だけどなんかもう、
どうにかしようがあるならできたほうがいいよねとは思ってる。
なんかなんだろうね、
なんか土地の問題もあるのかな、
なんか日本はさ、ほんとほとんど日本人じゃん。
国としてね。
こっちとかはほんとに、
いろんな人いるから、
いろんな人がありとあらゆる格好で歩いてて、
なんかそのあたりから、
私もわりと気が楽になったというか、
なんかほんとに気にしてない人も、
なんか結構いるんだみたいなのを見て、
こんなんでも全然生きていけるじゃんみたいな、
開き直りではないんだけど、
なんかそういう生き方とかを見ることによって、
こんなのでいいのか、これもありか、
みたいな例をたくさん毎日、
それこそね、日々見ることによって、
そういうのの長い蓄積によって、
わりとそういう感覚が薄れていったっていうのも大きいかも。
私もなんか結構それこそ、
日本の方がずっと長くて、
長く連続で日本に住んでたから、
日本のそれこそ小中高行って、
だからなんかそういう感覚とかも、
結構根強かったと思うんだけど、
今も別に完全なくなったわけではないし、
そういうふうに思うことも日々たくさんあるけど、
なんかこう海外に暮らすのが、
もう多分、私今年29で、
もう半分以上海外生活トータルで、
この間数えたんだけど、
もうトータルでそれこそ15年、
ちょうど半分今年超えたぐらいかな。
そんなに長いんだ。
そうそう、なんかすごい短いのがさ、
たくさんあるから、一帯で来たりが多くて、
だから2年とか3年とかっていうのを全部足して、
で、今トータルで8年連続で海外に住んでるけど、
なんかそれでようやく、
なんかそういう感覚が薄れていったというか、
でもやっぱり日本とかに一時帰国すると、
なんかその居心地の悪さみたいのはすごくあるし、
なんかそれこそ、りょうちゃんって言ってたみたいに、
東京とか歩いてた時とか、
もうマジで超居心地悪くて、
なんかそれこそ、こっちとかみんな超さ、
なんかそれこそ動きやすいようにレギンスとTシャツと、
なんかそのそれこそなんかジャンパー着て、
スニーカーに靴下みたいな、
なんかその感覚で街歩いてたら、
なんかちょっと居心地悪いみたいな感じになって、
なんかそれになんか全然なんか、
え、いいんだよ海外に住んでるんだし、
なんか自信持ってなんか、
とか言う人もたくさんいたけど、
なんか私はなんかやっぱりそういう、
そういうところに戻ると、
なんかその感覚に引き戻されて、
その時の感覚で、
あ、やっぱりすごい居心地悪いなと思うし、
なんかそういう、なんていうのかな、
土地的なものもあるのかなと思った、
なんかそのほんと周りみんながこう、
いっつも常に100%みたいな、
なんかお化粧ばっちりで、
なんか洋服もファッションも全部ばっちりで、
みたいな感じじゃん、
なんか特に東京とかって、
なんかそういう私は印象があるから、
なんかそういうところから、
やっぱり比べても、
なんか日本っていう土地柄的なものも、
あるんじゃないかなと思ったりもする、
え、どうかな、
りょうちゃん結構海外とかもあると思う?
うん、そうだからまあ短期的に、
まあ長くても1ヶ月とか、
っていうぐらいだけど、
でもなんかその、
土地というかそこにいる人の感覚とか、
雰囲気っていうのは、
めちゃくちゃ影響されると思ってて、
なんかやっぱり結構移民が多い国とかに、
まあそれこそオーストラリアとかもそうだったし、
イギリス行った時とか、
そうだったし、
なんか適当な人はさ、めっちゃ適当じゃんか、
でも別にそれをさ、
別に誰も何も言わないし、
何も見てないじゃん、
何も思ってないけど、
でもなんかそれはすごいやっぱ楽だった、
なんか旅行者としてもやっぱり、
そういう部分を感じるところがあって、
だからなんかそれはすごい一つあるなと思ったし、
実際なんか自分もやっぱ、
京都も都市だからさ、
別に人めっちゃ多いし、
多いね。
栄えてる場所だから、
京都とか東京とかいるときと、
地元、本当にかそってる地域なんだけど、
なんか人間よりも野良猫の方がよく見るみたいな場所なんだけど、
地元が、
でもなんかそういうところにいて歩くときって、
なんかそもそもさ、人間とすれ違わないから、
なんか全然適当で、
なんか全然化粧もしてなくて、
ちょっと日焼け止めだけ塗っていくみたいなのとかも、
全然東京とか京都にいるときよりもやりやすいっていうのはあるから、
土地とかそこにいるボスもそうだし、
どういう人がいるのかっていうのも、
やっぱり自分がその場に身を置いて、
めちゃくちゃその場所にいる人たちから影響を受けてるっていうのは、
思ったかな。
あとはなんか、なんだろう、
まなざしの経験
すごい普遍化しすぎてる感はあるけど、
なんか日本にいて、
すごい見られるっていう、
まなざされる、見られるっていう受動的な感覚は、
なんかやっぱすごい強い気がする。
なんかその、実際に歩きながら視線を感じるっていうのもあるし、
あとはなんか特に、
女としてまなざされるみたいなときに、
なんかやっぱいろいろ言う人はいるわけ。
例えばなんか自分が言われたものとかだと、
親戚のおじさんとかから、
久しぶりに会ったとき、
まだ20歳いってたかいってないかぐらいのときで、
なんか全然そのとき化粧とかもしてなくて、
そしたらなんか女なんだから、
化粧ぐらいしないよみたいな感じで言われるとか、
服とかも、例えばなんだろう、
スウェット上下とかだと、
もうちょっとちゃんとした服着ないよとか言われる。
かといってなんかラフというか、なんだろう、
肌の露出があるものだと、
なんかそういうのは、
女なんだからもっと気をつけた格好をしなきゃいけないっていう、
もうほんと典型文みたいなことが言われてきて、
でもなんかそれに対して、
それのすべては正しくないんだけど、
で、それはわかりつつ、
なんか私の場合は、
それでもなお、なんだろう、
自分の好きなファッションを貫くとか、
自分の好きな格好を貫くみたいな強さもなかった。
だから、なんだろう、
そういう言われてきた視線、
まなざされ方みたいなのが、
やっぱりねずいてしまってる部分もあるし、
実際にそれが道で歩きながら、
なんかそういう、なんだろう、
直接言われないけど、
自分が視線を感じる、見られてる、
みたいな感覚になることはすごい多くて、
だから、やっぱりそういう、
日本にしかちゃんと定住したことないからわからないけど、
なんかやっぱ見られる、まなざされるみたいなのは、
すごい多いなっていうふうに感じてる。
こっちはどうなんだろう、
なんか私、
人によるっていうのも結構大きいかな。
文化的に結構、
肌の露出とかは割と多いし、
人とかの距離感も結構近いから、
そういうのもあって、
そういう、なんていうのかな、
まなざされることを目的としてのファッションみたいのもすごくあると思うのね。
でも、そうじゃない人もたくさんいるわけだし、
それがみんなではないから、
だから、全体的に結構いろいろオープンだから、
特定のまなざされ方みたいなのが、
強くないっていうのかな、
割と分散されてる感はある。
割と露出が多いのも普通だし、
結構多くの人がそれが普通な感じで、
ファッションなりいろいろ楽しんでいて、
普通にみんなタトゥーがあって、
みたいな感じのが結構な人数が、
そういうことが普通の感じでやってるから、
例えば一人の人が化粧をしてなかったとか、
ジャージを着ていたとか、
そういうものが突出しないとか、
目立ったりもしないし、
別にそれを気にしてる人も特にいないし、
それに対してまなざすみたいなのも、
特にないのかなっていうのは思う。
みんなそれぞれが好きなことをやっているから、
特にそれこそその人に興味があるとかっていうの以外では、
特にないんじゃないかなって思うし、
もちろん例えば人によっては、
パーティーとかクラブとかに行って、
まなざされることを目的としている人たちに対しての、
そういうものはあるかもしれないけど、
そうじゃない普通の日常の中での、
そういう感覚っていうのは、
あんまりないかなって思うし、
それこそ多分日本とかに、
私も日本には今のところ冬か、
春とか秋とかにしか帰ってないから、
半袖とかを着てないからわからないんだけど、
私両腕にタトゥーが入ってて、
結構多分半袖着たら見えるぐらいの、
普通の半袖着たら見えるぐらいのところにあるから、
それで多分街を歩いたりとか、
あとそれこそ夏とかに日本に戻ってないから、
半袖を着たりとか、
それこそもうちょっと夏っぽい格好みたいなのもしてないから、
感覚的にそういう露出がある、
みたいな服装をしてないっていうのもあるし、
常に自分が会いたい人としか会ってないから、
それこそリョウちゃんの場合は親戚とか、
別に会いたくて会ってる人じゃないし、
私は常に自分が会いたい人としか会ってないから、
友達なり、親しい、近い家族のみだから、
多分そういうものを受け取らなくて住んでる部分とかも結構あるのかなっていうのはあって、
日本での特に女としての体を持って生きるっていうのは、
結構きついものがあるなっていうのは、
それこそ私が日本に住んでたのは大学の時だから、
18とか19だけど、
すごい重ったし、
特に東京とか電車乗ってたりとか、
それこそ街歩いてるだけでも、
妙な居心地の悪さみたいなのが、
街を歩いてる時に、
何なのかな、分かんない、
見られてるみたいなのがすごいどこかにあって、
こっちは本当マジで誰も気にしてないっていうのが本当に分かるから、
よっぽど変な人とか、逆に変な人とかいたらすぐ分かるもん。
化粧と職場の期待
これは危ないみたいな。
逆にみんな他の人を全然気にしてなさすぎて、
自分が例えば変な感じで見られてるとか、
それこそ変な人がいるとかだと、
すぐに分かるぐらいのレベルだけど、
多分日本とか逆なんじゃないかなって思うの。
マジで変な人がスタンダードっていうか、
眼差しの関係で言ったら、
それがマジョリティで、
普通の普通っていうか、
まなざさないみたいな感じのがないから、
常に居心地が悪いのかなって思ったりもした。
まなざすっていうのもそれこそ、
いろいろなまなざし方があるかもしれないけど、
常に他者からジャッジされてる感じがする。
ファッションにしろ、化粧にしろ、髪型にしろ、
持ってるものすべて、
いろいろポイント性で、
点数つけられてる感じがして、居心地が悪い。
ほっといてよってなる。
そうなんだよね。
関係ないでしょ。
今思い出したけどさ、
身バレしたら嫌だからめっちゃぼかすけど、
前やってたバイトで、
病院に勤めてたことがあって、
そのときに契約書もらったときに、
最低限の化粧はしてきてねって言われて、
何それ、最低限?
さすがにすっぴんとかでは来ないよね、大丈夫だよねって言われて、
別にそのときもすっぴんとかではなかったんだけど、
最低限、病院に来た人とかにも見られるポジションだから、
すっぴんはNGで、みたいなのを言われて、やんわりと。
今までも別のバイトとかもしてたけど、
病院でのその仕事のときが初めてだったの、そんなもろというか、
直接的に化粧をしてきてくださいって言われたのが、
でもわかんないけど、日本の一般企業に勤めてる人だったら、
やっぱりそれも言われたりするんだろうかとか、
あくまでバイトの身だからわかんないんだけど、
結構びっくりして、
っていうエピソードを思い出しただけなんだけど。
だってそれってさ、例えばさ、男の体を持ってたら言われないでしょ?
言われない言われない、だって先生たちしてないもん、全然。
何それ、なんかせめて両方に言うんだったらわかるよ、
男の体を持ってる人も女の体を持ってる人も、
全て全員化粧してきてね、とかだったら、
でもそれを私だけに言うみたいなのもあるし、
それをいわゆる、一般的な見出し並みですよっていう形で言われるから、
この仕事内容自体は、私は割と面白い仕事だったんだけど、
でもなんかその人事やってた人のその最初の一言から、
なんか大丈夫かな、ここみたいな思ったし、
なんかやっぱりすごい仕事の内容と化粧をしているかしてないか、
なんならその人の様子っていうのは全く関係ないにもかかわらず、
それなのに、やっぱり見られるものとしているっていうのが、
すごくそこでなんか名言化というかされてて、
うわーって思った。
ほんとうわーだね。
もう辞めたからいいんだけどさ。
でもそういうものが求められるのがスタンダードってことでしょ?
なんかそれがまずそもそも嫌だよね。
会社が化粧台とか出してくれるんだったらいいけど。
化粧台を上乗せして給料を出してくださいって感じ。
でしょ?だってなんか全員がやらなくていいのにさ、
なんかやらないといけない人たちが自腹でやらないといけないっておかしくない?
なんかそれだったら全員必須にするか、
それこそその分を上乗せするかでしょ?
そんなにやってもらいたいから。
かもそのメイク時間を出勤時間、勤務時間の中に含めて。
文化的価値観の影響
入れてほしい。
そうそうそうそう。
いやー。
だからそういう、別に日本だけとまでは思わないけど、
やっぱりこの日本で暮らしてきて、
ここですごく根強い価値観みたいなのは、
言説の上では否定されつつも、
一人一人の価値観として残ってる部分、
あるいはその集団みたいな。
会社とか、
何かしらのその集団になったときの常識?
感覚として、
まだまだものすごい根強く残ってるなっていうのは思うし、
やっぱりそれによって、
まあ私もだいぶこじらせてるけど、
やっぱり自分自身の様子とか、
そこに伴う感情みたいなのは、
やっぱりそういうここで根付いた価値観と、
やっぱり無関係じゃなくて、
すごいひも付いてるなとは思う。
確かに、そうね。
なんかその集団でのそういうのが強いとさ、
なかなかそこで一人で違うことやりますとかさ、
よっぽど何か自分に強いものがないと、
なんかそういうのってできないし、
なんかね、
なんかそういうの言われたら、
なんかはいって言ってやるしかないというか、
なんかそれこそ仕事もしないといけないし、
給料もらわないといけないし、
生きていかないといけないし、
社会がそうならそれに従うしかないよなっていう流れが常にあるわけじゃん。
なんか変わってきてるのかな?
あんま変わってないもんね。
業界にもある。
昔よりはね、変わって、
それそう、業界にも絶対よると思うし、
こんなのとはいえ、
例えば数十年、二十年、三十年前と比べたら、
やっぱり変わってる、きてるところはあるんだろうけど、
それにしてもね、めちゃくちゃゆっくりゆっくりって感じだよね。
なかなかそこ、この社会全体的に変わるのと、
その社会で生きてる中で、どうしても内面化しちゃう価値観っていうのが、
やっぱ速度として、個人の生きる速度と社会の変化する速度が合わないから、
だからどうしても弊害はあるよねって思う。
そうだね。
自分が生きている間は多分結局、
これが大きく進むことって多分ないだろうし、
でもだからといって自分自身をずっとそういうふうに思い続けるのもやっぱり苦しいから、
どこかで徐々に自分の中で何かを受け入れていくとか、
変えていくとか、何かが変化していくとかによって、
また見方とか考え方とかもちょっとずつ変わってくるのかなと思ったりもするけど、
なんか難しいよね、その中にいる間はね。
やっぱり自分でいろいろ意識してもさ、
もう十何年、二十年、二十数年とかさ、
その毎日の積み重ねで作られた自分のそういう考え方を変えていくっていうのも、
自己変革のプロセス
やっぱり並大抵のことじゃないし、
もうなんか、自分の価値観変革運動みたいな、
ひとり社会運動みたいな感じで、
なんかちょっとずつ、もうそれもほんと社会変えるのと一緒で、
自分変えるのもほんとちょっとずつちょっとずつ、いろんな意識をしたりとか、
なんか大丈夫になる言葉を見て、
なんかお守りにしながら毎日頑張るしかないんだろうなって思うけど、
もう多分なんか一番思ったのは、
なんかやっぱり外からいくらいいことも悪いこともどっちもだけど、
言われたことって、なんか自分の中で納得しない限り、
難しいと思うんだよね。
なんかそのポッドキャストの中でも話してたけど、
あの手組早野の中でも、
結局はなんかその自分の中での納得とか、
自己満ではないけど、
自分がこれでいいっていう風に、
なんか思えない限りはやっぱりなかなか難しいし、
やっぱそれを思えるようになるっていうあり方も、
なんかそこにたどり着くまでの道のりとか、
どうやったらそれが自分がそういう風に思えるかっていうのも、
やっぱりいろいろ試行錯誤して、
納得の仕方みたいなのを見つけないといけないから、
時間はかかるし、
で、外からの何か、
まあその他者からの言葉、
いい悪いどっちもだけどが、
それを助けてくれることって、
なんかあんまりないと思うなって思う。
自分の実体験からも思うし、
やっぱりそれを納得させられるのって、
自分しかいないから、
なんかもうちょっと自分の言葉とか、
自分の感覚とか、
そういうものを、
なんかもうちょっと信じていいんじゃないかなっていう風にはすごく思うし、
そういうものに対して、
もうちょっと耳を澄ましていけることが、
多分そういう納得の仕方の見つけ方に、
もうつながってくるんじゃないかなと思うから、
そういうのを超地道にだけどさ、
なんかその一晩できることじゃないから、
ほんとちょこちょこと、
なんか自分でちょっとでもいいって思ったわ、
そういう感覚を、
なんかちょっとずつつかめるようになってくるのが、
最初の一歩というか、
なんじゃないかなって思った話でて。
納得の重要性
同意。
同意。
同意。
これ以上言うことない。
同意。
でもそれもさ、
なんか自分なりの納得も、
それも何か、
例えば整形でもなんでもいいんだけど、
何かをすることで、
それがすぐに解決するなら、
全然それでいいと、
割と私は思ってて、
ただ私の場合は、
なんか実際に自分の何か部位がとかっていう話ではなくて、
なんかもう完全に思考パターンの話だなって自分では思ってるから、
なんかそれはもう外からの何か処置があったとて、
できることじゃないから、
本当になんか大丈夫って思える経験を重ねるとか、
ある種吹っ切れてどうでもいいみたいな感覚、
こうなれる感覚にちょっとずつ慣れていく、
みたいな作業をしていくくらいかなって思ってる。
あとはもう本当場所を変えるとか?
そうだね。
それは結構大きな変化だけど、
環境を変えるとか場所を変えるとか、
でもだから日常でできることとかだと、
やっぱりそういう体験を重ねるとか、
なんか自分の中でのそういう感覚にもちょっと敏感になっていくとか、
あとはそうだね、逆に吹っ切れるとか。
吹っ切れるのもなかなか難しいよね。
生活的なこともあるし、
それこそ本当違う人になりますみたいな感じじゃん。
そもそもそれ自体が引っかかってたり、
自分の中でそういう風になってるのって、
やっぱり自分がそれを気にしてるから、
そういう風なものに対して結構センシティブであるから、
それが気になってるとか、そういう思考になってるわけで、
それを一晩で、はいじゃあ無くします。
ってなったらさ、それこそ私じゃなくなるわけじゃん。
もうその時点で。
だからなんかそれも、
なかなか難しいプロセスというか、
吹っ切れるっていう方にいくのも。
何か大きなきっかけがあったりして、
そういうのになることもあるから、
人生何が起こるかわかんないし、
なんか逆に何かある日目覚めて悟って、
吹っ切れることもあるから、
わかんないけど、
まあうちらも全然何かアンサーがあるわけじゃないしね。
実際こんだけこんがらがってんだから。
そうそうそうそう。
逆にそうじゃないままで、
自分が苦しくならない程度に、
納得の仕方なりを模索していくとか、
そういうことになるかもしれないし、
納得の仕方なりを模索していくとか、
そういうことについて話し続けていくとか、
っていう感じかな。
答えがあるわけではないんだけどね。
じゃあ今日はこのぐらいかな。
そうだね。
じゃあまた次。
また次回。
また来週。
はい。
ありがとうございました。
じゃあね。
50:50

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