こんにちは、むぎほです。
りょうこです。
ポッドキャスト、あのさ、は日常の些細なことから、社会のこと、自分自身や人との関係性にもつわることなど、
結論も解決策もないけど、そんなグレーな話をそのままに語っていこうという番組です。
はい。
今日はテーマがあったよね。
うん。
ちょっと、
そう、私がまた提案したんだけど、
あの、なんか、最近、最近というか、今月の、
えっと、今3月なんだけど、3月の頭に、
あの、関西から、地元、私、地元は関東で、その関東の方に、地元の、あ、そう、地元に友達が遊びに来てくれて、
うんうん。
うちの、あの、実家に3匹、犬と猫2匹、計3匹がいるんだけど、
その3匹の話をよく一緒にしてたっていうのもあって、
すごい、あの、3匹に会いたいって言ってくれて、それでわざわざ、はるばると来てもらって、
で、あの、2泊泊まって、
まあ、3匹とも、それぞれ一緒に時間過ごしてもらったり、
あとは、特に犬は散歩があるから、
大体、いつも1日、1時間ぐらい行くんだけど、
あの、一緒に散歩も来てもらって、
街中歩いたり、海の方行ったりっていう感じで、
まあ、一緒に時間を過ごしたんだけど、
なんか、それがすごい楽しくって、
まあ、友達ともともと仲いいから、楽しいっていうのもあるし、
なんか、私がすごい、本当に自分の実家で飼ってる3匹をめちゃめちゃ大事に思ってて、
で、なんか、その3匹に対して、
友達も、なんか、自分と近い眼差しを向けてくれたことがすごい嬉しくて、
なんか、それもすごい良かったなっていうふうに思ってるんだけど、
なんか、その、なんか、地元って、
なんか、ぶっちゃけ普通に、私あんま好きじゃなくって、
なんか、まあ、実家もそうだし、地元も、
なんか、10代の頃って、あんまり良い思い出っていうのはなくって、
で、実際、なんか、その10代の中高、小中高でいて、
その時のクラスメイトとか、同級生たちとは、
当時はもちろん連絡先知ってたんだけど、
なんか、私もちょっと、なんか、殺伐とした18歳、19歳あたりの人間性だったというのもあって、
なんか、わりともう、卒業、高校卒業したタイミングで、
もう連絡先をバッサリ切っちゃったりとかして、っていうのもあって、
全然、その、まあ、地元で、その、大事にしたい関係性とかもなかったし、
なんか、あんまり、その、学校生活とかも、あんまり良い思い出もなくって、
っていうのもあって、なんか、そんな地元に良い思いが自分にとってはなかったんだけど、
なんか、そこに、その、今、仲良くしてる友達が来てくれて、
なんか、そこでまた別の、今までとは、その、10代の頃、この地元で過ごしたのとは違う、
過ごし方とか、楽しみ方をして、なんか、その、過去にあった出来事とか、
なんか、いろんな感情みたいなものを、なかったことにはできないんだけど、もちろん、
だけど、なんか、そこに別の新しい人との、なんか、記憶が積み重なって、
その、上書きされていくっていうのは、なんか、すごい良かったなって、
率直に思えたことで、まあ、そういうエピソードが最近あったっていうのもあり、
今回の、なんか、テーマとして、その記憶を上書きしていくことっていうのを設定してみました。
はい。 えー、すごい。でもね、良い時間が過ごせたみたいで。
そう、めっちゃくちゃ楽しかった。
いいなあ、私も会いたい。
会ってほしい。
なんか、最初、なんか、その友達は、あの、すごい動物好きなんだけど、
なんか、自分の家で飼ったとかではなくて、
だから、たぶん、その、散歩とか、犬のリード持つとかも初めてだし、
そうそうそう、っていうのもあって、
なんか、私も、その、自分ちの犬が、なんだろう、その、やっぱ犬とかさ、猫とかって、
なんか、自分、動物好きな人か、そうじゃないかっていうのを、なんか、わりと本能的に分かってる節があるじゃんか。
で、なんか、それで、わりと人を見て、なんか、好きそうな人とか、
例えば散歩、普段の散歩で、私と歩いてて、
あの、たまたますれ違った人とかに、その、自分ちの犬が、なんか、くんくんくんくんって興味ありそうに匂い嗅ぎに行ったりすることがよくあるんだけど、
なんか、うちの犬は興味がすごい人にあるんだけど、向こうからぐいぐい来られるのが苦手なタイプで、
だから、たいてい匂い嗅ぎに行くくせに、相手がそれに気づいて、
あ、かわいいとかって言って、近づいてくると、一気に逃げて、私の後ろに隠れちゃうみたいな感じの性格の犬で、
で、まあ、初対面の人は基本的にまず吠える、やっぱ知らない人だっていう感じで、
まあ、中型犬、中大型ぐらいなんだけど、大きさ的に、だから、結構大きい声で吠えるのね、
だから、なんか犬を飼ったことない人が、それを聞いたら、やっぱちょっとビビっちゃうところとかあるかなと思って、
なんか、初対面どうなるかなって、すごいそわそわしてたんだけど、なんかまさかの吠えなくって、
初めて会ったのに、なんかちょっと吠えそうな感じで、口元が膨らみかけてはいたんだけど、でも吠えなくって、
なんかすごいその友達の顔が気になったみたいで、顔の匂いをめっちゃ嗅ぎたがって、
すっごい近くまで寄ってって、くんくん匂い嗅いだり舐めそうな感じで、なんかいて、
すごいなんか友好的な感じで、割と迎えてて、友達のことを。
猫も一匹は割と誰にでも、なんかそんな警戒するとかもないし、撫でるならどうぞみたいな感じ。
だから、まあそれはいつも通りだなと思って見てたんだけど、もう一匹の猫は、
なんか割と人の好き嫌いもはっきりしてるし、なんかそんな懐っこい猫っていうわけでもないから、
どうだろうって思ってたんだけど、一緒に同じ部屋にいても、部屋から逃げ出すこともなく、
友達にチュールをあげてもらったっていうのもあるのか、なんか結構いい人認定した感じもあって、
すごい友達の膝とかすりすりって自分から近寄ったりしてて、
なんかそれは割と慣れた人にしかやらないことだったから思うと思って、
すごいだからなんか3匹が、3者3様にすごい友達のことをウェルカムな感じで、
へーよかったね。
迎えててめっちゃ安心した。
へーよかったね。楽しそうでも。みんな。
めっちゃ楽しかった。
ローちゃんの友達だから。
そうそうそうそう。
だからまあ3匹をすごい大事にこう接してくれたのもありがたかったし、
なんか地元のいろんな場所に私も車で連れて行ったりとか、
で、あとはこっち帰ってくるとよく行くご飯屋さんとかあるんだけど、
そこまで車でドライブしつつ行ったりって感じで、
なんか本当に自分が割と好きだなって思える場所を紹介したみたいな感じでいて、
まあでも、なんかその犬の散歩とかはどうしても歩く、歩ける範囲内に移動するから、
自分の過去の通学路とかと重なるわけ、場所が。
そうそうそう。別に通学路で何か嫌なことがあったとかでは全然ないんだけど、
やっぱりその歩くたびにいろいろ過去を回想する場所としてあるから、
なんかそこに全く新しい、この土地にとっては新しい人と一緒に歩いて、
なんか自分の過去のその記憶に今の記憶が重なっていくみたいなのは、
なんかすごい、なんかすごい絆創膏みたいだと思って、
なんか別に過去がそんなにトラブってたわけではないんだけど、
でもなんかそこにいい記憶が重なることによって、
なんかその下の傷とかいろんなもの、ぐちょぐちょしたものもなくなるわけではないんだけど、
なんかやっぱり癒しとして、新しい記憶があるみたいな感覚になるなと思って、
なんかそれがすごいいい出来事だったなと。
なんかそれって、なんかその、もちろん場所とかって、しかもその長く育った場所って、
結構いろいろな、年齢に応じてもいろいろな思いとか記憶があると思うんだけど、
なんかその全般的にそういう感じの、なんか体験っていうか、
なんかその記憶の上書き的なエピソードって、なんか他にあったりする?
なんかその土地に限らず、なんかそれは結構場所的なものにすごく大きく影響されてるというか、
なんかそのいろいろ、それこそ通学路だったりとかっていうのがあると思うんだけど、
なんか例えば、なんか特定の季節とか、なんか空気感とか、
なんかそういうので、そういう経験ってあったりする?
それとも今回そのすごく、まあそのリョウちゃんの人生の中で大きい部分、
生まれ育った場所だから、まあそれって大きいじゃん。結構そのリョウちゃんって。
うん、そうね。
すごい影響している時間と空間っていうのがあって、
そういう風なのがすごい結構強く感じられたっていう感じなのかな。
そうだね。まあ他のことでもね、いろいろあると、なんかなんだろう、
自分としては出来事として大きかったから、あえてそうやって意識してるんだと思うんだけど、
別にこういう出来事に限らず、記憶ってどんどん上書きされていくものだとも思うから、
あげようと思えばいろいろあるんだろうなとは思いつつ、今パッとは思い浮かばないんだけど、
なんかムーちゃんはどう?なんかある?
私はなんかその、それこそリョウちゃんと真逆で同じ場所に住んだことがないので、
なんかその場所での記憶みたいなものはあまりないけど、
なんか私、そうね、記憶っていうテーマに関してはずっとずっと長い間考えているから、
なんかリョウちゃんが記憶についてのテーマめっちゃ面白そうみたいな感じですごいテンション上がってたんだけど、
なんかいろいろ自分が前に書いた文章とかを引っ張ってきてて、
すごい面白いのが2017年とかの文章があって、
8年前だ。
8年前だよ、やばくない?なんかでもそこに記憶は不安定であるって書いてあって、
なんか思い出されるたびに常に更新されている上書き保存集っていう風に書いてあって、
で、なんかその、私多分その時期かなんかわからないんだけど、
なんかその写真にすごいハマっていた時期があって、
なんかその写真、結構両親ともに写真の仕事をしてたっていうのもあるんだけど昔に、
家にもうすごいいつもその写真のネガとかカメラとかレンズとかがもう常にあって、
なんか写真もすごい撮る家だったから、
昔からすごい写真が家中にあふれていたみたいな、飾るとかではなくて、
本当にもうそのそれこそなんか印刷してきて、
現像してきて、それがなんかそのいろいろ感に溜まっていくみたいな感じの保存の仕方だったんだけど、
なんかその写真とかで切り取られる記憶みたいなものについてすごく考えていた時期があって、
やっぱり思い出されるたびに記憶って更新されるから、
なんかその自分の中での記憶ってなんか死にもならないみたいなのがすごい常にあって、
やっぱその後の時に、
それこそ昔の、昔というか私たちが小さい頃とかスマホとかないじゃん、
だからそれこそ記録とか記憶みたいな、
視覚的なものって写真を撮って現像したものが、
なんていうのかな、紙として目の前にあって、
なんか自分はディズニーランドに行ったんだな、この日みたいなのか、
この衣服をこの日に着ていたんだなとか、
っていうのを視覚的に見ることができて、
でも決して視覚的に見えるからといって、
そこから例えば自分が思い出すものとかこととか瞬間みたいなのって、
それもやっぱり微妙にその瞬間に重なるけど重ならないみたいな感じがすごいいつも思ってて、
なんかその記憶の不安定さとかみたいなのがすごくいつも、
多分この時期すごくそれについて考えてて、
で、なんかその上書き保存みたいな話を聞いたときにやっぱりそう、
なんか私多分自分の中でも常にいつも思ってるのが、
そのやっぱり記憶ってすごく不安定なものかなみたいな感じ、
で、なんか人間ってさ、
なんか人間の頭がどういうふうになってるのか私はよくわからないからあれなんだけど、
なんかそのあんまり記憶力、基本的に人間ってよくないから、
覚えてるとこも、それこそ長期記憶と短期記憶があって、
でもその長期的に覚えてるものって結構自分の中である程度こう蓄積してないと覚えてない、
それこそすごい昔のこととか、
それこそ短期記憶で、これ先週何食べたとか、夕飯何食べたとか、
みたいなことって覚えてないじゃん。
で、なんかそういうの考えたときにやっぱりなんか人間の、
それこそ脳にしろ、なんかその記憶のあり方にしろ、
なんか超適当、適当だなみたいな感じな思いがすごいあって、
でもなんかだからこそ、なんかそのりょうちゃんが言ったみたいに、
なんかまあそれがなかったことになるわけではないんだけど、
思ってる、いつも。
そうそう。
確かに。
なんかさ、それこそ記憶が不安定で、
私の今回のその出来事的には、
めっちゃポジティブな意味で上書きされてるっていう感じだったけど、
前回のエピソードで話した、
私が今書いてるジーンとかは、
なんか割とその自分の過去とか、
家族の過去とかを常に思い出しながら書いているんだけど、
なんかその前回書いたものに、
その自分の劣等感とか、
いろんなみじめさみたいなものが強調されすぎてる感じすると思って、
なんかそれで自分で読むの嫌になるなって思っていたんだけど、
なんかやっぱその時の、もちろんあった出来事は本当にあったんだけど、
でもなんかその回想のされ方とかがやっぱり、
直近、たぶんその当時、出来事が起きた直後に、
その記憶のされ方的なものと、
今、こう、なんだろ、振り返って、
しかもそれはなんか、自分史とか家族史っていうほど大掛かりなものではないけど、
なんかやっぱり今の自分とか今の家族みたいなものにひも付けて思い出してるものだから、
なんかそこになんていうんだろう、先入観ではないけど、
プラスアルファの色眼鏡をかけながら、
その記憶を回想している感じがするからなっていうのも一つ思ってて、
辛かった記憶としてあるんだけど、
果たしてこんなに文章に書くほど辛かっただろうかみたいな感じに思えてくる。
だからなんかそれも別に悪いことではないんだけど、
やっぱりその上書きのされ方として、
なんかこうその当時と今で、例えば20年ぐらい差があるって考えたら、
その20年の間に出来事のその記憶自体もめちゃくちゃ変わってきてる感じ?
別にこう嘘が紛れ込んだわけではないんだけど、
そこの記憶の形自体が結構変わってるかもしれないみたいなのは結構思った。
そうね、なんかでも難しいよね。
その瞬間にさ、なんかこうタイムスリップして戻るわけにもいかないからさ、
その時の自分にインタビューとかできないからさ、
今の自分で思い出せることを思い出すしかないんだけどね。
だからなんかその、当時の自分と今の自分もやっぱ人間的に変わってるし、
変わった人間ではあるんだけど、
中身は一緒といえば一緒だから持っている記憶とかも同じで、
ただやっぱり別の人間が回想してるから、
なんかやっぱりそこに対する意味付けの仕方みたいなのが結構変わってきていて、
別にそれが悪いわけじゃないけど、
なんかただ変わっているっていう感覚はある。
なんかその意味付けの変わり方ってさ、
当時は自分ではあまり例えば言葉が足りなかったとか知識が足りなかったがゆえに、
例えば考えなかったこととか思わなかったことが、
今は例えばそういうふうに時間をかけて得た体験だったり経験だったり、
それこそ知識だったりによってそういうふうな意味付けになってるって思う?
それともなんかまた違う形での意味付け?
どうなんだろう、いやでも絶対それはあると思う。
やっぱり幼かったし、今よりも圧倒的にいろんなことを知らなかった。
概念も知らないし、
そもそもなんか特に子と家族に関しては、
家族のことって家族から出た時にやっぱり見えてくるって思うし、
中にいる時はいろいろ感じてても、
それをあんまり表面化してこないし、
無意識に多分表面化しないように自分でも制御してるみたいな部分もあるかもしれないし、
今になってわかるみたいな部分も多分あるにはあると思うけど、
でもなんかそれだけではないような気もするし、
これは完全に個人的な話だけど、
なんか私の場合は、やっぱその家族の話をすること自体も、
やっぱすごい時間がかかったし、
特になんかその家族が不和というか、
あんまり健やかな健全な環境ではなかったっていうのを、
果たして口に出していいのだろうかみたいなのが、
まあ割と今もあるっちゃあるというか、
なんか私は割と経済的にはかなり恵まれていたっていう自覚があって、
それも割と状況してからというか、大学になってからぐらいちゃんと理解したっていう感じではあるんだけど、
なんかやっぱその恵まれていたみたいな自覚とか、
まあなんか完全にマジョリティではもちろんないけど、
かといってそんなにマイノリティ性があるというふうにも思ってない。
なんか割とこの日本社会の中で生きるには、
比較的多くの特権を享受しながら生きてきたなっていう自覚はあって、
なんかその自覚はもちろん持つべきものではあるんだけど、
ただ一方でなんかその感覚が強すぎるが故に、
なんか自分が例えばある出来事に対して辛かったとかっていうことが言うべきではないんじゃないかみたいな、
なぜならこんなに恵まれているんだからみたいな、
思考のパターンみたいなのが割とあって、
なんかそれはなんだろう、今も全然完全には払拭できていなくて、
そうだからなんかそういう、
なんかそれを言葉にすること自体がなんか最近ようやくちょっとずつやってみようみたいな気持ちになれたっていう段階でいるんだけど、
っていうのもあって、
だからなんかその、なんだ、自分が辛かったとかこれに対して傷ついたみたいなことを書くっていうこと自体に、
なんか結構、なんだろう、労力というか勇気が必要なことであって、
なんかそのための、なんかそれを例えば辛いと書いてもいいと、
誰もが認めてくれるであろう正当な理由づけみたいなことを、
過去の自分の記憶から引っ張り出そうとしているんじゃないかみたいなのが最近書いてて思ってて、
だからなんかその、なんだろう、過去にその知識がなくてそういうふうに思えなかったっていうだけじゃなくて、
なんかそれに対して、正当化しようとしすぎていて、
過剰に辛さのレベルを上げているんじゃないかみたいな感じが、
最近の自分のその記憶というか、こう認識のあり方としてあるんじゃないかみたいな感覚があるから、
なんかそのバランスを取ろうとしてるのね、なんかこれぐらいの辛さじゃないと、
なんかこれは言ってはいけないというか、まあなんか言ってもいいぐらいのレベルにならないみたいな、
これだけの特権があるのに、なんかそれに対しての私の辛さ、その辛さのバランスが見合ってないというか、みたいな、
そうそう、そんな感じかも、だからなんかもっと誰もがうわって思うぐらい、
わかりやすい理由があったら、たぶんもっと、いやすごいこんなこと言うとそういう状況の人が聞いたらちょっとって思うと思うんだけど、
なんかわかりやすい理由があったら、もっと簡単に言えたんじゃないかみたいな感覚があるから、
だからなんか自分の記憶が何だろう、辛いと思うこと自体が、なんかもうちょっとちゃんとした理由が必要みたいに思ってしまいがちなんだよね、
そういう意味で記憶を改ざんしてるとまでは言わないけど、その記憶の重みの認識のあり方みたいなのが、
たぶん当時と変わっているんじゃないかというのに、最近書きながら気づいたって感じ。
まあでもそれに気づけるだけでもすごいと思うけど、なんかそれこそそのままただ書いてるだけっていうのもあるし、
なんかそれにまず気づけるだけでもすごい大きな一歩というか、なんか別にそれが必ずしも悪いことではないけど、
たぶんその、りょうちゃんが例えば今そのやってるみたいな作業それを言葉にするっていう時に、なんかその、そのりょうちゃんの記憶のそれこそ正当性を、
なんか常にその自分自身が自分の記憶の正当性を常に疑い、それに対してのなんかその、そのなんていうのかな、声を与えるか与えないかみたいな判断を常に下すっていうのは、
たぶんすごく辛いことだし、それこそなんていうのかな、自分をまあ否定する、なんか自分のその記憶とか、その時あってその時感じた自分のそれをそのまんまにできない、なんかそのまんまだと、
なんかそのそれこそ辛さがあまり足りないから、それに対してもう少しこうしようとか、もっと意味が必要だとかっていう風にこう常にそこから何かをもっと引き出そうとしてしまうし、でもね難しいよね、なんかそこにでもなんか今のりょうちゃんの前提としてさ、この今までりょうちゃんがそうやって育ってきて、
このまあそれこそ得た知識とか、なんかそういうこう社会に出て学んだこととか、それこそ自分の特権性についてまあ気づいたっていう話もしてたけど、なんかその今、過去の自分とはもう違う人間である今思うその記憶っていうのに後戻りは多分できない、難しい、なんかその瞬間感じたその記憶のまんまので、
回想することっていうのは多分難しいと思うんだよね、でもだからといってそれがなかったことになるわけではないし、本当にその瞬間に感じたそのりょうちゃんの思いっていうのは確実にそこにあって、
なんかそれをどこまでなんかそのまんま書けるかみたいな、なんかそのとりあえず書くみたいな、なんかそのそれこそそのなんていうのかまあそれこそ意味とかまあそれに対しての声を与えてもいいのかとか、それを書いてもいいのかっていうことに対して多分いろいろ葛藤とかもすごいたくさんあると思うんだけど、
多分それを多分まずそのまま書いてみる、出してみるっていうところが多分りょうちゃんにとってのすごい大きな一歩、それこそ最近ね、ここ最近もう少しそういうことについて言えるようになったって言ったり書いたりできるようになったって言ってたけど、
でも多分それも多分ね、すごい時間かかったし、それまでに多分いろいろ考えたこととかもたくさんあると思うし、簡単なことではないから、なんかそのすぐ、まあそれこそただ書けばいいじゃんっていう話ではないんだけど、でもなんかね、なんかなるべくそのまんま出てくるものをただ書くみたいなのも多分ありかなって思った。なんかそのそれこそただ流れてくるままに書いてみるみたいなの。
なんか多分なんか止まったりとか、なんかいろいろこう、まあそれこそ今のその自分がそれに対してのまあそれこそコメントとか、いろいろを入れ始めると、結構ぬまるというか、なんか結構いろんな形でそれを考え直したりとか、
意味を見つけたりとか掘り起こしたりということが、永遠にっていうか結構できる。まあそれこそその当時感じた自分とは全然今、それこそ知識量とかも全然違うし、経験も違うし、なんかなんかそのそれになんかあえてこうトップをかけて、なんかそのバーって出すことによって、まあもちろんめちゃくちゃなものもたくさんあると思うけど、
なんかそこで見えてくるものもあるんじゃないかなと思ったりもしたけど、でもね、難しいよね。一応思い出してるのは今のりょうちゃんだからさ。
そこをね、交換とかできないから。過去の自分と今のりょうちゃんみたいな。できないからさ。
だからなんか割と自分の中でも矛盾してて、一方ではこんなこと書いていいんだろうかとか、いや自分なんかがこんなこと書いちゃってみたいな、いう思いもありつつ、でも多分ずっとなんか誰かにどうにかしてほしいっていうわけではなくて、ただただやっぱ知っておいてほしいみたいな感覚?
もちろんなんか知られたくないことは知らないでいてほしいんだけれども、知らない状態で自分のいろんなあれこれを決めないでほしいみたいなのが多分小さい頃からずっとあったんだろうなっていうのを考えてて、こんなこと自分が書いてはいけないんじゃないかって思うのと同時にでも知ってほしいみたいな、なんか矛盾してる気持ちが同居してるっていう感じで。
まあ今書きながらそういうスタンスなんだけど、なんかその中でいろいろ思い出されることとかが、なんかいろいろ今の自分にとって都合よく改変されていないだろうかみたいな、自己点検をし始めてしまうみたいな感じもあったり。
だからなんかその記憶がいい形で上書きできればすごくそれはいいんだけど、なかなかそれだけではないじゃん。別にこの私の今の話だけではなくて、いろんな日常のことに関してもいい形で、
例えば私が今自分の地元に対して昔ほど自分の割と暗い時期が詰まった場所っていう記憶の仕方だけではなくて、なんかすごいポジティブな記憶がある場所としても感じられるようになったみたいな、
そういうポジティブな変換ではないけど、上書きの仕方みたいなふうにできたらすごくいいけど、なんかあらゆることがそういうふうにいくわけではないから。
なんかちょっと話し戻すけど、りょうちゃんが前のエピソードで話してたけど、今回のそれを書いてる理由、目的の一つに話してほしいみたいなのがすごいあるって言ってて、なんか今もそれ言ってたけど、なんか多分それがメインの目的でいいんじゃないかなって思った。
その時に多分りょうちゃんが言いたくて言えなかったことみたいなのが、りょうちゃんの中にはたくさんたまっていて、で、それって多分外に出されないままとか、その言葉にされないまま、ずっとずっとりょうちゃんの中にあって、でもそれに、それとともに、それこそ成長していろいろ経験とか知識を積んで、で、今に至るんだけど、
今に至ったからこそそれに対して説明とか理由とかを与えることができるりょうちゃんの今ではあるんだけど、多分その時に自分の中にとどまったそういう感情とか気持ちとか思いって、なんか多分ただそこにあるだけなんだと思うし、
多分りょうちゃん自身の中でも、多分なんか最初にあるのはただ知ってほしいなんじゃないかなって思うのね。勝手にあれなんだけど、私、そうなんか話を聞いてて、書いてる間にこういろいろこう記憶が、まあいろんな、自分がそれこそ覚えてもいなかったような記憶とかエピソードとかも出てきたりとかして、
そういうことからまたなんか自分の中でのこう意味付けが変わったりとか、解釈が変わったりとか、それこそ自分の中でこうって思い込んでたものに欠落していた、まあそれこそ背景とかが足されて、また違う形で出来事なりを見たりとか、回想することができるみたいなプロセスももちろんあると思うのね。
それはそれで多分全然ありだと思うんだけど、なんかその一方でそうじゃないもの、まあそれこそ前のエピソードで話したその、なんていうのかな、あんまり深掘りできないものとかって、多分なんかそこにある記憶って、なんかそれこそそのまんまりょうちゃんの中でとどまった、言えなかったこととかの記憶が、
多分そのまんまあって、そのまんま出てきたいんじゃないかな、みたいなのは思った。なんかとりあえず出てきて、でなんかその外で、まあそれこそどんなふうに解釈とか、まあ意味付けとかされるのは、あのまあそれこそその後でもいいと思うんだけど、なんかまずとりあえずは外に出てみるみたいな、
なんかそのバリア、その壁が結構りょうちゃんの中では強いじゃん、なんかそれこそ自分の中でこういろいろこう止めてきたもの、自分がこういうこと言ってはいけないとか、なんかこういうふうなことは私が言ったらあれだから、みたいな感じで、言わなかったことみたいなのをまず外に出すこと自体が多分自分のなんかその記憶にとっては、
なんか最初の一歩というか、でなんかそこからもちろんいろいろな意味とかは出てくるかもしれないし、まあ出てこないかもしれないし、それで多分全然いいと思うんだよね、なんかそれこそ記憶さっきも言ったけど、記憶ってすごく不安定なものだから、なんかそれに対して、こう形とか意味とかをつけるのって結構むず、難しいというか、
なんかその形のないものとか不安定なものに対して、なんかその時はこれっていう意味とか、まあ解釈みたいなものがついたとしても、まあそれこそそんなのって次に思い出されるときには全然忘れてたりして、またその時の自分の状況によって全然違う形で上書きされちゃうわけだから、
多分今、りょうちゃん、今のりょうちゃんが思い出せる形で思い出せば、思い出して記録すればいいんじゃないかなって思った、なんか話聞いてて。
ありがとう。
まずは外に出すことみたいのが大きいかなって思う。
でもなんかさ、カウンセリングとか、まあむーちゃんがどういう感じのカウンセリングだったかわかんないけど、なんかカウンセリングとか言って、なんかまずそこのこの目の前の人に自分その話そうと思ってる内容とかをちゃんと言葉にして伝えるみたいなことのハードル自体めっちゃ高くない?
めっちゃ高いし、
私は相手にいろいろなんかそれこそ自分はただそれこそ言いたいだけとか話したいだけ。
なんかまあ私のカウンセラーがあんまり良くなかったのかわかんないけど、相性があるからあれなんだけど、
なんか私はその相手からその解釈とか説明とか意味付けをされるためにそれを話しているのではなくて、
ただ単になんかそのなんかそれがあることを知るとか、それがあることを自分口にすることによって、なんかそのそれこそ自分なんていうか自分の妄想とかではなく、
あったものとして誰かがそれを聞くみたいなことに意味があると思ってるから、
なんかそれに対しての説明とか解釈みたいのは別に相手がしたかったらすればいいけど、私はそれを求めていなくてみたいな感じだから、
なんかそのハードルが自分にとっては結構高くて、
うまくそういうものをなんか相手とかにこう全部話そうみたいな風には思えないから、
魔女ちゃんのカウンセーラーがどんな感じなのかは分からないけど、いろんなあれもあるじゃん、
そうだよね。
だから多分そういうものによっても全然あの進め方とかも変わってくると思うんだけど、
なんかでも私が最近はなんか行かなくなっちゃったんだけど、
なんかそれもやっぱちょっと相性的な面があってっていうのはあるんだけど、
でもなんかなんだ最初話した時も、
なんかとりあえず状況を説明しなきゃみたいな感じになってたのもあって、
話すんだけど、私がなんかやっぱ傍観者の視点で話しちゃうっていうか、
なんか私がそれに対してどう思ったとか、私がどうだったっていうことがうまく言葉にできなくて、
代わりに自分が見てきた光景のことを話しちゃうのね、
で、実はこうで、こうで、みたいな、
で、なんかそれ、その話に自分自身がなんかこう登場人物としてうまく登場できないまま話しちゃうみたいな、
だからなんか自分はまあたいしたことないんですけどね、みたいな感じになっちゃう、
なんか自分の話し方も、なんかあんまり自分がそんな大変でしたっていうわけじゃない気がすると思って、そういうふうに話しちゃう、
だから、なんかカウンセラーの方も、
まあそれはなんだろう、例えば夫婦の問題だったら、それは夫婦の問題だし、
なんかそれに子供は関係ないですよ、みたいな感じで、
いやまあそれはわかるんだけど、みたいな感じになっちゃって、
なんかだからまず自分が感じてることとか、
またその状況に対して自分がどう関わったり関われなかったりしたのかみたいなことを話すこと自体がめちゃくちゃ難しいなっていうのを、
いざカウンセリングに行ったときに初めて感じて、
でもなんかカウンセリングのよかったことは、
過度に驚かれなかったこととか、変な同情をしないことが、
なんかすごい心地いい感じはした。
けど、なんか私のその担当のカウンセラーの人は、
なんかあいづちがすごい多くて、
話してる間に?りょうちゃんが話してる間に?
うんうんうん、そうですね、そうだったんですね、っていうのをめちゃくちゃ多くてさ、
なんか、なんだろう、もちろん聞いてくれてるんだなっていうのはすごくわかるんだけど、
なんか上手く自分のその会話のリズムがつかめないまんま終わっちゃったみたいな、
まあそれはだから相性の問題、
自分は多分そんなにあいづちガンガン撃ちまくられると、
ちょっと話すのに手こずっちゃうみたいなところがあるなっていうのを思ったんだけど、
なんか似てるかも私たち、
私も初めてカウンセリングのセッションに行ったときに、
めっちゃ状況説明上手いねって言われて、
あれ誰の話してんの?みたいな、自分の話なんだけど、
そうなの?
自分の過去の話から、過去から現在に至るまでの時系列の何があって、こういうことがあって、
でも私はこれが原因だと思うんですとか、
自分でいろいろこう解説とかも入れて、
わかるわかる、
誰、何のためにここ来てんの?みたいな、
あなた自分自身のカウンセリングとか分析してる?その場で?みたいな、
で、なんかそれをカウンセラーの人が聞くみたいな感じの仕事をして、
めっちゃ説明上手いねみたいな、
そうそうそうそう、
説明上手いねって言われても、なんかちょっと気がするみたいな、
なんかめちゃくちゃ、誰がどうしてたとか、
そのときに誰がどう言ったかみたいなのは、めっちゃ話せるし、
で、なんかこういう原因で、たぶん自分がこういうことができたり、できなくなったりとか、いろいろ、
なんかその因果関係を自分なりに分析して、その結果を伝えて、
めっちゃわかる、
そう、だからなんか、なんだろう、
自分でも、なんかその別にさ、因果関係がわかったところで、
自分の感情自体はさ、どうにもならないわけじゃん、
なんかつらかったらつらいまんまだし、
その原因がわかったからといって、その感情が晴れやかになるわけじゃないから、
なんかそれをどうしようみたいな、とか、
なんかいろんな実害が出てることをどうしようみたいな感じで言ったんだけど、
なんかこう、ニアミスじゃないけど、
そうそうそう、なんかなーみたいな、
なんかちょっと違うんだよね、
そうなの、だから本当にどうしようもなくなったときに、
なんかあんまり人に言えることじゃないけど、
まあこの人は別に驚きもしないし、
過剰に反応することもないから、
ちょっと自分がアウトプットしたいから行くっていうのは、
そういう許可を得られるようなものと、
触れ合ったりすることによって、
自分の中での存在を、
そういう感情の存在を認めることができるみたいなのは、
かな。
なかなかね、難しいんだけど。
でも、だからそういう、
だから私、エッセイとか読むのがすごい好きで、
個人の体験として、
その人がただただ思ったこととかを書いている文章とかは、
すごくグッとくるものがあるし、
そういうふうに感じている人もいるんだ、他にも。
みたいな感じで思えるのはすごく心強いから。
そうだよね。
なんか別に自分とは同じだとか、
相手と自分と比べてどうかっていう話ではなくて、
自分と近い感情がここにあるみたいなのを確認するみたいなのが、
それで結構、
自分が同じような感情を抱くことも許せたりとか、
いうのが確かにあるし、
多分なんかそれが、
前回言ったのか、ちょっとわかんないんだけど、
私が自分と近い境遇の人の書いた記録みたいなのを読んだ時に、
ちょっと救われる感じがするみたいに思ったのは、
多分そういう部分があるんだと思う。
だからりょうちゃんもそれでいいんだよ。
ただそれで、そういう感覚で書いていればいいんだと思う。
そしたら多分読む側もそういうふうに受け取るから。
りょうちゃんもそういうふうに、
他の人の記録を読んだ時に思ったように、
多分他の人も、
全員が全ての本とか記録に対して会うわけではないから、
会った人たちの中では、
多分そういうふうに、
りょうちゃんが思ったように相手も思うから、
多分そういうふうに書いていいんだと思う。
だから記憶とかもね、不安定だし。
今、りょうちゃんが書ける範囲で、
思い出せる範囲で、
感じられる範囲でそのまま書くっていうのが、
多分一番いい文章になるんじゃないかなとは思ったけど。
ありがとう。
この言葉を励みに頑張って書く。
まあ、無理せずに。
ありがとう。
あれ?10月だっけ?
あ、そうなの?まだまだ全然先、半年以上先なんだけど。
なんかちょっと自分のスケジュール的に、
夏、秋ぐらいがちょうど忙しくなりそうだから、
それの前に書こうと思って。
うんうんうんうん。そうか。
じゃあ今ちょっと結構集中して書くぞみたいな。
そうそうそう書いてる。
そうか。まあ無理せずに息抜きしながら、
おやつでも食べながら。
めっちゃ食べてる。
ね、お茶でも飲みながら。
コツコツと。
はい。
私も行きたい。えりおちゃんのブースとか行きたい。
え、なんか場所とかもう決まってんの?ブースのなんか出店。
あ、ブースはまだ決まってない。もっと直前にならないと決まんないけど、
もう会場は決まってて。
そう、でもなんか京都だし、京都も全然十分栄えているけど、
でもなんか東京はさ、なんかよくも悪くも人が雑多で母数もでかいから、
なんかちょっとぐらい自分の読みたいと思う人が来るんじゃないかっていう気になれるけど、
京都でやって本当に人が来るんだろうかみたいな気がするけど、
でもね、なんかまあ南部作るとかは全然決めてないから、
都にも閣にも完成しないことには物にできないからと思って、
コツコツ書いてます。
まあそんな感じでね、楽しみにしてるわ私も。
ありがとう。
え、何?海外から買っていいの?
あ、私送る、そしたら。
特別注文でお願いします。
またいつかね、私たちもどっかで。
ね、そうだよね。
欲しいね。
そうなの、やりたい。
ちょっとね、帰国のタイミングといろんなイベントの予定を合わせられればぜひぜひ、
あのサーッとして出たいよね。
ね、楽しそう。
それこそ、なんかさ、ライブ収録とかしてるの見たことある?
ない、でもなんか見てみたい。
そうそうそうそう、なんかあのなんだっけ、隣の芝生はそうぶるってあの二人が結構、
多分2回ぐらいあの二人で公開収録。
あ、そうなんだ。
で、どんな感じやるんだろうと思って、音とかちゃんと拾わないとじゃん。
でも人がこういる大きめな空間だからさ、
なんかどんな感じでやるんだろうとかめっちゃ興味あるんだけど。
確かにみんな静かにして聴いてんのかな。
シーンとしてんのかな、なんかそれとも壁があるとか。
あー。
分かんないけど。
え、でもめっちゃ緊張しそう。
ね、だって見られてんだよ。
ね。
どんな感じなんだろう、なんかオーディエンスとこう話したりすんのかな。
分かんないけど。
それができたら楽しそうだけど、
なんか二人で話してんのにめっちゃ見られてるとかだったら絶対私話せないと思う。
そうする。
髪ばっかりだよ。
ね、みんなで話しますとかあったらいいかも。
あたし次終わろうみたいな感じで。
もらってその場でちょっと話すみたいなのとかあったら楽しそう。
楽しそう。