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こんばんは、むぎほです。
りょうこです。
ポッドキャスト、あのさ、は、日常の些細なことから社会のこと、自分自身や人との関係性にまつわることなど、
結論も解決策もないけど、そんなグレーな話をそのままに語っていこう、という番組です。
はい、今日もまた始まりました。
イエーイ。
イエーイ。
今日は、京都、雪が降りました。
え?
あ、2月か。
2月か、ちょっと待って、感覚がめっちゃずれてる。
え?雪?みたいな。
そう、なんか今、けっこう寒波が来てて、
あ、そうなんだ。
そうそうそう、だから、昨日、一昨日ぐらいからかな、けっこうガクッと気温が落ちて、
で、なんか寒さがけっこう増してたんだけど、
今日は、たぶん地域によっては、けっこうがっつり雪が、
特に日本海側とかは、けっこうがっつり雪が降ってて、
なんか京都は、けっこうあの、たぶんもうちょっと日本海、京都府の中でも、もっと北の方の北海寄りとかだと、また雪けっこう降ってるかもしれないんだけど、
京都市内は日中晴れてて、
日が出てて。
そうそうそう、日は出てて、めっちゃ寒いんだけど、
なんか降らなそうだなぁと思って、
今日、用事があって、ちょっと外出てて、
でもなんか、建物に入ってる間は、けっこう雪降ってなくて、
普通に晴れてる、雲は多めなんだけど、一応晴れてるなっていう感じだったのに、
なんか私が建物出た瞬間に、けっこう今日風も強いのね、
で、なんかこう横殴りの雪みたいな感じで、めちゃめちゃ降ってて、
そう、なんか一瞬吹雪みたいな感じで、
降って、お天気雨ならぬ、お天気雪みたいな感じで、
日差しは一応ちらほら入ってるんだけど、雪がけっこう降って、
で、またやんで、また降って、みたいなのをけっこう一日、振り返してて、
そう、なのでめちゃくちゃ寒かった、今日は。
そう、なんか今、りょうちゃんのこと見てさ、なんか、
もこもこの、なんかめちゃ温かそうなのを着てる、
横で私はタンクトップみたいな。
なんか家帰ってきても、ほんとに冷えちゃって、寒すぎて、
ダウン着てたんだけど、ダウン着てても寒いっていう感じで、
だから一回家帰ってきて、お風呂入って温まって、
でも家の中も、あんまりエアコンとかつけたくないから、
そんなにポカポカじゃないのに、家の中も。
なんか寒い。
そう、だから、いまもこもこのパーカーを羽織っています。
03:02
えー、風邪ひかないようにね、
急に寒くなった感じなの?
そうそうそうそう。
じゃあ、余計に気をつけないとかね。
ね、全国的にみなさん寒い思いをしてるだろうなっていう感じ。
なんか、ぜんぜんこっちから、あと想像もつかない。
ここらへんにつ、ずっと最高気温38とか39で、
やっと今日、きのうぐらい、ちょっと落ち着いて、
25とか、最高気温が。
めっちゃ寒暖差があるから。
そうだね。
で、また明日。
5度ぐらいあるのか。
そうそうそう。1日の中でも、けっこう10度ぐらい、けっこう変わるから。
で、また明日も、たぶん30度台。
だから、もうやだ、夏やだ。
気温高いにしても、こっちみたいに今の、低いにせよ、
単純な寒さとか、単純な暑さだけじゃなくて、
1日の中での気温差が激しいのって、けっこう体に負担がくるよね。
くる。めっちゃきついし、体がなれないと、
油断して、たとえば日中30何度とかで、半袖でうろうろして、
たとえば1日外出るときとかさ、上着とか忘れちゃったりすると、
そのまま夜に入って、13度とかになると、やばい、体がまずついていかないというか、
寒すぎて、日中の気温に慣れてるからさ、夜の寒さに体がびっくりしちゃって、
私の中のイメージでは、今回移住してから初めての夏だから、
イメージ的には、夏はオーストラリアだから、めっちゃ暑いだろう、ずっと暑いだろう、みたいなイメージだったんだけど、
メルボルンはけっこう寒暖差が激しいことで知られているみたいで、
だから、まだなれない。
暑い、暑いけど寒い、みたいなのかな。
うーちゃんも体調気をつけてね。
お互い気をつけていきましょう。
体調崩れるとさ、メンタルも崩れるからさ、
そうなんだよ、それが一番ね。
それってかさ、気化みたいな話だけど、メンタル崩れても体調も崩すし、
なんかね、メンタルがちょっと弱くなり始めてるあたりで、風邪とかひくのが一番きつい。
06:04
体、やっぱり大切だから、
こないだのポッドキャストでも話したけど、体力づくりなり体づくりみたいなのをやっぱりやらねばっていうのは、
話した後、こないだけっこう考えてて、
やりたいことを続けていくために、みたいなのが一番の目的みたいな。
体調悪いと、本とかも全然読めないし。
そうだよね。
こっちはさ、今めっちゃ寒波で気温がガクって下がったのもあって、
ちょっとランニング早速休んでますっていう。
なんか走ればあったかいんだけど、歩いてるだけで結構耳が冷えちゃって、
痛いよね。
耳が冷えると頭痛になったりするから、
なるなる。
ちょっと家での軽い体操。
スクワットとか?
ラジオ体操とか?
スクワットもね、なんか15分ぐらい。
YouTubeでさ、検索するといろんなのあるから、
いっぱいあるよね。
いろんな人があげてくれてるから、
どうやってるかわかんない。
これやってますみたいな人とかの、15分の体操みたいなやつを一人でやってる家で。
めっちゃいい。いいね。
たぶんそういうのが一番続くよ、なんだかんだで。
結構バランスとれてるっていうか、体全体を動かす動きとか、
あと自分で選べるじゃん。
今日は上半身鍛えたいみたいな、もうちょっと体を動かしたいみたいなのを目的でYouTubeとかで探すと、
すごい数のコンテンツが出てくるから。
あれだけど、体操とか一番いいかも。
全体を動かすみたいな感じ。
あんまり負担にならないから。
いいね。
私もだから、朝ラジオ体操しようかなと思ってて、
夏じゃん、夏休みな感じ。
そうだね、たしかに。
小学校の子とかさ、首からラジオ体操のカードみたいなの下げて、
近所の校園行って、シールもらって、毎日行くとお菓子がもらえるみたいな、
そのお菓子のためだけに、私は夏、毎朝6時か6時半からラジオ体操に通っていた思い出がある。
え、なかった?
そういうの。
え、ほんと?
なんていうの、近所でとかなくて、普通に学校で、
運動会の時期とかになると、運動会の練習のときとか、運動会の本番とかで、全員でラジオ体操するみたいな。
それもあった、それもあった。
それぐらいしかなかった。
09:01
あ、ほんと?
うん。
私なんか、近所のグループ、コミュニティ、子供だけじゃなくて、大人とかも参加できるの。
隣に公園があったから、そこにあるんだったら行きなさい、みたいな感じで、お母さんに言われて、
夏、朝早く起きて行ってた。
でも、けっこう気持ちいい、公園でのびのびとやって、やったらシールもらえてみたいな。
確かに、うちらの小学生ぐらいの時期の夏は、今の夏と違うから、
そんなね、朝から外で体操しても熱中症になるとかではなかったよね。
ならない、うん、確かにね。
そうだ、今そんなことやったら、もうね、無理だよね。
ね、無理無理。
危ないよね。
体調崩しちゃうよ、それこそ。
時代、時代が。
そんなになんか、確かにけっこう前の話ではあるけど、そんな時間で地球がこんなにも変わるんだ、みたいな。
ね。
思う、なんか怖いぐらいに。
だって、せいぜい15、6年とか、そのぐらい前。
もっとじゃない?
もうちょっとか。
もうちょっとか。
でも、
そんぐらいか、そうだね。
20年以下ないぐらいか。
20年はいかない、うん、確かに。
ぐらい?
うん。
の、でもそれで全然違うもんね、気温が。
全然違う、もう。
いやー、これからどうなるんだろう、みたいな、すごい。
ねー、どんどん上がってるような気がするし。
ねー、あとなんか、どんどんこう、予測不可能な異常、気象みたいなのがたくさんあるから、
それに対して、なんかこう準備ができないというか、なんか突然、なんか予測していなかった、こんな気候が、みたいなのがやってきて、
え、どう対応すればいいの?準備できてないけど、みたいなの。
体調崩したりとか、まあ、それこそ。
っていうのはまだちっちゃいけど、例えばこうね、自然災害とかもそういうので、結構トリガーになったりとか。
わからないことだらけ。
不安定な、不安定な感じがずっと続いてるって感じ。
なんかすべてにおいて。
なんか政治とかもそうだけど、自然とか自分の住んでいる空間みたいなものに対しても、なんかすべてが不安定でわからない。
っていうのがずっと根底にある感じで、ここずっと。
ねー、ほんとにいろんなニュースが飛び交って、なんかそのたびになんか驚愕したり、
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なんかどうなるんだって、めっちゃ不安になったり。
なかなかな時代ですよ。
ほんと、てかなんかそもそもなんか、私たちのこの20代にコロナがあったのが、いまだに信じられない。
うん、わかる。
なんか私たちの20代って返して、みたいな。
いや、ほんとにね。
すごい思う。
なんかやっぱりその時期の密度がない。
なんかスカスカな感じで、他の歳と同じ1年みたいな感じが自分の中で残ってないから、
なんか前もうちら話してたけど、なんか自分の年齢-3、4歳ぐらいの気持ちみたいなのがなんかずっとある。
めっちゃわかる。
だってその時間空白だもん、なんもできなくて、どこにも行けなくて、で、すべてがわからないことだらけで、
とにかくその、ね、生きるのに必死みたいな状態が、で、そこからずっと不安定な状態が続いてて、みたいな。
なんかほぼ20代の真ん中みたいな感じだから、なんかそのあたりも記憶が、みたいな。
ね、私たぶん、なんかこう、気候が不安定で、予測不可能になってるっていうことは、
結局また同じような、何かしらのパンデミックが起きる可能性は全然あるっていうこと。
だから、なんかね、書き行きが不安すぎるっていう。
すごい時代に生きている私たちですが、っていうところから、
今日のテーマは、
分類とかカテゴリー化することについて話してみようということで、
むーちゃんからテーマを提案してもらって、
なんかその背景というか、なんでこういうテーマを選んだのかっていうことについて少し話してもらえれば。
はい、どう?
そう、なんか最近、今年に入って読んだ本、
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英語の題名がWhy Fish Don't Existっていう本で、
ちょうどすごいタイミングで、日本語訳が今月末に出るらしいんだけど、
日本語の題名が魚が存在しない理由っていう本で、
あらすじみたいなのがね、サンマーク出版から出版されるんだけど、
あらすじみたいなのがあったから、ちょっと読んでみるね。
ちょっと背景がわかりやすいかもしれないか。
19世紀末、生涯をかけ魚類を収集分類した科学者。
その膨大なコレクションは落雷火災、さらに巨大地震によって幾度となく破壊された。
だが彼は世界に秩序をもたらそうと、まるで運命に抗うかのように分類作業を続ける。
ジャーナリストが追跡した実話で、科学者の生涯を掘り起こす作業を通して、
自然、歴史、倫理、そして愛についての著者の理解を大きく変わっていくっていう本で、
ノンフィクションなのね。
ノンフィクションで、一人のデビッド・スター・ジョーダンっていう科学者、分類学者っていうのかな、
っていう専門の科学者に注目して、その人の生涯を追いつつも、
その間に、著者自身の体験、エッセイみたいなのが挟まれていて、
多分、その科学者自身の生涯を追ってるプロセスみたいのも、
自分自身の体験とか、人生で起こったことから出てきた疑問をもとに、
その人の生涯を追っていて、なんでこんなことをしたのかとか、
この科学者にはどういう背景があって、こういう結論にたどり着いたのだろうか、みたいなのを調べていくみたいな感じの本だったんだけど、
これを読んでいって、私がまず一番、その本から感じたことが、
そのメインの科学者、分類学者だったんだけど、そういう学問をしてて、
その過程で、その人の過ちではないけど、その人が専門としていることが、そもそも物事を分類すること。
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ベースの考えにあるのが、すべてのもの、自然を含め、すべてに秩序というものがあり、
すべては分類された、ある程度のルールに沿って、いろいろなカテゴリーに当てはめていく。
そのカテゴリーに入らないもの、マッチしないものっていうものに対しての、
彼の、なんていうのかな、憎しみとまではいかないけど、ものすごい嫌悪感みたいなのがあって、
たぶん、それは、その科学者自身の背景とか、育ってきた環境とか、
自分がやっていた専門外のところで起こっていた、仕事以外のことで起こっていた人生っていうもので、
コントロールできないことがたくさんあった、その人自身も。
そういう、自分のコントロールのきかないもの、分類できないもの、そういうわからなさっていうものに対する、恐怖みたいなものがすごい、
読んでいて、伝わってきて、そこから、カテゴリー化すること、分類すること、それを専門にしていた人の本を読み、その人の人生を追った結果、
結局、その人が行ったことっていうのは、人間とか、いろいろなものの複雑性っていうものを、全部、一つの大きなカテゴリーみたいなもので、覆ってしまうことによって、
たくさんのものを、覆い隠してしまったっていう、実際に読みたい人とかがいたら、ネタバレとかになっちゃうから、あんまり話さないけど、そういうふうなことをして、
結局、それって、自分自身の恐怖とか、分からないことに対しての不安みたいなものから来ていたっていうのは、すごい伝わってきて、それに、どういうふうに向き合えればよかったんだろうか、みたいなのをすごい、結構考えたり、
りょうちゃんと今日話してみたいなっていう。
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どう向き合えばよかったのかっていうのは、この著者自身が後悔していることとしてある、というわけではなくて、
その科学者自身は、これが、たぶん、この本の根底にあるものなんだけど、結構ネタバレ的になっちゃうから、あんまり話せないんだけど、
影響力のあった科学者について、いろいろノンフィクションだから、いろいろな事実を調べていく中で、
その人が行った一つ、その人にとっては、科学的な学問の一つとして行った分類的な作業が、ゆくゆく、多くの人を傷つけることになったの。
結構、人を迫害するようなもののベース、考えのベースになってしまって、
でも、本人は全然、反省っていうか、それが悪かったとも、特に思ってない感じなの。
本人からしたら、ものすごい正しいことをしているっていうのが、結構一貫してあって、
それを調べて、この本を書いている著者は、なぜそこまで自分の、それを信じられたんだろう、みたいなのがすごい感じて、
私もそれをすごい感じて、なんでそこまでして、その分類という、カテゴライズするっていうことに固執していたのかなっていうのが、すごいずっと考えていて、
例えばさ、結構自分が専門にしていることだから、そこで成功したいとか、その分野で名の知れた学者になりたい、みたいなの多分あったと思うんだけど、
でも、だったら、結構正しいというか、ちゃんと科学をしようみたいな志みたいなものがあるはずじゃない?って、私は思ったんだけど、
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この本を読んでいて、その人は自分自身の正しさを証明するための科学みたいになってしまっていて、
だから、結局それが自分の専門だったけど、そこの分野で、成功できなかったわけではないけど、
分類とかカテゴライズすることへの向き合い方みたいなのが、結構自分の欲とか、自分のそういうところから来ていた。
科学をするためにっていう、一応そういう理由でやっていたけど、実際は結構個人的なそういう不安とか恐怖みたいなところから来ていたのかな?っていうのはすごい感じて、
そう、なんかその、結構、なんかあちこち飛んで話しちゃったけど、なんか今日たぶん話したかったことは、まずそもそもその分類することとか、カテゴライズすること、物事をある程度のグループとか、
なんかこう、だいたい大きなカテゴリーでおって、こういう人たちがいるよねとか、こういう感じの、あの人はこういう感じだからとかっていうふうなことをすることについて話したかったっていうのかな?
りょうちゃんのコメントもあったよね、なんかそのテーマ表に。
そうそう、なんかその分類とかカテゴライズするっていうことで、特にそれがなんか物事っていうよりかは対人間に対してすることって、なんかもろ優先しそうだなとも思ったし、
なんか割と最近のその日本ももちろん含む、なんかこう全世界的な流れとして、すごい排外主義が強まってるっていう印象はどの国に対しても思ってて、
もちろん程度の差とかはあると思うんだけど、そこで差別されたりとか、カテゴライズされた上で排除される人として、例えば移民であったり外国人であったり、性的マイノリティであったり、
いろんなその属性の人たちの中でも、一人の人間に対してもさ、いろんな属性があるわけじゃん、その中からその人の属性をある種、それこそ分類可能だし分割可能なものとして見て、その特定の属性に対しての差別をするみたいなこと。
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それによって、例えばこの国から出てけ、みたいな発言ってやっぱりそういうとこから生まれるわけだし、っていうのがなんかすごい今割と、なんだろう、喫緊の問題として多分どこでも起きているっていう印象を抱いてて、
で、なんかやっぱ多分その背景って、まあ私全然そういうことの専門ではないからわからないんだけど、ただまあ、なんだろう、印象を持っている印象として、なんかそういうことが起きる背景って、ある種その当該社会の中のマジョリティの立場に立っている人たちにとってのわからなさ、
つまり自分ではない属性に対するわからなさとか、そのわからなさに基づく不安みたいなものによって、なんかこう引き起こされている側面っていうのもあるんじゃないかなと考えたっていうのが一つ。
続けていっちゃうと、もう一つは、そのなんていうの、こう社会的なことというより、自分自身のそのすごい個人的な文脈に即して考えたときに、なんか私は自分自身のアイデンティティにまつわるカテゴライズすることとか、それに対して名前を与えるみたいなことを、
まあ明確には定義したくないっていうふうに思っていて、だからなんかそのあえてそれを表現する必要性を自分が感じたときには、一応まあ便宜上の言葉として、
Aスペクトラムという言葉を採用していて、でなんか、なんでそれを使ってるかというと、やっぱその名前自体にスペクトラムという言葉があるっていうことは、つまりその、なんだろう、命名するっていう、ある種その自称なりを固定化するっていう、なんか営みにおいて、
できる限りその中でも自分の流動性みたいなものを確保しておきたいっていう、なんか欲望がある、そうね、だからそれも一つある、個人的な文脈で。
ただ他方で、なんかその自分自身が今抱いている苦しさの根源にあるような事象とか、なんか暴力的な出来事とか、あるいは関係性、人との関係性に対してはむしろちゃんと名前を用いて呼びたいっていうふうにも思ってて、
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っていうのもやっぱ名前があることによって、だからそれがとっかかりとなって、学びの機会を得たりとか、その自分自身の混沌とした苦しみみたいな、もうわーって広がっているような苦しみを少しだけ整理することにもなったり、
あとは自分自身がそれに対してのある種の納得とか、納得っていう言い方があっているのかわかんないんだけど、そうであるというふうに理解することみたいなのができるからだと思ってて、
ただもちろんその名前をつけるから、その名前をつけることによって、ある種そこから外れていくこと、なんかその名前によってはカバーしきれない部分とか、こぼれ落ちるみたいな部分っていうのも必ずあるとは思っているんだけど、
それでもまずはそれに対して適切な名前で名指すみたいなことが、何か始まりとしてあると思っているのね。
始まりっていうのも、例えばその、何だろう、名指すっていうことによってそれが暴力だったっていうふうに認識できるようになるとか、関係性のいびつさとか不均衡さみたいなものにも名指すことによって気づけるとか、
なんかそれをしない限り、そういう認識とか気づきみたいなのがない限り、何だろう、何らかの回復みたいなものとか、ある種の関係性の修正とか解消みたいなものにも行きつかないんじゃないかと思っている。
そういう感じのことを、分類すること、カテゴライズすることみたいなテーマに対しては考えたかな。
私もなんかすごい似たようなコメント書いてて、なんかその逆に分類すること、カテゴライズすることがすごいメインで出てた本なんだけど、
そっから私が得たものっていうか、最終的に考えてたことが、ここにもメモってて、ずっと生涯分類することに、生涯を捧げた科学者の結末とか、その人がやったことを見た上で、
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やっぱりさっき言ってたみたいな、分類されたものからに当てはまらないものとか、自分以外のカテゴリーにいる人、いるものっていうものに対しての、わからなさによる不安と恐怖みたいなもので、
で、たぶんその、なんていうのかな、分類という、分類したらその分類の名前っていうか、カテゴリー名みたいなのがあるわけじゃん。
で、なんかそのカテゴリー名から外れたものとか、当てはまらないものって、その名前がないじゃん。そのカテゴリーに当てはまらないから、
もし、例えばそのカテゴリーがなかったとしたら、あとはその逆にそのカテゴリーに当てはまれるものがなかったとしたら、その中に入れなかったものって、どうなっちゃうんだろうみたいなのをずっと考えてて、
で、その、今、りょうちゃんが言ってたその名前をなざすことっていうのは、なんか2つ、私的にはなんか、まあ、考えというか、なんかまあ、りょうちゃんに聞きたいことでもあるんだけど、
なんかその、私も前さ、なんか結構話してた、そのレベッカ・ソルニットの、それをまことの名で呼ぶならばっていう本があるんだけど、なんかそれは結構その名前を与える、まあ言葉をそのね、今まで例えばずっと無視されてきたものとか、なかったことにされてきたことに、
名前や言葉をつけることによって、その存在を認めるとか、認識するっていうことにつながっていくことによって、そこに力が宿るみたいな、まあそういう趣旨のエッセイなんだけど、そこで、なんかやっぱりその名前を与えることで存在を示すことができるっていうのは、
逆にそのカテゴリーに当てはまれなかった、まあその1つのものとか、まあその1人の人っていうものの、複雑性をこう、まあ、体現することができる、その人が、私はこういう人間ですっていうのを、自分の言葉で、まあこう、説明なり、命名なり、何かこう外の世界に対して、
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表面することができると思うのね。
でも、なんかその絵の難しさって、なんか逆にその、なんていうのかな、例えばこう、ある程度、今日、まず最初に整理すると、さっきりょうちゃんが言ってた、その、自分のアイデンティティに関わるような名前を、
逆に持つことによって、まあその、自分なりの、まあそういう出来事に対しての、こう、背景とか、まあもっと違う、ね、人たちのそういう体験とか、っていうものを、こう、まあ集めることができるわけじゃん。
で、まあ知ることができたりとか。
でも、もし、そのカテゴリーとか、まあその名前っていうものが、自分に当てはまらなかった場合、
なんていうのかな、その名前ってある程度さ、誰かとこう、共有するためにあるものじゃん。
なかなかその、例えばリンゴって言ったら、その、ある程度こう、リンゴを知っている人からしたら、そのリンゴっていうものが、ある程度のイメージで、その人の、まあそれぞれの人の中でリンゴのイメージとしてあるわけで、
でも、例えば、その、自分自身が、まあ一人だけで、そういう自分に対しての、まあ、命名じゃないけど、その自分を表明するための、まあ名前なり、表現なりをした時に、
それをどこまで、その外、まあ外からそれを見ている他者っていう人たちが、その理解っていうか、それをわかろうとしてくれるか、
なんかその名前自体がさ、その、もし、多くの人たちに共有されていない名前だった場合、名前っていうか、まあ名前じゃなくてもいいんだけど、まあ表現だったり、
まあ、いろいろな、まあ表現の仕方があると思うんだけど、なんかそれが、こう、そう、共有されていなかったとしたら、なんかそこで、その、なんていうのかな、名前ってどうなっちゃうんだろうみたいな、
なんかその人の、その人自身の、なんていうのかな、なんかうまく説明できてるかわかんないんだけど、その名前が、こう、他者と共有されていなかった場合、なんかその名称とか名前とか、ラベルとか、
名前に関わる、なんだろう、前提とか、その名前が何を表してて、逆に何を表してないのかみたいな、
そうそうそうそう、なんか例えばそういうものが、自分に例えばなんかその今あるものが当てはまらなかったとして、で自分なりの、まあ名前じゃなくてもいいんだけど、なんかその表現の仕方とか、まあ説明とか、自分はこうであるみたいなのを、自分なりの言葉でとか、説明した場合に、
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え、でもそれってこれじゃない?みたいな感じで、例えばなんかその、結構もうちょっと共有されている名前を、提案というかさ、あ、これ、これ、それってこれのことじゃない?みたいな感じで、例えば言われたとしたら、なんかその人が例えば一生懸命自分で説明したその名前なり表現っていうのは、
どうなるんだろう?みたいな、なんかどうするのがいいんだろう?みたいな、なんかその名前があることで、そのまあ例えばコミュニティと出会えたりとか、あとはこう、ね、自分の苦しみと共有できる、まあ背景とか歴史とか、何かを得ることができるかもしれないけど、
それでこう、逆に、その、その中の一員になってしまって、なんか、そうじゃないんだけど、なあ?みたいな、こうもやもや感が宿ったまま、なんか勝手に外からカテゴライズされるみたいな、カテゴライズというか名前を付けられるみたいな、なんかその、なんかその葛藤じゃないけど、矛盾じゃないけど、みたいな、
結局あれなのかな、その名前を、むしろ自分が例えば、もっと細かなニュアンスで何かの表現したとして、それに対して相手からこういう名前なんじゃない?っていう提案された場合に、その細かな表現の細部が消えて、
その名前によって、なんだろう、クッキーの型を取るじゃないですか、そういう感じで、余りの部分は車掌されて、この型に合う部分だけがその人のイメージとして出来上がっちゃう、みたいな話ってこと?
そしたらさ、なんか最初の部分に戻ってきちゃう感じがしない?なんかそのカテゴリーによって追われて、見えなくなってしまう、なんか自分っていうか、まあその人なり、ものなり、すべて。
で、なんかその、名前が増えてることは、すごいいいと思うの。なんかそのさ、今の時代ってさ、前になかったような名前がたくさんあるわけじゃん。ものすごい、今まで歴史上とかで、もうなかったことにされてきたものに、名前がついたことによって、私もそういう体験をしたとか、私もこういう、ここにアイデンティティを感じるみたいなものに、
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当てはまっている人も今ね、たくさんいると思うんだけど、でも同時に、そこに当てはまらない人もたくさんいると思うの。なんかちょっとわかるけど、でもやっぱり違うみたいな。
で、やっぱりそういう人やものっていうのは、でもその自分の名前的なもの、まあこの共有された範囲での名前っていうものがない間は、結局その今ある名前とかカテゴリーに、とりあえずじゃあそこで、みたいな感じで入れられてしまうのかな。
で、そこに居続けるのってさ、けっこうね、そんな居心地よくないと思うんだけど、っていうその、考えてた。
なんか、私がさっき言ったみたいに、自分が自分自身のことを、そんな多くないけど、なんだかの形で表現しないと、なんだろう、その人の話の中の前提を私が共有しているって勘違いされてしまうみたいな時に、
あ、違いますよ、みたいな感じで言う時とかに、まあそのAスペクトラムという言葉を今暫定的に使っていて、なんかその前はまた別の表現をしてたりしたんだけど、なんかそれこそ、まあアセクシャルであったり、
ロマンティックであったりっていう言葉と、そのアイデンティティっていうのが、ある種こう、だんだん今可視化されるようにはなってきているんだけど、なんかその可視化されたこと、例えばなんだけど、表彰の段階でなんだけど、なんか例えば映画で扱われるとか、そういう人物が出てくるとか、
ドラマでも何でもいいんだけど、なんかしらこう、フィクションの中で出てくるっていう時に、なんかその時の描かれ方が嫌だなって思ったの、私は、なんかこれは自分じゃないというか、なんかその名前を、名前というか、そう自分のことをアイデンティファイしてる人の、
対外的なこう、まなざしの、なんだろう、見方というか、そこにこう、つきまとうイメージみたいなものが、すごい単調だし、なんかもっと絶対対応なの、その同じようにその言葉をアイデンティファイしてる人であっても、
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全然別々の人間たちだし、もちろん何かしら共有してる部分とか、例えば体験とか、その時に抱いた感情とかで、共有できる部分はあるんだけど、でも全く一緒ではない、なんか一つの名前を共有しているからといって、ただそれだけ、それ以上でもそれ以下でもないから、
そう、だからむしろ多分違う部分とか、なんだろう、その人の印象一つとっても、なんか、例えばこういうふうに自分のことをアイデンティファイしてる人、集まってくださいって言われて、集まってきたとして、わらわらと、でも多分一人一人に抱く印象って絶対違うはずなのに、
なんかこう作品の中でそういう人物が出ると、なんか一つの、一つというかだいたい似たようなイメージとか、なんか、そうなんか、いや、こんなんじゃないんだけどな、みたいな、少なくとも私は、みたいな部分とかが私は結構あって、なんかそれもあって流動性を確保したいというのがあるし、
なんか例えば、なんだろう、こういうセクシュアリティの名前とは何ぞやって思って、今の時代だったらググったらいっぱい関連するサイトが出てきて、で、なんかそれの名前の条件ではないんだけど、こうこうこういう人はこういうアイデンティティに近いみたいな形で説明がなされるんだけど、
ただ別にそれのすべてに当てはまっているからといって、その名前を獲得しなければいけないというわけでもないし、逆に一個だけでもその名前を使ってもいいし、なんか別にその項目にいくつ当てはまるかという話ではないから、
それも単純だったらね。
だし、どの名前を使うか、あるいはもう全く使わないかっていうのは、ほんとに個々の人それぞれだから、
そうだよね。
だから、なんか、そう、そんなことを考えた。
なんか、そうね、なんか前も結構なんか似たような話したなって、今の話聞いてて思った。
なんかその、なんかその、なんの話だったっけ、なんかそのクイアのコミュニティに入りづらいみたいな話を私がしてて、なんかそのやっぱり、なんだかんだ、なんかこのすごいそのイメージが強いじゃん、なんかイメージだけがこう歩き回ってて、
48:05
で、なんかそういうこうグループというか、まあそういう場に行っても、なんかそのイメージに結局沿うような人が割と表に出てきて、なんかそうではない人と出会ったりとか、
自分となんかこう似たような感じの人とあんまり私は出会えてなくて、で、だからなんかその、自分の中では結構私の、まあ自分自身のだからそのセクシュアリティについて結構名乗れないでいるっていうのも、
なんかその、なんか自分がどこにもなんかその、まあ共感できないではないけど、なんかすごい自分の中ではすごい、まあセクシュアリティ自体はすごい流動的で、まあ結構いろいろ考えたりとか調べたりしてるんだけど、自分なりにこう納得のいく、まあその名前っていうものに出会えてないのと、
なんかそういう話をこう、あんまりオープンにしている人がいない、なんか結構みんな割と、あの、なんかちゃんと名乗ってる感があるから、なんかその、
もうわかるわかる。
ちゃんと名乗ってる感を、なんか目の当たりにしてしまうと、なんか私、あ、なんか私はなんかあんまりなんかそういう感じ、なんかそれに当てはまらない、それこそさっき言ったそのチェックボックスじゃないけど、あ、なんか私この項目1個しか当てはまらないからみたいな感じで、
なんかそれを名乗ることに対してすごい、なんか自分なりにも納得いかないし、なんかその周りに、その、まあその名前の周りにいる人たちとか、まあその名前を名乗る人たち自身にも、に対しても私は、あ、なんかちょっと違うみたいな感じで思ってしまったりとか、
なんかそれを思ってしまう自分にもなんか、あ、じゃあなんか自分はなんか、なんかおかしいのかなとか、なんかどこにもこう行けない、見つけられないみたいな感じなもやもやをずっとここ数年抱いていてっていう感じで、
まあでもなんか私もたぶん似たようなところはあって、特になんかあんま文字化して、なんか私とはこういう人ですよみたいな感じでは書きたくないし、なんかなんだろうそこまでの、なんか自分の中では納得というか諦めに近い納得みたいなものはあるんだけど、
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でもなんかそれを、なんかこう大声で言う必要も別にないと思ってて、私の場合はね少なくとも、私は別に、なんかなんだろう、自分こういう人間ですよ、こういう人間ですよって言ってもらいたいわけではなくって、
ただなんかどうしても乗れない話とか、ついていけない話とか、自分が全く共感できないとか、わけがわからないみたいなことが今までにたくさんあって、なんかその時にこう都合よく使える説明が欲しかったっていうのはある。
で、それに対して、なんかその名前を本気でなんかもう一切名前を使いたくない時期もあって、なんかその時は逐一丁寧に説明してたのね。
なんかそういう話題になった時とか、自分が引っかかってちょっと話を止めちゃった時とかに、なんか逐一こうね、なんか自分はこういうことに対してこう思っていてとか、こういうことには共感ができなくてみたいなことをできる限り言葉を尽くして説明するんだけど、なんかその度に謎に励まされるとか、
大丈夫、大丈夫とか、まだまだこれからだよみたいな、なんか別に私はそんなこと言ってほしいんじゃなくて、なんかただ違うということとか、その相手が話してる内容がそれがすべての人に当てはまるわけではないんだよということを伝えたかったんだけど、
なんかそれが伝わらなかったし、なんかもうそれで結構疲れちゃって説明することっていう、だからなんかもうあんまりもうなんかしばらく話したくなかったし、なんかその人とっていうかそういう話題とか自分がいちいち説明しなければならないということに対して、
だから、なんか便宜上そういう名前を使って、ある種カテゴライズするっていうことを自分にとって都合よく利用して説明するとか、それでわからないんだったら自分で調べてくださいみたいな感じでやるっていう意味で、なんか最近はとりあえず便宜上使ったりとかはしている感じで、
でもなんかむーちゃんが言ってた、どれにも当てはまらないとか、なんかちょっと当てはまってもすべてがそうではないとか、なんかどこにも身の置き場がない感じっていう感覚も、たぶんむーちゃんとは違う仕方かもしれないけど、ちょっとわかるっていう部分もあるなって思った。
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だからといって、さっきりょーちゃん言ったみたいに、みんなに私はこういう人間なんでみたいなのを説明して回りたいわけではなくて、
でもやっぱり、なんていうのかな、やっぱり自分自身として、世界とか社会に立つときに、なんかいちいち説明しないといけないのも、さっきりょーちゃん言ったみたいにすごい労力のいることで、
ほとんどの場合、必ずしも相手がそういう理解っていうか、理解してほしいってわけではないんだけど、あなたと違う人間もいるんだよみたいなのを知ってほしいだけなんだけど、
マジョリティ側からすると、こうなのが普通だから、当たり前だから、だからさっきりょーちゃん言ってたみたいなコメントが出てくんだよね、大丈夫だよとか、意味がわかんない、何が?みたいな。
なんかさ、そもそも説明することにも労力使うし、プラスやっぱり緊張もするわけじゃん、相手にどんな反応されるかみたいな、それでなんか出た言葉にがっくりまた来る。
しかも、なんでそのマジョリティ側は説明しなくてよくて、そうではない側が常にそうやって、それこそりょーちゃんが言葉を尽くしていたみたいに、それでもわかってもらえない、せめてその認識だけでもいいから、してほしいわけじゃん。
それに対して、同意してほしいとか、超理解してほしいとか、そういうのではなくて、あなただけみたいな人間が全てではないんだよっていう、この世界はとても多様で、いろいろな人が生きていて、
私はあなたとは全然違う人間で、こういう人間なんだけど、存在していますみたいなのを、ただ知ってほしいだけっていうのなんだけど、なんかそれに対して過剰に反応してしまったり、逆にそれが全然認められないのかな?
それか、もうほんとに、そういう他の存在が理解できない。
なんかその、「大丈夫だよ。」とかっていうコメントって、もうなんか全く自分の世界から出てないよね。
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なんかもうほんと、自分の世界オンリーの前提で、あなたもゆくゆくは私の世界みたいな感じ?わかんないけど。
認められてる。
それでも、「大丈夫だよ。」とか、もうちょっと時間があれすれば、みたいな感じのコメントになるんだろうかっていう。
だからなんか私としては、ただただそれがあなたの前提が共有できませんっていうことを伝えたかったんだけど、なんか私の説明がもしかしたら相手にとっては、解決してほしい悩みとして聞こえていたのか?と思って。
だからそれに対するアンサーとして励ますなり、こぶするなりあるのか?と思ったけど。
そうね。なんかその、大概的な話は一旦置いといて、なんかむーちゃんは、なんだろう、自分なりに納得のようなものがしたいと思う?
それとも、もうそういうんではなくて、なんだろう、あえてそういうことをなだすとか、自分自身を何らかのカテゴリーに合うかどうかみたいなこと自身をもうしたくないとか、もうそれはもう一旦脇に置いとくみたいなことなのか?
なんか、はんはんだね、なんかめっちゃはんはんって感じ。
自分の中では、なんか自分なりにいろいろ考えて、なんていうのかな、ある程度、カテゴリー、今すぐ自分がこうだっていうふうに名乗れるような納得のいく名前みたいなものがないから、
しかも、なんかその結構、なんか自分の中ではすごく時間、自分がどういうタイミングでどういう場所にいるかとか、人生の流れ的にね、でもすごくそういうものって変わってくる。
なんかすごいやっぱり、セクシュアリティって流動的だっていうのが、私の中ではすごい前提になっているから、
なんかその、今はこうだけど、ね、10年後、20年後、どうなってるかわからないっていうので、で、たぶんその都度変わってっていいと思うの、その自分のね、名前っていうのは。
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だから、たぶん私はでもその今、結構欲張りなのかわかんないけど、今すぐそのすべてのその先の未来までの、なんかその流動性みたいなものを名前にしたいみたいのがあって、
で、そうなると、何もなんか名前ないみたいな結論、結論というかなんか選択、結局そういう変わっていくものが、なんかそのときはそこにいたけど、次の5年後、10年後にはまた全然違う場所にいたっていうので、
っていうのが自分の中での前提だから、もしかしたらそのとき、その時点、その地点でいる、まあそのものに対して、名前を選ぶっていう選択も、自分、まあしてもいいというか、まあそのね、したらそれはそれで楽なのかもしれないんだけど、
でも今そうなだけで、それが私のすべてではないっていうのも同時にあるから、なんかそれが常に自分の中で葛藤というか、なんか2つぶつかっていて常に、それで結局、名前を持たない、なざさないみたいな感じの選択をたぶん今しているけど、
私の中では結構常に葛藤というか、なんか考えているけど、でもね、なんかいい感じで、その流動性みたいなものを捉えられる言葉なり名前みたいなものって、なんか長々と説明する以外、なんか特に、
なんかそういうことについて話したりとか考えたりしているものをあんまり見たことがないから、私がいくつか読んだエッセイとかでは、なんかもうすでに先にいるっていうか、なんか結構私、だいぶ歳がいっている人で、なんかその自分の過去でこういうふうに自分が変化してきたみたいな感じで、
で、今は、でもその、なんかここに到達したみたいな感じの書き方というか、なんかそのいろいろな、まあこの流動的なこう人生を送ってきて、で、まあ例えば60代とか70代で、私はここに到達したみたいな感じで、
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なんか、まあ最終形ではないけど、その今までのその、こういろいろ変わってきたものっていうのを捉えられる言葉がないみたいな、なんかその時の瞬間で、その瞬間瞬間のなんかスナップショットみたいな感じで、ここではこうで、ここではこうで、で、最後の、まあ最後のスナップショットは私はこうで、みたいな感じ。
で、その瞬間瞬間が切り取られている感じ。で、なんかその、でもその間ってさ、それこそ、さっきりょうちゃん言ったみたいに、なんかそのままスペクトラムっていうか、グラデーションというか、もういろいろなこう、それ、なんかその時そのスナップショットでこうって言っても、その瞬間からちょっとずれたとこってまたちょっと違ってるわけじゃん、微妙に。
で、なんかそのニュアンスみたいな、その微妙な違い。で、でもけっこうその人にとってはけっこう好きなものであったりとか、自分の中ではけっこう重要なものだったりするから、なんかそれがうまく捉えられないみたいなもどかしさがあっての、それはずっとあっての選択として、今は名前がないっていう。
自分にとって、今合うものはないなって。またね、5年後とか10年後に話したらまた違うこと言ってるかもしれないけど、っていう感じかな。
なんかその未来の可変性まで含みたいみたいなのめっちゃわかるし、やっぱ多分それがあんまり自分のセクシャリティーを明示したくない、今っていうのと多分つながってて、もちろんそれが変わることは全然あるしいいんだけど、
なんかやっぱ名前を表明するし、なんか自分の中では特に口で言うよりも書く、文字として残すっていうことの方がより重い感じがしてて、
なんかそれって本当にもろ、名前を固定化してるっていう感じのイメージがどうしても自分にはあって、やっぱそれゆえに名前をつけて名乗った瞬間に身動きが取れなくなる感覚がある。
なんかこの後、別の方向に歩き出すかもしれないみたいなことが禁じられてないはずなのに、禁じられてる気がしちゃうみたいな、それがすごい息苦しさみたいにかながっちゃうから、だからこそあえて大声で言いたくはないみたいな。
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だからなんかスペクトラムはとりあえずちょっと名前をつけるということにおいては変わらないけど、その中でも多少流動性を確保できるんじゃないかと今のところ思ってるっていうのはそれもある。
そう、でもなんかやっぱこういう、なんだろうな、名前をつけて、でもその名前をつけることによって苦しさとか身動きの取れなさみたいなのも発生してしまうっていうのってジェンダー・セクシュアリティーが顕著だという話なのかな。
それ以外のことに関しても同じように言えるのかなとか。
例えば政治とか?
でもいいし、例えば個人の話で言えば、別のジェンダー・セクシュアリティー以外にもさ、いろいろ自分のことを説明しようがあるわけじゃない。
っていう時にいろんな名前とか説明の仕方とかをすると思うんだけど、そういうのを考えた時にそれ以外のことでこの名前を使うか、いやでも未来にはそれが変わるかもしれないみたいな思いを抱きながら葛藤するっていうことがあんまりないんじゃないかと思って。
確かに。なんか、ジェンダー・セクシュアリティーはたぶん一番直接的というか、精神的でもあり、肉体的でもあり、私の中では結構、なんていうのかな、私すごい直接感がある。
自分みたいな、自分っていう存在みたいなものがすごい大きく体現されてしまうみたいなのがある。
なるほどね。なんか私は、例えば自分に対して他どんな説明の仕様があるだろうとか今考えてて、例えばだけど、あんま詳しくは言わないんだけど、自分の生い立ちとかを考えた時に、それをどう確かに説明するかって考えた時に何個かキーワードになるフレーズはあって、
でもそれに流動性があるかというと全くないなって思った。
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ないね。
流動性というか、なんだろう、その名前で相手がどの程度それを理解するかっていうことにズレとか、いろんなブレてしまうみたいな部分とかあるとは思うんだけど、
ただその名前を使うことに対する自分の葛藤みたいなのは全くないなって思った。
さっきも一番最初に話したんだけど、自分の苦しさとか、悩みとかにまつわるような出来事なり関係性なり実証なりに対して適切に名前を与えていくっていうことに対して私は割と肯定的な考えを持ってるんだけど、
多分それもつながってる話として。
だからなんか、そこに対する葛藤みたいなのがなくて、たぶんこんなに葛藤してるのがセクシャリティーとかなんだよね、私の場合は。
そうだね。
でもなんかそういう葛藤って別にうちらだけの話じゃなくて、SNSとか見ててもそういうふうに思う人っていうのはちらほらいて、でもなんかそれ以外の話題でそういう風な葛藤の仕方をしてるって、なんかあんまないなと思って。
確かに、私も今ちょっと考えてみてたけど、自分をそれ以外の形で説明する場合、私の場合とか明らかにこの今移民だけど、ずっと移民だけど、ニュージーランドにいた時も、やっぱりずっと移民であるっていう意識はあったし、
基本的に白人がマジョリティの国におけるアジア人みたいな感じのアイデンティティというか、私の説明、外から見た時とか、特に葛藤はないというか、
私は移民でっていうのはあるから。
あれなのかな、例えばだけど、ジェンダーセクシャリティの場合には、なんだろう、自分の話じゃん、もちろん関係性にまつわる話でもあるんだけど、
なんだろう、直接その関係において生じたことではない?
うん。
というか、何と言ったらいいの?
あー。
例えば、何があるかな、たとえ。
なんかあんまりうまいこと思いつかないんだけど、
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なんかその単体、自分単体ではゼロで、関係があるから生じるみたいなことではないわけじゃん。
自分単体であっても、もちろん他者を意識しながらの自分っていうものとか、その関係性におけるつまずきとか、違和感みたいなものからひるがえて自分に対してっていう話ではもちろんあるんだけど、
なんか直接関係、誰かとの間で生じた、なんか出来事っていうわけではない?
うん。
たとえば、めっちゃたとえばだけど、殺人事件とかいう名前をあてはめたときに、それってさ、もろ2者なり3者なりもっとたくさん関係者はいるかもだけど、
その自分と別の人間たちの間に起きた出来事だし、
それって外から見たときに、全くの部外者から見たときにも、なんかそうだよねって、すぐに見てわかるようなものとしてあるんだけど、あるし、
私なんかその、それと比べたときに、ジェンダーセクシャリティって形もないし、自分でも外からの人間でも目に見えるものではない。
形とか色があるわけでもない。
し、なんかやっぱ自分の、自分自身の話、だから余計に葛藤するのかな、なんか形もなければ目にも見えないし、触れるわけでもないし、食べれるわけでもないし、味があるわけでもない。
例えば、セクハラとかもさ、ずっと出来事としてはあって、でもなんかそれに名前が与えられて、
みんなが、みんなってはないと思うんだけど、あるし、名前があることによって納得をする。
でも、それってやっぱ具体的な行為があるし、なんか、どの立場に立つかによってというか、その加害をしている側に立つ人にとっては、そうではないと言い張るかもしれないけれども、
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おおむねやっぱ行為がある。それをなざし、それを見る人がいるっていう時には、やっぱその名前に、この名前でいいんだろうかという葛藤は、まあゼロではないにせよ、そんなにないような気がする。
けど、セクシャリティのこととかって、そういうのとはやっぱ違うから、そこに難しさがあるのかな。
うーん、なんか、そうね、さっきりぼちゃん言ってた、形のなさみたいなのはすごい大きいかな。なんかその、自分自身でも見えないもので、なんかその、自分の中から取り出せるわけもないし、なんかどこにあるのかもわからないし、
なんかそれが例えば、特定の他者との関係性によって、こう自分の中からどういうものが引き出されるかっていうのも、なんか多分自分でも予想できなかったりとか、わからないことがたくさんある。
多分だから、自分に対しての未知みたいなことによって、うまく自分でも定義したり、これっていうものを選べないというか、名前を選べないとか、表明できないみたいなのがあるのかなって、なんかちょっと今考えた。
でも、めっちゃ根本的に、自分めっちゃ未知だよね。
いつも自己紹介とか困る。
なんか、自分が好きなものとか、嫌いなこととかは話せるんだけど、自分自身がどういう人間かっていうのを話すのは、めちゃくちゃ難しいといつも思ってる。
なぜなら、自分が一番自分のことわからないから。
そうね。
なんか未知なんだよ。
たぶんそれがおっきいかも。
あと、なんか一つ今、そのお話で思ったのが、
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例えば、りょうちゃんと親しい人が10人いたとして、その10人が集まって、りょうちゃんってこんな人だよねって話したときに、
たぶんその10人、ぜんぜん違うりょうちゃんを見ていると思うのね。
そうだと思う。
だから、そう考えたときに、そしたら、りょうちゃんの中に10個のりょうちゃんのバージョンがいるわけじゃん。
そのそれぞれの人に対してね。
っていうのを考えたときに、別にそのりょうちゃんが、なんか超、なんかそのぜんぜん違う人格を10人持ってるとかっていうわけではなくて、
やっぱりその相手との関係性とか、その相手がどんな人とかによって、引き出されるりょうちゃんの性格とか特性っていうみたいなのが、けっこう変わってくる。
だから、なんかその他者との関係性とかのバランスによって、自分から引き出されるものっていうのは、けっこう、なんだろう、わからなかったりする。
っていうのが、今すごい思って。
だから、なんかそのジェンダーセクシャリティーも、なんかけっこうその他者との関係によって、自分ではわからなかったものが引き出されたりとか。
だから、その自分の中にあるときって、けっこうあんまり形なかったり。
すごい、だから最初、りょうちゃんがさっき言ってた表現いいなって思ったのが、形がないっていうのは、なんかほんとぐにゃぐにゃして、なんかまだ形がないみたいな状態。
で、例えば誰かとこう、いろんな関係性を持ったときに、なんかこの人は三角形みたいな。
で、ここでは四角みたいな。
で、ここではたまにいろんな形みたいなっていう、いろいろな形になりうる、なんかふわふわした形のないものみたいなのが、自分の中にあるんじゃないかな、みたいに今思った。
それをだから、私たちは道って呼んだりとか、流動性的なものって呼んだりとかしてるけど。
なんか今すごい、むーちゃんの話にめっちゃ納得した。
納得した?
なんか自分の、さっき話してたみたいに、その未来において、自分が全然今とは異なるセクシャリティーになるかもしれないっていう可能性って、
その自分自身が変わるっていう話でもあるけど、自分が未来にどんな人と出会うかとか、今関係のある人たちと別の関係性になるかもしれないっていうことってわからないから、
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その未知との遭遇によって、さらに自分もまた自分自身が今の段階では未知って思ってるような状態に変わっていく。
で、なんかそれ、なんかそのことに対してすごい納得がいっぱい。
ね、なんか未知の状態なんじゃない?常に。
たぶんみんなそうだと思うよ、でも。
だから今、自分はこうだっていうふうに、めっちゃ代々的に名乗っている人でさえ、全然180度まで行かなくても90度ぐらい変わったりすることは全然ある。
全然あるね。
で、それを許容できる世界であってほしいって思う。
なんかその人が変わっていくこととか、こうであるべきっていうふうに勝手に外の他者が思っていることって、なんか無理があるっていうか、
なんか自分自身も未知なわけで、相手も未知なんだったら、その未知と未知が出会ったらどうなるかわかんないじゃんみたいなのを常になんか意識していたいというか、覚えておきたいなって思った。
そうだね。
なんか、慣用であってほしいよね、変わることに対して。
ね。
なんか今、めっちゃ自分の中で今、スライムのイメージ。
なんかめっちゃこう、すごい子供の時スライムにはまって、形のないこうべちょべちょした。
なんか私の中、今そんなイメージ。
私スライム。
なんか小学生の時の理科クラブっていうのがあって、
あったあった。
なんかそれでスライム作って、なんかめっちゃブニョブニョやってたわ。
楽しいよね、スライム。
なんかすごい、なんか、分類とカテゴライズするっていうところから、結論未知みたいな。
結論ではないけど、未知にたどり着いた。
なんか、あんまり明確なアンサーっていうことではなく、
1:24:04
未知が今回のテーマに到達点としてあるっていうのは、めちゃくちゃいいなと思う。
まさか、私こんなこと全然最初話してた時考えてもなかったから、
なんかすごいところにやってきたと思った。
なんか、自分でもちょっとびっくり。
なんか楽しかった、すごい。
私も結構、セクシャリティの流動性みたいなところに関わる、
他者との関係性の未知みたいなところは、
言われてみれば確かにそうだなみたいな感じで、
めっちゃ納得がいって、
なんかすごいすっきりしてしまった。
勝手に。
すっきり。
よかった。
私もなんか話しててすっきりした。
なんか多分、自分の中でもやもやそういう考えはあって、
なんかふわふわしたかたちあったけど、
りょうちゃんと話していくことで、
なんかまた自分の中でも整理されて、
りょうちゃんのコメントにまたいろいろなものが引き出されて、
みたいな感じで、
すっきりした。
2人とも。
よかった。
2人ともなんかすっきりしててよかった。
今日はすっきりする会みたいな感じで。
すっきり会で。
楽しかったね。
ね。
今日はこんなところかしら。
はい。
ではまた来週。
ではまた来週。
はい。
はい。
バイバイ。
バイバイ。