1. あのさ、
  2. #3 ずっと続くのだ、もはや美..
2021-12-25 1:16:29

#3 ずっと続くのだ、もはや美しくなく正直でもない、生が

第3回は、話すこと話さないこと、書くこと書かないことについて話しました。

秘密を打ち明けることを肯定的に受け止めるべきなんだろうか/抱えることでなんとか生きてこれた/声をあげることや打ち明けることには意味があるけど/話さないといけないと感じてしまうとき/各々を取り巻く環境の差異/言える場があるなかで話さない選択をする/話さないことは存在しなかったことを意味しない/言葉にすることが難しい/排除をしない連帯のあり方はあるのだろうか/前提として誰かを排除してしまうこと/話せる状況をつくりだすことはもちろん大事/暴力を認識し言葉にするプロセス/言葉にならない痛みを言葉にする/まだ暴力のなかにいる/善意から話すことを強要してしまうこと/やっぱり物理的距離が大事だよね/言葉と現状が乖離していく/自分ではどうしようもない問題/自分と文章の距離/生きる術として書く/消化されずに残ったこと/自分の中でできる距離は危険かもしれない/10代の頃に書いたものを残していない/殴り書いて破り捨てる/紙に対して暴言吐いてた/10代のわたしは何を感じて考えていたのだろう/唯一残っている8冊のモレスキン/紙に書いて破り捨ててしまえばよかった/自分を客観視しすぎてしまった/言葉の乱用?/書けばいいっていうもんじゃないな/もう誰かが表現してしまってるから自分が言う必要ないのかも/覚えている必要がない出来事/忘れるために書き殴る/対象によって書き方が変わる/論文の型にハマりきれない/一番距離を感じる文章を一番推敲する/時間が経つと自分の文章が恥ずかしく感じる/文末がつまらない/大学で文章の書き方自体は教わらない/なんで論文の話をしてるんだろう…/脱線に続く脱線(毎度)/窓が8㎝しか開かない/部屋が寒い/寒いのいいなぁ/暑いのはどうしようもなくて耐えるしかない/いつになったらでかけられるんだろう/移動に気を遣いたくない/もう世界は元には戻らない/解決策がない世界で何を選択すればいいのだろうか/現状が変わらなくても自分の日々は進み続ける/未来の不透明性/どう折り合いをつけるのか/自分のしたいことを問い直す時間/考え続けざるを得ない


質問や感想はこちらへ。ありがとう、大切に読みます dialogue.taiwa@gmail.com
エピソードタイトルは『ディディの傘』から引用しました。
00:07
あのさ、そう言って語り始める無数の私たちの話、 取るに足りないとされるかもしれないけど、それは私たちにとっては大切な話。
たとえ分かり合えなくても、言葉を紡いでいくことで見えてくる地平があるのかもしれない。 そんな可能性にかけて、まとまらない話を、結論のない話を、
解決策のない話を、ひたすらに重ねていく。
なんかその、自己紹介をする番によって話すこと話さないことを、なんか、
ちょっと電気がつかない。 とか、あとなんかその、書くこと書かないこと。
なんか、書くというか、
これは多分話す話さないとかの方だけど、なんか結局、話す、なんて言うんだろう、
社会的に何かを打ち明けることとかが、割といいっていうか、ポジティブに取られるというか、
それこそ自分の秘密を打ち明けることっていうのは、なんかすごく
いい意味で取られる。 だけどなんかそれを、
別に打ち明けない、というか打ち明けないことで、自分がずっとその
ことをある意味抱えることで、なんか
話さないことでなんとかなってる、みたいな側面って、
うまく言葉にまだできないんだけど、あるよなーって思ってて、
なんだろう、例えばなんかよく思うのは、あの性暴力とか、
特にMeTooとかの運動、運動っていうか広がりの中で、いろんな人が自分もこういう経験をしたって
いうことを声に出していってて、それ自体は別になんだろう、
まあある種すごいことだなとは思うし、なんかその打ち明けることで確かに軽くなる部分とか、
なんか孤独感が柔らかくなることは確かにあると思うけど、かといって話さなきゃいけないのかってなると、
なんか違うというか、話すことが称賛されていく中で、言葉にはされないけど、話した方がいいのかなって、
03:07
思ってしまうこともあるんじゃないかなというふうに思ってて、
なんかすごいその感覚わかるし、特にそれがこう、
そういう視点っていうかさ、なんかそういう選択が余計にこう、
MeTooみたいなムーブメントの中でこう、前よりも浮き上がってくるっていうかさ、今まではこう言わないことが、
社会的に良いとされてたというか、言わないことだったり隠すことだったり、それこそ社会がそういうふうに言えないようにしてたわけじゃん。
で、そういうものが崩れ落ちて、今その言える場ができたとか、言える隙間ができたとかっていうことによっていろいろなことが今まで隠されてきたことっていうのが、
表に出されるようになってきた中で、あえて、あえてっていうかその、
そうね、なんかその私がすごい思うのは、今、りょうちゃんが出したその例えが性暴力っていうのはさ、ものすごいこう、
プライベートな問題じゃん。その個人、それぞれがプロセスするそれこそ、
なんだろう、過程だったりとか、速さとか、なんかその、
まあそのそれこそその周りから得られるサポートだったりとかっていうものに、ものすごい差があるわけじゃん。
で、そのそれぞれの個人の体験に対してこう、
こっちの方が大変だっていう、そういう、なんだろう、なんていうの、
差をつけるわけでもないけど、なんか同時に、その、
言える社会になったからこそ、
言わないと、ないことない、みたいな扱いになるっていうのは、私的にはすごい暴力的だなって同時にすごい思う。
だからそれこそさっき言ったみたいな、個人それぞれのプロセスがあるのに、そういうものをこう、
結構すっとばすっていうかさ、みんながこう開示してるんだから、あなたもそれにこう、
参加するべきっていうような、こう、社会的なプレッシャー。
だからなんか別に誰か個人が直接その人にそう言ったわけではないかもしれないけど、例えばツイッターとか、例えば
06:05
こう、大きな場で多くの人がそういう
コートに出てるのを自分が見た時に、例えば自分の中ではまだまだ、
一生それこそ外に出せるようなことではないし、一生多分抱えて生きる
もの、自分の中だけでね、っていう選択をする人も絶対いるだろうし、なんかそれが
良い悪いでこう、評価されてはいけないっていう気持ちをすごい、
っていうのがすごいあって、でもなんかそれをどうやったら、
分かってもらえるっていうかさ、なんかその相手側、言ってる人側を否定してるとか、
批判してるとか、そういうものではないわけじゃん。それこそ白と黒でこう、
解決できるような問題ではないから、だからこそ逆にすごいその、あえて、まあそれこそ言わないとか、
その表に出さない選択をしたからといって、それがないわけではない、みたいのをもっと、
なんかいろいろな多くの人にこう、頭に置いといてもらいたいなっていうのはすごいあるっていうのが、
なんかすごい、すごい、今リオちゃん言ったみたいに言葉にするのすごく難しいよね。
なんかそれこそ、なんて言うんだろう、自分、こういう議論をさ、思っても見えないところから、
なんか利用されがちな話かもしれないなっていうふうに思うし、実際にこういう特に性暴力みたいな、
フォークスペシティブな問題に取り組んでる人だとか、実際に当事者とされる人たちにとっては、
なんか、とても反感を買うような話なんじゃないかっていう気もするんだけど、
なんかその、なんか今、むーちゃんの話を聞きながら2つ考えたことがあって、
なんか1つが、これは少し前もちょっと考えてたことなんだけど、
なんかその連帯をするって言った時に、排除をしない連帯のあり方って可能なんだろうかっていうのを考えてて、
それがそこをMe Tooにとってみれば、私の理解がすごく間違ってるかもしれないけど、
その私も私もって言って、こうある種連帯のような空間が生まれたりだとか、
ムーブメントが起きたりっていう中で、でもやっぱりなんかそこには自分が入れないと思う人だとか、
09:07
私は入らないっていう選択をする人っていうのは多分いろんな理由であって、
そのことをどう考えればいいのかなっていうのを持ってたというか、
すごく連帯が強まる一方で、でも同時に誰かを常に排除してるというか、
それはなんだろう、来ようと思ってる人を排除するってよりかは、そもそもの前提として排除してるというか、
なんかちょっとそういう雰囲気みたいなのを個人的には感じて、
だからなんか別にこれはMe Tooだけではなくて、
誰かと連帯するって言った時に、誰も排除しないっていうことはあり得るんだろうかっていうのを考えてて、
でもなんかもしそれが不可能なら、それでも連帯には意味があるんだろうかっていうのを漠然と考えていて、
そのことをちょっと今思い出したのが一つ。
あれ二つ目は?
二つ目は、なんかうまく伝わるかわからないんだけど、
なんかその話せないんじゃなくて話さないっていう選択もあるし、
話せないっていう人が話せるっていう状態に社会的に環境として整備するっていうのももちろん大事、
それは前提とした上で、話せないだとか話さないっていう人たちをどうにか話させてあげようっていうよりかは、
なんでそういう話せない話さないっていう風になるのかって考えた時に、
結局なんかやっぱ話せるって、ある段階まで自分の中で整理がついたとか、
それこそ言葉にできる段階になったとか、何が暴力だったのかっていうことを自分でちゃんと認識できるようになってからじゃないと、
そもそも言語化ができないっていうか、
そもそもその暴力を受けたとか痛みを感じてたっていう時って、
痛いとかって思うこともあるかもしれないけど、そもそも痛みとかって言葉にならないものだから、
12:02
それをどうにか言葉にするってなるためにはやっぱりなんか自分の中で整理をしたり、
順序で当てる必要はないんだけど、説明をできるようになるプロセスが必要なんじゃないかと思って、
ってなると、言わないとか話さない話せないっていう人たちは、
要はなんか今もなお、ずっとこの暴力が何て言うんだろう、
物理的には行使されてなかったとしても、でもなんか続いてるっていうか、
持続されてる何かものがあるのかもしれない。
で、その段階の人たちに話した方がいいよとかって、
それが例え全員からであっても、求めるっていうことは、
なんかこう違うんじゃないかというか、それ自体出てるんじゃないかみたいな感覚があるなっていうのを、
これ本当にうまく伝わってるのかよくわかんないんだけど、
超伝わってる。
っていうのが2つ目。
なんかすごい両方ともすごい重要なことですごい、
自分の中でも今いろいろ考えてるけど、
今2つ目にりょうちゃんが言ったこと、
一種の他者からの強制じゃんそれって、
例え全員だったとしても、それは決してその人がその人として、
自分の中でこれがここまで消化できたから話そうっていう風になるのを待つのではなくて、
社会的なスピードであったりとか、それこそ他者の個人の、
勝手なって言ったら言い方悪いけど、それぞれの感覚。
自分はこれでこうできたんだから、
他の人、このプロセスをたどればここまで来られるんじゃないかみたいな、
それこそ全員だよね。
こうやってこれでここまで来られたから、
多分この相手も、この通りに行けば多分大丈夫、
言えるんじゃないかみたいな、話せるんじゃないかっていう感覚を、
押し付けるわけではないけどさ、
同時にそれって、その他者って私じゃないじゃんっていうところが一番、
根本にある。
それこそさっき言ったみたいに、
15:00
一人一人みんな全然違うプロセスの仕方だったりとか、
その時間、そのプロセスにかける時間だったりとかっていうのは、
もう、なんだろう、それぞれ違いすぎて比べようもないし、
それを一つのものとして話せることではない。
それこそ相手それぞれ一人一人に話して、
こういうやり方があるんだとか、
こういう捉え方があるんだっていうので、
終わらせる以外に、
そういうものの扱い方ってないんじゃないかって、
私個人的に思うから、
だからこそ、さっき言ったみたいに、
りょうちゃんが話してたこととか、
他者がいいと思って、
良かれと思って、
そういうことをやってたとしても、
私自身は多分それを暴力と捉えてしまう。
それこそ自分の中でまだ全然消化できてなくて、
それでも多分自分の中でも焦ってると思う。
こんなに時間経ってるのに、
まだこんな段階だなんて気持ち的に、
あと感覚的にっていうのも、
ただでさえ焦ってる。
焦ってるとかプレッシャーに感じてるのに、
それこそそれを煽るっていうか、
それをさらに悪化させるような言葉としか
多分捉えられないと思う。
それこそ個人が自分の体験として話す分には、
私は全然ものすごい、
誰かのためには絶対なると思ってるし、
それをシェアすることによって、
そのやり方だったりとか、
そういう語り方っていうものにすごい共感する人も絶対いるだろうし、
そういう面では多分、
ネットみたいな場ってものすごい重要。
それこそ自分が小さなコミュニティで出会わなかったような人たちに
出会って繋がって、
そういう共感するような感覚だったりとか、
考え方っていうものと繋がることができるっていう点では、
ものすごい重要だし、
個人の一つの位置体験としてそれを語るっていうことは、
多分私はものすごい重要だと思ってるけど、
それが個人の体験を語るっていうところを超えて、
他者に対して干渉するようなところに来てしまうと、
多分自分の中でも暴力とか、
ちょっと苦しいっていう風な感じの捉え方になるんじゃないかなって思ったりもするっていうのが、
18:04
りょうちゃんの2つ目の話への考えっていうか、
でもすごく難しいよね。
なんかこういう、それこそめちゃくちゃ曖昧な話だし、
パキって分けられない、善悪で分けられない話。
でもなんかすごく社会的にはいいことだったり、
なんか称賛されることだったりするのに、
自分にとってはそうじゃないっていうのを、
どういう風に伝えればいいんだろうって、
なんか結構立ちすくむというか、
そこをそのことを表す適切な言葉だったり、
表現だったりをまだ見つけられてないなっていうふうに思うんだけど。
今話を聞きながら、
前回話したときに物理的距離って大事だよねっていう話をしたじゃん。
それは本当そうだなって、こういう話の時も思うんだけど、
結局私の場合は結構家族のいろいろ問題というか抱えるものが大きいから、
家族と一緒にいたら、それこそ感情がボハッみたいな、
爆発状態みたいになっちゃうから、
でもそういう時って、
自分が思っていることとか感じていることを、
それこそ言葉にできないし、
言葉にしたところで虚しくなるというか、
その言葉が自分が感じていることと全然温度感が合ってなくて、
多分この言葉で誰かに自分の状況を説明したところで、
それが伝わらないし、
完全に伝わるとはもちろん思ってないけど、
でも言葉にすればするほど、
自分の今の置かれている状況とは乖離していくみたいなことになっちゃって、
それが結構、私は自分のことを話すので結構しんどいなって思うのが一番はそれで、
例えばそれでなんだかの同情的な言葉がフィードバックできたとしても、
それをちょっと歪んだ見方で受け取っちゃうというか、
だってどうせあんな言葉で自分のちゃんと感情が乗り切ってないことまで伝えたことを、
それがちゃんと伝わってるはずがないって思うし、
21:01
なんかちょっと口から手任せ言ってるだけでしょみたいに、
そういう見方をしちゃう方、
だからそれこそ多分どういう類の暴力とかであっても、
やっぱり暴力を振るう側の人と距離が取れてないと、
そこをちゃんと自分でその時の状況を考える余裕もないし、
言葉にしたところで、その言葉と自分が全然かけ離れてるっていう状況になっちゃうし、
離れたからといって全然まだしっくりすることとか話は全然まだできないけど、
物理的距離大事だよと思う。
物理的距離がないとやっぱ常に自分がしんどいと思う状況にさせられる可能性がすごくあるから、
だからその時に話すこととかってできないよなって思う。
いや無理。
私も多分りょうちゃんと結構すごい似たところがあって、
問題として抱えるところは結構経済的だったりとか家族の問題とかがすごいあって、
結構自分ではどうしようもできない部分がすごいあるじゃん。
それこそさ、職場とかでも結構縛られてる部分もあるかもしれないけど、
ある程度自分が選択できるところ。
物理的に、例えばそのお店の雰囲気が合わないとか自分がその店から出ることができるとかさ、
あと例えばそれこそ一つの授業でそういうあまり結構攻撃的な教授がいるとかそういうの、
物理的に自分がその空間から出ることができるけど、
家族とかお金の問題とかって今の社会で生きていく上で、
なかなかそう簡単にはいじゃあ出ますみたいな、
それこそ合わなかった店を出ますみたいな感じで、
出られるものじゃないじゃん。
できないよね。
だからこそ多分すごい悩むし、
感情が自分の中で溜まってってどうしようもできなくなりやすい問題なのかなって思うけど、
今リオちゃんが言ってた物理的距離、
その問題との物理的距離と、
例えば自分が書いた文章との距離みたいなのを考えたときに、
私がよく自分でやっててやばいっていうかなんかよくないなと思ってたのは、
最初はそういうものを自分の中で整理するために文章を書くみたいなことをしてて、
24:01
それって結構、
場から物理的に距離を置けないからこそ、
自分の感覚とか自分の頭の中である程度物事との距離を取ることによって、
その感情を消化したりとか、
あと自分の中でいろいろ整理する時間とか整理することができるっていうのはすごいなんか、
それが書くこととか文章の一つの利点としてすごい良いと思ってたんだけど、
なんかだんだん時間が経って、
それこそ家族と物理的な距離が私もできて、
自分でこの前、昔に書いた文章とかを読んだりしてると、
自分の中で乖離が大きすぎて、
家族との距離がものすごい、それこそ1ミリしかないとしたら、
自分の中でそれとバランスを取るために、
ものすごい自分の中での乖離が大きくなる。
そうするとなんかこう、
自分で書いてる文章とか自分が整理してたはずの文章から、
あまりにも自分が思ってることと自分が書いてることがかけ離れすぎて、
なんかそれこそ3人目がいて、
その人が勝手に書いた文章みたいな感じで、
昔書いたそういう、
自分を整理するために書いてた文章っていうものを読んでて、
それはそれで、
一種の現実逃避ではないけど、
自分がそれを飲み込まれるのが嫌だからとか、
距離が近すぎてどうしようもできないからっていう、
そのギリギリの環境でなんとか生き延びる術だったのかなみたいなのを
最近すごい思うようになって、
一回家を出て物理的距離ができた後に、
自分の中でまたそういうものを考え直してみると、
整理しきれなかった感情みたいな、
残り物みたいなのがいっぱい自分の中でまだあることに気づいて、
文章を書くことによって消化されたって勝手に自分で思ってたけど、
その時は、でも実際物理的距離を取って、
本当に自分が自分として自分の中でそういうものを考え直すときに、
結構消化しきれてないのとか、
結構トラウマになってて、
自分では気づかないうちに結構トラウマになってたことだったりとかっていうのが結構出てきて、
なんか自分でもびっくり。
え、なにこんなの自分、
なんかこういう感情とか、
こんなトラウマを持ってたんだみたいなのを今でも結構発掘してるから、
27:01
なんかそのりょうちゃんのその距離の話、
物理的な距離の話、大事だよねって話、
ほんとそれっていう、
ほんとそれっていう、
なんかそのほんと自分の身を守るためにも、
自分のその心とか自分の存在を守るためにもめちゃくちゃ大事だし、
でもその自分、同時にその自分の中でできる距離って結構危険っていうか、
結構危なかったりもするなっていうのは後々結構、
後々だね、
実際に自分が自分の中でこうまた整理しようと思ったときに気づいたこと、
だから結構最近気づいたことかなっていうのがある。
けどどうだろう、りょうちゃんそういうのある?
なんかその文章の話とかなんか。
でもなんか私そんなに昔の文章撮っといてないんだよね。
あ、その家にいたときの文章みたいな?
実家にいたときの文章とか、
文章もそうだし、いろんなものとか結構整理して捨てちゃったりとか、
リサイクル出しちゃったりとかっていう感じで、
あんまり今実家にもそんなに自分のもの、
まあ多少は残ってるけど、あんまりもう残ってなくて、
それこそ10代とかもうめっちゃ情緒不安定だった頃の、
たくさん確かに文章も書いたし、
手書きでバーって書き殴ったのもたくさんあったし、
あとそれこそネットにバーって出してた文章もあるけど、
それはもうアカウント消しちゃったりとかして、
少なくとも自分の手元にはもう残ってないものだし、
この手書きで殴り書きしてたやつとかも、
なんかもうノートに書いてたりっていうのもあったけど、
もう私はもう感情が高ぶりすぎて、
いらない紙とかにバーって書いて、
全部破り捨てて捨てるみたいなことやって、
ちょっと一旦気持ち落ち着けるみたいな感じだったから、
その時にもうすでに捨ててるからさ、
あんまり何書いてたのかも覚えてないけど、
でもなんかめっちゃ暴言吐いてたと思う、紙に。
今多い、他人に絶対使わないような言葉とかをめっちゃ書いて、
ビリビリビリビリってやって捨てて。
めっちゃそれいい、私もそれやればよかった。
ノートに書いちゃうと結構さ、ノート破れないじゃん。
特になんかいいノートとかに書いちゃうと。
確かに。
でもなんか、私は逆に昔自分が何を考えて、
残ってるものも確かにあるんだけど、
30:02
自分の記憶として。
でも多分多くのことをもう捨て去って、忘れ去ってきたから、
何考えてたんだろうなとか、
誰にも言わずにちゃんと書いてたこととか、
何だったんだろうなって思ったりするから、
残ってるの羨ましかったり。
私でもそれが唯一残ってるもの。
なんか引っ越し多すぎて、
物理的なものとかは一切何にもないけど、
唯一残ってるのが、
その漏れスキンに書き殴ってた時期が、
多分17とか16ぐらいから5年ぐらい。
だからその分のノートが、
多分8冊ぐらいある感じかな。
でも同時に私がとっておきたかったのは、
日記として、
ただの日記として使ってたんじゃなくて、
それこそ読んだ本から考えたこととか、
それこそ読書日記みたいな感じだったりとか、
あと自分の中で見た映画と音楽が繋がった感じとか、
自分の中で見つけた繋がりを記録するために使ってたから、
ただ唯一日記として使ってたんではなくて、
何でもノートみたいな感じ、
何でも帳みたいな感じだったから、
それもあって結構とっておきたかったっていうのがあるからね。
その間に所々日記みたいな文章が入ってるっていうのがあったから、
そうね。
私はそれこそ逆、もっと紙に書いて、
りょうちゃんみたいに破り捨てればよかった。
自分の中で結構逆に、
距離、自分と距離を置きすぎて冷静になりすぎる。
だから観察日記書いてるみたいな感じ。
誰かの。
何々をしましたみたいな。
第三者の視点みたいな感じになってて。
多分自分の中でそれすれば高ぶってる感情だったりとか、
そういうものがもっとスムーズに整理できるだろうみたいな思い込みがあって、
それをするためにも結構文章とか読んでも、
感情に、さっきりょうちゃんが話したみたいに、
言葉を与えることで沈めるみたいなところがある。
だから言葉で一般化とか言語化することによって、
それはおかしな自分の中で暴れてる感情ではなく、
33:02
一つの綺麗な文章に収まるものとして扱えるみたいな感じで、
だから文章とか言葉の悪用、乱用みたいな感じだよね。
あまりいい使い方ではないなって今思い返したら、
なんか昔そんな第三者的目線とか持ち合わせてなかった。
常に自分自分みたいな感じ。
私もそうだよ。
だってその第三者として描いてる自分も自分なわけだから、
何様みたいな自分それこそ。
自分の観察力書くとか何様みたいな感じだけど。
なんかなかなか過去の文章を読むのも結構、
それこそさっきの書くこと書かないこととか、話すこと話さないことっていうので、
書いたら書けばいいっていうもんではないなっていうのを、
自分の中では思い直す機会になった。
その文章書いてた数年間かな。
だからこそ逆に最近あんまり書かなくなったのかもしれないっていうのもある。
自分の中でいろんな人の文章を読んだりとか本を読んだりする機会が増えたからかわかんないけど、
たくさんの人がいろいろな方法で自分の言いたかったことを言ってくれてるから、
自分が言う必要ないやみたいなところもあったりする。
こういうことが自分は言いたかったんだっていうのを、
すって書いてくれてるような人がたくさんいるから、
そういう文章とかそういうものに触れる機会が増えたことによって、
逆に自分の中から書きたいみたいなのがなくなったっていうのもあるかもしれないけど。
なんか1個だけ覚えててっていうか、今思い出したのは、
いつぐらいだろう、20歳ぐらいの時に一旦、
今よりまだ実感にいろんな昔の10代の頃のものとかがそのまま保管してあった時に、
もう使わないから整理しちゃいなよっていうふうに言われて、
書いた時にいろいろこう吟味しながら整理した時があって、
36:05
で、その時にそんなたくさん書いてあるノートじゃないんだけど、
なんかちょっとだけ最初の5、6ページぐらいだけバーってひたすら文字書いてあるところとかあって、
なんかそれがその当時、それを書いた当時、
自分がめっちゃ嫌でめっちゃ泣いたみたいなことの出来事を、
誰がどこで何を言ってみたいな、それがどれだけ嫌だったかみたいなのを超詳細にメモしてるのがあって、
で、それでそれを整理するかどうかっていうふうに見てたんだけど、
これは覚えてる必要がないなと思って、だからそれも処分しちゃったんだけど、
結構昔は多分単に感情が高ぶりすぎて、
なんかその自分の怒りとか悲しみみたいなのも行き場がないから、
それをどうにかするためにガーって掻き殴って破り捨ててたけど、
なんかなんだろう、結構忘れたいというか覚えておきたくないことだったのかなと思う。
なんかそういうふうに処分して、
そこで多分感じたこととか別に1回きりじゃないから、
記憶にはもちろん残ってるけど、でもそれを発掘した詳細なメモみたいに、
誰がどう言って何を言ったみたいな、そこまでもう覚えてたくないしっていうのがあったのかもなぁと思う。
絵も別に描くことは絶対に忘れ去りたいみたいなこととか、
あまりにしんどすぎるみたいなことは結構避けて描いてると思う。
そこそこ描ける程度のことしか描いてないから。
確かに。それ分かるかも。
それぞれ、私とりおちゃん、方法は違うけど、文章とか書くっていうことを記録としては使ってないよね。
過去の忘れ去りたいことを書き留めておく必要がないじゃん。
それをわざわざその文章に戻って、その感情をまた感じたいわけでもないし。
39:05
私も多分そういう風な文章の書き方を第三者みたいな視点から書いてたのも、
多分その文章自体にその感情だったりとか、
そういう自分の中で覚えておき、忘れたいっていうふうに思ってたことを無機質化することによって、
それがなかったことではないけど、特にそんな覚えておく必要のないこととして、
ただの文章みたいな感じで、距離を置けるようなところに保管しておくっていうか、
文章一種のそういう、なんだろうね、結構自分の文章に自分を投げ出すみたいな人とかも結構いるじゃん。
そういう文章の書き方の人とかを見ると、全然自分とは違う印象だなみたいな感じで思うのも多分そういうところがあるのかも。
なんかその文章とか書くことを決して自分と直接的に結びつけたくない、
自分の特に過去の記憶だったりとか、覚えておきたくないこととか、
その時自体は整理するためにすごい便利だけど、
決してそれが別になんだろう、もう一回読もうとか読みたいと思わないし、
写真とかは結構楽しかった時とか、旅行行った時とか見たいと思うけど、
文章とか絶対もう一回読みたいとか絶対思わないし。
結構自分の整理の頭がごちゃごちゃしてる時とか、
もう感情の行き場がないみたいな時にその整理のために書く文章と、
誰かに読んでもらうために書く文章ってだいぶ自分の書く時のスタンスというかも違うだろうし、
実際に出てくる文章とかも全然違うと思う。
たぶん。
そうね。
それはなんだろう、いい意味で違うってこと?
なんかただ全然それぞれ違うけど、両方ともこうりょうちゃんみたいな。
りょうちゃんの自分みたいな。
なんか別にただの整理のための文章は遂行したりしないし。
42:02
しないね、ただ書くみたいな。
どうにか自分がもやもやしてることとかを、
ちゃんと整理をするためにどういう言葉でその感情とかを自分で認識するのかみたいなことを考えてバーって書くっていう感じだけど、
なんか人に読んでもらうのが前提になってる時とかは、
なんだろう、そんなに自分をそこまで載せないというか、
自分の文章だから自分は入ってはいるんだけど、
なんか整理のためはもうボロ自分の考え方とか。
直接的みたいな。
自分で喋って、自分に喋りかけて。
そうそうそうそう。
だけど人に読んでもらうときあんまりそこまで自分の感情とか載せない。
どういう文章かによると思うけど、から距離が違う。
確かに距離が違う。
そうだね。
でもなんか今リオちゃん言ったみたいに、文章自体には例えば距離が、
自分の整理のために書くものは、例えば自分が自分に対して書くわけだから、
実際に書く内容としてもすごくプライベートなことを書くだろうし、
でも同時にその口調とか書き方みたいなものもすごい直接的、自分に対して。
だけど人に読んでもらう文章で他者っていうオーディエンスがいるから、
その人たちに向けてとか、そういう視点があるのを前提に書くから、
それこそ距離、リオちゃんと文章との間に距離が生まれるけど、
でも同時に多分他の人からがリオちゃんの文章を読むと、
これはリオちゃんだっていうのがわかる文章。
だって私は勝手に思ってて。
っていうのもそれは多分リオちゃんの書いてる内容もだけど、
言葉の選び方とか、それこそ言葉の順序だったりとか、
並びとか、そういうものを選んでるところにリオちゃんが出てくるんだと思う。
だからそういうところの方が結構その人のパーソナリティっていうものが、
内容よりかは出てきやすいんじゃないかなっていう、
特にリオちゃんみたいに結構その文章によって結構それぞれ役割があるじゃん。
その直接自分に対する文章とか、日記とか、あと手紙とかも全然違うし、
45:05
私たちがやってる交換日記とかもまた違ってくるし、
そういういろいろなリオちゃんの文章を読んでるからこそ、
ブログに出てくるリオちゃんの文章は、
そういう言葉の選び方とかそのテンポとか、
そういうところにすごくリオちゃん色が出てるなっていうのは、
勝手な考えっていうか感想、リオちゃんの文章を読んでて。
他の人が読んだらどんな感じで、またあんな違う感想があると思うけど、
私はそんな感じでリオちゃんの文章を読んでる。
書いてて距離を感じる?
他者っていうか自分以外の人が見る文章を書くときって。
日本とかに違うと思うけど、
例えばブログとか、例えば大学とか、
他にどういう場で書く?
日経っていうかブログに出してる日経とかは、
でも割ともう、そんなに見えないでしょ誰もみたいなスタンスでやってるから、
誰かが見ても困らない内容を書いてるけど、
でも別に誰かに向けて書いてるわけじゃないから、
そんなに、割と距離は近いと思う。自分自身との。
直接こう。
でも一番距離遠いなって思うのは、それこそ大学で書く文章かな。
やっぱり型って言ったらあれだけど、
なんかある意味でルールとかもあるし、
そういう型みたいなのも、
大体はあるから、あるなって自分は思ってるんだけど、
だからそこにうまく、
自分がその文体とかに、文体とか論の構成の仕方に、
なかなかフィットしないなって思う。
一番距離が今のところ遠いかなって思ってる。
そうか、なんかもっとりょうちゃん色が出てるのかと勝手に思ってた。
でも多分他の人が読んだらわかるんじゃない?
私もりょうちゃんに読んだことないかわかんないけど。
自分で自分の文章読んでるから。
そうね。
でも一番編集というか構成というかに、
時間をかけるのも一番距離が離れてる文章かもしれない。
そうか。
自分と距離が近い文章はそんなに、
48:00
5時か2時ぐらい気がつけば直すけど。
そのままだもんね、出てきたままだから。
そこまで編集したりする必要がない。
そっかそっか。
私もりょうちゃんの大学の文章とか読んだことないから。
恥ずかしいから絶対読んでほしくない。
なんで?読みたい。
私日本語の論文読めるかわかんない、でも。
読んだことない。
まあ論文してないとは思うけど、
卒論書いてるときとか、
めっちゃ何十回も自分で遂行したし、
前回は全文章を音読して、
5時だと10時のチェックとか、
文章の繋がりがおかしくないかとかっていう風に、
チェックして時間かけたけど、
今というか、1年以上経って、
1年ぐらい経って、
読み直すと見てられないみたいな。
なんでこんな文章なんだろうって思う。
それはどういうところで、内容とか技術的に?
それとも論の運びとか構成とか?
全体的にだけど、もちろん論、
超個人的な反省会だけど、
どうぞ。
どこに論点を置いてるのかとか、
やっぱり一つの論文の中で、
主張したいことがあるから文章になってるはずなのに、
普通の雑談みたいにあっち行ったりこっち行ったりしてるなって思って、
こういう論文は良くないなって、
自分のを読みながら思ったりとか、
あとは文末表現とかが同じなの。
例えば同じ?
文末が全部こう、
えーなんだろう、なんとかであるとか、
そういう口語ではないような文体だから、
その中で全部であるってやるってやるとかさ、
なんか読んでてここおかしいなみたいに思うもん。
すごくつまらない文章って思う。
自分の中で表現しきれないみたいな感じ。
それって型の問題じゃない?それって。
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型の問題ってかさ、そういう世界じゃん。文章的に。
読んでて面白いのとか、すごい良い文章だなって思う論文もあることにはあるから、
自分が単に力量不足なんだけど、
こうしなきゃいけないみたいのが個人的に一番ある。
もちろんそんな文学みたいに自分がどんどん創作しちゃいけないし、
ルールがあるから。
裏付きをちゃんと取りながら進めていくっていうものだから、
でもなんかそこに過剰に縛られすぎてるなっていうのは自分でも思うし、
だから文体がつまらないって思う。
それは難しいかもね。
ルールはあるんだけど、ルールに縛られすぎると、
なんか全然文章として面白くないなっていう風に。
大丈夫?
大丈夫。
なんでボールペンが飛んでんのと思って。
それから髪の毛に刺さると思ってなかった、ごめん。
めっちゃ話中断しちゃう。
でもそうね、大学でさ、
例えば1年、2年、3年、4年で学年上がるごとに、
論文の書き方も学んでいくし、
いろんな長さのものを。
私は大学で結構書かされていたから、
1年目は割と個人の体験を論文と合わせ、
論文っていうかエッセイ、
こっちはエッセイって言うけど、論文のことだよね。
論文っていうか課題だよね。
だからルールはあるわけ、この論文としてのエッセイとしての構成とか、
イントロとボディとコンクリージョンがあってっていうのは型があるんだけど、
同時に扱う内容を割と個人の体験だったりとか、
個人の文化的背景から述べなさいみたいなのが結構多くて、
でもそれ1年目だけ。
それがあったから、結構そういうところでさ、
あまり論文とかで私はとか使わないじゃん。
絶対ほとんど使わない、
よっぽど自分が関わってるような研究じゃない限り。
だけど、その1年目のそういう課題の数々は、
割と自分の個人の体験をベースに、
54:00
それこそ社会問題的な視点から批判、
それこそ述べなさいみたいな感じの課題がすごい多くて、
2年目に上がって3年目ぐらいになると、
割と普通の論文の課題が多かったけど、
それがあったから私は割と論文でも、
ちゃんとした型のあるエッセイのリールがある課題だったとしても、
自分の文章をうまく入れるコツみたいなのを結構段階的につかめた。
それこそ大学のそういう構成プログラムの、
1年、2年、3年というプログレスのおかげで、
多分そういう風な書き方とか視点が得られたんだと思うけど、
だからりょうちゃんもどうなんだろうと思って、
例えば大学1年、2年とかの時に、
そういう文章を書く機会があったのかなとか、
そういうのを述べる機会みたいなのを立てた課題で。
もちろん普通にレポートの課題は毎学期、
どの授業もあったけど、
大体の授業はレポートであったから、
でも時数はそんな長くないかな。
大体3,000字から4,000字ぐらい。
ちょっと長いのだと5,000字ぐらいっていう感じで出されて、
だからそういう文章の課題自体は出てたけど、
でもそれこそ論文の書き方とか、
文章の構成の仕方とかっていうのは、
そんなに授業としてはやらなかったかな。
自分で文章の磨き方は、
自分でルールとかも含め自分で勉強して、
書いてねーみたいな感じだったから、
いっぱい論文の書き方とかっていう本は出てるから、
そういうのから自分で見て読んで、
真似してみたいな感じでやったけど、
でもいろいろ引用とか脚注の書き方とかも、
いろんな分野によって若干違うから、
だからこれが正しいやり方みたいなものはないと思うんだけど、
どういう風に文章を書き始めるかとか、
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そういう論文の構成というよりかは、
文章そのものの書き方みたいなのは、
大学でもやってないし、それ以前、
小中高とかでもそんなに、
小論文の書き方とか受験の時に多少はあったけど、
でも型を教えるだけで、
どういう風に書き出すかとか、
っていうのは教えてもらわない、
自分で勝手に身につけてっていう感じだったと思う。
逆に英語の授業とかの方が、
英語でのレポートとか論文の書き方みたいな授業はあって、
そっちの方がちゃんと教えられてた。
逆に日本語で書く方が圧倒的に多いのに、
なぜか日本語ではなくて、
習うより慣れろみたいな感じであったかな。
だから文章とかもさ、
私は回数重ねながらとか、
先生に聞きながらとかってやったけど、
例えば3000字のレポート書きますってなって、
いきなりさ書くぞってなっても出ないじゃん。
いきなりね、はい書きましょう。
アウトラインをどう書くかとか、
計画したいろいろアイディアとか書き出してとか、
3000字って言われてから3000字目指して書こうとかってなると、
うまくいかないから、
3000字オーバーで一旦書いて、
そっから削って整理して整えていくみたいな方法を、
多分3年生とかになってから、
ちゃんとできるようになった。
別にそれは大学とか、
ちゃんとした教育の中で教えられてるわけじゃないから、
試行錯誤と先生から聞きながらみたいな感じだったから。
あんまり、そっか。
私もでも分野というか授業にもよるかも、
人によっては全然そんな感じ、
それこそ論文とか読みながら慣れなさいみたいな、
こういうフォーマットとかこういうスタイルがあるっていうのを
色々知りながらそこから学びなさいみたいな感じの人もいたけど、
授業によっては割とすごい厳しめにこういう型に沿ってみたいな先生もいて、
そういう授業で割とこう、
そういうベースの型みたいなものを学んだっていうのはあるかな。
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そっから2年目3年目ぐらいになってくると、
もうそれが分かっている前提で出されるから、
誰もそれに対して解説とか、
特にフィードバック的なものはないけど、
その型自体に。
でも実際採点するときになると、
そういうものが結構重視されてるのは、
マーキングの配分とか見ててもすごい実感するし、
そういうところで、
それこそエッセイとか課題って一気に述べないといけないじゃん。
自分の中でまだグレーゾーンだったりとか、
それこそテーマ的にこれみたいな答えがないものに対して、
それを表明しないといけないみたいなのがすごい嫌で、
特にそういう授業が結構多くて、
課題でも一つのテーマの中での特定のポジションから議論するみたいな、
倫理の授業で結構あったかな、そういうのが。
それが結構自分の中ではストレスというか、
確かに自分の立ち位置みたいなのを認識して、
そこから論を展開していくみたいなのも一つの、
フィジカルシンキングのスキルでもあるし、
必要な技術プラススキルではあるんだけど、
それでしばらくちょっと落ち込むっていうか、
ストレスになった時期があって、
グレーゾーンではいけないみたいなところが結構あるじゃん。
たぶんりょうちゃんもすごい大学で課題とかやっててもあると思うけど、
そこが結構自分的には特に2年目苦しかったなっていうのは、
話してて思い出した、その方の話しててすごい思い出した。
それは本当に先生によるよね。
そう、しかもそう。
先生によるのもね、
先生自身の書き方とか、
どういう文章が好みとか。
それこそ好みの問題だよね、たまになんか。
そういう、私はあんまりその方通りの文章が好きじゃないからっていうのもあるけど、
なんか面白くないって思っちゃうから、
なんかこの人書いてて面白いって思って書いてるかなって気になっちゃう。
なんか嫌々やってんじゃないかなとか。
ただもう仕事としてやってるみたいな。
それは結構伝わってくるよね。
なんか論文読んでるとわかるよね。
なんかすごい結構本数こなして読むと、
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ある程度こう見えてくる。
面白いものもわかってくるけど、
同時になんか自分が嫌いなタイプの論文とかもわかってくるみたいなのがすごいあって。
なんか論文もいろいろだなって思う。
ねえ。
結構ピンからキリまでみたいなところがあるよね。
なんかこれでも論文なのかみたいなのもたまにあったりするし。
でも逆にすごい読んでてものすごい面白いし、
新しい視点を与えてくれるなっていうのもすごいあるから、
なんかそういうもののためだけに読み続けたいっていうのもある。
そういうものと出会うためだけに本数こなさないとみたいなところもあったりするけど。
どこからこんな話になったんだっけ?
なんだっけ?
なんでこんな話になってんだっけ?
なんか最初にセーフって言った話が、
書くこと書かないことみたいな話。
話すこと話さないこと。
自分たちの。
先輩も違うじゃん今。
過去を破り捨てたとか、いっぱい書いてたっていう話をしてたはずなのに、
なんで論文の話になったの?
どっから論文の話になったの?
聞き戻しした。
聞いて、またあれしないと。
カットしないと。
巻き戻しした。
巻き戻して、ここでまた枝分かれたみたいな。
ねえ。
こいつ脱線したぞみたいな。
相変わらず。
毎度毎度脱線です。
そっちは暖かい?
暖かいってか暑い?
え、暑い。めっちゃ暑い。
前向いたかもしれないけど、私のパートすっごい。
窓が開かない?
窓が開かない。
窓が8センチしか開かないの。
多分違法らしいよ、この暑さ。
そうなの?
私のパートナーがいろいろ建物の規制みたいなものを調べてて、
結構こっちしょっちゅう変わるのね。
なかなかその、建物を建てるための許可が通った年の規制が適用されるんだけど、
エリアによっては、例えば窓とか、
あと、例えば非常口とか、
そういう結構重要なテーマとかエリアのものは、
新しく更新されたものが適用される。
例えばその許可が降りたのは2018年とかだったら、
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それが更新されたら、それに応じてそれに応じたものが適用されるはずなのね。
ってことは、この今のアパートの窓が開かないっていうのも違法らしくて、
暑さ的にもものすごい暑いから、冬はいいんだけど全然すごい窓しっかり閉まるし、
全然隙間風とかも入ってこないから、
逆にその夏になった時に全然通気性ゼロだから、風がこう一つの窓から出て、
で入りするしかないみたいな、他の窓が開かないから出ていかないの。
だから多分その循環的にもものすごい悪いし、っていうので、
でもまあニジランド自体も結構暖かくなってきてるから、
私のアパートは余計にひどいなってて、
しかもなんかその仕事に使ってる仕事部屋がパソコン2人ともそれぞれ2台、
モニターとこのノートパソコン使ってくっつけてやってるから、
パートナーが3台も、3個モニター使って、私が2個使ってるから、
部屋がそれだけで暑いみたいな。
パソコンの熱とそれに加えて扇風機つけると、
さらに電気だけで暑くなってる家みたいな感じ。
でもなんか最近ずっと平日はめちゃくちゃ天気良くて、
週末になるとものすごい雨なの。
天気悪くなって。
先週もかな、先々週も先週も似たような感じで、
今週やっと夏だ、すごい天気良いって言って週末楽しみにしてると、
週末になった途端にずっと曇り空みたいな。
月曜日なった途端、快晴みたいな。
何なのこれ。
日本はもう寒いでしょ。寒い。11月とか。
寒い。
今日はちょっと暖かかったけど、
だいぶ日が、朝と晩がやっぱ冷えるなって思うし、
部屋が寒いのよ。
え、なんで?
窓閉まったの?
窓は大丈夫なんだけど。
窓寒い。
この家もそうだし、前に住んでたマンションとかもそうなんだけど、
多分法律で決まってる、今もこれ?
動いてる。
いや、動いてはないんだけど、
風が入ってきてるのかと、隙間風が入ってきてるのかと思った。
でも、24時間の換気システムみたいな、
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穴が開いてて、
ここは閉じないでくださいっていう注意がけも入ってて、
実際に風が入ってくるのよ、これ。
めっちゃ寒いじゃん。
ここしかもベッドで、
頭上に24時間換気があるから、
今めっちゃ寒くて、
布団を顎のラインまでずっと被って、
でも顔が寒い。
寒い。
朝になると顔もカサカサっていう感じになってる。
ちっちゃいミニテントみたいなの買って、
頭をテントの中に入れて寝る。
寒いよね。
頭寒いの嫌だよね。
頭冷えて入るから。
まだ11月だから全然寒いけど、
耐えられる寒さもあるんだけど、
1月とか2月が一番寒いじゃん。
めっちゃ寒そう。
どうなるかなって今ちょっとハラハラしてる。
いいな、寒いのいいな、でも。
寒いのは自分で洋服着るとか、
いろいろできるじゃん。
暑いのって、
どうしようもないよね。
どうしようもないっていうか、
ただその暑さに耐えるしかないみたいな。
何も自分でできないのがすごい嫌だし、
私寒い方が好き。
夏と冬で行ったら冬の方がマシだけど、
寒いのも別に好きじゃないから、
秋が一番いい。
秋が一番いいね。
ちょっと行きたい。
いつになったら普通にYouTubeに行けるようになるんだろうって思う。
私も日本は好きで行きたい。
でもまだ2年かとか思って、
なんかもっとすごい長年この状態みたいな感覚に陥ってる。
そっか、まだたった2年か。
2年って言ったらでも長いけどね。
もういいやっていう感じはある。
早く元に戻って旅行行きたいな。
旅行も行きたいし、
いろいろ移動するのに気を使いたくないなって思う。
でも多分、どうなんだろう。
これを機に世界が変わってしまったみたいなところはあるよね。
いろんな意味で。
後戻りできる変化ではないっていう。
元通りにはならないから、
今とは別の変化を望むしかないっていうか。
果たしてそれがどんな形、どんな変化なのか、どんな形で現れるのかみたいなところはまだ。
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今まださ、いろいろ試行錯誤してるところじゃん。
まだ何が起こってるかわかんないっていうところもまだ今続いてる感じもあるし。
だからそこから先っていうのが想像できない。
これから、ここから5年後とかさ、どうなってるんだろうって感じじゃん。
旅行できるぐらいにはなってると思う。
なっててほしいけどっていう。
今もいろいろと、今何が起きてるんだっていうことをずっと把握するための時間が続いてるような感じで。
そうそう。
把握しきれる日って絶対来ないじゃん。
何を試したら、それが絶対効く方法っていうものはないわけだから。
効くかもっていう。
可能性としてはあるけど、絶対的な解決策として何かがあるわけではないっていう。
だから本当にどうなるんだろうって思うし、
この中で自分どういうことを選択すればいいんだろうって。
いろいろ考えさせられるよね、今の時代。
いろいろ、この状態はずっと長く続いたまんまだけど、
自分の日々は変わらざるを得ないから、
日々何を選択して、この先どうするのかを常に選択、選択していかなきゃいけないし、
世界がもうちょっとマシになるのを待っているのもできないから、
そうなんだよね。
最近どうしようかな、最近っていうかずっとどうしようかなとか、毎日こんな感じだよ。
私もだよ。
なんかそのすごい感覚わかるかも、
自分の人生とか自分の生きてる時間は必然的に前に進んでるのに、
この社会とか世界っていうものがずっと止まってるわけではないけど、
どこにも進めない状況。
だから自分の時間は進んでるのに同時に自分の人生の進み具合としては全然どこにも行けてない感じ。
みたいな変な感じで、将来を考えるとか先を考えるみたいなことがあんまり前みたいにできなくなってる。
不透明性みたいな未来のっていう不安とか、それこそ未知みたいなところと、
1:15:10
どう折り合いをつけて今を生きるかみたいなところがすごい自分の中でも最近課題だし、
これからどうしようかとか将来みたいなのをすごい考え直すきっかけにもなってる。
だから自分は本当に何をしたいのかみたいなところを問い直す機会、
よくもあるくもだけどにもなってるっていうのはすごいある。
たとえ考えたかといって何か解決策が出てくるわけでもないんだけど、
でもそれを考え続けさざるを得ないみたいなところがすごいある。
確かに。
01:16:29

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