2023-09-11 58:36

急がない【GMV843】

夢の中で追ってくる怪物は目がさめれば消える。

サマリー

グッドモーニングボイスの最新エピソードでは、書き上げ塾の第9期や文章の書き方について話されています。夢と現実の区別がつかないという特性を持っており、タスクシュートを使って自分自身に疑いを持ち続けることが重要だと言えます。また、PDCAサイクルや夢の中でのリアリティも私たちを騙しているものであり、めんどくさいという感覚も幻覚だと考えられます。一分着手することによって、夢から覚めることができます。予断を持たずに現実に動くことが重要だと思います。急ぐ理由はないと思います。どうにもならない現実とたまにいやいや格闘することになります。これ全体が夢です。いくらでも手に入るようになったものはどうでもいいものになっていきますね。急がないことが大事であり、急ぐことによって得たものが実はプラマイゼロだったということを考えています。私はえっと走ったり、小走りも極力しないし、泳いで全力を出すなんて絶対にしませんけど、夢の中で一番僕は走っているんです。何もないものに向かって一生懸命走っていたんだろうと、現実に余談を持たずに起きたいと思っています。

00:04
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
9月の11日、7時30分ちょうどですね、朝ですね。
はい、これはもう非常にグッドモーニング的に正しい時間という感じが、アップしても8時半にはならないな。
書き上げ塾の第9期
ついにですね、この番組では繰り返し繰り返し告知させていただいていた、書き上げ塾の第9期が昨日スタートしました。
これ第1回になるんですけど、企画を作ると。
倉園さんは出版社さんの編集長でいらしたから、企画会議というものは多分何度も何度もなさってると思うんですが、
それのそのままに近い形、僕それはそのままがどういう形かは結局知らないわけですが、
をやっていただくという話になっておりまして、話というかそれを実際にやってきまして、
この昨日の2時ぐらいからですね、ずっと4時、5時ぐらいまで、
企画会議をやって、私3、40分レクチャーで喋るっていうのを最後の方にやって、その後まとめに入ったわけですが、
これですね、いいからって言って僕は告知しているわけですが、当然僕が言ってることは告知なんで、
そういうふうに見えると思うんですよ。CMですよねっていうことだと思うんですよ。CMですからね。
でも僕はこれは大変いいと思っていて、結局僕らは告知っていうようなものにも警戒されると思ってしまうんだけど、
警戒する人としない人と言いますが、するわけじゃないですか。それは何が問題かというとお金だと思うんですよね。
僕らはお金というものに対してすごく独特の観念を持っていると思うんですよ。
例えば、そうだな、この書き上げ塾はそれなりのお値段なんで、
だから僕らは参加について、たとえ今迷っている方であったとしても、
ホイッと入れないよねって思っていらっしゃると思うんですけど、僕は本当はそうではないんだと思っています。
本当は例えば僕が500円玉を持って、500円ですからね、書き上げ塾の値段とは全く違うんですけど、
500円玉を持って自動販売機に入れたとするじゃないですか。何の反応もなく戻っても来なかったといったことがあったら、
すごい来るんですよね。ダメージを受けた気がすると思うんですよ。
100円だともう一つなんですけど、500円玉だと来ると思うんですよ。
でもその500円をですね、急いでいるときにカバンに詰め込んでお釣りとかをね、
その500円がカバンの底に眠っていて財布からはこぼれ落ちているといったときは、
多分何とも思わないと思うんですよね。
でもこれはですね、つまり500円をどう扱うかというのはシチュエーションによってすごい変わるという話で、
この10何万円とか20万円というのは全く同じなんですよ。
これよく経済心理学っていうのかな、経済行動学でよく話題になりますよね。
でかいお金を使うときほど節約に注意しろっていう有名な教訓があるんだけど、これは難しいですよね、僕ら。
200万の車を買うときに、じゃあちょっとこのカーナビグレードアップしませんかみたいなこと言われると、
今は皆さんはすごく経済観念が発達している上に、日本も昔ほど豊かじゃないから、
そんなにホイッとじゃあこの8万円高いやつにしようかとかどうせ200万円払うしって思うんだけど、
8万円のカーナビを今から買いますかっていうと人は絶対躊躇するんですよ。
これは本当すごいおかしなことなんだけれどもするんですよ。
だから節約うまい人っていうのはそういうところで上手に確実に節約していくんですよね。
向こうも心得てるんで、車を売る方もですね。
保険とか車検とかの時になんかどうでもいいようなものを一つぐらい追加したりしたがるじゃないですか。
数千円とかすごい安く見えるんですよね。
ところが数千円っていうのは例えばエバーノートのサブスクが今度から700円が1200円になりますってみんなすごい怒るじゃないですか。
こういうもんなんですよね。
だから今のエバーノートの数字がすごい適当だったんで、
ちゃんとした話じゃないんで情報として仕入れないでくださいね。
多分デタラメなんでもっと違う金額だったと思いますけれども、
そういうわけでですね、僕はやっぱりそのものの価値それ自体を測るっていうのは人間には困難を極めるよなっていうのはいつも思うんですよ。
特にそれを金額で測ろうっていう話をした場合はですね、
私はもう本当はいくらであろうと入りましょうとはさすがに言えませんけれども、
毎回毎回相対的に見れば安いんだって話してますけど、
まあこの話結局金額で語ることに意味がほとんどないなって感じはする。
でもそうすると何をPRポイントにすればいいんだろうと思ってしまうんですよね。
毎度毎度もうちょっと人がいて叱るべきだというふうに僕なんかは思ってしまっているんですけれども、
これグッドバイブ素敵じゃないなと思うんですけどね。
現実というものに対して僕がイリュージョンをかぶせているわけですからね。
あと3人多い方がいいっていうのはこれは結局は僕の幻想ですからね。
なんですが、そう思ってしまうわけですね。
文章の書き方
例えばですけれども、文章の書き方に縛りをかけるとかいう話も、
これは基本の方ってくらどんさんがおっしゃってるやり方なんですけれどもね。
微コースに相当する文の繋ぎ方をしないとか、
あと僕がこれも絶対そうした方がいいと思っているのが性感的化ってくらどんさんが、
これもネーミングが面白いんで覚えられるんですけど、
特に性と的ですね。
現実的とか、あとはですね、
昨日も普通に公的な文章で出てくるところに面白さがあるといえばあるんですけれども、
客観性とか、あと感も大きいですよね。
不安感とかね。不安感の感は取った方がいいと思いますよね。
不安と不安感はどう違うんだろうと考える必要はありますよね。
組織にいる上でのなんとか安全感とかって言うじゃないですか。
なんとか的安全感だったっけあれは。
的も感も出てくるっていう感じの、しかも造語ときてますからね。
どうしてその安心に、安全とか、感がいるのかっていうね。
安全感と安全、安心感と安心。
これは書き上げ塾で聞いて欲しい話であってですね、
ここでもちゃもちゃ喋っててもしょうがないんですけれども、
この2つをやるだけでもいいなとは僕は思うんですよね。
この2つは使った方がいい場面ってほぼ全くない気がしますね。
のでからって言うんだけど、
becauseで使う、becauseなんとかなんとかなんとかで、
Iなんとかなんとかみたいなああいう極めて基本的な文章ですよね。
こののでからを使うのをやめるというのと、
性感的化を例外なく排除するっていうのは、
例外なくできないケースはありますけど、
私的とか、でも私的ってやつですよね。
私的にはっていう意味もあんまりないですよね。
自分ならみたいな表現でいいと思うんですよ。
だからこの的を使うっていうのは、
的っていうのは中国語ではのに相当するんですけれども、
私のって言ったとき私的って書くんですけど、
日本人だったら私のって書いたほうが妥当だと思うんですよね。
私的っていうふうに書くよりはですね、
ほんとこの的っていうのは、なんて言えばいいんですかね、
こう無意味にしてしまう感じがするんですよ、表現を。
昨日倉園さん立体的になるって言っているっていう表現を
非常に取り上げていらっしゃったんですけど、
立体的とかも意味不明になってしまうんですよね。
立体だって僕は意味不明だと思うんですよね。
両目で見ると立体的になるとか言って、
これに何か意味があるかなって感じがやっぱりするわけですよ。
両目で見なくても立体的には見えますし、
そもそも私たちが見ている世界は立体的に見えるようになってますからね。
これが平面的に見えるとすると、これは脳の障害にあるんですけどね。
平面的に見えちゃうと。
そんな人はほとんどいませんから、
例えば車の免許とか取れませんよね。
そういうことがありましてですね。
ちなみに目に映っているものは、
これは全く余計な雑学なんですが、目に映っているものは平面ですからね。
これを脳が立体的に見えるようにやってくれているわけですよ。
別に両目で見ているから立体的に見えているわけじゃないわけです。
片目で見ると遠近感が狂うのは、
片目で見ると平面的に見えるわけではないんですよ。
これも全部的、今無理やり使ってみたんだけど、
平面に見えるとか立体に見えるで何の問題もないところを全部的を使うことで、
自分の文章がですね、より信頼感が増すように思わせることができるというポリックなんですよね。
これを事ごとくやるっていうケースがあって、
事ごとくやると、もう何て言えばいいんですかね。
言わないでおきましょう。言わないでおきますが、ない方がいいです。
僕は全箇所カットするっていう、つまり検索で的を探しては一応カットを試みる。
ただこれをやるのはブログか原稿に限っていてですね。
僕はメールとかではしょうがないかなみたいな感じになってしまうことが多いです。
どうしてもやっぱりメールは時間をかけてないということですね、要するに。
こういう話があるんですが、これだけ喋るとなんかやっぱり超自我的で、
敵ですね、超自我みたいですよね。
なんか指摘している。攻撃まではいかないにせよ、何かに対する不満を述べて終わってしまう感じなので。
つまりですね、漠然と眺めていて、漠然と文章を書いても、なかなか遠回りな感じがするんですよね。
上手くなると思うんですよ。書けば絶対に。
泳ぎと上達
僕はこれ、泳ぎと同じ部分があると思って、泳ぎってのは泳いでれば絶対上手くなるんですよ。
これは自分の確信があるんですね。人から見てどうこうはないんです。
タイムも速くならないことだけど、泳いでて泳ぐのが速くなるのは100%、上手くなるのは確実で。
やっぱり先日言いましたけど、泳ぐのは、溺れそうになったら浮いてますのが最善であること。
泳ぎって役に立たないんですが、いざという時は。
でも絶対に溺れる可能性を泳いだ場合は、水に浸かっている時間の長い人の方が助かる可能性はある。
でも場所によるからね、こういうのは意味ないんですけどね。
天候にもよっちゃうし、気温にも水温にもすごい左右されますし、全く同じ表現ならという意味ですね。
しかも泳げる人は無理するんで、だいたい本当にそういう全然違う要素によって人は水難事故に遭ってしまうんですが、
それでも水に浸かってさえいれば、人は泳ぐのは上手くなるんですよ。
これはなんかうちの子である程度実証したつもりなんですよね。
全然僕は教えなかったんですけど、とにかく長くプールに浸からせる。とにかく長く浸からせる。
そのうちを泳げるようになる。不思議ですけれどもね、そういうもんなんです。
僕はもうしごかれましたからね、本当にめちゃくちゃしごかれたんで。
タイムが遅いと定規でペチペチ叩くんですよ、大学生のコーチとかが。めちゃくちゃ痛いんですよ、あれね。
だからすごい早くなりますけどね。これは全然今やったら多分犯罪になるだろうなという。
夢と現実の区別
体中に物差しの跡だらけだった時期ってありましたから。
しかも親はそういうところに平気で行かせるという非常に昭和な時代でした。
昭和ってのは後期になってもそうな時代だったんですよね。
あれはやる必要は全然ないんですよね。あれやることのメリットって多分一個もない気がします。
それによって早くなるのが頭打ちになりますからね、どうしたって。
水泳って体型特殊じゃないですか、早い人ってみんな。
あの体型にならないまま早くはなれないようにできているんですよね。
泳げるようにはもちろんなりますよ。ものすごい早く泳げるようになるけど、
例えば50メートル行き継ぎゼロで泳げるようになったりもしますけど、何の意味もないですね。
それによって溺れなくすらならない。
溺れなくなりそうなもんなんですけどね。
僕は1日最大遠泳で13キロぐらいまでは泳げるんだけど、それでも溺れるってことはよくわかってるんですよ。
僕より上手い人は1名は取り留めましたけど、大変な目にあった人がいたので、
本当に泳げることと溺れないことは関係ないんですよ。
ひどい話だと思うんですけどね。ひどい話なんですよ、こういうのって全部ね。
体力には限りがあるということですね。
今日は本題になかなか入れないんですが、
要はですね、溺れなくはならないんだけど泳げるようになりますが、
そのためには近道もあるんだけれども、漠然とやってても泳げるようになるんです。
でも文章も漠然とやってても書けるようになるじゃないですか。
でも上手くなるにはそのやり方だとかなりの年月が必要になるので、
これを短縮って言うのもグッドバイブス的じゃないんですけど、
それでも6ヶ月でここまでなるなら絶対お勧めできる。
高買いな値段とかじゃダメだと思うんですけどね。
6ヶ月で100万円とかだと僕は躊躇しちゃいますが、
20万ならいいでしょうっていう結局お金の話になってますね。
そういうことです。9月いっぱいまだ申し込みいただけるんでよろしければどうぞ。
たとえこれに入らなくてもですね、
僕は野手からは避けられないか。
正観的かは必ず確認しましょう。
これはもう僕がプロだからとか物書きだから言いたいわけじゃなくて、
単に一読者として言いたい。
特に観と的はね、本当に具体的とかはしょうがないかもしれない。
確かに蔵園さん昨日これについても言及されてましたけど、
まあまあ具体的とかはしょうがないかもしれませんが、
安心感と不安感、あと恐怖感は、これはもう感取りましょう。
なくても全く同じ意味にできるはずですし、
言わんとすることが変わるとはとても思えないんですよね。
少なくとも良くはならないと思います。
不安を不安感に変えることによって何一つ良くなる気はしないですね。
あと立体的とかね。
これも極力、そもそも立体的っていう言葉自体を
避けたほうがいいんじゃないかなと思うことが多いですね。
蔵園さんが時々おっしゃるんですけど、
言った気になるってやつなんですよね、これは本当に。
長すぎるんでやめます。
今日はですね、
余談ということについてちょっと考えたのをお話したいんですけど、
余談を持つってやつ。
あらかじめ断ずる。もうこれですね。
予感と余談は近いものを感じるんですけどね。
先日お話ししたように、
私は明石も最近見てですね、
ドバイブスというものを一つまた違う視点ですごく
意識できるようになった気がするんですね。
気がする理論なんです。
お子様、小さい方はこれで意味わかると思うんですけどね、気がする理論。
要するに、
グッドバイブスって当たってるよなっていう話になってしまうんですけれども、
僕の中ではね。
例えばですね、人がやっぱりいいですね。
人に対して私たちはですね、余談を持つんですよ。
これはもう夢を見て思ったんですけど、
避けがたいなと思ったんですね。
避けられるかもしれないけど、難しいんだなっていうのをまず感じました。
というのはですね、やっぱり夢の出来がですね、過剰にいいんですよ。
太陽を見ればえらく眩しいし、目つぶってるのにね。
えらく眩しいし、蚊に刺されると痒くなるんですよ。
手も腫れてましたしね。
でも夢から覚めてみたらやっぱり腫れてはいないし、痒くなかったんですよ。
腫れてたのはインチキな映像ですけれども、痒みは作り出されているわけですよ、感覚として。
だから本当に痒くなってたと思うんですよね。
本当に痒くなって、この言葉の意味ってどうなんだろうって思いますけれども、
なってたと思うんですよ。
つまり僕らが余談を持つのは当然だなって、
タスクシュートと疑念
あの夢の中の光景を見てですね、思ったんですよね。
あの、今私仕事を一緒にさせていただいていて、
9月18日には一緒にセミナーもする、
今日一緒に喋るわ、J松崎さん。
余談を持ちますよね、Jとはこういう人だよみたいに。
絶対ダメだなって思ったんですよ、夢を見てですね。
この私が持つ余談はあまりにも私にとってはなんだけど、
説得力がありリアリティがあってよくできすぎているために、
どんなデタラメでも簡単に信じてしまうわけです。
だからタスクシュートを僕はやっているというつもりなんですけど、
本当に僕究極的にはこれが目的なんですね。
タスクシュートをやっている最大の目的は、
自分で自分の余談を常に疑い続けるために、
これ以上のツールは僕にとってはない。
ツールに頼るという意味ではね、
これ以上のツールは私にとってはないんですよ。
行動を変えるたびに、
今あなた起きてますかっていう問いを僕は立てて返してるんで自分。
これ夢じゃないんでしょうねっていうね。
すごい私にとっては意味のある問いなんですよ。
これより意味のある問いは僕には何もないんで。
だからタスクシュートをやっている限り、
ある意味この問いはもう自動的に自分に戻ってくるようになってますからね。
だから私からするとやっぱりその、
昨日クラゾンさんが書き上げ塾で、
A is Bっていう第二文型で文章を書くとすごく拙くなって、
いろんなことを踏まえるとそういうふうには書けなくなるって話をされてるんですよ。
富士山は綺麗ですみたいなね。
僕のお母さんは優しいですみたいなやつね。
A is Bですよね。母は優しい。
A is Bという第二文型。
SVCっていうんですね。
SVCであることが多いですよね。
B動詞使って。
これとよく似ててですね、
私にとってはタスクシュートを使わないのはまだしも、
自分に対して夢ではこれは現実なんだと、
何の見当もなく信じ込むというのは、
もう第二文型的にこれはないなって感じなんですよ。
そしてだからこそタスクシュートをですね、
例えばですよ、いわゆるPDCAサイクルを回すために使うというのも、
PDCAサイクルと夢のリアリティ
もう僕にとっては正直、
これはないとまでは言わないにしても、
もう遥か遠くに置いてあるんですよね。
遥か遠くに感じられる。
つまり、そういうことをやるという時代もあったような、
みたいな、そういう感じなんですよね。
そう言うんですよ、自分から。
それが良いとか悪いとか、
やるべきだとかやるべきでないとか、
そういうこととは関係なくて、
もう遠いなって感じがするんですね。
たとえそれを数年前まではやってたにせよ、
もう自分からするとそういうことってあるじゃないですか。
昨日のことなのにもう遥か昔のことのようだ、
みたいな感覚になるのってあると思うんですが、
僕にとってはPDCAってそういうもので、
タスクシュートとの縁が、
もちろんある人にとっては深くあるんだと思うんですけど、
僕にとってはもう遥か彼方にあるもの。
全く無関係じゃないんだろうけど、
遠いなっていう、
なんかこうですね、数年前に別れた恋人、
みたいな感じなんですよ。
悪いイメージは別にないんですよね。
悪いイメージない、まあ人によるか、
これも人によると思うんだけど、
でも自分とはもう基本的に縁のない人だな、
みたいな、昔は縁があったなっていう、
そういう感じがします。
なぜなら、やっぱり私にとって、
まずこれ、夢と現実の区別が、
直感的にはつかないんですね。
すごい努力を要するんですよ。
夢見てるとき、まさにそうなんですね。
視覚がリアリティを持ってるなどというのは、
無意味極まりなくて、
視覚はリアリティをめちゃくちゃ持ってるんですよ、
夢の中でも。
この日は、既に喋りましたが、
目高の蜂がなかったから、
夢だと気づいたんですけど、
その時、もぞもぞっと、
長卵の蜂の中で何かが動いたために、
それでドキッとして怖くなって、
それに結局、夢の中でも触れなかったんですよ。
夢の中であることを確信できていればですね、
そのもぞもぞって動いた、
なんだかわかりませんが、
不気味なものでした。
触れそうなもんですけど、
リアリティがあるんです。
私にとっては、説得力というものが、
極めて強く働くので、触れない。
触れないということは、
私は騙されてるんですよ。
結局、夢だったんでね。
自分の知覚だと思っているものは、
知覚じゃないんですね。
幻覚なんですよ。夢ですね。
だから、そういう私の能力を考えた上で見ると、
今、目の前で起きていること、
例えばこれを絶対やらなければいけない、
というのは夢かもしれないし、
これやるのめんどくさい、
このゼームのインボイスの、
この新設のめんどくさい、
このめんどくさいなどというのは、
まさに夢っぽいんですよね。
夢じゃないかもしれないけど、
幻覚に違いないと思うんですよ。
めんどくさいぞっていう、
これも先日、倉園さんが、
ポッドキャストでめんどくささについて、
つい最近です。
おそらく前回ぐらいの回なので、
これは聞いてみてください。
これを1から全部語り直していると、
また40分ぐらい、これだけで経つので、
ここはもうはしょってですね。
要はめんどくさいというのは幻覚なんですよね。
ただ、この幻覚は説得力を、
本人にとってはすごく持つんですね。
私が夢の中でついに無視にされなかったように、
それだけのものを、
僕らの脳は作り出してくるので、
本当にめんどくさい。
絶対手をつけるなんて、
予断について
冗談じゃないという風になるんですよ。
だから、
ここで100日チャレンジの人に
お伝えしたいですね。
1分着手というのは意味があるんですよ。
なぜなら、
現実に1分着手してみたら、
そのめんどくさいという幻覚は、
つまり夢から覚めた時のように、
一瞬にして消滅してしまうから。
信じられないんですよ、私たちは。
このことがね。
僕が夢の中で無視にされなかったように、
言っちゃったけど、
無視にされなかったようにね。
それが現実でないとは、
どうしても信じられない。
夢だと思ってるのにかかわらず、
まだなお触ることができずにいる。
というのが私たちなんだと思うんですね。
だから、
めんどくさいという幻覚には負けそうになる。
でも、
1分着手することによって、
目が覚めるんですよ、かすかに。
少なくともこれは夢かもしれない。
そう疑うからめんどくさくても、
手をつけるわけですね。
だから、そうすることによって、
目がもし覚めれば、
たぶん一瞬にして全部消えます。
これがすごいんですよ。
私、結局、
全ての精神分析もカウンセリングも全て、
ウッドバイブスで言っている
あの話ですね。
恐怖というものは抜けないんですね。
手をつけるのは結局、
めんどくささというか、
名称を取った恐怖なんですね。
私は例えば静電気が怖いとか、
人が怖いとか、
この説得力は
極めて大なので、
いろんな人にこの話をしても、
やはり跳ねつけられることの方が普通です。
頭ではわかるんですけど、
やっぱり怖いんです。
これで終わってしまう。
私も夢の中で、
これが夢だということを
思っているんだけど、
結局は目を覚ますというところまで、
なかなか行き着けないな、
というのがあったんですよ。
あったんですけれども、
所詮は夢なんです。
目を開けるということができた瞬間に、
全部消えてしまう。
あれほど成功にできていて、
無限の空間が広がっているように思っても、
ちゃんとあれですからね、
目を遠くにやってみると、
家の家々が並んでいる。
本当にあれが、
冗談じゃないんだけど、
一瞬で全部消える。
僕の脳が勝手に作り出している、
何か、存在しもしないもの、
でしかないんですよ。
触ることができないという
気持ちになっている存在も、
存在はしていない。
この存在していないというのが本当に大事ですよね。
存在してもいないものを、
僕は触れないとか言っているわけだから、
ほとんど正気じゃないわけですね。
正気じゃない頭で、
人は私を
ディスるとか、
誰それに叱られるとか、
なんとかは怖いとか、
これこれは面倒だとか、
僕らは余談を持っているんですよ。
そういうふうに確信してしまって、
だから、
Jさんや私の言うことが
信じられなくてもですね、
一分着手はやっている。
価値がある。
それは現実だからですね。
現実というものは、
幻覚から覚ますために、
おそらく唯一、
確実に使えるツールだと思いますね。
現実というものに関わっているから、
夢は消えるわけですよね。
私がそうすることができたよ。
現実に関わることができないとき、
夢から僕らは覚めることもできない。
だから夢の中で何かに怯え続けて
なきゃいけない。
これが馬鹿らしいので、
起きましょう、
という話なんです。
一分着手というのは、
起きません。
起きませんというのは、
起きましょう、という話なんですよ。
要するに。
一分だけでも現実に何かに
手がけてみれば、
それが面倒くさいという
幻覚そのものは消えるので、
やっぱりやってみると
面倒くさいかもしれないけど、
その面倒くささは
異なるもののはずなんで、
現実の面倒くささになるはずなんで、
そういう意味です。
これが一分だけやっても
無駄じゃないかという幻覚に
惑わされないでください、
という話の意味なんですね。
現実と夢の対比
そう言いましたよね、Jさんは。
一分だけやっても無駄なんじゃないかと
あなたは必ず思いますと。
あれほどおっしゃっててもですね、
やっぱり100日チャレンジで、
これは別にディストロイじゃないですよ。
そう思うんですよ。
僕もそう思うんですよ。
一分だけやってみたところで、
eTACSのこの申請は
1ミリぐらいしか進まないじゃないかと。
あれなんですよ。
今、ピクミンというゲームに
はまってるんですけど、
あれはエリアごとの達成率というのが出るんですね。
100%でコンプリートというのが
出るんだけど、
それもすごい今のゲームって
よくできてて、コンプリートすると
どんなに良いことをやったかというのを
すごくゲームが祝福してくれるんですよね。
これはハマるな、子供はと思ったんですよね。
で、
一分だけやっても
1%も増えないんですよ。
これですよね。
みなさんが恐れているのは。
一分だけやっても無駄だろうと。
という我々は予断を持つわけです。
幻想を担いて、
僕は説得されてしまうわけです。
そして夢から覚めることが
できないわけですね。
これを
一分だけやっても無駄だぞと
言う声に負けて
一分も着手できないという事態が
発生する。
これを毎日繰り返すことで
一分も文章が書けないとか
一分も
税のそれこそ申告の
書類が作れないとか
一分もまるまるできない
という日が
一年間続くといったことが
他の人の気持ちと未来の不安
現実に生じるんですよ。
これが幻想に僕らが
負ける時の
なんていうんですかね
心理状態なわけですね。
これを何とかしましょうと。
だから予断を持つのはやめましょうと。
ということなんです。
でも我々は
予断を持っちゃうから
予断を持っちゃったら現実に
目を覚まして
そのためにやるんですよ。
何かをやってみると。
リアルに動いてみる
ということですね。
その
僕はその証拠を一つ
集めるためにタスクシュートに記録を
とっているといった形を
とっているわけですね。
予断そのものはタスクシュートに
残りませんからね。
100回予断を持っても
それを記録しませんからね。
つまり予断というものは
現実じゃないんですよ。
現実に
動くということが
多分私は
必須だと思うんですね。
そうしないと僕らは
ずっと頭の中で夢を見続けて
その夢の説得力に
ずっと負け続けてしまうので
ずっと説得され続けてしまうので
非常に
簡単なことなんですよ。
不思議なんですけどね。
Good Vibesで
予断について僕は言っている
3つか4つのことが
トップダウンで
ものを考えるのが苦手なんで
こういういい加減な言い方になるんですけど
一つは有名な
最初の頃
ラノンさんがよくおっしゃっていた
最初の頃ってなんだって感じですけど
私が教書で本を書かせていただいた頃にも
よくおっしゃっていた
現実ならなんとかなる。
これですよね。
現実ならなんとかなるということは
夢はどうにもならんということですよね。
ひっくり返して
考えたいんですよ。
この3つか4つをね。
現実はどうにもならない
って考えてみる。
で、
他人の気持ち
他人が考えていること
他の人のことはよく分かる
と考えてみる。
他の人のことはよく分かる。
現実はどうにもならない。
えっと
あとなんだっけ
えっと
序談なんですよね、そう
先のことはよく分かっている
この3つだけでも十分だと思うでしょう。
現実はどうにもならない
先のことはよく分かっている
他の人のこともよく分かっている
おかしいですよね。
僕らのよく出る不可解な態度の一つだと思うんですよ
そうじゃないですかね
会社に行って同僚、上司が
もじゃもじゃ言う
彼らに対して余談を持ってますよね
うちの上司はひどい奴だと
もう本当にブラックだと
ここが余談ですよね
で、当人にいやいやブラックかどうかは
まだわかってませんから現実を見に行きましょう
怒り出されると思いますよね
そんなことは僕はもう言わないようになりましたけど
さすがにブラックですと
これはわかってるってことです
他の人のこと
で先日もツイッター見てるといくらでも出てきますけど
将来が不安です
この人の言う将来というのは35歳なんですけど
スキルがありません
40歳になった時が不安です
あー5年後かーみたいに思うんですよ
私なんかはね
どっちの年代ももうすっかり通り過ぎましたけど
何のスキルもなくね
えーと将来がわかってるわけですよね
彼にはね
このスキルのない自分
これもまあ余談なんですけど
が5年後にそう書いてましたから
本当に生活に困って
生活保護を受けていることに
このままではなります
なるらしいんですよ
わかってるわけですよ
つまりこれは未来が見通せるということです
そして他の人のこともわかってるわけです
けれども現実はどうにもならないんですよ
そうですよね
このままいったらもう現実生きている
を書いてはしたけど
あるあのなんていうのかな
えーとお悩み相談なんですよね
ある種のえーと
このままでは生きていても意味がない
人生になってしまう
こうなるんですよね
僕らの思考は一番苦しくなってくる
人のことは分かる
未来のことも分かる
現実はどうにもならないです
僕は人のことが分かって
未来のことが分かれば
現実なんて本当にどうにでも
なりそうな気がしますけれども
夢の深みにはまる
俺らはまさに発砲塞がりって時には
このパターンを取るんですよ
頭が現実というものは
いかんともしかない発砲が塞がる
それは他の人が高校高だから
自分の未来は高校高だからということが
すべて見通せた結果
塞がりになりました
実はどうにもならない
ここで人にお悩みを
相談し始めるんですよね
ということはどうにかなるんじゃないかって
思ってるっていう面もあるわけですけど
えっとこの余談が
まあ僕らを非常に混乱させる
この混乱は
多分やっぱり有名なんですよね
一番おかしいのは
まあどこもおかしくも変ですが
あまり他人が分かってるっていう
これだと思います
で私さっき言った通り
僕らは夢を見ている時
夢に説得されてしまうので
それが夢だとは気づけないんですよ
なので他の人がどう考えてるかが
分かってるっていう夢を見出すと
他の人はそう思ってることは
もう確定してしまうんですよね
そして自分の未来も確定してしまう
夢なんでそれは
でこの状態の中に入って
現実はどうにもならないと言ってる
その現実もまた夢なんですよ
もうこの夢はどうにもならない
その通りだと思うんですよね
その夢はどうにもならない
ポイントはその夢から
進めうるっていうところに
あるわけじゃないですか
これが現実を見に行きましょう
という話の意味だと思うんですね
私がちょっとややこしく
見えるかもしれませんけれども
僕はいたって単純な話だろうとは思います
実際にはこの実際に
やるのが辛いって話は別ですよ
でもやるのがややこしいとか
複雑だって話ではないと思うんですよ
単純に言って今私が
例えば誰それに怒られてますという時
誰それと感じが悪くなってますという時
私はもうこの人を攻撃したり
罰したりあるいは
この人と付き合ってしまった
自分を罰したり攻撃したり
深い後悔に苛まれたりする以外
何にもできることがないような気がすることが
まあ特にかつてはよくありましたね
でこの状態に入った時
えっと現実はどうにもならない
他の人の気持ちはよく分かって
自分の将来は真っ暗であることも分かった
っていうこのパターンに入り込むんですよね
でこれは有名なんですよ
なぜなら私はそういうふうに思ったことが
もう何百回では全く聞かないな
何万回とありますね
何万回と間違いなく人生でありました
もうお先は真っ暗で
あの人は私に対して非常に攻撃的であり
私は大変に無力で無気力な人間だから
それに対抗する術はない
そしてこの現実というものは非常に
まあ真っ暗だとは言わないまでも
非常にグレーがグレーがかかった
実に味気なくて
えっとまあ醜悪な感じがする
こういうものだと何万回も思ったんですよ
何に僕は今平気でピンピンして
こんなこと喋ってますからね
あれは全部有名なんですよ
情報を摂取する必要性
あれが現実だったら
私は死んでないまでも病院とかにいると思いますね
で僕はそうやって病院に入りかけましたけどね
あの少なくとも何かの施設に入ってると思います
あるいはものに依存しますよね
僕は依存症というものが
幸いにも本当の意味では関わりなく生きてこられたんですけど
ものに依存しますよ
間違いなく人がそこまで酷いんだったら
えっと覚醒剤とは言いませんけど
とにかくものに依存する
僕だったら多分コーヒーとかかな
カフェイン依存も結構きついですからね
激しくなってくるカフェインとゲームとかに
多分依存してたでしょうね
ゲームは常に同じ動きをしてくれる
ここがその人が分かってる世界に生きていたい時のパターンなんですよ
コーヒーの味も同じもの飲んでる時は基本同じですよ
余談を招くんですよ
ゲームとかコーヒーってのは
余談のためにあるようなもんだとも言えますよね
そして僕はますます夢の深みにはまっていくわけです
現実はどうにもならないんだ
だからまあコーヒーでも飲もうゲームしながらね
でどうにもならない現実と
たまにいやいや格闘しようっていうことになる
これ全体が夢なんですよ
だから僕は今ピンピンしてられるわけですね
この夢を何万回となく見ても目が覚めると消えるから
消えてしまうんですよ
私以前コーヒー依存になったことはないけど
なりかけたことあるんですよね
今ではコーヒーは別に日に一杯も飲まなくてもいいんですよ
これが夢から覚めた時に起きる
実に不思議な現象が不思議じゃないんだけどね
夢の中で飲みたいものが起きても飲みたいかどうかは
全く別の問題じゃないですか
これを克服するのに
佐々木さんだからできたんだとかは関係ないんですよ
起きてしまえばその衝動自体が
夢の衝動になってしまうんですよね
夢の中で虫が怖いとか言うのは
だから虫避けたいじゃないですか
でもそれは消えたら
そういう衝動自体なくなりますよね
そういう話なんです
だから予断を持つというのは
原則、夢を見続けるという話でしかないわけだから
やめようと思えば絶対やめられるはずなんですね
その時に現実にただ向かえばいいわけです
実際に何かをすればいいんですよ
多分
何にもしないっていうワークも
ここでは有効なんですけど
何でかっていうと
夢を見てる時というのは
僕らは何かがしたくなってるはずだから
特に夢に追われてる時はですね
何かに追われる夢を見てる時
必死になって走ってるじゃないですか
そろそろ終わりにしますけど
先日3ヶ月チャレンジの方とグループセッションして
すごい面白い展開になったんですよ
つきさんは急がないんですかっていうような話になって
例えばこのポッドキャストとかそうなんですけど
私は絶対遠倍でしか聞かないですね
急ぐ理由が何もないと思うんですよ
僕らは夢の中で急ぐ時あるじゃないですか
なんか怪物とかに追いかけられてね
急ぐ理由がないですよね
全くないと思うんですよ
その怪物は存在しないから
ただ急ぐ理由は自分で作ってるわけです
この怪物に食われてはならないと
その怪物作ってるのは自分ですから
間違いなく
他の人の呪術とかでもない限り
夢の中に私に怪物を出させることはできないわけだから
私なんですよ
たとえ私の無意識だとしても
私であることは間違いない
これに追われてる時は急いで逃げます
でもその急ぐ必要があるかというとないですよね
食われて困ることないんで
夢なんで
食われて困ることもなければ
追いつかれることもないです
存在してないもの
で私は起きてても
事実上夢を見続けてる
特に急いでる時なんでそうです
急げば事態が良くなるなんて思ってる時は特にそう
あるいはたくさんのことがやれる
この件については不安ゼロで生きるっていうのを
倉園平蔵さんと協調で書いて
最終章で取り上げてるテーマそのものなんで
よかったら読んでみてください
急ぐ理由がない
倍速で聞いて情報をたくさん取り入れた方がいい
っていう夢を僕が見続けなきゃなんない理由はない
僕はその辺はもう本当に冷めてしまったんで
情報を2倍摂取したいとかは
欠片ほども思わないわけですね
たぶんそれは完全に僕の世界ではですよ
他の人は別の理由があると
例えばこれが株式トレーダーやってる人が
情報を素早く摂取する必要があるっていうのは
僕とは事情が違います
僕の世界ではみんな違うんですよ
生きてる世界は
僕の世界では1.5倍速にして
倉園さんのポッドキャストを聞くメリットって
一個もないので
10倍にして聞かないと言霊だという話を
僕は別にしてるわけではないです
もっともっともっと遥かに
常識的なっていうのかな
常識と関係ないか
情報を多く摂取した方が
その人の人生は豊かになるという夢を見ることも
僕らの世界では容易にできるんだけれども
それが現実かどうかの吟味は
滅多にされることがないってことだけは言えると思います
夢と現実の違い
確実に
僕はそれを吟味した結果
僕の知っていることが
知識情報が今の2倍になっても
人生は少しも豊かにならないというのは
確実だと思うので
少なくともそれは
そのように考えるのは夢そのものなので
私の世界の中ではね
目が覚めたら
全然その衝動は湧かなくなってしまいますから
そんなことはしません
ピクミン倍速でやっても面白くもなんともないし
そもそもピクミンってやんなくていいもんですからね
あれも夢製造装置なんで
つまり起きていたらやらないことは
急いでやる理由ないんですよ
これが何にもしないワークの意味だと思いますね
何にもしなくても何かをしても同じですから
現実には現実的にはね
何かが手に入るという夢を見ることができますよ
より多くのすることによって
何かが手に入った方が幸せだっていうのも
一つの夢ですからね
少なくとももっと厳粋に検討されるべき話です
これはね私割とそんなにお金に困らない家に育ったから
余計思うんですよ
親に何かすごい値段あるじゃないですか
うちの親簡単には買ってくれなかったんで
ものすごい値段で買ってもらうじゃないですか
それ今持ってませんからね
そういう夢を僕らは見やすいようにできているし
当然お店の方でも
その種の夢を見させるってことには
最大限の努力を払うんで
別に乗っかったっていいと思うんですよ
そういうのに乗っかるというのが人生を何種ですかね
社会生活を送る上での必要事項とされてるんで
乗っかったっていいと思うんですよ
でも私はそういうふうに育った関係上
別にうちの親ほど儲けちゃいないんだけど
寺が儲けてるってのもどうかと思うんですけど
うちの家ほど儲けるのは
僕にはとてもじゃないけどできそうにないんで
娘にはですね
欲しいといったものは何でも買ってるんですよ
原則的にそうすると欲しがらなくなっていくんですよね
僕はこれはすっごい想像した通りだったんです
夢ってのはそういうもんなんですよ
夢の教育方針
いくらでも手に入るようになったものは
どうでもいいものになっていくんですよね
夢の中ではこれは僕はお金ないにも関わらず
こうしてたんですね
つまりうちの親の態度を見てると
あれはうちにおもちゃなり何なりを買う金がなかったんじゃなくて
教育的な何かを狙ってたと思う
僕はその意味で言うと逆効果になっちゃうと思うんですよ
欲しくて惜しくてしょうがなくなる
なぜなら手に入らないものについては
夢を膨らませる余地がいっぱいあるから
僕はこれをうちの娘から奪うのはどうかなと思ったんですよ
欲しいと言われれば買ってあげるということにすると
この夢は見られなくなるんですよね逆に
どうせ普通に稼いでれば
僕のようにカツカツの人間でも
子供のおもちゃなんて買えるじゃないですか
だからほぼ無制限に買ってあげるという格好を取ったんですよ
とってみたんですね
そうするときっとこの
欲しくて欲しくてたまらないという夢は見られなくなる
つまりそのものそのものよりも
買おうとしているものよりも
遥かに頭の中でいいものをこしらえられるという能力は
身につかなくなるだろうなと
そこは天秤にかけるしかないなって思って
僕はその夢なくてもいいんじゃないかなって思ったんですよ
この夢は大事だって考え方もあります
あの僕はクリスマスと子供の夢ってのは
この辺に絡みがあると思ってるんですけど
それはそれで一つの教育方針で
別に僕はここに反対したいとは思わないんだけど
僕はこの夢はいらなかったなと
なんかでトータルで考えると思うんですよ
脳内で膨らませてる
こう物欲的な夢みたいな
昔の子供の方がよっぽど強く持ってたと思うんだけど
その方が幸せだったっていう主張もあるんですけど
僕はあんまりそれが信じられなかったって
えっと娘にはそれは施さなかった
どっちにしても2つ同時にはできないことなんで
中接中は取ることできるんですよね
ほどほどに欲望を煽るみたいな
ほどほどにしか感じ上げないみたいな
急いでいると失うもの
それも僕はあんまり気持ちよくなかったんで
私はそれはやめたんですよ
でその娘に対するその態度で
自分が知ったことが
この夢種の夢がすごく多いと思った
急ぐってのはまさにそれだって思うんですよね
一つには急げば多くのことができるっていうのは
たくさんのおもちゃが欲しいっていう夢と
でもよく似てる僕の中ではね
これはいらないって僕が思って
娘の教育方針にまで適応してるのに
自分が急ぐことはないな
すごいそれは馬鹿馬鹿しいなと僕は思ったんで
急ぐってことは僕はしないようにしてるんですね
急いじゃうことありますけど
倉田さんはもうちょっと徹底されてるかもしれないけど
急がないっていうのはですね
あのグッドワイブズ初期の頃結構出てたんですよ
これ一度ぐらいは話したことがあるし
どっかに書いた記憶もあるんですけど
あの参加を参加にとった
落合博光っていう選手がですね
えっと俺は走らねえっていう
いうあの有名じゃないと思うんですけどね
そういう逸話があって
えっとバンキシャと一緒にいた時なんですけど
新幹線が出そうだったんですって
落合選手の乗ろうとしている
グリーン車も知ってあの県まで買ってるんだけど
もうこのまま歩いてたら
間違いなく出発しちゃうというのに
落合選手は走んないんですよね
でバンキシャの人は器用モンで急ぐんだけど
バンキシャはもうちょいついてなければ
まあその本書いた人なんだけど意味ないから
自分だけ乗っていくわけにはいかないじゃないですか
それであのどうしてこの人は
こんな時でも走らないんだと思いながら
しょうがなく一緒にいてドア閉まっちゃったと
ドア閉まっちゃって
あーって思ったんだけど
その時たまたまドア開いて
すごいもう二重にびっくりしたっていう
エピソードなんですけどね
でまあたまたまだけどなと落合は言ったっていう話なんですけど
これはすっごく僕はあの考えるんですよね
まあ彼は金に困ってないっていうのは一つ
とりあえず置いとく
あの頭に置いてもいいと思うんですけど
でも彼はあれですからね野球選手ですからね
えーと野球選手というのは
まあ野球は得当のある人はみんな知ってるんですけど
とにかく選手選手というものにこだわるんですよ
特にあの時代はそうですよね
今でもそうですけど先に点取った方がいいに決まってる
選手点って言うんですけどね
まああの全てがその後手後手に回っているというのは
弱いチームでやってることで
原則的には先手先手なわけですよ
今優勝している観戦のチームですけど
今オリックスも阪神も
どっちもすっごく先手取って
一方的に勝っていく感じになってきてますけれども
昨日もあの私としてはすごく残念なことに
えーと千葉ロッテですね
ずーっとゼロが続いてますけども
全く点すら取らせてもらえない
とにかく早い方が勝つわけですよね
足が早い方がいいし
弾も早い方がいいわけですよ
で走んない人が3冠を3回も取ってるんですよね
3冠を3回取ってるのは彼だけなんで
どっちがイヒロミツだけなんで
まあパリーグですけどね3冠を取ったのは
でえーとそういうことは
まあエピソードでしかありませんが
急がないっていうのは想像以上にきっと大事だな
っていうのは私はもうずーっと
別に落ち合いのエピソードとは関係なく思ってはいます
急いじゃうんですけど私はつい焦ってしまう
焦っていたり急いでいる時はいつもそう思うんですよ
自分は夢の真っ只中に叩き込まれてしまう
おいそれと起き出せなくなってしまった
あのここで横底に急いでいて
間に合わないとあのとても残念なこと
ひどい目にあうとはもう思わないですけど
でも残念なことになる
相手は結局なんだかんだ言っても気を悪くするだろうか
まあ悪くするかもしれませんけどね
で急いでいる
そうすることによって自分の人生というものを
自分の望む方向に作り直したり
えっとこね直したりいじり回せると
そういう夢を見ているつまり余談なんですよね
それは僕の世界僕の現実では真っ赤な嘘でした
全然これをやって僕がいい目を見たことがない
一番急いだのは受験大学受験ですね
あれ急いで僕の人生になんかものすごくプラスがあったかというと
多分最高によく見積もってプラマイゼロだったとしか言いようがないんですよね
僕はその本当にその頃その当時はすごく今と全然違って
グッドバイオスでも何でもないので大人というものをひどく恨んでいましたから
いつら受験とかで人をあんなに急かして
えっとこんなに酷い目に合わせやがってとしか思ってませんでしたから
走らない選択
僕はあのすっごい一番急いだのは多分中学受験の時かな
あの時が急ぐモードピークでしたね
なぜか走るのも早くて
えっとクラス対抗リレーで選手だったんですよ
出ると最下位になっちゃうんですけどね
出た中で一番遅いぐらいの速さだったんでね
本当にねあの急ぐということを叩き込まれるのあの時代で
それによって僕は自分の実力を遥かに超えるような学校に入って
そこであまりにもバカだというのでいじめられまくってたんですけど
そういうことを引き起こすあれは何なんだろうって思ったんですよね
これこれですっごい子供だからね
えっとどストレートに急ぎまくって
すごい早く問題解けたりするようになるわけじゃないですか
そして挙句の果てにはあれですからね
まあ今となってはいい思い出で
えっとあれあれだけの新学校に行かないと
あの知り合えなかったようなやつが中学時代ね
でも今でも友達って人は誰もいませんからね
これがいかにやっぱり合わないところに入っちゃうことの悲劇ですよね
6年もいて新友はできたし
今でも連絡取ればね
あのあれかもだけど
まあでも今でも友達付き合いしてるという
例えば今Jマスザキさんとか
倉園さんと同じくらい親しく付き合ってる人が中高にいるかという
一人もいない一人もいないってちょっとびっくりですよね
そしていい思い出みたいなのも
もう本当にこう一生懸命拾い上げないと出てこない
嫌な思い出ならばまあ1万以上ありますけど
これが僕は自分が急ぐってことを
心の底から嫌になった一つのその前のあれもあるね
あのさっき言った水泳のしごきもあります
あれももうコンマ何秒争う
小学校2年生が水泳でコンマ何秒争ったってしょうがないわけですよ
コンマ何秒小学2年生にしてはよく出せてたと思いますけど
40秒切ってるぐらいまで行けたかな
40そんなに早くなかったか
41秒かな
まあその辺までは行ったんですけどね
あれが何になったかっていうと
今じゃもうプールに行くと嫌な気持ちになるぐらいのことですよ
あのプール特有の演奏の香りがあるじゃないですか
あれ出すとどうしてもね
そのしごかれたトラウマがプール嫌いじゃないんですよ
それでもあのただ泳ぐのはもう一切しませんけどね
僕はプールの中で泳ぐのは自分ではナンセンスだと思ったので
絶対歩くことしか基本したくないんですけど
あの本当にこう急ぐことによって得たものってのが
ムチ打ちみたいな世界なんで
あの急ぎたくないわけですよ
それでも千枝選手のようには慣れてないんで
絶対グリーン車とっても歩いてたいなって思うんですけど
彼あの監督って優勝すると胴上げするじゃないですか
あの時は歩いてるんですよね
僕はあの光景違和感があったんで覚えてるんですよ
よく普通の監督は走りますよ小走りだけど
あのなんかもうノリのいい監督だとガーッと走ってきますけれども
彼とか歩いてるんですよね
まあ歩く監督もいるけど
えっとあんまいませんよね
優勝した時でもこの人歩いてんなーみたいな
えっととにかく変わった人ではあるとは思うんですけども
走らないってのは彼の中ですごい大事なことなんでしょうね
走ると例えば怪我するとかね
つまり無理してるっていうような意味が
そこにあるんだと思うんですよ
走りたくないけど夢の中では走っている
私はえっと走りませんし
今は小走りも極力しないし
泳ぎで全力出すなんて絶対やりませんけど
あれは僕は命に関わるんじゃないかと時々思ってるんで
あの泳ぎで全力で泳ぐなんて絶対しませんけど
とにかくこう急ぐって時によく感じます
夢を見ているに違いない
現に夢の中で一番僕は走ってるし
急いで怪物から逃げてますから
そして起きて毎回思うんですよ
何にもないものから自分はいつも走ってたんだろうなって
いつも思うんですよ何にもないものからですね
何にもないものに向かって一生懸命走ってたんだろうなと
人生の中でね
多分それが夢に現れちゃうんだろうなっていう気がするんですよ
現実に対して余談を持たずに起きたい
だからせめて現実と関わろうと思ってる時ぐらいは
急がずに起きたいと
それが結局この現実に対して多分ですね
余談を持たないってことなんだと思うんですよね
こうすれば良くなる
それが余談ってもんですよね
夢ってことだと思うんですよ
現実は何とかなるし
人が何考えてるのかと
未来に何が起こるのかは分からないんですよ
結局それは自分ってものは
分からないんだってことだとは思うんですけど
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