1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #37 【カント雑談】カント振り..
2022-08-31 39:37

#37 【カント雑談】カント振り返りと、近代哲学の理性と感性の関係

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


▼おたよりフォーム

ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!
https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7

00:00
(BGM)
はい、ソレテツラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ついに関東編が終了ということで、今回は感想とかを混ぜながらちょっとのんびり話していきたいと思います。
はい、お疲れ様でした。今回ね、結構難しかったんじゃないかなと思うんですけど。
ちょっと僕の方から話してみたいところでいくと、関東の冒頭にも言ったんですけど、関東はめっちゃ難しいってもともと自分思ってたし、
やっぱりやっても改めて難しいなとは思ったんですよ。
今回改めてこうやってね、ラジオでやる中で学ばせてもらって、なんで自分が関東、なんだろうな、分かりにくいと思ったかとか、
飛ばしたかっていうのが分かってめっちゃありがたかったんですけど、なんでかっていうと、今回話をお伝えしてきた通り、
関東もデカルトもそうだけど、結構その経験未満みたいなものと考えるときに、
結局その理性と感性、誤性と感性とか、感じる働きと考える、統合する働きっていうのを明確にある種分けて考えていくっていうのがあるじゃないですか。
それ自体はすごい大事な見方だなと思っていて、
で、兄貴も最初めっちゃ困ったじゃん、7+5=12って言ったときに、7+5から12は出てきませんみたいな言われて、どういうことどういうことみたいな。
(岡田)そうね、意味不明だったよね、12になるじゃんって思ってたし。
(深井)そうだよね。で、ああいうのも、僕らが普段生活しているとか、普通に生きていく上では、別に経験的に7個のリンゴと5個のみかんがあって、12個の果物だみたいなのでいいんだけど、
それを数学的にとか、経験によらないもの、経時条額とかを考えようと思うと、それでは戻りつけないよね、みたいな、そもそも問題意識とか、世界の捉え方がまずできるかどうかがまず難しいとかややこしいし、
その結果、僕らは今2020年の世界に生きていて、関東から300年くらい経っている中で、人が理性と感性とかを分けてしまった結果、起きたら、それこそ戦争であったりとか、
資本主義が発達したけど、これだけ環境問題とか格差が生まれているみたいなことを知っているから、それを分けすぎてもダメだよね、みたいな前提があるんだよね、本来的にというか、世の中的に。
03:00
なるほど、そこは一旦分けた上で、結果みたいなものを見ているみたいな、ちょっと一周した感じなのかな、今って大きな流れでいうと。
そうだね、西洋中心主義がダメだみたいなのも、それこそ哲学史上というか思想史上の変遷だし、だから僕が自分自身のことを考えるにあたって、分割して考えるみたいな頭がなかったから、
別にそれを分けていたところで幸せにはなれないというか、結局自分が何かを感じるということと考えるという自分が二つに分裂しちゃって、どこまでも一人の人間にならないみたいな。
そういうところが、今は西洋哲学の課題感みたいな感じで捉えられている。
でもそれを一体乗り越えた上で、ただどう統合しようかとか、どういう世界観ならそれを乗り越えられるかっていう、まさにそれは今後どこかで扱おうとは思っているけど、
フッサールの現象学みたいなものとか、っていうのが一番大きくなってくるし、そういうのを見ていくとまた二つに分かれた理性と感性と感覚がどう一つになっていくのかとか、
そもそも主観と客観みたいなことを結構、近代西洋哲学では扱っていると言われるんだけど、
はいはいはい、そうな。 うん。なんかちょっとそこは雑談なのに結構難しい話でした。あれなんですけど。
でも結構そこ大事で、僕らって普通に生きてると、今、兄貴の周りに何かあるもの一つ教えて。
じゃあマイクでいいか。マイク。 マイク、そうだね。目の前のマイクがあって、
そのマイクっていうものを僕らが見て、そこにマイクがあるって思っているっていう世界観できてるじゃない、基本的には。
でもそうすると、世の中っていうマイクと自分っていうのはある種別個のものとして分離しちゃう。
それはそうなんだけどっていう話なんだけど、なんていうのかな。思っていると、このマイクを正しく見るとは、みたいなことを考えだしたときに、実はめちゃくちゃ難しくなるのね。
はいはいはい。 今、例えば兄貴からマイクの前半分は見えてると思うけど、後ろ半分は見えてないわけじゃない。
後ろ側が見えない中で、なぜそのマイクはちゃんと成り立つマイクだっていうふうに確信できているのだろうかみたいな。
うんうんうんうん。 全然伝わってなさそう。どうだろう。
伝わってないなあ。 伝わってないか。
ラジオやる前の哲学のつまんなさみたいなところが感じてるよ、今。
06:01
へえ〜。そうか。なるほどね。
あとさっき、一旦どこからがスタートかわからないけれども、デカルトカントで理性と感性が分かれてしまったみたいな話があったけれども、そこってどの人ぐらいからなのかな?デカルトぐらいから。
そうだね。目薬にはデカルトかな?西洋で言うと。
そうなんだ。今回、今の、あ、ごめんね。話がマイクの途中では申し訳ないけど。
いいよいいよ。
今回デカルトカントだと思ったのが、むしろ自分は逆のことを思ったんだよね。
はいはい。
人間の認識っていうものに対して、感性と理性に分けたっていうのはその通りで、その2つから成り立ってるよねとは言ってるんだけれども、別にそれと人間の認識っていうものを構成する要素を2つ並べただけで、理性と感性を分けて考えるなんて一言も言ってないんじゃないかなみたいなところ。
あーなるほどね。
今回すごく思っていて、途中でその感性のない理性、感性のない個性っていうものはあり得ないみたいな話あったよね。存在しない。
はいはいはい。あったあった。
レゴブロックが存在しない世界で、そのブロックをつぶやいて何かを作ることはできないみたいな話あったと思うんだけど、それって結構その、それはその通りだと思ったんだけれども、
後から考えた時に、あり得ないっていうのは、そもそも感性を経由しない理性、個性っていうものはそもそも存在しないんじゃないかって思って。
あり得ないじゃなくて、存在しない。
あーなるほどね。
そういう風な考え方をしている。感性もないのに、個性で物を考えている人って良くないよねとか、そういうものが悪しき刑事状況だよねみたいな、その雰囲気を捉え、聞こえたなとは思ったんだけれども、後から考え直した時に、そもそもそれって存在しないじゃんみたいなところがあって。
へー。
だからそういった意味で、感性と個性っていうものは一体のもの?分かれるんじゃなくて、やっぱり人間の認識がその2つで形成されているよって言われるだけあって、やっぱり2つで1つなんだよっていうのはすごい思ったから、さっきデカイト・カントの後、その理性と感性みたいなのが分かれていくみたいな。
みたいな。物がまた一周回って再統合されてるよみたいな、見直されてるよみたいな物って、覚えてる?そういう流れが分かんないくらい的なこと言ってるのかもしれないんだけど、うちのカントから逆にそこの一体性みたいなものと、あとなんかほら、あわせて刑事状況を乗り越えるだけか。
カントって刑事上学と刑事化、刑事上学以外のものがあると思うんだけど、認識できるものだよね、概念じゃないものを捉えるものってあると思うんだけど、その垣根すら取り除いたんじゃないかなって個人的には感じて。
09:13
刑事上学と刑事化、刑事上と刑事化ってものを分けることそもそもがおかしくて、だからそんなイデアも存在しないよと。刑事上と刑事化も相対的なもので常に変動し得るよみたいな、そういう感覚をね、後からカントの話を反省する中で、個人的にはそこが面白いなって思った。
なるほどね。
っていうのがあるから、さっきの一旦離れてしまった理性と感性がまた入ってこないのかもなと思った。
それは今あるかもね。カントの話だけからは、今兄貴が言ったことは出てこないんだけど、兄貴が一人の生きる人間としてとか、人間の認識ってそんなに分割できるかもしれないけど、でも一つのものだよねみたいに思っている兄貴がカントを知った時にそこが深まったみたいな、そういう体験としては理解できるなと思った。
なぜかっていうと、デカルトカントは明確に理性の方を上に置いてるんだよね。
そこは僕があんまりちゃんとそこを入れ込めてなかったなって確かに思ったんだけど。
なるほど、そっか。だとすると納得的はそういうことか。
そう、だし、やっぱり「誤性」と「慣性」は完全に別物として独立して存在し得ると。それぞれ別のもので、かつ理性とか誤性の方が上であるっていうのが大前提にあって。
それを突き詰めていくと、世界のすべてがある種、理解できるとか認識できるみたいな、結構そういう前提やっぱりあるっちゃあるんだよね。
そっかそっか。かなり理性に対する信仰みたいなものが生まれ始めてるところなんだね。
これだけそもそも論みたいなものを展開したカントですら、やっぱりその理性っていうものをちゃんとしていくことが大事なんだ、みたいな自分の意思みたいな、理念みたいなものがあるんだ。
確かにね。あるし、だからもしかしたら僕が今聞いてて思ったのは、僕自身がそこをマイルドにしてしまったかもなっていう、僕自身のフィルターを通すことだよね。
っていうのはちょっと今反省というか、振り返りたいなと思った。
そうか。聞いた人によって違うかもしれないけども、個人的にはカントってもっとフラットだと思って聞いてたから。
なるほどね。そこは多分カント自体の、やっぱりもっと理性的なというか、むしろ線を引く。境界をバシッと引いて、ここから先は理性で考えられるけどここから先は考えられません、みたいなことをやった人だっていう風に言われている。
12:25
だからそこをね、もしかしたら少しマイルドに言ってしまったかもっていうのがあるんですけども、それはそれで今気づけてよかったなって今思ってます。
うんうんうん。そうか、そうだね。それぞれの哲学者のポジショニングみたいなものって、最初は近代哲学者では聞いたけれども、多分それを忘れてるだけかもしれないけど。
やっぱりこう、歴史の授業とかでも習うかもしれないけれども、結構近代って理性っていうのがどんどん神にある種置き換わっていって、理性に突き仕上がるのがいいことだとかある啓蒙主義みたいな感じで、理性的でない存在は野蛮であるみたいな。
で、その宗教戦争に変わって、理性とかそういったものを広げるためのある種なんだ。植民地政策とか、未開の土地を先進国が排斥するみたいな意図のもとにやっぱりそういうことが行われてしまったっていう歴史的な事実があるから。
自分たちと同じステージまで持ってきてやるよみたいなね、ちょっと上から目線っていうものが。
やっぱりそこを、どうなのか、それが本当に西洋経済哲学の悪しき面だとかって言い切れるかどうかは別としても、やっぱりそういう思想の流れとか、そういう物事の見方があったっていうのは結構思っていた方がいいんじゃないかなとは思うんだよね。
なるほどね。そこが理解がしてなかったし、天秤とかシリソーでいうと、やっぱり暗黒時代っていう、ある意味暗い時代、理性とはかけ離れた時代があって。
神様が主体というか、前天神時代だね。 今の話聞くまでは、啓蒙時代の主義みたいなものがあった時に、暗黒時代から天秤とかシリソーが均衡したみたいな感覚だったと思うんだよ、自分が。
今思った。だから多分、ちゃんと暗黒時代のカウンターとして、きちんと理性とかそういったものを逆にちゃんと振り切って、そっちじゃん、ガタンって逆側に振り切って、その結果さっき早田さんが言った、戦争、大植民地、いろんなものが環境問題とか色々あって、
振り切ったことの反省として、今そのバランスってどこが最低機会なんだろうね、って探ってるのが現代みたいな感じ。乗り換えでなんとなく大きな流れは大丈夫?
15:11
そうだね、大丈夫、大丈夫。それこそ近代はやっぱり理性的だって言いながら魔女狩りだったりとか、王族の処刑とか、色んなことは起きているわけだし、それを乗り越えて現代がどうバランスさせるかっていうよりは、どうバランスを取り続けるか、固定しちゃうと脆くなっちゃうというか、
ヤジロベイとかもそうじゃん、ずっと立ってたら、止まっちゃったら良くないから、ずっと左右に揺れ続ける時に、どこまでが揺れていいんだっけみたいなことを考えるような世の中になってきているのかなとは思う。
なるほど、天秤とかシーソンが揺れ動いたところの、始めは人達としてのデカレトとかカント、そういったものはあれか、今回改めてそこの先は見てたけれども、その起点みたいなところ、時代の動き始めみたいなところを改めて、今回カント、デカレトで見てきたなーみたいな、そういった感じだったのかな。
そうだね、冒頭にもお伝えした通り、デカレトとカントでも100年くらい差があるので、流れというか点を飛び飛びで掴みながらっていう感じではあるんだけど、やっぱりそういう発想とか、やっぱりカントはすごかったじゃん、話聞いてもなんとなく伝わったと思うんだけど、
問いの立て方とか、ためにどういう風に思考したかみたいなのってやっぱりすごかったと思うんだよね。このすごさを知る人はぜひ、カントの第2回目かな、前編後編ってあるのでよかったら聞いてほしいんですけれども、
今回ちょっと僕自身も意識してやらせていただいたのは、まずカントの問いをちゃんと理解できるようにちょっと上っていって、その問いっていうのを抑えた上で、その答え方をちゃんと辿っていくみたいなことを意識してお伝えしてきたつもりではあるんだけど、
やっぱり前にも言った通り、哲学って問いをちゃんと掴むとか、その問いを頭だけじゃなくて、身体的にというか本当の意味で理解するみたいなことは結構大事なんだよね。
だからお伝えしたように、カントの問いっていうのはアプリ折りや統合判断とは何かを明らかにすることです、みたいに言っても、それは全然問いを理解したことにはならなくて、
なぜそういうアプリ折りで経験、そもそも経験によらない知識ってなんだっていうことを自分がちゃんとわかってないとカントが問おうとしたことにやっぱりたどり着けないし。
まあだね、だし、生地そういった言葉をわかってると思っちゃってるから難しいんだよねっていうのも、そういうアンラーニング的な話も。
18:06
これってさ、実はソクラテスとかプラトンの時にやったことと同じで、そのアンラーニングっていう言葉って本当の意味でわかってます?みたいなことも問えるわけだし、
とか、経験によらないっていう経験ってあなたは何のことだと思ってます?っても問えるわけだよね。
僕は経験って何ですかって聞かれて、すっと答えられる人って正直そんなにいないと思ってて、僕も難しいと思うし。そういうのが経験論っていうもので脈々と受け継がれているから、だからこそそれを観念論と統合したカントすげえってやっぱ思うし。
(岡田)はいはいはい。それをもう300年くらい前にやっちゃってるってことだもんね。 (山本)そうそうそうそう。だから逆に言うとカントから300年経って、僕らの思考とか、物事を認識する力ってどんだけ強くなってるんだとか深まってるんだろうとかっていうのもやっぱ思っちゃうよね。
(岡田)そういった意味ではそうだよね。カントが直面した時代と似てる気はするけどね。ある意味ね。似てるというか常にどの時代でもあるんだろうけれども、カントが問題としてさ、アシキ・ケイジ・ジョン学みたいなものって、
(岡田)この時代で言うと、どっちかというとこの時代理性っていうものに焦点が当たる前の理性と対応する形での感性だったりとか、もしくは経験みたいなもの。本人たちが経験だと思い込んでるというか、
(岡田)自分で考えたりとか、自分で思っていると思い込んでいること。そういったものは良くないよねって話をしてるんだなと思っていて。このアシキ・ケイジ・ジョン学、多分自分たちもそうなんだけれども、
(岡田)自分たちが本当に自分の頭で考えたことと、常識だったりとか社会のルールだったりとか、そういったもので思わされていること。価値観に相当するもの。っていうものがごちゃ混ぜに存在していて、本人とか本人たちがそれに無自覚な状態であること。
(岡田)なのかなってすごい思って。じゃあそういった人たちにそれを納得させる?気づかせる?確かに自分たちってそこ混ざっちゃってるかもって思わせるのって、すごく信頼の技だと思うんだよね。
(ヤンヤン)だからこそカントはそういった問題意識を持った時に、たぶんソクラテスがやったような問答法、これじゃダメだと思ったはずなんだよね。っていうのも思って。
(ヤンヤン)例えばあなたたちは違うんですよっていうことを論破しただけだと、相手もなんで論破されたかも自覚できないし、なんか違うかもしれないしそうかもしれない。ただなんか自分の考えが否定されてるって思っちゃって。
(ヤンヤン)だからなんでカントが殺されなかったかみたいな話で。そこはすごい面白いなと思って。カントが取った作戦としてのアプリロイナ総合判断っていう作戦って、その問題点を解決するためにどうしても必要な手段だったんだなっていう意味でも納得感はすごくあって。
21:20
(ヤンヤン)なるほどね。 (ヤンヤン)問答法もね、たぶんそんな単純なものじゃないとは思うんだけども、なんか面白いなと思って。ソクラテスの問答法とアプリロイナ総合判断の対比みたいなものは個人的にはすごく面白くて。
(ヤンヤン)確かにね。それはいいかもね。 (ヤンヤン)カントが何を相手に証明するかっていう時に、ただただ否定していくんじゃなくて、よくTwitterとかSNSでもそうだけど、その情報のソースって何?みたいな話ってあるじゃん。
(ヤンヤン)ちゃんと一時情報を渡りましたか?だったりとか、あそこの雑誌に書いてた、あの新聞が書いてたとか、いろいろあると思うんだけども、カントがこうやったのって、そういう悪しき検証学と思われる人たちに、あなたの思考だったりとか、あなたの理性、個性が捉えているそのもののソースって何ですか?っていうのをひたすら聞いていく。
(ヤンヤン)適当になんでなんでじゃなくて、例えば友達とかだとすると、あなたは友達ってそういう風に捉えている。個性で捉えていますよね。それって何でですか?
(ヤンヤン)それはどういった感性を捉えているんですか?っていうのをひたすら聞いていくと、それってその人たち自身の考えを否定しているんじゃなくて、その人たち自身もどこかで、あれ確かにこれって辞書に書いているだけのことかも、とか、
(ヤンヤン)確かにこれって俺一人とか周りの見えている背の経験に基づく友達像かも、みたいなことに気づく瞬間が、多分どこかでやってくるんだよね。それを繰り返すと。
(ヤンヤン)そうした時に初めて証明したかったとか、ある意味論破というか、気づかせたかった相手が自分で気づくタイミングっていうのがやってくるんじゃないかなって、このカントのやり方は。そこがすごいなと思った。
(深井)なるほどね。それはめちゃくちゃ面白いし、いい観点だなと思って聞いてて。確かに、なんでって聞くときはなんでが、結構その、howより、だからすれば適切な手続きっていうのはちゃんと踏んでますかっていうのを確認し続けることで、
ここで手続き間違えたよねとか、ここで認識の仕方間違えてるよねっていうことで、相手を悪し、じゃあもう一回正しい認識にしようよみたいなことを、確かにカントはやってるなと思っていて。
24:00
(ヤンヤン)そうして初めてさ、仕事で言うじゃん、仕事を憎んで人を憎まずって言うでしょ。ソクラテスの場合は人を憎んじゃってるように相手が錯覚するんだよ。本人はどうあれ。
カントの場合はちゃんと人格否定はせずに、その仕事だけ、その人の思考だったりとか、思考プロセス、認識に焦点を当てて、そこに対してお互いちゃんとその、いい悪い判断抜きにしてどういう認識してるのっていうのをやっていくっていうプロセスになってるんじゃないかなってすごいね。
(ヤンヤン)だからそこができたのは、感性と個性を分けたからこそ、ちゃんと人格と仕事そのものを分けて、その人の思想だったりとか理解みたいなものと、その捉えてるそのもの自体というか、そこをちゃんと分けて、冷静にお互いがちゃんと対話をする。
(ヤンヤン)一方的な論破じゃなくて、喧嘩じゃなくて。そここそがカントがやったそもそも論の凄さだったりとか、多分カントが持った問題点ならではの解決方法だし、それなくてはやっぱり解決はできなくて、殺されたら単に喧嘩して殺されたんじゃないかなみたいな。
(岡田)はいはい、そっかそっか。でもめっちゃ面白いし、すごい素敵な受け取り方だなと思って。だからたまにきん中でカントはバランスがいいみたいなイメージがついたんだろうね。
(ヤンヤン)そうそう、すごく物分かりのいい上司。物分かりのいいっていうと、上からだな、上司に対して。
(岡田)ちゃんとね。 (ヤンヤン)だから、頭をわしに否定するでもなく、別に放置するでもなく、ちゃんと「お前が悪いんじゃないけど、間違っていることがあるから、それを一緒に辿っていこうよ」みたいな、そんなイメージだよね。
(岡田)だからバランスを取れた、ちゃんと導いてくれる存在的なね、そういう感じを持っちゃったんだけど。
(ヤンヤン)確かにな、でもそれはすごいあるかもしれない。やっぱりすごい丁寧だし、この3批判書も難しいんだけど、別にすごい難解なことというか、困らせろみたいな感じのことは一切なく、ちゃんと書いているみたいなのがあるだろうし。
(岡田)そうだね。あとはね、今後の話でいくと、兄貴が言ってくれた通り、例えば存在するとか認識するってどういうことみたいな、方法論的なことをカウントとかデファレトンを含めて書いていくんだけれども、後の時代にハイデザワーっていう哲学者がいて、彼も取り上げるんだけど、面白いのは、そもそも存在するっていう時の存在とは何か。
(岡田)What is 存在っていうのを誰も問うてこなかったみたいなことを、彼は問題点として置いたりするのね。
27:00
(ヤンヤン)あー、なるほど。確かにプラトンのイデアでも、検証会でも、このカントの「もの自体」っていうところでも、まだ解決されてないんだ、そこは。
(深井)そう、「もの自体」が存在するとか、「前のイデアがある」っていった時の「ある」とか「存在する」って、そもそもどういうことみたいな問題は、むしろそれは問題だと捉えて答えようとしたのがハイデザワーの操作なんだけど。
(ヤンヤン)はー、そっか、そこまだ未解決問題だったんだ。
(深井)実は。そう、っていう風に哲学、中にも未解決の問題とか、まだ問題を捉えられてなかった領域があったりして、それをいろんな、やっぱりやってる人は歴史に長残るし、
あとは、普通にすごい人でも、同じ問題を別の角度から解くっていうのはすごいんだけど、やっぱりそこは哲学者の質というか、どういう哲学者かっていうので結構分類されるところだね。
(ヤンヤン)はいはい、そっかそっか、問い作った人とそれをちゃんと解いた人といろいろあるってことだね。
(深井)そうそうそう。問いの回答の質を上げた人もいれば、新たな問い次第を作る人もいて、そういうのも分かってくると哲学全体がもっと面白くなるというか、彩りが豊かになっていくから。
(ヤンヤン)確かにそうだよね。今回もカントワー系、リカルトカントワー系を聞くと、そういうバランス感覚みたいなものを勝手に自分に都合のいいように捉えちゃったりとか、
(ヤンヤン)今もね、本用なわけじゃないしね、借りられた時間のラジオだしね。間違った理解も、まあ、しゃあないというかね。
(深井)うん、まあそうだね。僕としてはね、あくまでもそれでラジオはエンタメだし、自分の生活が豊かになればいい。
(深井)もしそれができるようになったら、もう本当に最高だと思っているんだけど、やっぱりどこかのタイミングで行きづらな時があるんだよね。やっぱり自分に必要なものだけインプットしていると、
(深井)まさにさっき言ったアンラーみたいな、これまでの自分に乗り越えられない環境にぶち当たった時に、やっぱり折れちゃうから。
(岡田)確かにな。今回、関東で行ったもんね、分析判断しちゃって自分に乗り越えられないみたいな話に近いかも。
(深井)そうそうそうそう。やっぱり統合判断的に、物事を広げていくとか、自分というものを広げていくってなると、たぶんそれこそ生き方とか日々の過ごし方から変わっていくと思うし、
(深井)そうやって言っちゃうと、ちょっと自己啓発っぽいんだけど、あんまり軽く言っちゃうと。
(岡田)確かに面白いよ。関東がコペルニクス的見解みたいに言ったように、そういう気づきが自分の中で得られる瞬間って、人生に何回かあるはずだし。
(深井)うんうん。まさに哲学者っていうのは、そういうのを人生かけてやってきた人たちだから、なんか見るけどつまらないわけがない。面白くないわけがないし。
30:06
(岡田)最初「ごめんね、つまらない」って言って。
(深井)でも、ずっと面白いと思ってきたりする。なんかありの気も。
(岡田)そうだね。もちろんね、元々「つまらない」否定してたわけじゃないし、ただこうやって教えてもらわないと分からない難解さはあるなっていうのはね、聞けば聞くほどさらに思うし。
(深井)まあそうだよね。その意味でラジオだったりとか、僕らのこういった話が届いてたらいいなとは思うんですけど、
(岡田)そうそう、その意味で言うとさ、またお便りをいただいてたじゃないですか。
(深井)そう、ありがたいよね、本当。
(岡田)ね、本当にありがたくて。本当にあれ紹介してる分しか届いてないので、逆に言うと「あ、そのぐらいですね」って皆さんは思ってくださるかもしれないですけど、
ちょっとだけね、せっかくなんで紹介させていただくと、お一人からはですね、「Spotifyで見つけて聞いております」「楽しく聞いております」ということでいただいておりまして、
(岡田)ありがとうございます。本当に見つけてもらって。
(深井)Spotifyだっていくらでもあるじゃないですか、たぶん今こうやってPodcastとか、そんな中で我々のラジオを聞いていただいてる、しかも楽しんでいただいてるっていうのはね、めっちゃ嬉しいですね。
あとですね、もう一名いただいておりまして、結構長くいただいたのでちょっとかいつまんでなんですけど、いきなり冒頭からですね、「感想と感謝等を伝えたく思いました」ということでご連絡いただいて、
いやもうなんか嬉しいじゃないですか、感謝を伝えたいみたいな。こちらがありがとうですよって、本当思うんですけど。
料理を作りながら聞いていただいているようなんですけど、たまに哲学とか好きな方で、哲学ってわざと検索してみたりしてたんだけれども、この番組を検索して見つけて嬉しく思いましたと。
今ですね、22回ぐらいのブッダの雑談会を聞き終わったところで、その時兄貴も覚えてるかな、その人の哲学とその人を掛け合わせると、やっぱりいろんな発想があったりとか、それこそ兄貴みたいに兄貴と感とが組み合わさるとバランスが出てくるよねみたいな話だと思うんですけど。
あったね。具体的なものとその哲学という抽象的なものは組み合わさることで、面白いことがあるよねみたいな話をしたような気がする。
そうそうそうそう。それを本当に聞いてくださって、救われたような思いになってメッセージを送りましたって言ってくださってるんですよ、この方は。結構自分の苦しみ、理想を追い求めたみたいなところがあったんだけれども、
そういう仏教的な考え方とかを掛け合わせた時に、理想は理想で追い求めると苦しいよね、それは苦しいわな、みたいなのを納得して落ち着きました、みたいなことを書いてくださってるんですよ。
33:11
で、ある種、宝くじがある日突然買ってもらえないのに、もらえて当たるような発見があると信じていたぐらいだな、みたいなことを感じたらしくて、それは宝くじで言ったら当たらないじゃないですか。
でも確かに理想とか追い求めてたらいつかは叶うかもみたいなのが出た時に、そこがちょっとリンクされたみたいで、すっきりしましたと。
しかもこの例は面白くて、宝くじが自分買ってないのにもらえて、しかも当たるようなっていう、めちゃくちゃ例が確率が低いなっていう、その例は面白かったですよね。
面白いよね。
みたいなところで、この番組をPodcastという形で配信してくださってありがとうございますというようなメッセージをいただいておりました。
本当にありがたいね。私、この方は哲学とかお好きな方だと思うんだけど、最後は本来のイデアロンとは脱線しているけれども、二人の話、こういう雑談が面白いみたいなことを言っていただいてて。
ある意味、ガチの哲学の話じゃなくて、こういうゆるい脱線しちゃった、本来の哲学的な言葉の定理からするとずれていても、楽しく話していることが、ある意味哲学の使い方の一つでもあるというかね。
それこそ楽しみ方の一つ。本来のプラトンの話のこことかじゃなくて、そういうただ楽しんでいる部分をさらに楽しんでもらえたという意味では、すごくありがたいし、嬉しかったなって。
本当にね、その通りで。やっぱりソクラテスだったりプラトンだったり、その人たちをもっと詳しく知ろうと思ったらいっぱいあると思うんですけど、なんとなく大掴みした上で、
自分が生きるのにちょっとでもプラスになればとか、楽になればとかって思いで僕自身も哲学を勉強してきたし、だからそういう意味では哲学の功用じゃないけど、そういう使い方があったらいいんじゃないかなと思ってて。
楽になるんですよね。歴史が長く残って、こんだけ頭の良くてめちゃめちゃ考えてる人でも困ってるんだとか、悩んでるんだみたいに思うことで救われることってあったりするじゃないですか。
僕はあったんだけどね。 自分の前にいろんな経営者、松下浩之介とか井上守さんとか、いろんな人の話を見ても、こんだ祖一郎とか見ても、みんな苦労してるじゃん。どんだけ成功した人も。
そういうストーリーだよね。長残ってる人、何かを成した人のストーリーってやっぱり熱いものがあるしね。そういう感じで哲学も捉えて楽しんでるって感じかな。
36:08
そういう意味で言うと確かに、今僕らがやってるのは、もちろんカントとかデカルトみたいな人に哲学を紹介するっていうのもそうなんだけども、
最初にどういう人で、こんな人生を送ってみたいなところで、その人の電気とは言わないまでも、人となりと哲学的なものを混ぜてお伝えしてるみたいなのが、もしかしたら楽しんでいただけてるのかなと思うし。
これだけそこないとね、思想だけ言われても分かんないからね。本当助かってる、そこは。
そうだよね。本当にありがとうございました。これからも僕らが楽しくやってるんで、引き続きどうぞ続けていきたいなと思っておりますので、ぜひよろしくお願いします。
あと今後の話をちょっとしておくと、もともとデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスっていう流れを追ってもいいかなと思ったんだけど、西洋哲学ちょっと疲れちゃうし、やっぱり西洋哲学だけやってるとちょっと思想が偏っちゃうというか、
西洋っぽさが出すぎるなと思ったんで、ちょっともう一回東洋に飛んでみようかなと思ってます。
おーよかったー。
聞いてる方が疲れちゃうじゃないですか。
東洋に飛んだことを後悔するかもしれないけどね、次回。そこは分かんないけども。
確かに確かに。次回はですね、兄貴も言ってくれていた有意識、無邪気と世心かな、二人の兄弟がそれこそ体制したと言われているんだけれども、実は有意識も世の中に対して自分とか人間ってのはどういう風に捉えるかっていうことを結構突き詰めているものですと。
言っても関東とかから1000年くらい前だったりするから、もちろん時代背景とかね、文化とかも全然違うから、簡単に比較はできないんだけれども、
なんとなくデカルトム・カントの物事の捉え方っていうのを聞いていただいた上で、東洋的な有意識みたいなことを聞いていただくと、そんな発想があるのかみたいな、それは西洋哲学ではこの発想生まれんわみたいなことも感じてもらえるんじゃないかなと思うんで。
いやー楽しみだね。そうだってデカルトム・カントもある意味自分の理性で捉えたものが、感性で捉えたものを理性で感じるんだみたいなさ、ある意味有意識みたいなさ、ちょっと似てるなって実はだけ見ると思っちゃうから。
そういう意識になると、あらやしきという世代を超えたこの世にとらわれない、君中している種の暮らしきがありましてみたいな、そういう話になってくから。それはめっちゃ面白いんで。
39:10
はい、それらも楽しみにしていただければと思っております。 了解です。次回は東洋に移って有意識編というところで、またまたちょっと楽しみにしてますんで、また引き続きよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。また次回もお楽しみにしてください。 はい、ありがとうございました。
♪~
39:37

コメント

スクロール