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今回は、ゲストを呼んでインタビューの対談ということで、堀寛史さんに来てもらいました。よろしくお願いします。
堀寛史さんよろしくお願いいたします。
自分と同じ理学療法士の資格を持っていて、今は大学の教授という立場でいろいろ活動されているんですけど、昨年あたりから交流が深まってきて、
今もいろいろ新しい活動を一緒にし始めているんですけども、それより過去のことで自分もあまり聞いていなかったこともありました。
改めて、過去のことも聞きつつ今後の活動につなげていけたらいいなと思うので、よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
簡単に自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか。
堀寛史と申します。現在、港南女子大学の理学療法学科の教員をしております。
理学療法士の資格を持って、今、理学療法を学生に教えているんですが、
学生の学位が、日本でも珍しいと言いますが、理学療法学でとっているわけではなく、哲学で取得しています。
ですので、研究自体というのはほとんど哲学系のものが多くなってくるんですね。
理学療法の世界で生きていこうと思うと、哲学の論文とかの評価が薄れないということがあって、哲学系のことも結構やってはいるんですが、
メインの執行は完全に哲学という流れ。
ただ、最近、いろいろ考えていくと、哲学というだけではなく、社会学、もしくは心理学の接点の部分にかなり考えが及んでいるような感じの研究者になるんだと思います。
自己紹介となった時に、どうしても研究のところばっかり話になってきますが、ここ一つの機会として、いろいろ質問を受けて話を進めていけたらと思いますので、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。まさにちょうど自分が昨年あたりから結構哲学に興味を持ち出してというのをきっかけに、いろいろ調べる中でコンタクトを取り始めたという感じなので、その辺のお話もできたらと思いますけど、今回は本当に幅広く、
いろいろ聞けたらと思いますし、あらためてちょっとプロフィールを見させてもらうと、あれ、実家が焼き鳥屋さんなんですか?
そうなんです。はい。野球修士でやっております。いまだに父と母が78歳になりますが、現役で店をやってます。
いいですね。いつか行ってみたいですね。
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ぜひぜひ。その焼き鳥というところ、僕のいろいろな思考の起点とかになるということもあると思いますけれども、実際にその実家が、要は飲食業をやってて、夜の生活なわけですよね。
だからいわゆる一般的なサラリーマン家庭と違って、朝起きると親が寝てて、夜僕らが寝るまで親が働いてるというような生活なわけですし、
福岡県ってちょっと特殊な地域で、日本で一番人口あたりの焼き鳥屋の数が多いらしいですね。
焼き鳥といった場合に、通常は鶏肉を食べるというイメージがあると思うんですけど、福岡の焼き鳥って全部串焼きになるんですね。
だから豚も牛も食べますし、ましてやそのうちの実家はどちらかというと日本料理をいろいろ全部出すので、すぐやりますし、刺身もやりますし、何でもやるんですよ。
ベースは焼き鳥という串焼きになりますけれども、例えば牛タンとかの串も出ますし、野菜の串も出しますし、福岡にある一部流派があって、いわゆる高級焼き鳥屋路線というのがあるわけですね。
なのでだいたいうちの実家の口コミとかを見ると、高いって書かれてあるんですよね。
例えば一つ例を取ると、いわゆる牛タンの串一本取ったら、ちょっと最近の値段また値上げしてると思うんですけど、ちょっと前でも一本800円ぐらいの串になるんですよ。
そういう流れから、僕自身が食べ物に対して要はある種延載教育をずっと受けてきてたってことになるんですね。
要は音楽家の家で訪れが許されないような。
なので僕の幼少期の一番、人間関係が崩れるきっかけになったのは、給食食べれなかったんですよ。
給食がまずくてしょうがないっていう。
これはすごい好き嫌いが多い子供というふうに学校の先生は捉えるんだけれども、僕からすると食べれないんですよ。
だからこれ好き嫌いとかっていうんじゃなくて、食べれないからどうしようもないっていうところが、大人と子供の世界の接点と言いますか、
どうしようも解決ができない問題点があったっていうのが、もしかしたら一つの僕の哲学的な問いのきっかけになったりします。
なるほどですね。結構意外と広がる話でしたね。
そうなんです。ある種特異はどんなところからでも広げていきます。
なるほどですね。
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学校の給食の話もありましたけども、やっぱり哲学の分野に行くっていうのも、もともと子供時代の思考の癖というか考え方とかもあったと思うんですけど、
子供時代は自分の認識としてはどういう子供だったなみたいなのは何かあるんですかね。
親によく言われてたのが、私ある一休さんってアニメがあったんですね。
一休さんの中で、一休さんってのはどんな人でも論破して打ちまかしていくんですけど、
一休さん唯一打ちまかせない人がいるんですね。
それがどっち手坊やっていう子で、5歳か6歳の子供なんですけど、すべての問いにどうしてで返す子がいるんですよ。
だから一休さんも説明できなくなって、どっち手坊やが苦手っていう子がいて、僕は家ではどっち手坊やと呼ばれてました。
なんでなんでどうしてとか。
そうです。すべて理由を聞こうとするので。
あともう一つ思考の特徴としては、この前も父親に言われて笑ったんですけど、
小学校に入る前から親が足し算とか引き算とか掛け算とか割り算とか教えてくれてて、
引き算と割り算をどうしてもやろうとしないらしいんですよね。
なんかすごいこいつ思考に癖があるなと思ったら、得るのが嫌だって答えたらいいんですね。
だからそういうある種の理由を持って行動をやらないっていうのが、幼稚園ぐらいから特徴的にあったというような感じらしいです。
なるほどですね。
いろいろなんでなんでとか聞くのは、家だけじゃなくて、小学校とか行ったら学校の先生とかに対してもそういう聞き方をよくしてたって感じですか。
そうですね。幼稚園の頃っていうのはあまり記憶がないんですけども、小学校の時にはやっぱり先生の方にいろいろ質問をしてたような記憶はあります。
少なくとも4年生5年生ぐらいになってくると、授業妨害をする悪い生徒というふうなレッテルを離れました。
全部質問しちゃうから授業が進まないっていうので、相当にその当時の担任に嫌われたっていうのが増えてます。
なるほどですね。特にどういうとこに引っかかって質問したとかなんかあるんですかね、記憶。
理科系、社会系あとで音楽のところでよく質問をしてたんですね。
特に音楽って歴史が入ってくるので、なんでこんな音楽が当時流行ったんだみたいな話を聞くわけですよ。
先生知らないんですよ。
確かに。音楽自体って言ったら音楽史とかそういうジャンル。
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理科とかも、例えば今思い出すのが世の中に酸素っていうのが必要かどうかみたいな議論、説明になった時に先生にいろいろ食ってかかっていって、
酸素ということがよくわかってはいないが、なんで本当に酸素が必要なのかっていうのをうまく説明しきらなかったわけですね、先生が。
それで授業一つ潰してそこで議論してしまって、っていうのはあったと思います。
結局後でその百科事典で酸素を調べてなんとなくわかったんですけど、
先生がはっきりと答えてくれなかったことをずっとかかっていったっていうのはありましたね。
それも地球の歴史とか宇宙の成り立ちから話し始めないといけないかもしれないですね。
そういうふうな説明をしてくれるのであれば僕は相当満足したと思うんですよね。
だけども、呼吸するのに大切だ、くらいの感じで終わったんですよ。
なるほど。
難しいところですね。
そこからまたつながって中学校、高校とかになると、そういう学び方とか考え方変わっていったとか、そういうのはあるんですかね。
中学校に入って一番落ち着いた、あるいは真逆に焦らされたのが、成績に順位が出るようになったことですよね。
それまで小学校は単に僕はダメな子だと思われてたし、ダメな子だろうと扱われてたわけですよね。
だからその成績というものがよくわからないし、テストの点数は小学校の頃に良かったはずなのに、
いわゆる通期評価がめちゃくちゃ悪いんですよ。
だからいわゆる三段階評価の二重丸、丸、三角だったと思うんですけど、二重丸がつかないんですよね。
だから自分はすごい成績が悪い人間だと思ってたんだけども、中学に入った途端にテストですごいトップの方に入っていくわけですよ。
そこにあれっていう感覚が出てきたというのが、まず自分の中の認識が大人によって変えられてたっていうのを知る重要なきっかけがそこにあったということですね。
なるほどですね。小学校だと学校の先生からの訂正的な評価みたいなところが多いかもしれないですけど、
中学になって定量的なテストに答えられるかどうかって見ると高くて、そこのギャップが実際に出てきて、
そういうそこで成績よく出たっていうのは、結構認識としてはこういう考えでもいいんだっていうのを自分で捉えたっていう感じですかね。
そうですね。要は自分が答えて定数が取ったものが人と比べたら長かったっていうのを、明確に理解できた瞬間だったんですよね。
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なるほどですね。
そんなにものすごい勉強したわけでもないのに、あれ、なんかいけるじゃんっていう感覚を持ってたのは、それが後々に悪い方につながるんですけど、人生ってイージーモードだと感じたんですよね。
ただその頃に、社会の先生がすごい面白かったんですよ。
で、その社会化というのがもともと好きではあったんですけども、やっぱり興味を持ったというのと、
小学校5年生ぐらいの時に横山三輝の三国志を読んで、すごい歴史に興味を持ち始めたんですね。
で、あともう一個、宇田沢直樹と葛飾北施という人が書いたマスター・キートンという漫画があって、
これは考古学者と保健の調査員が、キートンという人が活躍するすごい面白い漫画なんですけど、
ここで自分の歴史観だとかっていうのに、ものすごく学ぶことの重要性というのをその頃にほのかに気づき始めたっていうところが強くあります。
なるほどですね。
学校の授業は、テストとかはある程度点数が取れたりして、一方で音楽史みたいなところに興味があったりとか、
いろんなものの成り立ちみたいに興味があったりすると、そこは多分テストとかには反映されない部分だと思いますけど、
そういうところも引き続き興味はずっとあって、自分で個人的に探求してたみたいな感じなんですかね。
そうなんです。小学校の頃に本を読むっていう経験がほとんどなかったんですね。
だけれども、やっぱり物事を知ろうと思った時に、本を読まなければいけないというある種の固定概念がどこかに降りてきて、
そこから自分で努力して文字を読むということを続けて、当時は星真一をバーッと読んでたんですよ。
短いのね。
そこから少しずつ少しずつ本を読めるようになってくると、知識というものの増える感覚と、あとは探求することができるという
自己認識というのが生まれたのが中学校1年の頃なんですね。
なるほどですね。
あとラグビーやられてたと思うんですけど、それは高校からですか、中学からですか。
より正確に言うと、小学校の頃に週1でクラブチームに嫌々ながら行ってたっていうのがあるんですよ。
ただそれって行ったり行かなかったりなので、僕自体のラグビーの感覚としてはやってないぐらいやってない感覚なんですね。
兄がラグビーをやってて、親もラグビーが好きなわけですよ。
そしたら高校にラグビー部があるから入れと。
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なんか拒否権がないような感じで、僕はやりたくなかったんですよ、本当は。
僕は当時格闘技が好きだったので、柔道とか空手とかはやりたかったんですね。
だけども、ラグビーやりなさいということで、ラグビー部に入り、そこでラグビーにハマってしまうっていう。
親御さんも好きで、北九州だとラグビーって有名だと思いますけど、流れの中で、周りでもラグビーやる方は多いんですか?
その時代は、入院が一学年15人とか20人とか集まる時代だったので、比較的学校の中でもラグビーをやるっていう人が多かった時代なんですよね。
だから一つの都道府県でも、結構トーナメントが長く続くような時代でした。
今はいきなり県大会みたいな時代になってきてますけど。
ちょっとまた話ずれるかもしれないですけど、親御さんがそういう焼き鳥屋とかやってたりすると、
例えばラグビーで試合があるとかっていうと、見に来たりはされるんですか?
うちの親父は本当に小本能な親父で、兄の試合も僕の試合もほぼ見に来てるんじゃないですか。
100%に近いぐらい、練習試合も全部見に来てた。
本当に小本能な父親ですよね。
朝は寝てるけど、みたいな。
あとゴルフがものすごい好きなんですね。
ゴルフをしているか、仕事をしているか、子供のラグビーを見に来てるかっていう、
パターンが3パターンぐらいしかない親なんですね。
本当に父親の思考影響が相当受けてると思います。
お父さんも本とかよく読まれる方なんですか?
当時、小さい頃から親父と母親の寝室の壁一面がずっと本で埋まってて、
百貨辞典だとか、
親父が併されたのか、誰かに買ってもらったからわかりませんけど、
ブルタニカイみたいな百貨辞典だとか、昭和大正明治の名作集みたいなのがぶわーっと置いてあったんですよ。
本が読めるようになってからは、それを僕が勝手に読んでたとか、三島由紀夫とかですね。
そういったのを勝手に読み始めたっていうのは、そこにものがあったからなんですよね。
ちょっと飛ぶかもしれないですけど、理学療法の学びに進んでいくと思うんですけど、
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そこに興味を持ち出したきっかけとかはいつ頃とか。
とてもいい質問です。
高校の時にラグビーをやってて、
先ほど中学校の時に成績が良かったっていう話をしたと思うんですけど、
その時にちょっと勉強したらすぐ点数が取れるっていう、要はインビモードだと思って、
高校の受験勉強も、3月に受験があるのに10月まで勉強しなかったんですね。
10月から、さすがに親が見かねて塾に行けと言って、
塾に行って、それで地域の一番良い高校に通ったんですね。
そして本当に運次いじゃんと思いながら、実際に高校に入って400人定員だったんですけど、
400人定員の一番最初の試験で350番だったんですよ。
これもう人生終わったと思って。
そこで勉強するのをさらに諦めてしまって。
諦める方向にいたって。
そうです。もう完全に、僕は数学が全くできなかったんですよ。
で、福岡県の高校入試ってちょっと独特で、1教科60点の300点得点なんですね。
今ちょっと分かんないんですけど、300点得点で、
僕が行った高校が大体265から270点、だから9割ぐらい取らなきゃいけなかったんですね。
で、その9割取らなきゃいけないのに、僕その試験で数学60点中の40点しか取れてないんですよ。
だからそれ以外は満点近いのに、数学だけが全部落としてるっていう状態にしてたんだよね。
だから高校に入って数学が難しくなったら、もう沈分寒風なわけですよ。
で、もうここで勉強するのに、もう完全にドロップアウトしてしまって、
で、そのまま3年生に上がり、で、親になった頃にお前将来どうするのかって言われた時に、
もう道がないわけですよ。
なんかどっかの本当に気になることがない指定校の大学に行くか、導入するかだったんですね。
で、3日の割とお客さんにドクターが多かったんですよ。
で、ドクターが多くて、理学療法士という資格があって、すごい給与がいいと。
だからそういうので特にスポーツが好きで、スポーツ関係に仕事しようと思ったらいいんじゃないっていうのを親が聞いたみたいで。
で、実際ちょうどその頃、野間秀夫がドジャースに行って、ものすごく大リーグで活躍してたんですね。
で、大リーグの情報が入ってきて、なんかアメリカの大リーグにはチームにみんな理学療法士っていうのがいると。
なんか理学療法士っていうのは本当にスポーツに関与してるんだっていうのを聞いて、
で、あともう1個近くに開業しているドクターが、うちも理学療法士いるよと。
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で、その理学療法士も当時、特例の50歳とか60近い人だったんですけど、その人に、俺たち1200万払ってるからねって言ったんだよね。
だから理学療法士ってなんだ、イージーな場所があるじゃんっていうのを知って、
で、そこから僕が理学療法士になる頃って、理学療法士って完全に理系受験なんですね。
で、九州一園で唯一文系受験ができるっていうのが熊本県にあって、だからいわゆる理科が2科目いらないってことです。
で、もうそこでいいっつって、そこを受けに行ってそこに通ってっていう感じなんですよ。
なるほどですね。
で、まあちょっとここから、例えばなんかその頃の理学療法士の業界ってどうなんですかって聞いていくと多分、また理学療法士界の深い話になりそうなんで、いつかちょっと置いといてまた別回にしようかなと思うんですけど、
なんかまたちょっと話を派生して、例えばなんか実家都合とかそういうのはなかったんですか。
実際に、そう多分ね、唇もそれはなぜか知らないけど考えたことがないんですよ。
僕は客商売に向かないっていうのが小さいながらにどっかにあったのと、あと兄がいたから兄が次だろうと。
だからポジティブに言うと自分は全然向かない。
ネガティブに言うと、次がしてもらう権利がないだろうというふうにおそらく僕思ってたんだと思います。
だからほぼほぼ考えたことがないんですよ。
今、お兄さんは継がれてるとかそういうのではないですか。
兄は実家のすぐ近くでまた別の料理屋をやってて、弟が実家を父と母と一緒にやってます。
そうなんですね。
じゃあ、兄弟お二人とも飲食系でやられてるんですか。
そうなんです。だから僕だけも完全に違う方向に行ったし、全然その飲食を扱ってないんですよ。
だから未だに例えば将来何か、例えば自分に何かで転職しなきゃいけないってなった時に飲食って考え方もないんですよね。
なるほどですね。面白いですね。
で、熊本の学校で理学療法人にとったっていう感じなんですけど、
学生時代はどういう形で過ごしてたとか。
要は3年生の専門学校なんですけど、要はめちゃくちゃ厳しい学校だったんですよ。
今だったら考えられないんですけども、最終的に40人定員で40人一緒に入って、3年で卒業したの20人なんですね。
で、一つでも単位を落としたら、次の年まるっと全部やり直しなんですね。
だから本当に留年すると地獄っていうね。
24:02
なるほど。
そうなんですよ。
で、その学校に入ってからは、
だけども留年してる人がいっぱいいて、
僕が最初に就職した病院に、僕よりも先に入学した先輩にあたる人が実習に来ましたからね。
僕が最初に就職した病院に、僕よりも先に入学した先輩にあたる人が実習に来ましたからね。
へぇー。
だから本当にその、まあまあまあ3年でうまくやり遂げたことは良かったですけども、やっぱり学び自体が量が多くて、
まあなんかいつも追いかけられてたような感覚はありましたね。
なんでなんでって聞く暇があんまなかった感じですか?
確かにその時に自分自身はどちらかというと、高校を通してその学問だとか自分の知識だとかいろいろなものに対して強いコンプレックスを持ち始めたわけですね。
だから劣等感がある人間はなんでって聞いてはいけないって思ってたというのがあって、ちょっとね鬱屈するんですよ。
高校、日本学校出てみれば結構そういう感じだった。
そうっすね。だから高校時代に自分の知識だとかいろいろなものっていうのを完全に抑圧したんですね。
自分はダメな人間だっていうふうに抑圧して、だから唯一やり切ったのは筋トレとラグビーだけなんですね。
だから延々とトレーニングして延々とラグビーやってて、で、あのなんかこうバカなキャラではないけれども、
ラグビー部ってみんな成績悪いじゃんって扱いなんですよ。ラグビー部と野球部っていうのはみんなバカだっていう高校全体の扱いなんですね。
だからそういう扱いで、実際にその理学療法の学校に行くってなった時に、3年生の専門学校なので、僕だけ進学の実績に乗らなかったんですよ。
へー。 要は学校の羽田って言って。
みんな大学行くのに。 そうです。だから当時、僕らその福岡だから給代が基本的に多いんですけど、
当時80人ぐらいやっぱり給代に行ってたんですね。 そういう人たちは人権があるわけですよ。
だけど、一般私立、もしくはその大学に進学しない人間は、職員室に誰が号を書くとか言われて書き出されてるんですね。
僕が職員室に行くとき、だいたい怒られて呼び出されるんですけど、怒られて呼び出して、僕は決まってても名前がないっていう。
だから本当にダメな役割っていうのがあって、だから理班の学校に行ったとしても、
そんなにこう自分の中で、その勉強ができると、とか優秀なんだ、みたいなっていうのは全く知らさずに淡々と過ごした気がします。
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なんか、九州の高校って結構なんか同窓会が強いっていうか、そんな話も聞いたことがあるんですけど、そんな感じもあるんですか?
なので今もめちゃくちゃ同窓会があってて、僕行くんですけど同窓会好きで、この正月も同窓会が、
僕ら高校48期っていう期なんですけど、48期の同窓会で、さすがに毎年やってると20人ぐらいしか集まりませんけど、
それでもやってますし、あと僕の高校がちょうど卒業して15年ぐらいかな。
そしたら当番期っていうのが回ってきて、その当番期の人で同窓会を運営しなきゃいけないんですね。
その同窓会っていうのが、北九州の小倉の本拠の同窓会と、博多での同窓会、大阪での同窓会、関東での同窓会で、その年に4つ同窓会があるんですよ。
それを回さなきゃいけないんですね。
だから僕も自分の期の時は、手弁当で全国回って同窓会を運営して、
100…違う違う、1000人ぐらい来るんですよ。
当時ちょうど卒業生が有名人が多くて、一番有名だったのが日輪総裁が先輩だったんですね。
有声担当大臣も先輩だったんですよ。
あとNHKの会長、そういう人たちが来る同窓会だったんですよ。
だから運営するのにすごい大変で、
同窓会に行くと仕事が決まるって言われるぐらい、
誘着がすごいところなんですよ。
福岡って、もともと周遊館高校っていうのがあって、そこが一番同窓会が日本一強いって言われてるんですね。
それの影響で、小倉高校っていうのもものすごい同窓会が強いって言われてます。
へー、なるほどですね。
ちょっと話が飛びましたけど、
それで専門学校まで過ごして、無事理学療法士の免許を取得して、
そこからは病院で働いて、学士をまた別で取るっていうのをフィードバックしたんですけど、
そのあたりが結構する時期ですかね。
最初に熊本の熊本機能病院っていう、当時ではすごい革新的なリハーサルの病院だったんですね。
日本で当時、僕が1999年に理学療法士になりましたけども、
その時に有名な病院っていうと、一つはボバース記念病院、
あと地下森っていう高地にある地下森リハか何かっていう病院と、
あと熊本機能病院っていうのが有名で、何が有名だったかっていうと、
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まだ理学療法士が2万人しかいなかった時代に、PTが50人ぐらい所属してた病院だったんですよ。
今だったらザラですけど、昔PTが5人いると、PTがたくさんいる病院って言われてたんですね。
いわゆる総合承認施設をとむためには、PTが5人以上っていうルールがあって、
だから5人いればよかった時代に50人ぐらいいた病院で、
そこが熊本県のスポーツを一点になってた病院だったんですよ。
僕はスポーツをやるためにその病院に入って、スポーツをやろうと思って一生懸命頑張ってたわけですよ。
そしたら、1989年のバブルの影響がひしひしと聞けて、
都道府県の実業団がどんどん辞めていったんですね。
その波に煽られて、スポーツ自体を病院が縮小するって言い始めて、
その縮小の煽りに煽られたんですよ。
あと2002年から2001年に介護保険が始まって、
2001年に回復切れ歯病棟が始まったんですよ。
その熊本県の病院って、とにかくどんなことでも日本で最初にやらないと休まない病院で、
だから回復機も最初に入れたんですよ。
で、回復機が儲かるわけですよ。
そうしたら、スポーツ整形と儲からない分野をどんどんどんどん強いてあげていくんですね。
だから、これはもう自分がスポーツをやってては生きていけないなっていうところが一つあった。
あと、どうしても大卒の資格っていうものを持っておかないと将来的にあんまりよろしくないだろうなっていうのがあって、
放送大学の3年に導入して、仕事しながら放送大学で単位を取ってたんですね。
で、62単位に取らなきゃいけないんですよね。
その62単位を今みたいにネットもなければ、テレビを見るのもそういったセンターとかに行ってやらなきゃいけないし、
テストも全部センターで受けなきゃいけなくて、すごく大変だった時代なんですよ。
ただその時に面接授業っていうのがあって、面接授業っていうのは要は対面の授業ですね。
それを10単位くらい取らなきゃいけないんですよ。
で、その時に当時、僕が後に修士に行く杉本雄二っていう熊本大学の思想実習理学をやってる先生が授業で、
そこから10時間くらい先生の授業を受けたんですね。2日間で。
そしたら僕の考えていた認識を全部ひっくり返されたんです。
要は、例えば僕は中国史だとか歴史が好きなので、人類だとか運命だとか、そういうのをすごく大切に考えてたんですよ、当時。
そんなのは全部幻想ですって言って。
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要は今の精神分析だとか心理学の世界では、そういうのは全部幻想だっていうのも証明されてますし、そういうのは全く必要ありませんみたいなことを言われて。
なんか人生がひっくり返されたんですね、そこで。
で、その先生が授業の最後に、この話の続きを聞きたかったら僕のゼミに来てくださいって言って終わったんですよ。
それをきっかけで僕は初めて大学院というのを意識して、その先生のゼミに入るために熊谷に進学したんですよ。
へー、そういう流れなんですね。
そうなんです。だから、大学院に行きたいから大学院に入るんではなくて、
一つは、修士のときは杉本ゼミに入りたいっていうのとあって、
博士はその修士のときに出会った和志田清和という哲学者の本に出会って、この人のもとで勉強したいっていう、それで半代に来たんですよ。
なるほどですね。
人に憧れるタイプなんですよ。
なるほどですね。
その修士も文学修士っていうんですけど、文学だけどそういう精神とか心理とかのことをやられてた。
そうです。なので正確には熊本大学、大学文学研究科、人間科学科なんですよ。
なので、人間科学科という、ちょうど当時人間科学ってのは少し流行ってた未来もあるんですけども、
哲学、社会学、心理学、美学、人間学、そういったのを全部含んだ研究科で、
僕の担当の先生がその心相心理学の運具をやってて、
ただその先生は実は元々運具研究者じゃなく、ガチガチの東大の哲学科出てる先生で、
その先生も人生がなんかどっかでひっくり返って哲学を捨てた先生で、すごい面白い先生だったんですよ。
そうなんですか。面白いですね。
そのあたりからまたこう、なんか学問とかに結構戻っていったっていうか、興味がどんどん深まって。
そうです。もうまさにその通りで、終始に入ってから初めて、おそらく人生で本当に初めて勉強が面白いと思ったんです。
要はそれは、そのテストで点数を取るための勉強ではなくて、
レポートを書いて、あるいはプレゼンテーションをして、ゼミで議論したら、要は褒められるわけですよ。
あるいは、それでお互いに理解が深まるわけですよ。
もうだから、特に科学話題の終始の時はめちゃくちゃ楽しかったんですね。
で、その中でどんどんどんどん本を読んで、そして自分の知識を議論してっていう、
勉強というのはこういうもんなんだっていうのが分かって、ある時にその自分が、
高校で書こうというか、大きなコンプレックスを解消していく感覚があったんですよね。
なるほどですね。
そういう意味では、小学校、中学校で本当に興味持って色々聞いてたものをもう一回呼び起こして、
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また自分の専門分野とも近づけてやっていくのが、本当に楽しそうだなっていう感じがしますね。
だからその意味では、その面接授業で鈴木本雄二先生という人に出会わなかったら、
要は放送大学が終わっても進学というものは考えてないと思うんですよ。
特に僕らの時代に、特に九州一円で大学院で進学するっていう、もしくは大学院という組織を知ってる人ってほとんどいなかったんですね。
だから僕が最初に入った病院、PT50人いましたけども、唯一一人だけ進学してたんですね。
でも当時進学っていうのは、夜の大学院とかないので、仕事を辞めて進学するっていうことになってたんですけども、
その先生が一つ、ちょっとした道筋を見せてくれてたっていうのがある。
その先生は旧大に進学するためにも辞めてみなかったんですけど、ちょこちょこ帰ってきて、いろいろ話を聞かせてくれたんですね。
大学院っていうのがあって、研究っていうのがあるんだよっていうところがあって、
じゃあ僕も大学院っていうのをどっかで行けたらいいなっていうのを頭の中で少し想起できたんじゃないかと思います。
その辺が今でも理学療法の中でもメンタルヘルスみたいなところに関わるっていうのは結構つながってる。
もう完全にそうです。
なので僕自身は一番最初に終始に入るときの研究計画書は、人間関係っていうのでやってたんですね。
今とあんまり変わらないですけど、なんでこんなに人と人って分かり合えないんだっていうのをやりたいんですね。
で、終始に入った年の7月に中心院で入院したんですよ。
で、中心院で入院してめちゃくちゃ痛かったんです。
で、手術した後もめちゃくちゃ痛いのに全然対応してくれないんですよ、病院が。
で、ドクターに言っても笑われるんですね、見ながり目。
その時に痛みってなんでこんなに分かり合えないんだっていうので、痛みが僕の研究テーマに変わったんですよ。
なるほどですね。
それが痛みの存在意義とかに。
そうなんです。
って話で。
あとその和志田さんの本を読んでそちらにっていうのもありましたけど、それも終始の間にその和志田さんの本とかに出会ってっていう感じなんですか?
そうなんです。
もともとイング研究者なので、イング研究者で日本ので代表になるのが河合俳夫さんなんですね。
河合俳夫さんの本を読んでて、ばーっともう全部読んでたんですよ。
そしたらある時に臨床と言葉っていう本があって、それが和志田清和と河合俳夫の配談集なんですよ。
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で、僕は和志田清和っていう人を全く知らない段階で読み始めていってから、まあめちゃくちゃ面白いことを言うわけですよ。
なんだこれと思って。
それは後々にわかったんですけど、やっぱり河合俳夫さんってその人を引き出すのがとても上手いっていうのがあるんですけど、河合さんに引き出されてたっていうのもあると思うんですけど、その臨床と言葉っていう本すごい面白くて、その次に書くことの力っていうこの本を買って読んだら、もうドハマリしてしまったっていう感じなんですよ。
なるほどですね。
そこからもう終始の途中から和志田さんの下でもうちょっと勉強したいっていうのが結構熱が高まっていってって感じなんですかね。
そうなんです。なので結局、終始2年生の夏から秋にかけて、アンダーエッドコンタクトを取ってどうにか入れてくれないかと。
当時熊本にいましたから直接行けないんですけど、なので一回じゃあ来てくださいっていうので秋頃に行って、1月か2月の受験を終始が終わるか終わらないかのときに受験したんですね。
その時は落とされたんですよ。
だって僕哲学やってませんから。
だからそこで落とされたけど、もう大阪に来ますって大阪に引っ越して、その時にちょうど仕事が、最初に愛の大学が応募してたので、愛の大学の応募に受けてそこで愛の大学に入って、だから愛の大学と別に縁があるわけじゃないんですよ。
なるほどですね。
反対に一番近かった大学だったんです。
じゃあ関西に来たり愛の大学に行ったのも、根本的にはその和志田さんの下で。
そうなんです。
そこから実際にその和志田さんの臨床哲学研究室ですかね。
はい。
っていうのはいつ頃に入れることになるんですか。
いいですね、そのあたりがまたなかなか面白い話で、その次の年に受験は通ったんですけども、僕は和志田を追いかけて入ったんですが、
和志田って有名になりすぎちゃって、僕が入る前の年かな、もう副学長になってたんですよ。
副学長になると税にもたないんですね。
ただね、職場授業は年に1回か2回は授業してくれるんですね。
で、博士に入って1年目か2年目の時に学長になって、総長になっちゃったんですよ。
総長は授業しちゃいけないらしくて。
結局和志田を追いかけたのに、和志田と授業、和志田は全部受けてないんですよ。
そうなんですか。
だから追い出しコンパとかそういう時に喋るぐらいで、和志田はまずキャンパスが違うんですよ。
だから和志田に会えないっていうのがありました。
なるほど、悲しいですね。
そうなんです。
42:00
とはいえ何かしら交流はされていくんですか。
結局和志田さんとの強い交流というのはないまま、
和志田さんの実は女房役の人がいたんですね。
臨床哲学っていうのは、すごい和志田清香がスターダムに上げたような状態なんですけど、
その和志田さんの陰で、めちゃくちゃ優秀な人が全部いろいろな準備をしてた。
それが中岡成文っていう人なんですけど、
それとジョブズとウォズニアックみたいな関係の人がいて、
その先生が僕の面倒を見てくれた。
ああ、そうなんですね。
じゃあその和志田さんの考え方のエッセンスというか、大事なところはそこからも学ばせてもらって。
そうです。
相当に人間ができた人で、
哲学系のところってあんまり人間ができてない人が、あんまり言ったら怒られるけどいるんですね。
すごいめちゃめちゃ人を攻撃するとか、
人をすごい無視するとかいろいろなんですけど、
中岡先生はね、もうめちゃくちゃ人間ができてて、
その人はね、一族が医者家系なんですよ。
で、唯一医者にならなかって哲学者になったっていうちょっと特殊な人で。
だから理科系のこともできるし、
その医者のこともわかってるし、
で何よりもヘーゲル研究者だったんですけど、
とにかく哲学に関する知識と語彙力がめちゃくちゃ高い人で、
しかも声がかっこいいんですよ。
ただその先生がちょうど僕が、いつだったかな、
要は僕は3年で論文を書けなかったので、
4年目か5年目に愛管になったんですね。
で、僕の主佐がいなくなって、
それで僕は中ぶらりになってしまったっていうのがありました。
なるほどですね。
その博士3年間とかっていうのは、
どういう過ごし方、なんか講義も受けたりしつつ、
その辺りの中でのいろいろディスカッションしていくみたいな感じなんですか。
そうです。基本的に僕は仕事をしてたのもあって、
博士ってほぼ単位を取らなくていいんですが、
水録と金録っていう水曜日の6弦と金曜日の6弦の授業、
結構市民にも開放してた授業があるんですよ。
で、基本的にはそこに行って、いろいろな議論をすると。
あと金簿。金簿は自分の研究の進捗を報告する場で、
金録が臨床哲学ゼミって言って、
もう本当に市民いっぱい集まってきて、
いろいろな議論をするっていう。
その水録、金簿、金録を毎週行って、
その3年間過ごしたって感じですね。
なるほど。そこが主に痛みについての探求をしていったっていう時間なんですかね。
まあ痛みの探求をするというところと、
45:01
やっぱり哲学的素養があまりにも多く少なかったので、
そのなんとなくは知っていたけども、
ガチの博士課程の哲学のレベルはないわけですよ。
だから哲学書読みまくって、
ただやっぱり哲学書読んだところでわからない。
なので中岡先生の授業とか、いろいろな先生の授業とか、
あるいは別室で夜、いろいろ教えてもらいながら過ごしてたって感じですね。
なるほどですね。それも大変だとは思いますけど、
勉強としては結構楽しく学んでいったって感じですか。
そうですね。特に臨床哲学ってやっぱり変な研究室だったので、
ガチガチに臨流学哲学をやるというよりは、
絵本をテーマにみんなで語り合ったりとか、
それこそフィールドワークを通して語り合ったりとか、
そういうことをやってたので、ちょっと社会学に近い感じなんですね。
なるほど。本当に哲学者の本を読み込むだけじゃなくて、
実際の現象っていうか、
リアルな人との関わりとか、起きた事例を元に深めていくみたいな。
そうなんですよ。だから僕には合ってたんですよ。
半分は和志田がそういうことをやってるって知ってたから、
もちろん臨床哲学を志望したわけですけど、
実際に行ってすごい面白かったですし、
ちょうど和志田さんが早朝になったたのに、
両親が一人いなくなったからといって、
当時静岡大学で人間学を教えてた浜渦先生という方が、
当時は割愛という言い方をするんですけど、
応募をかけて来てもらうんではなくて、
割愛というのは、こちらから依頼して教授になってもらうという制度が国立大学があるんですね。
その割愛で、一本摺りで浜渦先生を反対に呼んで、
浜渦先生が入ってくることで、
その臨床哲学が初めて、臨床哲学じゃない人が入ってきたんだよ。
それまでの教員は全部臨床哲学出身者か、
臨床哲学の立ち上げのメンバーなんですね。
で、浜渦先生が入ってきて、臨床哲学じゃなくない人が入ってきたことによって、
急激に風向きが変わるんですね。
で、その浜渦先生というのもまたすごく人物ができてて、
なんていうのかな、面倒見がいい方で、
それまでどちらかというと、臨床哲学の中で博士を出してなかったんですよ。
それこそ本当に10%も博士が出てないんじゃないですかね。
それはなぜかというと、一つは本人たちは多分否定するけど、
僕らからの見たては、
町田も中岡も博士号を持ってないんですよ。
当時は、哲学って開館のときに博士号を付与されるという時代だったんですね。
48:02
なるほど。
だからどんなに業績があっても博士号を持ってないっていうのが、
特に中岡も、町田も兄弟なので、兄弟の研究室は博士号を出さないんですよ。
で、そこから来てて、浜渦さんは博士号を持ってた人なんですよ。
で、その後に自分がやっぱり働き方を考える上で博士号がいるっていうので、
その浜渦さんになってから、臨床哲学で博士号を出すようになっていったんですね。
出すっていうのは、ディプロマミルに出すみたいに出すんじゃなくて、
博士論文を書くために指導を始めたんですよ。
それまで指導があんまりなかったので。
だからそれでどんどん風向きが変わって、
あら、臨床哲学って博士号を取れるじゃんっていう研究室になっていったんですね。
だから外からまたいろいろな人が来るようになって、本当に風向きが変わりました。
なるほどですね。
確かに哲学で博士を取るって、何かを極めるっていうところまで行ききれない、
行きづらい領域だと思いますし、
これまでは出さなかったっていうのもあるかもしれないですけど、
現実的には博士あった方がキャリアとしてはいいかもしれないですし、
そういう意味で風向きが変わっていったって感じなんですね。
そうです。なので浜渦さんが来たということで、
中岡さんがいなくなって僕は中村になってたところに、
僕から後に入ってきた理学療法の師がいたんですね。
それは浜渦さんに関係するような人だったんですよ。静岡の人で。
その人が4年目か5年目のときに博士論文を提出して、
博士号の審査会が開かれることになったんですね。
そのときに僕も全然、その先生のおかげでいろいろわかったんですけど、
普通に博士審査を受けると博士文学になると。
だけど理学療法師に博士文学は逆にいらないものになってくるので、
審査員をもう一人増やして、理科系審査員を入れると博士学術になるんだっていうので、
その先生が日本で唯一博士号の審査をできる人がいて、
その哲学、それが奈良伊沢なんですよ。
奈良伊沢を審査員に呼んで、
当時僕は奈良先生と親しかったので、
お前審査会に来いと言いに来いと言って。
行ったら、浜渦さんとはもちろん脳筋はあったんですけど、
浜渦さんのところに僕を首根っこをつかまえて持って行って、
浜渦さん2年後単管ですと、2年以内に博士号書きますから審査してやってくださいって言って、
一緒に頭下げてくれたんですよ。
それでわかりました。じゃあ最後まで面倒見ますって言って、
そこでその2年で僕は博士論文を書き上げたんです。
なるほどですね。
51:00
だから奈良伊沢と浜渦さんには頭が上がらないんですが。
なるほどですね。結構、若生時代のその流れは。
今まで何かどっかでこういう話ってされたことはありますか?
いやここまで綺麗に話したことはないと思います。
なるほど。ただこう、博士課程の流れはなんとなくそういう入る流れからやられてっていうのはわかりましたけど、
またその別で大学教員の活動とか、また奈良先生と出会うとかは、また教員になられてからっていう感じなんですかね?
そうです。もう一人僕の人生に2パーソンが1人で、西村敦史っていう理学療法士なんですけど、
もともとその時は大阪府司会の会長をされてたんですね。
その先生は本当に何て言うんでしょう、懐が深い人で、教育熱心だったりだとか、いろいろ考えてる理学療法士っていうのが好きで、
当時、大阪医療専門学校になったのかな、正式な名前忘れましたけど、
今の大阪保健医療大学の横にある専門学校の校長先生をしてたんですね。
そこで教育の研究を一緒にやろうって言って、そこに入れてもらったんですよ。
そしたら僕のことをすごい気に入ってくださって、西村の師匠が奈良勲なんですよ。
俺はお前を奈良に紹介したいから一緒に飯食いに行くぞって言って、神戸元町、当時奈良先生が神戸学院大学の教授だったので、
神戸まで行って、食事食べて、奈良先生が僕を気に入ってくださって、それがたぶん2010年前後なんですよ。
西村厚司がその後もいろいろな人を紹介してくださって、ただとても残念なことに2016年の6月放課後から休止しちゃって。
だから西村の意思を継がなきゃいけないっていうのも僕のプログラムの中に常にあるものなんですね。
なるほどですね。ちゃんと関西に来てからも思いがけないいろいろ出会いとか発展がどんどん積み重なっていったって感じですね。
そうなんです。なのでそこのやっぱり人たちのキーワードが哲学だったり、そういう精神分析学だったりっていう理学療法と違うもので紹介してくれる人がいたってことです。
なるほどですね。愛の大学とかではその辺の哲学系の講義とか、そういうのはあんまり学生向けにはなかったですかね。
そうですね。ほぼなしですね。一度だけ生命倫理を教えてた先生が体調を崩されて代わりに授業をやったことっていうのはあるんですけれども、
54:06
愛の大学では基本的にそういった科目を持つということはなかったです。
まあまあ日本全国全般的になかなか理学療法士の家庭で哲学系を学ぶ機会は少ないかもしれないですけど、
学校ではベースとなる理学療法士の資格を取るための講義とかを中心にされてたって感じですかね。
そうですね。その時に愛の大学が僕、できた2年目に愛の大学に入ったんですね。
その2年目に入って、大学って中場完成年度4年を迎えると、立ち上げのメンバーとかって結構離散するんですよ。
その2年目に入って4年経過の段階で離散する中で、
辞めていく先生の科目をじゃあ持ちなさいということで、評価学を持つようになったんですね。
で、そこから評価学っていうのを勉強して、評価学ってこれって臨場推論がいるじゃんっていうので、それをすごく教え始めたって感じです。
それがまた今の理学療法士に通じてくるっていうので。
なるほどですね。
なので、班大での哲学系の学びと学校での講義もあって、今の活動にもつながっている。
もうまさに。で、その評価学っていう授業だったんですけど、これまた西村が実は専門学校から愛媛大学の学科長に移ってきて、
その時にカリキュラム改定で臨床推論という授業をやれってカリキュラムを作ってくれて、そこから臨床推論という授業ができたんですよ。
そうなんですね。
そこから10年はないな、8年ぐらいずっと学生に臨床推論というのを教えていきながら、その中で臨床推論って全く教科書がないんですよ。
今ちょっとそういう名前を銘打って作ってきてるのはあるんですけども、なのでうちから全部自分で手作りしていった理論なんですね。
誰かの理論を真似したりだろうか、どこかで学んだというよりは、それこそ自分が哲学をやる中で論理系の話っていうのを理学療法の中にどんどんどんどん入れ込んだことによって、今の理学療法推論の流れができている。
なるほどですね。なかなか今でも理学療法推論ってパッと言ってもなかなか理解されないとか苦しさがあると思いますけど、そういう意味で本当にないものだからこそ、広げる意義があるし、形作らないといけないっていう感じですよね。
本当にそのないものをネガティブに言うと、勝手に両側が作って勝手に言ってるだけのことでしょ。だから臨床推論系の学会発表なんかをすると、エビデンスはどこにあるんですかって必ず聞かれるんですね。
57:02
僕らはどちらかというと、エビデンスを作るための基礎学問としての臨床推論の話をしてたんだけど、やっぱりそれってエビデンスがないですよねっていう質問ばっかり受けるんですよ。
そこに比併していったっていうのはちょっとありますね。
そうですね。哲学ってよりも特に科学的なところだと、エビデンスからの積み上げでこうやるっていうのが一般的だと思いますけど、逆に哲学的な軸を持ちながらの生まれてきた推論の形とかだと思うんで、本当になんかちょっと文脈が違うっていうのはありそうです。
なので結構学会発表とかを、今の学会連合になった前の学会でも僕は結構その、リジェクトされてるんですよね。
だから全くね、箸にも棒にもかけてもらえないっていうことが結構あります。教育系とかでもそうですし。
なるほどですね。結構なかなか理解されない苦しい時期もあったというか、今でもいろいろ難しさはあると思うんですけど、愛の大学からまた2020年から24年はピアコリハビリティ大学、文職大学ですかね。ここはどういう流れなんですかね。
これは愛の大学が、もともと市外医療技術専門学校というのを持ってて、専門学校がチューブラリーになりそうな時期だったんですね。
で、愛の大学の学部にするか、新しい制度っていうのができた専門職大学を作るかっていうのがあって、ずっと本部が揉めてたんですよ。
で、じゃあ専門職大学にしようと。専門職大学にしようとしたら教員がいないということで、理論系教員っていうのが立ち上げの時に必要だったらしくて、副理事長が愛の大学の教員の名簿を見てたら、理論教員見つけたって僕が突然ある日呼ばれて、移動してくれって言って、それで一発移動してた。
ああ、そうなんですね。そこは臨床推論系のこととか、結構表面上のっていうのもあれですけど、結構根っこの部分の話をされてたって感じですかね。
そこはね、逆に今度ですね、哲学をまさに一般教員の哲学を教えると、いわゆる理学療法概論を教えたんですよ。
だから僕としては授業めちゃくちゃ楽しかった。
ああ、そんな想像ができますね。
特にOTもあって、OTの哲学とかも教えてたんですね。だから本当に幅広く哲学というものを教えることができて、その中での授業は本当に僕は楽しかったのを覚えてます。
なるほどですね。ちょうどその博士課程としても学術博士とれた後とかですし、世の中でも哲学的な考えが結構浸透した中での講義をするっていうと、結構楽しそうですね、それは。
1:00:11
ただもう本当に美学校に問題点が一つあって、通勤に往復5時間かかるんですよ。
結構ね、遠いですよね。
そうなんですね。で、いろいろな契約の中で愛の大学の授業も全部、僕しかできない特殊な授業だったからやって、美学の授業も全部やったんですね。
だから週8コマぐらいの授業をやらなきゃいけないということで、2日2日、愛の大学2日、美学補修2日っていうので4年間続けたんですよ。
なるほど。もう行ったら行ったで結構喋りっぱなしって感じですか。
本当に大変でしたね。特にオリンピックシーズンに当たったので、オリンピック2週間ちょっと居なくなる間に授業を全部補講しなきゃいけないっていうのは、あれは本当に倒れるかと思いました。
なるほどですね。またその辺だとちょっと話が戻ると思うんですけど、ちょうど東京のオリンピック関連で活動もされてたっていうので、熊本居た時とかまた関西来た時もずっとラグビーを含めてスポーツは関わり続けてたっていう感じですかね。
熊本の時の4年間で基本的にスポーツっていうのをやった後に、哲学というか精神分析の方に移動したので、ふっと哲学はスポーツから離れたんだよね。
で、大阪に来て西村篤氏に出会った後に、お前スポーツ好きなんやろって言って、スポーツの専門の小柳っていうのを紹介するわって言って、今電通大の教授である小柳町先生を紹介されて、そっからまたスポーツのいろいろな活動に戻ったんですよ。
で、特に今最近ちょっと資格化されてますけど、スクールトレーナーっていうのの走りを小柳先生を中心としたアスリートケアっていうのがやってて、高校に行って高校生たちのケア、スポーツ全体のケアをやったりとかするのを何年ぐらいかな、4,5年続けてたんですね。
毎月必ずどっかの高校に行って、後は甲子園に入ったりとか、というので、そこで実はスポーツに1回戻ってきたんですよ。
なるほどですね。西村先生様々というか。
そうなんですよ。授業もスポーツ理学療法を愛媛大学で持ってて、だから結構スポーツをですね、ガチでそこからまたやり始めたって感じです。
なるほどですね。もっとそこはもうラグビーとかだけじゃなくて結構全般的に色々あった。
もう本当です。で、自分自身がゼミをやる上で、スポーツのことをやろうって言って、スポーツっていうのは研究するものじゃないとプレーするものだと言って、学生ととにかくマラソンしまくってたんですよ。
1:03:11
で、今だったら多分許されないんでしょうけど、ゼミの参院認定要件がハーフマラソンを2回走ることっていうのができて、男子も女子も関係なくそのハーフマラソンを2回出場しなきゃいけなかったんですね。
えー。
で、最後の方はハーフマラソンなんか面白くないからウルトラマラソンで50キロ走ったらいいっていうので50キロ走らせましたね。
なるほど。まあ理学療法士系だと比較的体動かすの好きな人が多そうな気がしますけど、まあそれでもなかなかハードかもしれないですね。
でしょ。でもそれでね、なんかやっぱりその時代の流れのゼミ生っていうのが未だにやっぱり慕ってきてくれますね。
うーん。
うん。
やっぱり一緒にね苦労した仲間っていう感じで。
うーん。
そうですね。いやー、で、まあだいぶ現在に近づいてきてるっていう感じだと思いますけど、あとそうですよね、その東京オリンピックとかも活動されてたと思うんですけど、そこはどんな形でした?
東京オリンピックの時ってそのPP協会が先週オリンピックで働きませんかって広報をバッと再生やって、その時にその条件のいわゆるポートフォリオが結構厳しかったんですよね。
うーん。
で、まず一番簡単なのはその5年以上の経験がある。
うーん。
で、スポーツ現場で国際部隊あるいは国内部隊でどれぐらいの収益がある。
うーん。
で、ATとかいろいろな資格を持っている。
うーん。
で、あるいは英語に関する点数がどれぐらい取れるとかっていうのを業績をグワーって書かなきゃいけなくなっちゃうんですよ。
はい。
で、まあダメ元で出したらそのままポンポンと通っていって。
へー。
で、その僕は現場じゃなくて選手村がいい。
うーん。
そしたらまあ選手村に行けばって感じなんですよね。
うーん。なるほど。
選手村だと結構いろんな競技の選手とかがこうなんですよ、試合の前後とか練習中とかで来て対応ツールみたいな。
そうなんです。
で、特にやっぱりコロナの緊急事態宣言のど真ん中だったので、もともとおそらく200人ぐらいで回す予定だったんですね。
その選手村のポリクリミックを。
だけど結局来れたのが80人なんですよ。
ああ。
したので1人当たる間の滞在時間っていうのが長くなって。
なるほど。
1人多分5日間でやる予定だったんですね。
はいはい。
だけど倍の期間になって僕もだから10日間入って。
へー、なるほどですね。
そこで本当に選手がいろいろ来るんですけど、その時に全然入ってからいろいろ分かったんですけど、
例えばアメリカとかイギリスとか中国とかは一切来ないんですね。
1:06:02
彼らは自分のトレーナー連れてきたりとかドクター連れてきてるので。
なのでポリクリミックに来るのは基本的に貧しい国とか強くない国が来るんですよね。
で、そういった人たちっていうのを俺ぐらいかな1日に4、5人ですね。
だいたい40分から1時間ぐらい。
ちょうど僕がいた時期というのが一番選手が多く来てた時期。
開会式の3日前から一番ピークの時期なので一番忙しかった時期にいたんですね。
なるほど。
歩行の授業とかは大変だったかもしれないですけど、その中では結構いろんな経験があってそれも楽しい感じだったんですかね。
そうですね。なのでよくポリクリニックにいたメンバーはだいたい午前と午後の2グループに分かれてますね。
午前が7時から夜が11時まで開いてるんですよ。
なので僕は2時から11時の勤務だったんですね。
その2時から11時の昼の分が割と仲良くなって、みんなでワイワイやってたっていうメンバーだったんですね。
その中でも実はいろいろな競い合いがあるんですよ。
ポリクリニックってそれは何が競い合いがあるかというと、アクレディテーションカードがあるじゃないですか、那覇。
で、那覇のリボンに各国の選手が自分の国旗のバッジをつけて歩いてるんですよ。
で、選手同士はそれを交換して交流をしましょうというところになってたんですけど、
ポリクリニックに来ていい治療をしたらそのバッジくれるんですよ。
で、そのバッジの数でその理学療法士の腕が分かるっていう。
面白いですね。
で、その当時おそらく僕が2番目ぐらいに獲得したんですよ。
だから他の人から、当時僕はスポーツのその学会とかにも全然参加してませんし、
スポーツ業績があるわけではないから、しかも大阪から来ててほとんど東京のメンバーだったんですね。
東京と北海道のメンバーだったんですよ。
で、そこのメンバーからこいつなんやねんっていうことになってたけど、どんどんどんどんバッジが増えていくのと、
あとは周りを盛り上げてたので、どんどんどんどんみんなと仲良くなっていくっていうのがありましたね。
なるほどですね。
どうしても目に見える成果になるんで、引き添いがちだと思いますけど、
多分スポーツ関わる理学療法士とかだったら、そういうのも楽しめると思うので、
すごいなんかいい経験になってるなって感じがしました。
理学療法士のところでもう一個追加で言うと、当時なんで僕がバッジを獲れたかというと、
都市療法ができる人がすごく少なかったんですよ。
1:09:00
そうなんですか。
はい。なのでどちらかというとアプローチは、
農業的な運動療法と物理療法を基準にやってる人がやっぱりテラピストで多くて、
その理学療法士かの人たちが下手くそだったとかということじゃなくて、
僕が都市療法ができたので、それによって選手に選ばれたっていうのがあったんですよ。
へー、なるほどですね。
やっぱり世界の理学療法って、特にスポーツか都市療法が中心なんですよ。
だから指名があったりだとかしてやられて、
それで都市療法をやると満足度が高いからバッジをもらえてたと思うんですよね。
なるほどですね。
最近の堀先生を知ってる人とかっていうと、
理学療法推論について発行してるとか、
哲学の話をしてるとかで、
あんまり都市療法をしてるイメージっていうのは多いと思います。
自分もあんまりまだ想像できてないですけど、
その辺また具体的な理学療法のアプローチとかも話していけたらいいですね。
本当なので、僕が一応見たともに認める、
日本、要はトップの80人が選ばれて、
その中でもトップになった人間だぞって学生が言うようにしてます。
エビデンスがあるんですね。
そうですね、それもエビデンスですね。
確かに治療をしている姿っていうのは、
僕の卒業生とか今の大学生とかは知っているけれども、
そうじゃない人たちはこいつ絶対治療下手くそだろうなって思われると思います。
なるほどですね。
でもその辺はそういう実績の方が分かりやすいというか、
口でいくら言っても逆に嘘っぽくなっちゃうかもしれないんで、
そういう選手から認められたっていうのは大事なアピールかもしれないですね。
あんまり理学の方針のテクニカルな部分っていうのをどんどん打ち出していくと、
そっちを教えてくださいになってくるので、
僕はあんまり外で言わないようにしてるんですよね。
僕は理論派ですって言っときながら、実はガチの技術派なんですね。
技術はそうですね、なかなか指定関係とかで教えるぐらいの。
そうなんですよ、時間がかかっちゃうので。
広くやろうとすると結構画一的な感じになって違うかもしれないんで。
なるほどですね。
だいぶ本当に最近のところに近づいてきたところですけど、
今の大学に移られたのは昨年って感じですか?
そうですね、この4月、去年の2024年の4月に移ったんですね。
で、もともとその美和子理派が4年の要は契約というか約束だったんですよ。
通学するのが大変なので。
本来は藍の大学に戻る予定だったんですね。
ただ、藍の大学に戻ってまた同じ生活をするのか考えた時に、
ラグビーの例をとるんですけど、
ラグビーって敵陣に入り込んでどんどんどんどんアタックをかけていくと、
1:12:04
相手のミスでペナリティをもらえるんですね。
で、そのペナリティをもらってもレフリーが、
攻撃側が優勢だと思いましたらアドバンテージで流すんですよ。
そうなるとペナリティという保険があるから大胆な攻撃に移って、
うまくいったらトライが取れる。
さらにゴールキックが入ったら7点。
失敗したとしても3点は確実に取れるっていうパターンだったから、
自分はもうすでにペナリティ1個持ってるじゃんと。
だったらアタックかけてみようって言って公募に応募したんですよ。
なるほどですね。なかなかそれがなかったら一歩踏み出すのも難しかった。
そうなんです。だから自分が本当に職探しをしてるとか、
あるいはもっと違う条件がすごく重要なポジションで移れないとかってなってたらいかなかったけど、
ちょうど4年間いなかったからチューブラリな状態だったわけですよ。
だったら僕がどうせいなくても大丈夫だよねって思ってアタックかけてみたら、
多くの人の協力により最終なんで僕が選ばれたとかっていうのを、
実は今の同僚に聞いたことないですね。怖くて。
だからなんで僕が選ばれて、いろいろな人がやっぱりエントリーしてたみたいなので、
なんで僕だったかは分かりませんが運良く通ることができたという状態です。
なるほどですね。ありがとうございます。
まあそこでちょうど今は自分が兵庫県西宮に住んでるのもあって、
結構距離も近かったんで、ちょうど哲学に興味を持ち出したっていうので、
なんか運良く学校に。
すぐ僕がコメントしたんですよね。
僕は理学療法士で哲学の話をする人が好きだから、何回か読むんですね。
そうするとこの人は哲学を道具として使ってるんではなくて、
本当に哲学に興味があるんだなと思ったらすぐコメントしちゃうんですよ。
で、そしたらそれでトントンと言ってね、じゃあちょっと会って話しましょうってなったってことですよね。
そうですね。本当にその頃はもう自分も全く哲学系の本ほとんど知らないぐらいでしたけど、
なんか自分の今後考えて知っていかないとなっていうタイミングだったんで、
本当に書からしてもらったきっかけに結構いろいろ本も買って、
今でもまだこう全然理解してるとは程遠いですけど、少しずつ理解深まってますし、
今後も学んでいけたらなあと思うので、
なんかちょうどタイミングがあって、いいタイミングで出会えてよかったなと思ってます。
なんかね、哲学っぽくも科学っぽくもないですけど、すごく縁なるものがあったんですよね。
そうですね。初めてお会いしてなんか3時間ぐらい、
そこからまたコツコツ話していくうちに、ちょっとずつ一緒に活動できそうなことも見えてきて、
今回お話もして、あわよくば別の音声番組として継続的に発信できた。
1:15:02
そうですね。長期的に喋って、本当に喋りながら自分たちの問いを深めたりだとか、
思い出したり気づいたりっていうことってすごく人間特性ですよね。
人間だからできる活動として、音声っていうのはすごく価値があると思いますので、
本当に長期的にやれたらいいですよね。
そうですね。今日の話の中でもまだ深掘りしきれてない、
森先生が理学療法士になれる頃の業界とか、また理学療法士の歴史的な編成だったりとか、
多分スポーツ通していろんな各国の選手閣があったりすると、
各国の状況とか、また社会文化みたいなところも気になるところですし、
以前何か話してた中で、結構、途上国の支援とか貧困だったりとか、
そういうところも結構、興味を持たれているところだと思うので、
そういう歴史社会みたいなところも話していけたらいいなと思いますし。
だから、僕自身の考え方としても本当にいろいろ、
推しを取っている分のものもありますけど、やりたいことをやってきたことというのと、
あとは本当にタピオさんがどういうふうに仕事をしているかというのが、
うまくピッキングしていくこと自体が大きな目的になるんでしょうね。
そうですね。うまくお互いの興味があいつつ、
自分はもちろん、歴史とか社会にも興味がありますし、
ちょっと年代が一回りちょうど違うところ。
そうですね。2年ですからね。
2年のちょうど一回り違うところなんで、
同世代とか若手と関わっていく中だと、
やっぱり今後の理学療法士とかセラピスとか、
どう働いていくかみたいなところは、
ちょっとお互いの流れとかフェーズは違うと思うんで、
過去も深掘りしつつ、今後活躍するセラピスのために役立つ話とかもしていけたらいいなと思いますし、
ちょっとお互いが見ているところとか環境が違うからこそ、
いい科学反応がありそうな気がするので、
いろいろお話できたらなと思っています。
本当は業界のこととかもいろいろ知ってますし、
あるいは単純に理学療法士というミクロなものと、
あとやっぱり哲学とか社会学だとか政治だとか、
いろいろなマクロの世界からもおそらく話ができると思うので、
そのあたりをずらしすぎないようにいろいろ話していけると、
これを聞いてくださるセラピストにとっては、
何かしらの羅針盤的な役割ができるかなと思うんですよね。
そうですね。
はい。なので一応タイトルは仮に考えていますし、
こういう方向性で話せたらみたいななんとなく見えてきているので、
1:18:02
今回は特になかなか全貌が見えなかった堀先生の過去をかなり深掘りしつつなので、
また今後の発信につなげていけたらと思いますので、
何か話し残したところとかないですか。
なんか面白いですね。まず人隣から入るというアプローチが、
菅野さんのアプローチが面白いなと思いました。
自分はそうしたがりなタイプですね。
今僕別のラジオ番組やってますけど、
その人と2年間かな、喋ってますけど、
お互いの過去とかお互いのことほぼ知りませんからね。
そうなんですね。
それこそ今東京に来てて、
そのあさってその人と公開収録をして100回記念になるんですよ。
だけどお互いのことほぼ知らないっていう。
なるほど。
お互いにお互いの興味を持たないっていうですね。
それと真逆だったから面白いです。
自分はめちゃめちゃ深掘って聞きずつ探っていきたいタイプなんで、
面白いですね。
ただ全然違うラジオに慣れていいなと思いました。
良かったです。
僕あんまり一輪章の話をそんなにしないタイプなんですね。
そうなんですね。
割と三輪章というか、主語が社会がとか哲学がとかっていう主語を捉えて、
あんまり自分の話をパブリックな場で、
学生とかにもしてないので、
すごい自分の中ではちょっと新鮮でした。
なるほどですね。
基本的にはそういうパブリックな話をしつつ、
おり先生自体に興味を持ってくれた人は、
これ聞いたら全部わかるよっていう感じの収録に。
そうですね。履歴書ですね。履歴書。
にはなりそうな気がして、
自分としてはいろいろ知れて面白かったですし、
今後につながってきそうな気がするので。
じゃあ質問最後。
どのあたりに一番興味を持ちますか?
僕の何に興味を持てそうですか?
そうですね。
どうなんだろう。
でもやっぱり根っこの部分というか、
人が疑問に思わないかもしれないけど、
やっぱりなんでなんでって深掘りしていくときに、
今の世の中だったら、
どこに疑問点とか問いを感じるのかなとか。
そうですね。
今のそうです。
自分はやっぱり最近の社会情勢とか、
特に気になるところなので、
おり先生の経験と感性をもとに、
どういう視点で眺めてるのかな、
みたいなのが気になりますかね。
いいですね。
最近僕自身がアプリケーションとOSとBIOSという
3つに分けて人を説明するんですけど、
どちらかというとOSの部分に
興味を持っていただいたってことですよね。
1:21:01
そうかもしれないですし、
あとはもちろん人間とはっていうか、
今ちょっと読ませてもらっている、
今書かれている本の話も見ているので、
こういう精神的な部分とか、
そこも興味はありますし、
社会とか個人に対して、
どういう切り口で見ているのかな、
みたいなところが気になりますかね。
本当に人が考えている切り口って、
理想でわからないっていうところが
面白いですよね。
だから誰かの情報を聞いて、
どこかで伝聞するという話ではなくて、
この人がその素材をどういう風に切ろうとしているのか、
というエネルギーを持った思考というのが、
おそらく人を動かすことが多分できると思うので、
そういったものの話がいっぱいできたらいいなと思います。
そうですね。
そんなところで、
大まかな方針はなんとなく見えているので、
これからまたいろいろお話しさせてもらえたらと思います。
ぜひよろしくお願いいたします。
結構長い時間になりましたが、
いろいろインタビューさせてもらったので、
今回は堀井先生に来てもらいました。
ありがとうございます。
どうもありがとうございました。