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2023-08-02 33:19

#148【映像制作会社キラメキを設立!そして茨の道へ】ゲスト:石井義樹さん(映像制作会社キラメキ代表取締役社長)vol.2

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サマリー

石井義樹さんは映像制作会社キラメキを設立しています。彼は会社の設立の経緯や苦労について話しています。彼が制作会社を独立させることを決断するきっかけとなったのは、2008年の時期でした。その時、彼は厳しい状況の中で銀行からの融資や支払いのずれなどの問題に直面していました。しかし、彼の絶え間ない努力と結束力によって、会社を立ち上げるための資金を確保し、困難を乗り越えてきました。このポッドキャストでは、石井義樹さん(映像制作会社キラメキ代表取締役社長)が自身の会社の立ち上げやプロデュースについて語っています。

キラメキの設立と苦労
今回も映像制作会社株式会社キラメキ代表取締役社長)石井義樹さんをお招きしてお送りいたします。それではどうぞ。
きちんと要所要所で会社に入って、ちゃんとナレッジをためて、人脈も含めて広げていって、テレビからCMからフリー、しかもレーベルの話とかもいろいろあったと思うんですけど、広がっていく。
その上で会社を作られたという流れになっていくんですか?
そうですね。その上で一番やっぱり大変だったのは部下がいないっていう。会社にしないと。
一人で回して。
一人で回してて、仕事が決まればフリーの制作、フリーランスの制作、何人も知り合いたのでお願いできたんですよ。
じゃあミュージックビデオやりますと。僕一人でやるわけにはいかないので、もう一人誰か雇って、もう本当に小さなプロダクションユニットって感じでやってたんですよね。
それは仕事が決まればいいんですけど、仕事が決まらないタイミングは、例えばプレゼン案件とか、自分で全部Macでまた制作時代に戻ったように、
イラストレーター、フォトショップ、めちゃめちゃ駆使して自分で作ってました。
マッカーさんとか雇うとかお金なかったので。
コンテとか作ってくれる。
コンテとか作って、あとプレゼンとかも当時、今では言えないですけど、面白そうなソフトをコピーしてね。
営業ツールとして使ったりとか、もちろんそれは売ってるわけじゃなくて、お渡ししてこういうことにしましたみたいな。
そういうことも自分でやるしかないですよ。そのためにMacと、例えばプリンター買って必死にやりたいとかしてて。
で、やっぱりちょっと大変、あと実際の仕事の経理もやらなきゃいけないわけですよ。
だから今で言うと、ジャパンネットバンクとか、今は名前変わりましたけど、とかもできた瞬間にすぐ契約して、
全部インターネットで振り込みとかしてたんですよ。請求書もらって振り込んで。
でもさすがに大変で、大変だし、あと一番決めたきっかけは、僕売上その子当時1億から2億あったんですよ。個人で。
だってミュージックビデオ、例えばCDジャケットで受け負って500万です。20本やったら1億です。
20本くらいやってましたから、そうするともう会社じゃないので青色申告じゃないですか。
青色申告の税金って半端ないわけですよ。限界があるので落とせる。
でも実はその当時、中央区に住んでたんですけど、中央区役所に数百万円現金で振り込みに、
納付しに行った時もあって、こんな税金払うために、もちろん今はもっと払ってますけど、
こんな税金払うためにって現金見ちゃったから余計に、これ会社にしたらもうちょっとセーブできるんじゃないかなっていうか、
セーブっていうのは払いたくないっていう意味じゃなくて、現金見ちゃうのと数字が動くのっていうのはちょっと違うので、
そういうのもあって、その時にTYOグループのキャンプカーズの早川さんが、プロデューサー探してるというお話があって、
それはさっき言ってたフリーランスの制作の共通の知り合いがいて、向こうでもいろんなところでフリーランスだから働いてるじゃないですか、
その人がキャンプカーズでプロデューサー1人、欠員が出てというか募集してるから探してくれって言われてるんだけど、
石井さんどうですか?会ってみません?って言われて、もちろん会いたいじゃないですか。
なぜならばJR東海やった人っていうのは知ってるし、かつてTYOに憧れもあったし、会ってみたいし、
そんな話に繋がらなくても単純にお食事してみたいってなってお会いしました。
僕はその時やってることを今話してるみたいに話しました。ちょっと事例も見せつつ、ご飯屋さんで話したら、
石井君、君はTYOグループで今会社出資して子会社作ってるから、一つになった方がいいよって言われて、
なるほど、そういうことやってるんですねってなって、その頃は拡大路線で子会社いっぱい作ってた時期で、2004年は。
それで出資、こっちからすると出資はしてくれるわ、会社の場所とかも、不動産とかも当たってくださるんですよ。
もちろん不動産会社に頼んで、オフィスはどの辺がいいですかってなって、一応希望だけ言うと、
基本全部用意してくださって、経理は経理で、経理セクションもある、総務は総務である、
ないのは人事で、人集めだけは自分でしてくださいって言われたんですけど、自分の社員を。
もちろん募集広告とか出しますよ。
あとは決めなきゃいけないのは、会社の場所と名前だけだったんです。
きらめきっていう名前にたどり着くまでいくつか考えたんですけど、それをだけ決めてください。
あと社員募集してください。あとは全部やりますって言われて。
いいですね。
それだとこれはいいなと思って、本当に二つ返事でお願いします。
お願いします。
プロデューサー募集してたんですもんね、その時は。
キャンプカーズではしてました。
だからいわゆるキャンプカーズに入ってくれる人を探してたっていうこと?
探してた面談だと最初は僕も思ってて、もちろん向こう早川さんが思われてたはずです。
そこから作ったほうがいいと。
多分うちに入るんじゃなくて、やってることが違うから、もちろんできると思うんだけど、
そのやってることの違いから考えても石井君のためにも、TYOグループのためにもそういうのを作ったほうがいいんじゃないかなと思うよって話になって、
すぐに当時の吉田社長に会ってみたらって言われて、じゃあ会いますって。
その1週間後ぐらいにお会いしに行って、また同じ話して、
そしたらじゃあ取締役会にかけるから来てって言われて、取締役会にかけて、どんどん拍子ですぐ決まったんですよ。
それはすごいですね。
キャンプカーズへの入社と名前の決定
なので一番最初のきらめきはTYOグループとしてのきらめきがスタートしたってことね。
そうです。
ってことなんですね。
それはもう完全に別れてからしか存じなかったので。
ことの成り立ちは一番最初は。
きらめきってなんできらめきにしたんですか。
それね、よく聞かれんすけど。
一応定型的にこれは聞かないと。
聞かれんすけど、その時は結構日本語名が流行ってたんですよ。
例えば新型さんとかができたりとか。
まずそれもどっかに頭にあって、ただ真似たいっていうことじゃなくて、
そもそも海外に向けてアピールしたいから日本語名じゃなきゃ嫌だったんですよ。
ダメだと思ってたんですよ。
なんとかフィルムとか英語名でアルファベットとかつけるのは簡単なんですけど、
まず日本にあるよ、東京にあるよっていうアイデンティティをまず持ちたかったっていうのが一つ。
それから一発で忘れられない名前にしたかった。
名前として。
キャッチーさだったりとか。
キャッチーさ。
それもこの間ちょっと問わるクライアントさんともお話ししてたら、
いやすごいいい名前ですよねっておっしゃってくださってて、
やっぱり一回聞いたら忘れないっていうか、
たまたま20何社があるぐらいのセミナーじゃないですけどっていうところで、
他の会社の名前もいっぱいある中で圧倒的に覚えてますと。
何されてるかはちょっと違う業界だからわからないんだけど、
名前だけはやっぱりキャッチーで響いてますっておっしゃられてて、
まさにそれが僕が目指してたことで、
とにかくどんな名前でもいいんですけど、
一発で忘れられないっていうのを目指しました。
他に候補はどういうのがあったんですか。
他に候補は。
これまで聞いたことないからこれ聞きたいね。
言ったことなかったでしょ。
TYOグループからの独立
トキメキとか。
あと海外と仕事する。
日本が当時、今もある程度そうですけど、
鎖国されてるような感じで、島国なんで。
じゃあ鎖国されてると考えた時に黒船とか。
なんか急にこう。
なんなんですかね。
急にちょっとモワッとする。
そうですね。湿気がなんか増しますよね。
あと秀逸なのは外交官とか。
デジマとか。覚えてますかね。
そっち系だったんですよ。僕の頭の中は。
やってやんぞみたいな気持ちとかも。
でも黒船も向こうから来る人だから、そもそも違うよなと。
だからデジマの方が近いですよね。
確かにそうですね。
でもなんかこう黒船のペリー・イシーですみたいなことも言ってみたいなとかいろいろ思ってたんですけど。
前に傾いて。
多いじゃないですか。そういう人。
なんかいるからちょっとそういうのもいいかなと思ってたんですけど。
でもそこでプッて笑われてもあれだし。
ときめきは電話に出るのも恥ずかしいし。
有名なゲームのメモリアルもあったんで。
ちょっとそういうのも引っかかる。
そう考えたらめちゃくちゃいいおざまいですよ。
ここからですよね。
TYOグループとしてきらめきが始まって、
TYOとの仕事グループとして進んできて、
今はもちろん契約は切れて、
今はもうイシーさんがファイセンが自己資本によって今ここに成り立っていると。
そうですね。
どのタイミングで自己の資本の切り替わったんですか?
2008年の8月ですね。
だから4年もいなかったんですよね。
いろんな会社の向こうの方針。
諸事情ですね。
諸事情によって自己の代表として今鍛えを切っていると。
そうですね。
そのときもそれこそ早川さんの話をすると、
きらめき作った後に取締役にもなってくださったんですよ。
毎月取締役会をちゃんとやっている会社で、
一応会社の課題とか、もちろん営業の課題とかいろんなことあるじゃないですか。
そういうことを話しながら、
でもこんな仕事をやりました、こんな仕事を取りました、みたいなことをずっとやってて。
もちろん諸事情で会社をどうするって話になったときに、
TYOの中に組み込んで部署にするっていう話が結構。
その後ね、他の会社、モンスターさんとかもそうだし、
そういう流れがその1年後くらいに始まっていくんですけど、
それこそキャンプカーズとかもそうなりましたね。
でも、きらめきとしてそうなるっていうのがどうなんだろうな、みたいな。
拒否したというか、あんまり自分の中でイメージが湧かなくて。
でも僕もともと、今ずっとお話ししててわかったと思うんですけど、
TYO出身でもないので、よく勘違いされるんですけど、
TYOでプロデューサーやってて独立したみたいに思ってらっしゃる方も結構いるんですけど、
そうでもないから、TYOに憧れもあったし大好きだったですけど、
でもTYOの人でもないから、そこまで言い方変えるとTYOにめちゃくちゃ愛着があって、
何が何でも残りたいっていう気持ちもなかったし、
でも今考えるとめちゃめちゃ大変な選択をして出たわけですよ。
はっきり言って、TYOグループから独立したのは僕しかいないはずです。
広告業界の中では。
例えば音楽の会社とか、その当時一緒に入ったとこは出た人もいるんですけど、
多分ものすごい大変な茨の道に突き進んだ感じです。
その茨の道に突き進むときに、ここでまた僕との接点が生まれてくるんだけど、
僕と一緒に広告業界史の新聞記者を僕がしていたときに、
一緒にやっていた編集長が石井さんにとっての恩人というかサポートというか、
いろんな面でね、してくれた人なんですよ。
なので僕が石井さんのインタビュー記事とか、
僕が構成をさっきしてたみたいな話をしたと思うんだけど、
そのときにインタビューをしていた編集長という方がいらっしゃって、
ものすごくちっこいパワフルな女性だったんですけど、
その方が非常に頑張っている石井さんを応援してたんです。
どっかから引っ越しをするって言ったら、
石井くんって取材しに行っていただいたりとか、
というようなタイミングがあったときに、
先ほどお話してくれた2008年ですか?のときに、
僕は詳しい話は聞いたことはないし、
ただこういうふうに相談をのらせてもらったんだと聞きましたけど、
そういうとこで僕がいた航空業界史との石井さんと僕との接点というか、
大きな分岐のときに、
僕の当時の上司と石井さんがすごく綿密に相談を
石井さんがされていたという話は聞いたことはありましたけど、
そこら辺の話もちょっといいですか。
はい。なので、辞めると決めたときに自分の中で一番最初にお電話したのは、
その砂県の上司の方で応援してくださいましたね。
いやもう石井さん決めるんだったら全然応援するし、頑張ればというか、
独立の決断
私ができることだったら何でもやるし、また取材に行くんだったら全然行くし、
そういうことも含めて応援しているから頑張ってねみたいなことをおっしゃってくださって、
それでなんか背中を押されたじゃないですけど、
さっきも本当にその自分の目の前に広がっている道は茨な道しかないんですよ。
本当に舗装されていない道で。
そうですよね。2008年のリーマンショックとか。
リーマンショックの直前だし。
直前だし。震災もその後あるじゃないですか。
震災もあるし、タイミングとしてはそんなに良くなかったですよね。
そうですよね。
良くなかったし、やっぱり一番、制作会社やるのに一番大変なのってお金なんですよ。
お金をどうやって苦免するか。
ものすごくお金って難しいのは、銀行から借りるっていうことが結果的になったんですけど、
銀行からお金を借りるって、今まで4年会社をやっていた会社がまた1から会社をやるみたいなことになる。
そうですよね。
もう資本が変わったわけですもんね。
資本が変わって自分の会社に100%なるので、
銀行で制作金融広告さんとか、いろんなところで初めてスーツ着て行って、
自分の連帯保証人のハンクを押すみたいな、毎日その繰り返しですよ。
連帯保証人に押しますっていうサインして、ハンクを押してみたいな。
だからもう麻痺しますよね。何千万借りるんだろうこれっていう。
でも、もともとフリーでやってらっしゃってて、これ会社にした方がいいなっていう流れの中で、
ゆくゆくはそれは起こり得たと思うんですけど、その時はそんなウエットな感じのことは知らなかったですよね。
そもそも決算書が見れるようになったのは会社を作ってからですし、社長ってみんなそうだと思うんですよ。
社長で会社を作ったから会社を作ってやらなきゃいけない業務があるから覚えていくっていうか、
まさにそういう感じで、銀行との取引とかも普通はないことなんですけど、普通に仕事してたら。
でもやっぱり必要だし、先にやっぱり製作会社って建て替えがすごい大きいので、
その建て替えをするためのお金っていうのも必要ですし。
そこがあるかないかですもんね。
そこがあるかないかです。先に半金とかいただけるようなシステムじゃないので、
基本的に納品してから何ヶ月後とかに現金化。遅かったら当時は半年後に現金化なので。
半年だった。
そう。だから1年間、お金がないと、運転資金がないとやっていけないわけですよ。
そうですよね。今はやっぱり大きい会社が割とやっぱり。
いや、今は広告代理店さんも手形が多かったのが手形がだいぶなくなり、
なくなるタイミングなんですよ、この夏というのが。
7月とか本当にまさになくなるタイミングで、7月、8月とかで手形をやめて現金払いになり始めてます。
全部じゃないですけど。
もちろんね。
っていうより子会社っていう言い方が確かにあるんですか。グループ会社。
だから独立ってやっぱりすごい世界とか景色が変わってきて。
全然違いますもんね。
なかなかいらっしゃらないじゃないですか。
だって今石井さんも話したけど、全部やってくれたんだもん。
そうですよね。
そうです。
ソウムもそういうやつも。ただヒューマンリソースに関しては石井さんがですね、それ以外は全部やるって。
だから例えばお金が足りないと言ったらもうそのTIOファイナンスというか銀行が貸してくれるわけですよ。
そうですよね。
はいはいって言ってもう2秒で。2秒言い過ぎですけど、もう1日2日ですぐに入って、じゃあ3000万入れときましたとかなるじゃないですか。
ならないですもんね。
すごいですね。これなかなか。
すごいね。
経験されてる方いらっしゃらない。
いやこれは多分こんなにベラベラ喋る社長はいないんじゃない。
そうなのよ。
なかなか聞けない話だね。
まあセキュラが要は会社を設立したらどうなるか。
しかもその普通の会社でそんなに現金回す必要がない会社だったらそんなにいらないですけど、やっぱりある程度なんだろう。
もちろん半会費的なこともある上で、やっぱり製作会社って基本的には外注が多いじゃないですか。
そうですね。
何割も外注だからその何割の外注を払い続けなきゃいけないので、
だいたい普通の会社って60日ごくぐらいの払いなわけですよ。
それはスタッフに対してとか、例えばポスポロさんとか。
こっちがお約束ってか、雇い入れさせていただいてお支払いするお約束っていうのはだいたい60日なので、
どう考えてもそこで4ヶ月以上ずれがあるんですよ。
現金が入ってくるまでに。そこがきついですよね。
だから本当にある程度バンクが、蓄積がそこの会社なんかないと。
ないとダメです。
本当にだから納金はしてるけど製作会社がないって状態になりますもんね。
ありますし。
そうですそうです。
そうですよね。
お仕事受けたけど、もう体力ですよね。だから。
オンエアされてるけど、でも分かんないですよ。いざ僕が業界史の記者でその時に。
いざここの会社どこだろうって調べたらもうないですと。
ただコンテンツは流れてるって。
全然あります。
あるよね。
全然あるし、なんでそういうことが起きるかって言うと、本当にその支払いのシステムの問題っていうのと、
あとは、だからこそ最初に多大なお金が必要。製作会社作るには。
だから今までできた会社って皆さん、プロデューサー例えば10年とかやってお金貯めて、
あともちろん銀行からもある程度借り入れる算段ができた40代前半とかで作ってる方が多いんですよ。
なるほど。
社長に初めてなりましたっていう製作会社の人は。
はい。
でももちろん大手さんはそこから何台も変わってますけど、そうじゃない中小企業のうちぐらいのっていうか、
まあ50人以下の会社ぐらいの感じだと、やっぱり1台で作られて、
大体その40前半で20年ぐらい必死に頑張って、20年か25年で会社が今潰れ始めてる会社もあるわけですよ、プロダクションで。
はい。
それで大体20年から30年スパンなんですよね。
それでやっぱり経営者の人がカリスマで、その人が元気なうちは良かったんですけど、
60から70ぐらいになって、もうちょっと仕事も取るっていう感じでなくなってきた時に、
その方が下に優秀なプロデューサーの人を雇い入れてたり育ってればいいですけど、そうない場合とか。
そうですね。
その方たちが独立したりとかすると、会社自体は立ち寄りがなくなるっていう構図になり始めてるんですよね。
そうですよね。
これは本当は良くなくて、そうじゃないようにさっきも申し上げた、
お金の回り方というか支払い方法がもうちょっと早くなれば、
良い意味でも悪い意味でも、もっともっと会社はできてくると思うんですよ。
新しい、それこそ30歳ぐらいのプロデューサーが会社を作ってもいいじゃないですか。
なるほど。
それが、もしかしたらこれから先は出るかもしれない。
そこまでお金に苦労しなくても。それでもある一定のお金を入れますよ。何千万個は入れると思うんですけど。
一番最初は銀行とたくさんいっぱい話をして。
銀行ですね。
ベースのお金を作るっていうことがすごい大変だったってことですね。
大変でしたし、逆に言うとさっきも砂堅が言ってた通り、経理もいないから経理雇わなきゃいけないとか、
資金調達と支払いの問題
総務雇わなきゃいけないとか、そっちもありましたね。人的な問題。
一番最初っていうのは、独立したときはメンバーはそのまま?
メンバーはそのままで、そこは人独というか、こういう状況が起こっていると。
僕は辞めようと思っている。もちろん残るという選択肢もある。
別に喧嘩しているわけでもないし、向こうは残ってくれっておっしゃっている方も多数いたので、どうすると。
どっちがいいと思う。僕は出てきたいと思っているという話をしたら、それは石井さんに従うし、
石井さんのそこに懸ける思いに私たちも乗りますっていうことを、うちのチャインは言ってくれて、その当時の。
でもすごい何回も何回も本当に社内会議はしました。
僕はその時起こっていることも全部セキュララに喋った上で、
そこは包み隠さず、ちゃんと話させていただいた上で、みんなどうする。
みんなの意見にも聞きたいし、それで本当に反対意見がめちゃくちゃ出るのであれば、辞めることも考えたいし。
僕は多分、結構そのシーンって、皆さんすごいなと思って、石井さんのお話を伺って、
いわゆるTOMOという会社は王というわけじゃないですか。
そこのグループにいるというのと独立するのって環境が変わるというか、
所属している場所が変わるので完全に。社会的な見え方というのもあるんですけど、
そこでついて帰って、すごい結束力があったんですね。
そうかもしれないですけどね。
そこで辞めるって言った時に、TYOの中の1ディビジョンにならずに、
きらめきという名前とスタッフと、それを全部自己資本でやるっていうところに切り替えた。
男だねー。
人生のターニングポイントの大きなターニングポイントの1つですよね。
今まではご自身でフリーになられたりとか、いろいろ変わってきた中で、
ここはもう完全に人も関わってきている。
社員が関わってますからね。
キロですよね。それが切り替わったのが2008年だよね。
そこのミーティングとか結構、すごい雰囲気だったんだろうなって思いますね。
そうですね。あの時は、いろんなことを記憶の欠けている部分もあり、
現場の仕事も関係なくやらなきゃいけないし、
やりながら銀行の話もしなきゃいけないし、やりながら社員との話もしなきゃいけないし。
だってハッピーな報告であるわけでもないじゃないですか。
みんなの人生も関わってくれるところで考える。
この2008年はすごい大変だったんですね。
2008年は大変でしたね。
その期間、ちょっとそういう状況だからお仕事受けませんって言うわけにはいかないですもんね。
いかないですよね。もちろんそんなことをしていたら会社潰れます。
走りながら完全に道を変えなきゃいけないっていう。
これは本当にすごいですよ。このタイミングって。
この先輩のすごいところって、僕その時も見てるし、
全く弱いところを全く見せない。
結構精神的にしなかったですか?2008年。
たとえば本当に、この銀行からこのお金借りなければ黒字倒産するみたいな瞬間はもちろんなくはないので、
それは良かった、この銀行からお金借りられてとか、そういうのはもちろんありましたし、
当時本当に今だと笑い話ですけど、どうしても月末に1000万足りないみたいな時もありましたよ。
だからそれはさっき言った支払いのずれの問題とかもあって、
効果不効果というか、うちは例えば支払いがベンダーさんに遅れたりとかは一切ないんですけど、
もちろん忘れてるとかそういうことは除いてですよ、単純にミスじゃなくて。
困難を乗り越える結束力
明らかにわざと、最近製作会社でそういう話が出ると、あの会社大丈夫かなみたいな話もあるじゃないですか、遅れちゃうと。
僕は遅れたことは一回もないんですけど、19年間。でもそれはそこにプライドを持ってやってたし、
本当は遅らしたいなとか、もちろんあったんですよ。
あったけど、自分の給料ゼロでも絶対払わなきゃいけないと思ってたので、それはないし、
でも本当にそんな時に、去年父親が亡くなったんで、母親と話す機会が結構あって、
あの時にそういえばあなたお金貸してくれって言ったよねみたいな、でもその時そんな悲壮感なかったよねみたいな。
今の砂剣の話じゃないけど、本当にこれ借りないと本当にきついみたいなことは言わなかったので、
僕も親に関して言うとお金を持ってるわけでもないし、どっちかで言うと家を担保に、
保証に入れて借りなきゃいけないレベルだったので、そんなことしてまでお金どうなるかわかんないというか、
もちろん絶対うまく立ち行く未来は僕は描いてましたけど、でもそんな僕の会社のために、
親の万が一の家がなくなるかもしれない、お金を借りれないし、一応ちょっと貯金ないって聞いただけなんで、
何に使うの、会社がここここでって軽くは言ったつもりなんですけど、結果的に断られたんですよ。
映像制作会社キラメキの立ち上げ
ないし、最悪本当に必要だったらもう一回言っておいでみたいなこと言われて、
じゃあそこまでだったらいいよって言って、自分で銀行で何とかしたんですけど、今の話をちょっと思い出しました。
今の砂剣の話で。
もうフラッと。
だから今聞いてそうだったんだなと思うし、だからどちらかというとそういうパフォーマンスって言うと、
そう、悲壮感がない。
でも話聞く限りめちゃくちゃな都市に住んでる。
だって銀行と打ち合わせ終わった後にクリエイティブディレクターとか出なかったじゃないですか。
あーもうやだ。
全然そうです。
ちょっとやれるとか、あれこうなってんだけどどうなってんのみたいな話とか。
銀行で打ち合わせしてあんま上手くいかなかった時とかも。
銃箱の隅を突かれているのに。
まあそんな感じだったか覚えてないけどね。
それこそ補助協会と話した後とかね。
履歴は何パーセントになりますみたいな。
そうですよね。
分かりました。
いやすごいですね2008年。
すごいなよすごいなよ。
石井さんは多分体が何個あっても足りない状態だったわけですよ。
その頃はそうですよね。
しかも仕事も20個くらい抱えてましたからね。
プロデュースの重要性
こういう会社の立ち上げてそこから自分で自立する会社として社長もやりながらプロデューサーをやっている。
そしてそこから何本も仕事を抱えながらクリエイティブの人とかそういう人をマネージメントする機能も付け加えるようになって
今2023年も無借金で。
無借金ですよ。
すごいですね。
その時に借りたのは本当に大きな声で言えないですけど1億以上で多分5年ぐらいで返したと思います。
もちろんもっと前に返せたんですけどなるべく履歴をどんどん低く借り替えるという手法をいろんな人に教えていただき自分も学び
だから長期で借りているお金は返せばよかっただけなんで借りていったと。
だから5年か6年経ってないと思うんですよね。
多分2023年には返し終わってた感じですね。
もう10年ぐらい前ですね。
自転車創業ならずにきちんと建材プランニングもしながら。
そうですね。
必死にもちろんその当時の社員と今もいる社員もいますけど仕事を受注してちゃんと納品してという繰り返しを当たり前にした上で
何年か赤字でもやってきるぐらいの蓄えっていうのは必要だなって思ってそれもなんとかできるようになって
っていうところまで来るのにやっぱり10年ぐらいかかりましたかね。
そうやって今いろいろ話を伺うときらめきって会社をプロデュースしてたってことになってくるんですよねきっと。
だから何かそれこそ桜さんが僕におっしゃったっていうかここで高菜に移転した時にパーティーやったんですよ。
移転パーティーでその時に桜さんもいらしてくれてて桜さんのフェイスブックに桜さんが書いてくださったことを何か僕いまだに保存してるんですけど
スタンドアローンで頑張ってきた石井さんの思いが詰まったこの会社の内装とか含めっていうところとその時かな
自分の名前も含めて僕結構その当時広告企業とかあとブレンとかもそうですけど
メディアにあえて出たりとか何だろう講演したりとかそういうことで自分が会社の名前とともに石井という名前を売り始めた
最初ぐらいのプロデューサーなんじゃないかって桜さんが言われててそれは最初かどうか僕はわかんないですよわかんないけど
僕は何でそういう選択をしたかというと何かそうしないと自分を売れなかったんですよね
さっきのその業界にそんな知り合いもいないそもそもOB訪問なんかしてない
OBもいないで元々プロデューサーになろうと思ってなかったのでどっちかというと監督志向だったんで
そういうプロデューサー的な目線で制作自体は営業はしていない
逆にその頃にお仕事してたような人たちと誰一人仕事を今してないですからね
だから僕の今お仕事させていただいてる人ってどっちかというときらめきを作って
自分を売り込ませていただいてやれることももちろんこんなことやれますっていうもちろん提示した上で
今までの多くの事例作らせていただいた方のリピーターの方だったりとかもちろんその周りのご紹介だったりとか
もちろん新規で獲得させていただいてるという案件もありますけど
もうそれだけじゃ限界があるなと思ったんでどうやって自分の名前と自分を売り込むかということを常に
特に2008年以降は考えてましたね
でも2008年以降考えてらっしゃってましたけどそれ前までも結局フリーをやってらっしゃったりとか
一緒ですね考え方は一緒です
マインドが変わらずでそこから先はきらめきという会社も含めたプロデュースっていうこともされてるってことなんです
こういろいろ年表を含めて伺ったからこそこの言葉の重みを感じられるかなと
今回のエピソードはここまで
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