1. 広告を楽しむ『アドバタラヂオ』
  2. #147【留学先のアメリカで様々..
2023-07-31 46:29

#147【留学先のアメリカで様々な映像制作にチャレンジ!宇宙飛行士・向井千秋さんへの飛び込みアポも!?】ゲスト:石井義樹さん(映像制作会社キラメキ代表取締役社長)vol.1

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サマリー

今回のゲストは、映像制作会社キラメキの代表取締役社長である石井義樹さんです。石井さんとアドバタラジオとの関係は2005年に出会って以来の長い付き合いです。石井さんは広告業界や広告に対する興味を持っていることが伺えますが、続けていくことの難しさを感じながらも、広告業界のために活動することを意識しています。 学生時代から振り返ると、映像制作に興味を持ち、留学先のヒューストン大学で映像を学びながら様々な制作に挑戦した石井さんのお話です。留学経験を持ち、アメリカで映像制作を行った石井義樹さんが、大学時代の進路選びや就職活動、テレビ制作会社での仕事について述べています。 石井義樹さんは、留学先のアメリカで映像制作にチャレンジし、宇宙飛行士の向井千秋さんへの飛び込みアポも果たしました。彼はADから始めて、CM制作の世界に入り、その後はフリーランスに転身し、さまざまな会社で経験を積んできました。 石井義樹さんは、フリーの映像制作プロデューサーとして活動し、飛び込み営業で仕事を取るよう努力しました。レコード会社からの仕事を増やし、プレゼン案件で生計を立てました。また、アメリカ留学時代の経験から「10%オフ」というヤゴのロゴを作り、それが会社設立のきっかけになりました。

00:03
どうも、アドバタラヂオはじまりです。
砂犬でございます。
富永誠です。
よろしくお願いします。
この番組は広告大好きな二人が広告に関わる出来事や出会いを通して
聞いている皆さんに広告に興味を持ってもらい、そして広告を好きになってもらいたい
そんな広告人学をお届けするラジオです。
よろしくお願いいたします。
すごいこれ音声なんでたぶんお届けできないんですけど
とても素敵な場所で本日収録をしております。
オシャンでございます。
オシャンでございます。
僕らアドバタラヂオ最近ゲストたくさんいろんな方来ていただいて
ここからもさらにどんどん続いていくんですけども
そんな中またまた素敵な素敵なゲストをお越しいただいている回となっております。
ゲスト紹介とアドバタラジオとの関係
ちょっと砂犬さんご紹介いただいてもよろしいですか。
映像制作会社の株式会社キラメキ代表取締役社長
プラティージ東京代表取締役社長の石井よしきさんです。
よろしくお願いいたします。
どうもよろしくお願いします石井です。
よろしくお願いします。
すいませんなんか僕らまたまた日曜日に
そうなんですよ。
さくらさんが言いたいなんで日曜日なんですか。
そうですよね。
しかも天気もいい。
そして素敵なこのオフィスの中で
天気もいい状況ですよ。
素晴らしい。
今動画も回してるんですけど
ぜひどっかのタイミングで皆さんにお見せしたいなと思うぐらい
綺麗なオフィスで収録させていただいてるんですけれども
ちょっともうせっかくなんでご紹介をいただいてよろしいですか。
ではですね石井さんの簡単な役歴がありますのでご紹介させていただきます。
1970年三重県四日市市生まれ。
1989年三重県立四日市高等学校卒業。
1991年に都兵衛されています。
1995年にユニバーシティオブヒューストン卒業と。
バーチャラオブアーツ取得。
そして1996年にテレビの番組の制作会社に入社されています。
97年にテレビCMの制作会社に入社されています。
そして2004年に株式会社きらめきを設立。
2020年にポーランドのVFX CGの会社の東京ブランチということでよろしいですかね。
日本ブランチ。
そうですね。出資は受けてないんですけど野後を借りて一緒にやってるって感じですね。
そちらのプラティジ東京というところを設立されております。
石井さんの代表作としてはヘイベルハウス白い箱10とTCC賞、ADC賞などを
多数国内外で受賞されているという方でございます。よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
生まれのところからしっかりなぞっていただいて。
そうですよ。世に出てるプロフィールをがっつり読んでやろうと。
めちゃめちゃなぞっててしかもハウストンって言いそうになりましたね。
ヒューストンが読めない。
やばいハウストンなんてないヒューストンだと言い慣れてない感じがあります。
代表取締役社長というご紹介をいただいたんですけども。
とはいえメインというかお仕事の内容としてはプロデュースをされているということで。
現役バリバリという社長をしつつもプロデューサーを設立するのかなというお話もちょっと後々伺いたいんですけど
アドバタラジオとしてはプロデューサーの方初めて。
ありがとうございます。
そしてアドバタラジオのヘビーリスナー。
嬉しい。
ほぼ全部聞いてます。
いらっしゃる前に予習していただいた。
予習してきたという話聞いてますからね。
プロデューサーの方って結構お呼びするの難しいなと思ってて
いわゆる関連のことだったりとかもちろんプロデュースの美学というところももちろんいろいろ伺えていきたいんですけども
生々しさがどうしてもこうなってしまうので社長に出ていただけると僕らとしてもいろいろお話はしやすい。
そうですね。
領域の採植士となっているので。
今回は石井さんのまずはここまでの学生から会社員としての時代で話し合ったりとか
そこからプロデューサー論とかっていうのもお話伺って
次で別の要素伺っていきたいなと思いますのでよろしくお願いします。
そもそも石井さんと
これなんか恒例になってますけど
石井さんと須永一見さんのご関係といいますか
きっかけを伺ってもいいですか。
お話させてもらいますね。
2005年にですね広告サミットというイベントがありまして
その時にですね各社いろんな会社のPMさん4人プロダクションマネージャーさんがですね
矢内道彦さんというクリエイティブディレクターさんから集められまして
手伝ってちょうだいなと広告の祭りがあったんです。
原宿で。
原宿で。
その時に僕もその時の広告業界紙新聞記者になって
まだ駆け出し満載だった時に僕もその制作の人たちと一緒に
そのイベントのお手伝いをしてたんです。
その時に石井さんもいろいろ周りお手伝いをしていらっしゃって
最後の打ち上げかなのパーティーが青山のスパイラルホールであったんですね。
その時に石井さんと初めてちゃんとお話させていただいた
当時の僕の上司の編集長もすごく石井さんのことを応援されていた方だったので
ちゃんと石井さんが上長が話していた原稿とかも僕が構成してますから
写真も見てるしどういう発言をする方かも僕は知ってるわけですよ。
発言する方
そこで初めて動くECPを僕はその時見たっていう感じです。
一番最初は2005年でそこからいろんなタイミングで
僕がそこの新聞記者を辞めていろんな返力があって
そこのポイントポイントでこのパイセンがいろいろ僕を心配してくれて何してるのとか
ちょっとたまには飲みに行こうよって言ってくれて
高いお店に連れて行ってくれたりとか
僕が転職祝いの日とかはわざわざ僕の会社の近所まで東組んだりまで来てくれて
ご視聴してくれたりとか
随所で気にかけていただいて
そうなんです
そういうないですか
ないですね
むしろだから彼が転職した後からの方が実際会うことは増えたかなっていう感じですね
最近も含めて
ちなみに印象とか結果気にかけてあげている存在になっているのは
それ聞いたことない
僕はでも本当にそれこそ中島紳也さんとか桜井康彦さんとかが気にかけているような感じで
なんかこうほっとけないというか
それと同時にやっぱり広告大好きだからこういう番組をやられていると思うんですけど
その広告大好きな好き度合いが体から滲み出ているというか
あふれ出ている感じが好きというか
なんか最近そういう人って少ないので
その若い人でも若くなくても
なんかあんまり広告をビジネスとして捉えている人が多いというか
それはそれで当たり前ですけど
広告業界として仕事としてやっていくものっていうのはあるんだけども
でもそれ以上に単純にこういう人が好きとかこういうコピーが好きとか
こういう映像が好きとか
そういうのがだからこそ今こういうお話をされていると思うんで
それが別にこのアドバタのもっと前から
どっちかというと僕ら勝手にアドバタやっているぐらいな話なんですよね
だからそれはそれで飲みながら話しているとかっていうのが楽しいし
なんかそういうもちろん気にもかかるし
あってて面白い楽しいし
あと共通の知り合いももちろん多いというのもあるのかもしれないですね
主に2人で喋った時は収録できない話してます
できないですね
99%できない
お酒が入るとね
ダメ
アドバタなのでお酒を入れないようにしているんですけど
みんな口が滑ってしまうので
ダメダメ
そういう
アドバタラジオの継続と広告業界への貢献
じゃあもうお付き合いしているのは長い
長いだから最初の対面の時に2005年からだからね
20年近いですね18年
そうですね
18年はすごいですね
じゃあ良き先輩って感じですかね
いやもうそうですよ
ちょっとこれ僕伺いたい一個だけ
アドバタラジオよく聞いていただいているというところで
すごい良いなと思った回だったり
2人に向けてこうした方がいいみたいなのを
ご意見あったら伺いたいなと思っていて
良いなと思った回はいっぱいあって
それこそ小玉監督の回とか
あと小鳥さんの回も面白かった
こうしたら良いとかはそんななくて
どっちかというと続けて欲しい
こういうのはちゃんと続けられるというか
僕もその一方でもちろん会社もそうだし
始めるって勢いである程度できることはあるんですけど
続けるのって大変じゃないですか
こうやっていろんな方に交渉して出ていただいて
話をして
しかも日曜日
しかも日曜日
時間作ってもらって
みんなご予定とかもあるので聞いていただいて
そこまでも大変なのに
こんだけ準備されて
その後編集
これが一番大変だと思うんですけど
編集まで富永さんがやってるっていうのは
大変だと思うし
それを載せて
それもね
いちいち全部確認しなきゃいけないわけじゃないですか
これ出していいですかというのも含め
それをやっぱりなんだろうな
仕事じゃないじゃないですか
これで多大なフィーをいただいているわけでもないと思うので
それってやっぱり大変だし
一方で広告業界のために
おこがましいですけど
カンヌのこととか
例えば勉強会とか
ネタクラブって僕自分でやってるんですけど
それも何のためにやってるかというと
あくまで会社とか
自分の名前を売るっていうことはもはやなくて
どっちかというとそれによって
僕が今まで歩んできた経験とか歴史とかを伝えながら
今知ってること
さっき言ってたような情報とかも含めて
誰がどうしたとかじゃなくて
例えば海外にこういう監督いるとか
今こういうことがホットなんですとか
じゃあ今度考えてるのは
例えばケースビデオの作り方を
みんなで学びたいとか
そういうことを
僕があくまで旗振りとして
誰か人集めてやることによって
特に若者の人とかが
それによって影響を受けてもらって
それがショーにつながるとか
人生変わるとかきっかけになる
もしくは転職する
なんでもいいんですけど
そんなようなことになればいいなって話なんですよ
なるほど ありがとうございます
そうですよね ありがとうございます
続けていくのは難しいとか思っていく中で
石井さんの業界歴と経歴
業界歴で言うと
業界歴で言うと
97年の4月に製作会社入ったので
26年ですか
26年目ですね
でも意外と少ないんですよね
26歳で入ったので
普通に大学出て22歳とか3歳で入ってる人よりは
まだちょっと短いし遅い
それは石井さんの経歴とか
学生の時代のところから振り返って
伺っていきたいんですけど
学生の時から映像とか
クリエイティブなものを作るのは好きだったんですか
そうですね
ただそれに気づいたのはだいぶ遅くて
例えば高校の時によくイベントで
例えば文化祭とかで映像作ってる人とか
いたじゃないですか必ずね
そういうのは実はやってなくて
横目で見てたんですよ
なんか楽しそうにやってるなと思ってて
その頃そんなに映像を目指してなくて
漠然と大学受験をしなきゃなと思ってた
何になりたいかってあんま決まってなくて
どっちかというと
浪人してから
自分が行きたい大学がなくて浪人したんですよ
行きたい大学はその頃ぼやーっとあったんで
例えば映像系とかも受けてたんですけど
その当時90年代の前半ですよ
前半とか80年代の後半って
そんなに美術系の大学
ムサビとかタマビみたいな大学
東京芸大とかはあったと思うんですけど
あとはほとんどなくて
それ以外にもう受け皿があったのって
日大の芸術学部ぐらいしかないんですよね
か専門学校みたいな感じで
今は結構マスコミ学科とか
もちろん映像学科みたいなのもあるし
できたんですけど当時はなかったんですよ
なんとなく受けてたんですけど
ちょっと方向が定まらなくて
自分の行きたいことが見えなくて
そんな中 例えば映画見たりとか
なんかしてる中で
いくつかやっぱり映像とか映画とかいいなとか
例えばそれこそ浪人時代に
JR東海のクリスマスエクスプレスのCM見たりとかして
なんか広告っていうのもパワーあるなっていう
ずっと長尺で映画とか
例えばドラマとかもそうですけど
それを何本も何本見て
もちろんいろいろ影響を受けたり
感動したりということは当然あったんですけど
広告でこんな短い尺で
30秒とか15秒で
伝えられることってあるんだなと思って
広告もいいなとか漠然となってて
留学先のヒューストン大学での映像制作
だんだん広告を定めたわけでもないし
ざっくりとやっぱり映像を作りたいな
って思いが強くなっていったっていう感じですね
大学は日本の大学で行きたいとこ行けなかったんで
そこでヒューストンの話になって
そこで留学しようとしたんですよ
なんで逃兵したかっていうと
父親が東芝でモーターの設計師をやってて
父親も全然英語とかできないんですけど
ヒューストンの工場ができるから
確かできるタイミングだったと思うんですけど
工場長で赴任しろという大罰的をされて
父親は行ったんですけどもちろん
自分仕事も大変だし英語もできないし
子供なんか連れていけないってなって
最初は夫婦2人で行ったんですよ
父親と母親で
で3ヶ月ぐらいして落ち着いたら
その時僕まだ浪人生だから
一応勉強してる体で
名古屋に行ってたんですけど
川合塾も寄瀬美も行ってたんですけど
で弟はそのタイミングで一回高校に入学したんですけど
弟は編入して結局弟は連れていけると
高校だしと
大学はどうしていいか分かんないし
そもそもお前浪人してんじゃないか
っていうところでそのまま続けろって言われて
僕は2年浪人したんですけど結果的には
そのタイミングで父親帰ることになって
弟も高校ほぼ卒業になって
弟が一番良かったと思うんですけど
帰国首相枠で大学入り
僕は産老するわけにいかないので
なんとか父親に頼んで
今いる間に大学に行かせてほしいと
非常懸命頑張って卒業するので
行かせてくれってお願いして
父親もそこまで言うんだったらいいよ
ってことで行かせてもらって
1,2ヶ月ぐらいしか被ってないんですよ
父親は帰る決まってる最後の1,2ヶ月に
一応向こうで一緒に住める場所があるじゃないですか
住んでる間にちゃんと自分が住む場所を見つけ
例えば車とかも
アメリカだから必要だから譲り受け
その時はいわゆるESLって
英語の語学学校に入ったっていうのが
まず最初です
それが91年の都兵衛です
そしてそこの4年ですよね
4年間必死に大学
めっちゃ辛かったですよ
だって英語ですから英語できないんですから
英語でむしろ僕文系だけど英語できなくて
大学落ちたので
すごいですねなんか
これ結構面白い話で
もともと僕ずっと英語できると思われてるじゃないですか
英語できなかったんですよ
僕は都兵衛した目的は2つあって
英語ができないとできないまま
コンプレックスで生きていくのは嫌だなと思ったことと
あと映像が勉強したい
映像が勉強したいとしても
例えばカリフォルニア州の大学とか高いわけですよ
UCLAとかご存知かどうかわからないですけど
年間1000万ぐらいかかるんですね
そんなところで4000万も出してもらえるような
お金持ちでもないし
大体の人が奨学金で何十年も返して続けてるって
よく聞くと思うんですけど
それも嫌だし
ある程度そんな高くなくて
日本の私立大学ぐらいのところで
でも映像できるところっていうのがあったわけですよ
それがヒューストン大学なんですけど
割と日本より映像の勉強だったり
興味を持った人を受け入れてくれる環境が
割と海外のほうが良かったと思うんですよ
テレビとか含めて
いわゆるコミュニケーション学っていうのが
確立されている大学だったので
そこの中である
僕さっき一瞬読めなかったの
バーチャラオブアーツっていうの
これ何
それはだからいわゆる学士号ですね
博士号じゃなくて
博士号っていうのは大学院
大学を出ると普通に与えられるものです
それを英語に直すと
バーチャラオブアーツ
そんなに
オっていう
すごい話ですよね
そこでヒューストンで
映像を学ばれてやってたんですか
やってました
それを撮ったりとか
いわゆる向こうの大学って
美大系とかに仮に入ったとしても
2年間は普通にいわゆる
一般教養を学ぶ必要があるんですよ
一般教養というのは
普通にイングリッシュとか
例えば数学とか
例えば生物だったらバイオロジーとか
そういうのがあるんです
一応日本の高校みたいに
やらなきゃいけないことは当然あって
その上で残り2年間は
専門を勉強するっていう感じのところが
多いんですよ
最初の2年間スタンクを
ベースを作ってみたいな
かぶっていいんですけど
一応その2年間分はやれよという
単位取れよということなんですよ
2年間分の単位を取らなきゃいけない
で残り2年間は
専門職の僕はコミュニケーションの
RADIO TV STUDYという
ラジオとかテレビとか
映画フィルムを勉強できたので
実際はめちゃめちゃ楽しいですよ
8ミリとかで自分で
いいですね
テレビCMを作ろうという
楽器もあったので
その時にテレビCMを
自分で監督してプロデュースして
撮るとかステイン交渉とかして
あとは
卒業制作では番組
1本作るという
それPBSという
向こうで言うとNHKみたいな
公共放送があって
その公共放送の支部が
大学の中にあるんですよ
大学も公立の学校なので
いわゆる
ヒューストン支部局
みたいなのがあって
そこで一応放送できる
システムとか全部あるんですよ
スタジオとか
そこで最後自分でやって
今で言うとENGじゃないけど
自分でカメラ担いで
いろんなイベントとか
英語のマスターと留学の選択
例えば僕がやってたやつだと
日本のどこでも今あるじゃないですか
ジャパンイベントみたいなのがあって
そういうのを取材に行って
例えば分からないけど
日本の食べ物出たりとか
盆踊りしてる様子を撮影したりとかして
レポーターシステムですよね
テレビのレポーターみたいな人を
外国人に雇って
友達ですよ
話をしたりとか
視圧のマッサージ受けてるシーンを撮ったりとか
例えばね
あと面白かったのはその時ヒューストンなんで
ジョンソン宇宙センターが近いんですよね
実際にはガルベストンというところなんですけど
ヒューストンじゃなくて市で言うと
そこで結局日本人の
宇宙飛行士の方が結構いて
その時は向井千秋さんがいらっしゃって
向井千秋さんに
直接本当によく電話したなと思うんですけど
ジョンソン宇宙センターに電話して
代表に電話して
メールとかほとんどないですからね
向井千秋さん出演お願いしたいんですけど
僕学生なんで
お金も払えないんですけどみたいなことを
ちゃんと言って来ていただいて
一応生放送の手でさっきの
大学のスタジオで収録して
来てくれたんですか
すごいですね
ちゃんとまたアンカーマンみたいなの別に用意して
対談してもらって
結構面白かったですよ
バーッと電話したわけですもんね
電話したこと覚えてないですけど
一応その映像が残ってるってことは
卒業生だから
日本では
やってない中で
アメリカでそういうことを
初めてかつ
卒業まで迎えるっていうのは
すごい積極的だなと思って
むしろ環境が全く違うんで
環境が全く違うし
でもやっぱりそういう
選択を選んでなかったら間違いなく
今の自分の立場はないし
会社もないので
そういう選択を思い切ってして
よかったなと思います
4年の中で英語をマスターするっていうのは
虫みたいに
吸収
よく言う
最初はもちろん全然できないんですけど
だんだんできるようになってきて
分かる範囲も広がってて
先にリスニングができるようになるっていうのが
通常なんですけど
赤ちゃんとかもそうじゃないですか
聞けるから会話できるようになってきて
ある程度できるようになると
夢で英語で喋るようになったりとか
寝言が英語だったりとか
ありますかやっぱり
よく聞きますけど
それはだいたいそこまでいくのは
1年くらいかかりますね
進路選びと就職活動
人によってもちろんあると思うんですけど
映像作るの
さっきの問い合わせもそうですけど
積極性がまず必要じゃないですか
そこに言葉というハードルが
あるので
足踏みしちゃう部分も
この伝え方でどうかなとか
自分のストッパーになってしまうのを
ガンガン突き進んでいかれた
学生時代だったんだなと思って
そう思います
1日10時間くらいは勉強してたんですけど
そういうことも含めて
積極的な中高の生活してたら
多分そんな浪人もしなかっただろうし
もっと自分の人生
見れてたと思うんですけど
でも逆に言うとそんな簡単に
人生って決められにくいじゃないですか
決められないし
逆にアドバタを聞いている
若い人とか中学生の人とかいたら
そんな簡単に
人生の方向性なんか
決めようがないから
やっぱり勉強に応じて
変える必要があったりするじゃないですか
教育だと
どうしてもこの高校行くのは
この大学行くためだ
この大学行くのはなぜかというと
この就職をしたいからだみたいなことがあるんですけど
あんまりそんな風には
僕は思えなかったんですよね
逆に言うと
どうしなきゃいけないのって
親に反発するぐらいの子供だったんで
むしろでき損ない
な領域だったんですけど
それでも一応ギリギリ
三重県で一番の小学校に入れたんですけど
ただやっぱり
そこでもう目的を達成しちゃうというか
高校が一番
自分の目的を
失ってましたね
どういう生き方をすればいいんだろう
わかんない
すごいなと面白いなと思って
フェーズに行きますけれども
アメリカ海外で
ご卒業されて
そこから年表的には
テレビの番組制作会社に行かれると
これはもうあっちで就職とか
あんまり考えてなかったんですか
なかなかハードルがやっぱり高いので
英語ができるようになったとはいえ
めちゃめちゃ
できるわけでもないじゃないですか
もちろんTOEIC
900点ぐらいの取れるレベルにはあったと思うんですけど
それとまた仕事は違うし
あとやっぱり
当時は
今よりもすごい人種差別がありましたから
やっぱりアジア人に対しても
黒人に対してもそうですけど
入職人種に対して
やっぱりあったので
そういうのもあんまり大学では感じなかったですけど
やっぱり就職した人とかの
話聞いてると結構
そういうの気になるよとは言ってたし
そもそもやっぱり
向こうは向こうで
ビザを外国人じゃないですか
日本人という外国人に対して
ワーキングビザを出してまでこいつが欲しいか
って話になるので
それはハードル相当高いですよ
そこまで僕は能力がその当時あったか
僕はなかったと思うし
そういう意味で
そこまで明確な差別を受けたってことは
僕は大学の時はなかったですけど
ただやっぱりアメリカなので
そこら辺で
重声聞こえることもあるし
それこそホールドアップにあったこともあるし
やっぱりそういうメンタルって
日本にいるときには感じない
そのメンタルなので
ずっとピリピリしながら
周りを見回しながら
生きなきゃいけない感じっていうのは
ちょっと向いてなかったんですよ
それでそういうこともあり
大学を必死に卒業したので
まず帰国しようとなったんですけど
ただ帰国前に就職活動は実はしてて
その帰国寸前の夏に
今より早くなかったので
春ぐらいに
帰ってきて
いわゆる就職活動をしたんですよ
その時はテレビ局とか
いわゆる今の制作会社も
いくつか受けてて
ただやっぱりOB訪問とか
自分が頼れるOBっていないわけじゃないですか
なぜなら日本の大学出てないので
僕もそう思ってて
だから普通に正面突破で
入試者試験受けると全滅というか
全然ダメで
その中には例えば
JR東海のクリスマスエクスプレスの
制作会社のTYOもあったし
他にもいくつかあったんですけど
なんでかわかんないんですけど
試験で落ちてるわけですよ
例えば一般教養と英語なんですよ
英語は絶対できるじゃないですか
誰よりもできる自信があります
英語はもうたぶん絶対100点ですよ
リーディングリスニングスピーキングもあって
全部できました
一般教養も相当勉強していったんで
たぶんできてるはずなんですけど
だけど落ちたんですよ
後で理由も聞きたいぐらいだったんですけど
でも落ちました
受けたかったんですけど
もっと先行後だったんですよ
僕はどうしてもまた向こうに戻って
大学の最後の学期を
セメスターを受けなきゃいけない時期で
そこは断念して帰った
みたいな感じで
それで卒業して
帰ってきて
もう一回就職活動をしようとした時に
やっぱりまたちょっと悩んじゃって
どうしようかなと
テレビもやりたいし
もちろん広告も受けたいし
僕がかつて浪人してた時のように
向いてないのかなとか
一応そんだけの
勉強はしてきたという自負はあるんですけど
逆に向こうから受け入れてくれないような
意識もあるじゃないですか
全部分かんないですけど
30社とか受けたわけじゃないので
そこまでじゃないんですよ
だからちょっと一回引いて考えようとなって
もちろん
親に迷惑かけるわけにいかないので
アルバイトして
塾の先生だったりとか
中学生を教えたり
アメリカでの経験とテレビ制作
あとはカメラも相当勉強したんで
例えばいわゆる名古屋の
ウェディング系の会社で
めちゃくちゃ給料いいんですよ
土日祝日カメラ担いで
めっちゃ当時は重いですよ
披露宴とったりとか結婚式とったりとか
名古屋だから
おひねりでご収益もいただけるし
月に何十万も稼いでました
全然その後就職した時の
給料の倍以上
でもそんなのやってて
ちょっと思ったんですよね
やっぱりこれがやりたいことじゃないし
東京出ていかなきゃいけないと思って
東京出てきて
やっぱりテレビもやりたいと思ってて
テレビも勉強してたんで
テレビの番組の制作会社を受けて
最初いわゆる
期限付きの契約社員みたいな感じで
ならいいよって入れていただいて
やってたっていうところにつながってきました
結構右を逆折
してるんですね
テレビの制作会社に入った時に
担当してた番組って何でした?
担当してた番組は
いろいろ最初行ったんですけど
今も続いてる
アドマチック天国もやってましたし
今年終わっちゃったタモリクラブも
ちょっとやってましたし
だけど本当のメインでずっとやってたのは
マジカルズノーバー
懐かしいですね
そっか
マジカルズノーバー
その時にAD
その時ADで
前世紀で視聴率35%とか
上がってたような時代です
30%は常にいってて
すごいですね
すごい番組でしたね
濃密なテレビ制作
会社時代だったと
1年近くやってました
そこからのCMプロダクション
そうですね
当時は働き方改革なんか
全くないですし
家に帰れないんですよ
本当に帰れなくて
CM業界もそういう感じだったと思うんですけど
テレビはもっと大変で
やることいっぱいあるし
いわゆる
今エンドロールっていう
ロールって本当にロールだったりとか
僕は知らなかったです
番組に入るまでに
クレジットが紙なんですよね
紙でずっと巻かれてて
それがエンドロールっていう
それを取り込んでたんですよ
昔は
その紙があったの?
車職屋さんに
ADが取りに行って
もちろん5職がないか全部確認した上で
それをスタジオに持って行って
取り込んでたんです
テレビ制作会社での現場環境
あれが実は走ってるんですよ
本当にエンドロール
アナログ的に
今はそんなことはもちろんないですけど
かつて90年代後半はそうだったんです
そんなようなこと
やることいっぱいあるんですよ
番組の準備もそうだし
それこそマジカルやってた頃は
みどり山スタジオでずっと準備して
今のCM制作の現場と一緒ですよね
現場に向けてずっとみんなが
何十人もやって
カンペ作って準備して
間違いがないように進行してやってた仕事なので
そうすると面白いこともいっぱいあったんですけど
一番若くて楽しい時に
遊べないし
そうですよね
単純に成長ができる余地が
結構少ないなと思ったんですよ
自分の人としての成長
本も読む時間もないし
とにかく疲れ果てて家に帰って寝るだけだった
これじゃあちょっと
本当にこれがやりたかったことなんかが
だんだん疑問に思ってきて
楽しいこともいっぱいあったんですよ
あったけどちょっと疑問が浮かんできて
そうだと
その時にJRのCMとか思い出して
JR東海のね
JRエクスプレスとか思い出して
もしかしたらやっぱり
広告がやりたいことだったんじゃないかな
とりあえず分かんないけど
一回足を突っ込んでみようと
でコマーシャルフォトの
今もあるコマーシャルフォトの募集ページあるじゃないですか
人材募集ページを見て
そこに当時書いてあった会社に
バッと履歴書を送ったら
すぐ連絡来て
面接行ったら
明日から来いって言われて
明日からはいけませんってなって
4月1日に入社ということにさせてくださいってなって
それが97年の4月1日に
つながってくる
明日から来い
よく聞くなと思った
よく聞きますよね
僕も言いそうですよ
人手が足りないから
いつ来れる
いつ来れる
そうなんですね
テレビって終わりがない感じが
より強いですよね
永遠に続いていく
いいことはあるんですよ
もちろんクレジットされて
番組流れて
家族とか親戚とかに
ADからCM制作へ
こんな番組やってるんだよ
一応ADって出てるから
そこまでいくのも何ヶ月かかるんですけど
出してもらえるように
その他大勢の人は入れてくれないんですよね
でも入れてもらえるようになってからは
やっぱりちょっとやった感というか
自分がやってる仕事の意義とかは
見出せてたんですけど
それを続けていくのはちょっと
体力的にも
上に行けば行くほど辛いかなと思って
僕はちょっと断念しましたね
そういう意味では
なるほど
全然違いますもんね
雰囲気とか
そこでいざ97年ですね
そこに
明日から来いと言われたのを
滋賀市立に入社しました
いざCMの世界は
その時の
石井パイセンどうでした世界は見て
その時はやっぱり
逆に全然違うなっていうのが
まず印象的にあるのと
もちろんその頃も
大変だったというか働き方改革がないので
すごい寝れないし
帰れないっていう時もあったんですけど
テレビより楽だなと思いました
だからテレビを先に経験してたことが
逆に良くて
これなら続けられると思って
思ったのは
まず最初に思ったのと
あとはやっぱりタレントさんが
全然違うなと思いました
テレビで見てたタレントさんって
テレビでいるタレントさんはもっと親しみやすいんですよ
現場でも
マネージャーさんがガンガン出てくる感じ
でもなくて
もちろん文化の違いということを
今言ってるだけなんですけど
その辺が対応が全然違うな
ところが一方
CMっていうのはどっちかというと
本当に出演者様っていう感じなので
ちょっと遠いですよね関係が
気軽に話せるような
もし知り合いでも
話せるわけでもないし
その辺のちょっと
大きな壁っていうのは感じますよね
カルチャーの違いは
誰が作ったカルチャーなんですかね
なんか不思議ですよね
客様っていう感じで
タレントさんとは向き合いますし
それが良い悪いは別としてですけど
おかげさまでいっぱい
タレント広告っていうのを
ものすごい担当させていただいたので
フリーランス時代
それはたぶん後々
会社作ってからも役に立ってる
感じはしますね
タレント事務所さんとの
お付き合いの仕方とか
含め
ここで入った会社に
僕は3年間PMとして
CMはいっぱい作ったんですけど
2000年にだから辞めたんですよ
なんで3年間いたか
なんで3年で辞めたかというと
3年いれば
素人が3年間やって
PMになれば
どこでも中途採用で
入れるっていう話が当時は特にあって
さっきのコマージュアルフォトに戻るんですけど
中途採用は
3年以上の経験者って書いてあるんですよ
なるほど3年経験しないと
どこも行けないんだなと思って
それがでかいです
本当はもともと
TYOとかにも入りたいっていう
希望とか夢もあったので
3年間いけば
中途にいけるのかなとか
東北新社とか青井さんでもいいんですけど
いける可能性あるなっていうのが
3年経っていざ立ちました
辞めました
行くつもりはもうなくなってて
フリーランスになりました
ここからここにフリーが入るんですね
そうなんですね
その当時フリーって少なくてまだ
でも少ないけど
そんなにいないわけでもなくて
やっぱりフリーになれば
当然お金はいっぱいいただけるな
っていうのは知ってたので
それはどの
例えば監督が社内ディレクターから
卒業してっていうのも
似てると思うんですけど
PMとかもそうでやっぱり今までは
給料っていうのをいただいてたのが
フィーになって
フィーはいくらいただけるかっていうのは
もちろん自分の設定と
それを向こうが価値があるかどうか
払う価値があるかどうかっていうことで
払っていただけるかどうかって決まるじゃないですか
それがやっぱり
1.5倍から下手したら2倍とか
3倍とかっていう世界だったので
そこはちょっと一回試してみたいな
っていうこととお金的な話でいうと
あとはいろんな会社に行きたかったんですよ
やっぱり一社だけだと分かんないことも
いっぱいあるしさっきも
テレビやめて広告が向いてるかどうか
分かんないけど入ってみました
っていう3年前に思ったけど
それって一社だけだと
分かんないこともあるじゃないですか
だからいろんな会社を
例えば東北新社さんとかも行きましたし
いろんな会社行く中で
やり方の違いとかも当然あったし
留学先のアメリカでの挑戦
同じことも当然あるので
でもそういうことを学びたかった
っていうのもありますね
2000年からフリー制作を
2000年から入って
そう考えたら結構
フリーも3年も自分ご自身の中で
結構決めてらっしゃってて
結果的にはそうですよね
スパンと行かれて
フリーは今はとっても増えたじゃないですか
フリーの方々
当時だと
割と監督と
ご一緒するケースが
多かったんですか
結構指名だったりするじゃないですか
そういうのよりは
どっちかというと
制作会社の指名というか
もちろん
いわゆる
クリエイティブ業界の人材派遣会社とかも
あるじゃないですか
そういうところも登録してて
すごいですね
そういう時代もありました
だから
結構そんなに一部では
多分高い
高いフィーを取る制作として
有名だったかもしれないです
一部では
でもそこで
きらめきの2004年に至るまでに
2000年でフリーの制作をして
そこからその
今おっしゃっていた
フィーの高い制作を
どれくらいやったんですか
1年
でもね
まず最初の会社辞めてから
半年ぐらい
何もしなかったんですよ
要するに30歳ぐらいのタイミングって
みんな人生でちょっと悩むじゃないですか
このままこの仕事やっていいのかどうか
転職者も増えると思うんですよ
30歳ぐらいのタイミング
30とか40とかも多いですよね
じゃあ今度
40以降50まで60まで
この会社でいいのかな
いろいろあるんで
まずこの会社でいいかなというのと
この業界でいいかなという2つがあって
この会社でいいかなというのは
辞めました
この業界でいいかなというのは
すごくあって
同じ業界だけど
CM制作とか映像制作でいいのか
その頃も間違いなくデジタルだと僕は思っていて
ウェブ制作会社に入った方がいいなと思っていたんですよ
ウェブ制作会社とかもちょっと受けようかなと思っているけど
受ける前に
ちょっと調べるじゃないですか
調べた時にやっぱり
未経験者なんで
ウェブとなると
GoLiveとかで自分で作ってたりはしたんですよ
昔ソフトでアドビートソフトがあったんですけど
それこそFlashとかも
自己流で勉強してやれるようになりたいとか
Flash時代ですね
でももうマックスあればできちゃうので
ちょっとずつ毎日
自分で独学で勉強してて
でもそんな人と
バリバリ学生時代
勉強してきた人と
向こうの方が給料安いってなったら
向こうを採用するなと
当たり前のことを思って
これはやめようと
やっぱりちょっと自分が向いてるか向いてないかじゃなくて
今から新入社員と戦ってやるのは
どうかなと30歳に思って
でもちょっと疲れてたんで
半年ぐらい休んだ時に
お金がなくなったから
単純にフリー制作だなと思って
いろんな会社に営業したんですよ
それこそ知ってるところとか
そしたらお仕事いただいて
だんだんフィーも上げていって
みたいなところで
それで2001年の
後半とか
2002年だったかな
にまた違うとある会社で
今なくなっちゃった会社なんですけど
その会社で
マイクロソフトの仕事を受注されてて
当時
Windows XPが出た時で
Xboxですね
が出た時で
仕事が多数その会社はあったんですよ
それのチーフPM兼
LINEプロデューサーみたいな形で
半年間
長期契約でお願いできませんかって
言われて
入って
その契約が終わるまでに
いっぱいいろんなCMも作ったんですけど
その後に
この会社に入ってくれって頼まれたんですよ
僕もいい会社だなと思ってて
実際そこで今も恩師だと
慕ってる方にも
プロデューサーとして出会って
その恩師の方には
なんで恩師だと思ってるかっていうと
君はこんだけ英語ができるんだったから
英語を使ってもっとプロデュースしちゃおうよ
って言われたんですよ
もちろんやろうとしてたんですけど
あんまりそんなやってなくて
自分なりのプロデューサーとは
っていう話に繋がっていく話なんですけど
自分の能力を使ったり
ネットワークを使って仕事していくってことを
そこで切り替えられたというか
その人の助言によって
そういう方との出会いもあったので
その会社に入ってみようと思って
入ったんですけど
半年ぐらいで傾きまして
そこの会社がね
2002年になったんですけど
ワールドカップの年で
ワールドカップの年って
結構広告用が良くなかったんですよ
そうなんですか
そうなんですよ
ワールドカップがあるからか故に
その前は盛り上がってたんですけど
なった瞬間にもちろんみんな
サッカー見に行ったりとかもあるし
ちょっと仕事意欲も当然あんまなかったのが
わかんないんですけど
それまでお金を使ってたことが
その年はぼっかりお金を使わなかったのか
わかんないんですけど
あんまり僕の印象ですよ
フリーとしての活動
景気は良くなくて
その会社が傾いて
20数人いた人たちが
20人ぐらいリストラされまして
リストラというか
辞めてくださいって言われたらリストラですけど
で辞めた
それが2002年
2003年の頭ですね
ぽんと放り出されましたよね
またフリーですよ
またフリーやるしかない
またフリーやるしかないと
そこで普通だったら就職活動しますよね
僕しなかったんです
そこでまたフリーになる
そこでフリーになって
またフリーのPMに戻るか
フリーのプロデューサーという肩書きを持つか
どっちかだなと
両方やってもいいし
その会社が傾いたので
めちゃくちゃ営業したんですよ
それこそ今のプロデューサーの人とか
うちのプロデューサーとかに聞いて欲しいんですけど
飛び込み電話営業とか
今でもあるじゃないですか
20年前だったらまだ聞いたわけですよ
飛び込み電話営業して
すいませんと
こういうものでここここで映像制作やってます
あと画像制作もできるので
なんかポスターとか
パンフレットとか何でもいいので
あとウェブ制作もできますので何かありませんかと
もしご興味あるんだったら
今すぐ明日とかでもアポ取らせていただいて
ご説明に上がるので
行かせてくださいと
それで行きました
いくつか仕事を取ったんですけど
だけどそんな大きい仕事はないです
数百万とせいぜい
ただその時に
僕ミュージックビデオも好きだったから
レコード会社もいっぱい連絡してたんですよ
営業って今日電話して
明日仕事来ないので
今日電話していろいろ話を
お会いしてたら半年後とかで動くんですよね
そしたらどんどんどんどん
ミュージックビデオの仕事とかも
いただくようになって
レーベルさんから例えばユニバーサルとか
トイズファクトリーとか
そういうレーベルさんの
A&Rさんからお仕事
こんなのあるけど興味ありますか
みたいなことが増えていって
同時に広告も辞めたから
辞めたんですけどいいですか
っていう連絡は結構いただいてたんですけど
辞めたっていうのを知らずに
レコード会社との仕事とプレゼン活動
連絡いただいて
例えばプレゼン案件だけどどう
海外のこういう人使いたいんだけど
どうかな
僕一人だったから
プレゼンで負けたとしても
プレゼンのフィーをいただくんで
それが極論月に合算で
30万とかあれば暮らしていけるじゃないですか
一人だしと思ってやってました
その頃は
なのでフリーランスのプロデューサーであり
それこそ
ヤゴは実は
10%オフって名前だったんですけど
それ初めて聞いた
それ初めてでしょ
10%オフ
10%オフってロゴを作って
それはどこから来てるかというと
僕はアメリカの留学時代に
めちゃめちゃ
クーポンっていうのがあったわけです
日本ではそんなに馴染みのない
クーポン
今だと当たり前にデジタルクーポンとかありましたけど
当時は新聞紙とかの
チラシに付いてて
半分切って持っていくと
それこそマクドナルドとかでも
クーポン使えて
1ドル安くなったりしてたんです
それがずっと頭の中にこびりついてて
僕も会社作ったら
10%オフにします
みたいな
気持ちですよ
実際に10%オフするわけじゃないんだけど
インパクトあるじゃないですか
10%オフっていうヤゴを
まだ会社にはやってないんですけどやってました
フリーで割と
フリーで
だんだん
テンパーの石です
そうなってきましたね
フリーの期間結構
長かったんです
合計では長いですよね
きちんと要所要所で
会社に入ってちゃんと
ナレッジをためて人脈も含めて
広げていって
テレビからCMから
フリーでしかもレーベルの話とかも
いろいろあったと思うんですけど
上で会社を作られたという流れになってくるんですか
今回のエピソードはここまで
次回もぜひ聞いてください
46:29

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