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2025-09-11 24:13

EP16|商業性の震動

ちゃん付け問題/苗字で呼び捨て/芸術性と商業性/ずっと同じ景色/作り手と一緒に知らないところに行っている感覚/コントロールされる不快さ/商業性の良いところ/折り合いの付け方/野心が満たされる経験

あなたが感じ取った『震える』事象を、本谷有希子が読み解きます。

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本谷有希子 X | @motoya_yukiko
1979年、石川県生れ。2000年「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手がける。主な戯曲に『遭難、』(第10回鶴屋南北戯曲賞)、『幸せ最高ありがとうマジで!』(第53回岸田國士戯曲賞)などがある。2002年より小説家としても活動。主な小説に『ぬるい毒』(第33回野間文芸新人賞)、『嵐のピクニック』(第7回大江健三郎賞)、『自分を好きになる方法』(第27回三島由紀夫賞)、『異類婚姻譚』(第154回芥川龍之介賞)、『セルフィの死』など。近年、著作が海外でも盛んに翻訳され始め、『異類婚姻譚』、『嵐のピクニック』をはじめ、世界12言語で出版されている。

プロデューサー:佐伯ポインティ @saekipointy

ディレクター:メチクロ @maticlog

製作・配信:密談 @mitsudan_net

サマリー

このエピソードでは、商業性と芸術性のバランスについて議論されています。本谷有希子は、自身の経験をもとに、舞台制作における商業的な成功や観客とのコミュニケーションの在り方を考察しています。また、演劇における顧客へのメッセージの届け方や表現の多様性についても触れられています。さらに、個人のモチベーションや成功の定義が異なることが強調されています。

商業性への葛藤
こんばんは、本谷有希子です。震動、第16回始まりました。
このポッドキャストでは、あなたが感じ取った震える事象を、私、本谷有希子が、本谷なりに読み解きます。
イェーイ
なんか、前回さ、15回の時に、ランジェリーナさんがお便りてくれた、その
自分の結婚相手をパパって呼ぶ人、どう思いますか?っていうお便りがあって、で、その中で私
パパって呼ぶ人はパパって呼ぶカルチャーの中にいるんだな。でも自分の美意識的にないから、それは自分はしないっていう
人は人、自分は自分っていう生き方でいいんじゃないかって言ったんだけれど
1個さ、そう、なんか似たような私、話あるなと思って、最近私、それ、人から言われたんですが
えー、10個ぐらい下の、そのお母さん、子供がいるお母さんに、なんだろうな、なんだろうな、お酒飲んでて話してたんだけど
で、その時にその人が、だいたい10個ぐらい離れてるお母さんって、名前にちゃんつけてくるんですよね。あれ、本当に気持ち悪いですって言ってたの
で、なるほどと思って
私、知ってますね。知ってますね。知ってるんだよ、これ。で、その人には知ってなかった
でも仲良くなって、割とその、ママを下の名前でちゃんって呼ぶことが、自分の中でありになってしまっているんだよね
これ確かに、ちょっと前なしだった、これ。ナイナイちゃんって
なんかやっぱどうしても自分の中ですごい、その芸能関係のスケベな親父の呼び方みたいなイメージがあって
ちゃんってなんかスケベじゃない?女の子ちゃんづけって、なんかいやらしいおじさんみたいなイメージがあって
あとなんか芸能関係みたいな、なんか業界的な匂いがすごい勝手に自分の中であって、ちゃんって嫌だなと思ってたのに
なんかいつの間にか、ちゃんしか、これもやっぱ消去法なんだよね
3にしては、3だとこれ以上距離つまらないなっていう、別に3っていう距離感じゃないし、もはや。ってなったらやっぱちゃんになっていくわけじゃないですか
最初はすごい嫌感あるんだけど、やっぱり繰り返していくうちにあんまり何も感じなくなってくる
でも仕事で出会う、じゃあ年下の女とか、年下の女の子をなんて呼ぼうかっていう問題を常につきまとっていて
私は一番しっくりくるのは、本当は年下の女の子はもう全員苗字呼び捨て
苗字呼び捨てがとてもしっくりきますね。私、割と高校生の時とか、あだ名なくて
もとやなんです。みんな、もとやはだってもとやじゃんって言われてたので
だから、あのなんですかね、その同姓であろうが苗字だけで呼び捨てて呼び合う感じって
先輩後輩感が出るのと、なんかやっぱあと身内感出るんですよね
なんかうちのもの外のものじゃないけど、やっぱあれすごく私の中でサバサバしてるし
かつ、その距離も詰められるからすごい良いなって思っているんですけど
まさかそのね、ママの子と知り合いのママの子と苗字呼び捨てできないから
だからちゃんを選ぶんだけれど、それを気持ち悪いっていう人を目の前で目の当たりにして
なんかショックですよね。私この人の中でも気持ち悪い10個以上上の人認定だったんだと思って
私でもその人呼んでないんですよ。これポイントで
成功の定義
多分なんですけど、ちゃんって言われても嫌がらない人を多分見抜いて呼んでる自信ある
なんかその辺の人とのコミュニケーションの感覚が、ゆるいというかズルズルっていう人に対してちゃんって行きやすいし
おそらくちょっとでもちゃんっていうの嫌だなって思ってる人は察知して呼んでない気がするんですよね
だから誰でも彼でも言ってるわけじゃなくて
でもやっぱりその彼女にもちょっと思った、でもこっちからしたらちょうどいいのないんだってっていう
別に呼びたくて呼んでるっていうわけじゃないんだよ。さんだと詰められないし
ちゃんがいいと思って言ってるわけでもないんだなぁと思いながら
そう、でもその気持ち悪いっていう感覚なんだなぁと思って気をつけようって呼ぶけど、呼ぶけどそれは多分呼ばれても何とも思わない人
あと呼ばれても何とも思わない人の方が付き合いやすいなって思う
嫌だよ怖いよ気持ち悪いって言ってもらってたら
その辺は自分で意識できるじゃん、ここのチューニング鈍感にしたろみたいなさ
ここすっごいエッジ立てとこみたいなので
呼び方とかそういうものに関してチューニングでも鈍感にできるんだったらしちゃえって思ってる自分がいますね
振動ネーム沼次郎
僕は演劇工業会社に勤めて2年になる20代男性です
今まで批評を趣味で書いてきたような僕はどちらかというと売り上げよりも芸術性重視だったのですが
働いていくうちに何でもいいからとにかく売れる公演をという商業性重視の思考へシフトしていることへお自覚して震えています
こんな考え方の自分が会社に染まっていっている感じがして嫌気が刺す一方で実際1000人キャパを超える劇場を埋めるとなると
演出家の知名度だけでは厳しい部分があります
もてあさんはこのような芸術性と商業性のあり方についてどう思われますか
どうやって折り合いをつければいいのでしょうかご意見をお伺いしたいです
なるほど 芸術性と商業性の話ですね
これでもあれですねいいねこの何でもいいからとにかく売れる公演をっていうもう会社の洗脳が
沼次郎さんに浸透してってるってことだねこれでもなぁ
制作の立場でしょ沼次郎さんって だから制作の立場の意見と作り手の意見って多分若干違ってはいると思うのだけれど
私がまずどうやって考えているかを言うと
そのあれだよ私こそも商業性と芸術性の折り合いがつけられなくなって
劇団解散してるからね商業のコースに乗ってどんどん小屋大きくなっていって
でそう有名な人とか呼んでってやってた時に馬鹿になっちゃうねあれってやっぱり馬鹿になっちゃうじゃないけど
前も言ったかもだけどやっぱりその時にすっごい私印象として覚えてるのは
公演毎回なんとか成功させていく成功ってつまり人が入ることを意味するのだけどね
で動員が目的になっていってでやっぱ何回かやるうちに
あれなんかずっと同じ景色見てるなぁ って思ったことが
一番でかい ですその商業性に乗っかりきれなかった
自分の中の大きなその心象風景として残っているのはなんかずっと同じ景色見てる あれみたいなのだからあのなんだっけ
あのくるくるカッシャー回して走るやつハムスターだ ハムスターのカッシャーみたいなさ
この興業が成功したらもう次の興業 そしたらまた次の興業って言って
それでやっていくとどうしたら人が入るかっていうことにシフトするじゃん考えが
しかも多くの人が好んでえっと見に行きたいと思うっていうのは いわゆるやっぱりそのエンターテイメント性の高いものであったり
するからってなっていくとそれを面白がれるかどうかっていう資質 のその分かれ道がすごくあると思っていて
あのめちゃくちゃ幸せで羨ましいなと思うのは 商業性エンターテイメントを自分もワクワクして書いてて
でそれが多くの人を喜ばせてみんなから求められて この出してる側もすごいそれが楽しくてしょうがないみたいな人がたまにいるんです
本当に好きなんだこの人エンタメ作るのがって人がたまにいるんですよ それ見た時になんて幸せのマッチングなんだろうって思う
それってでも本当にメガヒット出しているエンタメのものってなんかそういうのあると思うん だけれど作ってる人に苦がないというか
で一方でやっぱりそこがしんどい人っていて 私はまあしんどかったんよね
芸術と商業を分けるつもりもないけどでもじゃあじゃああえて分けるとしたら 演劇小説に限らず私が思う私が大丈夫なものって
書き手とか作り手も一緒に考えてかつ答えがないもの 作り手が作りながらその問いを深めていっている作品
その作ってる時間ってイコールそれについて考えている時間なんだよ だからその人も答え出てないのその
表現したいことについて だから見ている時に一緒に走ってるというか一緒に一緒な場所に行こうとしている感覚だから
なんか自分も相手もわからないところに自分も一緒に行っている感覚 でも一方私が何か見たいと思えないものって
作り手がやっぱり答えがわかっていて 導かれるものなんですよね導かれるって言い方はまだ良くて
要するに操作されるものコントロールされるもの ここでこうしておけばこう思うでしょ
でここでこういうオチをつけておけばみんな納得とか満足とかするでしょ ここでこうしておけば盛り上がるでしょ
じゃあ次こうしたら意外性あるでしょ みたいになんか全部
そのために何か点が置かれていくものって結構あってそういう設計で作られている ものって結構あるっていうかまぁ
まぁだいたいそうなんだよ そうなった時に
そのジェットコースターはまぁ アップダウンあるから確かに楽しいかもしれないけど
やっぱりそのコントロールされてるっていうことへの不快さが
なんか私はダメであとやっぱり自分がコントロールしている側だとしても コントロールするのって何も楽しくないみたいな
なんでこんな自分が思った通りに人を導いていってはいこうでしょはいこうでしょ はいここにここにたどり着いてはい5分前にこんなびっくりしたでしょみたいな
それが何が楽しいのかわかんないその作り手として
ことがあってでも嫌じゃん嫌じゃんというかその 自分が何かに操作されたりコントロールされたりするのって基本そんなに気持ちいいことじゃないんだろうって私は思うんだけれど
だからそれがすごくあまりにも見えすぎていて別にそこに問いかけもここで本当に表現したいこととかもあんまりその作り手になくて
ただただ表面的に面白いもの感情が動くものみたいなものを見せれた時にやっぱり だから何なんだろうっていう感覚にはなる
だから多分この沼次郎さんの言う 働いていくうちに何でもいいからとにかく売れる公園をという商業性重視の思考っていうのは
商業性重視が悪いんじゃないんだと思うんだ 商業性の良いところあってそれはやっぱり
そうそれ私前昔言われてたやっぱすごく 誰かを食べさせてる
スタッフとかいろんな人にちゃんと経済的に還元できてるっていうのってすごいことだなって私思います
新たな挑戦
それに携わった人のみんな経済的にちゃんと 働いた分だけ見返りがあるってすごいことだからそれはすごいなと思うけれど
じゃあ 何でもいいからとにかく売れるの方が問題なんだと思うんだよ
その目的になっていることが問題であって商業性って例えば とにかくお客さんが喜ぶもの喜んで幸せになって嫌なことを忘れられるものを
絶対作りたいっていう商業性重視だったら 全然良くないって
思ってしまう だってそこに志があるから だから商業性は問題ではないのかも
そこに何でもいいからとにかく売れるっていう さっき言ったようなもう本当に
さあそのAIがプログラムしたジェットコースターのレールを引いてさ そこ走らせてはい良かったねっていうものでいいから作れって言われてたら
そりゃ腐るよねって思ってしまう だからあれかもね
とにかく売れる公演っていう目的を外して その
とにかく人を楽しませる公演をとか とにかくお客さんが満足する公演をとかっていうふうにその商業性だからこそ
作れる設定みたいなのに置き換えれば まだなんか
腐らないというかやり方はあるんじゃないかなって思う
ちなみになんかそのじゃあどうやって折り合いつけるかは2種類 今のところで2種類あるなと思っていて
私はちなみに今めちゃくちゃちっちゃいカフェ公演 本当に普段カフェみたいなところでこないだ
あの今まで作った中で一番小さい規模の演劇を作って でそれはいわゆる実験的な公演というやつで
えっと私が今まで演劇見てなんか演劇 ダサ気持ち悪いって思った要素って何だろうって考えていってそれを1回排除して作って
っていうふうに 出発した演劇を作ったんですね
演劇における商業性と芸術性
それはセリフのやり取りを排除して 超大な小説的なモノローグをたった一人でもう70分喋らせるっていうのをやってみて
これがやっぱり自分の中では演劇の可能性を拡張してるっていう感覚が自分の中にはあって やっぱりすごい面白いのはその自分的に
で面白い でもこれがじゃあ多くの人に伝わるかって言ったら全然違うだろうなっていう客観性ももちろんあって
だから今その折り合いの付け方としては すごいちっちゃいこれが私の思う演劇だって思うものを作らせてもらう場所と
同時というか並行してちゃんとある程度の規模で入る劇場で多くの人にちゃんと届く演劇を作るっていうのを
両立させるっていうやり方が一つ成功法としてあるなと思っていて
私この間なんかその自分の仕事の流れで過去書いた自分の劇曲を読み返したんだけれど なんか意外とバカにできなくて
素直に物語の力を借りて かつ物語のフィクション性で油断させておきながら結構その
エグい問題を取り扱ってるんですよね これ多分今絶対できないんだよこの演劇っていうぐらい深掘りしていて
それでもう一つやり方があるなと そのさっきみたくナイナーとメジャーを隅分けて両立させていくっていうやり方と
あとはやっぱり多くの人に届くものを作っておきながら そこに自分の毒を実は潜ませているみたいな
実は背後からぶっ刺すみたいな作り方があるなぁと思って 一見エンターテイメントで笑いながら見たりしてるんだけど
最終的に連れて行く場所がもう実は笑えない場所であるみたいな ところまで行くっていうやり方もあるなっていうふうに今思っていて
だから決してその商業性の中に芸術性が入れられないわけではないなってつまり思っている 一番いいのはもうそこなのかもしれない
なんかその実験性はすごくやっぱ楽しいし いいけどでもどっかでやっぱり人にも見てもらわないと意味ないじゃんっていうのもあるし
なんか芸術芸術って言ってしゃらくせえなみたいなのもあるし でもやっぱり商業商業なんか人気者っていう場所も全然行きたくないわみたいな
だけど 今私がなんかこうしたらいいんじゃないって思ってるのはそう
例えば超有名人使って で有名人って安心するじゃん 知ってる顔だし
その安心してる座組みの中で ギョッとさせるというかその人たちでこれすんの?みたいなところまでいければ
なんかかっこいいなぁって いやだからやり方は必ずしも芸術性と商業性って分けなくていいんじゃないかなぁって
で今ちょっと思って さっき思っていた
なんかやり方あるかなって思って やり方ある気がするなって思ったところ
だから 飲んだっけ
だからそう沼次郎さんはとにかく この何でもいいからとにかく売れるという目的を一回別のものに置き換えてください
商業だからこそ素晴らしい目的ってあると思うし
でも一つ言うのは何でもいいからとにかく売れる公演とかっていうのを作家とか作り手にまで背負わせると
その作家とかが本当に消耗しきって壊しちゃう可能性がある 作り手を
成功の定義と個人のモチベーション
だからなんかね そこは最後の人間性としてちょっと保っておいてほしいなっていうか
作り手を壊してまでそんなことする必要 だからそれはなんていうかな
制作会社の人間と制作の人間として絶対ケアするべき部分だよね とは思う
だからエンタメ作るのが大好き もう幸せでしょうがないみたいな人に巡り会えるとすごい幸せだな
ね あんまいない…いるのか いっぱいいるのかな逆に わかんないや
私は動員がどんどん増えていって で、なんか有名な人たちを呼べるようになっていった時に楽しかったのは
なんだろうな 結構平べったく言うとその野心が満たされていくみたいな
私結構田舎から出てきて その何者でもない状態で出てて
で、やっぱ何者かになろうっていう怪物だったから 承認欲求の怪物だったからやっぱ
それが承認されていくことに思えたんだよね 動員が増えてその劇団もてあき子っていう名前がちゃんと認知されていって
大人がちゃんと その大人がね 言い方悪いな 大人が群がってきたんですよね
それは承認されている感覚があって それが正直モチベーションにはなったかな
いろんな人が楽屋に来て紹介されていって 挨拶されていって言った時に
ってなっていったし あとその予算が増えていくんですよね
だから予算が増えるとやりたいこととかが いろいろ予算がなくて諦めなきゃいけないこととかが減っていくんですよ
でその安っぽい美術作んなくて良くなってクオリティ上げられてたりみたいな 単純にその
予算が上がって質が上げられるみたいなところは ちょっとモチベーションにはなったかも
でもなんかそれも別に演劇って何を嘘ついてもいい場所だから 別に物何もなくていいじゃんって思っちゃったのね
物下手に作るからそれがそのチープであるとか なんかあんまりリアリティないなとか思うわけで
ないならないで本当にコップ1個とかで演劇できるんですよ なんかそれも別に予算があるからいいって今あんまり思わなくなったし
ただあれかなでもやっぱだんだんそのやっぱ人にいろんな紹介されていくこととかも だから何なんだろうって思うようになっちゃったしすごいキラキラした場所に一見見えるんだけど
別にここ痛い場所じゃないなってはっきり思っちゃったからな だからあの全く痛くない場所ではないたまーに
たまーに覗けたらいいかなーぐらいのこんなきらびやかな場所あるんだみたいな やっぱり
芸能人ってキラキラしてますよね でもたまにこういう場所あるんだって見れたらいいかなーっていう感覚かな
だから モチベーションはそうね私すごい野心家だったので
そこが満たされている感じだったかな
でもやっぱなんか結局やっぱ共通社会に飲まれてる感じが
だって動員が入ったら成功入らなかったら失敗っていうそれが成功の定義なんだものを作った時の成功の時入るか入らないか
そんな人がどう思うかであって だから
あの商業ってやっぱりそこなんですよね成功の定義があって じゃあ今小っちゃいところであっている個人的な場所の成功の定義って
自分が思うこれが演劇だってものが作れたかどうかが成功の定義なんですよ だからそれが
人入ろうが人入る前が基本あんま関係ない入ったら嬉しいけどそれよりは自分がこれが私の演劇だと思うのを作れたかどうか
の方に重きを置いてるからなんかやっぱり そのそれぞれの場所の成功の定義がはっきり違うっていう感覚かな
というのが芸術と商業 って思いました
じゃあそういうことでこの番組ではあなたが感じ取った震える事象を募集しています 概要欄のリンクから送ってください
あと毎週聞いてほしいのでこの番組のフォローとコメントもお待ちしてます はい今日も聞いてくれてありがとうじゃあまたね
24:13

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