なんとなく僕たちの社会っていうのはその階級化されているよねっていう風な、
まあそういう捉え方をしていて、
で、このダイナミクスというか動的に捉えることの大事さっていうのは、
その例えば文化資本っていうのが、
僕がドストフスキー読みますよね、
司さんがドストフスキー読みますよねってなった時に、
両方が同じ文化資本を持っているんだけれども、
僕と司さんには多分異なったテイストみたいなものがあると。
で、それをどういう風に説明するかっていうと、
そのハビトスっていう概念で説明していく。
ハビトスっていうのは、なんていうかな、
習慣みたいなものとして日本語で訳されやすいんだけれども、
その自分が持っているその社会関係の中で、
こういう風なことをやった方がいいよとか、
こういう風なものはやるもんだよねっていうメッセージを受けて、
自分がやるようになったもの。
で、そうするとそのハビトスの実践の中で、
いつかその文化資本というのを持つようになるんだけれども、
それは結構個々で変わってくる。
その似たようなハビトスを持っている人もいるんだけれども、
大体個人でそれぞれのハビトスの中で、
自分の文化資本を持つようになる。
で、この文化資本とか経済資本も、
おそらくそうなのかなと思うんですけど、
通用する場所と通用しない場所みたいなのがあって、
で、例えば僕がアマゾンの先住民たちの村にいるときに、
ドストイスキーを読んでるか読んでないかみたいな、
全然全く関係ないというか、
彼にとっては何の価値もない話であって、
で、それが僕が例えばヨーロッパの社交会に行ったときに、
いや、アマゾンでドクガイルの種類を見分けられますみたいなものが、
やはり何の意味もないみたいなことと同じで、
で、それをシャンっていう貝っていう言い方をして、
で、その同じような文化資本とか経済資本が流通する場、
みたいなものを想定しているっていうのが、
ブリュジューの言い方なんですよね。
で、そうなってくると、この貝とか文化資本とか、
ハビテスみたいなものの組み合わせの中で、
この社会という動態が社会空間というふうな言い方をする、
ブリュジューはしているみたいなんですけど、
空間の中で自分がどういうふうな社会的地位にいるのかみたいなものを判別したりとか、
お互いを評価し合うことによって、
この大きな社会の中のマッピングが成立しているっていうのが、
ブリュジューの言い分なんだと僕は理解してるんですよね。
これ不正確だったらごめんなさい。
で、ディスタクションの解釈で言ったら、
すっごく雑に説明する人の言い方だと、
結局人類ってマウント取り合ってるよね、
みたいなものの引用として使われることもあるじゃないですか。
そこに関してはさっき言った動的であるみたいな話の、
ブリュジュー自体がちゃんと敷いてる文脈みたいなものでいくと、
前回、つかささんが言った、
場所が変わると、文化が変わると、
自分の資本の価値っていうのがコロコロ変わるっていう話し方と一緒で、
そういう意味での動的性なのか、
それとも室さんが前回、友人の編集者さんが、
文化資本っていうものは家で引き継がれるみたいな、
その何か数パーセントの人たちがずっと文化資本の高いものを引き継ぐみたいな、
その絶対変わることのない性的なものなのかっていうのは、
どっちのニュアンスが違うんですか?
これが何で文化資本っていう、
キャピタルっていう考え方を使ったかっていうと、
それが多分経済的なキャピタルと似た使い方ができるからなのかと思うんですよね。
つまり、何らかの文化とかテイストを持ってるっていうのは、
それをその界の中で交換できるってことが多分大事なんだと思うんですよね。
で、その自分の持っているものっていうかそのテイストっていうのが、
その交換の市場の中でより良いレートで交換されるみたいなのがすごく大事なんだけれども、
そのキャピタル自体は、
ハビトスを通して自分の所属する集団から受け取ることが可能なわけで、
それが近しいのは家ですよね。
どういうふうな教育を受けた家なのかとか、
どういうふうな増床を持っている家なのかとか、
何をするのが当たり前の家なのかみたいなことをすると、
その実践の中で子どもたちっていうのは、
その文化資本っていうのを蓄積することが可能になっていくんだと。
そうすると、その蓄積された資本を使って、
今度は自分がその界の中で自分の持っている文化資本を取引するようになっていくと。
その取引することによって、
さらに自分たちの階級みたいなのが立ち現れてくるっていう話なんだと思うんですよね。
もしかしたら違うところで話すかもしれないですけど、
真似できる?
その文化資本っていうのは、
資本でありつつスキルでもあるっていう視点は、
絶対どっかでされていると思うんですけど、
そこは誰もがある意味共感できる概念かなと思ってて、
よく一番わかりやすいのはテーブルマナーとかかな。
そういったところで覚えて、
違うところで再演したり、
知らないフレンチ料理とか行ったら、
水が入ったボウルきて、
なんこれって思って飲むものなの?って思ったら、
手洗うものだとか、
それを学んでまた再演するとか、
そういった意味でもすごい動的な資本なのでは?っていう、
理解です。
じゃあちょっと今このディスタンクシオンの解説と、
ムロさんなりに読み解いたブルデューの言わんとしていること、
みたいののベースができた上で、
今この3社の中で、
ムロさんとつかささんは、
なぜブルデューのような人が、
フランスっていう文化圏から、
こういう本を生み出す、
ブルデューが生まれたのかっていう、
その背景のなんとなく想像していきたいんだけども、
僕はさっきのムロさんの話から、
フランスっていわゆるブランド作りが上手いじゃないですか、
国としてもそのブランディングというものに対して、
かなり意図的な施策を打ち続けている国だと思ってて、
ブランドって何かっていうと、
さっき言ったゲームルールを決める人だと思ってるんだよね。
だからなぜフランスという場、
ムロさんはフランス哲学だったり、
つかささんはフランスっていう現代圏っていうのも含めて、
なんであの国からこういう考え方が出てくると思います?
どうなんでしょうね、
なんかその辺はつかささんにも聞いてみたいんですけど、
僕の理解では、
ブルデューは高等師範学校って、
フランスのスーパーエリートという学校に行ったんですけど、
田舎者なんですよ、田舎出身なんですよね。
その田舎からパリに出てきて、
高等師範学校の同級生たちが、
みんなパリ出身であるみたいなことに気づいて、
びっくりしたわけですよね。
彼のびっくりがどういうところだったか、
僕はちょっとわからないんですけど、
想像するとないはずのものがあるってことだと思うんですよ。
自由平等を破壊するはずなんじゃないですか。
そういうものがなくなって久しいはずなのに、
パリに来てみたらあるっていう話だと思うんですよね。
これがたぶんイギリスでこういう議論が出ないのは、
たぶんイギリスの階級社会、身分社会っていうのは、
大平だからだと思うんですよ。
だから戦前の日本とか、戦後しばらくの日本でも、
できなかったと思うんですよね。
家族様は家族様だからみたいな話になるから、
たくえつかみたいな話をしても、
それは当たり前だろっていう話になると思うんですよね。
でもその前提がないと思ってたのにあるみたいなことに、
たぶんびっくりしたんじゃないかなと思ってて、
フランスも旧貴族とかが結局いるわけですよね。
モナコに行ったら貴族社会みたいなのがあるわけで、
独立は独立国家ですけど、
結局その国内に貴族社会が残っているみたいなものに近いのかなと思うんですけれども、
田舎者からするとそういうの見えないじゃないですか。
行ってみたらあるってなって、
それにびっくりしてこれを言い始めたのかなと僕は思います。
リベラルみたいなものを生み出した国ではあるが、
もともとの構造としては階級みたいなものをはっきりあった国。
かつ田舎と都会だったりするところの狭間のちょうど時期もあるし、
距離もあるしっていうところで、
ブリーディズニー自体はそういう体験を一番露骨に感じた可能性はあるってことですかね。
その摩擦はめちゃくちゃ大きいと僕も思いますね。
なんかそういう本当に、
名前なんでしたっけ、日本語、エコールノーマルシーパーヘアー。
高等師範学校。
高等師範学校っていうところに、
本当にエリチズムのシンボル、
象徴であるそれを構成する人たちが入っているところなんで、
本当に自分が知っている暮らし方とか生活の仕方と真逆のような人がいる中で、
めっちゃ摩擦がまずあって、
かつリベラル的なヒューマンライツなどをすごい大切にしている国だからこそ、
え?みたいな、待ってよみたいなところがめっちゃあって、
それはでも今見たらめっちゃ素敵なことだと思えるんですけど、
当時のブルジルの人はもう、は?みたいな感じだったんでしょうね。
意味わかんねえんだけどね。
だから矛盾するゲームルールがリニアに走っている中で、
そこをうまく擦り合わせるっていう厳しさはあるんだと思うんですよ。
特にこの時代だったらなおさらあるんだと思うんだけど、
多分そこから浮き出てくるリアルみたいなところに、
意気とか意気じゃないとか、差別性とかいろんなものが含まれる。
狭間のところに含まれるんだと思うんだけど、
ブルジルはこの時期も含めたタイミングから生まれた、
バサッとキレ味のいい言説を生み出したのかなとは僕も思っていて。
そうですね。もう一個多分言えるとしたら、
アルジェリア独立戦争を経験している。
アルジェリアに行ってるんですよ。
結局サルトルもそうだし、カミンもそうだし、レビストロスもそう。
このアルジェリアという経験をフランス人がどう考えるかってことはめちゃくちゃデカいものだよね。
俺が好きな人みんなそれだ。
面白い。
自由平等破壊の疑問はアルジェリアにあるわけじゃないですか。
アルジェリアにあるフランス人社会があり、
フランス化したアルジェリア人の社会があり、
ローカルのアルジェリア社会があるわけで、
その絶妙な階級感みたいなのがアルジェリアの源泉としてあり、
それはしかもフランス社会から覆い隠されている。
見えないことないことになっている。
そのダブルスピーチ的なところにめっちゃ違和感を持ったのかな、みたいな。
みたいなのはちょっと僕は思う。
だから彼のキャリアっていうのはアルジェリアから始まってるんですよ。
アルジェリア社会の分析から始まってるんですよ。
しかも今のフランスとアルジェリアの関係がめちゃくちゃ悪化してるっていうところも踏まえてすごい面白い話。
今もね、経済にも全然続いてる問題だし。
ちなみにブルデューとか今おっしゃったサルトルとかの、
いわゆる実存主義と言われた頃のこのフランスの論談の方々って、
戦後、前戦後みたいな話をすると、どの辺を現役として捉えたらいいと。
間違いないですかね。
たぶん60年代ぐらいだと思います。
戦後ですよね。
だからそこはアルジェリアと含むんですけど、
二次大戦の段階でフランスって一度ドイツに国土を奪われるっていう経験、
その敗戦みたいなものを戦中に受けて、
そこから立ち上がって実存主義のようなものが生まれたっていう僕の認識と、
あと今のアルジェリアの話を聞くと、
何ていうのかな、その矛盾とかダブルスタンダードっていうものとか、
あとは理想みたいなものとの付き合い方、
それはこの国の人たち上手くなるよなっていうのは感じたんだよね。
日本も結局戦後のこの行動経済成長みたいなところとかも、
ガラガラポンがないと変えたり、
矛盾みたいなものに対して立ち向かうことができない日本人みたいな、
僕らのような感覚から比べると、
常にダブルスタンダードみたいなものとの摩擦の中で生き続けるって、
多分何ていうのかな、
そもそものの捉え方とか文脈の感じ取り方って違うだろうなっていうのは、
今の話聞いてすごい感じますね。
だからディスタンクシオンを片っぽの側から利用してこう語ろうと思ったら、
すごく使いやすいんだけども、
そもそもがさっき言った動的であるっていうそのものを感覚的に分かってないと、
すごく恣意的に運用しやすい話だと思います。
エリティズムの話。
前回の話の中でもエリティズムっていうものを、
悪いものだったりでも自分で持ってしまっているものみたいな言い方をしたんだけど、
僕はその摩擦のあるその接点にこそ面白みがあるから、
闘争って面白いんじゃないかって話をしたい。
けども前回の時はちょっと僕後半この話をしたかったので、
あそこで止めたんだけれども、
実はその摩擦の部分にこそ例えば文化的なもの、
新しい文化が生まれたりとかアート的なものって立ち上がるし、
そういう狭間にいる人って僕のこの前の言い方で言うと、
悪を背負うような部分っていうのが少なからずあるみたいな。
だからそこの話をもっとしないとこの話っていうのは落ちないなって感じ。
なるほどなるほど。そうかもしれないですね。
多分今日はいろんな極端なそれぞれの立ち位置から来る極端な話出るんだろうけれども、
前提としてこの摩擦の部分に面白さや、
次の世代の文化を引き継ぐためのダイナミズムのエネルギーのそのものがあるんだよっていう前提をもって、
ちょっと聞いてほしいし話したいな。
摩擦をみんなで理解するために。
そうそうそうそう。
ディスタンクションっていうこの語られ方の前提にこれがあった方がいいんじゃないかっていうことを、
長い話の中でできればと思うので。
じゃあちょっと前提設定としたらこんな感じで大丈夫かな。
いいんじゃないですか。
でですね、前回消費者クリエイターっていう単語の言い方で僕は前回置いたんですけども、
あれをいいのか悪いのかというよりは、僕はどちらかというと、
今消費者クリエイターが最も楽しめる時代だから、それやればいいじゃないみたいな。
やるのってすごく楽しいと思うよっていう僕の言い方に対して、
3人でいろいろ話してたら、それこそ室さんは特命クリエイターになりたかったっていう発言で、
スカッタさんが驚く。
まさか。
その狭間でそれぞれがどの立ち位置なんすかよくわかんないまま話が進んだように聞こえたと思うんだけども、
じゃあ改めてちょっと今回ディスタンクションとエリティズムっていう話をするにあたって、
じゃあ僕らって今どっちが心地いいと思ってるのかっていうのは、
ちょっと態度表明として最初したいなと思ってて。
最高。楽しい。
室さんは前回特命クリエイターとして楽しんでいたいわゆるweb1.0、1.5ぐらいの頃のインターネットがすごく心地よくて、
承認欲求的にもすごく満たされていて、
ただコテンラジオに参加して以降っていうのは室越龍之介として何らかのものを背負って、
ある意味僕の言い方だと僕はもうすでにあなたは論談に入っている。
世界で言ってるのは梅津黒さんだけですけど。
室さんはもう無名声とか自分の名前を背負っての態度表明をしなければいけない人になっているっていう意味でいくと、
いわゆる僕の言い方で言う消費者クリエイターっていう立場はもう許されない人になっていると思うし、
僕は実際僕の経歴すべてがいわゆるプロフェッショナルな世界でいろんなキャリアを経てきたので、
消費者側的なスタンスによって何か表現をするっていうことは、
僕もしたこともないし得意でもないし、
あと自分の経済行動を見ていても消費者としてのセンスがほんとないなと思ってて。
それはどういう意味ですか。
これ子供の頃からなんですけど、
例えば同級生がみんなが憧れているようなものに憧れることができないとか、
夢を持てと言われても夢を持つみたいな、
いわゆるメディア、ディスプレイに映った何かに対して自己投影するってことがそもそも下手なので、
憧れによる消費行動だったり、憧れによる闘争だったりみたいなことは子供の頃からほんと下手で、
だからそれは性愛の場面においてもそうで、
だからそういうのがもともと下手な子がさらにプロフェッショナルな方に入ってしまうと、
いわゆる作られているものっていうのが誰かが作ったものっていう前提を省いて、
例えばフィクションとかも没頭することがそもそもできないんですよ。
映画を映画としてストーリーに自己投影してみるみたいなことすらすごく下手な人なので、
だからそもそも消費者的に要はレールに乗って楽しむみたいな、
前提に乗って楽しむみたいなものがそもそもすごく下手な子だったから、
っていうのもあって適正として僕はプロフェッショナルを選んだりしたので、
だから僕はある意味本当に羨ましいなって思うっていうか、
そしてこの前はそういう言い方をした。
消費者クリエイターみたいな立場って本当に楽しいように見える。
今の言い方、説明の仕方をすると、
例えば勝手なレイヤリングですけど、
プロフェッショナル、消費者クリエイター、消費者みたいなレイヤーがあるとしたら、
そことディスタンクションの概念は重なってるんですか?
めちくれさんの中では。
重なってると思います。
じゃあプロフェッショナルであればあるほどディスタンクションに近いみたいな感覚。
だからその闘争の場としては同じ。
っていう意味では一緒なんだけどっていう意味で、
今日最初に置きたい前提っていうのは、
今聞いてる人たちや僕らっていうのは、
どの立ち位置からそれを言ってるのっていうキャラクター作りが浮かばないとわかんないかなと思ったので、
ちょっと仮置きとして、
僕は消費者クリエイター側はもう許されなくなっている立ち位置で、
社会の中で立ってますよっていう言い方で言った。
つかささんはどっちの感覚強いですか?
僕は自分の経歴から言うと、
ブリッセルに14年間幼稚園から高校通ったんですけど、
そこはベルギーにあるフランス人学校なんですね。
パリからもう電車で1時間半、車3時間なんですけど、
その学校には大半がフランスを代表する大企業の息子娘さんが、
の人たちがベルギーに転勤して、
偉い立場で息子娘さんが入っているみたいなところなんで、
ある意味ディスタンクションのある種の中心って言ったら変ですけど、
フランス外での中心なんですよ。
そのもう半分がEU関連の組織で働いている人たちの息子娘で、
そう聞こえたらその人たちがすごい、もちろんすごいんですけど、
ディスタンクションがディスタンクションじゃないかって言ったら、
そこまでディスタンクションを感じ取れない家庭もいっぱいいるんですね。
やっぱり大企業みたいなのが大きくて、力を持ってて。
僕はそこで14年間綺麗に洗脳されたんですね。
大学に行ってから時間が経ってすごい僕はそれに気づいたんですけど、
高校にいる時まで高校まで本当に気づいて、
当たり前かもしれないですけど自分の閉鎖的なサークルなんで、
全く気づかずにそういうフランスの見方によりますけど、
めっちゃ悪いところでもあると思うし、悪いところを内面化しました。
そもそもの前提としてね。
そもそもの前提でそれがいまだに続いているのは、
今の生活でも本当に気づいてて。
ただ凄い立ち悪いなって思うのが、
それを内面化しているせいで本当にエリティストであることとか、
めっちゃいいと思っちゃってるんですよね。
ただそれって本当にエリートとか本当にディスタンクションをめっちゃ持っている人たちがやるのが、
正解みたいに見えるんですけど、
僕何者でもないのにエリート最高みたいな。
僕エリートでいたいみたいなとか、
エリートっぽい人が見えるといいよねみたいな感じなのになってるっていう状態がすごい、
それこそ自分の中で摩擦がめっちゃあって、
それを不感心するとキモって思いながら、
たまに?
たまに。
自分がユーザーリーダーとしての中で。
そうですそうです。
何々どういう立ち悪いみたいな感じで見てて。
だからそういった意味では、
僕はその自分はエリートの考え方を内面化してて、
自分の立場に関しては一部、経歴としてはエリートとしてみなされるかもしれないけど、
別にそれ以外ではそんなエリートじゃないのかなと思いつつ生きてます。
これが正解なのかよくわかんないですけど。
でもね、まさに今日その話をするんだと思うね。
はい、そうですよね。もっと自己回帰しましたね。
最高最高。
だからつかささんに現れる、さっき言った両面性みたいなもので、
たぶんこのアポカレンディの中ではすごくね、一番顕著に出してくれるので、
そこも嬉しくて、僕はそここそ美しさがあるし、
そこにこそ何かがあるんじゃないかと思う立場だからこそ、
そこをよりわかるようにみんなで話したいんだけど。
で、ちょっとそこの前提で今、それ3者の前提を言ったとこで、
じゃあちょっといよいよディスタンクシオンそのものから進めていきたいんだけど、
文化的闘争っていうのは、
ブルデューは肯定的に言ってると捉えてますか?
それとも、もっと全然違う意味なんだよって捉えてますか?
ブルデュー自体はいいとも悪いとも言ってないってことですよね。
分析したらそうなってるって話だと思うんだけど。
社会っていうのは分析したらそうだ。
それをやってる、どうやらみんなやってるっぽい話かなと僕は理解してますね。
じゃあ僕らはどうなんでしょうね。
僕はエリティズムっていうのが格も自然なことだと思ってるし、
ディスタンクシオンするっていうことっていうのは、
個々人がどうであるっていうのは別として、
人類が文化的に前に進んでいくためには必ず必要なものだと思う。
ただ、そこに闘争、競争みたいなのが生じる以上は、
そこには勝ち得る人と勝ち得なかった人っていうのが生まれるので、
そこに対する社会的なケアやルールみたいなものっていうのは当然必要がありながらも、
闘争そのものっていうのは僕はあっていいと思うし、
そこのゲームの楽しみ方の立ち位置っていうのをそれぞれ見つければいいじゃんっていう、
すごくそういう意味でリベラルな立場なんだけど、
お二人って結局今の、このゲームっていうのが存在する、
で、自分っていうのはそれを楽しめるっていう意味でいくと、どっちですか?
僕、モロさんの意見がすごい気になりますね。
時々最初の方におっしゃったと思うんですけど、
第0回の時にピナバウシの話とかして、
そういうのもなんか、闘争の一部だと思うんですけど、
どう思ってんだろうってすごい気になる、個人体験としては。
なんていうのかな、これって入れ子構造になってて無限というか、
上を見てもキリがないし、下を見てもキリがない系だと思うんですよ。
その違いみたいなものに気づかないのは、
結構やばいんじゃないかと思っていて、
みんな気がついた方がいいよって思っている?
特にエリートの方が。
自分の立ち位置を。
っていうのは、エリートはそうじゃない人たちを見なくていいけど、
そうじゃない人たちはエリートのことを見ているので、
自分が見れないものからずっと見られているのに、
いつまでも気づいていないみたいな状態はやべえよって思ってるんですよ。
たとえば司さんがコンサル時代の同僚たちを引用したことだったり、
今のリベラルの政治的背景だったりも含めた引用だったりも。
エリートが見えていないっていうところのヤバさの話だよね。
エリートが、たとえば自分を大衆だと思っているのがやばいみたいなのがあるなと思っていて。
それは、僕もたぶん田舎のエリートは全然大したものじゃない。
全然大したものじゃないんだけれども、
世界全体を見れば吹けば飛ぶようなものなんだが、
田舎で育つとあるわけですよね。
お前はエリートだなと言われる局面が。
それをそうではないって言っても意味がないというか、
やはりそうなのだと思うしかないなというのが僕はちょっと思っていて。
それは東京のエリートでもそうだし、ヨーロッパのエリートでもたぶんそうなんだろうと思ってるんですよね。
これがこの英語構図になって解釈されてるんだけれども、
みんな自分のエリート性っていうのを知ったほうがいいと思っていて。
自分のエリート性を知るっていうのは不愉快な経験なんだと思うんですよね。
でも、僕そう思われますか。
つまりそれは、あなたは私を踏みつけにしていますって言われてるのに近くて、
別に踏みつけにしてないんだがっていう話になると思うんですよね。
これは両方正しいと思うんですよ。
別に踏みつけにしていないんだが、
それは踏みつけにされていると感じる、踏みつけられていると感じるみたいなものと、
これはさっきのアルジェリアとフランスの話もたぶんそうで、
フランスの一般市民がそれほどアルジェリアを圧制してるという感覚は全くなかったと思うんですよね。
でもアルジェリアからしてみると、そんなことはないわけですよね。
フランス人にやられてるって思ってるわけですよね。
普通は話さないからこその台湾は新日だっていう話じゃないですか。
だから一歩踏み込んで、僕に迫ってきてくれたっていうことなんだけれども、
それで僕はどうしようもない後味の悪さっていうことをやっぱり感じるわけですよね。
そこにやっぱり植民という経験って絶対あるわけで、
みたいなものがあるので、
自分のエリト性っていうのは基本的にそれを自覚するっていうのは後味が悪いことだと思うんですよね。
だから僕が東京ハイカルチャーインテリって言葉を使ったのは、
東京の人がいて、ハイカルチャーの人がいて、インテリの人がいて、
これそれぞれ話すと別にそれほど嫌な気がないんだけど、くっつけると嫌な気持ちがすると。
これは嫌な気持ちになるための言葉だから、
自分のその何らかの特権性みたいのを築くっていうのはそのような経験であるはずなんだなと僕。
は思っており、だから僕は言うし、言われた時に嫌な気持ちだなって思うっていう。
そのそういう立場ですよね。
なんか要はエリートであるっていうことの表明の仕方、
エリートであるっていう立場からのどういうコミュニケーションを取るのかっていうものが、
過去のスキルをもう使えなくなってるなっていうのを感じていて、
要はその暴力性を帯びやすいこの立場っていうものを、
自分とは違う人と会話をしたり態度を示すときに、
無自覚だと捉えられるような行動や言動っていうのを、
エリートの立場の人がやりまくってるよって話だと思う。
そこアップデートしなきゃやばいよ。
そのためには知らなきゃいけないよっていう話かなと思ってて、
本当にそう思う。
今日この話を始める前に、たまたま僕先週までロンドンに行っていて、
ロンドンに行って僕驚いたのが、ロンドンの人たちってものすごくフランクだったり、
人種は僕はアジア人で、英語も全然まともにビジネストークができるようなこともなく、
ブロークンっていうと、僕のアメリカの体験だと、
こういう人間って日常を至る行動の中ですごくバカにされてたりとか、
軽く扱われてるみたいな経験をすごくしたんだけども、
ロンドンの場では一回もなかったんですよね。
全員がすごく丁寧で、配慮。
街行くほんのちょっとのところでもロンドン人って、
エクスキューズミーと言わずにソーリーって言ってくれるのとかも含めて、
すごく日本で行動してるような親切さだったりっていうのをすごく感じていて、
あれなんか同じ、僕は西洋みたいな言い方で行くと、
同じ都市にいるんだけど全然違う体験だなと思ったので行くと、
なんか彼らって階級が明確にある社会に過ごしながら、
そこをどういうふうにコミュニケーションを人々ととっていけば、
摩擦が生まれないというか、摩擦を緩和できるとか、
スキルや術っていうのをすごく持ってるんだなって感じたんですよね。
っていう言い方で今話を戻すと、
自分が資産、文化資本でも経済資本でもいいけど、
持ってる人間がどのような態度で公共に対して態度表明するのかっていうもののスキルって、
この日本っていう場に住んでいて、
そういう摩擦起きる現場に接すると、
ものすごく下手な同士でコミュニケーションしてるような気がするというか、
持つものと持たざる者のコミュニケーションっていうのって、
今の現代社会のこの日本って、
下手になっているような感じはすごくした。
外に出てみてさらに感じたっていうか。
それってイメージ湧くようにですけど、
どういう時に思いますか?日本で。
室さんはさっきエリート側が気づいてないっていうヤバさについて言ってたんだけど、
僕は下でいる経験がすごく長かった人間なので、
むしろ僕は、民の側があまりにも慣れてないって感じる。
それでいくと、前回僕、弱者マウントって言い方したんだけども、
人の言動を、自分がわからないことを発言している人の言動に対して、
見下してるって言ったり、すごくしやすいっていうか、
マウントを取られたって異常に感じる民にもなってしまってると思っていて、
そこの相性の悪さが出てるなと思う。
それは確かにそうですね。
昔の日本の物語の形式みたいに慣れ親しんでいると、
おそらく身分が下であることっていうのはどういうことかとか、
身分が上であることっていうのはどういうことかみたいなのを、
物語の類型として自分の中に内面化していくんだと思うんですよ。
例えば置いたお母さんがいる、放行人がいる、
消化の旦那っていうのは、それを見過ごしたら悪いやつなわけなんですよね。
さあ、いともをやるから、ちょっとお母さん見てこいっていうのをやらないといけないっていう、
それが身分が上のものの振る舞いであって、
それを受けたら、あなたのおかげでお母さん見てることができました、
ありがとうございますってやるのが身分の下の人間の振る舞いなんだっていうのが、
多分そういうふうな形式を多分持ってると思うんだけれども、
我々の観念において平等化されてしまったので、
この俺は上だからなみたいな振る舞いをすることもダメだし、
私は下だからなみたいな振る舞いをすることもダメになった、
そのような物語類型を持たない中で、
でもブリュードがパリに出てきたと同じで、
社会営業というのは厳選として存在しますよねってなった時に、
じゃあどうするかっていう回が別に出ておらず、
出ていないことで、メチクロさんが言うところの民は、
なんかずっと下に見られてるなみたいな感覚を受け続け、
エリートの人たちっていうのは、なんかずっと仲間である人たちから攻撃されてるなっていう感覚を受け続けるっていう、
これが起きてますよねっていう話ですよね。
今会社においても起きてるんだろうなっていうことは有意味に想像できて、
いわゆる管理職の人と社員っていうものの関係値にも現れてるなと思ったりとか、
だから僕は職人の世界で生きてるので、職人がものを教えるっていう、
現場でもそこが起きちゃってるなと感じる。
分かってる側が分かってない側に何かを伝えるっていう行動をした時に、
それをマウントと取られてしまったら多分何も教えられない。
そこは型としての型通りのものを教えるまではできるんだけども、
いわゆる都定性的なもので、
口伝や背中を見せるとか、
もう一歩踏み込んだ何かっていうのを絶対伝えることができなくなる。
そこも含めて、上下みたいなものっていう、
マウントとか見下しとか差別とか、
そういうワードで全部一括りに回収されるような民の行動っていうのも、
そこの摩擦っていうものを良きものにしない、文化的に良きものにしないっていう感覚を
僕は下の側から感じたっていう意味でいくと、
物語の話も確かにそうだよね。
何のゲームをロールプレイしてるのかっていう前提が物語だとしたら、
そこが失われた状態で全員フラットだよって言われて、
でもそこには社会構造があるって言われたら、
それこうなるわなんて、そこなのかもしれない。
そうかもしれませんね。
僕は下から見て下が下手になってんじゃないかなって言い方した。
山下さんはエリート側が気づかないヤバさを言ってたんだけど、
山下さんってどう感じる?
もちろん超ネガティブで暴力性のいっぱいある構図ではあると思うし、
それは別に全然否定しないし、
ですけど、上の一番最悪な自分の中のエリートは、
英語のキーワードを言うとゲートキープって言うんですけど、
自分の知っているもの、知っていること、
持っていることはもちろん情報ですね、どちらかというと。
情報を、自分の立ち位置を守りたいからだけに明かさない。
誰にも、特に下の人に。
いろんな文脈でも使われるんですけど、ゲートキープっていうのがよく言われてて、
それはもう本当最悪な行動だなとは思う。
ゲートキープして独占下占する人っていうのは、
最も僕は得がない人だと思っている。
いやこれってエリートの問題にまとめちゃった方が、
影響力としてはでかいような気がするので。
いやーなんかね、もう一つなんかちょっと大きい話を大きいままにしちゃうんですけど、
なんかすごい今エリート、エリートじゃない、分けてますけど、
意外と近いと思うんですよ、別にエリート。
だからそれも三石くんさんは承知の中で言ってると思うんですけど、
そんな中エリートに任せるとかではなく、
本気で今別に話してるだけですけど、本気でそう思ってる人がいたら、
エリート目指してエリートになれって話だと思うし、
なんかそこは全然射程範囲内って言うんですか?日本語で。
気が済んだとか思いつきません?
だから今ここまで聞いて、聞いてるあなた、この話を聞いてるあなたが、
自分はエリートじゃないって多分聞こえたと思うんだけども、
僕はあなただよって言って。
いやもう本当思っちゃう。
なぜならこの話っていうのは文化資本っていう話を前提にしてるので、
経済の資本じゃない、経済資本として持ってるあなたっていう意味で言ったら、
明確に持ってる預金額で決まるだろうけど、文化資本って恐らくこの現代日本においては、
相当な人まで富は行き渡ってるんで、
恐らく文化資本的なエリートの当事者っていうのは、
多分ジャンルを細分化すごくしていけば、
当事者じゃない人って相当少ないはずなんですよ。
だからあなたに言ってます。
そうだね。
多分お二人の感覚と近いと思うんですけど、
メチクロさんがエリートの問題なんじゃないかっていうことを言った時に、
やっぱり僕が一番初めに思ったのは、
では社会階層としてのエリートっていうのは、
この国にもう存在してないんじゃないかっていう話だったことを。
そうかもね。
日本でめっちゃそれ思います。
日本ってお金的な資本だけを評価値とすると、もちろん上限めっちゃいますけど、
なんか序盤で言うか悩んだんですけど、
フランスとかだと一番馴染みがあるんですけど、
やっぱり別軸の本当にお金がない人であっても、
これ戦えないわっていう無力な感じをさせてくる、
本当に生活の過ごし方が、
歴史的背景、文化的背景の価値を深く理解した生活をしている人たちが時々現れるんですよ。
それってお金とか稼ぎとかじゃなくて、
そこだと本当にこれは達成できないわみたいなのが現れるんですけど、
日本だとお金でやばいみたいな、六本木の多摩野菜、
別に行ったことないですけど、屋上でやばみたいなのがあるんですけど、
まあお金だしとか思うんですけど、
日本でそういった文化的歴史的背景がやばくて、
うわーみたいな、学習院の人とかに会っても別にそんな感じないですよ。
なんかチョロみたいな思っちゃうし。
これなんかね、どうなんだろうなと思ってて、
エリートがいるのかいないのか問題ですよね。
僕は結構少なくとも、日本のエリートみたいなのが、
政治エリートになる時代はもう終わってんのかなと思ってて、
官僚でもないし政治家でもなくなってるんだろうなと思ってて、
やっぱ地方に行くと地方豪族っていうのがいるというか、
でかお屋敷に住んでて、いろいろな財産があって、
東京から茶ノ井の先生とか呼んだりとかして、
たまにそこで詩の会とか短歌読むとか、
そういうことをしている人たちがいて、
地方エリートみたいなのは存在するだろうなと思っていて、
その人たちが地方財界とか地方世界で力を持っているっていうのはあると思うんだけれども、
じゃあそれの国家版みたいなのが今の日本社会に存在するのかっていうと、
分からない。僕から見えてないだけかもしれない。
なんかエリートの社会ってすごく下からは不可視化されているから、
存在するけど僕から見えてないだけの可能性全然あるなと思っているんだけれども、
本当どうなのかなみたいなのはすごく感じる。
だから我々がエリートと呼びたい人たちが、
自分のことエリートと思ってないっていうのももう差もありなんていう感じで、
階級自体が崩壊してしまって撤退戦に入っている。
だからやっぱ90年代に批評とかいうことをしていた人たちが、
全員オタクの話を始めたのも多分そうで、
もう撤退戦なんだと思うんですよね。
格論の話に入っていくというか、
もう天下国家の話じゃないっていうことになっているのかなと思ってて、
そうするとそれを選ぶ、多分そういうエリートを生み出す、
その教育、高等教育機関みたいなのも、
多分失われていると見ていいのかなみたいな。
東京大学、京都大学がそのようなエリートを生み出す場所から、
降りているっていう状態なんじゃないかな。
だから自分が公に対して責任を持たなきゃいけない立場とは、
とても思っていない。
だってそういう人じゃない、そういうポジションにいないと思っているから、
っていうことだなと思っていて。
そういう観点になると、
エリートと大衆というのは基本的にかけがえがないっていう、
ガッサンの言い方は全くその通りで、
ちょっといい大学に行った人、ちょっと文化的に素養がある人で、
我々の中にただいる人っていう感じになっちゃう。
前回僕は教養っていう言葉の使い方で、
それに近いニュアンスを僕はすごく使ってたんだけども、
いわゆるムロさんが言う、いわゆるインテリ、
ずっと継承されてきた意味でのインテリの言葉の使い方でいう教養というのと、
僕の言った教養の使い方が違ったじゃないですか。
僕は今の教養もしかりなんだけども、
今エリートっていう言葉も、
どっちかというとそこは崩壊した世界で、
お前のことだよって、
誰にでも言ってもいいぐらいになったところで言う教養だったり、
エリートだったりっていう話をしてるのかなっていうのを今感じた。
だから、あなたも僕もそこのベースに考えませんか。
めっちゃ面白い。
まずそのムロさんの話に戻ると、
エリート層もいないし、
エリート像もいないし、
ロールモデルがないのが大変問題かなっていうのが一つ思ったのと、
今の話、三石くんさんがしてた話すると、
僕はコンサルしてたからこそピンテキすぎて、
コンサルが、
例えば地方に行って何かを説明するときに、
何か許容がない行動をするっていうのは、
マジそれだと思って、
そのエリート像に関してはもうすごいマクロで見た。
で、コンサルとか、
コンサルからすべてじゃないんですけど、
例えばコンサルの絵を撮ると、もっとミクロな話で、
コンサル、大手なんていっぱいいるし、
中小だっていったらいっぱいいます。
それを×nにして、
自分と全く違う属性の人たちに説明するときの、
説明の下手さっていうか、
説明をするのはピカイチなんですよ。
でも、その人たちが理解できるような形で話したり、
同じ目線を持ったりっていうのが、
とってつもなく下手です。
で、それを世界中共有する、
同じこと言えると思う。
でも、やっぱり国によって美さがあったり、
そこはどの国関係なく、
なんか、同じ違う属性の人たちに、
文脈を合わせるっていうのが、
すっごいヘタだし、
なんで、そこをインテリジェンスとして、
見出してないのが、とてもインテリジェントじゃないなと、僕は思いますね。
そこが一番大事じゃんとか思っちゃうし。
今一瞬僕は、
それって日本の話かなと思って聞いてたんだけど、
海外だと違う、だとしたらちょっと話が変わるんだけど、
でも一瞬聞いて思ったのは、
戦争っていう、今、
全世界の認識としては、
悪いこととされる戦争っていうのはあったとしますと、
によって勝ちましたと、
二次大戦ぐらいまでは、そこで侵略して、
植民地化するっていう行動を国は取ってたじゃないですか、
戦勝国の人たちって、
侵略しました、その土地の人たちを植民地として、
自分たちのミッションをそこでやってもらうっていう行動を取るじゃないですか、
ある意味上の立場、
エリートとしてそこの侵略した人たちを統治しますってなった時に、
おそらくそこの人たちに伝わるようなローカライズだったり立法だったり、
まさに日本だって、
当時日本に来たJHQの人たちっていうのをエリートとすると、
彼らってきっと日本にローカライズしたコミュニケーションを取るってことは、
すごくできてた人なのかもなって思ったんです。
日本って戦勝国、さっきの、
台湾人が新日であるっていう理由についての、
さっきの何とも苦い経験を言ってたんだけど、
じゃあ僕らは日本国の国民として、
台湾っていうものを一度侵略というか、
仮にでもした時に、
日本国で国民として台湾に上陸したエリートたちっていうのは、
どういうコミュニケーションを持って台湾の人と接したんだろうっていう想像をすると、
今新日であるっていうことの、
何かの良すがみたいなものを残しているのかもしれないし、
もしかすると力によってやったら、
何せよこのローカライズをしてコミュニケーションをするっていう能力が、
いわゆるエリートとして身につけることなのかなっていうのはすごい感じた。
僕は逆だと思います。
エリートの能力っていうのはグローバルだと思います。
だからJHQの人たちが、
ちょっと正確にはは知らないのであれなんですけど、
その日本政府に求めたのは、
あなた方っていうのは民主主義を持っていましたよね。
大正時代っていうのは、大正天皇の統治時代っていうのは民主主義やってましたよね。
でそれをどうやってしくじったんですかと、
戻ってきてくださいっていう呼びかけだったんですよね。
日本のエリートもなんか軍部の田舎者にめちゃくちゃにされたけれども、
俺たちこそは対話可能であるという感覚があったんじゃないかなって。
ってことは対話の前提に上がれた時点では、
グローバルエリートである前提を持って、
日本のエリートとしては対話可能であるという感覚があったんじゃないかなって。
ってことは対話の前提に上がれた時点では、
グローバルエリートである前提を持って、
その会話は行われた。
おそらく。
それは台湾統治の時に、
それはそのヨーロッパ基準のグローバルエリートじゃないけれども、
中華圏におけるグローバルなエリートっていうのが、
日本にもいたし台湾にもいたし、
中国にも朝鮮にもいたってことだと思うんですよ。
そのグローバルな感覚をいかけして、
多分コミュニケーションしてたと思うんですよね。
だから異文化の人たちを理解するっていうのがエリートの仕草なのではなくて、
そのグローバルに一貫する何らかの共通の教養があるっていう、
その感覚こそが多分エリートの感覚なんじゃないかなって僕は思ってますね。
それが多分崩れていて、
民と呼ばれる人たちもその行動を取らなければいけなくなってるし、
民とエリートっていうものが、
あらゆるシチュエーションで交流を行わなければいけなくなってるから、
じゃあそれってグローバルルールであるの?
それとも細かいローカライズっていうものに対する知識、
僕の言い方で言うと教養が必要なの?
っていう話なのかもしれないね。
だから乱世なんだと思うんですよ。
乱世だね。
エリートが失われて乱世になってるんだと思ってて、
僕もちょっとやらせていただいたコテンラジオとかも、
じゃあ例えば1900、技術的に可能だったとしても、
1960年代とか50年代とかに、
九大での人たちで、
あのような影響力を持てるコンテンツ作れたかって、
多分できなかったと思うんですよね。
東大・京大中心の地の中心地っていうのがあり、
そこにスタンダードっていうのがあり、
エリートはこういうものだというイメージがある中で、
あのコテンラジオ的な態度って多分取れなかったと思うんですよ。
それが非常で何かを獲得できるかって多分できなかったんじゃないかなと思っていて、
その空白になっているからこそ、
ちょっと言い方悪いコテンラジオ好きな人が多いから、
気を悪くされたら申し訳ないんですけど、
ある意味のウゾウムゾウが出ている。
で、その中であれだけ勢いがあるってことは、
僕、天下取れるなとずっと思っていて、
その時に取れる天下っていうのはどういうものかっていうと、
例えばその維新の志士が明治維新やったとか、
鎌倉幕府が朝廷から幕府というものを開くっていうことをやったとか、
劉皇が皇帝になったみたいなものと一緒で、
これまでの既存のルールから新たなスタンダードを打ち出すということが、
多分できた。
それは明治維新の時は非常に緩く起きたというか、
武士階級の中でのわずかな階級移動が起きた。
殿様から下級武士へっていう力の分配が起きたし、
鎌倉幕府の時も地方の貴族というものが、
中央貴族化して独立を果たしたっていう意味で、
わずかな階級移動なんだけれども、
劉皇の場合は農民から皇帝というかなりラディカルな階級移動が起きたわけで、
古典ラジオのようなものが中央に出てくるっていうのは、
それだけのある種のラディカルな、
メチクロさんがいう意味での民からしてみると、
エリート同士の中央エリートと地方エリートのわずかな階級移動なんだけれども、
この中央エリートのスタンダードみたいなのがある種の空白状態にある中では、
天下統領みたいなことがおそらくできる位置にいたんだろうなみたいなのを、
僕は今の話を聞いてて思った。
それがなんで出てこれたかっていうと、
それは空白だからだっていうのを今日の話を通じて思った。
エリートが存在しない、エリートの像すら存在しないみたいなのが現状だから。
かっこたる上の席っていうものがなくなったからこその乱世。
その乱世、全体で言ったら上とか下とかっていう階層って作り出す、
想像し得ることはできるんだけど、
でも乱世だから交換可能な、すごくボラティビティの高い状態。
高い状態に今あるんだろうな。
だから僕もあなたがエリートだよっていうことを言えるっていうか、
聞いてるあなた、あなたのことを言う。
そんな違和感がない。僕らもう思えちゃう。
だからやっぱこの前提っていうのを、
消費者だろうが消費者クリエイターだろうがプロフェッショナルだろうがって、
いろんな言葉の使い分けはしたんだけども、
あなたの話として僕の話として話すっていう前提ができないと、
この乱世で一緒に過ごすっていうか、
同じ公共空間に生きているっていう自覚は持てないよなと思っていて。
だからその話なのかもね。
3名の僕による草の生えない声のディストピア。
アポカリ。
シーズン1は毎月第3金曜日発信。
詳しくは番組概要欄をチェック。
次に続く。