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2025-09-18 15:49

遊びは自由への抵抗? アーレント思想から探る自己充足性と現代社会の落とし穴

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ボ哲コラム「ボードゲームの自己充足性」⁠をNotebookLMでポッドキャストにしました。

お楽しみください😊


LISTEN(文字起こし)

サマリー

このエピソードでは、ハンナ・アーレントの思想を基にボードゲームの自己充足性を探求しています。ボードゲームはコミュニケーションや学びのツールとして機能しつつ、その真の目的は遊ぶこと自体にあると述べ、全体主義下での自由の成り立ちについても考察しています。アーレントの思想に基づいて孤独、孤立、見捨てられていることの三つの異なる状態を探求し、それぞれの意義を考察しています。ボードゲームの体験を通じて、自己充足性が自由への抵抗となり得る可能性が示されています。

自己充足性の探求
今回の探究へようこそ。今日はですね、あなたが共有してくださった シュピールフマニタスというウェブサイト
これがまた非常に興味深い考察でして、ボードゲームの自己充足性について 深く掘り下げていきたいと思います。
手元にはですね、ボードゲームそのものの面白さとか、 あとはそれが持つちょっと意外な哲学的側面、
さらには、ハンナ・アーレントの思想とのつながり、 なんていうところまで論じられているテキスト群があります。
今回のミッションとしては、ボードゲームを単にコミュニケーションツールとか 学習教材みたいに役に立つものとしてだけじゃなくて、
なぜそれ自体のために遊ぶこと、つまり自己充足性ですね。 これが重要なのか、その確信を探っていきたいなと。
そして、それが自由とか抵抗といったもう少し大きなテーマとどう関わってくるのか。
なんか一見ただの遊びの話のようでいて、実はかなり奥深い話になりそうだなと。 早速始めていきましょうか。
まずこのテキストの中心的な考え方、自己充足性ですね。 カタカナだとコンサマトリーとも書かれています。
で、その反対がインストゥルメンタル、つまり何かの手段とか道具として捉える見方。 この対比が鍵になりそうですが、具体的にはどういうことなんでしょう?
はい、その通りですね。 ソースが指摘しているのは、最近よくボードゲームがコミュニケーションが円滑になるからよいとか、
学びにつながるから価値がある、みたいに言われることが多い点なんです。 これはボードゲームが持っている役に立つ部分、
その有用性を評価する見方ですよね。 何かの役に立つ、つまりインストゥルメンタルだからよいものだ、と考えるわけです。
ソースの中では、これは行為の結果とか功用を重視する、まあ、功利主義的な発想に近いんじゃないか、というふうに分析されていますね。
なるほどなるほど、役に立つっていうのは一見するとすごくポジティブに聞こえますよね。 趣味とか遊びもどうせなら何かのためになる方がいいじゃないか、みたいな。
でもこのテキストは、その役に立つからっていう見方にあえて警鐘を鳴らしていると。 それはどうしてなんでしょう。
ボードゲームの核心を見失わせる危険性があるとまで書かれてますけど、どんな危険が考えられるんですか。
そこがすごく重要なポイントでして、ゲームには本来ルールの中で勝つことを目指すとか、そういうゲームの中の目的がありますよね。
でもソースが問題視しているのは、ゲームの外にある目的。 例えば参加者同士が仲良くなるためとか、何か特定の知識を学ぶため、みたいな。
その自己充足的でない目的がゲームそのものよりも優先されちゃうような状況なんです。 こうなるとゲームプレイの力学自体が、なんか歪んでしまう危険性があると。
テキストにはハイパーメリトクラシー的な強者が、さらに有利になる空間へと変貌するという、ちょっと難しい表現も出てきますけど。
ハイパーメリトクラシー。 ちょっと待ってください。実力主義が行き過ぎた状態、みたいな感じですか。
それがゲームの場でどう現れるってことでしょう。 例えば本来のゲームとは別の話が面白いとか、場を盛り上げるのが上手いみたいな能力が、
ゲームの勝ち負け以上に評価されるようになっちゃう、みたいな。そういうことですか。 まさにその通りです。
ゲームの外の目的、例えば場を盛り上げることが一番大事みたいになると、もともとそういうのが得意な人が、ゲームの腕前とは関係なく、なんか有利になったり、
評価されたりする。そういう空間になりかねないと。 そうなるとゲームは純粋な遊びじゃなくて、別の能力を競うための道具、
つまりインストゥルメンタルのものに変わってしまう可能性があるわけですね。 具体的な弊害も指摘されてましたよね。
一つは遊星ゲームズさんの記事からの引用で、楽しめばいいじゃんっていう言葉。 これが実は内輪ノリを正当化しちゃって、新人、新しく来た人とか、ちょっと社交が苦手な人を、
なんとなく排除する機能を持ってしまうことがあるっていう指摘。 えー、ありましたね。
これは楽しむっていう目的が、ゲームそのものに没頭することじゃなくて、もうすでにできているコミュニティのノリに合わせることにすり替わっちゃってる例ですよね。
結果として、ゲームはやってるんだけど、その楽しさっていうのは、実は一部の人にしか開かれてないみたいな、そういう状況が生まれちゃう。
はいはい。それからもう一つ、TANSANFAブログさんの記事を参照してあげられていたのが、ボードゲームを境にして、面白い話をすること自体が目的になっちゃうケース。
こうなると、プレイヤーはゲームに集中するよりも、なんか常に面白いこと言わなきゃみたいなプレッシャーを感じちゃう。
ゲームは面白い話を引き出すための手段になっちゃって、ゲームに没頭すること自体がむしろ場にそぐわないみたいな雰囲気になっちゃうと。
そうなんですよ。どっちの例も、本来のゲームが持ってるルールの中で競い合う面白さ、その自己充足的な部分が外から持ち込まれた役に立つっていう目的によって侵食されちゃってる状態を示してるんですね。
ゲームプレイがその外部の目的を達成するための、なんかどこかぎこちない、あるいはプレッシャーを感じるような手段になり下がってしまっている。
活動の価値
これだとやっぱりゲーム本来の魅力って失われちゃいますよね。
ここまでの話を聞くと、役に立つって言葉も持つ、ちょっと意外な落とし穴みたいなものが見えてきた気がしますね。
そしてここからがこのテキストの真骨頂ともいえる部分かなと思うんですが、哲学者ハンナ・アーレントの思想との接続ですね。
アーレントがそれ自体が目的である活動の重要性を解いたっていうのは、どういう文脈から出てきた話なんですか?
それはですね、彼女が全体主義体制を分析する中で導き出した非常に重要な論点なんです。
ソースで引用されているアーレントの言葉がその確信をよく表していて、
全体的支配はその目的を実際に達成しようとするならば、チェスのためにチェスをすることにももはや全く中立性を認めないところまでいかねばならず、
これと全く同じに芸術のために芸術に終止符を打つことが絶対に必要であると。
うわぁ、これは強烈な言葉ですね。チェスをチェスのためにする、芸術を芸術のためにする。
つまり何かの役に立つからじゃなくて、それ自体が目的になっている活動。
全体主義はなぜそれを許さないってアーレントは考えたんでしょう?
全体主義の支配者にとっては、そういう活動っていうのは人が完全に没入して外部の目的とか支配から自由になれる領域だからなんですね。
チェスに夢中になっている人とか芸術の創作に没頭している人っていうのは、その瞬間支配者の意図とかプロパガンダからある意味で逃れられているわけです。
だからこそ全体的な支配を完成させるためには、そういう一見役に立たないように見える活動、つまり自己充足的(コンサマトリー)な活動を考察する必要があったと。
アーレントが擁護したのはまさにこの外部の目的に回収されない活動の価値そのものだったんですね。
ということは、「ボードゲームのためにボードゲームを遊ぶ」っていう、なんか一見当たり前というかトートロジーみたいにも聞こえる行為の中に、実は人間の根源的な自由が宿ってる可能性があるということですか。
これはなんか直接的な実用性とか経済効果だけじゃ測れない学問、例えば哲学とか人文学の探求にもちょっと通じる考え方かもしれないですね。
ただ知りたいから知る、考えたいから考えるみたいな、その営みの価値。
ええ、まさにその通りだと思います。何かの役に立つかどうかっていう外部の基準から自由であること、それ自体が人間が人間らしくあるためのなんかすごく重要な条件なのかもしれないですね。
ただここで一つ疑問が湧くんですけど、ボードゲームを遊んだ結果としてコミュニケーションが活発になったり何かを学んだりすることって実際にあると思うんですよ。
それはもう完全に否定されるべきっていうことなんですか。それともソースはそのあたりをどう捉えてるんでしょうか。
それは非常に重要な点ですね。ソースもそこは明確に区別しています。
ボードゲームから「コミュニケーション」とか「学び」が生まれること自体を否定しているわけでは全くないんです。
大事なのはそれらが意図された目的ではなくて偶然的な副産物として捉えられているっていう点ですね。
副産物ですか。なるほど。つまり最初から「コミュニケーションのために」とか「学ぶために」みたいに旗を掲げてゲームをするんじゃなくて、
あくまでプレイヤーはルールっていう閉じた世界に没入して、勝利っていうゲーム内部の目的に向かって真剣に遊ぶと。
その結果として後から振り返ってみれば、「あの時みんなで笑ったなぁ」とか、「このゲームで歴史のこと詳しくなったなぁ」と感じることがあるっていう、その順番が大事ってことですね。
その通りです。目的と結果を取り違えちゃいけないということですね。
自己充足的な活動に没頭した結果として、予期せぬよい効果が生まれることはまあ大いにある。
でもその効果を最初から目的にしちゃうと活動そのものの本質が歪んでしまう危険性があると。
ソースの中で言及されている「小文字のO.D.」さんのスライド資料なんかもこの考え方を補強するものとして挙げられていましたね。
活動そのものへの没入が先にあるっていう考え方です。
なるほど。目的と副産物の区別、これはすごく腑に落ちますね。
さて、関連してですね、もう一つ興味深いテキストがありました。
アーレントにとっての一人であることについて。
これも全体主義の分析から生まれた区別のようですが、現代社会を生きる私たちにとってもなんか示唆に富む内容かもしれませんね。
アーレントの三つの状態
そうですね。アーレントは私たちが一人である状態を単純に一つではなくて、三つの異なる状態として区別したんですね。
これもまた彼女の全体主義分析と深く関わっています。
まず一つ目が孤独、solitude。
これは自分自身と対話するための思考にとって生産的な状態とされています。
私ともう一人の私が内的に対話する場で良心とか道徳的な判断が育まれる不可欠な状態だとアーレントは考えました。
次に二つ目が孤立、isolation。
これは他者と一緒に行動する公的な領域からは離れている状態なんですけど、必ずしも物理的に一人でいるってことじゃないんですね。
むしろ職人さんとか芸術家が世界に永続する工作物、作品とか工芸品ですね、それを生み出すために制作に没頭するような、そういう創造的な活動に必要な条件になりうる状態です。
そして三つ目が見捨てられていること、loneliness。
これは他者との繋がりだけじゃなくて自分自身との対話、つまり思考ですね、それとか世界との繋がり、創造活動ですね、それさえも失われた非人間的な状態です。
共通の世界から阻害されて誰からも必要とされてないと感じる最も危険な状態。
アーレントはこれが全体主義の格好の温床になると分析しました。
ボードゲームの役割
思考停止して全体のスローガンに無批判に従ってしまう人々を生み出す土壌だと。
孤独、孤立、そして見捨てられていること、同じ一人でも全然意味合いが違うんですね。
このテキストはこのアーレントの区別をボードゲームの話とどう結びつけているんですか?
テキストではですね、「ボ哲」、おそらくボードゲーム哲学の略だと思うんですが、これがあなたを孤独、ソリテュード、つまり思考する状態へと誘う可能性があるというふうに述べています。
ボードゲームのルールとか戦略について深く考えたり、プレイ体験を内省したりすることっていうのは、まさにアーレントが言う生産的な孤独に近い経験かもしれないと。
さらにボードゲームそのものとか、それに関するレビューとか分析、あるいは新しいゲームデザインみたいな工作物を作り出すためには、意識的に孤立、アイソレーションの状態へ、つまり創造的な没頭を選ぶことも有益だろうというふうに提案していますね。
なるほど。ボードゲームというテーマを通して、思考する孤独とか何かを生み出す孤立といった「健全な一人であること」の経験につながる可能性があると。これは面白い視点ですね。
そして、より大きな文脈で見れば、この2つの健全な一人であること、つまり孤独と孤立を経験することっていうのは、アーレントによれば全体主義とか、あるいは現代における悪しきポピュリズム、つまり思考停止して多数派に流れされるような風潮から距離を置いて、自分自身を保つための重要なアプローチになり得るということなんです。
これもまた、自己充足的な活動がいかに重要かという最初の議論、つまり外部の目的に回収されずに何かに没頭することの大切さと深くつながってくるわけですね。
さて、今回の探究もそろそろ終わりに近づいてきましたね。まとめてみましょうか。
あなたが共有してくださったシュピール・フマニタスのテキスト群からは、ボードゲームの価値っていうのは単に「コミュニケーション」とか「学び」といったツールとしての有用性にあるんじゃなくて、むしろそれ自体のためで遊ばれるっていう自己充足性にこそその本質があるんじゃないかという、そういう重要な視点が見えてきました。
そうですね。そして、その一見単純でもしかしたら役に立たないかもしれない行為、つまりゲームのルールの中で勝ち負けを競って没頭するっていう経験が、ハンナ・アーレントの思想を借りれば、個人の自由を守って画一的な思考を強いる圧力へのささやかな抵抗にさえ成り得るという、そういう深遠な可能性を秘めているという指摘でしたね。
コミュニケーションとか学びみたいな効果は、あくまで嬉しい副産物であって、最初からそれを目的にしちゃうと、かえってゲーム本来の面白さとか、そこから生まれるかもしれない自由な精神みたいなものを損ないかねないと、この考え方についてあなたはどう感じましたか?何か特に心に残った点とかありましたでしょうか?
そうですね。最後に、いつものように少し思考を広げるような問いかけをさせていただければと思います。ソースは、「ボードゲームのためにボードゲームをする」っていう自己充足的な営みが、ある種の抵抗に成り得ると示唆していましたよね。
あなたが普段、特に生産的だとか効率的だとか、そういう外部の評価とは関係なく、ただただ没頭している活動って何かありませんか?それは趣味かもしれないし、散歩かもしれないし、音楽を聴くことかもしれない。あるいは、ただ空を眺めることかもしれません。
もしそういうものがあるとしたら、それはもしかしたら、常に何かの役に立つことを求められがちな現代社会の中で、あなただけの自由の空間、アーレントが守ろうとしたような外部の目的に回収されない領域を守るための静かだけれどすごく大切な営みなのかもしれない。そんな視点で、ご自身の、ただそれ自体のための時間を改めて見つめ直してみるのも面白いんじゃないでしょうか。
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