ボードゲームのシミュレーションへの疑問
例えば、ビジネスゲームで経営戦略を学べるとか、歴史ゲームでその時代の状況をリアルに体験できるとか、
ボードゲームって、現実を体験できるシミュレーションだよね、みたいに言われること結構多いじゃないですか。
あなたも遊んでて、これなんか現実の練習になるかもとか、社会の仕組みがよくわかるな、なんて感じたこと、もしかしたらあるんじゃないでしょうか。
でもですね、その捉え方に、いやちょっと待ってよ、と一石を投じるようなテキストがあるんです。
今回は、シュピール・フマニタス プロジェクトが出している、「ボードゲームは『シミュレーション』ではない』、っていう、そういう文章があるんですけど、これをあなたと一緒にちょっとじっくり読み解いてみたいなと。
このテキストが言ってるのは、ボードゲームって現実のシミュレーションじゃなくて、むしろ心理学とかでいうラボラトリー、つまり実験室みたいな場に近いんじゃないかっていう視点なんですよね。
シミュレーションじゃないとしたら、じゃあ一体何なんだろうと。で、実験室だとしたら、そこで私たちって何を経験して、何を学べるって言うんだろう。
今日はこのちょっとユニークな見方を深掘りして、ボードゲームの新しい可能性みたいなものを探っていけたらなと思ってます。
まずですね、そもそもボードゲームをシミュレーションと見る考え方、これ自体はすごくわかりやすいし、特に教育の現場とかだと魅力的に聞こえますよね。
手元にあるテキストでもちょっと触れられてますけど、例えばビジネス系のゲーム、ああいうのを通して保険のちょっと複雑な仕組みがどうなってるとか、それが会社の財務諸表、具体的には損益計算書、PLってやつですね。会社の利益とか損失を示す。
はいはい、PLですね。
それとか貸借対照表、BS、会社の資産状況がわかるやつ、これらにどう影響していくのかみたいな、そういう具体的な知識、いわゆる形式知って言われるものを学ぶには確かに役立つ場面もありそうだなとは思うんですよ。
おっしゃる通りですね。特定の知識とかルール、手順みたいなその形式知を理解するっていう点では、ゲームがシミュレーションとして機能する側面っていうのは確かにあると思います。
しかしですね、このテキストが鋭く問いかけているのは、そのシミュレーションっていう見方だけでボードゲームを捉えちゃっていいのかっていうその限界と、あとそこに潜んでるかもしれない危うさなんですね。
ラボラトリーとしてのボードゲーム
ちょっと想像してみてほしいんですけど、あなたが現実世界で何かこう重要な決断をする場面、例えばこの新しい事業に投資すべきかとか、このリスク取るべきか取らないべきかみたいな判断ですね。
はい。
その時あなたの考えとか行動に影響を与えるのって、ゲームのルールブックに書いてあるようなはっきりした条件だけですかね?
うーん、いやそんなことはないですよね。
決してそうじゃないはずなんですよ。常に変わっていく市場とか競合の動きみたいな外部環境、あとは一緒に働くチームメンバーそれぞれの能力とかその日のコンディションとか。
あーなるほど。
組織の文化とかあなた自身の価値観、その時の感情とか気分、もしかしたら体調だって関係するかもしれない。
うんうん。
さらにはその場にいる人たちとのなんかこう微妙な人間関係とか、そういうちょっと言葉にしにくいテキストでは泥臭いって表現してますけど、そういう無数の要因がぐちゃっと複雑に絡み合った中で私たちは決断をしているわけじゃないですか。
確かにめちゃくちゃ複雑ですよね現実は。
そうなんです。で、ゲームっていうのはどうしてもルールとか設定によって現実のある部分を切り取らざるを得ない、限定された空間ですよね。
その中でいくらリスクを取る練習、つまりシミュレーションを繰り返したとしても、それがそのままこの複雑で何が起こるかわからない現実の状況で直接的に役に立つという保証はどこにもないんじゃないかと。
シミュレーションというのは現実のある側面を模倣することはできても現実そのものにはなれない。
なるほど、模倣はできてもそれ自体ではないと。
この2つを安易にまあ似たようなもんでしょって混同しちゃうと、かえって現実の複雑さとか豊かさを見誤ってしまって単純化しすぎちゃう危険性があるんじゃないかってこのテキストは警告してるんですね。
資料の中ではフランスの思想家のボードリヤールっていう人のハイパーリアルっていう概念にもちょっと触れてますけど。
はいはい、ハイパーリアル。
これはざっくり言うとシミュレーションで作られたものが現実以上にリアルに感じられちゃって本物の現実との区別がつかなくなっちゃうみたいな状況ですね。
あーなるほど。
要するにゲームで学んだことって現実でもそのまま通用するはずだみたいに思い込んじゃうことの危うさって捉えるとわかりやすいかもしれません。
なるほど。シミュレーションとして捉えることの限界とその危うさですか。
言われてみれば現実の複雑さ、その泥臭さを考えると確かにゲームで練習したことがそのままストレートに生きるとは限らないっていうのはなんか腑に落ちますね。
ではこのテキストはそのシミュレーションっていう見方の代わりにボードゲームをじゃあどういうふうに捉え直そうって言ってるんでしょうか。
そこで出てくるのがラボラトリー、つまり実験室っていうキーワードなんです。
ラボラトリー。
これは社会心理学者のクルト・レヴィンっていう人が提唱した「ラボラトリーメソッド」っていう人間関係トレーニングの手法があるんですけどそこからヒントを得てる考え方なんですね。
クルト・レヴィン、ラボラトリーメソッドですか。それは具体的にはどういうものなんですか。
実験室っていうとなんかこう分析したり検証したりする場所みたいなイメージですけど。
レヴィンが考えたラボラトリーっていうのは一言で言うと日常の役割とかしがらみ、例えば上司と部下とか先生と生徒みたいな普段の関係性から一時的に解放された安全な空間なんです。
はい、安全な空間。
そしてここがすごく重要なポイントなんですけど、その実験室の目的っていうのは現実世界の何かを模倣したり練習したりすることではないんです。
模倣とか練習じゃない。じゃあ一体何を。
主眼が置かれるのは「今、ここ」なんです。
Here and Nowですね。
今、ここ。
つまりまさにその実験室の中で参加者の間で「今、ここ」で実際に何が起こっているのか。
どんな相互作用、インタラクションですね。それが生まれているのか。
それを参加者自身が観察して分析してそこから学ぶっていうアプローチなんです。
これをボードゲームに当てはめてみると、あなたとか他のプレイヤーがテーブルを囲んでゲームをしている。
まさにその時間と空間それ自体がラボラトリーであって、そこで繰り広げられているやりとり自体が分析の対象になるんだっていうわけですね。
なるほど。日常から切り離されたゲーム盤の上っていう安全な空間で「今、ここ」で実際に起こっていること自体に焦点を当てる。
シミュレーションとは全然違う発想ですね。
例えばゲームで交渉する場面があったとしても、それは現実のビジネス交渉の練習をしているんじゃなくて、
あくまでこのゲームのこの状況下でこのメンバーの間で今起こっている交渉そのものを見るっていうそういうことですか?
まさにおっしゃる通りです。そこが非常に興味深くてかつ重要な転換点なんです。
ふむふむ。
ゲームの中の交渉場面って確かに現実の会議とか商談と見た目とか形式は似てる。相似形って言えるかもしれない。
似てますよね。
でもそれは決して現実の会議の模倣とかリハーサルじゃないんだってこのテキストは強調してるんです。
見た目は似てるけど本質は違うよっていう感覚ですね。
なぜならそこにあるのはプレイヤーAさんBさんそしてあなたがこのゲーム特有のルールと制約、
そしてこれまでのプレイ展開が生み出したこの盤面の状況っていうすごく特殊な条件下でまさに今リアルタイムで影響を与え合っている、
相互作用してるっていうその場限りの、もう二度と再現できない固有の、いわば一回性の出来事だからなんです。
一回性。
ええ。このゲーム盤の上っていう実験室の中で、一種のミニチュアの社会というか、独自の現実が立ち上がっているんだと考えるわけです。
焦点が現実を模倣することからテーブルの上で実際に起こっているインタラクションそのものへとガラッと映るんですね。
一回性の現実が盤上で立ち上がる、いやー面白い捉え方ですね。
確かに同じゲームを同じメンバーで遊んでも展開とか場の雰囲気って毎回全然違ったりしますもんね。
そうそうそうなんですよ。
あれはまさにその時その場の相互作用が生み出す一回性の現実だったのかもしれないですね。
そう捉えるとゲーム体験がまたちょっと違って見えてくるかもしれないですよね。
ゲームのルールとか使うコマとかカードは毎回同じでもプレイヤーの選択とか発言、表情、なんか場の空気みたいな
そういうインタラクションの連鎖によって毎回違う現実がそこに生まれていると。
うーん。シミュレーションじゃなくて現実の魔法でもない。
そしてゲーム版の上で起こる今ここのインタラクション、その一回性の現実に焦点を当てるのがラボラトリーとしてのボードゲーム。
自己への洞察を得る
なんかだんだん輪郭が見えてきた気がします。
ではここに迫りたいんですけど、この盤上の実験室っていう考え方で私たちって、具体的に何を学び、何を得ることができるとこのテキストは言ってるんでしょうか。
さっき形式知とか現実で直接使える正解を学ぶのとは違うみたいな話がありましたけど。
このテキストによればですね、このラボラトリーで私たちが主に学ぶことができるのは自己についての深い洞察、つまり自分自身に関する新たな気づきなんだと。
自己への洞察、気づきですか。
そうです。ラボラトリーっていう日常の役割とかプレッシャーからある程度解放されて、かつゲームのルールっていう普段とはちょっと違う制約が課せられた、いわば非日常的な状況に身を置くことで、普段の自分ではあまり意識してなかったような自分自身の考え方のパターンとか感情の動き、行動の傾向みたいなものにはっと気づかされることがあるっていうんですね。
自分自身に関する気づき、例えばどんな?
テキストに挙げられている例をいくつか紹介しましょうか。
はい、ぜひ。
例えば、ゲームが進んでいって、自分がちょっと不利な状況に追い詰められたとしますよね。
ええ、ありますね。
その時に、自分ってこんなにも冷静さを失っちゃって、周りのプレイヤーのことまで気遣う余裕がなくなっちゃうんだなとか、自分のプレッシャーへの弱さとか視野の狭さみたいなものに気づくといった内面に関する発見。
うーん、なるほど。
あるいは、逆に誰か他のプレイヤーがすごく前向きな発言をしたり、機転を利かせた行動を取ったりするのを見て、あの人のああいう振る舞いに自分はこんなにも勇気づけられたり感銘を受けたりするんだなぁみたいに、他者との関係性の中で自分の感情がどう動くのか、何に価値を感じるのかみたいな気づきもあるでしょうね。
ああ、それもわかりますね。
ボードゲームの新たな視点
あるいはですね、ゲームが終わった後の感想戦とかで、他のプレイヤーから、「〇〇さんがあの場面でああいう決断したのがすごく意外でした。普段の冷静なイメージからは想像つかなかったけど、ああいう大胆な一面もあるんですね。」みたいなフィードバックをもらうことで、自分では認識してなかった自分の側面を他の人から教えてもらうなんてこともあるかもしれない。
ああ、ありますね、そういうの。
これもすごく貴重な気づきですよね。
なるほどなぁ。
ゲームっていうちょっと特殊な状況だからこそあらわになる、自分の意外な反応とか癖、価値観。言われてみれば、ゲーム中に、「うわぁ、今自分すごい嫌な感じだったかも。」とか、「あの人のあのプレイなんかすごく心に残ったなぁ。」みたいに感じること確かにあります。それが自己への気づきにつながると。
そして、ここがまた重要なんですけど、このラボラトリーとしてのボードゲームが私たちに与えてくれるのは、これをやれば現実で成功する、みたいな直接的で万能な処方箋とかスキルセットではないということなんです。
ああ、そうなんですね。スキルが直接身につくわけじゃない。
むしろ、私はこういう特定の状況か、例えば予期せぬトラブルが起きたときとか、あるいは逆に有利な状況で余裕があるときとか、そういうときにはこのように考え、このように感じ、そしてこのように振る舞う傾向があるのかもしれないなという、自分自身に関する具体的でかつ検証可能な仮説なんです。
仮説ですか? 断定的な答えじゃなくて。
そうです。仮説っていうところがポイントですね。
なぜなら、ゲーム中の振舞いがその人のすべてを表しているわけでは当然ないからです。あくまで特定の状況かでの反応の一例に過ぎない。
うーん、確かに。
だから、ゲームで得た気づきっていうのは、自分はこういう人間なんだって決めつけるためのものじゃなくて、自分にはこういう良い面もあるのかもしれない、それってどうしてなんだろう、他の状況だったらどうだろう、みたいにさらに探求していくための出発点、つまり仮説として捉えるべきだとこのテキストは示唆しているんですね。
そしてこの仮説は、その後の別のゲーム体験とかあるいは日常での出来事を通して、うん、やっぱりそうかもしれないなって確信を深めたり、いや、あの時はちょっと特殊だったなって修正したり、さらに深く検証していくことができると。
なるほど。
このように他者とのゲームを介したインタラクションの中で、自分自身についてより深く、かつ継続的に学び続ける機会が得られる。
これがラボラトリーとしてのボードゲームのすごく大きな価値なんだと言えるでしょうね。
自分自身に関する仮説を得て、それを継続的に検証・修正していく。
日常生活のラボラトリー
なんかまるで自分自身を対象とした終わりのない自由研究みたいですね。
これは面白い視点だなぁ。
となると、自分がゲームに参加すること自体が、他のプレイヤーにとってもその人自身の仮説を得るための材料を提供しているみたいなことにもなりますよね。
おっしゃる通りです。それは非常に重要な点で、ラボラトリーというのは参加者全員にとっての学びの場であるということなんです。
ああ、そうかそうか。
あなたがゲームで見せる何気ない一言とか選択が、他の誰かにとってのハッとするような気づきのきっかけになったり、その人の自己理解を深めるヒントになったりする可能性も十分にあるわけです。
なるほど、相互作用ですもんね。
そう、相互作用ですからね。自分が学ぶと同時に他者の学びにも貢献している。
これも単なるシミュレーションという見方からはなかなか出てこない、ラボラトリーならではの豊かさかもしれないですね。
なるほどなあ。いやあ、今回はボードゲームはシミュレーションではなく、ラボラトリーであるというシュピール・フマニタスのテキストが投げかける視点を探求してきました。
単に現実のスキルを模倣して学ぶ場としてだけじゃなくて、ゲーム盤の上っていう日常からちょっと切り離されたユニークな状況で起こる今ここの相互作用、その一回性の現実を通して自分自身についての検証可能な仮説を得ていく場なんだと。
なんかゲームとの向き合い方がちょっと変わりそうな気がしてきましたね。あなたにとって今日の話の中で特に印象に残ったのはどんな点でしたか?
そうですね。このラボラトリーっていう考え方をもうちょっとだけ広げて考えてみると、さらに興味深い問いが浮かんできそうだなあと思うんです。
それはもしかしたらボードゲームに限らず、意図的に作られた何らかのルールとか制約の中で人々が相互作用する場っていうのは、広く捉えればすべてある種のラボラトリーとして機能し得るんじゃないかっていうことです。
ボードゲーム以外にもですか? 例えばどんな?
例えばスポーツのチーム練習なんかもそうかもしれませんし、会社で行われる研修とかワークショップとか、あるいはもっと日常的なレベルで言えば友人とのちょっとした共同作業とか、家族会議みたいな場面も見方によってはラボラトリーと捉えることができるかもしれないなと。
そこには普段とは少し違うルールとか目的、役割みたいなものが存在して、その中でのインタラクションから私たちはもしかしたら無意識のうちに自分や他者について何かを学んでいるのかもしれない。
ああ確かにそうかもしれないですね。
もしそうだとしたらですよ。私たちの日常のどんな場面を意識的に実験室と見立てて、そこで起こるインタラクションに注意を払ってみることで、自己理解とか他者理解を深めていくことができるんでしょうか。
これはなんか決まった答えがあるわけじゃなくて、あなた自身が日常の生活の中でさらに探求してみる価値のあるすごく面白い問いかけじゃないかななんて思うんですよね。
日常の様々な場面を実験室として捉え直してみる。確かにそう考えると、普段なんとなく見過ごしているようなやり取りの中にもたくさんの学びのヒントが隠されているのかもしれないですね。
いやー非常に示唆に富む、そしてこれからの行動をちょっと変えるかもしれない、そんな問いですね。
今回の探求はこの辺りまでとしましょうか。また次の探求でお会いできるのを楽しみにしております。