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こんにちは。今回はですね、人類学者小西光大さんの著書、「ヘタレ人類学者、砂漠をゆく」これをめぐる読書会の記録をちょっとお預かりしまして。
ああ、あの本ですね。著者5本にも参加されたとか。
そうなんです。で、これがまた非常に密度の濃い議論が記録されてましてね。
へえ。
ここから特にまあ、酷伸に迫るような洞察とか発見を一緒に探っていけたらなと。
いいですね。この記録、ざっと目通しましたけど、単なる感想交換じゃないんですよね。
ええ。
その怒りの意味とか、研究者の主観がどう関わるかとか、もっと言うと学びの本質みたいな。
そうそう。
かなり深いテーマがいくつもこう浮かび上がってきてる感じがしました。私たちが普段当たり前って思ってることを問い直すみたいな。
まさに、そういうなんていうか心地よく当たり前を揺さぶってくれるようなポイントを、今回いくつか抜き出してみました。
ほう。
あなたにとっても、きっと何か発見があるんじゃないかと思います。では早速、その議論の中身見ていきましょうか。
お願いします。
怒りの意味と人間関係
まず、非常に興味深かったのが怒りの捉え方なんですね。
怒りですか?
はい。日本ではまあ感情、特にネガティブなものは抑えるべきだ、みたいな風潮ってやっぱり根強いじゃないですか。
まあそうですね。美徳とされがちですよね。
でもこの読書会では、むしろ健全な怒りを表に出すことが大事なんじゃないかって話が出てくるんです。
へえ、健全な怒り。
ええ。それが人間関係できちんとした境界線を引くことにもなるし、逆説的かもしれないけど結果的により深い信頼につながる可能性もあるんじゃないかと、そういう視点なんですね。
なるほど。ああ、それは小西先生も指摘されてますね。他者と本当に共にあることを突き詰めていくと、怒りって排除できないものなんだと。
ふむふむ。
むしろその関係性の本質の一部にすらなり得るんじゃないかって、単に感情を爆発させるのとは違う、相手との関係を続けたいからこその、そういう健全な怒りってあるよね、みたいな。
なるほどね。
インドでのありがとうが、場合によっては相手を怒らせるっていうエピソードも出てましたね。
ああ、ありましたね。あれも面白い。
感謝っていう行為自体が文化によって全然違う重みを持つというか、その前提が違うんだなっていう。
ありがとうが言えない、そういう関係性の方がある意味苦痛なんだ、みたいな話もあって。
単純な善悪じゃ割り切れない感情の機微みたいなものを感じますよね。
フィールドワークの新たな視点
ええ、本当に。その人間関係の深さとか複雑さともつながるんですけど、研究者の立ち位置についてもちょっと従来のイメージが変わるような議論がありました。
フィールドワークの話ですね。
そうです。人類学のフィールドワークって、なんとなく客観的な観察者みたいな、そういうイメージが。
ありますよね、確かに。冷静に外から分析するみたいな。
でもここでは、研究者自身の主観とか、その人の物語性こそがむしろ重要なんだと。
まさにそこがポイントですよね。
小西先生ご自身も、この本は客観性を目指す伝統的な意味での民俗史。
つまり、ある文化とか社会をありのままに記述しようという仕込みじゃなくて、あくまで私というフィルターを通して見た世界の物語なんだと、そういう位置づけをされている。
なるほど、物語。
これって、研究者の個人的な感情とか経験は研究の底に置くべきだ、みたいに考えてきた、かつての人類学のスタンスに対するある種の挑戦とも言えますよね。
関係構築が上手い人は自己開示的だという指摘もありましたけど、あれも興味深い。
つまりフィールド文学において、研究者自身の人間性みたいなものが本質的な意味を持ってくると。
Nイコール1、つまり統計で一般化するんじゃなくてね、あくまで私が見て感じて考えてこと、その一点を深く掘り下げることで、逆になんか普遍的なものが見えてくるんじゃないかと、そういうアプローチですよね。
- なるほどな。客観性っていう神話ですかね。そこから離れて、個人の経験を深く掘ることに価値を見出すと。
- そうですね。
学びの開放的な姿勢
- その流れって、実は学びのあり方にも繋がってくる話が出てくるんです。
- 学びですか。
- ええ。小西先生が学生さんに、何かを探そうとするなと、ただ自分を開いて待てってアドバイスしてるっていう話があって、これにはちょっとハッとさせられました。
- それは面白いですね。探すな、開いて待て。これって、特に最近よく言われる課題解決型学習、いわゆるPBLですか。
- はい、PBL。
- あれに対する、ある種のアンチ定伝みたいな捉え方もできますよね。PBLって、まず明確な課題があって、その解決を目指すっていうスタイルですけど、その課題解決しなきゃっていう意識が、もしかしたら逆に視野を狭めちゃってるんじゃないかって、そういう問いかけでもあると思うんです。
- なるほど。目的意識が強すぎると、かえって。
- そうなんです。容器せむ出会いとか、発見とか、いわゆるセレンディピティってやつですかね。そういうものが起こるスペースがなくなっちゃうのかもしれない。
- 意図しないものとか、まだ言葉になる前の感覚とか、そういうものを大事にするってことですかね。
- そうだと思います。何かを能動的に探すんじゃなくて、むしろアンテナは広く張っておいて、感受性をオープンにしておく。
- ふむふむ。
- ああ、そうすることで、なんか微細な感情の動きとか、予期せぬ出来事の意味みたいなものをスッと受け止められて、そこから自然に学びとか気づきが生まれてくるんじゃないかと。
- ああ。
- このある種の受け身の姿勢というか、オープンさを大事にするっていうのは、効率とか成果ばっかり求められがちな今の時代にはすごく資産に富む視点だなと感じますね。
- 確かに。
- 想像性とか深い理解とかって、案外計画の外からフッとやってくるものなのかもしれないですね。
- へえ。今回の記録をこうして紐解いてみると、感情の複雑な役割とか、研究における主観の大切さ、それから学びにおける受け入れる姿勢の重要性とか、本当に考えさせられる視点がたくさんありましたね。
- そうですね。従来の客観性とか計画性、効率性みたいな価値観とはちょっと違う、もっと流動的で相互作用的で、自分自身の内面と向き合うことを恐れない姿勢、そういう方向への静かだけども大きな流れの変化みたいなものを感じますね。
- へえ。予定調和を良しとしないで、むしろ計画が崩れるところに面白さを見出す、みたいな、そういう人類学的なマインドセットって、変化の激しい今を生きる私たちにとっても何かヒントになるかもしれませんね。
- 本当にそう思います。最後にですね、あなた自身にちょっと問いかけてみたいと思うんです。
- お、何でしょう。
- もしあなたが次に何か新しいことを学ぼうとするとき、あるいは誰かと深く関わろうとするときにですね、意識的に探すっていうのを一旦ちょっと横に置いてみて、ただ自分を開いて待ってみるとしたら、そこから一体どんな予期せぬ発見とか、あるいは繋がりが生まれてくる可能性があるでしょうか。ちょっと考えてみていただけたらなと思います。