ガチャの基本概念
こんにちは、ザ・ディープダイブです。
さて、今日はですね、あなたが共有してくださった、コセンスのガチャの倫理っていうページ、
これすごく興味深かったんですが、
この資料なんかを元にして、ボードゲームとかでよくある運の要素、
いわゆるガチャについてちょっと深く考えていきたいなと思ってます。
こんにちは、よろしくお願いします。
普通なんていうか、戦略ゲームだと実力がやっぱり大事で、
運って邪魔者扱いされがちじゃないですか。
そうですね、そういうイメージありますよね。
でも今回の資料を読むと、その運に実はすごく面白いというか、
見過ごせない意味が隠されているかも、なんて思ったんです。
あなたもゲームやってて、「ああ、今日はついてないなあ。」って思うことありますよね。
あります、あります。
その運について今日はちょっと違う角度から覗いてみようかなと。
この偶然性の仕組み、ガチャが単にゲームを面白くするだけじゃなくて、
今のこの実力主義とか公平さとか、そういう大きな話とどうつながっているのか、
それを探るのが今日のテーマですね。
確かに非常に刺激的な問いを含んだ資料群でしたね。
まず最初に確認しておきたいんですけど、
ここで言うガチャってカプセルトイとかスマホゲームの課金のことだけじゃないんですよね。
そうですね、そこ大事ですね。
資料ではカードを引くとかサイコロを振るとか、
そういうゲームの中の偶然の結果を生むメカニズム全般を広い意味でガチャと呼んでるんですよね。
なるほど、なるほど。
その上でこれらの資料が中心に投げかけている問いっていうのが、
ゲームの中のガチャってもしかして、
現代の実力こそ全てみたいな考え方に対してちょっと待ったと、
それを問い直すための倫理的な仕掛けとして働いてるんじゃないかっていう
かなり踏み込んだ仮説なんです。
実力主義の問題点
倫理的な仕掛けですか。
それはちょっと予想外でしたね。でも面白そうです。
じゃあその確信に迫っていきたいんですが、
まず資料で区別されている実力主義の話から整理した方が良さそうですね。
メリトクラシーって言葉が出てきましたが、これは具体的にはどういう?
はい、メリトクラシー。
これは基本的には客観的な基準で測れる実力とか功績、
つまりメリットに基づいて評価とか地位が決まるべきだっていう考え方ですよね。
例えば学校のテストの点数とか、資格試験に受かったかどうかとか、
そういう誰が見ても分かりやすい基準で判断しましょうと。
その人の生まれとかじゃなくてね。
なるほど、分かりやすい理念ですね。
それに対してもう一つハイパーメリトクラシーっていうのが、
これはどう違うんでしょう?なんかちょっとすごい名前ですけど。
これは社会学者の本田由紀さんの概念として資料で紹介されてましたね。
このハイパーっていうのは、超っていうよりむしろ病的なとか過剰なっていうニュアンスが強いみたいなんです。
へー、病的。
評価の基準になるのが、例えばコミュニケーション能力とか、人間力、あるいは意欲とか主体性とか。
あー、なんかよく聞くけど測りにくいものですね。
そうなんです。非常に曖昧で客観的に数値化するのが難しい要素。
例えば入社の面接で、話す内容自体ももちろん大事ですけど、
それ以上にその人の感じの良さとか、熱意がありそうだなーみたいな印象が、知らず知らずのうちに評価を左右しちゃうみたいな状況。
うわー、それは結構困りますよね。何が評価されているのかはっきりしないと、どう努力したらいいか分かりにくいし。
そうそう。
なんか評価する側の匙加減一つみたいになっちゃいそうで。
まさにそこが問題点として指摘されているわけですね。
で、ここからがまた非常に興味深いんですけど、資料は囲碁とか将棋みたいに、
運の要素を限りなくゼロに近づけた純粋な実力ゲームを取り上げて、ある種のパラドックスを指摘してるんです。
あー、純粋な実力ゲームのパラドックス?
普通に考えたらこれこそが最も公正なメリトクラシーの理想的な形に見えますよね。
運の介入なしに実力だけで決まるわけですから。
えー、これ以上ないくらいフェアな競争に見えますけど、何がパラドックスなんですか?
ところがその純粋さゆえの、なんというか、皮肉があるんじゃないかと資料が言うんですよ。
運っていう自分以外の要因が全くない。
だから負けた側は自分の実力が足りなかったんだっていう、かなり厳しい現実を受け入れるのがまあ辛いわけです。
あー、それはそうかも。
そこで、なんとかその結論から目を逸らそうとして、いや今回は勝ち負けじゃなくて楽しむのが目的だったんで意欲の問題とか、
うーん、相手との戦略の相性がちょっとね、人間関係とか相性の問題みたいに、
まさにさっき話したハイパーメリトクラシー的な測定不能な曖昧なものに責任を転化する。
そういう逃げ道を作りやすい構造があるんじゃないかって分析してるんです。
それは面白い。純粋な実力勝負のはずなのに、かえってそういう言い訳の余地として、
ハイパーメリトクラシー的な曖昧さを呼び込んじゃう可能性があるってことですか?
いや、これはまさに逆説ですね。
ここが一つ目のポイントですね。
完璧な実力主義を目指したゲームが、かえって曖昧な言い訳を生む土壌になり得るという指摘。
うーん、なるほど。
そういう見方もできると資料は示唆しているわけですね。
心理的な防衛機制みたいなものが働きやすいのかもしれません。
じゃあそういうゲームにガチャ、つまり運の要素が入ってくると、この力学はどう変わってくるんでしょう?
そこですよ。そこが気になります。運が入るとそのパラドックスはどうなるんですか?
資料によれば、ガチャはゲームの中に誰の目にも明らかな非人格的で客観的な偶然性をもたらすと。
非人格的で客観的。
例えば、ボードゲームでよく使うサイコロ、6面体のサイコロ2つ、2D6ってやつですね。
はいはい、よく振りますね。
出る目の合計は2から12までですけど、出る確率って全然違いますよね。
組み合わせが一番多い、7が一番出やすくて、端っこの2とか12は出にくい。
うんうん、確率分布がありますね。
これはもう数学的な確率として客観的に存在しているわけです。
もちろんこの確率を理解してリスクを計算するっていう、それ自体も実力の一部ではあるんですが、
それでもサイコロの目がたまたま両方とも1になっちゃうみたいな可能性は、どんなに強いプレイヤーだってゼロにはできないわけです。
確かに、サイコロの目に君の人間性が低いから1しか出ないんだよ、なんて言われたらもう意味不明ですもんね。
そうですよね。
完全に自分とは切り離された外部の出来事。
その通りです。山札からカードを引くのも同じ原理ですね。
誰かのコミュ力がどうとか、リーダーシップがどうとか、そういうものでサイコロの目や次に引くカードが決まるわけじゃない。
それはプレイヤーたちのコントロールの外にある、ある意味冷徹な事実なんです。
資料が指摘しているのは、このガチャの介入によって純正な実力ゲームで起こりがちだった敗因を負けた人の内面とか人間関係とか、そういう曖昧なものに持っていこうとする不毛な議論がある意味で強制的に止められるということです。
ああ、なるほど。運が悪かった、ね、で済む、みたいな。
そういう側面もある。運の前では全てのプレイヤーは平等に扱われる。これが2つ目のポイントになるかなと思います。
なるほど。これって見方を変えれば、本来メリトクラシーが目指したはずの非人格的な公平さを実力評価とはまた違う形でゲームの中に実現していると言えるのかもしれませんね。
ガチャの影響とその意義
非人格的な公平さですか、その視点は考えたことなかったですね。資料ではこの性質をロトクラシーに例えて説明していましたよね。これはどういう考え方でしたっけ?
ああ、ロトクラシーですね。日本語だとくじ引き民主主義って訳されたりします。
くじ引き民主主義。
政治のリーダーとか意思決定に参加する人を選挙とか能力評価だけじゃなくて、くじ引き、つまりランダムな抽選で選ぶっていう考え方や、実際にそういう仕組みを取り入れた政治システムのことですね。
はい。
歴史的に一番有名なのはやっぱり古代ギリシャのアテナイの民主政でしょうか。アテナイでは市民の中からくじで評議員とか裁判の陪審員を選んでたんですよ。
へー、そうだったんですね。
その狙いはお金持ちとか家柄がいいエリートとか、あるいは弁論術がすごく上手い一部の人だけが権力を握り続けるのを防いで、全ての市民に政治参加のチャンスを平等に与えるっていうことにあったわけです。
なるほど。なんか現代でも、例えば環境問題について市民が議論する気候市民会議みたいなところで、参加者を一般市民から無作為に選ぶっていう形で応用されてる考え方ですよね。
ええ、そうですね。そういう試みもあります。で、ゲームのガチャもそのロトクラシーとある意味で似た働きをしてるんじゃないかっていうのが資料の主張なんです。
ほう、ガチャとロトクラシーが似てる?
で、ガチャもまたロトクラシーが目指したこと、つまり特定のエリートによる支配を防いで参加の機会を広く開くっていう機能を持ってるんじゃないかと。
うーん、それはどういう?
例えば、将棋とか囲碁がめちゃくちゃ強い論理的実力のエリートが常にゲームを支配しちゃうという状況を防ぐと、初心者とか論理よりは直感でプレイするタイプの人にも運が良ければ時には勝てるチャンスを与えるわけです。
ああ、なるほど。
ゲームに参加するための資格を純粋な論理思考の実力っていう狭い門から開放して、より多様なプレイヤーが参加しやすくする。
これはある意味、ゲーム版の上でのミクロな民主主義の実践と言えるんじゃないかって考察してるんです。
これが3つ目のポイントですかね。
ゲームにおける民主主義の実践?いやー、なんだか壮大な話になってきましたね。
もちろんそういう理屈もすごく面白いんですけど、単純にガチャって、ゲームをハラハラドキドキさせて盛り上げてくれるっていう、そういう楽しさも大きいですよね。
それはもうもちろんです。
資料にも坊主めくりの例が出てましたよね。百人一首の絵札を使って、殿が出たら他の人の札をもらえて、姫が出たらもう一枚引けて、でも坊主が出たら手持ちの札が全部没収されるっていう、あの究極の運ゲー。
ありましたね。理不尽さがすごいですよね、あれ。
あの理不尽さが、でもかえって面白いんですよね。
ボードゲームの楽しさ
まったくです。運がもたらす予測できない展開とかドラマ性っていうのは、やっぱりゲームの楽しさのすごく大事な部分ですからね。
ただ資料はそこからもう一歩踏み込んで、ボードゲームの自己充足性っていう、これもまた重要な視点を提示してるんです。
自己充足性。
はい。これはボードゲームを遊ぶこと自体を、例えば「コミュニケーションを円滑にするためのツールだ」とか、「戦略的思考を学ぶための教材だ」みたいに、何か他の役に立つ目的のための単なる手段としてだけ捉える見方、そういうまあ効率主義的なゲーム観に対してちょっと待ったと問いかけてるんです。
ああ、ボードゲームはコミュニケーションツールだってすごくよく聞くフレーズですけど、それが必ずしも良いことばかりじゃないってことですか?
そういう側面もあると。資料では、みんなで楽しめばいいじゃんみたいな言葉が、かえってゲームがあまり得意じゃない人とか、人付き合いがちょっと億劫だなって感じてる人を追い詰めちゃったり。
あるいは何か面白いこと言わなきゃとか、上手く立ち回らなきゃみたいな、ゲームそのものとは別のプレッシャーを生んだりする危険性も指摘されてましたね。
ああ、わかります。ゲームに集中したいのに、なんか別の能力を試されてる感じがしちゃうみたいな。
ええ、ゲームを遊ぶこと自体が目的じゃなくて、コミュニケーションを円滑にするとか、何かを学ぶとか、そういう外部の目的を達成するための手段になっちゃうと、ゲーム本来の面白さが損なわれたり、人によってはむしろ苦痛になったりすることもあるんじゃないかと。
なるほど。
ここで資料は哲学者のハンナ・アーレントの議論を引いてるんです。アーレントは、全体主義が人々の内面にまで支配を及ぼそうとするような時代に、それに抵抗する最後の砦の一つが、「チェスのためにチェスをする」みたいな、それ自体が目的になっている活動の価値なんだって論じたんですね。
へえ。
何かのためじゃなくて、その活動自体に没頭すること。その自己充足的な営みの中にこそ、人間の自由っていうものが宿るんだ。
ボードゲームのためにボードゲームを遊ぶ。何か当たり前のことのようででも、改めて言われるとハッとしますね。コミュニケーションが生まれたり、何か戦略的な思考が鍛えられたりするのは、あくまでゲームに夢中になった結果としてついてくる副産物であって。
そうそう、副産物。それが主目的になっちゃうと、ちょっと本末転倒になるかもしれないと。
そういう考え方ですね。ゲームのルールっていうある種閉じられた世界の中で、勝利っていうゲーム内部の目標に向かって真剣に遊ぶこと。それ自体に価値があるんだと。そして、この運の要素、つまりガチャはある意味で、このゲームのためのゲームという自己充足的な空間を守る役割も果たしているのかもしれないって言うんです。
倫理的な視点の重要性
ほう、どうしてですか?
なぜなら、さっきも触れましたけど、運っていうのは外部の目的とかその人の能力とか人間性とか、そういうゲームの外の評価基準からプレイヤーを一時的に解放してくれるからですね。これが4つ目のちょっと哲学的なポイントかもしれません。
なるほど。いやー、深いですね。ということは、今日見てきた話をまとめてみると、ガチャっていう運の要素は単にゲームを予測不可能にして面白くするスパイスっていうだけじゃないと。
資料が導き出す結論としては、大きく2つの意義があると言えそうです。
1つは現代社会に根強い、実力があれば報われるはずだっていう、メリトクラシー的な神話みたいなものを相対化する視点を与えてくれるということ。
もう1つはコミュニケーション能力だとか、人間力だとか、そういう曖昧で、ともすれば恣意的な評価が幅を利かせがちな、あのハイパーメリトクラシーに対する、ある種の解毒剤として機能し得るんじゃないかということですね。
解毒剤ですか。
運の前では誰もが平等で、そこには非人格的な公平さが宿ってる。だからこそゲームのガチャには、ささやかではあるけれど無視できない倫理的な意味合いがあるんじゃないかと、そういう結論ですね。
いやー、今日はボードゲームの運、いわゆるガチャについて、ずいぶん深く、そして多角的に掘り下げてきましたね。
面白かったですね。
単なる偶然の揺らぎだと思ってたものが、公平さの問題、実力主義の在り方、さらには民主主義的な発想、ロトクラシーとの繋がりとか、遊びそのものの本質的な価値、自己充足性とか、こんなに大きなテーマと関わっているなんて正直驚きました。
うんうん。
実力だけが物差しじゃない世界の面白さ、そして偶然性がもたらしてくれる非人格的な公平さの価値について、改めて考えさせられる時間でしたね。
資料が光を当てていたのは、私たちが日常でつい囚われてしまう能力とか人間性みたいな評価軸のある種のしんどさから、ゲームの運っていう仕掛けがほんの束ままかもしれないけれど、私たちを自由にしてくれる可能性でしたね。
それはアーレントが言うような、何かのためではなく、ただそれ自体が目的であるような純粋な活動の喜びにも、もしかしたら繋がっていくのかもしれません。
なるほど。それでは最後にリスナーのあなたに問いかけて、今日の探求を終えたいと思います。
次にあなたがゲームでサイコロを振るとき、あるいはカードを1枚引くとき、その偶然の中にどんな公平さや、あるいは自由を感じ取るでしょうか。
そして一歩ゲームの外に出て、私たちのこの日常の世界を眺めたとき、私たちは運とか偶然っていうものを本当はどのように捉えて、どのように評価しているんでしょうか。
今日の話がそんなことを不考えてみるちょっとしたきっかけになれば嬉しいです。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。