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2025-06-11 33:43

にじシバラジオ#050 川島浩平『人種とスポーツ』とトランスジェンダー、日テレ「The Dance Day」に感じたジェンダー問題?

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小倉さん話題提供回 / 川島浩平『人種とスポーツ 黒人は本当に「速く」「強い」のか』(中公新書) / トランスジェンダーとスポーツ / 本質主義(生物学的決定論)と社会構築主義 / 個の問題を類の問題と誤認しがち / 黒人・トランスジェンダーのイメージ・表象 / トランスジェンダーとスポーツをめぐる論理の転倒 / 近代スポーツの評価基準 / 自分の脳内で生み出した妹をAIにやらせてみた話 / 日テレ「The Dance Day」/ ナース服を着た男性が可愛い振り付けのダンスをしてもいいのに / らぶしっくの颯くんは女性っぽいわけではない /

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サマリー

川島浩平の著作「人種とスポーツ」では、黒人がスポーツに強いという先入観が掘り下げられ、その背後にある歴史的背景や文化的要素が考察されています。また、トランスジェンダー問題との関連性についても議論され、スポーツにおける性別や体の違いがどのように扱われるべきかが探求されています。今回のエピソードでは、人種とスポーツ、トランスジェンダーを巡る問題が深く掘り下げられました。さらに、日テレの『The Dance Day』を通じて、ジェンダーに関する複雑な問題も浮き彫りにされています。このエピソードでは、川島浩平が人種、スポーツ、トランスジェンダー、ジェンダー問題について考察し、日テレのダンスイベント「The Dance Day」における表現の多様性の欠如に焦点を当てています。特に、男性が伝統的な女性の衣装を選ぶことの重要性や、SNS上での新しいスタイルの広まりについても触れられています。

人種とスポーツの先入観
こんにちは、にじシバラジオ第50回です。MCのともぞーです。
小倉です。
今回は、小倉さんの話題提供というか、小倉さんのターンということで、どんなことを。
今日はね、中古新書の「人種とスポーツ」川島浩平さんという学者さんが書いた、「黒人は本当に早く強いのか?」という本を紹介しようと思ってきました。
これが一つね。
もう一つ、頭の中で妹を作ろうとして失敗したけど、その後AIで実現した人の話を読んで、びっくりしたよって話をしようかなと思ってます。
うまく繋がるかな。
たぶん同じ問題認識だと思うんだけど、ちょっと違うかも。
人種とスポーツ、これサブタイトルにあるように、黒人は本当に早く強いのかという課題は、私もすごい常々気になっていて、
スポーツの試合で黒人だから強いよねとかっていうふうに当たり前に言われてる。
いまだにやはり日本とかでも言われることが多いんだけど、
実は本読んでも身体的に圧倒的なっていうのは、この本の中では出てこないんだけど、黒人がスポーツに強いっていうふうに言うのは、原説は本当に都合よく使われたり、都合よく引っ込められたりしてるんですよ。
例えば初期の頃とかは、黒人は努力とかができないから、スポーツとか筋力とかも弱いって言われた時代があるんですね。
途中から黒人は、知性には劣るが身体能力は高くっていう原説が出てきて、
だから都合よく出したり引かれたりするカードとしての、黒人イコールスポーツ得意っていうね、そういう原説がわりと常に、今はもう世界的にでもね、ルフされている。
でもおそらくいろんな、実際ここで最初に定義されているのは、黒人って誰っていうところからスタートですよね。
黒人って、この場合はアメリカ社会を中心に見ていくから、同齢制で入ってきたケニアから南の人たちに限定して黒人という言葉を使ってますよと。
例えばアボリジンであるとか、インド人であるとか、色が黒いタビル人とかも含めて、そことを検討に入れてない。実際そこまで入れてるわけではないですよね。
だからそのごく一部の地域性の話だったりするんだけど、その後に黒人イコールスポーツって言われるのを嫌がり、身体性を強調されるのを嫌がり、
地域性派の黒人とかは参加しなかった、そのスポーツで言った経緯とか、練習の場所とか、道具とかも含めて、与えられなかった環境とかもあることから言って、
黒人がそんなスポーツに当格を表すようなことはなかったんだけど、一部当格を表す人が出てきて、野球とかアメリカでいうところに入ってくる中で、
1800年代後半に、彼らをチームから外す、契約しないっていうふうなことが、
そのままでは普通に黒人白人問わず参加していたのが、排除されていく歴史というのをその後に1回経験してるんですよ。
黒人白人気にせず一緒にやる時代と、排除されている時代と、またその参画していく時代っていうのをアメリカの社会の中ではあって、
でも今は一緒にやってはいて、ほとんど例えばバスケットの選手だったら黒人ばっかりであるとか、
そういうのも含めて、あくまでその振り子の多い時期。
その中で今も相変わらず黒人は筋力に優れ、スポーツだったら黒人だよねっていうような言説が平気で振りまかれているが、
まあおそらくそんなことが黒人も多様であり、当然得意な人と得意じゃない人がいて、
スポーツぐらいしか成り上がるチャンスがなかった時代とかというのを踏まえ、
当然その言説が事実であるということを裏付けるものは何もないってことになるんだけど、
トランスジェンダー問題の考察
なんでこの本を取り上げたかっていうとこれを禁止したかっていうと、トランスジェンダー問題だよね。
やっぱりどっから考えてるの。トランスジェンダー問題ってさ、説明すると叩かれる可能性を踏まえるから、
どうしてもあんまり説明が足らなくてさ、この間もラジオの時にトランスジェンダーの話で勝手にこっちで怒って勝手に終わらせたけど、
やっぱりフロト入れ問題に終始するってことと同時にスポーツの問題、スポーツ大会の問題で、でもあれはないよねっていう風に言う文脈が常にあると。
でも忘れてほしくないなぁと思うのは、トランスジェンダーでもスポーツが強いとは限らない問題っていうのが。
だからその男女、男性群女性群みたいなところを用意した上で、そこにそのトランスジェンダー女性が女性群、いわゆる女性群の中に入っていった時に、
平均的なところと比べてどの程度本当に差があるのかっていうのはよくわかんないですよね。
正直誰もさ、はっきりしたことは男だから強いに決まってる、黒人だから強いに決まってるっていう文脈以上に何かあるのっていう。
例えば民族さを超えて、人種さを超えて、スポーツの優劣が決め得るのかという問題と同時に、それは性別もそうじゃん。
それこそ今とりあえずくくりとして、女性の競技があります。男性の競技があります。一緒の競技もあります。
という時に女性の競技だとトランス女性だから強いに決まってると。なぜならば元々DNAが男性だからだとか、男性として育ってきたからだとかっていうふうに言えるのっていうところを、
わりかしさ、無条件に言ってしまうこの感じってさ、それこそ今の流れのアメリカで言えば、じゃあ人種でスポーツ大会を分けた方が黒人ずるいじゃんとかっていう文脈につながらないのかなって思うぐらいの不安感があるんですよ。
社会的背景とシステムの再考
そうですね。トランスジェンダーの問題は特にそうですけど、一時期、本質主義批判みたいなエッセンシャリズム批判みたいなのが社会学であったりとか思想であったりとかっていう部分だと盛んだったところがあって、
それに対するエッセンシャリズムっていうのは何かっていうと、本質主義っていうのは生物学的決定論みたいなふうにも言われることがあって、
ジェンダーであったりとかセクシャリティーであったり、あるいは人種であったりとかっていうのは何か生物学的な根拠があり、そこのDNAだったりとかホルモンであったりとか染色体だったりとか、
そうしたところに遺伝的なもの、染色体的なもの、あるいはホルモン的なものに根拠があって、その根拠によって差異が表面上差異が出てくると。
だからその男女の違いであったり人種の違いであったりっていうのは、そういう根拠に基にして出てきているんだよっていうふうに考えるのがエッセンシャリズム、本質主義だったり生物学的決定論と言われるもので、
それに対する批判として90年代後半とか2000年代とかっていうのは、社会構築主義と呼ばれる動きが出てきたと。
要するにジェンダーであったりとか。
そうですね、ジェンダーって言葉自体がそうだからね。
男女っていう性だったりであるとか、あるいは人種だったりとかっていうのは決定論的ではなくて、
むしろ社会的な言説だったりとか、あるいは教育だったりとかっていうものによって、
例えば黒人の人は足が速いとか、男は力が強いとか、そういうようなところの見方っていうのが構築されてきたんだよっていうのが社会構築主義と。
簡単に言っちゃうとそういう。
そういうのがあった。
ところが最近、社会構築主義自体が何でもかんでも社会構築されているっていう。
結構ムリムリだからね。
あったこともあって、飽きられちゃったっていう。
アカデミズムの良くないところで。
飽きが来る。
新しみがなくなる。
新しみがなくなると、ちょっともういいよみたいな感じにアカデミシャンはなりがちなんで。
あとやっぱりリアリティっていうか、自分の生活時間っていうか、が伴わない部分もあるじゃないですか。
例えば、今おそらくね、例えば男の人の方が女の人よりも力強いよねっていう風に、例えば個別言うんじゃなくて相対で言うときには、そこまで否定しなくてもっていうことが出てくる。
あくまで傾向としては十分にあり得るっていうだけのことであって、個別の個体差を除いた話になってしまう。
女の人の方が繊細だよねとか、もっとその抽象的な議論するのを嫌うばっかりに、男だから女だからといって繊細さが変わるわけではありませんみたいなことを社会構造的に決定されてるだけなんです。
女の人が気が回るのは、そういう社会環境に置かれてるからですって言い過ぎたところがあって。
結局その表出されているもの、例えば男性が一般的に力仕事に就くとかね、ブルーカラーに向いてるみたいな話とかっていうのがあるとして、
それが暮らしで生活している上だと別にその原因が何だろうがあまり変わらない結果として出てきているものとしては同じだからっていうことになってくると、
結果として出てきているものを前提としてみんなその日常生活を送っているので、原因論に遡ってそれが本質主義的なのか社会構築的なのかっていうのはぶっちゃけ生活している上ではあまりどうでもよい。
結果としては今ある所要のもとから与えられている生活スタイルであったりとかっていうものを前提としてそれを再生産する感じで、社会っていうのは回っている部分になったりするので、
それとはいえそれを前提としてやっているときにそれってでも変な前提だよねっていう意義申し立ては常々やっていかないといけないので、
そういうところで人種主義だったりとか人種差別の問題だったりとか、トランスジェンダー差別の問題っていうのはもう注意喚起をどんどんどんどん常々していかないと前提を忘れてしまうというのはありますね。
だから無条件にニコニコしながらやっぱり男の人の方が力強いじゃんって言われると、いや私もそんなに力が強くないところの女であるが、男の人でも力が強くない人は5万といるぞ、あるいは女の人でもそこそこ強い。
だからそれがね、そんなに募集団が逆転するぐらいのことにはならないが、それが生物学的なものに意図する部分もあるし、社会構造的なものに意図する部分もあるから来てるものもあるけれども、それを言うことで、あるいは落としてしまうこと、そこで生きづらくしてしまうことっていうのはいっぱいあるぞっていうふうには思うから、
いつでもそのもっと、具体的にはスポーツの現場で混ざっているように見える民族的な、身体的な差。
たとえば、じゃあそれこそ橘類は黒人の血が入ってるから、例えば上手いのかと。
バスケが上手いのかみたいなね。
そう話をしたくなるけれども、いや私ならんけど。
だから結局そのスポーツと人種の問題で言うとね、例えば自分の世代だとカール・ルイスとかがいて、たぶんその前の世代とかアベベとかがいて、そうするとカール・ルイスは黒人、ブラックの短距離ランナーだと。
それでカール・ルイスがすごい優勝したりとか、1位になったりとかすると、やっぱ黒人ってすごいんだなみたいに思っちゃう部分があるけど、別にそれはカール・ルイスが早いのであって。
だって黒人が早いわけではない。
早いわけじゃない。
だから八村類がね、例えばその日本人の中でも特別上手かったからといって、それは彼の黒人の血がとかその身体能力がとかっていうふうに言われることにはさ、一通り違和感を感じずにはいられないわけよ。
もちろんそうですね。
で、それは彼の努力であるとか、彼がどういうふうに工夫してね、自分の力を伸ばしてきたかとか、あるいは周りがどうサポートしてきたかっていうことを含めて全部車掌して、そのなんかやっぱりさ、黒人系の人は強いよねとかって言ってしまう言説をさ、常にこう注意しとかないと。
で、太谷翔平の時は言わないわけじゃない。極端なこと言うと、太谷翔平は日本人の血が入ってるから強いよねとは言わないっていうね。
いや、まあ日本人すごい論に多分なんかこう使われてる部分はあるんでしょうけど、でもそうは言っても日本人の身体能力がとかって、最近聞くな。
でもなんかね、例えばダルビッシュがイラン人だからとか、イラン系の血が入ってるからとか、まあまあ言われたと思うんですけど絶対にね、その日本人はあんまりスポーツ得意じゃないけど、外国人は違うよねみたいなこと多分言われてきてるはずなんだけど、なんか彼らの努力であるとか、彼らの工夫を完全に無にしながら、その出世主義的になる言説については、今でもやっぱりよく聞くからさ。
まあそうですね。
トランスジェンダーと認知の限界
ちょっとトランスジェンダーの話に戻すと、結局ルイというか、ルイっていうのは橋村ルイのルイじゃなくて、グループとしてのルイということと個別の個の人間というものは、やっぱりこれは人種差別でもジェンダー問題でもいつにも起こり得る話なんですけど、
この問題をルイの問題として誤認しがちっていう人間の持っている認知能力の限界があって。
確かに。
常に人間はその認知能力の限界によって、本来的には個の問題であるはずのものをすぐルイの問題としてすり替えがちになっちゃう。それはでも、あらゆるところで見られるもので、クルド人問題も同様ですけどね。
その人のクルド人の個人の問題なんだけど、全部クルド人全体の問題になっちゃった。
日本人すごいのもそうだよね。その人が大谷翔平がすごいのであって、あなたがすごいのではないっていうと、すごいのではないといった人が揶揄されたりもしてたけども、でも全くその通りで、ルイで影響する社会構造的な問題は本当に全然ないわけではなく、
何らかの社会構造的なことからそうなった経緯は多分どっかにあるんだと思うけど、さかのぼれば。いろんな条件の中の一つとしてね。
でもその人の大いなる個性の部分が大体あらかたじゃないですか。簡単に言えば。
で、トランスジェンダーの場合だと、みんなそんなにトランスジェンダーの人たちをルイとして考えることができるほど知ってるんですか?
知らない。それはでもね、それはそう。でも黒人問題もそうなの。やっぱり知らないから起こることであって、知ってたら、だって、
特に黒人の表彰イメージに関して言うと、自分も含めてですけど、そんなにリアルの人間関係で黒人の友達がいるっていうのはそんなになくて、
基本はやっぱマスメディア、例えばテレビに出てくるボビー・ウォルゴンだったりとか、昔だったらウィッキーさんみたいなのがいたりとか。
ウィッキーさんはね、この文脈で言うところの黒人と呼ばないよね。
ウィッキーさんってスリランカの人かな?どうだっけ?
あれどこだっけ?
ウィッキーさんの場所がわかんない。ググります。
あるいは、オスマン・サンコンさんとかね、いましたけど、やっぱりメディア上で作られたイメージの黒人イメージ。
スリランカの人でした、ウィッキーさんは。
だから、そんなに黒人って言われて、自分が知ってる黒人の人数えて、そんなにめちゃくちゃ類としてくれるほどいない。
そりゃそうですよね。だから、それもそうだし、トランスジェンダーなんてもっと紛れてるから、
それも、より女性に同化してる人だともっとわかんないっていう問題を抱えていて、
本当にスポーツで女性競技で勝ちたいから女の人になる人なんて想像つかないのに、
理屈から言ってありえないと思うのに、そこが一番の理由として排除の建設を作り上げている。
ありえないでしょ。
例えば男性グループの中で結果が出せなかったからトランスジェンダーになって、
女性の中で結果を出そうと思ってこの人はトランスジェンダーになったんだみたいな、よくわからない言い方をされることがある。
あるでしょ。あれは本当にオカルトというか、一つには世界陸連とか、
そういう組織があって、例えば男性ホルモンの値であるとか、そういったものもある程度厳密に決めてますよね。
だから、より自分の本来の性、生まれ持った性、生まれた時の性からはるか遠くに行かない限り、
様々な自分を構成する要因の何かを大きく変えない限り参加できないのに、
それをただ男性グループの中で勝てないからといって女性グループに来ると、
こういう発想が非常に人間的じゃないよね。逆にそっちがありえないだろうという風に。
アスリートとしていわゆる性別違和のないアスリートであれば、
それは男性グループの中でトップになりたいという意思があった場合に、
性別違和がなければ、そこは男性グループの中でトップになれなかったなという自覚になる。
それは自分の力が足りなかったからだとか、能力だったりトレーニングだったりだとか、足りなかった。
単日中にそういう話になる。
そこで性別違和がある人は、そもそも性別違和を抱えたまま男性グループのところに参加しているということになるので、
それを性別違和を解消して、本来自分が望んでいるその身体にして、
それでその身体に合わせて参加団体を変えるみたいな感じになっていくということなので。
そこで例えばもしも違和がなくて、本来心の底から自分の性別、所有の性別と違和感がなかったにも関わらず、
女性カテゴリーに行ったら勝てるかなと思うような人はいないでしょう。どう考えても。
性別違和がそもそもないのに、なんで女性団体に入ろうと思うのか。
しかもスポーツで勝ちたいという、自分のカテゴリーの中で一番でありたいと思う、
スポーツ独特の1位がいいことです、上位がいいことですというやつの中で、
わざわざ記録とかが前提として低い女性団体に行けば勝てるからって思うでしょうか。
思わないと私は普通に思うんですけどって思うんだけど。
ゲーマー的な発想だと勝ちプレイをしたいから、雑魚的のいるエリアで無双するみたいなことあるかもしれないけど。
でもね、強い人はそんなことか。世界レベルの話でさ、やっぱり身体的な様々な苦痛を伴う話だから、普通に考えてありえないと思うんだよね。
だからゲームステージをチェンジするみたいな感じで性別を選ぶみたいな、そういう発想って普通ないよねって話だと思うんですよね。
そのリスクの大きさがね、身体を改造するマニアみたいな人がいることも知ってるし、
それは改造するのがマニアであって、そのマニアな人がたまたまスポーツにすごい関心が同時にあって、
様々な事情で一人か二人ぐらいそういう機陣が出てくる可能性はあり得るけど、だからといって全てのゲームからトランス女性を排除するとか、
トランス男性は、まあそういう時には出てこない言説だけど、トランス女性を排除するとかって話にはならない。
一人か二人はいると思うのは、やっぱりそれはね、自分の身体を改造したいということがフェティッシュである人も当然いて、
その中で、しかも運動をしてから自分の身体を痛みつけて鍛えることにフェティッシュがある人で、
30も40もスポーツに向いた体制の人がたまたま性別も変えてみたっていうことは絶対にないとは言わないけれども、
でもそのたまたまの事情ぐらいの話を引き合いに出して、彼らはそういうことをしがちな類であるというふうに考えるのはおかしくな?
人種とスポーツの歴史
2人で話してもおかしいよねって反論してくれる人はいないんだけど、
人種とスポーツはさ、私ね、経緯としてさ、もっと普通に1800年代、1700年代後半から1800年代にかけて、
アメリカで白人も黒人も一緒にスポーツのやり得た、それはもう余裕があればに尽きるんだが、
そういう普通に混ざってた時代があったのを知らなかったから、逆にその入れた段階がよく揉めなかったなと思った。
そういう意味ではね。そういうのは多分、黒人解放運動に伴って入ってきたんだとばっかり思ってた。
なんかその時代的な歴史経緯がね。
そうしたら、だってそれは絶対勝てないじゃんっていうふうな、またトランスジェンダー的な話になりかねえと思っていたんだけど、
そういう経緯じゃなかったから、必ずしてもそういう話のフォローにはならないんだけど、やっぱりそういう問題意識で読みましたっていう、そんな感じですかね。
多分ね、スポーツ、特に近代スポーツに関してはオリンピックのつながりもあって、
オリンピックなんていうのはそもそもその、なんていうか、白人世界の中でね、優位性を示すために作られた、そもそもとしてはね、
あの競技で、そこをある意味頂点として、各種競技が商業化されているっていう部分もあったりすると思うので、
なんていうか、近代以前のスポーツ、要するにスポーツ概念が成立する前の、単なるレクリエーションとしての運動みたいなやつと、
ちょっと今のスポーツっていうのはまただいぶ違っているのかなーっていう感じもありますけど。
実際にさ、多分記憶がある人は分かっていると思うんですけど、例えば鈴木大一がすごく早くなった時にルールが変わるっていう。
よくね、そういうことがあったので、それはあのルールの問題であって、
だからその黒鎮は水に浮かないから、なんか筋肉がどうこうで、水に浮かないから黒鎮はスリーが弱いと言われた時代がありましたけど、
あっという間に嘘だってすぐ分かっちゃったしね。
そのロジックはもう、そんなに手放しで信じる人はいないと思うんだけど、
それでもやっぱり一般の口にはね、上る会話として、黒人は早くて黒人は強いみたいなのがあるので、
この本はそういうのを、なんかそういうのも、あるいは私みたいな違う形での偏見を持ってる人も含めてちょっと頭をきれいにしてくれるって感じがあるので、
よかったら読んでみてくださいって感じですかね。
ありがとうございます。
で、あともう一つの話題が、しゃべる余裕がなくなりつつあります。
なくなったね。いいよ。
頭の中の地元の話。
そう、だから触れるだけ。とりあえずね。
ツイッター時々見に行くんですよ。前も言ったけど、やっぱりアクションでしか得られない栄養分があるから。
で、その時に、2018年に自分が脳内だけで、妹人格を作り上げようとしたんだけど、やっぱり自分の頭の中だけだったらできない。
やっぱり上手にはできない。
だけど、それをAIと対話することの中で、AIに妹役割を与えてみる。
で、ずっとその会話しているうちに、じゃあ今はとりあえず自分に忖度しながら会話していると思うけど、その忖度を外して会話してくれないって言ったところで、
かなり人格的に妹らしい人格で会話をしてくれるっていうやつの会話がね、ツイッターに上がってたね。
でさ、それはじゃあ忖度がないって本当に言えるの?っていうふうに作り上げた人が問いかけるんだけど、
いやそれは全然ないとは言わないよね、みたいな返しをしてくる。
でもそれってさ、人間も会話している間って、どうしてもちょっと間違えたかなとか、ちょっとこの人の意見とは違うのかなって言った時に微妙に調整していく感じと限りなく近くて、
周りのツイッターでの書き込みを見てた人が、いやそれはそうは言ってもAIですからって言って、そこに人格はないですよっていうふうに言ってた。
で、その一方で思ったのは、人間も同じようなリアクションしかしないから、人間って本当に人間なの?っていうことを悩みましたっていうさ、人間もその程度じゃないの?って、
そういう相手との反応によって作り上げた、そのAIの場合はその人、主にその人かもしれないけども、
例えば誰かすごく会話をこの人と頻繁にしてるっていう人で、その人に影響されながら、あるいは違う社会の情報なんかも踏まえて人格を作り上げていく要素っていうのは、
人間が育っていく過程とかさ、出来上がっていく過程とほとんど変わらず、AIには人格がない、人格風に見えるものがあるだけだっていうふうに言うけど、
人間もそうだよねって思いましたっていうね、非常に反社会的なことを考えたって話をしたかっただけなので、その辺で終わりにしたいと思います。
はい。役に立つかな。ただなそうだな。困ってるぞ。
この話題、結構深掘りできるんで、深掘りするとすごく面白くて、哲学的な話になっていくんですけど、ちょっと深掘りする余裕が今はないですね。
ないですね。
またどっかの機会で取り上げると面白いかもしれないなと思いました。
それととでもいいけど、あの話題はちょっと出したかったけど、出しようがなかったな。
なんでカンゴフのスイーツ着てないのの話?
ああ、ダンス、ダンスの話。
Dなんだっけ?
ダンスデイかな。ダンスデイって日テレのやっている応募型全国ダンス競技者参加ダンスコンテストみたいなのがあって、
ジェンダー問題の考察
それでトーナメントで勝ち抜いていくみたいな感じのやつなんですけど、コンテンポラリーダンスからヒップホップまで幅広くいろんなダンスさんが出るやつなんですけど、
最後は芸能人がダンスを披露するみたいな。
模範演技的な感じ?
模範演技というよりはいろんなアイドルグループとかダンスグループとかがコラボして特別企画みたいな感じで踊るってやつなんですけど、
みんなある意味ジェンダー化されてるんですよ。
女性は女性っぽい衣装だし、ステージ衣装として、男性は男性としてヒップホップ系の衣装が多いのかなっていうところなんですけど、
それを見ていてすごく多様性に乏しいなと思ってしまって、
もうメンチカアイドルを見過ぎているせいで、なんでこの光景にはラース服を着た男がいないんだろうというふうに思っちゃった。
本当強いよね。私もそうです。私もそういうフリフリの格好ばっかりをしたりしなかったりする某RABとかを見てるので、
もうたまには女性の衣装で踊るものでしょうっていうふうに思っちゃう。もう完全にズレ始めました。
思っちゃうし、振付ダンスの振付もこんないわゆるヒップホップダンスじゃなくて、もっと可愛い振付すればいいのになって。
表情管理って言葉ってさ、割と最近出てきた言葉だと思うのね。
昔は表情管理って言葉ってそんなに人口に感謝しなかったと思うんだけど、今やっぱりさ、結構表情管理っていう言葉を使う。
演技とかね、ダンスとかも含めて。で、表情管理にすごく女性仕草、男性仕草みたいなのを違う性別が取り入れてやるっていうのって、
昔はギャグにしかならなかった。もう女装もそうだよね。ギャグにしかならなかったものが、今はさ、純粋にすごい表情管理完璧とかさ、
やっぱその筋肉を裏切って、表情じゃなくてこの体の動きのことなんていうの。その女性踊りのことなんていうの。
たたずまいの形が、もう本当に女性の形ができてるみたいなことを言ったりとかするじゃん。
それはギャグではなくて、一つのスタイルとして、女性というスタイル、男性というスタイルを別に男性が選んでも女性が選んでもいいんだよなっていうところも、
なんとなく普通に広く、日本の場合は浸透してていい時代になったな、そこはね。
だからもうちょっとダンスデイでもね、ナース服を着て、かわいらしい振付で、男の子たちがね、踊っていてもいいんじゃないのって。
表現の多様性とSNSの影響
大邪魔女のドレミのね、あの印象で踊ってもいいわけですよ、と思いますけど、やっぱりギャグに一番その芸能界的なところが、そこに遅れちゃったね。
YoutubeとかTikTokを中心としたそういうネットメディアが発展して、なんかあらゆる形態のバリエーションの、なんかよくわかんないタレント、才能がね、あふれている中で、
ちょっと芸能界、テレビを中心とした芸能界だけがちょっと出遅れちゃってるかもしれないですね。
例えば私たちにとってさ、例えばハヤテ君が女の子っぽいとは思わないじゃない。
思わないですね、全くね。
そう、もうこういうことが出来上がっちゃって、もうなんか、多分おそらくその芸能界の中で、結構その、女性っぽいキャラみたいな存在ってのはやっぱり今も、あの井上博くんとかね、
いて、でもそういう人は女性っぽいみたいな雰囲気で、やっぱり芸能界の中では扱われるけど、もう別にハヤテ君見ても、ああはい。
そうそうそうそう。
ああ女装の人ね、っていうふうには思うけども。
女装なのかな。
違うね。
ハヤテ君個人としては女装してる感じじゃないんですね。
そうですね。
単に可愛いものを着ているっていうだけで。
そうですね、まさにあの先輩は男の子みたいなやつですね。
そうそうそうそう。
そんな感じで、別にだから中身がより女性ジェンダーかということとはイコールではないわけじゃない。
それは割とその界隈では常識になってんなーっていう気はしますけどね。
そうですね。
この話した人長くなる。
長くなるのでまた。
この話2人で喋るの長くなる。なぜか長くなる。
またいつか取り上げたいと思います。
飛ばしすぎです。
はい。
にじしばは川口市芝のシェアスペース、スペーストプランで月2回開催しています。
ジェンダーやセクシュアリティに関わらず誰でも参加できるおしゃべり会で、
SGBTQに関する様々な話題などについて取り上げています。
詳しい開催日程などは概要欄のホームページをご覧ください。
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それではまた来週お会いしましょう。さようなら。
さようなら。
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