1. 100円で買い取った怪談話
  2. #65 凄く怖い話
2022-04-20 15:14

#65 凄く怖い話

今週のお話は”人に話してはいけない怪談”がテーマです。

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サマリー

コロナになってからの話で、20年以上連絡を取っていないのに、怖い話を知りませんかと聞きました。洋ちゃん、久しぶりですね。怖い話、めちゃめちゃ怖い話を持っていますよ。牛の首という怪談をご存知ですか。そんな折、知人に関する話を聞かせていただきました。でもその話を語ったことによって起こったとしか思えません。意思が人を動かし、物語や話は外部に直接影響を与える力を持っています。話は誰かの記憶であり、その残りが思いを遂げたいと願っています。話は過ぎ去った過去や、先に行った者たちの様々な記憶が息づいており、階段の話にはそれが詰まっています。

洋ちゃんの未知の怖い話
コロナになってからの話で、この奥本というのは僕、中学からの友達で、もうそれでも20年以上、付き合いしてなかったんですよ。
ホンダっていう、そいつがね、酒飲んじゃうと電話が来るんですよ。
その時もホンダから電話が来て、あなたホンダやと思って、パッと電話したら、
まあ、洋ちゃんの所に、奥本洋一って言うんですけど、洋ちゃんの所にいないの。
ああ、そうなの。
それで、ちょっと洋ちゃん変わるわ、って言ってて。
それで、ああ、洋ちゃん久しぶりやなあ。
僕もね、今から考えたら不思議なんですけど、そんな20年も、20年以上連絡取ってへんのに、
急に僕をね、そう言ったら、怖い話知らん?って聞いたんですね。
怖い話、体験てない?
今から考えても不思議なんですよね。
僕はだいたい、人に対してそんなこと言うこともないし、滅多にないし、
まあ、普通やったら、何お前久しぶりに電話してきて、何変なこと言い出すねんって、
まあ、普通やったら言うのに、急にその洋ちゃんは、わーわーわーって笑って、
ああ、怖い話、めちゃめちゃ怖い話持ってるよ。
それで僕は急に、ああ、え、何?って言ったら、洋ちゃんは電話越しに、
ああ、どうしようかなーってしばらく考えて、今度はうち来たり、おったら話しかるわーって言って、
僕も、ああ、そうなんやって軽い気持ちで、ああ、そう、また今度聞かせてよ、みたいな。
それから1週間ぐらいしてから、洋ちゃんっていうのが入院したんですよ。
で、その入院したっていうのが、朝起きて台所行って水入れて、コップで水入れ終えたら、
コップが持てへん、悪力がなくなって、
で、体がおかしいって匂いしたら、そのまま、1週間ぐらいしたらもう、もう、もうだめって医者に言われたみたいで、
その本田から僕ショートメールもらって、もう洋ちゃんが、あと2日で、
山が2日やねん、みたいなこと見える感じあって、
で、僕は勘違いして、あ、2日ぐらいが山やから、それが治ったら、それを通り越したら治んの、
って送ったら、いや、もうあの、2日の命やねん、って思って、やっぱり2日ぐらいなくなったんですよ。
今だに、その、気になってんのが、僕はなんで、その洋ちゃんに20年以上電話してへんの?
怖い話、知らん、で、なんで俺今だに、不思議なんすね、何で聞いたんかなーと思って、
で、向こうでもその洋ちゃんが、はー、おー、おれの子、おれの子が、
牛の首という怪談
牛の首という怪談をご存知でしょうか。
牛の首というとても恐ろしい話があるが、
これを聞いている人たちにとっては
とても不思議なことです。
牛の首というとても恐ろしい話があるが、
これを聞いている人たちは
その話を知っている者は誰もいないという話です。
怪談そのものは語られず、
とてつもなく怖い話があるということだけを語ることによって、
聞く者の好奇心を刺激し、
どんな怖い話なのだろうかと想像させるという構成になっています。
聞いた人がそれぞれ自分にとっての最も怖い話を想像するため、
その人の中で無限に膨れ上がります。
その結果、この牛の首という話は
誰にとっても本当に怖い話になるのです。
同じ体裁の話に田中河内之介の話があります。
大正3年、東京の京橋にある庶が屋に文人牧獲が集まって、
怪談会が開かれていました。
その時の田中河内之介は
「幕末の尊王上位派の志士の一人であり、
幼少時の明治天皇の教育係りを務めていたほどの最人です。
しかし河内之介は悲惨な最後を遂げ、
その末路を語るとたたりがあるという噂が立ちました。
そのため河内之介の最後を誰も口にせぬまま月日は流れ、
その詳細を知るのは自分一人になった。
だからこそ語っておきたいというのです。
ところが語り始めた彼は肝心なところに差し掛かると
話の始めに戻ってしまい、また肝心な部分に差し掛かると
始めに戻るということを繰り返したため、
他の参加者は興ざめしてしまって次々と別室に移って
また部屋へと戻ってみるとその男は死んでいたのだそうです。
その会談会には作家の泉強家や俳優の北村六郎など
有名人も多く参加しており、その中の何人かは
回想録にその一件を書き残していることからも
これは実話であると思われます。
このように語ってはいけない、語ることができない話というのはあるのです。
このような話に行き当たったことがあります。
知人からの話
今から十数年前のこと、当時私はまだ作家デビュー前であり
ネットで開催されていた会談コンテストに応募するために
様々な会談を集めているところでした。
そんな折、たまたま知り合ったある方、Aさんから
知人に関する話を聞かせていただきました。
私はそれをコンテストに応募することにしました。
ところがなかなか筆が進まないのです。
書いていると得体の知れぬ恐怖心が湧いてきて
書けなくなってしまいます。
それでも毎日毎日少しずつ書き続け、
2週間ほどしてようやく書き上げることができました。
最初は送信フォームから送ります。
ファイルを選んで送信ボタンをクリックすればいいのですが
それがうまくいきません。
送信ボタンをクリックするとブラウザが落ちてしまい
送れないのです。何度やり直してもブラウザが落ちたり
パソコンが固まったりして再起動しても結果は同じ。
この話は人に知られたがってはいないと感じるようになりました。
それから数年後、私はこの話を思い切って
とある会談ライブで語ってみることにしました。
すると、そこでも奇妙な出来事がいくつか起きたのです。
それを語り始めたちょうどその時間に
電池を変えたばかりの私の腕時計が止まってしまい
止まらないほどに青カビがびっしりとついていました。
その後、私は体調を崩し、それでも翌日予定していた
遠出を決行した結果、行った先でも散々な目に遭いました。
また、客としてライブに来てくれていた私の友人からも
帰ってから様々な会議に見舞われたと言われたりと
奇妙な出来事が立て続けに起きました。
その時、私はこの話を語ったことに起因しているとしか思えないのです。
命を落とすとまではいきませんでしたが、その時の一見は
明らかにもう二度目はないぞというあの話からの警告でした。
やはりこの話は語ってはいけないものだと痛感した私は
現在に至るまであの話を封印しています。
このような話は多くはありませんがあるようです。
私が体験談を長年集めていると色々な話に出会います。
恐ろしい話、不思議な話、笑える話、悲しい話、実に様々です。
私が一年間に聞き集める会議な体験談は
代償を合わせると100や200では聞かないでしょう。
これほどの数の会議な話に触れていると
話自体に力を持ったものがあると稀に感じることがあります。
私が集めている話は全て実体験です。
誰かが過去に体験した話であり、それはその人の記憶です。
ということはその話には体験したその人の思いや意思が含まれているはずです。
さらにはその体験談の中に登場する他の人の意思も内包されているかもしれません。
その体験の中で会議を引き起こしたもの、
この世のものではない存在そのものの思いも話自体に宿っていることでしょう。
それこそがその体験談の中核をなす存在なのですから。
人であれ、動物であれ、霊や過しであれ、意思に形はありません。
話の力とは何か
しかし意思は人を動かし、ものに影響を及ぼし、現象を引き起こします。
この世のすべての事象は意思の発動から始まるのです。
だとすれば、その意思の一端が封じ込められた体験談、
つまり物語や話に外部に直接影響を与えるだけの力が宿っているとしても不思議ではないでしょう。
そのような力が宿った話は私に様々な思いを語りかけてきます。
この悲しみ、この悔しさを多くの人に分かってほしい、
そのためにも語ってほしい、多くの人に聞いてほしいと訴えてくるのです。
場合によっては特定の場所や特定の人に聞かせてほしいということもあります。
そんな話は私も積極的にライブで語り、本にも書きます。
逆にそっとしておいてほしい、誰にも語ってほしくない、聞かれたくないと言ってくる話もあります。
そんな話の場合は語ったり書いたりすることはありません。
今はできるだけその話の思いを遂げてあげられるように努めています。
そうすればその話は答えてくれます。
話の望みを叶えてあげた時、何となくその話が喜んでいるような気がしたり、
時には明らかな現象を伴ってその気持ちを伝えてくることもあります。
例えばこんなことがありました。
理不尽な仕打ちに遭い命を断つことになったある女性にまつわる話を取材しました。
そしてそれをライブで語ったところ、
ライブ終了後、舞台袖にいたスタッフに溢れ出したその自殺した女性の気持ちが入り込みました。
そのスタッフは自殺した女性の体験を明瞭な記憶として頭の中で追体験したのだそうです。
それには私が取材で聞き出すことができなかった秘められた部分までもが含まれていました。
そのスタッフはあまりの出来事に驚いたのと、その記憶があまりに悲しくひどいものだったため、その場で泣き崩れてしまったほどです。
このように話には意思があり、時にははっきりとした現象を引き起こします。
これがたたりだと言われれば、そうなのかもしれません。
ただ、田中河内之介の話にしろ、私が封印したAさんから聞いた話にしろ、
それを語ったことでたたるのは、河内之介の例やAさんの話で怪異を引き起こした存在そのものではないと私は考えています。
では、何がたたるのでしょう。話が持つ力というのはどこから来るのでしょうか。
先ほども述べた通り、話は誰かの記憶です。
その記憶の中には、その誰かがその時に接した他の誰かの記憶も含まれています。
もちろん、怪異を引き起こしたこの世のものではない存在の記憶もです。
それらの記憶には、記憶の重宝人たる本来の持ち主の自我や意思の残し、残りがのようなものが含まれているはずです。
その残りがは、記憶の持ち主がその時に感じたこと、考えていたことなど、その瞬間の思いを引きずっているのではないでしょうか。
そしてその残りがは、その瞬間の思いを遂げたいと願っているはずです。
そのような複数の残りがが混じり合い、一つの意思のようなものが生まれるのではないか。
その意思が、話に力を与える源泉になるのではないか。私にはそう思えるのです。
その意思は、多くの人に語ってほしい、誰にも語ってほしくない、特定の誰かに聞いてほしい、特定の場所で語ってほしいなどといった思いへとつながります。
そしてその思いが遂げられれば、その記憶の本来の持ち主たる浮かばれぬ死者たちもまた、安らぐのではないでしょうか。
階段とは単なる話です。しかしその話には過ぎ去った過去や、先に行った者たちの様々な記憶がひっそりと息づいているのです。話は生きているのです。それこそが階段なのです。
階段の話とその力
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