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中学生の頃の話なんですけども、当時は野球の部活をしていまして、
確か夏休みの頃だったと思うんですけども、
休みだったんだ、練習がいつもよりきつかったんですね。
もう家帰って疲れてしまって、結構早い時間にベッドに入って寝てしまったんですね。
そうしましたら、夢を見まして、
その夢というのが、まず自分が自分の視点で走ってるんですね。
自分の視点で走ってるんで、最初周りの景色しか見えないんですけども、
石がいっぱいある河原のようなところを走ってるんです。
結構な勢いで走ってるんですよね。
だんだん走りながら、自分の手足とかが見えるんですけども、
すごく汚れてて日に焼けてて、
いやここまで日に焼けてないよなと思って見てると、
服が着物なんですよね。
昔の農民の人が着てるような、野良着みたいな感じの服を着てまして、
右手に鎌を持ってるんです。
その鎌を持った状態で、野良着でわらじを履いてるんですよね。
その状態でわーって走ってて、
なんでこんなに走ってるんだろうって考えるんですけど、
しばらく走ってると前に、また農民の奥さんみたいな服装をした女性が、
すごい必死な顔して逃げてるんですね。
この人を追っかけてるのかなと思いながら、
わーって走ってその女性の肩を押し倒すんですね。
その女性の肩を押し倒して何をするのかと思うと、
結構臨月ぐらいの妊婦さんなんですけど、
鎌で妊婦さんのお腹を割って、赤ん坊を取り出すっていう。
そこで、わーってびっくりして目が覚めたんです。
そこで目が覚めて、ふっと足元を見たら、
白い着物を着たおばあさんが、すごい怖い顔して、
私の足元のところで正座して睨んでたんですね、こっちを。
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いやーって思って、いつの間にか多分気を失ったのか何かして、
気づいたら朝だった。
また翌日、野球の練習をして、また帰ってきて疲れて早く寝てしまったんですね。
そしたらまた全く同じ夢を見たんです。
また女の人を押し倒して、お腹を割って、赤ちゃんを取り出したところでまた目が覚めて、
その日は足元におばあさんがいるんじゃなくて、
寝てる足の上が重いなと思って、その重さが徐々に上に移動してきて、
その時、1日目もそうなんですけど、体は動かないんですね。
目だけ開けられるような感じで。
うわー嫌だなと思いながら下の方を見てると、
今度はそのおばあさんが私の体の上を歩幅前進して、顔の方に近づいてくるっていうのが見えて、
それでまたこれダメだって、おそらく気絶してしまって、また気づいたら朝になってたと。
また翌日、同じように練習してまた疲れ切って、また寝てしまったらまた同じ夢を見て、
夢の中では何回目とかそういう認識はないんですけども、
また同じように赤ちゃんを取り出したところで目が覚めたんですけども、
その日は体も動かないんですけど最初目が開かなかったんですね。
最初の2日はすぐ目だけは開いてキョロキョロはできたんですけど、
目も開けられないなと思ってたら顔がすごいこそばゆいというか、
なんていうんでしょう、毛皮のフードをかぶってる時に毛がほっぺたにサワサワって当たるような、
そういう感じがして、くすぐったいなと思ってたら目がパッて開いて、
真上の天井ですね、天井のところにすごい怖い顔をした女の人が、
こっちを見下ろしてるんですよ、私の顔の真上から。
その人の髪の毛が顔に触ってたんです、長い髪の毛が。
うわーって、そのおばあさんよりびっくりして、これどうなってんのって思ったら、
その女の人すごく大きい人で、天井が普通の家なんで多分2メーターぐらいだと思うんですけど、
そこの天井のところで腰を直角に曲げて、私のことを見下ろしてるっていう感じで。
でもそれでこれは本当にダメだってなって、また意識を失うような感じで、
次の日の朝になってっていうので、その3日でも夢は見なくなったんですけども、
ちょっと前世の記憶とかだったらすごく嫌だなって思った経験ですね。
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今回、怪異な体験談を披露してくださったのは、Mさんという方です。
3日続けて同じ悪夢を見、目が覚めると悲しばりに、そこで見知らぬ異形のものに襲われる。
そんな不可解な体験でした。何か意味がありそうで、でもその意味がわからない。
夢で終わっていれば、そんな夢もあるだろうという一言で済ませられるのに、
目が覚めた時、悪夢の続きのような怪異が起きている。
しかし、夢の内容と怪異との間に関連性があるのかというと、どうにも半然としない。
意味を見出すために点と点を線で結ぼうとしても、
必要な点の数が少なすぎて、どうやってもこじつけになってしまう。
わかりそうでわからない、とてももやもやした体験。
本来、実体験としての怪談とはこのようなものが多いのです。
一方、70年代や80年代にテレビや本などで紹介される怪談には、そのようなものは少数でした。
当時の怪談はもっとシンプルなものだったのです。
現在、公館で語られる怪談との明らかな違いは、必ずオチが用意されていた点でしょう。
引っ越した家で幽霊が出るのだが、後で調べてみたら、
そこでは過去に一家残殺事件があったことがわかった、とか、
海水浴に行って泳いでいたら足を引っ張られて海中に引きずり込まれそうになり、
そこでは大勢の人が溺れ死ぬという事故が起きていた事実を後で知った、など、実に明快です。
わかりやすい怪異が起きた後で、その原因がしっかりと究明されて終わるというのが、
怪談の基本的な形式となっていたようです。
怪談の書き手や語り手の多くは、その形式に則って怪談を発表、披露していました。
そのような形をとっていた理由を、私は次のように考えます。
一つは、当時怪談といえば、東海道四谷怪談や、
番長押され屋敷などの古典画末跡に想起される時代だったということが挙げられます。
それらの話は創作であるか、実話を元にした創作物語であり、
歌舞伎や落語、講談といった芸能として上演されました。
上演物ということは、演出があり、大談演を迎えて終わります。
怪談はそのような出し物の一ジャンルだったのです。
そのため、娯楽読物として出版される当時の実話としての怪談も、
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その形式に準じていたのではないでしょうか。
もう一つの理由は、読者や聞き手を納得させることに
重きを置いていたためだと考えられます。
怪異が起きた原因をオチとして明確に提示することは、
物語が決着することにもつながります。
そうすることで、聞く者は納得することができるのです。
納得とは、別の言い方をすれば、この場合、
安心という言葉が当てはまります。
その物語の主人公は一家残殺事件の現場となった家に住んだ。
だから幽霊に脅かされたのだ。
私の住んでいる家ではそんな事件は起きていない。
だから幽霊は出ない。安心だ。というわけです。
つまり、オチとして怪異が起きた原因を提示することは、
聞く者を怪しく不気味な怪談の世界から
安全で穏やかな日常に連れ戻す効果を生むのです。
怪談を読んだり聞いたりしているとき、
その人は怪奇な世界に身を置くことを疑似体験しています。
いわばバーチャルな世界で恐怖という感情を楽しんでいるわけです。
ところが怪談とはそもそも目に見えない世界が
私たちの日常に侵食してくる話でもあり、
怪談そのものがバーチャルであるともいえます。
それは目には見えず手で触れることもできないにもかかわらず、
人に対して影響を及ぼすだけの力を持っているのです。
そのため怪談の発信者は物語の最後で明確な区切りをつけておかないと
受け手の日常が変質してしまい、
怪談の中の恐怖がいつまでも続く恐れがあるのです。
つまり今聞いた怪談に出てきたような幽霊が
自分の家にも出るのではないか。
そんな思い込みがあると住み慣れた家でも
どこか不気味に見えてしまうのです。
そうさせないためにも怪談はこれで終わりました。
今語った怪談はあなたの現実とは別世界の話です
という線引きを物語の中にあえて仕込んでいたのではないか。
私はそう考えています。
ところで私がこれまで集めた怪談の中で
怪異を体験された方がその原因の特定に至ったという話は稀です。
私だけではなく他の怪異体験を収集されている方も同様ではないでしょうか。
それにも理由があります。
想像してみてください。
もしもあなたが引っ越した家で
毎晩のように幽霊が現れたらどうするでしょう。
とにもかくにも急いで引っ越すはずです。
引っ越すことができなければお札を張ったり
清めの塩を持ったりお祓いをしたりして
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幽霊が出ないようにするために
様々な方策を取るのではないでしょうか。
また怖いと思わない幽霊など平気だという方の場合
気にせずただ放っておくでしょう。
いずれにしてもその幽霊がなぜ出るのかを調べようと
行動に出る人は少ないと思います。
なぜ調べようとしないのかというと
そんなことには関心が向かないからです。
幽霊はなぜ自分がそこに出るのかを
自ら説明してくれません。
そのため人がなぜそこに幽霊が出るのかを知るには
自ら調べる必要があります。
近隣に長く住んでいる人を訪ねて聞き込みをしたり
地元の図書館に行って過去の新聞記事を当たったり
法務局に行って等規模を見たりといった具合です。
ところが時間と労力をかけてこれほどのことをしても
原因を究明できるとは限らないのです。
よほどその幽霊に興味関心を抱かない限り
誰もそんな大変なことはしません。
自分が住んでいる家ですらそうなのですから
たまたま行った海水浴場で幽霊に襲われた場合など
もうその海水浴場に行くのはやめようと思うくらいで
それ以上のことはしないはずです。
実話としての怪談のほとんどにオチがないのは
そういった理由があるのです。
70年代、80年代の怪談は聞く者の気持ちを重んばかって
わざわざオチをつけてくれていた
言うなれば優しい怪談なのです。
ではこの番組でも扱っているような
どれだけ不可解でも意味がわからなくても
オチがなくても
あったことをあったるがままに怪談として扱うという
現代の実話怪談の形式が整ったのは
いつ頃のことでしょうか。
それはおそらく90年代のことかと思われます。
この時期、怪談シーンに大きな変化が訪れました。
唇を切ったのは木原博勝氏と中山一郎氏が表された
怪談の名著、真耳袋です。
1990年に真耳袋あなたの隣の怖い話
という題で出版されたこの本は
後に現代百物語真耳袋と開題され
シリーズ全10冊が刊行されるベストセラーとなりました。
また1991年には
樋口昭雄氏、加藤はじめしらによる
超怖い話が刊行されます。
こちらもシリーズ化され
現在でも出版され続けています。
これらのシリーズでは
著者らが自ら取材した怪異体験を
大きな脚色を加えずに
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ほぼそのままの状態で文章化しています。
それまでオチがない、分かりにくい、
バカバカしいと思われるといった理由で
なかなか日の目を見ることのなかった
生々しい体験談が数多く取材されました。
ここに、実は怪異談と呼ばれるジャンルが誕生したのです。
この2つのシリーズの発刊を機に
オチがつかないありのままの怪異体験を
怪談として授与する土壌が
一般に浸透したといっても過言ではないでしょう。
今回紹介したMさんの体験も
ひょっとしたら80年代以前では
このような場で一般に紹介されることは
なかったかもしれません。
一般に留守する怪談は時代とともに変化します。
その要因の一端は
怪談の発信者たる書き手、語り部と
受信者たる読者、聞き手にあります。
受信者は発信者の怪談間の影響を受け
発信者は受信者の怪談に対する認識に左右される
発信者と受信者は相互に影響を与え合い
それが繰り返されて
世に出る怪談の形は徐々に変遷していくのです。
怪談を生むのは人であり社会です。
ここに怪談が文化だといえるゆえんがあるのです。
この番組ではあなたの体験した怪談を
オンラインで買い取っています。
番組概要欄の一番上にある
怪談応募のリンクからお願いします。
しゃべることが苦手な方や
声での出演が厳しい方は
メールでの応募をお待ちしています。
また体験談以外にも
怪談に関する疑問や質問がありましたら
同じく番組概要欄の一番上のリンクから
ご応募ください。
来週はいつもと違う100円で買い取った
怪談話をお送りします。
それではまた次回お会いしましょう。