1. 1000人の声あつめ
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2025-10-25 15:00

#2-60 2023年1月29日/阪神尼崎/5

#2-60 2023年1月29日/阪神尼崎/5

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若い人にスペインカレーの話、今のコロナの100年前の話をすると、みんなびっくりしちゃうんですけどね。
私は母の30代の子なんです。母の姉というのが10代と違かったんですよ。28で亡くなってね。
私の母がちょうど女学校18のときに、スペインカレーになって、そのスペインカレーで4日ぐらい寝たのかな。
結婚して、子供が亡くなって、2月頃、お姉さんがどのような風邪をみたのか、4日ほど寝て亡くなった。
それを子供のときは聞いていたんです。スペインカレーが大流行りして亡くなったって母が言っていた話をね。
私の母方の、本家の後継いでいるいとこの子供やね、今何歳でも、天皇陛下と一緒やから60人ぐらいですか。
その人にその話を言ったらね、コロナが2年ぐらい前に流行っているでしょ。
そう、神戸で勤めていたんです。
家族が嫌々言って、ワクチンしてって言ってんねんけど、ちょっとこれはきついんちゃうか。
お嫁さんがそんな言うとは言うからね。
これこれこんなことがあってんから身近にね。
あなたは知らんけれども、私は聞いた話やからこんなんよ、言ってね。
そんな言うと、あわててね、あれしましたわ。
年寄りもね、そんなこと、私今81なんですよ。
でも100年ほど前言うたってね、ちょうどそんなになるでしょ。
80、39、89、39から128かくぐらいでしょ。
18の時にね、お姉さんが亡くなって。
割に身近でしょ、500年ぐらい前言うてもね。
だからそんな話するんです。
私は年寄りでも大変な遺憾が身近にね。
子供の頃この辺とかって全然違いますかね。
私は赤市なんです。
尼崎はここで兄が城南中学校に勤めてたんですよ。
私はね、お城ができたんでしょ。
あの時20年ほど前に地域福祉会議言うのがあってね、工房でメンバーに入ってたんです。
その時にね、緑電化の社長さんの阿保さんがね、
私知らんかったんですけど、尼崎にお城があって、
お城を建てる建てるって言ってあったんですよ。
建てたい建てれ、また変わったこと言われるのきっとやなと思ってまして。
私はね、立花の方のね、南向こうのちょっと前のね、立花中学のとこなんですね。
あのね、ここに入ってた阿保さんがお城を建てる建てるって、あの人は向こうの層の方なんですよ。
それで、ああ、お城を建てたい建てたいって言っちゃったんです。
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それから後にね、100周年になって野田学園の公園に聞きに行った時に、
ちょうど100年になるからお城を建てるって、そんなあれが出た言ってね、
市民の人慌てて言ってありましたけど、20年ほど前からその話聞いてましたからな。
それで、なんでこの天ヶ崎にお城を建てるのかって聞いたらね、
天ヶ崎の九井生あるでしょ、九井生の御典。
あそこでね、あのレコード展にされたんですね、あの阿保さんが。
あの方はね、麻生郡の武田城、武田城御典でしょ。
あそこの出身なんですって。
それで緑電化からずっとあれして、大きくなって、今エリオン大きくなってますやん。
その天ヶ崎に還元したいのでお城を建てるって、
御典でそのお城を建てて寄付し合ったんです。
その周り今きれいにあれなってますやろ、周り公園とかね。
あれは天ヶ崎新学校の100周年であれでお金出し合ったんですけど、
お城は阿保さんが資材を投入してあれし合ったので、
私はね、何にもそんなお金も一つないからね。
河原の1枚3000円やったんで、それだけちょこっとしたんです。
お金よくやったあれやけど、そんなのね、円の下の力、円の下じゃない。
そうなしてね、あれしましたけどね。
赤瀬にもお城ってあるんですか?
赤瀬の駅を降りたところにお城あるんですよ。
開けてない、きれいなお城ですよ。
今度はあちらの方行き合ったらね、JRで姫井の方行き合ったら、
赤瀬新快速で止まるからね。
きれいになったですわ。きれいなお城ですよ。
赤瀬の大橋っていつ頃でした?
赤瀬大橋はね、私結婚した時、昭和40年ですね。
その時にね、言ってました、橋ができるんやいってね。
あの橋できるのはね、淡路のね、議長になりはった人や。
名前が出てけへん。
あの人がね、ちょうど昔は淡路と尼崎をね、
同じ衆議院の区域やったんですよ。
その人がね、建てる建てるって言ってありましたわ。
それで橋、大風呂敷引いていれば、
地元でそう言ってあったけどね、
それでやっとやっと原健座風呂さん、
あの人が淡路の人なんです。
それで私40年やから、もう今から、
20何年前、JRの橋できた。
子供の頃は、赤市から淡路島に行ったりはそんなにしないんですか?
淡路島ね、ちょうど岩屋からね、あそこに船があったんです。
私ね、その小学校ね、赤市なんですけど、
あの岩屋、淡路の岩屋のね、今の選挙って言ったら言わないけどね、
大谷官府で県会議員出てんねん。
あの子のお父さんが岩屋の人やってね、小学校同級やったんです。
淡路、庭屋から来てはってね、
私はね、まるやと海のすぐそばですね。
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それでもうあの綺麗なね。
旅行みたいな。
もうね、昔は空気が綺麗かったでしょ。
江崎の灯台があるんですよ。
ちょうど赤市、淡路島はこうなってますやん。
赤市はこうなって、その一番狭いところがよく見えんねんね。
江崎の灯台って割に綺麗なんですよ。
人が歩いてるくらい綺麗な。
海のすぐそばやったんですよ、私の家はね。
それで淡路島、貝打ち城の泣き声が100日出てきますやろ。
ああいう風景のとこでね。
私の生まれた家はね、2階あったんですよ。
2階から見たらもうすぐ綺麗ですわ。
風光明媚だね。
それでその赤市の端からずーっと見た、
舞妓のところの画像か、あそこ真っ直ぐ見えんねんね。
ものすごい景色がいいところで生まれて育ったんですよ。
それから百人集の歌。
これがこの行く向かいのお別れという。
これは大阪の時やな。
ずーっと毎夜日に出てくるね。
ものすごい風光明媚なところで育ったんです。
甘ヶ崎はね、小学校のとき社会見学があってね、小学校ね。
甘ヶ崎覚えてますか、小学校。
煙でね、関電やね、関西電力。
そこへ見学行きましたわ。
それくらいやね、甘ヶ崎のね。
それで昔私らの頃、阪神工業地帯、煙の都を行ってね。
今も産業なくなって空きっぴりになってるけど、産業がなくなってるでしょ。
だからやっぱりね、甘ヶ崎、今日は何か言ってありました。
甘いと溢れる、言ってあったね。
前の主張は、人が咲き、花が咲き、甘ヶ崎ってあるけどね。
それもいいけどね、人が咲き、花が咲きね、甘ヶ崎やけどね。
知恵をさかしてもっとね。
全然そんな言いますね。
知恵さかさないとね、やっぱり甘ヶ崎見ようになれへんでしょ。
みんな、甘ヶ崎大事なとこですじゃん。
昔は偉い人、坂本雅二さんでね、東京都知事まで出てあかんかったけどね。
そんな人とか、慶忠さんとかね。
それからそこの初めての甘ヶ崎の市長さんやった、桜井なんてあれ、桜井神社のね。
あの人は初代の市長さんやけど、あの人も偉い。
葛海宗ご存知でしょ。
葛海宗は、あの市長のお姉さんが、息子さんのお嫁さんかなんかに行ってるらしい。
なんかそんなんで。
日籍の、日本籍従事者のあの北京人の一人なんでして。
私もあんまり知らんけどね、言う機会ないけど、こんなとこ言っといたらまたね、
なんか市民の人とかね、若い人に伝わるかなって、私なんぼでも喋りますけど。
昔は弱くなった、66組とか弱くなった。
怖いのはやっぱり戦争で言い分けたことやね。
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逃げたんですか。
疎開しまして。
あ、そっか。どこの。
私、あの赤城やからね、いかわ谷って。
いかわ谷ってね、ご存知?
西区やね。
ちょうど赤城からずっと。
私のおじいさんが、いかわ谷の長坂湯とかね、
養子に来てやがったみたいな、おじいさんも亡くなったんですけどね、
母のいとっくんはね、その前回言うとこに、ちょうど今やった地下鉄の、いかわ谷の一番端、地下鉄がありますやん。
あそこに、疎開しましたわ。
家が焼けるときに、真っ赤に、7月やね、真っ赤に燃えてね。
それで今、家が焼けてんねんからね。
よく覚えとくや。
私、よってやったからね。
今、81でしょ。
だからよって。
私、16年6月生まれですね。
だから、川崎にね。
あなたら、高槻やったらね。
川崎の工場が、かわ湯、航空機、飛行機の会社あったんですよ、赤城にね。
だから、ずーっとね、焼けたんです。
同じ赤城でも焼けてないとかね。
私の、この前、去年一昨年亡くなったいとっくは、大正13年やねんね。
そのいとっくがね、海使っとったんですって。
7月やから。
しょうゆ弾がバーっと落としていくでしょ。
それ見てたんです。
まだ何もいないや。さーっと燃えますや。
うち、今、商売してたからね。
あれ、知ってましたけど。
疎開したとこは、もう安全な。
田舎やからね、ちょっと離れてるね。
それから、いとっくの話がね。
いとっくは、海に逃げとったんです。
B29が。
海使っとったんですって。
しょうゆ弾がバーっと落としていくでしょ。
漁師の実際やったら、それこそ。
さーっと、何もないところでさーっと燃えるけど、ちょっとあった。
なかなかね、最後。
私とこの、そのいとっくは賢いからね。
お風呂もあったんですけどね。
お風呂の中にね、お水をいっぱい張ってね。
で、その中に、お釜を入れてね。
お釜を入れてね。
したから、お風呂が焼けんとね、残ったんです。
それで、隣がね、親戚が隣が銅戦士を、船作る銅戦士だったからね。
船の廃材で、お風呂の。
あれ、滝も、滝もいたってわかるようにね、燃料になってね。
それで助かったりで、お風呂あったの覚えてますわ。
私ら同級生でもね、家焼けてない人いてるんですよ。
場所、場所。
赤市でもね。
同級生でも言うても、私6月生まれでしょ。
それが17年の1月ぐらい、半年ぐらいだって全然覚えてない。
家焼けてない人は全然覚えてない。
たまたま私と同い年で、同じ日に生まれてた人でも、
戦争に追ってない人なんか覚えてないけど、
私は防空壕に逃げたり、空襲警報に逃げたり、防空壕の中に逃げたり、
ズキンかぶって、ここに名前つけてね、
私が一番最後や思いますわ。
覚えてない。
もうみんな戦争知ってる人少ない。
もう、私、もうちょっと上やったらね、あれですけどね、
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小学校、昭和23年やからね、何度でも喋りますけど、
もうそんなことぐらいしかないでしょ。
大人聞くことないでしょ。
あなたのおばあさんのぐらいでも、戦争打てはれへんでしょ。
でも、良かったですね。家は焼けちゃったけど、逃げれて。
東京とかなんてね、逃げないでも、いっぱい子供も。
そうそう、それからね、そもそも不老児になったりね。
あの宮城真理子さんってご存知ですか?
あの靴磨きのうた、あんなうたってあったでしょ。
不老児はあれやったんちゃいますか。
だからね、野坂昭吉さん、何そんなホタルで書いてあったんでしょ。
私よりちょっと上やからね、あの人が。
もっと上やからね、戦後の宣伝の話をする人あんまりいない。
お父さん、お母さんは大丈夫だったんですか?戦争ってことは。
私の父は船持ってたからね。
船を持ってたしね。
朝鮮にも事務所があったからね。
だから母はね、私兄が6上の兄。19年まで3つ下の弟がいたからね。
だんだん人手がなくなってきて、みんな戦争に行くでしょ、若い人はね。
だから最後の年代ですわ、私は。
何歩でも喋りますけど、こんな話あんまり聞かへんでしょ。
これみんなが昨年聞いて。
私みたいにこんなによく喋られんじゃん。
ちょっとなんかやったらね、軍事工場行っていろいろこしらえたりね、あんなんしてあるけど。
もうちょっと上の人やったら学校行って、学童疎開したりね。
疎開先では何食べてたんですか?
お百姓さんやからね。
うちは船持ってたり、お魚とブツブツ交換したからね。
それからあんまりね、食事みなさんは何やつら、こうじゃんや、あんなん食べたら言ってあるけど、そんなのなかった。
お魚とブツブツ交換やって、まだまあよかった。
ブツブツ交換してね、あれしてました。
それから後にちょっとね、あれしましたけどね。
だけど貧乏はあれやから、何でも貧乏はできます。
母がカッケやったからね、麦ご飯食べた後カッケやからね。
やっぱりカッケって知らんでしょ。
今の人は何なんですかね。
白米ばっかり食べたらいかんけどね、ご飯がね。
うちは大きい船持ってたからね。
それでも人がだんだんね、あれになってきたからね。
両親さんはね、あれやったり。
港へ船が着いたで、言ってね、あれしたら、あれしてましたけどね。
そんなあんまり大きなこと言われんけど、悪い商売だと会うからね。
家らしさはあれが当たり前の差別だと、おかしなこと言われます。
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