さあ、今日はですね、戦争の記憶インタビューということで、佐藤武昌さんにお話を伺います。よろしくお願いします。
佐藤さん、最初になんですけど、青年月日とお生まれの場所を教えてください。
私は1939年1月27日ですね。
横浜の生まれ。
横浜市神奈川区で。
そうすると今、今年このインタビュー。
86ですね。
どうですか、いきなりですけど、人生86年って結構あっという間でした。
そうだね。ほんとあっという間ですね。
その中で今日ね、いろいろお話が上がっていきたいんですけども、1939年ということで、
太平洋戦争始まった戒戦時は多分2歳ぐらいで、終戦が6歳だと思うんですよ。
その中で、担当職人ですけど、佐藤さん、戦争の記憶っていう、これはインタビューシリーズなんですけど、
戦争の記憶って聞いて、真っ先に今頭をよぎることって何ですか?どんなことでも構いません。
パッとよぎるのはね、やっぱりまず食べ物がなかったなっていうことと、空襲だね、怖かったね。
もう夜、毎晩のように来たじゃないですか。
空襲が、B-29ってね、不気味だね、でかいやつが空を飛んでね。
それでうちのそばにね、光射を撃つところがあったんだけど、弾が届かないって言うよね。
バカバカ撃ってるんだけど、破片だけが飛んでくるという。
それで不気味で、それでどんどん落としていくでしょう。
うちの近くはそうしなかったけれども、焼夷弾落としたりね、とにかく不気味ですよ。
私、寒い暑い、やっぱり寒い時の空襲を覚えてますね。
もう夜中起きてね、サイレンが鳴るわけですよ。空襲警報外れって。
そうすると10日間制って電気に切れをつけてて、それを全部下ろすわけですよ。
暗くするわけですね。
それで子供の頃ですけども、私が覚えてるのは、
4つ、5つでも自分の着るものが寝る前にちゃんと畳んで、
もう夜中起きてもちゃんと自分で着れるように畳んでおいて、ちゃんと着るわけですよ。
それでみんなで寒い中、防空壕に入ってね、寒くてもこんなんで入って、
中に入って、ろうそく1本でね、それで畳で1枚で蓋をして、
それで中でじっとしてるわけですよね。
だから子供の頃でもね、一番眠たい時でしょ、夜中から。
そういう思いがあったね。
今、3、4歳とおっしゃいましたけど、そうすると物心がつくかつかない時に、まさに戦中だったということですよね。
それで、兄弟もいたからね。
どんなご家族構成だったんですか。
家族は、兄弟は四人なんですよ。
私の兄が5歳で、昭和7年だから、戦争が始まる前にもう亡くなっちゃっていたんですね。
ただ、7年目で生まれたのは北海道だから、戦争地はまだいないで、兄がいなくて、疎開をする時は5人ですよね。
だから、そういう夜中の恐ろしさとか、そういうものと、やっぱりとにかく週空襲ですから、
おちおち子供の頃でも出れないというね。
それで起きて、元気になるとお腹空いてもなかなか食べ物がないというね。
そういうことが一番思い出されますね。
今、5人とおっしゃいましたけれど、竹松さんは何番目ですか。
私は正式に言うと、5番目ですね。
正式に言うとというのは差し支えなければ。
だから、兄が死んじゃっているので、正式に言うというか、普通に言ったという言葉みたいですね。
あれですか、ご兄弟、細かいですか。
姉、兄、姉、姉と。
だから、3姉妹の兄貴は1人。その次ですよね。
なるほど。先ほど大生は横浜の神奈川区っておっしゃいましたけれど、
そうするともう小さい時、2歳ぐらいの時に疎開していたとか、そういう感じなんですか。
11歳、疎開は6歳ですね。
6歳で疎開。
終戦直前に疎開ということですか。
その頃、うちの親父は中国で戦争で現地にいて、
私の名前を言いますと、竹政っていうのは、
中国の中心、真ん中辺りにある武館のそばにね、武将ってあるんですよ、私の名前。
地の通り。
そこをうちの親父が、自動車部隊だけど陥落させて、その頃生まれて、
お母さんがおそらく、兄が死んでいるから、あの頃は男の子というのは女の子よりは大事にされたんですよね。
お母さんも、男の子が生まれましたよって電報を打ったじゃないですか。
でも戦争中だけど、そんだったらばって、
じゃあ俺が今いる場所の名前をつけろって言うんで、竹政っていう。
そうなんです。
うーちゃんっていうね。
あ、中国語で言うとね。
そう。
あ、そうだったんですね。
そうなんです。
じゃあその疎開されてた時は、お父さんは中国にいたんですか?
そうなんです。
一緒には過ごしていなかったんですか?
うちの親父は、だいぶ日本がひどい目に空襲で大変だなっていうのも情報が入っていたんじゃないですか。
だから家族の安全を考えて、うちのお父さんもよく知らない親戚を辿って行って、
北海道にいて、向こうから電報を手当たりしたんでしょう。
昔の人って手豆だから。
それでちゃんと連絡してあるから、そこの住所をここに尋ねて行きなさいと。
それで大丈夫だよっていう形を手紙で受け取って、お父さんが行ったんですが、
5人ですよ。下はおそらく1歳か。そこらですよね。
その5人、上だってまだ中学の上級がそこらでしょう。
それは、今日もちょっと一瞬目低いのに話したんだけど、すごいよね。
本当ですね。今だって大変ですよね。
確かに北海道の最初に行ったのが模成府市というところで、
朝日川のちょっと手前にある寒いところですよ。そこへ行ったんですから。
うちのお袋、水知らずですからね。
非常に不安とあれを抱えて行ったと思いますよね。
そういう、私なんか戦争というと、やっぱりお袋の姿、大変だったなっていうのがすごく記憶にありますね。
兄弟同士とかね。そういうことですね。食料がないという。そういうところで一番強い。
さっき、今も食料ってありましたけど、その時の食事の何か思い出とか、お母様がこんな苦労してこうしてたとか、もうちょっとだけ具体的にありますか?
こっちにいる時はまだ良かったですよね。ただ食べるものは、それ以外に何か食べたってあんまりないですよ。
ただ、うちの親父はタイで、戦争でいうと蔵が上のほうだったから、北海道に行って配給があるんですね。
そういう軍隊の上のほうで、あるのは水飴。水飴だけ。ガロン缶というか四角い缶で送られてきて。
やっぱり覚えてるのは、小さい時って甘いものを欲しがるんですよね。
ないんですよ。
食べ物がね、一番とにかく記憶に残っているのは。
ここまで10分くらいお話しかかってますけど、やっぱり竹本さんの中で食べ物食べ物って出てくるので。
食べ物ですよ。
もちろん今の話を伺っても、当然満足だったわけじゃないと思うんですけど、いつもお腹空いたな、ひもじいなみたいな、そういう感じあったんですか?
ありました。もうね、本当にそういうガツガツしてる感じですよね。お腹空いててね。
でも、まあ親としてやるものはないから、食べ物をね。
で、こっちにいる時ですね、もう本当に亡くなって覚えてるのは、香料とか粟とかね、ヒレとかああいうもの、お米がないから。
これね、お腹がいくら空いててもね、本当においしくなかった。
まあ、飼料ですよ。
米とは違いますよね。
味がないんですよ、あれ。ボソボソしてて。
で、こんなこと言っちゃうんだけど、まだこっちにいる時に、私が小さい時で風邪をひいて寝てたんですね。
で、まあ親父がいないから、うちのお母ちゃんが田舎からちょっと手伝いに来ている時に、私が突然大きな声で泣き出したんです。
まったくなおしと具合が悪くなったのかと思って、親が飛んできて、なんだと思いますか?
寝てて、しらっと見たのが、前の日におばあちゃんが来て、小豆を持ってきて、あんこを作ってくれたわけですよ。
その鍋の底にあんこが残っているのは、これを姉に残ったのはいいよ、これ食べなさい、それを私が食べた。ギャーッと泣いたという。
それは泣きますね、食べ物はね、特にその時期。
だから、そのくらい食料がなかったですね。
当時、お父様は中国に行かれていたということですけど、ちなみに戦争に行かれる前、お父様はどんなお仕事をしていたか?
佐藤家自体はどういうお家だったんですかね?
私の親父は、横浜市神奈川工業、3期生、卒業。あそこを卒業して、今の東芝を勤めて、工業系ですからね、やってて。
結構、いろんなものを作ったり、偉い人の説明をしたりしたけど、何を思ったか、そういう話は聞いていないんですよ。
もう、17歳で亡くなっちゃったから。
突然、これから自動車があるだろうということで、うちのお袋の話ですけどね、
突然辞めて、これから3年間、自動車の教師所があるんだ。
品川にあって、そこで修行して、3年ぴったりで辞めたらしいんです。
すごいですね。
3年ちょうどだから辞めた。
あなたはどうするの?
ラーメン屋でも何でもできるから、とにかく俺は自動車の関係の仕事をやりたいんだって。
そこから横須賀で。
うちの実を言うと、おじが結構な海軍じゃ、中尉だったら、軍隊で神様みたいなもんですよ。
そうですね。
それでやってたんでね。
おそらくうちの親父は、10人兄弟で5番目でね。
やっぱり5番目。
あ、そうかそうだね。
それでね、うちの一番上のおじさんには可愛がられたらしいんでね。
それで悩みを言って、こういうことを僕はやりたいんだって言ったらば、
じゃあちょっと来いと。
横須賀に借りて、その場所を色々探し求めてわかったことは、
今は公園みたいになってるらしいんですけどね。
昔は、そういう特別な、海軍が使える特別な締め釣りにそういう場所があったらしい。
そこを借りたみたいですね。
根岸なんですよ。
そこで1932年ですか、自動車の業種を創業したのが始まりですね。
そうですね、そうか。ありがとうございます。
そこからすみません、また戻りますが、
その疎開も知っているとき、あとその前もですけど、
なんていうんでしょう、やっぱりその空襲、そしてその準備。
今ね、平和だからあれですけど、正直僕自体も、
6歳とか5歳のときよくて、ゼロじゃないですけど、
やっぱり毎回空襲とあとその食べ物だと、竹松さんの中ではどうなんでしょう。
やっぱり子供だから当時分かったこと分かんないことあると思うんですけど、
とにかく毎日、何だろうな、いつ死ぬか分かんないぐらいの感覚だったのか、
意外とそこまでの死、どういう感覚だったんですか。
なんか毎晩起こされて嫌だなと。
だけどもう飛行機は飛んで時間が来るわけですから。
だから怖いとかなんかあってもね、嫌だなと。
そういうもんじゃないですよね。子供心というのはね、そんなもんですよね。
あと親の死に従ってついていくということですよね。
そういう意味では、あんまりね、ステレオタイプなイメージで伺うのもあれですけど、
僕らは当然戦争を経験していないので、今の毎日空襲に備えてみたいな感じだと、
5歳6歳といえどもビクビク震えて寝れなかったんじゃないかなと思う。
意外とその当然非常時とはいえ、竹政少年の中では日常もあったし、楽しいこともあった。
そうですね。結局ね、近所といってもね、知れてますよ。
そんなに家がいっぱいあったわけじゃないし。
だからどうしても兄弟同士で遊ぶのが多かったですね。
だから私ね、上があれだから、女のね、編んだり、あやとりとか女性のやることはね、かなりできたらしい。
あ、らしいってことは、今あんまり後方はないんですか?
そうなの。
そういう兄弟同士で遊ぶっていうことが多かったですね。
だからそんなにね、毎日がもう戦争で嫌だとかさ、そんなにないですよ。
そういうもんだと思って。
ただ、夜中起こされるのは辛かったというか、それも辛かったというよりじゃないですね。
自動的に起きて寝れればいいなと思うぐらいでね。そのぐらいですよ。
そうすると、その中で最後のおそらく1年ぐらいを疎開先で過ごして、当然その終戦があったわけじゃないですか。
その時のことって覚えてます?
覚えてますね。よく。
どんな感じでした?
それこそ魚君放送も聞いたのかとか。
そういうのはね、聞いてないです。
聞いてない?
あのね、こっちと違ってね、まず飛行機も飛んでこない。空襲がないんです。
まさに疎開してるわけですからね。
ないんです。
本当にのどかな農村地帯、光川平野の中での農村地帯で、いいとこでしたよ、それはいいとこだけど。
食い物は持ってなかったね。本当に。
だから向こうへ行って私は小学校に入ったんですよね。
こっちの小学校入る身体検査とか全部終わって、入る予定がおそらく3月、よく覚えてないですよ。2月か3月に行ったと思うんですよ。
それの時は覚えてますね。前の日に親戚の家に泊まって、またその泊まった日の夜に爆弾が起こって、そばに。
すごいですね。
それは本当に感謝ですよ。
いくら疎開で直接的な空手とかがなかったとしても、
お父様も直接いない中で、他にもそういう方がいて、みんながみんなすさまなかったわけじゃないですよね。
そうです。
でもそういう不自由さというか、親父がいないから寂しいというのはあまりしなかったですね。
その中でおそらく2月か3月くらい疎開されて、もう終戦の年ですよね。
そうです。
8月に終戦じゃないですか。
その終戦のタイミングでもう帰られたのか、どんな感じだったんですか?
それからね、北海道に2年半いましたからね。
その理由はなぜかというと、
親父がこっちに来た時に、
どういう理由かわかりませんが、北海道で駐屯したことがあるらしいの。
そういうことにしたのかわかりませんけどね。
それで親父が結局戦争が終わって帰ってきたら、なんていうか、ちょっと疲れが出て、
そこで働くところで会って、もういいじゃないか、平和だったわけですよ。
親父もゆったりできて。
でもその時もやっぱりお袋ですね。
お父さん、こんだけの子供が大勢いてね、
田舎にのんびりしている場合じゃないでしょう、みたいなことを言ったと思う。
それで親父もゆったりできたんだって言って、
毎日2合のお酒を飲ませて、幸せだったわけでしょ。
なかなか拉致が上がらないんですよ。
そん時は家族会議。
当たり前ずっと親父いないんですから。
母親しかいないんだから、やれば全部母親に票を入れますよ。
圧倒的な多数で。
それで偉かったのは親父は、親父はわかったって言うんだよね。
その間に全部お袋を調べて生まれたところで、
その後、横須賀で会った後、博楽に持ってきたんだよ、教授場。
もう理科生やって。
それがまだ宣誓のあれも受けずに、
住まいも残っている、教室も残っているということを確認して、
帰りましょうっていうことですよね。
2年半か。
そう、2年半。
じゃあ結構記憶はありますね。
ありますよ。
面白かったのは、雪が降ったわけですよ。
こっちの感じで行くでしょ。
服も知らないから。
それであの頃私は和服ですから。
はいはいはい。
和服ですよ。
それで旅の下駄履いて、雪が降ったから高下駄履いて送ったわけですよ。
帰りは高下駄に雪がついちゃうんでさ。
こんなになっちゃってコロンコロン転がりながら、
ビショビショになって泣き泣き帰ってきたっていうのを覚えてますね。
それはわかんないもん。
これだってしょうがないしよ。
こっちでちょっと雪降ったってチラチラぐらいでしょ。
そうですよ。
あの寒さは忘れられない。
今の2年半で思ったんですけど、ちょうど行かれたときに小学校に入るというか、
つまり戦前の教育、そしてその後すぐ切り替わっているわけですね。
両方経験されているわけですね。
結構僕もいろいろ話聞きましたけど、本当に180度ぐらい違うみたいなことも聞いたことあるんですけど、
どうですか竹本さんの中で。
やっぱりそういうことは感じはしなかったけれども、
とにかく教科書は戦前の教育を最初受けたでしょ。
そうですよね。
よく覚えてないから。
途中から変わって、教科書もガリバンですって止めたような教科書で、
変なところを黒く塗られたりして、変な異様な感じですよね。
ただ記憶として、古いあれから急に新しい教育になったとか、そういう感じはなかった。
そうですか。
なかったな、惜しみに。
自然とってわけじゃないけど、竹本さんの中ではあんまり。
ただ振り返ると確かに黒く潰されてたなみたいな。
いいのかもしれないけど、そんなあれなかったですね。
だから急に変わってさ、民主主義のあれだとか、そんなあれはなかったですね、感じなかった。
それは周りの同級生もそうだし、センサー明らかに絶対変わったことを言ってるはずだけど、
竹本さんはあんまり感じなかった。
あと、玉音放送とかそういうのも聞いたとか、そういうあれはないですね。
おそらく学校には行ってた?
行ってましたよ。行ってましたけどね。
そういう話題があんまり出なかったな。
正直あれですか、竹本さんの中で8月15日、もちろん後から振り返ったら終戦なんだけど、
あの日終わったよな、みたいな感覚はあんまりない。
境があんまりない。
だからそれは振り返って行ったことが一つ大きなアレでしょうね。
とにかく戦争から離れちゃった感じ。
文字通り疎開というか。
そう。だって来ないんだから。全然飛行機も来ないし、校舎を打つ音も聞こえないし。
そこだけに言ったら戦争もない。
もう平和です。
食べ物がないということを除けば。
振り返ってから、親は大変だったかもしれないが、のどから2年半だったかもしれませんね。
じゃあ、年が小さかったからとかもあると思いますけど、当然新聞とかはあったり、
全く情報がなかったわけじゃないと思うんですけど、家族間、兄弟間で、日本の戦局だったり、いろんなことを。
それはどっちかというと、行く前の方がありましたね。
空襲がありましたしね。
歌でね、出て来いミミツマカサとかね、出て来りゃ地獄に月を落とすとかね、そういうのを自然に覚えさせられた戦中ですから。
アメリカの野郎って言うような感じは、出て来たらそんな歌を歌わせられるんだ。自然に覚えた。
自然となりますよね。
そう。だからそういう、とにかく日本は強いんだとか、そういうものはありましたけども、
6歳ですからね。激しい6歳ですからね。
逆に6歳でもそういった記憶があるっていうのは、個人的にはすごく今驚きでもあるんですけど、
でもその中で今の歌は歌で、歌ってるけど、竹本さんの中では何て言うんでしょう、特に疎開前のがあったかわからないですけど、
アメリカへの思いとか。
その辺がぐじゃぐじゃしてるところがあるよね。
三国同盟、ピクタンピクタン、ピクタンタンの中で、イタリア到来。
ああ、そういう歌があったんだ。
そんな歌を歌ったりね。だからだってすごくなんか戦争に染まって、嫌だなとか、
それがあるじゃないですか。子供だから自然にそういったものを覚えていたっていうことで。
じゃあそういう意味ではそれが現実なんだけど、例えばもっと上の世代がね、これから戦争いくかもしれないとかだと思いますけど、
竹本さんとしてはもちろん戦争っていうのはなんとなくあるけど、
食べ物だけ、一番。
直接の、という意味での距離はちょっと離れてた。
確かにね、19年ですから、横浜もバンバンB29が飛んできましたよね。
それはもうしょっちゅう空襲の怖さとかね、それはもう味わってますけれども、
そばに横浜空襲とか、ああいうのは味わってないから。
そういう悲惨なあれが味わってないから、早川さんにもね、
俺なんか話題あんまりないよって。
ないよ、全然全然。
でもそういう意味では、ちょっと言い方あれですけど、そばに空襲とかあって、
近所で誰かが亡くなったとか、そういうのはあんまり記憶にないんですか。
ないんです。
もちろんよかったと思うんですけど。
じゃあその中で、ちょっと重複しちゃうかもしれないですけど、
戦争が直接自分が兵隊に行くとか、将来どうこうとか、お国のためとか、アメリカみたいな、
そういう感覚も全然なかった?
ありましたよ。
やっぱりそれはありましたよ。
戦争に行くって、戦争に行って戦っていったのは、それはありましたよ。
それは当たり前のような。
うちはだって、軍隊を。
うちの親父も軍隊でしょ。
うちの親父なんかよく軍隊に向かうのに、俺は甲殖甲殻って、
身体がしっかりしてると甲殖って言われるらしいんですよ。
俺はお前の甲殖甲殻だったんだって。
そんなような話は聞いてますから、
そのままスッと言ったらば、戦争行ったでしょうね。
そういうものは知っちゃいながら、ほのかにありましたね。
そこに怖いとか、死にたくないとかっていうのは全然なくて、とにかく戦争に。
振り返ってもね、私の性格から言ったら喜んで行くでしょうね。
国のためとか家族のためだったら、死も恐れずやるタイプ。
そのまま行ったら。
でもある意味では終わってよかったよね。
本当そうですね。
そういう意味では明確に8月15日で終わったわけじゃない2年半ってことですけど、
あえて定義付けるなら、竹松さんの記憶とか、人生の中で戦争終わったってのはいつになるんですかね。
そうですね。やっぱり北海道行って、もう空襲はないっていうのが、こんなとこあんだなと思って。
知らないうちにそれで終戦になっちゃったっていうことなんですよ。
そういう意味では終戦っていうものをしみじみ感じたとかね、なんかないんですよね。
それで知らないうちに親父が戻ってきたとかっていうことですね。
それこそ、物心ついた時はお父さんも言ってたぐらいの感じですもんね。ちょっと前はいたんでしょうけど。
うちの親父は存在感があったから。
だから戦争は時々戻ってくるわけですよ。
その時に明るい終わりだったから、みんなも一回明るくしてね、また行ってくるぞって感じ。
時々そうしなければ下の子供ってできないじゃないですか。
そうですね、5人で。
そういうことで、戦争が終わったっていうものを記憶として強く持ったっていうのはあまりないんだよね。
それはやっぱり北海道に行ったおかげでしょう。
そういう意味でお父さんも帰ってきて、その後もたれてありましたけど、
実質ね、戦争っていう意味では直接の体験ではお父さんも恋物をされてるはずだと思うんですけど、
お父さんからその後でも構わないんですし、当時でもいいんですけど、戦争についていろんなことを話しました?
いや、よく聞きましたよ。
どんな話?
日本は堂々と連合後がいて戦ったっていう誇りを持ってましたね。
それからやっぱりドイツを褒めてましたね。
あ、そうですか。
ドイツも立派だと、大国を相手に戦ったって、そういう話はよくして、
だから戦争のいろんな面白おかしく話をするんですよ。
と裏腹に、うちの親父がよく新聞に載ったらしいんですよ。
なぜかというと、戦災工事を連れて歩いたらしい。
かわいそうな子。
それが結構新聞に載っているんですが、何もないというのは、
これはちょっと見てください、戦後。
親父が家に行った時にいきなりMPが土足で上がってきて、親父を連れて行っちゃった。
戦犯として。
いや、この時のはちょっと私も思い出される。
恐ろしい体のデカいのが、土足ですよ畳を。
親父を手錠をはめて連れて行ったんですから。
日本の?
MPだから。
日本の警察の人。これは覚えてます。
袋を手で支度して、日本の警察の人が駅までの間、連れて帰ったらだいたい危ないんですよ。
あばしりですから。
それで、その駅の間だけでも防風の話もあるでしょうから、これも腐るかもしれないし、
そんなことで行ったんですよ。
それでその後帰ってきたのが、うちの袋のすごいところで、
手紙なんか全部もしちゃって、燃えないものは全部埋めちゃって、
すごい、証拠をね。
きれいにしちゃって、だから何もない。
手紙をやるといっぱいあったらしいんだけど、うちのこまめに書いた親父だったら。
一切ないのはちょっとあれだけど。
そりゃそうでしょ。
残したら、何かあったら、自分の夫をやっぱり無事にね、
命になりますよね。
結局ね、名前違いで。
うちの親父はそんなことをね、人の悪をやるようなね、そういう男じゃないと、
私も子供の頃は思ってたし、でやがて帰ってきたんだけどね。
そういう思いもあった。
それは生きた心地しないですね。
これはね、ちょっと一大事件ですよね。
戦中よりむしろそこですね。
そうですね。それでやっぱり親父も喜んで帰ってきてね。
まあ、どっちかというと戦争直後の方がいろいろあったからね。
思い出しますよ。
だから、戦争があってその後の復興というかね、
復活するにどうやったかというようなことはよく覚えてますよ。