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こんにちは、【戦争の記憶】。今日は佐久間静男さんにお話を伺います。佐久間さん、よろしくお願いします。
今日はですね、東京都、ここは荒川区東、尾久なんですけども、ここで佐久間静男さんにお話を伺おうと思うんですけども、佐久間静男さんは、生年月日はいつでしょうか?
昭和10年。3月14日。
ちょうど東京大空襲の日にちとしては、お誕生日が昭和10年ということですね。
そうすると、私は昭和55年なので、ちょうど45年先輩ということは、今年おそらく80歳。
若くて、今日も実はハッピーを着ていただいて、なぜハッピーを着ていらっしゃるのかも、ちょっとその辺も含めて聞きたいんですけども。
ご出身はもうずっと東京?
今の所でもある。今住んでる所でもある。
あ、そうなんですか。先ほどいただいた名刺が荒川区町屋とありますけども、ここでもずっと。
ということは、ハッピーを着てらっしゃることとも何か関係あるんですかね?
親御の。そのまま跡ついてるから。
ハッピーを着てらっしゃるということは、ここにいただいた名刺に土木建築業とありますけども。
まあ、飛び職ですね。
今も現役?
すごい。
そうなんですね。
じゃあもう代々こちらで、多分佐久間さんも知らない方はいらっしゃらないくらいずっとやってらっしゃるということで、
まさにその東京で今までずっと生きてこられたという感じですか。
その辺も含めていろいろ伺いたいんですけども、早速なんですけども、やはり戦争の記憶というこのインタビューでいくと、
第二次世界大戦、太平洋戦争のその記憶ということで、佐久間さんが振り返ったときに、
佐久間さんにとっての戦争、戒戦というか始まったときの最初の記憶というか、
何をもって戦争始まったんだなという記憶はありますか。
そうだね、そのときまだ確かね、大東亜戦争が始まったの、新島安康明のときは小学校まだ2年だった。
そうですよね、きっと7歳、8歳ぐらい。
早山だから6歳だった。
そうするとその6歳ってちょうど物語を継いだぐらいだと思うんですけど、正直どうです?記憶ってあります?
そうね、新島安のときはね、よく新井孝山の漏れとかってそういう暗号があったらしいけど、
そういうのは小さい時から聞いてたからね。
それで結局、大東亜戦争、新島安康明から4ヶ月後に結局、日本初空襲でここら辺、
大宮初空襲ですね。
爆弾が起こってね、あれしたけど、
そうね、あと私はほら疎開してないんで田舎がないから、親も子供も今の町やなんですよ。
だから遠古疎開もしてなかったし、集団疎開してなかったんですよ。
一家の一番最初の集団疎開が、うちの兄貴が疎開したけど、
知らし久留米なんですよ、疎開したところが。
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ところが所田志工場やなんか近いってんで、
終戦の前から、終戦の年からね。
元日に返しちゃったんですよ、疎開先から。向こうが危なくなっちゃった。
だから戦争の末最中はもうどこも行ってない。ただ今のところに住んでたから。
その意味でずっと本当に東京でその戦争を、最初から最後まで経験されてる。
だから私なんかはもうね、普通、記憶があるのは、朝日文化通りね、
荒木田っていう町にシーンはありますけど、
あそこからこっちにかけて、全部赤羽の工兵隊が来て、戦車と思って、
強制疎開の石を壊したのは、今自分でも見てたしね。
六歳ぐらいの時に真珠湾ということで、ずっとそこに住まわれてて、
ご両親は当時どういう、まさにすぐ飛びをされてたんですか、お父さんは。
でね、お袋がね、真珠湾攻撃の4ヶ月前にお袋がなくなってんですよ。
あ、そうなんですか。
だからお袋の記憶あんまりよくわかんないんだけどね。
で、うちの家、今は消防団。昔は警防団だったんです。
そこで空襲になると、所の方へ住みちゃうもんだから、
だから、あたし一人になっちゃうんですよ。
で、姉けんは集団疎開でちょっと行ってたしね。
で、まあ終戦の年にはもうほら、向こうが危ないって言って帰っちゃったから、
あとうちの姉さんが一人いたけど、それは木村造船って、
十六峡集定とか特攻隊の船を開いてる、造船長がうちのそばにあったところか、
そこへやっぱり空襲になると、住みちゃうわけですよ。
そうすると、あたし一人になっちゃってから、いつもお得意さんなんだけど、
そこの家預けられて、そこから学校通ってたの。うちのすぐ村なんですけどね。
そういう意味では、もう小さい時から、
そういう意味ではあんまりお父様とかご兄弟と、いざ一番怖い時は一緒にいられなかった。
そう、あんまりそうね、ほとんどいなかったよね。
その中、やっぱりすごいご近所の方に預けていただいたとはいえ、やっぱり不安とかは大きかったですかね。
あんまりそういうことは。
意外とその辺はもう。
今の時代と違うから、その頃はもう空襲で、もし何かあったらタコツボカなんか掘って、
もし来たら竹やれでやる、そういうふうにも教育されてたから、
そんなに爆弾が起こったり、焼夷弾が起こったり、あ、まだ遠いやとかね。
だから焼夷弾が起こってくる音と、爆弾が起こってくる音は音が全然違うんですよ。
わかるんですか。
すごいですよ、あの爆弾の時は。本当に言葉ではなくて、
なんとかな、普通、これは三八の歩兵銃で撃つのと、爆弾が起こってくるのと、
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大砲で撃ったような、そのくらいの差があるんですよ。
すごい音、あれ何でああいう音するんだかね。
うわーってすごい音しますよ。
あー近いなーって。
あの頃からみんなこういうふうにしてね。
目を伏せて。
みんな伏せて、あれしてたからね。
爆弾と焼夷弾は全く違う。
全然違いますよ。
焼夷弾は、だからおせんの花火みたいに。
きれいだね。
それだけ聞くとね、なんかきれいって感じがする。
でも実際はね、すごく危険なわけですよ。
やっぱりその東京大空襲の話も今日も伺いたいんですけど、
直ちにその東京大空襲って3月10日がやはり大きいですけど。
一番ね、焼けたのが今の澄田高等区ね、
あれが3月9日から10日にかけて焼けてるんでね。
3月9日、10日の以後にも空襲って何十回もあるわけですよね。
実際大規模の空襲も東京大空襲の後にも前にも、
僕がいらっしゃるとしたら5回ぐらいは、
ヤマテの空襲とかもそうですし、
その辺を一番経験されてきた、
佐川さんに聞きたいんですけど、
やっぱりご自身の経験でも一番大きな空襲ってのは3月10日なんですか?
どうですか?
今の荒川銀座通り、
小竹橋から町屋から、
日暮里の方にかけて、
あれがね、その後なんですよね。
4月のね、それはちょっと死に違いがね、
4月の10日過ぎは間違いないんだけど、
その時はもう正直言って道路塞がっちゃって、
道がもう焼けて倒れて塞がっちゃって歩けなかったんですよね。
そうなんですね。
あとこの電化通りも、
これはそこらへんちょっと残ったんだけど、
朝日線の向こうぐらいかな、
ほとんど路面焼けちゃってて、
うちのとこはどころ挟んで、
こっちが残ったけど、
南っかしいのがもう全部焼けちゃってたんですよね。
お家そのものは大丈夫だった?
今、うちが住んでるところはね。
3月10日なのかそれ以外か、
どの日にちが一番ご自身の記憶に残ってます?
日にちっていうのはちょっと難しいかもしれないですけど。
うちの近所燃えたのはもう分かってて、
俺たちはその時疎開は、
支難するところは西谷の土手なんですよ、荒川の。
土手。
土手に支難する。
照明弾って明るくなっちゃったんだよね。
夜でも城場みたいに明るくね。
そうするとね、土手ね、
今の花火のさじけ屋なんか見に来るとき、
もう人がいっぱいですよね、逃げてきて。
直接さっき焼夷弾とか爆弾とかの話ありましたけど、
坂本さんご自身は、
いわゆるB-29じゃないですけど、
飛んできて何度も当然見てたりとか、
爆弾も目の前に落ちてきたりとか、
09:00
その一番ご自身が本当に死の恐怖を感じた時とかは、
どんな時ですかね?
これはもう大体もう年中慣れちゃってるから、
そんな恐怖ってことはあんまり。
麻痺してたんですかね、もう。
でね、ちょっと今から言うとね、
そこの川口のね、
あれ田村先生、屋根がこうなってるとこありますよね、
そこ山外だからね、川口に。
確かあの辺だと思うんですよ、
B-29が起こったと。
それはもう、私は夜だったんで、
みんなあれしたときに、
うちの兄貴なんか表に出たときに、
みんなの布団、みんな被っちゃったんですよ、ほら。
倒れても、ほら。
あんまり今考えたらひどくしちゃうみたいなね。
で、俺出なかった。
そしたら、飛行機は起こったぞって言われて、
で、翌日ね、竹矢で持ってこっちまで来たんですよ。
そしたらもう憲兵がいてて入れないんですよね。
私が飛行機の主翼の上の星のマークのあそこに乗っかったときは、
3日後かな。
普通はもう憲兵が来ちゃって、
もう全然入れなかったからね。
みなさん憲兵ってあんまり分からない。
あの頃は憲兵は警察なんか問題にならないからね。
もう憲兵が来ると子供でも避けて通ったくらいだから。
そうなんですか。
あの憲兵って言うとね、
コンピューター一つでも軍統下げていくからね。
憲兵は追っかなかったです。
もう想像つかないですね、今の僕らにとっては。
お前さんもサーベルサーベルスだしね。
消防署員も金筋が入るまではこのくらいの短剣なんですよ。
金筋が入ると長いサーベルサーベルス。
消防署員でもそうです。
位によって位というか変わるわけですね。
実際、先ほど僕が恐怖はなかったのかと聞いたら、
逆に年中ずっとその苦しがあったから、
恐らく逆に感じなかったって言うんですけど。
開戦当時は先ほどおっしゃったように小学校2年生で、
終戦の年はちょうど今年70年なので遅く10歳。
小学校4年生くらいだったと思うんですけど、
経験された3年4年間って、
その時期にもよると思うんですけど、
例えば将来を思い描けたかとか、
日々のことで精一杯だったのか、
意外と普通だったのか。
どういうことを考えてらっしゃったのか、
例えばご家族ともどういう話をしてたのかとか。
これはほとんど家族とは一緒にほとんどいなかったからね。
仕事の方は一回大田市工場か何かの格納庫か何かのあれで、
建てるんだか壊すんだかで、
1週間だか10日くらいうちの親父が出張したくらいで。
あとはほとんど消防関係でそっちに行っちゃってたから、
どうやって食べてたのかなって。
収入もその時いくらかかったのか、
もうそのくらい子供だから全然わかんないしね。
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確かに6歳から10歳って言ってまだ子供ですからね。
そんな佐久間さんが一つ、戦争の記憶っていうのを一つ、
もしすごくインパクトに残っているものはあげるとしたら、
何か思い出すことってありますか?
土手に逃げたときに、
なんか雨が降ってきてよって、
霧雨みたいなね、あれでね。
みんな嘘だ嘘だって言うけど、
これはもうね、本当にね、星がすごいんですよ。
雲一つないから。
そんなに雨が降ってくるわけないってわけよ。
ガソリンを撒いた。
知ってる人は何人もいますよ。
みんな今言うと、そんなの嘘だよ嘘だよって言うけど、
ガソリンを撒いて、そんで消費弾を落とすから。
だからあれだけ燃えてる。
2回ぐらいはあったんですよ。
おかしいな、雲全然ないのに雨が降ってきてよって。
じゃあその雨、何かが降ってきたって記憶はある?
ある。それはもうね、2度ばかりやるもん、土手でもってね。
ただ何かそれが似合うとかっていう記憶はない?
そこまではこうやってやらなかったからね。
ただ、星色、雲一つないのにそんなに降るわけねえよって。
他の大人の人の話、ガソリンだって。
そんで消費弾。
絨毯爆撃って昔ね、絨毯敷いて、端からバーってね。
それなんか、ニュースでもずいぶん見たけどね。
実際、この町屋の地域は、先ほど少しお話伺いましたけど、
東京都の中ではどうなんでしょう?
中でどのくらいの被害を受けたんですか?
数字的なものじゃなくて感覚でいいんですけど、住まわれてて。
そうだね、うち、この電化通り出ると町駅で人が立っているのも見えたし、
今の上野の国立博物館もそっくり見えたから、
ほとんどうち焼けちゃってたんじゃないかな。
もちろんあの頃は今見て高層ビルないからね。
せでに高くても木造2階建てか、
あと3階が本当にポツンとあるくらいだったからね。
そうすると当然、何が何だか分からなかったっていうところはあると思うんですけど、
例えばご近所の方だったり、お友達とかだったり、やっぱり戦争に亡くなった方もたくさん。
ほとんど疎開しちゃってて、私の友達っていうのは、
戦争中はほとんどいないんですよね。
そもそも。
みんな遠行疎開とか集団疎開でみんな行っちゃってたからね。
そうすると間でもずっといらっしゃって、
その近所のどなたかに預けられてて。
そこの家はね、一番下の子供が私の1級、2級上なんですよ。
でも疎開してたからそこの家はいなかったね。
おばあちゃんと嫁さんがいただけで。
その時の記憶って正直あんまりもうないですか?
15:02
戦争っていう別に記憶じゃなくてもいいんですけど、
6歳から10歳までの間で何か思い出すことってありますか?
町屋が焼けた時は、私は大工萩田小学校っていうところなんだけどね。
あの頃は国民学校だったんだけどね。
そこ行った時には、私は焼夷弾がね、いげたに積んで。
このぐらい積んでありましたね。
1メートルぐらいですか?もっとあるからね。
焼夷弾が。
学校の敷地内だけでね。
それはもう何本あったかそれは知らないけど、かなり高く積んでありました。
ご自身が10歳前後だったらあれかもしれないですけど、
自分は将来、例えば兵隊に行くんじゃないかとか、
将来は何になるんだとか、それこそ生きてられるのかとかって、
その間に何か考えました?
あんまりそういうのも考えたことなかったな。
ただうちの一番上の姉さんの、ギリの兄貴になるけどね、
その人は、あの頃はみんなの徴用というのがあったんだよ。
徴用。
軍事工場必ずみんな、宿のそこで働いてた。
うちの祖母がやった木村造船というところがやっぱり軍事工場になってから、
近くだからそこへ勤めてたんです。
そのお姉さんのギリの。
だからそこの時に今の豊橋の、昔は今は公園になってるけど、
あそこがずっと川があってぶつかると、
空襲でやられて死んだ、みんなあそこに引っかかって、
ちょっとこっちの西の方に寄ったところに、
ちょっと空き地があったの。
そこへ船をみんな立てかけてあったんですよ。
寝返してないの、丘に。
それを機銃で持って関西圏へ来て、穴が開いたのは、
それは見て、そういうのはわかるけどね。
今国民学校という話をやりましたけど、
当時って戦争始まってからもあるわけですよね、その学校の授業。
でもほとんど学校が休みになっちゃって、空襲の最中は。
空襲がない時は行ってたわけですよね。
その時ってどんな授業を受けてたんですかね。
先生もほら、招集令が来て、先生もあんまりいなかったしね。
ほとんど授業という授業はやってなかった。
あとは彼の学校に行くと、昔、銃剣術というのをたくさんやってた。
こういう練習をさせられたり。
勉強よりかもそういう本が多かったです。
あと手旗信号、俺もあれは忘れちゃったけどね。
いまだに覚えているのが、いろいろこのEね。
18:02
あれは旗を持ってこうやって、真ん中からEになるよね。
こうやって下へポッとやると。
そのくらいしか覚えてないよね。
やっぱり銃剣術はやったんですね。
今、国民学校の話を伺ってましたけども、
国民学校以外でどうしても聞きたくなっちゃうのは、
お父様との記憶がほとんどないっていうある意味をおっしゃってましたけど、
そんな中でも何か、
佐久間さんからお父さんに何か聞いたとか話した記憶って、
何か一個でもあげるとしたら何かあります?
うちの親父はね、無口なんですよ。
全然だから親子と会話がないんですよ。
なんかもうあれですかね、僕もこう、
当時の方のイメージあるんですけど、
結構そういうイメージの通りのお父様だったんですかね、なんか厳格な。
もうほとんどうちでは会話ないですね。
戦争終わられてからは、少し会話、当然どんどんできるように。
いや、ほとんど。
あまり戦争と関係なく、そういうお父様だったんですかね。
お母さんがいればね、お母さんは結構、
口八丁手八丁ですね、器用だったらしい。
外交も上手かったらしいんだけど、
40代前半で乳がんで亡くなった。
お母さんのあれもよくわからないし、
私が数えの24ぐらいで親父が亡くなった。
お父さんも早かったんですね。
昭和33年に亡くなってるからね、
ほとんどうちでは会話ないね。
仕事してて、うちの姉が
あのおじさんと現場一緒に行くの嫌だよって言うと、
自分で仕事を覚えて仕事で仇取れって、
そのぐらいしか喋らないんだよね。
あと何回言ってももう。
そんな中で、ある意味それが当たり前だったのかもしれないですけど、
当時6歳から10歳の間で、お母さんもいらっしゃらなくて、
一番そういう意味では不安だったり、甘えたかったりとかって、
普通の子供だったらあったかなと思うんですけど、そういうのって?
ただね、記憶に残ってたのはね、
うちにね、僕が大勢いるんですよ。変わってるんですよ。
私の頃が2度目なんです。
最初は震災の時に産後の日立ちが悪くて、
時系医大に入院してて、
死難する時に食事にならなくなってるってのは聞いてるんですよ。
その地震で?
一番最初ね。
私の頃が2度目なんですよ。
その後、3人目、4人目も来たけど、
俺たちが懐かないっていうので出て行っちゃって、
最後に来たのが、やっぱり年がかなり離れてるけどね、
そのおふくらは空襲の時には一緒にいたんですよ。
でもあまりそういう会話はなかったね。
21:02
やっぱり親が違うと、うちの上の姉さんなんかは気が合わなかったからね。
そういう環境の中で、
お姉さんの話ありましたけど、
お姉さんもしょっちゅう一緒にいたわけじゃないと思いますけど、
お姉さんとは何か話したとか、
支えになった部分とかってあります?ご兄弟に。
ほとんどないね。兄弟ともあんまり話しにならないですね。
そうすると、何がその当時、
当然ね、いくら何もわからなかったとはいえ、
空襲で楽しいわけはないじゃないですか。
そうだね、うちちょうど造船場へ勤めてて、
その間によく昔、ゲートルって聞いたことあります?
分かんないです。
足に巻く。
ゲートル?
ゲートル。
田村先生は知っていると思うんだけど、
それがないと、
腰抱いてくれって言って、
うちの姉さんに何回か頼んだことがあるんだけどね。
ゲートルっていうのは、履くものじゃなくて足に巻く?
巻くんです。
それは何のために?
やっぱりあれだろうね、
ズボンの上から巻くぐらいだから、
何かぶつかったときは、
障害用系じゃないのかな。
それはお姉さんが巻いてくれた?
そう、腰抱いてくれた。このぐらいの幅なんですよ。
ちょうど足首から膝まで巻くのがね。
お姉さん、結構年が離れてたんですか?
いや、そのお姉さんは小学5年生まれだから、
私5つ。
でも当時小さい頃から5歳って結構違いますよね。
一番上のお姉さんとはもっと離れてたかな。
そうなんですね。
だから長女と一番最後に来た、
おふくろが産んだ子供と、
一番上と一番下じゃん。
30歳離れてた。
子供ですね。親子ですね。
だから、お姉さんとは呼ばなかったね。
おばさんおばさんと呼んでたからね。
一番下の弟がね。
当時、支えっていう意識なかったかもしれないですけど、
別に人じゃなくてもいいんですけど、
なんかその中でポジティブな明るい、
楽しかった遊びでもいいし、
誰かと何かすることでもいいし、
あの頃はね、おそらくね、
遊びって言うと、今みたいにね、
いろんなゲームとかいうのは一切ないから、
遊びって言うと、よく警官がごっこってね、
泥棒と捕まえる。
泥系ありましたね。
それで逃げて歩いたり、
あとは石蹴りだとか、
あとはボリュームとか、
父のところが多かったからね。
相撲を取るぐらいじゃないかな。
あと、米馬だよね。
米馬だとか、謎面って名古屋にあったやつ。
24:00
それで、そのくらいしか遊ぶわけがなかったんじゃないかな。
でも、お正月になるとね、
竹で持って、竹箱にかけて乗ったり、
そのくらいしか遊びはないもんね。
食事とかってどんな感じか覚えてます?
食事はね、今で言うとね、
八日から早日ぐらいまで、歩いて帰った日に。
帰りに荷物を背負っちゃうと歩けないから、
日光街道でトラックが来るのを待ってて、
ところがたまにしか通らないからね。
手を挙げてもね、乗せてくれないんですよ。
いわゆる今で言うヒッチハイクってやつですかね。
そうだね。なかなか売ってくれなくてね。
で、大宮の方に行って、
さつまいも買ってきたら、
どういうわけだかね、今の人はどうか知らないけどね、
いくら煮ても焼いても、
深い人もない人もね、
ガリガリで食べられないんですよ。
そういうのを買わされちゃう時なんですよね。
そういうのが記憶に残ってるけどね。
ガリ芋を捨ててね、
あれ、でも、なんでああいう風になっちゃうんだろうね。
でも、当時買いに行ったっていうのは、戦中ですか?
戦後でもね。すぐでもね。
ちょうど聞きたかったんですけど、戦後も、
すぐはいきなり8月15日に終戦になったからって、
すごく食べ物が豊かになるわけじゃないわけですよね。
どのくらいご自身の中で、
この記憶なかなかは難しいでしょうけど、
ある程度戦争終わって、
豊かというか復興しつつあるなって感じたタイミングってどのくらいでしたか?
例えば1年なのか2年なのか。
だから、俺が6年生くらいの時になっていくらか。
それでも、6年生の時にちょっとね、
養子っていうかなんとか出された。
6年の時に、今の足立の鹿浜。
今、椿って名前変わったけど、そこの学校、
私6年の時に行ってたんですよ。
早くはくしびら師っていうか。
それでも尺手屋だからいいなと思ったら、
ムギ飯だったよね。
そのムギもみんなおそらく知らないと思って、
小麦の取った時に赤い皮がかぶさってたんですよ。
それを炊く前に一回茹でて、
炊く時にそれを一緒に。
だから今の押し麦のこういう麦とは全然違うんですよ。
いやもう嫌だね、食べるのがね。
それを生の時に生で食べて噛んでると、
ガムみたいになるんですよ。
それをガムの代わりによく噛んでたけどね。
坂本さんは小学校の途中までは、
いわゆる大日本帝国の軍国主義というか、
その時の教育を受けて、
終わってからも2年ぐらい受けてるわけですよね。
日本が変わってから。
その辺、当時の記憶難しいですけど、
すべてが変わった感じがしました?
27:01
その学校で教える内容とか。
俺が5年から6年の時は、
今の授業に修身というのはないと思うけど、
昔修身というのがあって、
教育職務だとか、
ああいうのをみんな読まされて、
あとは人務推定とかって、
天皇陛下の招待官、あれを読まされたり。
修身の時に、
団の裏の四七年の八草鳥屋がありました。
ああいうのなんかは、
全部筆で消されちゃった。
全部消せって言われて。
戦後すぐだったからね。
先生は別に普通にあったわけですよね。
あとはね、
一番記憶に残っているのが、
戦後も新宿軍が入ってきたでしょ。
私が行っている学校が焼けちゃって、
1掛けから2掛け、
9掛けまであるんですよ。
町を別にしてね。
うちのは5掛けだったんで、
7掛けというのは川口に残ったんです。
そこを借りて、
7掛けと5掛けと両方あったわけですよね。
そうすると、
第一反撃といって、
船の航空を開いていた記事の工場があって、
そこが新宿軍が接種してきて、
そこで持って授業をしているとね、
今でもそこで、
5岩工事で航空機が高くなっている。
あの上から、
艦爪、空き艦だか何か知らないけど、
降るんですよ。
そうするとね、
ターン、ターンと撃っているんですよ。
当たると艦がパーンと飛ぶでしょ。
それで終わってから、
薬莢城に行くんでね。
それはね、一番記憶に残っています。
中にはこうやって、
今のと言うと自動焼酎かな。
それだとか、あと単発でターン、ターンと。
今だったら大変な問題だよね。
だから当然実弾なわけですよね。
それはね、
学校行ってきてしょっちゅう見ていたから。
そんな艦爪に本当に食べ物が入っているとかじゃないんだよね。
だと思うんだよね。
なんかその時の感じって、
新宿軍の人が本当に目の前にいるというのは、
戦後にしか見ていないんですよね。
直接見ていない。
航空機とか見ているようにして。
もうMPとかね、
今のと言うと、
コルトガマメントかな。
でっかいのあれしててね。
向こうのMPっていうのは、
日本の憲兵と同じような役目らしいからね。
でも、
撃った後ね、みんなね、
指揮所に入ってしろって先生に怒られてね。
なんで怒ったんですか?
どういうわけなのかな。
同じような役目なんか珍しいからね。
B29の役はこんなに太いからね。
もううちにはないけど、
前は撮ってあったんだけどね。
佐久間さんって、
周りの子供とか先生も含めた感情って、
30:00
新宿軍の彼らが目の前にいた時って、
戦後とはいえ、どういう感情を持ったんですか?
よく外人が来るとね、
みんなね、ガムだとかいうの貰うんで、
俺はそういうのくっついて行ったことないけどね。
だからガムだとかいうのが珍しくて、
みんな貰うんで、
みんな外人のところに行ってる人いた。
あとは、みんな死んじゃったけど、
新宿軍に勤めてて、
結構そういう物資を貰ってくる人もいた。
逆に新宿軍側にね。
じゃあ、新宿軍に対して怖いとか憎いとかはない?
ただね、うちの方でね、もちろんヤクザもんだけどね、
マコト会っていうね、会をこしらえて旗まで、
新戦組の、
もし何かあったら、
あれだって言って、年中ピストル懐に入れてるのがいたの。
それ本名は、
俺は子供の時に聞いたのは、
ハジキのコリフって名前でね、
ある程度まで来て、おじさんおじさんって知ってたからね。
話もしたけどね。
そういう方も、今じゃなかなかあれですけど、
当時いたんですね。
だから今でも、関西の山口軍、
あれなんかも一時、警察があんまり取り締まれないような、
ほとんど、結構国のために動いたこともあるらしいんだよね。
山口軍がね。
ところが、だんだんだんだん悪くなって、
今になったらもうね、暴力団なんてあるんだけどね。
昔はそういう役割もしてたってのは、
噂では聞いてたけどね。
少し話戻ってしまうんですけど、
当時の空襲、たくさんありすぎて、
どれか一つっていうのはあれだと思うんですけど、
何だろう、その当時の空襲を受けた時、
後とかの、やけの花になってた部分もあると思うんですけど、
匂いとか、街の色とか、なんかそういった記憶あります?
戦争中はもう、1日1回じゃないからね。
ビニジョンから飛んづくのが。
1日2回も3回もだから、
いろんなことを考えてる島がなかったと思う。
でももういろんなとこ、爆撃してるわけですよね。
夜になると、こうやってグログロっと見ると、
必ず夜、どっかで赤く、遠くの方でも赤くなってきたら、
どっかで焼けてたんだよね。
だからしょっちゅう、また空襲だ、まだ警戒警報だからいいや、
警戒警報と空襲って音がサイレンのあれが違うからね。
また始まった、じゃあ土手やるしよって、
もりやかにある程度の仏壇だとか、アイナなんかは乗っけて、
いつでも支難できるようにしてたから。
33:02
友達行ったってそんなにも、ほとんど疎開しちゃっていないでしょ。
そういう辛いとか楽しいとかっていうのはあんまりないね。
僕らからすると当然それは非日常で、非常事態って感じなんですけど、
ある意味それがもう普通というか毎日。
だから疎開してる人に言わせると、
よく地元の人間に疎開行、疎開行ってずいぶんいじめられてたってのは聞いたことあるけどね。
地元の人に?
疎開行、疎開行って言われてね。
あさくまさんが?
いやいや、俺は疎開してないけど、疎開した人に聞いてみるとね。
うちの方はね、一回最初滋賀市クルメへ帰ってきて、
2回目の疎開の時は、福島の原発のあたりで市があったのから川のあたりのところで疎開したんですよ。
三河島の方は飯坂、飯坂へ疎開したことなんです。
同じ組入っている人で、
俺がもっとこういうところに行ったんだけど、赤川屋っていうホテルがあるんだけど、そこ行かないかって。
行ったら、そこで疎開、先だったらしい、そこがね。
終戦続入、玉音放送。
あれはね、俺聞いてたけど、意味がわかんなかった。
意味がわかんなかった?
子供の時でも全然。
みんなが泣いたりなんかしてたから、
なんで日本が負けて、あれしたよ、あれしたよって聞いてた。
旅行放送聞いてても、忍びだったでしょ忍びなんて、
全然俺だって子供の時はわかんなかったよね。
その時は誰といたんですかね?
あの時はうちの姉さん夫婦のうちにいたんだよね。
うちはすぐそばだった。
一番上の姉さんとね。
お姉さん夫婦は当時どんな感じでした?その時。
やっぱりその時はなんか泣いてたからね。
そういうのしか見てないし。
でもその瞬間じゃないしても、戦争が終わったっていうのを
佐久間さんなりにわかった時って、
どんな気持ちだったか覚えてます?
あの時まだ小学校何年だったかな、3年か4年ぐらいだったから、
そこまではいろんな考えたことなかったね。
じゃあなんかすごい安心感。
ただ戦争中だけは、もしなんかあったら、
竹矢ではいつも用意してあったけどね。
自分将来このまま続いたら国のために戦いたいとかそういうのありました?
それはあったね、やっぱりね。
死にたくないとかそんなことよりもやっぱり国のためっていうのはありましたか?
前に自衛隊のほうで嫌いかなんか爆破させるんだよとか言ったことあるでしょ。
36:00
日本から。
その時にみんな家族が泣いて騒いで、
ああやってるんだから、ああ俺たちの時代が違うんだなと。
戦争に行くんじゃなくて嫌い爆破するので、
あんな泣いて騒ぐことねえのになって俺たちは思ってたけどね。
だからやっぱり戦争中の子供の時と今のあれじゃ
やっぱり考え方が全然違うからね。
そうですよね。
終戦でいろんな意味での国、町としての復興もあると思うんですけど、
佐久間さん、佐久間家としての復興っていうところでいくと、
僕3つあると思っていて、
単純に身体というか健康面っていうことも一つだし、
あとは経済面とか食事がいろいろ豊かになるっていうこともあると思います。
あとやっぱり精神、メンタル的なところ。
あとは食べ物だよね。
この間もよく話をするんですけど、
今の子は塾行ったりして学問のほうが結構大変だねって。
だから食べ物はいくらでも多くだから。
俺たちの時は学問はそうで、私のほうが塾も行ってないし、
中学3年で、あの頃は2クラスで90名いて、
同じ学校の高校行くのに18名しかいなかった。
90人のうち18名そのまま高校行ってて、
あとはみんな辞めちゃったから。
だからあの頃は高校行ったり大学行ったりした。
大変だったんですよね。
俺なんかも中学3年出てから今のうちの仕事を始めたからね。
そうすると、先ほど冒頭でもちょっと間違えて言ってしまいましたが、
ハッピーじゃなくて反転。
いやいや、ハッピーとも言うけどね。
それも反転なんですよ。
いらっしゃいますけど、この仕事をして中学卒業してだから。
私が6年卒業した時に、六三生が実施された。
それは私一期なんですよね。
すごい。
私は今のスガム行っちゃったんで、
今のスガム高校ね。
私はその時3年で辞めちゃったけど、
それまでは高等小学校2年というのがあったんです。
今とは全然違うわけですね。
聞いたことあります?
高等小学校っていうのは聞いたことありますけど。
2年生なんですよ。
私立になると5年生なんですよね。
もう複雑すぎてわかんないですね。
ちょうど今インタビューさせてもらっているのは、
ちょうど2015年なので終戦70年ですけど、
この70年ってちょっと疑問ですけど、長かったですか?
あっという間ですか?
ご自身の振り返って。
ある程度の年が来ると1年1年が早いからね。
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振り返って、特に例えば終戦直後の数年は
すごい早かったなとか、逆に長かったなとか。
どう考えてたかな。
本当に子供の時は今みたいにこういう風になることは考えてなかったからね。
こういう風になるっていうのは?
今みたいに物資が豊富になったり、いろんなそういうのはね。
だから1日ある時は1食しか食べない時もあったし、
下手すると2日と思って1食ぐらいしか食べない時もあったわけですよ。
そういう意味で振り返って、さくまさんが70年経って今、
さっきの今の子供たちを見てでもいいですし、
世の中とか日本を見て何か感じること思うことってありますか。
やっぱり今の子は俺は幸せだなと思うよね。
それはどんな点で?
正直言って今学校でも子供やなんかちょっとあれすると
すぐ教育委員会に訴えられたり。
俺ら人間は一切そういうのないから。
俺も今ここにね、ちょっと出っ張っていると書いてある。
頭。
無知のね、元の方と思って、本を忘れたんですよ。
それでもっと戦いが今でも残っているけどね。
それだって家に帰って先生にこういうされたってことは言わないから。
さくまさんもお子さんもいらっしゃって、お孫さんも何人くらい?
うちの両親もう10年前に亡くなった。
孫が今6人ですから。
お孫さんに戦争の話とかってすることはあるんですか?
ないね。
ただ昔はね、これは嫌いだ、あれは嫌いだって言ってられない、
その時代じゃなかったよってことは言うけどね。
もしさくまさんが、お孫さん今年齢ってどのくらいですか?
一番上が23。
もう社会人。
社会人。
その下が高校1年。
その下が中1、中2か。
それに6年生と小学校2年。
男3人で女3人。
もしそのお孫さん、上のお孫さんから下のお孫さんまでどなたかわからないですけど、
おじいちゃんって来て、
今も日本も世界も、またこれから戦争どうなるかわからないみたいな話も出てきてますけど、
これから生きるにあたって、戦争体験したおじいちゃんにどうしたらいいか、
アドバイスみたいなの求められたりしたら。
いや、そういうのない。
もししたら、どんなメッセージを送ってあげますか?
僕はね、やっぱり、
私の方がよく、これからのことじゃなくて、
他のことはよく言うんですよ。
一緒に受けたものは忘れちゃいけないけど、
自分がこうしてやった、あいつを俺が面倒見てやったってのは、忘れてもいい。
受けたもんだけど、忘れちゃいけない。
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これは口癖に言ってるんですよ、今でも。
当時の、よくありますけど、シンプルに感じたことでいいと思いますけど、
日本、天皇、報道機関、アメリカ、その辺のキーワードで、
当時思っていた感情、そして今振り返って思う当時の感情って何かありますか?
いろんな考えがあるじゃないですか。
昔はね、戦争中は三国同盟って、
イタリアとドイツと日本で三国同盟があって、
イタリアが一番最初、あれしちゃったしね。
だから、どうなのかな、今、
そういう、子供の頃はそういうことも一切考えてなかったし、
今になってみると、
これもドイツに二度ばかり大見越しなので一緒に行ってるけど、
資料館なんか行くと、東から西へ移るときに興奮したとか、
だから、日本とっては全然、やっぱり比べもならなく苦労したんだなとは思うけどね。
特別に、さっきもね、親中軍の話もありましたけど、
例えばアメリカが、アメリカに対して今も何かすごいネガティブなものを持っているとか、
当時の国に対してとか、そういう感覚、感情は別にないですか?
だから、マッカーサーが日本のアレにはずいぶんよくしてくれてたら、よく俺は聞いてたけどね。
まあ、戦争はないほうがいいね。
俺たちも経験でたくさんだからね。
ということで、今日はですね、東京都荒川区町屋にお住まいの佐久間智夫さんに戦争の記憶を伺いました。
佐久間さんどうも長時間ありがとうございました。