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こんにちは、早川洋平です。今日は東京の赤坂のご自宅でですね、Hattori Eijiさんにお話を伺います。
Hattoriさんよろしくお願いします。はい、こちらこそ。はい、1934年のお生まれでいらっしゃいます。今、80歳?もう時期は80。
もう年末?まだ、いやいや、来年の2月。あ、そうなんですね。とてもあの80歳には見えない。まだ80歳じゃないということですけど。はい。
長くですね、もうユネスコで勤めていらっしゃいまして、パリ本部勤務主席広報官、文化担当特別事業部長等を歴任されて、帰国後、ユネスコの事務局長を公務、勤められ、その後も養殖をいろいろ歴任されて、今、現在は地球システム理事会の会長を勤めていらっしゃるということで、
それだけで多分いろいろ3時間4時間お話を伺えることあるんですけど、今日はまずこの戦争の記憶という企画ですので、68年前、1945年のことについて、
あの、Hattoriさんに伺いたいと思うんですけども、まさしく戦争の記憶ということで、そうですね。1945年って振り返った時に、まずパッと浮かぶ記憶という。そうですね、僕の家は、あの、
原来僕は名古屋出身なんですけど、名古屋の真ん中で生まれたんですけど、名古屋市が、杉戸さんというその頃女役だったんだけどね、
永断をもってこの50メートル道路、100メートル道路をひいたんですね。で、戦争の時に延焼を阻止するという名目だから、誰も反対できないでしょ。
だから、現在名古屋市は非常に整然とした広い通りが通っているのはその時のせいなんですよね。
で、杉戸さんというのが、あの、拉腕でそれをやった。で、うちが、まあ半分じゃないけど一部取られたんですね。その虚勢主流、土地のために。
で、僕の親父が、もうこういうとこには折れないと言って、名古屋から四日市の郊外に引っ越したんです。疎開したんですよ。
で、その疎開先、郊外の農家だったんですけどね、大きな農家だった。家に借りて疎開してた。
で、終戦の前後はね、裏庭に防空壕が作ってあって、丸い丘になってたんですけど、
その疎開先のところですか。
疎開先の防空壕をちゃんと作ってたの、親父がね。で、そこの上が一番記憶あるな。
その頃にね、結局、東京の九州はみんな知ってるけど、名古屋も九州にあったんですよね。
で、その九州に会うときに、僕が一番よく覚えてるのはね、
僕はあの、終戦のとき、確か小学校5年生。疎開したのが小学校の3年生ぐらいなんですよ。
で、終戦のときが5年生ぐらいで。で、夜ね、B29の編隊が来るんですよね。
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で、名古屋に行くと、名古屋の上にかかるとサーチライトがそれを追ってくるんだけど、
全然、光射砲というのは絶対当たらないなと思うんですね。
その頃、光射砲で撃墜されたものはほとんどないと思うんで、
そのB29が飛んでいくと、そこから焼夷弾を投下する。
で、それがね、花火のように落ちてくるんですよ。
ずーっと閃光が落ちてくると、そこでパーッと開く。
筒になって、蜂の巣みたいになってるでしょ。
それがパーッと途中でバラバラになって、だから、しだれ柳のような花火になって、それが落ちてくる。
それを何個もやるわけね。
そうすると、四日市から名古屋を見てても、その下の方からバーッと明るくなる。
ダーッと名古屋が燃える。
で、それが延々と続いて、遠くから見てると、本当に花火みたいな景色なんですよ、その時は。
それで、ああ、名古屋がやられたっていうことでね、
その三日後ぐらいに我々家族でまた近鉄に乗って、我々の家に行った。
家がどうなってるか見に行った。
本当に跡形もなく焼けて何もなかった、前の家はね。
そういうことで、疎開したの方がやっぱり正しかったのかなということですよね。
だけど、我々が、僕なんかの記憶で、実際に戦場に立ったわけではないので、
生産差があまり伝わってこない、遠くでの爆撃をね。
ただ、もう少し経ったら、本当に今度は四日市がやられた。
それはね、そんな大変態じゃないんですよね。
2機か3機のB29が来たんだけど、今度は四日市、石油の工場があるからね、狙ってやった。
その時は、もう思い出すけども、やはり焼夷弾でしょうね。
その落ちてくる音は聞こえるんだよ。シューッという音が。
それで、パン!
それがもう、うちは四日市の中心じゃなくて郊外、ちょっと高台のとこなんで、
そこに直接落ちたわけじゃないんだけど、500メートルから1キロ先には落ちてるわけですよ。
で、それが落ちてくる音が、投下した瞬間に聞こえるんだね。シューッと。
で、パン!
それをよく覚えています。
もう一つ思い出すのは、うちの裏山に高射砲の陣地があって、
それが一瞬、サーチライトが捕らえたB29に向かって撃った。
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それは、後で聞いた話だと、命中してB29を撃墜したという人もいたんですけど、
それは定かじゃないんですよね。その目の前に落ちることじゃない。
大抵B29というのは空飛ぶ要塞と言われて、被弾するでしょ。
石油が、ちょっと油が漏れるとか、そういうようなことで行って、
その場で落ちるというのはまずないんですよ。
傷ついた身で行くと、ガム島とかのサイパンまで帰れないと。
こういうことで海に落ちるというのがほとんどだから、
その場で撃墜ということは実際なかったけど、
高射砲を撃ったのも覚えて、それはすごい音だったからね。
戦争体験というのは実際にはそのぐらいで、
僕の兄貴になるともうちょっと知っているかな。
僕の2歳上の兄は、これもまた中学1年ぐらいだったね。
自転車で行くと、グラマンの戦闘機に機銃操作をやられたんですよ。
バババババッと。
だからあれは当たらなかったんだけど、結局、
人が動くものは全部撃ったという感じね。
だから四日市ぐらいの小さな町で軍隊を見て撃っているのではなしに、
その頃の主戦時代ではやっぱり女でも子どもでも動いていれば撃つというような感じがありましたね。
先生、戦争体験をご自身としてはこのくらいだとおっしゃったと思うんですけど、
当然今の日常とはもちろん違うわけです。小学校5年生とおっしゃっていましたけど、
お父様はお仕事はどうなったんですか。
僕の親父は神戸交渉というのを出て、今の神戸大学だよね。
それを出てイギリス系の外資の石油の会社に入ったんですよ。
外資系に勤務して、それから独立して自分で貿易を始めたわけね。
ところが戦争になったらもう続かないね。
敵大国だからね。特に取引先はシェルだったと思うんですよね。
戦争が始まったとたんにそれはもう成り立たない。
その会社は名古屋でやってたんですよ。
自分の会社をね。
1位は非常に順調だったんだけど、戦争のおかげでストップ。
その時に四日市へ疎開すると。
そのとたんにもう当分石油は見込みがないからといって
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四日市の陶器の製陶工場があったんですね。
四日市製陶という。その陶器の会社を買ったの。
陶器の会社を買って、戦後は日本中の陶器が不足したじゃないですか。
いろんなところ、戦争の被害でね。
だから何を作っても売れるという状況があった。
陶器でやっていけばいいというようなことで
元の職業に帰らなかったんですね。
ところが同じような同僚で、
その戦争が終わるのをただ黙って待ってた人がいるわけですね。
それはみんな名古屋とか大阪とか東京に帰って、
それで現在大きな石油会社になった。
例えば、井上さんというような人は、
名古屋で一度家に来たことがあるんですよね。
僕はいつも応接室に遊びに行って入ってたら、
今日は入っちゃダメだ、井上さんが来てるからって言われて、
応接前に入れなかったことがあるから。
だから井上さんみたいな人はね、
その間、えっと絶えたんですよ。何もしないで。
それで戦争が終わったら、また石油の貿易会社を始めたと。
うちの親父は多少器用だったから、そういうふうに乗り換えたでしょ。
じっと耐えてないで、陶器のほうの会社に変わっちゃった。
ところが、しばらく行くと、すると立ち行かなくなるんですよ。
何ならそれは素人じゃん。全然違うもんね。
あの領域がね。
だから、戦争中そういう人もちゃんと耐えて待ってるということも必要かもしれませんね。
自分の職業はね。
お兄様は先ほど一人で、親父兄弟とかはどういう感じだった?
兄が一人と妹がいて、僕の次は妹で、それからまた弟がいて、
最後は妹。つまり5人兄弟ですけどね。
直接被害には遭ってない。
遭ってないけど、戦争体験をもたらしたのは、僕の父親の弟が、
僕からおじさんだよね。おじさんがラバウルから帰ってきた。
戦争が終わってから、確か6ヶ月かな。
それで家に居候をしたんですよ。
居候といえば、その前に四日市の空襲の時もそうだけど、こういうことがありますよ。
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夜に空襲があるでしょ。
朝の夜明けからみんなが逃げてくるんです。
本当に焼き出された人が、四日市の市街の人がね、
うちの郊外に向かって、村に向かって逃れてきて、
結局いろんな家が止めたんですよ、それらの人々をね。止めてあげて。
うちも2家族、2つの家族を全然知らない人を迎え入れて、
止まってもらって、最後は土蔵があったんですけど、
そこには開いちゃって、中でも進めるようにして、
というようなことをやってます。みんながやってた。
だから、助け合いというのがあるのね。
その時って、服部さんが止めてあげた時って、会話とかってあったんですか?
僕はまだ子供じゃないですか。だから大人同士はもちろん喋ってますよ。
何喋ってたかとかって、なんか嘘だよ。
ちょっとないね。やっぱり戦争体験で、食糧の問題とかいろんなことが出ると思うんですけど、
一応、子供が出る枠じゃないからさ、そういう姿は見てたね。
今度は、おじがラバウルから機関兵で帰ってきた。
ラバウルっていうのは、後で聞いたら半分以上が死してるんだよね。
だけど、なんとか生き延びて帰ってきたんですよね。
だから、また、これはまあ、親父から見れば弟だから、
もう1年近く家に泊まってましたね。ただ居候でね。
だからその経験は、ラバウルから機関兵というのは、あれだったな、
面白い思い出としては、庭にヘビがいるんですよね。
ヘビが青大将が張ったら、僕なんか気持ち悪いじゃないですか。
そのおじは、食糧食糧って言って、それを本当に取ってね、青大将を。
ほんで潰してサーッと割いてね、自分で輝きみたいに作ってた。
青大将だろうがカエルだろうが、そのままのみんな食糧だと言ってたんですね。
それでもって悲惨な思い出とは言えないんだけど、断片的な思い出としては、
やっぱりラバウル、例えば南方のね、ひどい飢餓状態の戦争をやってたなと。
鳥さんが今、四日市にいたときに、名古屋市街を見て、花火のようだった。
そうそう、夜の空襲だからね。
もちろん断片的で、それこそ小学校5年生だったと思うんですけど、
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そのときは疎開先でちょっとまだ安全と言えば安全だったと思うんですけど、
そのときにちょっと大きな質問ですけど、未来を描けたかというか。
いや、描けませんね。全然描けない。
これやっぱりいつか死ぬのかなとか思ったのか。
いや、そうとも思ってないね。
未来死ぬというようなことは、全然そのときには考えてないと思いますよ。
ただ、将来四日市が爆撃されて、間違って爆弾が防空壕に直撃したらね、
これは危ないと言われてたんだけど、それ以外は一応直撃しないならば大体はいける体制ではあったんですよね。
でも四日市でもちょっと来たんですよね。
四日市は市街がやられたんだけど、工場とね。
僕の家は郊外だから、そこには落ちなかった。
だから難民を収容する方に当たったんですけどね。
いろんな方に伺うと、もちろん特に空襲が多いところかもしれないですけど、
いつ何があるかわからないから、気の身気のままで寝てたっていう方が結構、
僕が今取材した中では多かったんですけど、場所がいろいろなんですけど、
鳩谷さんはそこまでではなかったんですか?
気の身気のままで寝てたということはないね。
ないけども、すぐに防空図巾とか枕元に置いていたんですよね、みんながね。
それから今の、僕なんかのんきだからあんまり見てないけど、
鳩谷はやっぱりいろんな、2、3日分の食料とかいろんなものを持って逃げられるように準備してたと思う。
今お母様の話も出ましたし、お父様の話もありましたけど、
覚えている範囲でいいんですけど、家族での会話とか、
例えばお父様とかお母様、この戦争は負けそうだとかわからないですけど、
どんな話でもいいですけど、家族でどういう会話が…
戦争に関してか?
でもいいですし、そもそも戦争の話ばっかりだとか、普通に日常が全然あったのかとか…
普通に日常はありましたよ。
疎開している間、畑も刈り、田んぼも刈り、
自給自足できるように、田植えまでやったからね。
田植えもやり、山の畑でさつまいもを作ったりして、
いろいろやって、それおばあさんがいまして、それが好きでね、
何かしないけど、おばあさんが農業が好きになっちゃって、どんどんどんどんやってましたね。
この戦争はもうダメじゃないかという話は、
食卓ではできないと思うね、意図的に話していなかったかもしれないんですけど、
僕の親父は国際通であったはずだから、母親もそうですけどね、
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これは危ないかもしれないということは気がついていたとは思うんですよね。
だけど、僕らの前で、子どもたちの前でこの戦争は負けるかもしれないとは言ってないです。
明日、重要な漁港放送があるから、それはみんなで聞くようにというような話はあったね。
漁港放送の話で出てきましたけど、8月15日は聞かれましたか?
聞きましたね。
どこで?
疎開先の家で、ラジオで。
その時、結構いろんな方が聞くと、よく聞こえなかったという人もいたんですか?
よく聞こえないといえばラジオだし、
それに聞き慣れない日本語じゃないですか。
だけど、やっぱり耐えがたきを耐えという、忍びがたきを忍びという、その言葉でみんな分かった。
だから、ああ負けたというようなことを母親が言っていました。
やっぱり負けたんだというようなことをね。
だから、それを聞いたんだね、本当に。僕らみんな家族が集まって聞いた。
その時って、人それぞれだと思うんですけど、ホッとしたとか、力が抜けたとか、戦争が終わったのに受け入れられなかった人とか、いろんな立場とか性別とか年代によって違うと思うんですけど、
その当時小学校5年生の服部少年はどうだったんでしょうか?
みんなそうだと思うけど、そのぐらい軍国少年に育てられてるからね、悔しかったよね。
やっぱり軍国少年だったんですか?
みんなそういう日に育てられてるからね。
みんな僕らが冗談は別にして、よかれんに行くんだとかね、そんなこと言ってたからね、みんなが同級生が。
だから、小学生でそんなこと言っててもしょうがないけど、みんな将来はよかれんに行くと言って、それが一番花話、死に方だというようなことを言ってたから。
そういう教育を受けてきたんでしょう?だから絶対に勝つんだと言い聞かされてきたわけですよ、学校でもどこでも。
だからそれがやっぱりここで負けたんだというのは、なんか裏切られたような悔しさがあったね。
なんかアメリカが憎いとかそういうのは別になった?
それはないですね。それは非常にあれなんだけど、憎さが出てくるのはね、目の前にいないんだね、相手が。
だから目の前に見えない敵に対して憎いとかいう感情はあまり湧かない。
あとはね、やっぱりよく言われますけど、当時の報道がやっぱりその戦争が当然負けてるなんてことは言ってないわけで、
その辺で感覚で構わないんですけど、服部少年もそうですよね。
前のね、おうちでちょっと話題になったのが、ミッドウェイの開戦の時の発表の仕方が、
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本当はもっとすごい被害が出てるんじゃないかというのは会話に挙がったことがあるね。
やっぱり戦火ばかりを言ってるでしょ、ハワイの例えば、新地盤とかの大きい開戦とか。
しかしミッドウェイの時の大本園発表に、
日本抵抗海軍にもかなりの被害が出たというふうに読み取れる節があるんですよ、やっぱりね。
それをまあまあうちの母親だとかおばさんだとか、敏感に書き取ってくれ、
相当被害が出たんじゃないかなということを言ってましたけどね。
今も戦争の時はつらい話もちょっと大変な話を聞いたんですけど、
普通に楽しかったこととか、なんか些細になったことでもいいんですけど。
楽しかったことというのはね、
おばあさんと初めての、まだ若いさつま芋を掘りに行ったり、
その頃ね、カイクも買ってたんですよ。
カイクの桑の葉を取りに行ってあげたりね、つまりもう本当に田舎の生活ね。
田舎の生活をやってたんですよ、家のそういうものも借りて、
農家の大きな農家だったもんだから、その貸してくれた家も大きくて、
真ん中のおまやと、それからこっちのほう、3カ所に2羽あるぐらいの家だったんだけど、
だから全部できたんですよ、カイクもね。
僕らはもう全然名古屋生まれではできないような田植えまでやって、稲刈りもやって、
麦も植えて、今の人が体験できないことをみんなやってきた。
クワの実っていうのが食べられるということがわかったし、
葉っぱを摘んできてカイクにやる、僕らは手伝ってるんだけど、
カイクがクワを目の前で見られるね、今の人はなかなか体験できないと思うよ。
皇后様はね、皇居でクワをやってるじゃないですか。
だけど普通の日本人は見てないでしょ、カイクがクワを食べてるところなんか。
僕らは目の前で見てる。
楽しいっていうのは思い出があるんです。
その頃ね、終戦の直前と直後も食糧の問題ばかりだね。
これはね、きついんですよ。
さつまいもの葉があるでしょ、こんな茎なんか食べないでしょ。
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葉も食べないよね。それを食ってつくだみみたいにしたりということになるんですよね。
そもそも今は葉っぱとか茎見てないですね、売ってるものを。
売ってないよ、みんな見てない。
さつまいもの葉の茎のとこだけでも取って煮物にしたり、つくだみみたいになってるんだし。
稲子があるでしょ、稲子を取りに行くんだよね、田んぼの中に秋になると。
で、稲子を僕が取ってきたのをあそこで行って、それからやっぱりこれもつくだみみたいに。
稲子のつくだみなんて食べたことないでしょ、みんなね。
あります、一回だけ。
で、それをあまり抵抗もなく食べられたね。
すごい抵抗ありました、僕は。
で、抵抗、まあ多少抵抗が僕はあったかもしれないけど、とにかくお腹が減ってると何でも入る。
で、稲子の形があるでしょ、あれが気持ち悪いじゃない。
だからそういうものも食べてた時代ですね。
で、お米がなかなかなくてさ、小麦粉だったかな、なんか、すいとんとかもつくってね。
ほとんどすいとんで過ごしてたような時代だな。
感覚でかまわないですけど、いわゆる食糧のそういう今の一番やっぱり戦争終わりとか大変な時期が
なんか終わって、なんかちょっと結構普通に食べられ始めたなっていう、どのくらい?
3年くらいかかってるんじゃないかな。
それはなんか。
なかなかね、そういうのが急にはね、再建できないんですよ、経済も。
だから食糧がね、結局田舎の、本当に農家とかなんかにはあったんだけど、流通の方が回復するのが大変なんだね。
だって列車の線路の復旧とか道路の復旧とかいろいろあるでしょ。
それが相当かかってると思うよ。
だから3年後くらいでもまだひもじかったような気がするな。
だから中学生いっぱいの。
ただね、僕らのとこは都会の真ん中よりは良かったわけ。
だからもうすでに郊外だから。で、農地借りてるんだからね。
だけど本当にそういうところに疎開せずに、都市部に住んでた人はもっとひもじい思いをしてるはずなんですよ。
で、みんな着物とかいろんなものを持って農家に売りに行くわけ。
売りに行くんですよ。
で、売るって言うけど物々交換で、それでお米何等かと。交換なんですよね。
でもそれがものすごくたくさん来るから、物々交換の価値がね、もう全然歪みがあって、
いろんなものを持っていく、骨董品を持っていく、なんでもみんな農家に集まった。
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そういう時代だよ。
それでお米を背負えるだけ、持って帰るぐらいが関の山というような時代がたくさんあったな。
今、食料という意味では、ちゃんとラインができれば3年ぐらいっておっしゃってると思うんですけど。
いや、3年ぐらいはかかったような気がするっていうのは、
日本が再建できたら、アメリカ軍が新中軍として来てね、
終戦の翌年、天皇陛下が、昭和天皇がマカーサに会って、最初に言われたのは、
私の身はどうなってもいいと、日本の国民を飢えさせないでくれということを言われたのね。
マーシャルプランというのが発動して、アメリカの食料が配給されて、それで救われるわけだ、日本国民は。
でも、そういうことが実行されるのに、結局は生き渡って何とか毎日いけるなと言うのに、3年ぐらいかかってるということなんだよね。
実際、食料という部分とはちょっと別かもしれないですけども、
まさに戦後の復興から生きてきた服部さんとして、その時って感覚でいいんですけど、
戦争が終わってたとえば3ヶ月ぐらいは身の回り全体が、戦争をまだ受け入れるのに時間がかかったみたいなところから、
例えば半年になったらみんなすごいエネルギーが出てきて、再建しようみたいな、その空気感ってどういう感じだったのかな?
東北じゃなしにね、もっと厳しかったと思うよというのは、日本の価値観が全部ぶち壊されたわけだよ。
だからそれで再建する新しい価値観は定着してないんですよ、まだ。急に民主主義とか。
再建って言い方も不正しいかどうかわからないですよね。
そんなあれじゃないかな、呆然としてたうちに2,3年経っちゃってるんじゃないかな。
模索状態?民主主義と急に言われても、どういうふうに理解していいかわかんないんだから。
戦争が終わるまでは未来を文字通り描けなかったってことだと思うんですけど、
そこから、それだけでまた話すとものすごい一言言えないと思いますけど、
実際に京都大学の大学に行かれて、ユネスコ、フランスがあってユネスコっていうご経歴もあると思うんですけど、
その辺ってどういう経緯でそういうふうになったのかな?
自然に僕は国際的なところで働きたいという気持ちは、小さな頃からあったような気がするんですね。
家庭の雰囲気?
親父がイギリス系の外資会社に入ったっていうのが第一で、
そこからうちの母親がものすごく活発で、どんどん飛び歩く婦人会の会長を何回もやった。
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最後も三重県の婦人会連合会の会長だからね。
四日市の会長でもあり、いろんな外交的な人だったもんだからね。
雰囲気はあったね。何か僕も国際的なところで働くんだという漠然とした思いが最初からあってさ。
自然とそういうふうにいったかな。
文字通りユネスコは戦後の平和というか、そこを切っても切れない。
そうそう。あれは永続する平和を作り出すための機関として、教育・科学・文化の国際協力を深めていこうという機関だからね。
その中で日本人として、ユネスコの中心でずっとやっていらっしゃって、
いやでも戦争とか平和とか、日本人であることとか、いろいろ考えさせられたことって多分あると思うんですけど、
しかも戦争を体験されている方で、その中で何かこの戦争とか平和というキーワードで、
ちょっと大きな質問なんですけど、何か皆さんで今日シェアさせていただけることっていうのはないですかね。
戦争が終わってないんだよね。絶えず第二次大戦で終わったのはごくごく少数の国で、それからずっと継続してるんですよ、今に至るまで。
だから戦争が終わった時代がないんだよね、戦後今まで。一日としてない。
だからその戦いの中にある人々がいるわけでしょ。
それがやっぱり現在のマンデラの、あれは非常に大きいと思うんだけど、やっぱり融和ということ、つまり今年の流行語になった売買しじゃないですかね。
売買しっていうのは流行語の対象を取ったけど、本当は良くないと僕は思ってるんですよ。君も思ってるか。
っていうのは何ならね、恩の売買しならいいんですよ。あれは復讐なんだよ。
めにやめようでしかんぱいで。
だからそれを売買にして、やられたやり返すのを売買にして返すと言ってるんで、そんなの流行語にすること自身が戦争の文化だ。
それをマンデラさんが、国人がアパルトヘイトで敷いてあげられてきたのを、やっと国際世論がそこへ持っていくんですね。
やっぱりこれは国連の働きだと思うよ。国連の働きがそこにあった。
そこで国際世論がアパルトヘイトを全部反対という雰囲気を作り上げていって、
それでデクラーク大統領の方は、そうせざるを得ないということになってマンデラを解放するんですね。
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その時に、先ほどの売買しの論で言ったら、今まで今度は白人に復讐するとなるじゃない。
ところがそうしないでマンデラは、その共存を最初から書かないとね。
いわゆる優和を説くでしょ。それがあの人がノーベル平和賞に値する、あれですよね。
だからそういうものに学べきじゃないかね、マンデラの精神にね。
だから中国、韓国と今厳しく対立しているような雰囲気が生まれてきているけども、
実際には日本人でさ、こう言いたいわけでしょ、韓国の方にもいいことをやってやったんじゃないかと。
そのおかげで鉄道も病院も学校も整備されたということを言いたい日本人がいる。
しかし韓国の方からは見ると日本は侵略者であると、それを仕返しするという雰囲気を持つ。
これはやっぱり戦争の論理で、いいことはお互いにとって何もないと思うんですよね。
中国の方も実際にはね、僕、君たちがまだ聞いたかどうかは知らないけど、
最後、紹介石と戦ってたわけでしょ、日本軍は。
紹介石軍は本当の戦った相手なんです。
それが日本が降伏したとき、紹介石が言った言葉をまだ引いてないんでね、誰もね。
それ僕は今も覚えてて、僕は中学だった、高校生だった時に、僕がちゃんと僕の、
僕が生徒会長に呼ばれた時のあれに出したんだけど、こう言ったんですよ。
恨みに報るに徳を持つ。って言ったんですね、紹介石が。
戦争の賠償を普通は取り立ってたじゃないですか、勝った方の国が。
それが間違いだということは、ベルサイ条約のことでわかるわけだよ、歴史家はね。
ベルサイ条約というのは第一次大戦の時、ドイツが降伏した後で結ばれた講和条約でしょ。
その時にドイツにものすごい賠償金を貸すじゃない。返しきれない。
ドイツはその賠償金のために途端の苦しみを舐めて、そこから何が生まれてきたかというとヒットルアンドネ。
結局それが第二次大戦に行くじゃない。
そういうことに、だからベルサイ条約の失敗を繰り返さないということだ。
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で、超解析はかなり頭のいい人だね。
だから恨みに報いるに徳を持つという言葉で終戦の時に語るわけですよ。
だから僕はその時に、日本が本当に負けたらそれだって言ったんだ。
だからその精神において負けてるということなんですよね。
今、私も含めてですけど、
服部さんから見て、日本とか日本人の民意品格って言うとちょっと大きいですけど、
そういうのって68年見てきてどう?
日本人のいいところはね、本当はね、これはことっていう心があるんですよ。
それが全てに通じるもんだろうと思ってるね。
だから本当は日本人が世界中で何らかの影響力を持っていくとするならば、
誠の心ということであらゆる人に指摘していくということじゃないですかね。
例えばの話をしてもらいますけど、仮にもう少し具体的にも、
鳩さん何か今もしできるとしたら、それなりに今もすごい養殖に疲れてますけど、
例えばユネスコのところか他かわかんないですけど、
具体的に日本人としてもし何か本当に真ことを体現できるようなことがもしできるとしたら。
世界の民間ユネスコの世界遺霊名というのがあってね、
そこで私は数年前から地球倫理という考え方を説いてきたんだけど、
本も先生の範囲にありますね。
地球倫理という考え方なんですよね。
それは一つは母性原理を見直すということなんですね、母性原理。
今までの力の文明から命の文明、母性原理というのはね、
鶴見和子さんという本当に優れた司会学者がいたんだけど、亡くなったんだけどね、
何を一言で言うとね、命の継承を思考の最も重要な価値とすることというのが母性原理なんです。
命をつないでいくということを最も重要なことと考えることが母性原理。
それに対して不正原理というのは力で、先ほどの倍返しに通じるやり方なんで、
これは本当に命の継承ということを考えていないやり方。
不正原理というのが父なる神を持った国から始まって世界を覆っちゃった近代というのを考え直そうということを言ってるんですよね。
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だからそれをみんなの人、英語とフランス語でいろんなところで場所によっては英語で解いてくるとみんな反応してくれるね。
みんなが反応してくれて、だから地球倫理の火を設定しようというところまでも決議ができてるんです。
この3月に今度ニューヨークに行ってもそれを話す。
おそらくそこで大きな声明が出ると思うんですけど。
日本人はね、柴龍太郎なんかも言ってるけど、やっぱりあのタオヤメブリって言うんですよ。
マスラオブリとタオヤメブリがあってね。
時代自体によってどっちかが優位になってくるんだよ。
だけど見てるとタオヤメブリの文学とか芸術が栄えてるのは平和な時でね。
いわゆる戦国時代みたいなあれになるとマスラオブリになるんですけど。
それをやめてタオヤメブリっていうところに本当の日本の姿があるということを彼は言ってる。
柴龍太郎とドナルド・キーンの対談会なんかでね。
それは非常にいいことだなと思う。
僕が言ってることとちょうど相応してるんじゃないかと思うんですけどね。
だからそういった母性原理による新しい倫理というものが世界に行き渡るように我々が魅力を尽くすということですね。
だからそれがね日本だけのものと考えるといけないんですよ。
日本はそういうものを生きてきたし万葉の時代から平安文学で全部女性でしょ。
そういう女性のタオヤメブリというのはあるんだけど、これは日本独自のものと考えるといけないんで、
僕はずっと世界に行き渡ってるというところを見直す。
それでもっと通定するものがつかめるんじゃないかと。
僕がインドネシアなんかに行ったら普通日本人と同じものを感じますからね。
だからそれがだいたい日本からインドネシアにかけての西太平洋の北条の三日月地帯というところには全部同じ心情が流れてる。
で、そういった母性原理的なものがじゃあそこの東アジア、僕の言う西太平洋ね、
だけかというとそうじゃなしに世界に全部本当は行き渡っていたんですよ、昔。
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だからケルト文明もそうだしね、英解文明もそうだしね、
もうそういったものが本来の姿であったのにそれがだんだん薄れていって、
母性原理が支配するのが17世紀の環境革命から起こると。
18世紀のいわゆる産業革命というものが成功して、
西洋がパッと力を得たときに世界的にその力の文明が分配されるんですよ、世界をね、世界を取り巻く。
で、現在もその中に生きているけれどもその結果どうなったかというと地球の破壊だ。
母なる地球の破壊が起こっていると。
だから昔のね、日本人が持ってたつましい豊かさというのを再発見すべきだろう。
つましさというのをね、注意してるんですよ、みんなクローデルのような人もアインシュタインのもね、
みんな日本人にそういうものを見てすごく素晴らしいって言ってるんです。
つましい豊かさ。
地球理論の話を伺いましたけども、これはハットリさんの個人的な感覚と見解でもちろん構わないんですけども、
いわゆる日本で安倍政権になって、秘密保護法案だったり、原発だったり、すごい危険だっていう人もいれば、
まあそうじゃないって人もいたりとか、どう見られてるんですか。
僕は原発の時に、日本で一番早く脱原発を学会時代の立場として表明したのは、この地球システム倫理学校で。
これ3.11が起こって、1か月後にもう世界に日本語も出してるけど英語、フランス語で発信してるんですよね。
それがバーッといろんなとこに広まって、いろんなエコーが来るから、今第一の声明は、
脱原発、そこの中に書いてあるのは、結局原発に関しては脱原発を絶対にやらなきゃいけないということなんだけど、
その前に力の文明から命の文明、不正原理から母性原理へと書いてあるんですよね。
その転換をしなきゃいけないということを言って、出したのでは世界で一番早い学会なんだけど、
その声明はもう10ヶ国語になってるからね。
国連の公用語は6つなんです。6ヶ国語。でもうちの声明は10ヶ国語になってる。
ということになってるんだけど、なぜ原発はしなきゃいけないかというと、
結局先ほどの命の結晶ということで、結局未来世代ということですよね。
何百年何千年先の命を考える。
そうなると今の原発のあれは、福島の場合は水槽爆発が起こって収納地震は損傷してない。
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ここが違う、中のビルと違うんだけども、それでも放射能廃棄物というのは処理しようがないわけね。
現在世界的に本当に放射能廃棄物の最終処理の方法を見つけた国はどこにもない。
これはね、結局現在多少電力が安くなるからと言って原発を作ってるということはね、
自分たちの利益を考えてるんであって未来世代のことを考えてないんだよ。
何なら放射能によっては20万年かかるものがある。消滅するのに。
それで今フィンランドとかフランスでやってる方法は地下400mか500mに横金を振って
厳重な金属容器に閉じ込めた廃棄物を100年間保管すると言うんです。
100年間保管するというのは最終処理じゃないんだよ、これ全部。
やってるのは中間貯蔵庫なんですよね。
100年間なぜそれがまた取り出せるようになってるんです。なぜかわかる?
つまり今は方法がないけど100年のうちに
子孫たちが何か本当に良い方法を見つけてくれるだろうという
こういう想定のもとに、とりあえず100年と言ってるんです。
だけど10万年本当は必要なんですよね。
10万年必要というのは必要な時間の千分の一なんだ。
100年中どうしても。そうでしょ?
だからそういう無責任なことをやってるのが原発の推進派でね、
自分のことしか考えてない、未来世代のことは考えてない。
こういうことが現実だから。
だから日本なんかは特に地下収納式の中間処理もできないわけだよ。
だって火山列島だから。
どこでも温泉が噴き出す国だし、マグマが噴き出す国だし、
そんなことはできるわけないでしょ。
だから日本なんかは率先して、今、原発廃棄すべきなんです。
つまり原発はやめるということをはっきり言うのが正しい。
小泉さんがやっと言い出したんだよね。
小泉さんの反響はあるわね、あの人はね。
だからちょうど2年半前に我々が言ったことを今言い出したわけ、小泉さんがね。
だけど世界に先じてその表明をすれば、その影響力があるね。
48:04
というのは、脱原発を本当に今やってるのは日本だけなんですよ。
原発所有国で。
じゃあドイツがそういう表明してるじゃないか、イタリアがやってるじゃないかと言うけど、
ドイツはまだ稼働してるんだ。
2020年にやめると言ってるんだ。
でも稼働してるでしょ。
日本は今一気に稼働してない。
だから脱原発してるんだよ。
事実としてはそこがあるわけですよ。
だから今一つも動いてないんですよ。
それでもっとみんなこうやって電気もつけてやってるじゃない。
だから日本がその脱原発を本当に表明するというのは、この時期にやるべきなんですね。
だけど結局原子力村というものが、国の中の国を作って強力な勢力になってたから、
それと与党制と長く続いた自民党政権の融着があるわけね。
こういう体制というもの、エッサ振り締めっていうのができてて、それが壊せないと。
安倍政権も壊せないという状況ができてるということでしょう。
ロラントっていうのは風力発電だけで自給率120%の島に行ってきて、
そこも40年間は日本と同じように全然自給率が、電力とかなかったから、
原発で固まってたんだけど、民意で取っている。
玄関国なんかは僕は参考になるし、ドイツも参考になるし、
結局北欧の国が今一番参考になるんですよ。
日本の場合は風力だけじゃなしに、
潮力も使えるし、小規模の水力発電っていうのは可能だし、
つまりダムを作らないで、流れている水を使ってっていうのがあるんです。
日本は非常に径流が多いじゃん。
水車を回して、それだけでも発電できるし、それから自熱発電っていうのがあってね。
これは慶應の竹内さんという専門家と去年、
ネイチャー、ネイチャーカフェっていうのをやったんですけど、
ネイチャーと共同でシンポジウムを開いたんだけど、
そのときに技術屋さんである竹内さんというのも参加して、
今でも原発依存ということをやめて、
電力が自由に売買できるようになれば立ちどころにできると言ってました。
再生可能なエネルギーは、日本では数年でできあがる。
今それがなぜできないかというと、そういう人がいっぱいいるのに、
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作っても買ってくれないんですよ。買えないシステムになってるんです。
作っても買えないでしょ。送電線は全部、東電とか中電が持ってるから、
買わないと言ったら作ってもしょうがない。だから止まってるんですよ。
だから立ちどころに発送電の2つのシステムを切り離したら、
送電会社を自由に市場に延ばしてやったら、
立ちどころに2、3年で日本の電力は全部、再生可能エネルギーで叶えるようになるということです。
先ほどハトリさんが地球システム倫理学会として、
震災の直後に一番最初に表明されたっておっしゃってたじゃないですか。
その逆にと震災前、僕も恥ずかしながら、
やっぱりこの震災で日本にこれだけ原発があったんだっていうことは知ったんですけども、
そのあたりっていうのは、ハトリさんのような世界で活躍してきて、
いろいろ見識もある方とかで、震災前っていうのはどういう考えを…
震災前も、たとえばうちの常任理事をやっている村田水平さんというのは、
前にスイスの大使をやってた人なんですけど、
やってましたよ、原発反対運動を。
それがなかなか広がらなくて、同庁さんが少なかったんですね。
うちの会員ではあったけどね、理事になってもらって。
だけどその人がいかに問いても、反応が少なかったんです。
ところが福島が起こったから、一気に反応が広がって。
本当は目に見えなくてもみんな気づけばあれですけど、現実的にはそういう…
そうですね。
やっぱりああいうことが起こると、急にみんなが反応するということですね。
だから地球規模の環境破壊もね、
みんなじわじわってやってると、みんな死んじゃうんですよ。
死ぬぐらいになってからやっと反応するという。
これはカエルの話がある、知ってる?
ゆでカエルの話。
知ってるならあれなんだけど、
お鍋の中に水を入れて、カエルを入れて、
最初にお湯を沸かした中にカエルを投げ込むと、カエルはバーンと飛び出るわけ。
だけどお鍋に水の状態でそこにカエルを入れると、その中に泳いでるでしょ、カエルが。
それにガスをつけてチロチロと、だんだんそれを熱していくとどうなるかというと、
カエルは飛び出ないんです。
飛び出ないで湯立ってしまう、中で。
ゆでカエルになるという実験があるんだけど、
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それと同じことを人類がやろうとしてるんじゃないの。
つまり環境がだんだん悪くなっていっているのに、
ゆでカエルの状態、だんだんだんだんだからちっとも飛び出さないでいく。
そのうちに湯立ってしまうという状況が将来するでしょうね。
だからこういうことに関してね、
何か大きなことが起こるともっとみんなが反応するんだから、
一つの警報みたいなのは起こっているんだね。
アメリカのハリケーンが、アメリカにはトルネードの方だね、
竜巻の方は毎年巨大化してるでしょ。
サイクロンもね、ハリケーン、それからインド洋のサイクロン、
東南アジアの豪雨、日本へ来る台風なんかも巨大化すると、
こういうことが起こって自然が警鐘を鳴らしている。
鳴らしているのに人間の反応が鈍いということでしょうね。
だからこれをね、今度はこの月曜日にあそこで市街で話すときに、
僕は一つの絵を見せようと思っているんだけど、
今年も話題になったテレビの出る絵なんでね、
3つの絵が話題になっていると、
いつも最中に世界の名画というので取り上げるならば、
誰しも取り上げるのはモナリザで、
その次にフェルメールのシンジの首から出る少女というのになるんですよね。
3番目が何だというと、これはムンクの叫び。
僕はそれを取り上げたテレビの中を見ていたのが広告だったかな、
広告じゃなくてCMじゃないかもしれないけど見ていたら、
あそこで女の子がみんな3つの絵をフンしているじゃないですか。
その中ではフェルメールのシンジの首から出る少女が一番よくできている。
だけど一番最後にムンクの絵をこうやってやるのは女の子がいいでしょ。
あれ全然ダメだと。なぜダメだかわかる?
ムンクの絵は叫んでこういうふうにやっているのではないんですよ。
耳を塞いでいる。こういう手の形で耳を塞いでいるんです。
あれは叫んでいるのは、あの人物やなしに大地の叫びなんだよ。
自然のスクリーム、悲鳴と言う。
それを聞いて怖くなって耳を塞いでいる姿を描いている。
ムンクはね。それはなぜ言えるかというと自分で描いている。
大地の叫びを聞いたと。ムンクの手記に載っているの。
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だからその耳を塞いでいる。だから地球が悲鳴を描いている。
その叫びをスクリームでしょ。だから悲鳴だよね。
悲鳴を聞いてそれが怖くて耳を塞いでいる姿を描いた。
絵があれなんだよね。
そういうことを絵もパワーポイントで出して見せてやろうと思ったんだけど。
叫びというか大地の叫びなんですね。
あれは大地の悲鳴なんだ。
本当はそういうタイトルのほうが。
スクリームなんだ。だってスクリームって書いてあるじゃん。
それを日本人の誰かが叫びと訳しちゃったから暗いみたいになっておかしい。
スクリーム悲鳴と書いてあるじゃん。現代には。
映画名の放題がちょっとおかしな放題になるのと同じですね。
天皇陛下に戦争責任があったかないかというのもまたいろんな意見があると思うんですけど
ハトシさんはどう思いますか?
僕はなかったと思いますね。
というのはそういうような判断を下して政府を動かす力がなかった。
日本の天皇というのは明治を除いて全部象徴だったんです。
歴代、もう2000年間。だからそれが本質的に変わらない。
つまり日本の天皇とヨーロッパの帝王との違いは
向こうは本当の権力者で軍隊も持ち、自ら甲冑を纏い戦うのが帝王なんです。
ところが日本の天皇はね、完全にあれなんですよ。
天皇の職務というのは祈りなんです。祈ることなんですよ。国民のために。
全然武器を取らないから、権力も持たないんですね。
天皇というのはいつも祭り上げられてて、そのみすの奥にいるから
それをみんなが崇めてたけども
天皇の職務というのは国民のために祈ることということだけなんです。
だからその権力を持つという体制が2000年間なかったんだから
これが急にあるということはあり得ない。
明治の時にそういう天皇像を作ったんですね。
明治というのは文明改革と言ってるけどさ
急にヨーロッパの真似をしなきゃ日本は劣況になれないということで
全部真似た時代でしょ。
だから明治天皇の肖像なんかを作って描いてるけども
あれはイタリア人の画家が描いたんだよね。
画家が描いたのを精密画で描いてそれを写真に撮って
今度は写真にした。
みんなあれは写真じゃないから、本当の実際の写真じゃなしに絵を撮って
絵を写してるんです。
でもその格好はナポレオン三世なんかを思わせる描き方になってるわけでしょ。
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結局西洋風にしたんですよ。
全てが六明館の時代にやってる。
だからその六明館というヨーロッパを真似た時代にこういうのができてきるんで
天皇も実権はなくてもあたかも向こうの皇帝のように実権があるように
劣況に対して振る舞う必要があったんです。
だからその明治時代というのは特別で
それがいわゆる昭和のあそこまで続くんだけど
歴史をずっと見ると天皇が実権を持ったっていうことがないね、日本には。
だから当然ながら昭和天皇に関しても
実権を持って戦争を始めたとかそういうことは言えない、言えないね。
しかも本当は僕はかなり注意してそのことを見てたけど
昭和天皇というのは非常に偉い方だと思うんだよね。
本当は戦争を避けようとして
いわゆる午前会議の時に3度もう避けられないのかって
戦争をしない道はないのかっていうことを聞いてるんだよね。
それが当上内閣だからそれを押し切っても
会戦のほかはありませんということでそうなるんだけど
一体ね、僕がパリにいた頃に
フランスのテレビキャスターで一番有名なニュースの男がね
友達だったんだけど
昭和天皇が亡くなった時に電話してきたんですよ
平人は戦争派、戦犯じゃないかということを言うんですよね
それで戦犯じゃないかというから
お前ね、天皇は戦争を始めなかったと言ったんだよね
彼が戦争に関わったのは
確かに初めだけの午前会議の時に
何回も何回もそれは避けられないのかということを言って
最後はもうやむを得なくなるんだけど
しかし彼が自分の意思で言ったことはね
今度は終戦の時なんだよ
それは自らの意思で終戦を選んだんだよね
だから会戦の時は自分の意思で選んでないんだよ
終戦の時だけ自分の意思で選んでる
ということを僕は言ってやって
結局8時のニュース報道が内容が変わった
ということがあるね
だから戦犯の意を扱いにして言おうとしてたわけだから
1:03:02
それはちゃんと流れたんですね
だから表現がずっと変わった
それで反響とかどういう感じだったんですか
反響はもうみんなあまり知らないからね
だんだん日本の昭和天皇陛下は死んだということを流れました
流れたけど実際には大きな徳を持った人ではなかったかなと思うのは
葬儀が行われた時はアメリカ初めて全部の首脳が集まるでしょ
あの寒い東京に
あんだけ集まったことないんですよね過去に
もし戦犯だったら誰もいないじゃん
だから世界はちゃんと見てるんで
最後に聞きたいんですけども
鳩さん戦争の時代も生きてこられて
68年経ってそしてまさにユネスコで世界も見てきて
世界の中の日本も見てきて
まあ僕ら戦争知らないですし
これ聞く人は僕この戦争の記憶は200年300年残したいと思っていて
まだ生まれてない人
僕もあの世に行った後に聞く人もいると思うんですけど
そういう人たちみんなに含め
やっぱり戦争とか平和っていうキーワードで考えてほしいこととか
何か伝えたいことって一言
特に機密保護法みたいなのができてね
日本人の場合メディアが目覚めていないとみんな引きずられると思うね
僕が見てると日本人は非常に心優しい民族だと思うけど
主体性をもって判断するということが非常に下手なんです
だからグループというかみんなが仲間意識で生きてるからね
一つ目高みたいになるんだね
一方に一匹が行くとバーッとみんなが行く
そういう傾向があるんで
メディアが今はまだ目覚めているっていうところがあるけども
それが一旦政府に追及することになると
もう秘密保護法が有効に働いてね
みんなが自由に国民を動かせる体制があるんじゃないかなと
それが非常に怖いんですね
だから一人一人が目覚めているということが非常に重要で
そういう人間を教育の方で頑張って作っていかなきゃいけないなと思いますね
メディアの目覚め度っていうのは眠ってる方にどんどん行っちゃってますか
日本のメディアは世界に対してもっと目覚めなきゃいけないね
日本のことばかり細かいことまでやってるんですよ
ニュース見てると
1:06:01
しかし世界ではもっともっと重要なことがどんどん起こってる
だけど日本のメディアは全部ニュース番組としても
世界のことは報道するけどほんの一部なんですね
3分の1とか4分の1なんですね
あとは世界的に見ればもう全然取り入れられないような報道をやってる
3面記事をねやってる
だけどうちなんかコレギンが朝BS1をつけるから生放送でみんな見てる
言語で
と世界のメディアがだーっとアメリカイギリスドイツフランスイギリス
それからみんな映るじゃない
といろんなことが起こっているのがわかるじゃん
それが日本のメディアで取り上げないのは何かといってやっぱり閉鎖的
これはねだんだんだんだん楽な道っていうのは閉鎖になってくるんだよね
楽な道を選べば閉鎖的になって
結局ご近所の噂をしている井戸端会議みたいなメディアになってくる
確か目覚めないと
ということで今日はですね地球システム倫理学会会長でもいらっしゃいます
服部英二さんにお話を伺いました
服部さんどうも長時間ありがとうございました
どうもありがとうございます