はい、じゃあ最初にお名前と、青年月日を教えてください。
遠藤隆視、昭和8年12月24日。
クリスマスイブですね。
そうです。
じゃあ今、この取材時では91歳。
そうです、91歳と7ヶ月ぐらいから。
はい、ありがとうございます。
今日はね、いろいろ、戦争の記憶ということでお話を伺っていきたいんですけども、
お生まれは、今日お邪魔しているご自宅、東京の原宿とか代々木周辺ですか?
ここじゃなくて、今の病院は中央日赤病院、渋谷区の宮城町。
疲労とは違う、疲労の日赤?
本当ですか?僕の兄も疲労で生まれています。
うちの父もそこでお世話になっていました。
今はもう宮城町と言わないで、疲労と言うんだよね。
ですよね、あの日赤も古い日赤の時から。
そうそうそうそう。
あ、そこで生まれたんですか。
うん。あそこはもう、しょっちゅう、なんていうかな、年頃年中、寿命、ちょっとぐらいいるとすぐに行くというような感じですよね。
自宅は要するに、昔の原宿、今の神宮前三丁目か、だから渋谷区と港区のちょうど境目のところですよ。
なるほど、本当に都会じゃないですか。
そこで育ったんです。
なるほど。そういう意味では、そこから少し引っ越されたり、いろいろあると思うんですけど、やっぱり大きく言えばこの辺で生まれ育ち、今もいらっしゃるということなわけですね。
そうですね。戦後あるしてからしばらく経って、ここに来たのは、昭和の何年ぐらいかな、20、戦後あって、昔のお米屋さんやってましたからね。
昔はお米屋さん個人で営業できなくて、工団と言ってもお金になるかな、工団制になって、親父がたまたまそういう商売をやってて、
それで強制されたのか、収容されたのか知らないけど、その工団に入らないと入るものが入らないということで、そこに進めた関係上、工団のいろいろ収録されるんですよね。
ここでもっと商売をやりたいとか、こっちでやりたいとか、こっちは知り合いがいるから、知り合いが多いからここで商売をやりたいというような感じじゃないんですよね。ほとんど強制的な。
それで、戦後終わってから工団、しばらくは配給制度をやってましたから、やっぱり工団通じて、いくらか、いくら楽になったのかな、その地域に発展するようにというような形で知り合いのお店を出すんだったらどうぞという感じでね、あれしたんですけど。
その頃はみんなもう登録制だったんですよ。この人、仮に遠藤が福岡さん、中川さん、早川さんにお店を出してもいいですよ、私はお客さんになりますよ、どうぞというような、大いいところ、営業所になるわけ。
そのような関係で、ここがあってたまたま親父が管理してた、管理というか、一緒にみんな賄ってたところですから、自分で商売をやりたくて。昔からずっと米屋をやってましたからね。
だから米屋はどうしても切れないから、どうしてもやりたいと。いろいろ登録制で、1500人だったかな、2000人だったかな、ちょっと忘れました。そういうと、あの人を集めなければここで商売をやっちゃいけませんよというような許可制ですね、当時は。
で、しょうがないから、高壇時代のお客様がいるから、今新しいお客さん集めるって言っても大変でしょ。昔原宿にいた、住んでた親父だから、こっちはほとんどいないが、高壇時代にいろいろお知り合いになった人、あるいは高壇時代からお客さんになれた人とか、
そういう人にお願いをして、既定の登録の数になったから、ここでやりなさいということで始めたんですよ。
で、ここじゃなくて今も山野の通り、山野の本当の真ん前に古いバラックで、それこそ展示中ですからね、そういうところを高壇に出かれてきましたから、そこを引き継いでやって。
この道だんだん広くなってくると、ちょっと店が出て、あそこが今度は道路改正で大きくなっちゃった。あそこを岩井の駅から南新宿、山野通りの反対側、今の広い通り、あの通りが予選企画、許可制で広がったんですよね。
ありがとうございます。話ちょっと戻っちゃいますけど、今日は事前に今の青年合併の話があっても、おそらく太平洋戦争の開戦が始まった時が、高士さんたぶん8歳ぐらいだったと思うんですよ。で、終戦をたぶん12歳ぐらいで迎えてると思うんですね。
はっきりたぶん覚えてないと思うんですけど。そうですね。
それはね、ありましたよ。小学校2年生かな。2年生か3年生ぐらい。
それで、学校でいろいろ竹刈りをこさえたり、下駄巻きじゃだめだから、裸足でやられるんですよ、だって。できないし。
運動靴だらんって。運動靴なんかないですよ。あったとしても貴重でね。みんな学年末になるとぼろぼろで、みんなそんなの履いてないよ。
で、そのうちにだんだん布だけの運動靴かな、それで持って生活してたんだよな。
そのうちに、だから昭和2年、3年ごろからそろそろ曹刈りをしなきゃいけないよ、というようなかたちで。またも、そんなようなやり方して。
当時、戦争が始まったときに、戦争って始まるぞみたいなときに、子供心にどういうふうに何を思ってたんですかね。
あれでね、ラジオが昭和16年間、12月8日、戦争の始まりで。
だから、学校からね、今日ラジオ放送があるから、しっかり話を聞きなさい、というようなことでね、言われて。
で、初めて戦争だった、戦争が始まる。子供の頃は小学校だから、学校はそんなこと言ってるけど、みんなもう幼稚でガチャガチャしてる連中ばっかりだから、戦争だなんて言ったら、国がやるんだから、我々たちは関係ねえや、というような感じ。
大人の人の方が帰って、大変だったね。これから大変だぞ、食べ物もなくなってくるし、アメリカだから機械が多いし、日本なんか一握りだよ、なんていうような感じでね。
戦争が始まったら、どっかいいとこ見つけておいて、逃げなくちゃダメだよ、今からそういう心構えをしなきゃ、というような感じで大人たちは言ってたんですよね。
それをまともに聞いたことは聞いたけれど、それ本気にならないですよね。
あんまり実感が、やっぱり子供だから、そこまでなかった。
実感があるでしょ、子供だから。
で、そのうちに小学校4年の時だ。小学校4年から初めて学童疎開。
で、4、5、6年生かな、それぞれ組を変えて、年齢が決められてるから、学童疎開、学童疎開やりますっていうようなことで、
4年の時はその話はそろそろと言って、もう5年生から学童疎開かなっていかなきゃダメだということで、4年、5年生、6年生は学童疎開のことで密閉だったんだよね。
そうすると高橋さんの中で、さっきラジオで回線の情報が入った時は、正直あんまり子供としては実感がなかったけど、やっぱり疎開いよいよするぞっていう時にやっぱり戦争が始まったっていう、逆に子供としての実感があった感じですか。
うん、まあそんなようなことで。だから戦争始まると、いや、使い捨てにならなくて物を大事にするとか、それからこういうものは戦争に役立つから取っとけよとか、戦争が始まったらいらないよ、敵が来たらこんなのあるしてダメだよとか、英語をしゃべっちゃダメだよとか。
ああ、言われたんですね、やっぱり。
英語のものは、英字が書いてあるやつはみんな捨てなさいとか、目につかないようにしてください。それこそ面白くなかったね。自分の好きな、大切にしてたようなものをみんな破棄しなきゃいけない。それ以外見っかると大変なことになるよ。
大変になるということは国族になるよ、というようなことを大人がてらに言ってくるわけだけど、言葉はそんなことを知らないから。
そういう意味では、たかしさんは逆に英語の何か、実は始まる前は結構触れてたとか、なんかそういうのあったんですか。
うん、そんなようなことはないですよね。近所でお山の大将を聞いて、遊んでるほうが多かった。遊びに行ったって竹持って、戦争の敵をやっつけるとかさ、そういう体に体操はできないですよね。
ラジオ体操なんて、できなかったんだから。学校行ってラジオ体操だなんて、あんまりなかったの。やらなかった。電波が流れちゃいけないとか、敵に感知されるから。それこそそういうようなことがあったよ。
じゃあそういうのが本当に、最初の海戦のラジオの時は実感なかったけど、そこから日々、刻々といろんな今みたいな形で、やっぱり子供ごころに実感が湧いてきた。
情報が入ってくる時間。
今フィリピンのなんとかという島で、日本軍の飛行機がアメリカの爆撃機、30機とか20機とか爆撃したよとか、なんとかっていう。
日本軍砲板隊とか大将とか、言ってある人だけど、それは今で思うよ。何言ってんだって。
でもその時は高橋さんもですし周りもそうですけど、まさに日本行け行けみたいな感じで、誰も疑いなくみたいな感じでした。
それは日本はすげえなあ、そんなに強いのかなあって。それこそ開港旅行で山本一郎君が戦後してハワイに行ったとか、あいたいなことは全然ニュースになってないですよね。
その当時は。戦火上げたとかなんとか。戦火がいいことばっかりある人たちがね。要するに電話放送ですね。
電話が多かった。
ただ当時はね、それを疑う人がほとんどいなかったと思うんですけど。
これ実際、疎開が決まったってありましたけど、その時、そもそもですけど、高橋さん、ご家族、例えば兄弟とか、お米屋さんの話もありましたけど、
お父さんもお母さんはみんな一緒に戦争が始まるまでは住んでて、始まってからもお父さんは、ご兄弟は例えば兵役に行ったとかそういうのもなかった。どういう感じだったんですか。
もう全然離れちゃった。
戦争はお父さんも行かなかった。
年齢ですからね。
ただし、親父はね、その頃自動三輪乗っかってて、今で言う運送屋かな。運送会社に勤めてて、その自動三輪で運転して、ちょっとしたアルコールだとか、戦時の何て言うかな、何を作ってたかわからないけど、
そういう軍自身を製造してる会社に勤めてたんですね。
ですから、そういうような形で、その三輪車を運転してても、ある程度自由だった。
だから、わりかし我々たちは疎開するまでは、食べ物でも衣類でも何でも自由にね、手に入るようなまだ身分だったんですよ。
福厚中の災害でしたね。
福厚中の災害で、そんなようなことだから、親父は親父で、親父はもう家族のことあんまり見てくれないんですよね。
そっちの方が一生懸命になっちゃうんだ。国の方でやらなきゃいけないから。
そのような時代だったね。
戦争が始まった直後、家族で、お父様も含めて、これから戦争が始まってみたいな話とかってあった記憶とかってありますか?
そんなことないですよ。家族でそんなような話はしないです。
戦争が起こるから、ラジオがあったら喜んでみんなで一緒に喜んでね、走ってた。
だんだん厳しいのは、我々たちは5年、6年生で、そこにいた時に終戦を聞いたんだから。
うっすらね、もう6年生くらいになるとね、わかったね。
そういうことが出場だった。
実際の、それはいろんな。
だってね、そこに行っててね、私はほら、静岡県に行ったの、一番最初は。
静岡県のね、火水祭、今でもありますよ。
火水祭。秋葉神社の火祭りの有名なお寺と一緒に。
それで火祭りもやったけど、そこは山の上なんですよね。
山の上で空襲警報が、わーってサイレンですよ、今。
サイレン聞こえるとB-29が空飛んでるんですよ。
そんで、小さいままみそびみたいな、あれB-29だか何だか知らないけど、
日本の戦闘機がそのB-29の編隊を追っかけてて、
何だか鉄砲を撃ってんだか、銃撃してんだかわからないけども、
あれすると時々パッパッと火が見えるんだけど、全然効かないんだよね。
で、追っこってくんないと。小さいやつ追っこいて。
だから、そんなようなことを見ちゃってるから、あー、全然ダメだと。
ニュースと違うな、みたいな。
もう勇気が違う。全然、こっちが大きい。敵の方が大きくて、
味方が小さくて、味方がやられてるじゃないかと。
味方がやられてるじゃないかと。
それは百分は一見にしかずですね。一目瞭然。
そんなようなことで、人がだんだんだんだんありして、
5年生の時から、今度はここにいたんじゃ、危ないから。
で、今度は青森行きましょう。青森ですと。
で、青森行ったら、北津がある。あれ、太宰治の懸念家がある。
今でもお寺ありますよ。まあ、府長はいないけど。そこへしばらくそうだ。
で、私はその頃、いろいろ言うこと聞かない。学大生の方だから。
全然、その言うことなんか聞かないで。空襲警報だよって言ったって、
一人でバッと行ってね。町の中でバッと行って、どんなかなと。
好奇心が強かったんですよ。
すごいですね、それは。
でね、そこであの頃はね、青森の津軽アントル。
どこだか、まあ、基地は分かんないけど。
基地はないから、艦上機ってのがあるんですよ。ほら、船から飛び出る。
航空母艦と違う。それの編隊はできないけど、
短期でね、小さい爆弾、あるいはして、旋回しながら、様子見ながら壊れたんですよね。
攻撃は少しできる。それにね、狙われたことがあるんですよ。
そうなんですか。
畑の中なら大丈夫だろうっていうようなことで、ある日したらやっぱり撃ってきた。
その辺のことをやってて、もう6年になって。
6年になってからね、あと夏ぐらいになって、夏は8月だもん。
15日は終戦だから。
それまでに青森だから、畑はリンゴ畑でしょ。
だからリンゴ畑から通り越して行くと山がある。
そこから冬のために滝木をね、蓄えなきゃダメだと。
いうようなことで、滝木を毎日毎日みんな背負ってるんですよ。
なぜいう理屈作家ってないですよ。
ないですよ。
腹の中で、自分でこさいた腹の中にニオンでこうして、そのニオンをうまくあれして、シュッて帰ってくる。
燃料を出しに来て、毎日毎日。
それで大きいものを鋸で切ったり、斧で切ったり、で宅配。
そんなような形で小学校時代、勉強だなんてほとんどない。ないです。
あんただけ仕事を手伝ったり、農家の手伝いをさせたり。
だから熊田とか稲刈りのあれだとか、そういったのをやってたね。農作業がほとんどですよ。
なるほど。
2回目の疎開に今、青森の話をちょっとしていただきましたけど、学校の授業とかほとんどなく、農作業がほとんどっていう中で、
いわゆるその時の青森での集団疎開という形でいったと思うんですけど、
同じ学校の人たちがみんな一緒に青森に行ったんですか。
それはまた、つまり最初の静岡の方の話に戻った方がいいかもしれないですけど。
静岡も違う。それぞれここの組は、
クラスごとなんですか。
そうそう、クラスごと。
あんまり仲のいい奴は、逆に学校の方でもいろいろ考えたんでしょうね。
別々にして。
で、うそにして。
だから、加水祭と、それからもう一つ別の同じ学校。
同年生が今でいう森の石松のところに行った。
だいぶ離れてるでしょ。
なんかこう、静岡の方の話に戻っていいですか。
戻りますけど、もう率直に疎開が決まったとき、どんなふうに感じました。
そして、そもそもですけど、家族みんなで行ったわけじゃない。
ないし、子供だけでしょ。
子供だけ。ご兄弟とかもいたんですか。
兄弟が、弟がいた。弟はね、一年遅れだから一緒に行って、
一緒に学童世界、暮らしたんだな。
それは決まったとき、さっきからお話聞いてると、いい意味で気持ちが高しさがすごく強くて、
やんちゃら面もあったとはいえ子供なので、当然疎開が決まったとき、親と離れるのがすごい不安だったとか、泣いたとか、
それはやっぱりある程度、もう仕方ないなというような感じでいたけどね。
だから一番の思い出はね、青森から静岡行くとき。
青森から静岡、静岡から青森じゃなくて。
静岡から青森行くとき。
ですよね。
そのときね、今で言う飛行機だとか、そういったのないから、
どっか東海道線から出るとき、もう貸し切りで、
遠いですよね、青森ね。
であれして、それで原宿駅、真夜中、
それこそ明かりなんか全然しゃない、真っ暗でしょ、しゃないの。
そこで原宿駅に流れるよって聞いたのは、どこだか知らないけども、
全然親が待ってるよって、親の顔見られるよというようなことなんだ。
こんな暗くて見えるかよって、文句言った方がいいんじゃん。
それで実際に原宿駅に着いたら、本当に真っ暗だけどってわからない。
止まってるあるいは30秒だって。
えー、もう止まってるうちに入んないですね。
だから直行して、ふっと止まって、ふわっと行くわけですよね。
だけど列車が長いと親がどこにいるかってわからないわけですよね、子供たちだから。
先生たちはあらかじめ、一応わかってるかもしれないけど、あらかじめ知らない、一生懸命。
で、真っ暗だから、駅の方も真っ暗、列車も真っ暗、だから分かんない。
それでお互いに呼ぶんですよ。
名前、ふとみんなくるくる。
そこで名前あって、ふっと押して、ふっと見ただけでもうおしまい。
だから親とすれば子供だから、何食べてるのかわかんないかなというようなことで。
ご飯食べた後、残ったご飯が干して、そういったのと、それから大豆。
そういったのを袋に入れてくれて、それを渡されてもらって、それを覚えてるな。
それで青森に行くまでに、それをポリポリポリポリ食べながら喜んでたのかな。
その袋でもらったのはご両親から直接もらったの?
本当にちょっとですね。
だから、お母ちゃん、お父ちゃん、そのような形でしたね。
子供の名前を言われて。
その時、お父さん、お母さんからかけられた言葉とか覚えてますか?
なになになに。かける暇ないんだよ。
もう一瞬ですもんね、今の30分ですもんね。
なんとか自分の親子で渡してくれて。
そういう面で厳しさもあったし、そういう楽しさもあったし、将来を忘れられない気持ちだよね。
じゃあそのワンシーンはかなり印象的に覚えてるってことですか。
そういう話をしちゃいけないってことだよ
もう暗くしてるくらいですもんね
だからそういう面で厳しさもあったし
そういう楽しさもあったし
生涯忘れられない気持ちだよね
じゃあそのワンシーンはかなり印象的に覚えてるってことですか?
印象的に覚えてる
今で思えば親ってことも母親ってことも大事に思ってるんだなと
愛情っていうのは初めて分かったんだね
その時系列整理させていただきたいんですけど
静岡最初疎開した時あるじゃないですか
その静岡に疎開したのは終戦の1年前ぐらい
いつぐらいですかね
昭和…
静岡は小学校ね4年
だったらやっぱもう昭和20年
20年じゃない
19年
20年はもう戦争終わったでしょ
その前の年
昭和16年にありして19、17、18
18年ぐらいかな
18ぐらい
静岡には結局どのくらいいたんですか
1年ちょっとだね
でも結構いましたね
その頃私が行った時はちょうど本堂で寝かされるんですよ
お寺の
本堂で寝かされる
布団は自分の親たちが用意してくれた布団で持って出るけど
足がね体が大きくなっちゃうから
布団の足が出ちゃうんですよ
そこで冬なんか
冬だったんだけど
霜焼けだね
私は霜焼けになっちゃった
歩けなくなっちゃった
結構ひどい霜焼けになっちゃったんですね
ひどい水膨れになって
それがより痛くて
ヒーヒーヒーヒーと顔に流れてた
だけど両方
両方って言うんですよね
戦争たちのことを