藤田館長のヒイヒイおじいさんにあたる藤田伝座郎は、財界切手の大富豪と言われた人物。
私たちがよく知るこんな事業を起こしたことでも知られているんです。
軍隊の靴を作った会社が今のリーガルさんで、土木建築が体制建設さんで、
毎日新聞さんとか関西電力さん、東洋房さん、鉄道が南海電鉄さん、JRの山陽本線とか、かなり幅広くですね。
今日はそんな明治という変革の時代を生き、茶の湯を愛した藤田伝座郎の人生をたどりつつ、
現代の私たちが楽しめるお茶の在り方を考えます。
藤田さん初めて会ったのは、あれ何ていう会だっけ、ねず美術館?
ねず美術館、大師会ですね。
あのお茶会がいろんな席、小い茶席とか薄茶席っていうのをいろんな人が担当するんですけども、
僕たちが薄茶席、薄茶を担当していて、小い茶の方も神戸の方と名古屋の方、
もう席集同士は知ってる人たちだったので、
実は藤田美術館って美術館なので古くて格の高いというか利給が持ってたとか、そういうお道具が多いんです。
そうすると今までのお茶会って小い茶ばっかりだったんですよね。
小い茶席の担当お願いしますって。
今回僕たぶん美術館勤めてから初めて薄茶席だったんですよ。
すっごい道具悩んで。
ちょっとこれ、お茶わかんない人に解説すると、
小い茶の方が格が高いからいきなりダンってすごい古いものが出てくるのが当たり前で、
薄茶は逆にもうちょっとキャジュアルだからすごいお道具ばっかり持ってるとこからすると難しいっていう。
難しいですね。薄茶のお道具っていうのがないので、ちょっと軽いものって探さないといけなくて、
それなりに重たいものを軽く見せるとか、そういうことをしなきゃいけなかったので。
そうなんだよね。あの時、とこの間に観音様か何かで。
法隆寺の天人像ですね。
そこの端のビラが木のやつがなくなっちゃってて、
そして下にビラが立っててすっごいかっこよかったんだけど。
ありがとうございます。
でも何かいじめられたって言いましたね。お茶警察か何かに。
そうですよね。やっぱりお茶の世界って小い茶はこうあるべきとか薄茶はこうあるべきってすごく、
ある程度の枠組みがあるじゃないですか。そこと全く違う感覚で今回やったので、
それで花はどこにあるんですかとか。花がないので。
でも何か美術館のインスタレーションみたい。
そうですね。
でも美術館長だし、禰豆美術館も美術館だから何でお茶席で美術館っぽくしちゃダメなんだろうね。
難しいんですけどね。で実は大使会っていう会自体も明治の増田隆さんっていう三井仏さんの社長された方ですね。
増田さんとか横浜に三景園っていうお庭ありますけど原三景さんとか、
ああいった方たちが候補大使を検証しようっていうので始めたお茶会なんですよね。
彼らは明治時代に活躍してるんですけども、明治ってその廃仏希釈っていうのがあって、
お寺壊されて、もう本当に仏像が薪にされたりとか、
あの有名な五十の銅が数円で売り出されたりとかっていう時代だったので、
そんな時代に彼らが美術品、仏教美術を買ってお茶会で使ってたんですよね。
で実はそのお茶の世界ってご存知のように理休からずっと和美茶って始まってますけども、
その和美茶の中ではほとんど仏教美術を床に飾るってないんです。
明治の人たちが、うちの藤田の初代のデンザブローも仏教美術を床に飾ったりって、
彼らがしようとしてたのは多分仏教美術のその再評価とか、
今こんな状況だけども実はこんなにいいんだっていうのを見せる場として、
お茶をちょっと使ったのかなっていうのを思っていて、
で大使会ってルーツがそこなので、
じゃあ全然いいじゃんっていう。
それに習ってやりたいなっていうのがあったので、
法隆寺の近道の天外っていう上にある天外に秘典がたくさん刺さってたんですけども、
そのうちの2体ですかね、うちに伝わってるので、
その中でも僕がすごく好きなやつを床にかけたいと。
でも床にかけれる形状じゃないので、
金具から全部オーダーで作って、
はまるようにして、でそれをかけて、
じゃあ花がないっていうのがすごく僕も気になってたんで、
花いけると急に浮いてしまうんですよね。
天人像がなんでここに来たのとかいう理由がなくなっちゃうので、
木でできたこの蓮の花びらがもうないので、
じゃあ下に花びらを散らそう。
で散らすときも木の板を持ってきて、
それも法隆寺の昔の縦札。
縦札の上に花びらを3枚4枚だけパッと散らして、
あの花びらも3月とかなんですよね、お茶会が。
まだないんですよ。
でしょうがないからあっちこっちのブリザードフラワーのアーティストに電話して、
なんか花びら箸持ってないですかって言ったら、
一人お持ちの方がつぼみを十何個か送ってくださって、
それを現場でカッターナイフで一枚一枚切って、
えーーー。
でその花びらを、
でもそういうのでやって、
いわゆるお茶の流れじゃちょっとないんですけども、
でも昔の人ってきっとこうやって楽しんだんだろうなっていうのを、
そこに思いを馳せるっていうのが一番、
あのお茶会がいいのかなと思ったので。
藤田伝座部郎が生きた明治時代は、
実業家や政府の公館たちが、
お茶会を開かずにお茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
お茶を飲んだり、
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お茶がウソと言われた上下に窓板付きですが、
お茶ですら今ねー вой variables や
判定の代表がありますのでえっ
おいしいですよ
Simon Sangいいい
この三仙家のお茶からちょっと離れるのはもともと先祖の一つの
父ですか
父じゃないですけどちょっとそこで藤田のファミリーの話を少しその時代背景とかちょっと話してもらっていいですか
はいあのもともと私たちの初代の藤田伝作廊っていうのが幕末の長州萩ですね
もう本当に家の近くには高杉晋作がいたりとかっていう場所で生まれて
ちょうど伊藤博文さん同い年ですっていう世代ですねでちょうど明治維新が起こって同じように活躍してた長州の人たちっていうのはもう中央政府の方に入っていって
どうもお前も来いっていう風に誘われたらしいんですけども自分はどちらかといえば実業界で日本の国を支えたいということで大阪へ出てくるんです
でもともと10代の時に実家とそれから親戚の家の酒屋と醤油ですね立て直しをしているのでまあ多分商売とかそういうことの
差異核はあったんだと思うんですけども大阪へ出てきてで軍隊の靴を作る会社を起こしたりだとか土木作業の会社作ったりだとか鉄道やったり
っていうところから徐々にこう財ができてきてそれと同時にやっぱり業界の方というかねあの実業界と繋がるのでその方たちさっきの増田さんとか
原さんとか赤星さんとかその明治に活躍した実業家と一緒にじゃあ何をしようと
でちょうど美術品は海外に流出するお寺は壊されるだったそれを自分たちは止めなきゃいけないっていうことで美術品の収集を始めたっていうふうには聞いてますね
ちょうど明治の1850年とかあの辺ですよねで僕もアメリカ側からもちょっと見ててボストンにいたのでボストン美術館とか
あとピーボディとかって結構日本美術がいっぱいあってであの当時の確かハーバードのフェノロスタとか結構面白いのはピュリタンたちってアメリカの
ギルデデイジでちょうどその時期ってギラギラになっているので日本仏教にみんなハマるんだよね
で彼らが日本に来て仏教すごいよねってなってちょうどその頃の多分文化とか教育の明治が日本のものを全部消そうとしてて
彼らも保護しようまあオカクラ天神とかもアメリカに行ってやってる時代なんだよねだからすごい少ないコレクターたちが結構アメリカとあと日本で
まあ仏教もそうだし茶道具も買い占めるわけだよねでそこの一番のコレクターだったわけですよね藤竹っていうのは
だから当時何点ぐらいあったかもう今じゃわからないんですけども最終的に昭和の初めに金融強固もあって売り立てをして
数千点売却をして残ったもので美術館をオープンさせているのでおそらく何万点かは持っていて
で藤田天三郎ってすごい色んな会社作ってるんだよね何だっけね
えーと今でいくと軍隊の靴作った会社が今のリーガルさんで土木建築が大成建設さん
毎日新聞さんとか関西電力さん東洋坊さん
あと鉄道もあるよね そうですね鉄道が南海電鉄さんでJRの山陽本線とかあのかなり幅広くですね
でもみんな3つけてるのは今もうコーナーじゃなくなっちゃうんですね 何もないですねあの藤田の電座風呂を始めまあ全員そうなのかもしれないですけど
事業を起こしてある程度軌道に乗るともう完全に手離しちゃうんですね あとはまあうまくやってくれて
逆に言うと今のお道具と美術館が唯一残ってる 先祖の資産みたいな感じですよね
直接関わってるのはもう本当に美術館だけですね ですよね
でも美術館はその電座風呂さんとあと息子さん そうです長男と次男が集めたものが一緒に
で結構お茶も電座風呂さんってハマってたんですよね そうですあの今だから美術館のある敷地とそれかその周り一帯ですよね
だいたい1万8千坪ぐらい邸宅があってその中に茶室が30個 30個使うのかなって思うんですけど
まだ残ってる? いやいやもうないです空襲で焼けてしまったんで なんですけど30近くあって
で焼けちゃった後の蔵がずっと美術館だったのを建て直したんですよね そうですね空襲で本当に邸宅全部焼けてしまって
本邸に至ってはもう蔵と多宝塔しか残ってなかったんです 中の美術品無事だったのでじゃあこれを後世に伝えるために美術館をしよう
で財団法人を設立して美術館を作って なんですけど戦後すぐなんですよね昭和29年の開館なので
物資もないので もう蔵をそのまま展示室にしてそこで見せようっていうのがスタートだったんです
ただ僕が入ったのが2002年なんですけどもその時点でまだその蔵使ってて 階段しかないですし電源がないんですよ
火災が発生したらいけないので だから毎日開館の時は外部とコンセントでつないで電気をつけるっていうのが仕事だったんですけども
そうするとエアコンつけれないんですよね 空調がなくて階段しかなくてすごく頑丈ですけど
耐震に関しても今の構造計算とは違うんで 設計図がないので構造計算がそもそもできないっていうのもあって
じゃあリニューアルしましょうって言って2017年で一旦休館して22年にリニューアルオープンしたんです
美術品を売って200億か何か調達して建て直して でも誰も文句言わなかったっていう
美術館が物を売ると結構たくさん売ると文句言われるケースもあるんじゃないかなと ただこれは中国美術だったんだけど
クリスティースだっけ コレクションのコアじゃないけれども価値があるものを見つけて それで売って美術館を建て直すっていうすごい
5代目になってすごいトランザクションやったってことですよね
建て替えるにしても日本の美術館私立なんて特にそうなんですけど キャッシュがそんなにあるわけじゃないので
建て替えるって言うとそれこそ数十億台のお金がかかる じゃあそれどうするのかっていう話をして
一番心苦しかったんですけどじゃあコレクションをいくつか出そうって決めて そこから
やっぱり藤田伝佐風呂って海外に流出するのを防いだんですよね それで海外で売るのかっていう話になってくるので
じゃあやっぱり日本の美術品はダメだなとか日本でちゃんとした需要があって 中国美術であっても例えばお茶道具なんかは
やっぱり日本で価値に満たされてるそうなんですよね そうじゃなくて純粋な中国美術であればおそらくは時代背景というかその当時の背景も中国がすごく景気が良くって
美術品購入されてる時だったんで であればおそらくはこれ出品すれば中国の方が買って本土に持ち帰るから
ちょっとまた歴史に戻りたいけどお茶はもともと中国から来て中国のものからものって 言われて象下使ったり
ブロン使ったり結構綺麗なポーセリンとか使ってて でそれが女王とか和尾茶が始まって李旧が来てそしてなんかヒアワルキをぶっ壊してちょっと
パンクロックみたいな感じでぶち壊すわけだよね までにじり口からみんな入ってこうあんまり偉そうにするなみたいな感じになるわけですよね
そこで和尾茶が入るんだけどもちょっと官僚的な江戸時代の部分でその和尾茶が少し決まりごととかルールとか
で家元制度で参戦家もどっちかとお手前のところに気合が入ってそれでお稽古ごとみたいなものにだんだん発展していってそして明治になると前は侍さんがやってたんだけども幕府でこうなくなって
でその次にお茶のコアになるのがお金持ちの事業家の好き茶っていう人たちででそこはまたちょっと文化的にはお手前を中心とした参戦家とかと
ノリは違うんだよねそうですね全然あの見てると雰囲気は今とは全く違う感じで例えばなんですけど茶会期なんか見ると今焼却
まあお茶会で言うと一番良いお客さんですよね神座に座る 今お茶会をして例えば家元来られたらまあ普通に焼却がお家元座られてあるんですけども
当時のお茶会だとお家元は一番下座なんですこれは好き者のお茶会のときでそれ何をするかっていうと好き者に対してその一番後ろからいろいろお茶を教えながらお茶会を進めてお茶会が円滑に動くようにサポートしてくださるというのがスタンスだったんですよね
今はやっぱりまあお家元先生なので焼却になるっていうなんかちょっと時代でそこはすごく捉え方とかお互いのポジション
江戸時代だとやっぱり家元強かったんですか 江戸時代でも言ってもでも侍とか大名殿なのでやっぱり大名が一番でどっちかというとその家元はお手伝いみたいな感じで
それをサポートしてやってくださるのがっていうのだと思いますね
でやっぱりお金持ちの好き者はそういうルールとかよりもお茶会が自分にとって楽しいことがメインなわけですよね
家元のところの流れっていうのは舞踊じゃないけども過去からちゃんとこうやり方を伝える決め事を伝えるっていう流れと自分たちの道具のコレクションと自分たちの楽しみのためにお茶会開いてる好き者とかって並行しているわけなの
そうですなんかすごく近しいけれどももちろん部分的には交わるんですけどもただ完全に一致は多分しないんですよね
で好き者は何をしてたのかなっていうのは僕もいつも考えるんですけども多分まあ時代的にもそんなに他に娯楽がないというのも一つあるんでしょうけど
何より歴史から何か学ぼうとかそういうところが大きいのかなってでお茶の精神とか考え方から何か学ぼうとか
でお茶の精神から学ぼうとすると自然とお手前がこうとかっていうところには逆にあんまり目が行かなくて
なるほどで精神も確か明治の頃って少しナショナリズムもその出てきて
でそのお茶の精神がちょっとトップダウンの精神とどっちかというとリキューのパンクロックの精神が2つあるわけだよね
で同じ精神でもあんまり属しないパンクの精神の方が好き者の方でそしてその公務員とか学校みたいなのはどっちかというとこう秩序の精神になってるんで
それはずっと江戸時代から多分盛り上がってきて続いてるわけだよねで今でもそうだよね多少は
ナショナリズムのところとすごく難しいなと思うんですけどうちの先祖なんかで言うと以前奈良の国立博物館で藤田美術館展でしていただいて
デンザブロのまなざしっていうサブタイトルがついてたんですよねでデンザブロのまなざしってすごい難しいな
何を見てたんでしょうかとかどう考えてたんでしょうか 実は藤田デンザブロの資料がほとんどなくて彼の原稿録っていう
生前にこんなことを言っていたっていうのをすぐ近くにいた人が書き記してあるんですけども それで見ていくと
あまりその私利私欲って考えてないんですね 美術品が
将来絶対必要だということはずっと思ってるんです なんで必要かっていうと明治のその混沌とした時に
いずれ落ち着くんですよね落ち着いた時自分の国の文化がないということがいかにその 世界と対峙した時に弱いか
自分の国はこういう国だっていうのを胸を張って言えないのはちょっと難しいよね っていうことをおそらくは思ってたんだと思うんです
落ち着いた時には必ずその文化が必要になってその時になって後悔しちゃいけないから 今からできる限りのものを収集しようっていうのが当時集め始めたのも一つなので
おそらくは国際交流ですかねグローバル化とかなんとかっていうところにちょっと目が 行っていてその中での日本っていう国のあり方とか