そんな須藤さんのいろんな変歴のお話もありつつ。
だからどういうモチベーション純粋に自分の制作にかきたてられるものとか結構大事な話が聞けたなっていう。
自分を振り返っちゃいましたね。
やっぱり工芸をやっている人たちのモチベーションってどっから来てるんだろうとか。
そのモチベーションはどうやってキープされてるんだろうって。
アーティスト側からしてみると全然やっぱりちょっと違う視点だなって改めてわかりましたね。
そうですね。あとちょっと時間の関係で聞きそびれたんですけど。
時計をまるっと作り変えることとかもやったりする。
最近の須藤さんの活動とかで。
いわゆる日本の伝統工芸とかそういう。
おそらくです多くの人がイメージするのと違う伝統感を。
今度またちょっと機会があれば聞いてみたいと思っているのが、
自動からくり人形みたいなものとか。
ああいうものとかに対する、それを職人が作っていた。
メカを手作りでやっていた頃の産業革命以前の手作りのメカみたいなものにも
日本の伝統みたいなところとかそういうものを見出していたりとか。
日本に限らずスイスの時計職人とか。
クォーツが出て、なおかつスマホが出て、誰も時計を必要としなくなった時代に
じゃあ何を残すのかみたいなところに多分影響を受けている。
今何を残して何を捨てるのかっていうことを多分考えられているような気がするので。
ちょっとそれも聞いてみたらよかったなとは思いつつ、また機会があればって感じですかね。
そうですね。また一緒に話しましょう。
っていうようなところがありながら、次の日は岩田さんにお付き合いいただいて、
京都のどの辺なんですかね。古田織美術館っていうところに。
北山っていうエリアですね。植物園があって、その北側。
岩田さんに何かどっか行きたいとこあります?って言われてて、
なんかずっと行きたいと思って行けてなかったなっていう古田織美美術館を
ボソッと行ってみて連れて行っていただいたっていうとこなんですけど、
今日のお話は古田織美ってなんだっけみたいなところから話してもいいんですか。
僕だから同行して一通り一緒に見たくせに全くわからない。
最初にそこ行きたいなって言ってた僕の立場を明らかにしておこうかなと思うんですけど、
僕の古田織美美術館に対する知識の90%は、
講談社のモーニングで連載していた平優原物と書く表現物っていう漫画によるものであるっていうことは、
ここで剥除しておいたほうがいいのかなと思っております。
どういう人かっていうと、簡単に言うと茶人なんですけど、
戦の離宮は日本史の教科書で1,2行は多分出てくると思うんで、
知ってる人も多いと思うんですけど、和美茶みたいなものを和美サビみたいなところを体制した茶人で、
そのすごい弟子が何人かいたうちの一人っていう感じですね。
離宮は商人の出だったんですけど、離宮の弟子だった古田織美っていう人は武家の出で、
その出来る頃は細川雄才さんっていう細川家の、細川忠之っていう人のお父さんですね。
関ヶ原とかで戦ってる細川忠之。その人に色々と文化的なことの教育を受けてたんですけど、
わりかしふざけてまともにやってなかったっていうようなことがあって、
お茶の世界に入り始めたのが40代くらいっていうところ。
どっちかっていうと昔から美意識みたいな等格を表した人でも別になくて、
離宮に40か40手前くらいでちょっと弟子入りして、すごい間をはしょるんですけど、
今でいう国のクリエイティブのトップみたいな、そういうところになるっていう人ですね。
多分、安土桃山時代に京都オリンピックってのがあったら、
オリンピック開会式とかの総合ディレクターとかを任されるんじゃないかっていう立ち位置だと思うんですよね。
多分ですけど。
国主導っていうか、時代的にはあれなんですよね。
安土桃山ですね。
織田信長、秀吉徳川っていうふうに権力が移っていく真っ只中をずっと生きてたっていう時代の人ですよね。
好きと呼ばれる、文化的にいけてることに目利きもあるし、
自分の新しいファッションリーダーとして流行を作り出せるしてた人っていう立ち位置の人ですね。
地下経営人ですよね。
茶人、お茶のことも多分お話しといたほうがいいような気がするんですけど、
言ってたんですけどまあオリベもう もちろんその利休とか現れるずっと前の鎌倉時代から一応もう
あの茶の湯っていうなんかフォーマットは一応あってですね えっとまあ武家同士が腹張って話すとかそういう時にも
茶会というあのフォーマットは利用されてた ようであるということとあと
必須科目なんでそれがなんかこうスタイルがイケてるイケてないとかっていうのが どうやら多分あんまり関係ないっていうか
田舎の武将でもなんか自分なりのなんかお茶を入れてもてなすし まあ
とりあえずはなんかそういうものがやられてたっていうような感じ やっぱり
リキューの弟子で山上掃除っていう人がいるんですけど あのその人はなんかちょっといろいろとコミュニケーションに問題があったみたい
なんかあのいろんなとこ飛び出すんですよね なんかいろんなとこ飛び出すもうちょっと
俺はもうちょっとちょっとともう我慢ならんから飛び出すみたいな利休の飛び出したり とかしてで前だけに
変えられてると思ったら飛び出してでそういうので放浪したりとかして小田原の方に落ち着いたりとかして
つくんですけどなんか小田原の人とかはなんか京都とかリキューのところで学んだ人がいて でもう田舎臭いお茶の手前とはわかってるんですけど
まあ僕なりになんかやるのでちょっと 掃除さん教えてくださいみたいなそんな感じなんで
なんか誰かが教えなくてももうその場にはもうなんかを お茶っていうフォーマットがあるっていう感じですよね
多分雰囲気としては でそれをある種その好きっていう分野っていうかある種のファッションなんですかね
流行だったり空間演出と道具の見せびらかす あのフォーマットはなんか似てるかもと思ったの80年代90年代のディスコ
なんだ空間 空間プロデューサープロデューサーみたいな
そうですよわかんないなんかあれですよえっとディスコ前世紀の時に何かこう 要は非日常空間としてなんかこう空間のなんかデザインインテリアデザインとかをなんか奇抜な
ものだったりとか あるいはなんかその廃材とか集めたような空間にしたりとか
なんかでかつそれもなんか社交の場にもなってるみたいな その場に対してなんか自分も思い思いのファッションで行くみたいな
なんかそういうようなものかもしれない その頃の若者の憧れの職業トップナンバー1が空間プロデューサーだと
ってことは茶人ってことなんですよね確かに 空間プロデューサーってすごいなその響きの空虚感がすごい
マジソースなんかお気楽な時代だなって思いますよ 10年後こいつどういう方が来てるんだろうっていうぐらいのなんか
ちょうど日本のその経済がものすごくこう伸びて頂点にあった時だったから やっぱり派手なかなんて言うんだろう
生活っていうのが 良かったの良いと思われてた今と真逆
ですよねなんか でも確かに今の塩さんの話聞いてやっぱ思ったのはやっぱちょっとすごい似てるなと思った
のは茶人ってお茶立てるだけじゃなくてすごいいっぱいたくさん仕事があって あのまず空間もプロデュースあの
ハードハードですよねあの茶室ってものを建築もディレクションしないといけないし あとそこでお茶の前に何か簡単にちょっとそう
なんかあのこじんまりとした食事を出したりとかするんですけど そういうものも作らなきゃいけないから食のプロデュースもやんなきゃいけないまあ
あのディスコとかで言ったらどんなお酒でどんな名物カクテルを何かこう メニューに用意しとくとかっていうのもあるし
変なら cdj みたいなこともやらないといけないわけですよどういう曲をかけるとか あのどうなんだろう
こう派手なゴージャスな曲をずっとかけるのかあるいはこう ストイックななんかこうミニマルなあの
デトロイドミュージックをかけるのかとか曲曲それはそのえっと音楽って言うじゃないんです けどちょっとたとえですよねなんかどういう空間にするのかって言う
まあ要は茶器をどう選んだりえっと掛け軸をどういうストーリーにしたりとか ああ掛け軸ねあのそういうこう
えっとお茶に呼ばれてその テリトリーに一歩入ってから茶室に入ってあの
人と向き合ってお茶をなんか飲むまでのなんか全部のストーリーをどうこう奏でるのか みたいな
そういうような意味合いでまぁあの 実際にそこで音楽を流したって言う
あのこともであったかもしれないですけど音楽別にどうというよりはちょっとたとえで なるほど言ってますね
っていうようなことで結構あの茶道って言ってもあの茶道筆頭みたいなものもすごい 仕事がたくさんすごいあって料理もプロデュースしないといけないし
まあ用人の接待とかそういうこともなんか イケてるあのことで全部任せそうか
じゃあもう茶道えっとそのお茶でおもてなしができるっていうこと自体がある程度その 人の財力とか
あの人脈とかみたいなものをもう 示す
なんか ステータスみたいにそうですねなっている感じですよねそうそうなるそうですね
なんかはビーサリーながら貧乏人ではできないですよね でそこがちょっと面白いところである意味