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それでは山崎さん、まずは山崎さんの人生だったりご経歴だったりというところを中心にした自己紹介を1、2分程度お願いできますでしょうか。
はい、私はですね、社会人になったの2007年新卒でサイバーエージェントという会社に入りまして、
当時はアメーバーというメディア事業が赤字だったタイミングで、社長の藤田さんがそれを2年で黒字化するとおっしゃったタイミングで、
ちょうど私が新卒で藤田さんの下に配属をちょうどしていただいて、そこからメディア事業を伸ばしていくことを、
新卒の力でやっていくみたいなところの新卒1期生みたいな形で入れていただいたというのがファーストキャリアです。
サイバーエージェントのときの一番大きな仕事としては、アメーバーピグという今でいうメタバースの先駆けみたいなサービスを立ち上げから新卒2年目で担当させてもらって、
当時アメーバーピグというメインキャラクターのひとみちゃんというのがいるんですけど、それが実は私で、
アメーバーピグというサービスを開始してすぐ数百万人使われるようなサービスを新卒2,3年目ぐらいのときにやらせていただいたというのが、すごく私の中では大きな経験でした。
その後のメディア事業はしばらくやらせていただいた後に、サイバーは2015年までおりまして、2015年の後はLINEを退職された森川さんと一緒にCチャンネルという動画メディアを立ち上げられているタイミングがあったので、
すごい動画をやってみたいと思って入らせていただいて、編集長という立場で動画メディアの立ち上げみたいなものをやらせていただいたりしました。
その後はちょっと自分の会社を作ったりとかして、独立してしばらくやってたんですけども、2021年から今の水エンジニアを創業して今に至りますというような形です。
ありがとうございます。サイバーエージェントの話すごく聞きたいものも、その前もぜひ聞いていきたいなということは思っておりまして、
事前に調べたところで出ていた情報実はあんまりなくてですね、一つわかったのが幼稚園から大学までずっと日本女子さんで女子校育ちだったというところしか情報実はなくて、他のこと何もないんですけれども、
どんな幼少期だったのかとか学生時代何されてらっしゃったのかみたいなところ、まずザックバランにお伺いしてもいいでしょうか。
私はずっと女子校女子大出身で、実は母もシングルマザーで、親戚もみんなシングルマザーで、いまだに親戚が集まると、あとしかも娘がいるんですけど、女ばっかりみたいなすごい女だらけの環境の中で育ったんですね。
幼稚園だけ男の子がいたんですけど、小学校からずっと女性だけの環境で育ってきていて、今思うとそれが全くジェンダーバイアスがない環境で、結構のびのびと過ごさせてもらって、女子校女子大の中で部活とかも頑張ってたし、女子大でも結構楽しくやってたんですけども、
何を学んだかっていうと、女の子だけでもいわゆる社会成り立つんだみたいな、女子校女子大だと結局リーダーも女性がやらなきゃいけないし、全部リーダーもみんな女性の中で学校生活を成立させてたので、別に何にも意識せず女性だけでやっていけるみたいなことの可能性をすごく感じさせてもらう環境で育ってたのかなっていうふうに思います。
たしかにあんまり学生の頃のことあんまり聞かれないんですけど、でも当時は本当に普通の女子大生で、大して勉強もしてなかったですし、本当に割と本当に普通の学生生活っていうか、普通の女子大生として過ごしていて、あんまりそれこそIT業界に行きたいとかも思ってなかったですし、将来何をやりたいとかもあんまり真面目に考えてない、本当に普通の女子校で。
女子校生、女子大生でしたと私は思っているんですが、周りはちょっとどう思ってるかわかんないですけど。
はい。
そうなんですね。
はい。
普通とはっていうところがすごく気になるところではありつつ、仮にザ普通の女子大生だったとして、新卒初手でサイバーエージェント選ぶのか問題で、僕の中では猛烈に疑問があるんですけれども、これはどんな理由だったのかとか、そもそも入れるのかみたいなところも含めて、当時どんな感じだったのかって教えていただけますか。
まず、大学に進学をしたときに、一つすごく違和感を持ったのが、私女子大だったので、いわゆるインカレサークルみたいなのがすごくたくさんあって、例えば早稲田とか東大とうちの大学とのインカレサークル、あれ未だにあるらしいんですけど、なんかすっごい変な仕組みだなと思って。
なんかその、変じゃないですか。
変ですよね。
ちょっとほんまここで言うと怒られるかもしれないですけど、すっごいあれ本当にあれやめたほうがいいっていう。
別に普通に大学の方とかにも直接言ってるんですけど、本当におかしな仕組みだなと思って。
で、さらにそこの例えばサークルの歓迎会とかに行くと、年齢差別みたいなのすごいされて、1乗、2乗、3乗みたいな。
で、なんか3年生とか4年生の女子はお釈迦しなきゃいけないみたいな。
なんかもう気持ち悪いみたいなと思って。
で、なんかすごくおかしいなと思ったんですよ、あの時点で。
で、私は大学のサークルに入らなかったんですね。
で、つまり別になんか女子大生ってそんなね、同年代の男性に年齢で分類されるような環境の中でね、なんじゃないしと思ってっていうことと、
当時すごいもう20年ぐらい前の話なんで半分笑って聞いてほしいんですけど、
女子大生で合コミに連れてってもらうと、すごい社会人の方とかと、なんかいろんな社会人の方とかとお話しする機会がたくさんあって、
こういう風に交流していった方が、なんかすごいこうなんていうの、世界が広がるっていうか、
すごいサークルの中にいるとちょっと年齢上の人ですねみたいな扱いされるけど、
なんかその、なんかちゃんと女子大生として社会人とこういろいろ交流をしていくと、いろんな社会のことが知れて、
あ、なんか私まだまだ可能性あるじゃんみたいに思い始めて、
なんかそれですごい社会のことを知ったっていうか、女子大生的な社会勉強みたいなことを、
20年前の話なんで申し訳ないんですけど、あのっていう感じでやってましたと、
で、なんかそんな中ですごい当時SNSがちょうどミクシーとかが出てきて、めちゃめちゃミクシーにはまっていて、
その中で社会交流する方法として、そういう就活グループ、就活コミュニティーみたいな人たちに会って、
その人たちもものすごいかっこよかった。そのIT業界の人とか、あとそのIT業界に就職したい学生の人とかと初めてネットでつながって、
大学の中の女子大生の友達しかいなかったから、あ、こんな世界があってみんなこんな新しいことしてるんだっていう、
私は私なりの生存戦略で、いろんな社会のつながりを女子大生の時はつながっていった結果、
私がすごいかっこいいなって思う学生の先輩とか、あとそのなんかこうちょっとお話しする方とかで、
やっぱサイバーエージェントに関わった人たちがものすごく素敵だったとか、なんか、
あ、世の中にこんなにかっこいい人たちがいるんだ。それはなんかその、生きる姿勢とか働く姿勢とか、
私がそれまで思っていた社会人の意味と全然違う方たちで、めちゃめちゃサイバーエージェントという会社を受けてみたいと思って、
もう説明会に行ったら、当時結構大企業の就活とか行くと、まだその時代って男女の採用比率が、
7さんですとか8人ですみたいな、今わかるんですかね?当たり前だったんですよ、あの頃。
で、それもすっごい変だなと思って、そうしたらサイバーエージェントだけは男女の採用比率半々ですって言ってたんですよ。
でもこの会社素晴らしいと思って、で、なんか当時藤田さんも直接毎回説明会出てこられていて、
すごいキラキラして見えて、もう絶対この会社入りたいと思って、藤田さんのこと調べたり、
もうほんと最後は藤田さんの写真を部屋に貼って、藤田さんの写真に向かって模擬面接をするぐらい頑張って入りましたっていうくらい、
もうほんと一社ここだけ入りたいと思って。
そこへでも勝ち取ったわけですね。
そう、そうなんです。
そして1年目はある意味プロデューサーの前段の修行というか研修みたいな期間があったんですかね。
で、2年目でアメーバピグの立ち上げからプロデューサーで携わられたっていうことですか。
そうですね。おそらく藤田さんの起業家っていう本に書かれてるんですけれども、
やっぱ体制を刷新というか一新されて、若手の目線も入れながらメディア事業を新たに伸ばしていくっていう中で、
最初は藤田さんに毎週ミーティングがあって、そこでそのメディア事業を伸ばす案を毎週10案持ってきてみたいなところから仕事が始まって、
もうほんと右も左も分からず、今考えるともうありえないような案を一生懸命持っていった中で、
ちょっとずつ決済が出たものを実装に持っていくみたいなところから始まっていった中で、
2年目の時かな、新規事業をやるっていう中で、そこでちょっと山崎が担当でどうかっていうのをご案内いただいて、
その時右も左も分からずだったんですけど、やらせていただいたっていうのが始まりでした。
当時のチームの体制でいくと何人ぐらいで立ち上げられたような感じだったんですか?
もう私以外ほとんどエンジニアとデザイナー、芸術者の方で12人ぐらい。
なので本当にもう私は藤田さんと現場をつないで何とか調整を分からないながらやるだけで、
ほとんどもやっぱりもう天才的なエンジニアの方たちがいて、
彼らにいいものを作ってもらうっていうことをどうやったらいいかっていうのを、
なんかちょっと新人なりに葛藤しながらやってたっていうのが立ち上げプロジェクトの時の記憶ですね。
何人もプロデューサーがいて、その中の一人ではなく本当にメインのプロデューサーであり、
藤田さんの思想を直に受けながらパイプされてらっしゃったんですね。
藤田さんのそんなに間近で働ける方ってまあいないんじゃないかなって思うんですけど、
その経験っていうのは今にたって思い返ってみるとどうだったとか、
実際藤田さんこういう方だったみたいな山崎さんから見えた人物像とかあったら少しいただいてもいいですか?
今思うと本当に贅沢だったなと思っていて、
本当にアメバビグその後ありがたいことにすごくたくさんの方に使っていただいて、
アメバの中でも中力事業になっていったので、
その後20近くの新規事業にはもう携わったんじゃないかみたいな話も山崎さんのところで記載をされておりまして、
一方でそれだけ貴重な経験とかもされつつも、そうじゃないハードシングスと言いますか、
辛い時期もかなり長かったって話があったり、
ナイシはいくつかのメディアで拝見したのが、
78年当時30歳で栽培者に退職されるタイミング、
実は体調不良と言いますか、いわゆるメンタルダウン的なところも少しあって、
3ヶ月間ぐらい家から出られなかったタイミングとかもあったってところもあったんですけど、
そのあたりって実際どんな感じだったのか、今思い返すとどんな感じでしたか。
そうですね、もうありがたいことに栽培者と仕事すごく楽しくて、
チャンスも本当にたくさんいただきましたし、
エヴァビッグ伸びた後も、むしろ新規事業をやらせていただけるような、
当時スマートフォンが伸びてきたタイミングだったので、
スマートフォンの新規事業をやる部署に変わって、
その後、本当ずっと新規事業をゴリゴリ作るみたいなことをやっていて、
その中のいくつか当たったりとか、
そして、とはいえほとんど20って言ってるんですけど、
私が多分在籍中に関わらせてもらった事業で、
当たったのって3つぐらいしかなくて、
ほとんどもう全部失敗で閉じてるんですよ。
すごい投資してもらったし、何度も打席に立たせてもらったっていうのが、
本当に贅沢だったなって思うんですけれども、
その中で私すごいやっぱり、もっと仕事したいと思ってましたし、
会社にも貢献したかったから、出世もしたかったしっていう中で、
どうも自分の限界を当時はやっぱり自分の不存さもあって、
見失っているところがあって、
いただくチャンスに応えたいと思いつつ、
本当に体調不良で、
ちょっとある日突然会社に行けなくなるみたいな感じのことがあって、
本当に当時はもう栽培人と骨を埋める気で働いていたので、
会社員一社しか知らなかったので、
本当に人生終わりました。はいって感じで思って、
本当に皆さん申し訳ない、いまだに申し訳ないと思ってますが、
とはいえ本当に走ってたので、7年間。
ふと家にずっといてみると、
もちろん自分の中ですごい犠牲にしてたものにもたくさん気づいて、
それこそ体をいたわるなんて全くやってこなかった20代で、
その中で3ヶ月くらい引きこもりみたいなことをやっている中で、
ちょっとだんだん色々回復してきて、
もうやることないけど本読んでみるかとか、
時間なかったけどできなかったから見たかった映画でも見てみるかみたいな感じで、
3ヶ月くらいで100本くらいコンテンツに新しく触れたんですけど、
そうしたらすごい人生終わったって思ってたんですけど、
なんかこう世界って広いなっていうか単純なんですけど、
いろんな世界があるうち、いろんな生き方がある会社員として、
IT業界でガーッと上っていく以外の人生の選択肢が色々あるんだなっていうことに一つ気づいたっていうことと、
もう一つは今の日本の社会構造の中で、
少子高齢化で女性が育てる、働くっていう大きい社会的役割を30歳前後で一気に抱えさせられている社会構造は、
ちょっとおかしいんだっていうことに知識を入れてちょっと気づいたんですよ。
だから私だけのせいじゃないところもあるということに気づけたことで、
いつかこの私みたいに働きたい人もたくさんいるし、これからは女性が働き続けなきゃいけない社会構造になっていく中で、
何かここに対してできたらなっていう思いが1個芽生えたっていうのもそのタイミングでありました。