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はい、ソレイトツアージオ今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回はですね、なんでナーガール・ジュナーがクーの話をしなきゃいけなかったのかというところをですね、
当時のアビダルマ哲学だったりとか、というところを話をしてもらいました。
はい、よろしくお願いします。
じゃあ早速ですね、ナーガール・ジュナーの、まさにここからが本番の話なんですけど、
ちょっとこのそもそもみたいなところから入っちゃうんだけど、
仏教ではね、もともとその執着、要は何かに心をとらわれるとか、
何かをすごく大事に思ってしまうという、それ自体が苦しみの原因だという風に考えますと、
例えば、人をね、誰かを愛せるっていうのは大事なことなんだけど、
誰かを愛してしまうと、その人がいなくなってしまうとか、死んでしまうとなると、
すごく悲しいし苦しいし辛いっていうのがあるので、
だからそのそもそも愛せるっていうことから離れると、苦しみがなくなるみたいなことを言ったりするのね。
ああ、そうなのか。苦しみから離れる、逃れるみたいなことが基本的な姿勢としてあるけれども、
その苦しみの定義、もしくはその苦しみを生み出すものは執着だと。
うん、そうそうそう。
うーん、なるほどね。今の言うとあれか、愛がダメとかじゃなくて、
その愛っていうものが執着だとダメだよみたいな話だね。
ああ、そうだね。そうそうそう。
人を愛しちゃダメだっていうことはなくて、それが執着レベルに達した、
その愛っていうもののグラデーションがいろいろあった時に、
それがその、そこにのめり込む、執着みたいな。
うん。
そこになると苦しみが発生するので、みたいな。
ごめん、同じこと言ってるな。
(笑)
でもでも、本当にその通りで、だからこそその執着っていうのをどう乗り越えるかっていうのが大事なんだけれども、
その一番基本的なものとして、自我。
なので、私自身、自分自身への執着っていうことを言うのね。
要は、人って基本的には自分が大事だし、そもそも自分っていうものを基点にしようなかを考えるじゃない、普通に生きてたら。
そうだね。
でも実はそれっていうのは、自分を大事にしている、自分に執着している。
要は、他の人よりも自分が大事であるって言った瞬間に、自分っていうものにとらわれてるよね、みたいなことを言ったりするのね。
うーん、まあ確かにね、難しいね、それ。
(笑)
認識するのは。
伝わるかな、伝わるというか、ちょっとは理解できないかもしれないんだけれども、
やっぱりこう、自分が大事ってなると、例えば他の人が苦しんでても、自分さえ良ければOKみたいなことになったりするし。
そうだね。あとは、情けは人のためならずっていう的な話だよね。
どんだけ人のためとは言っても、結局はそれをフィードバックとして返ってくる自分への評価だったりとか、自分の利益みたいなもの。
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そこはどうしてもこの手にあるのは否定できないでしょ、みたいな意味での自我の執着っていうのは、まあ確かに。
そうそうそう。
そこを本当にないですって言っているのは、それこそ成熟者な感じがするよね。
そうだね。これも多分当たり前に言ってたらあることなので、だからこそそれを乗り越えるための手法だったりとか、仏教って教えが必要だよねっていう風になるんだけれども。
うんうん。
で、ナガルジアっていうのは、徹底的に自我意識っていうものから離れようとしますと。
要は、それまでのアビダルマ、テツアカの人たちは、当然自分が悟るんだとか、アラカンっていう存在になっていって、自分がその涅槃に行くんだっていうことを言うんだけれども、
いや、そもそも自我の執着を離れると徹底すると、下達する、悟りを得るっていう自分主体すら存在しないよね、みたいなことを言い出すのね。
うん、なんとなくわかる気がする。
で、ちょっとこれは言葉は難しいと思いつつ、一回、ナガルジアが言ってることを引っ張ってきたんだけれども、行為、行うことと煩悩、だから欲望とかだよね、これをなくすことによって下達があると。
で、行為と煩悩っていうのは、シーナで思うこととか考えることから生じますと。考えるっていうのは、言葉の働きによるんだけれども、その言葉の働きっていうのは虚構、偽りのものであると。
で、言葉の偽り性っていうのは、苦の働きによってなくなる、みたいなことを言いますと。
はー、難しい。
で、ちょっと説明していくと、要は、これがちょっとロジカルだから論理的かなと思うんだけど、要は下達のためには行動と欲望っていうのをなくさなきゃいけなくて、それっていうのは考えるっていうことから生じて、考えるっていうのは言葉から生じるから、言葉の働きっていうものを正確に捉えましょうね、ってこういうようなことを論じている言葉なんだけれども。
ここでナーガール・ジュナが明確に言うのは、人間の考えていること、思考とかっていうのは、実在とは無関係であって、かつ虚構に過ぎない言葉に基づいているっていうことを言うのね。
なんとなく伝わるかな、その。
これはでもさ、この話の中で言葉って大事だよねとか、概念って分かれるの難しいよねみたいな話っていうのは結構兄貴と僕の中でもしてきたと思うんだけど、まさにナーガール・ジュナは言葉っていうのは、実体がないものとか、中身がないものですっていうね。
それこそあれか、今日の話の流れで言うと、言葉が自がそのものなんだよと。言葉っていうものはとても主体的なもので、人とコミュニケーションをするっていう意味では言葉って同じように認識をして、お互い意思疎通が取れているような気もするんだけれども、
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それに基づいて自分が考えて自分が行動したり思ったりするっていうことは、とてもナチュラルなことだと、どうしても認識、無意識的な感覚として持っているはず。
ただ、あらゆる物事を考えたり、それを基に行為するっていう言葉っていうものについて改めて考えると、その言葉っていうのはそもそもちゃんと自分の、自がそのものではない、本当に普遍的なものだったりとか、そういうものと言い切れるんですかね、あなたはみたいな感じかな。
そう、でもね、いい線いってる気がする。
誰だよ。
どこの構想だよ、って。
一生懸命考えてみたんだけど。
でも、それはすごいありがたい、それをちゃんと考えようとしてくれるのは。どういうことかというと、その言葉と主体っていうのは今ちょっとサバ兄貴は近づけて考えてたんだけれども、もうちょっと言うと、言葉っていうものが本質的なものを表しているっていう、そもそもその捉え方が間違っているよっていうことを言っていて、
最近の言語学の例で言うと、例えば僕らが犬っていうのを表すときに、アメリカというか英語の国の人はドックって言いますと。
だから、犬っていうものとドックっていうものには明確に音としての違いがあるし、普通に考えたらとはいえ両方同じ犬というその存在を表してるでしょって思うんだけど、別に犬っていうものと、僕らが犬と呼んでいる存在との間には当然関係はないですと。
だからその言葉っていうのは別に物事の本質とか、実体を示すものではないですよっていうようなことが理解としては近いと思う。
それがあくまで仮のものですよっていうことを常に意識してますかっていうことか。そこを無意識的につなげちゃってませんか、イコールにしてませんかみたいな感じ。
そうだねそうだね。イコールにしてませんかが近いかな。
それで思い出すのはイデアの回であったイスラムの話で、花が存在しているのではなくて、存在が花するのだ。これに近いのかなみたいなね。存在が犬するのだみたいな。存在がドックするのだ。
で、存在っていうものは同じなんだけど、人によっては犬してるし、人によってはドックしてる。この感覚をちゃんと持ってますかみたいな話。
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そうだねそうだね。それがかなり近いというか、その通りだと思う。
なぜそれを言うかというと、前回おっしゃった通り、説一切うぐの人たちはいろんなものを切り分けてカテゴライズして、これはある、これはあるっていうのを一個一個言います。
で、涅槃っていうのはカテゴライズした中で、あるんだけど使えたものじゃないから常なるものだ、普遍的なものだみたいなことを言ったりするんだけど、そもそもカテゴライズするっていうのは言葉の力じゃないですか。
言葉っていうのは犬と猫っていう言葉をつけることで、それを動物っていうカテゴリーから分けていくみたいなことをするんだけれども、そういう区別したりとか判断したりするっていうこと自体がそもそも間違っているんですっていう批判なのね。
(岡田)そっか、それで言うとそうだね。このアミダルマ鉄矢子の人たちがさっき言うと「コップ」って名付けたもの、それは存在があったとして、究極的な「コップ」って名付けたっていうのはそっちの都合で、存在は存在としか存在してなくて、
「ネハン」はどうなのって言ったときに、ネハンもコップも存在、ただそこにある、もしくは実体としてあるか実体としてないかはともかくとして、ただただそこにある存在っていう意味では同じじゃんみたいな。
(岡田)「何そこ勝手に分けちゃってんの、君たち」っていうような感じがする。勝手に名付けて勝手に分けちゃってんの?みたいな。都合よく解釈しちゃってんの?みたいな。同じじゃんみたいな。てか同じかどうかも分かんないじゃんみたいな。
(深井)そうだね。まさに同じである、みたいなことを、分かれてはいないけれども同じでもないっていうことを言おうとしてくるっていうことを言うのね。つまりそれは両方なの。もうちょっと説明していこう。
(岡田)つまり今まさに言ってくれた通り、言葉っていうのは世界を切り刻んでしまいますと。区別してね。ただその言葉っていうのは離れて、実在そのものとか、何かいったら言ったら存在そのものに出会ったときに、まさに空の世界、つまりものとか存在っていうのが本体、要は理想のものとか、まさにイデアみたいなものでもね。
(深井)それがない世界っていうのに出会いますと。例えばこれもちょっと例として、少し分かりやすくなればと思ってるんだけど、例えば「明日は雨でしょうかね?」みたいなことを僕が言ったとしますと。
もちろん日常的なコミュニケーションとして「明日は雨ですかね?」って言ったときに、兄貴が「いやいや明日は晴れですよ」っていうのは、もちろん成立するし、言葉の大事な道具としての価値なので、それはもちろんOKですと。
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(深井)そう認めるんだけれども、例えば明日っていうのは、今日と比べての明日でしかなくて、明日っていう存在そのものがあるわけではないし、雨っていうものも気候のいろんな変化の中で、一つの状態として水蒸気が水になって落ちてくるっていう状態を雨って言っているだけであって、
雨そのものとか雨本質みたいなものがここに含まれているわけじゃないです。なので、だからこの「明日は雨でしょうか?」っていう言葉の中に「明日」っていうものがあるとか、雨っていうものが実在するって思うのが間違ってますよね。
ただ、それを言葉として使わないとあまりにも不便なので、このコミュニケーションの道具としてはいいんだよと。ただそれがあくまでも関係性の話であって、雨っていう実態を表しているわけじゃないことに気づきましょうね、みたいなことを言うのね。
実際こういう話をナワガール・ジナが例え話みたいな感じで色々こういう話をしていると。 どうなんだろう、これがちょっと読んだ本の例かもしれない。あんまりナワガール・ジナ自体が言っている感じじゃないかも。
その解釈としてこういう例があるよねっていう。すごく分かりやすいし、そこはコミュニケーションに使う言葉と、あとそういう仏教だったりとかクールっていうものを理解するための言葉みたいなものをちゃんとこうやって定義してくれるのはありがたいね。
すごい言葉のイデアみたいなものをちゃんと想定しないスタンスっていうものが徹底されている感じがするね、この例から言うと。
うんうん。そこが伝わるとめちゃくちゃ嬉しいんだけど。僕その次に話すことが本当にすげえマジヤベェナワガール・ジナって思ったことなんだけど、じゃあなんで我々人間は言葉の背後に本体とか実在みたいなものをあるって思っちゃうのかと。
普通に人たちはやっぱり思うじゃん。リンゴには本来的なリンゴっていうものがある気がするしとかって、なんかね、分かると思うんだけど、それはなぜかっていうと、無常、つまり変化するっていうものを人間が理解しようと思うと、当然比較として変化しないものと比べないといけないですと。
つまりリンゴっていうものを理解するには、そのリンゴが例えば腐ったりとか、いろいろ食べられてなくなったりとかっていういろんなものを捉える中で、変わらない、常に永遠なものとしてのリンゴっていうものを想定する必要がありますと。
だから僕らは普通に考えると、概念的な言葉の本体っていうものがあって、それが日常の世界にはいろいろ移り変わりながら存在しているっていうマインドセットになっちゃうっていうね。
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うわー、なるほど。面白いね、それは。っていうのは、大丈夫?ここ挟んで。
いいよ、いいよ。 たぶんこれはプラトンとかアビダル、哲学、あんまりそういう人たちの例に出してもらうけど、イデアだったりとか、物事と言葉を結びつけるみたいなことがしたときに、
そういう人たちはある意味その普遍的なもの、絶対的なものを定義しているつもりなんだけれども、人間が存在しているものを仮に言葉として定義する以上を、どんだけその正確に定義したとして、
もしくはその普遍的なもの、もしくは変化しないものっていうものがあるみたいなものを無理やり認識しようとしたとしても、どう頑張っても相対的なものにしかならないよっていうことを証明してしまった。
そう、言ってしまったっていう。すごいでしょ? すごい。で、それを人々はそれについて多くの場合無自覚であるっていうことを主張しているんだね。
すげーな。 すごいでしょ?まさに。でも兄貴の理解力すごいよね。それ分かるのに僕はすごい時間かかったんだけど。
だから言ってくれた通りで、やっぱり人って真理とか根本とかを考えようとして、そこに何か普遍的なものとか絶対真実なものがあるっていうふうに思い浮かばってしまうんだけれども、
そもそもそういうメンタリティー自体が間違ってますよっていうところから言うのね。
うんうん。まずはあなたはそこを自覚しなさいよっていうところをここまで説明してくれてるんだ。
そうそうそう。だからこそ区別、いろんなものをカテゴライズしていったアビダルヤマ哲学からするとすごい怖い批判だよね。
怖いね。確かにその象牙の塔が、ちょっとねアビダルヤマ哲学の人たちには悪いけれども、その象牙の塔を一発で破壊されちゃうねそれは。
いや、そうそうそうそう。もちろんね、その人たちもいろんな批判とか反論とかもするんだけれども、やっぱりこれは強力な意見だなと思っていて、
もうちょっと例があるんだけれども、例えば火ってあるじゃない、燃えている火があったとして、火っていうのは常に変化しているし、そもそも火っていうのは、火そのものは存在しませんと。
あれって結局酸素と物質が結合というか反応するときに、要は燃えているように見えているっていうだけだから、物としては存在しないよね。
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でもないにも関わらず火があると思っちゃいます。つまり火っていう起きている事象とか変化っていうのを理解しようと思うと、その火っていう火そのものみたいなとか、火とはこれであるっていうことを設定しなきゃいけない。
つまり本来は変化し続けるとか存在しないものに存在っていうのを与えてしまう。
火のように見せてしまうと。
火のように理解してしまう。概念を与えてしまうっていうのが、人間の考える力っていうのが根本的なエラーですと。
人間の、人間ハックみたいな話だね。それやば。
そう、思考ハックなんだよね、完全に。だからその根本までいってやっていくから、何でも言えるよね。
例えば、いろんな話があって、例えば「うさぎの角は鋭くないし鋭くなくもない」とか「亀の毛は柔らかくもないし固くもない」みたいなことを言うんだけど、要はどっちも実在しないじゃん。
うさぎには角はないし、亀には毛はないんだけど、でもそのぐらい言葉っていうのはそうなんだと。亀っていう言葉も実在しないし、毛っていう言葉も実在しないから、あらゆる言葉と概念っていうのは何とでも言えますと。
実体がないですと。なので、それ自体を指して「クー」と名付けるんだけれども、
クーっていうのは、例えば日本語で言うと空みたいなものがあるから、言葉としてあるから、なんとなく空っぽなのかなとか、それこそ兄貴が言ってくれたみたいにゼロで存在しないみたいなことなのかなって思われがちなんだけど、
実はそうじゃなくて、存在、言葉で表せるものとか、存在している物、物質には本体がない。概念的に設定できる本質みたいなものはないっていうことをクーって言ってるのね。
だから別に現実を否定してるわけじゃないし、あらゆるものは無価値だ、無意味だみたいな虚無主義でもないです。むしろそこに積極的な価値を見出していて、
クー、この世はクーだからこそ迷いもないし悟りもないし、そのままあなたが迷えるものである、あなたが仏であるみたいなことがそこから展開できるっていう。
確かに今言ってくれた通りね、クーって何もないとか、穴が開いてる、もしくは虚無主義みたいなものだと、確かにその上にこんな強力な大乗仏教っていう体系を築いていくことは不可能だと確かに思うんだよね。
だから面白いね、名付けも面白い。これもね、クーっていうのもそういう存在、概念に対して無理やり名前を付けたっていう意味ではね、面白いから。
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多分クーっていうイメージ縛られずに存在そのものをどう認識してやろうっていうスタンスが大事なんだろうなって今回の話を聞いて思ったんだけれども、そうするとやっぱりこのクーに引きずられていたイメージ、なんかブラックホールみたいなとか、なんか真っ暗なゼロみたいなイメージから、
めちゃくちゃ広大ですごく広くな大地みたいな、そういうすごく力強さみたいなものをすごい感じたね。
それを感じてもらえるのは本当にありがたくて、クーっていう思想の力強さとかナーガールジナっていうところから大乗仏教がこれだけ広がっていったっていう、そこにもやっぱり本当にまさに繋がる、それぐらいの思想的な豊かさがあるんだと思うんだけど、
だからその前回もちょっと言った般若教から生まれた般若神教っていう、一番目近くそういう仏教の本質をついてますよみたいなものがあった時にも、
やっぱりその式即是空って言葉は多分みんなもちろん知ってると思うんだけど、実はその次にすぐ空即是式っていう言葉を繰り返してるよね。
これはセットであって、式だから物質とかこの世に存在するものっていうのはすなわち空であるっていうのはもちろんその通りなんだけれども、
逆に空即是式だからその空性、空っていうものが実は現実なんだっていう、どっちかに偏るんじゃなくて、それっていうのは分け隔てないもの。
それ自体が現実であり空でありっていう、区別がないものなんだよっていうことが本来言うべきことなのね。
うーん、確かにその前半だけ、式即是空か、だけだと虚無主義になりがちというか、なりかねないね、尊人式言葉。
で止まっちゃうと、まさにそうなんだけど、そうじゃないっていう。
空即是式その存在を見る人によって多分いろいろ違うだろうし、もしかしたら同じかもしれないし、同じだと誤認してるかもしれないし、実際多分誤認だし、
みたいなところをちゃんとプラットに認識しましょう、みたいな概念から。
まあ確かにな、これは難しいね、難しいというか、もちろんこれで自分が空について理解したとはもちろん言い難いとは思うんだけれども、
でもなんかちょっとこう開いてた気がするね、この空というものに対して。
もちろんね、僕もその僕なりに調べたこととか学んだ中でのことで喋っているから、違う部分とか、本当はそうじゃないよっていう部分もあるかもしれないけれども、
一定そのちゃんと読んだ本とかの中のエッセンスをまとめると、間違ったことはある程度言ってないかなっていうところまではお伝えできる気がしてます。
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なるほど、どうですか?話してみて、なんかこう伝わった?なんか手応えある?
そうだね、やはりけんに大した手応えがあって嬉しいなっていうところを思っていて、
さっき途中で言ってくれた通り、要はイデアみたいに本体というか、概念的な理想のものを設定するっていう話って、
やっぱりその後のいわゆるキリスト教的な一神教の世界とも結構ひも付いてくるんだよね。
つまり人間を超えた神なる世界があるとか、絶対的な存在があるっていうのって、
なんとなく僕らの考えの中にも根付いている部分もあると思うんだけど、
実際その後の西洋哲学に対しても、やっぱりそういう本体とは何かとか、言葉でどうやって真実を表していくかみたいなことが結構繰り返されたりするんだけれども、
このナーガルジナは、まさに2000年前、起源後200年くらいの時点でも、すでにそこには本体はないし、
言葉っていうのは真実の世界を言い表せないから、そうじゃない世界っていうのを求めていく道っていうのを探らないとならないよねっていうことを言ってます。
だからやっぱり、西洋哲学、トロイ哲学みたいな、あんまり仏教だけで比べることはできないけれども、
そういう言葉をこういったものにどう向き合うかとか、その存在っていうものをどう生かすかみたいなスキルに関しては、やっぱり仏教はすごい強いし、先を行ってるなっていうのをすごい感じる。
なるほど、先というか、そうだね。イデアにしてもクーにしても、もしかするとやりたかったことは同じかもしれなくて、
それの方法論の違いみたいなところがあったりとか、ちょっとした着地点の違い。もしかするとクーの方が1個レイヤー上がっちゃってる感じはあるかもしれないんだけれども、聞いた感じね。
そうだね、出発点の違いが着地点っていうよりは、イデアとかプラトンはやっぱり本体というか、大元にある世界の根源とは何かっていうのを明らかにしようとする。
あるはある、ないはないみたいな実在論と万物をある点するっていう、すべてを変化するっていうのを乗り越えて、
世の中っていうものは、あるものとそれが現れるものっていうところから説明しようとするっていうところのモチベーションから進んでるんだけど、
ナオガルジナはそもそもいろんなものを区別して、すべてはあるって言った人を乗り越えようと思うところから出発してるから、
やっぱり区別っていうのはいかになくすかっていうことにモチベーションがあるんだよね。
そういう意味では、先を行くっていうのはそうだね、どっちが良い悪いっていう話をするつもりは全くないんだけれども、
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そこは延長線上にある気がしたね、同じところに向かったみたいな話をしたんだけれども、
クーの話もアウィダルマ哲学、どっちかというとイデアとか現象界に近い話に対する暗示提示じゃないけれども、そこを乗り越える形として出てきてるっていう意味では、
確かに同時に要を挑むのではなくて、そういったイデアが万物をある点するとか、そういったものをさらに統合、もしくは進化させるみたいなものがあったとして、
さらにそのイデア現象界ってものの乗り越えるみたいなところへのクーという概念というところでいくと確かに。
そうだね、確かに一歩進んでるって仏教の方が優れてるよう的に聞こえたかもしれないけれども、
言葉を超えたものに向き合うっていう領域においては、仏教の方が時間が長く積み上げられているっていうことを言いたくて、
だからそのスキル、だからこそ禅みたいな言葉を超えたとか、いわゆる神体制も伴うような思想とか哲学、宗教っていうのが生まれるし、
逆に西洋哲学っていうものが言葉っていうものをいかに積み上げていって人間の限界に近づくかみたいなものを、
本当に数百年ゴリゴリやってきたから、言葉っていうものを使うとか磨き込むっていうところに関しては当然すごいものが積み上げられてるし。
確かにその唯一の答えを見つけに行くっていう熱量と、あとは根本の問いってなんだろう、そもそもなんだろうみたいなのを、
答えじゃないものを求めに行くっていうスタンスみたいなものは、この違いってものが存在するんだみたいなところが面白いと思ったから、
ここでこういうようなことについて語ることはできないんだけれども、この感覚を持っていろんなものに接していくっていうのはすごい面白そうだし、いいなと思った。
ありがとうございます。なんで今日そんな感じでクーの話っていうのをばーっと喋らせていただいて、
もし分かりにくかったところもあるかもしれないので、よかったら繰り返し、この回は僕はぜひ繰り返し聞いていただいて、
でもクーのことを掴んでほしいなと思ってるぐらいなんですけど、次回の感想会とかも少し長めにやりつつ、
クーの話だけじゃなくて、今みたいな他の人の思想と比べてとか、まさに兄貴が言ってくれた通りで、
同じ一直線上というか土台の上でこういう考え方をすると空的な考え方になるし、こういう考え方をするとイデア的なというか、
本体がある実体があるみたいな考え方になるし、っていうこともすごく僕の中で面白いなと思うから、
ちょっとそんな話を少し挟んでから、次もう一回西洋哲学に戻るのかとか、もうちょっと東洋哲学をやるのかとか、
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そのあたりも話せたらいいんじゃないかなって思ってました。
そうだね、だいぶ古代西洋と東洋の入り口みたいなところを話してもらったんで、
ここからどう行くんだろうというのは個人的にも楽しみだね。
ここからは自由に行ってもいいかなと思っていて、そのあたりはまた次、感想会でお話ししていけたらと思っております。
了解です。全くわからないところからいろいろ教えてもらって、
さっきも繰り返してるけど、これで理解したとかじゃなくて、この感覚を大事にして生活していきたいなっていう感じがすごい面白かった。
やっていくとね、本当に誇張じゃなく人が変わるというか、考え方がまじで変わるので、いいアレですよ、アンラーニングになりますよ。
確かに自分の造形の塔を崩せ、みたいな本が書いてあるね。
はい、そんな感じでね、ぜひ聞いてる皆さんも伝わったよとか、ちょっとわからなかったとかね、
そういうのもまたあったら、ぜひメッセージいただけると、じゃあちょっともうちょっと細くしようとか、そういうのもできると思うので、ぜひぜひご意見いただけたら嬉しいです。
はい、お問い合わせは概要欄のお問い合わせフォームがありますので、ぜひぜひそちらの方からよろしくお願いします。
はい、お願いします。
はい、じゃあそんな感じで、ランガール巡台の回も一旦ここで終わりというところで、また次回ね、感想会ちょっと含めながら今後も楽しくやっていきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。
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