1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #159 読み方で全然違う!空海..
2023-11-05 43:59

#159 読み方で全然違う!空海密教のキーワード「即身成仏」に込められた意味

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

空海は、密教の中でも核心となるコンセプトである即身成仏について、三つの課題を乗り越えた話をお伝えします。即身成仏は、修行を通じて自己を乗り越え、仏になる過程を早めることを意味しています。この古代仏教のキーワード「即身成仏」には、人間が本来仏であるという意味が込められています。また、仏になった後もこの世で生き続けるという考え方もあり、仏である状態を維持することの難しさが語られています。即身成仏に込められた意味は、自分が細けになることであり、それは仏になることにつながる話です。この話はまだ1つのテーマの話であり、残り2つの話は次回にお伝えする予定です。「即身成仏」は、細けになりつつも現世の人を救う方法や、仏として生き続ける方法についての話であり、これらの問題について深掘りしていきます。

00:06
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回は密教ができるまでの仏教の流れというところを見てきたというところで、今回はその密教の中身を見ていくみたいな感じですかね。
そうですね。空海の密教で何ぞやというのをやっと3回目からお伝えしていこうという感じなんですけど、
まず最初に話に入る前にですね、若干僕の喉を今やられてしまっておりまして、ちょっと聞いててそんな変じゃないかな声。
まあちょっとなんかローが強い気がする。ちょっと歪んでる気がするみたいな。
ちょっとしゃがれた声になってるかも。
聞き苦しいところがあれば申し訳ないんですけれども。
ローカットして聞いてくださいって。
そんな環境で聞いてる人いないでしょ。スピーカーとかイコライザーとか使ってんの。
面倒だよね。
面倒。
頑張って喋っていこうと思っておりますと。
今回は空海の話、あと3回ぐらいお話ししていこうと思ってるんですけど、
即身成仏とは
空海の密教ってあれというのは密教の中でも前回おっしゃった通り、そもそもインドから始まって、
中国だったり日本だったり、あとはチベットとかそっちの方に行ったり、いろんな密教があるので、
あくまでも空海の密教みたいな話で言ったときにですね、
すごい核心となるコンセプトがあるんだみたいな話がどんな本とか読んでも書かれていて、
それが促進成仏っていう言葉ですと、
促進成仏って聞いたことあるっていうか、聞いたことあるかもしれないですけど、
どこでって言われたらわかんないよね。
そうだね、私言葉としては聞いたことあるけれども、これが密教と繋がってはいないよね。
なんか仏教とは繋がってるけど。
そうだよね。
前回兄貴も禅師の仏教ちょっと詐欺じゃないみたいに言ってたと思うんですけど、
すぐに悟れると思ってたみたいな。
みんな仏になれるよって言ってるけど、でもそれは三行儀みたいな、
無限大かける三みたいな、どうやねんみたいな。
そういう力をかけないと悟れませんよみたいな。
そうそうね、だって南無阿弥陀仏って言えば悟れるとかってさ、
ふわーっとそういうイメージなんだけど、
せめて南無阿弥陀仏って言った瞬間、シュンって悟るとかないにしろ。
南無阿弥陀仏って言ってちゃんと信じて、人生を全うして死んだら極悪浄土に行けるぐらいの感覚でいたから、
嘘じゃんみたいな、無限大じゃんみたいなね。
いいですね、それは神蘭の浄土神宗ですね。
じゃあその認識は正しいんだ、うち浄土神宗だから。
そうですね、神奈川県浄土神宗だからそれはたぶん正しくて。
じゃあそこもいろいろあるというか、なるほど。
神蘭とかの方が当然時代は後だから、さらに空海とか西条とかを引き継いでやってるわけではない。
次回まさに神蘭やってもいいかな、神蘭というかそのあたりの鎌倉仏教というのかな。
法念とか神蘭とか一遍とかさ、歴史でやったと思うんですけど、
ああいう人たちはやってもいいかなとは思ったんですけど、
ちょっと空海の話に戻ると、
当然みんな仏になれるよ、でも無限の時間かかるけどねみたいな話って、
それでもほぼできないとイコールじゃんみたいな。
本当にね。
ごめんごめん、本当にムチすぎてさ、
さっき言ったような神蘭か浄土神宗みたいな概念はまだ大乗仏教にはないわけなんだね、この時代的に。
ないない。
それは新しいコンセプトなので、
その時代はそうではないんだよね。
そこが全然感覚なかったから。
そうだよね、確かに。
歴史が違うというか、遡っていくとそういう時代なんだけど、
そこに対して、そんな無限大な時間なんてかけなくても、
今すぐ、もっと早く仏になれるのが密教なんですよ、みたいなことを言っているんですよね。
これは空海だけがっていうよりは密教のコンセプト自体にそういう発想があります。
前回あった通り、当時のインドは他の宗教とも戦わなきゃいけないというか、
それだとより魅力的なニーズというか、
そういうのもあったってことだよね。
お互いね、運営側も信じるフォーマーみたいな。
そうね。
だから予想が別の戦略らしいからこっちも負けないようにやらなきゃみたいな、
本当にそういう感じだと思うんだよね。
ちょっと価格競争じゃない、今日ね。悟り競争みたいな。
悟り競争。
それをどうやってとかってなると、かなり修行の細かい話なんてマニアックになっちゃうので、
今回はそっちの話っていうよりは、どっちかっていうと、
即身成仏って何みたいな、早く悟れる、早く仏になれるよとは言うものの、
それって結局どういうことなのみたいな話をですね、
ちょっとお伝えしていきたいなと思ってるんですよね。
よくよく考えると、気になればなるほど、
自分が仏になるって何?って思うじゃないですか。
まあ確かにそうだね。
仏になるまでの課題
何をもって仏になりましたって免許廃電になるのか。
そうそう。
誰がどうやって補償してくれるの?みたいな話があると思っていて、
実は空海はそこに対してかなり深く考えていて、
実際に即身成仏儀みたいな、即身成仏をテーマにした一つの本を書いてるぐらいなんですよ。
そんな大きなテーマなんだね。深いテーマ。
いろんな本で書いてるんだけど、
やっぱりそういう即身成仏ってそのぐらい中心になるようなものなんですけど、
もちろんその中でも修行の話を含めていろんな話をしているんだけれども、
僕はいろんな話を読んだりとか、空海のことを勝手に想像したときに、
やっぱり3つぐらい乗り越えなきゃいけなかった問題というか、
それまでの仏教の課題っていうのがあったんじゃないかなっていうふうに思ったんですよね。
なるほど。
確実的にこの3つが空海は乗り越えた話ですとかっていうわけじゃないんだけれども、
自分なりに整理した3ポイントを今回と次回ぐらいでお伝えしたいなというふうに思っております。
なるほど。本人ずばりこの3点ですって書いてたわけじゃなくて、
本読んだ漢字をまとめるとこんな感じかなっていうのを早くまとめてくれたやつってことね、今回は。
その通りです。
早速一つ目みたいな話をしていきたいんだけれども、
1個で大きいのは今言ってどうやって今この身このまま自分自身が補助になるかっていうことなんだよね。
これまでの仏教、大乗仏教とかでいうと、
基本的には修行を通じて自分自身の汚れとか無知、
今日は人間って正しいことを知らないとか、
釈迦の時にもそう思うんですけど、
いわゆる物はあるとか、自分がいるとかっていうそういう妄想にとらわれていて、
それを正しく認識しないからこの世に縛り付けられてるんだみたいな、
そういう発作がもともとの仏教にもあるわけですよね。
大乗仏教はその修行を通じてそういう無知を乗り越えて正しい認識になると、
おねはんに行ってそこで仏になれるんだみたいな、
むしろ仏になることがおねはんに行くっていうことなんだみたいな、
そういうストーリーで説明してるわけなんですよ。
ちなみに悟るっていうのとおねはんに行くってのはイコールではないのかな?
ほぼイコールと思ってもらって大丈夫。
ほぼイコール?
うん。
例えばブッダが五大寿の下で悟りましたという時には、
その時点ではまだおねはんにはいないのね。
まだ現世にいるというか。
肉体としての、存在としてのブッダ、お釈迦様は現世にいる。
いて、悟った、その後それを広めるな、いろいろ教えるなにして、
お腹痛くなって亡くなっちゃった。
そこで現世で死んだ瞬間というか、その後おねはんにはいったはずみたいなイメージなのかな?
多分そうかな。
お釈迦様の時代、基本的には悟るイコール、
ねはんに行く、ニルバーナに行くみたいな感じだから。
チケットではあるわけね、悟ることの入場券。
お釈迦様もいったいであろうっていう話になってるんじゃないかなと思う。
逆に言うとお釈迦様みたいなものすごい人だったら、
悟った上で現世にいるってことができたと思うんだけど、
でも普通に考えたら、現世で人間としての自分が仏になるなんてことはできない。
だからこそ無限大な時間がかかるよって言われてたわけだよね。
そもそも悟るっていう状態だったり、チケットをもらうという状態がまず困難だって話ね。
困難だ、そうそう。
この地球っていうところでは多分できなくて、
ねはんみたいな別世界だったらできるけどね、みたいな。
じゃあちょっと違う。チケットもらってからねはん行くんじゃなくて、
ねはん行ってから悟るみたいな。
そっかそっか。
前提の話をするとね、
今日の世界では仏様の世界から、人間の世界から、動物の世界からっていう風に、
仏教の世界観と即身成仏
6個くらいかな、多分世界があって。
でもそれを含めて、全部の大きな世界だみたいな発想があるんだよね。
そういう世界観があるから、ねはんにいたらこの現世にいないかってそんなこともなくて。
ねはんにいながらこの現世にいる、要は一つの世界の中で一つの存在を持つみたいなことも、
おそらく多分ね、あったと思うんだよ。
これちょっとこの辺曖昧なんですけど。
そうなんです。6個のうち1個に、例えばリーネ転生して、
次はねはんのとこに生まれ変わりましたとかじゃなくて、
ねはんのとこにいながらも、現世にも体として精神として同時に存在するみたいなことがあるみたいな世界観。
そうだね。仏の世界だと6個の世界全部を認識しつつ、
むしろそれって全部一つだから、6個って便宜的に分けてるけど。
ちょっとね、この辺多分踏み込んじゃうとかなりややこしくなっちゃうのであれなんですけど、
いわゆる9の世界じゃん、やっぱり仏教って。
そこはもう一緒なんだね、密教なんだけどね。
密教でも前提としてはあるから、やっぱり全部を分けちゃダメなんだよね。
僕ら人間の認識で言うと6個世界があって、
それぞれ仏の世界とか人間の世界とかって言ってるんだけど、
仏の視点から見たらそれはもう全部一つだから、
だからニルバーナに行くっていうのは人間的な表現で、
そもそも我々はそういう仏の世界に生きているはずなんだけど、
それを知らないだけなんだみたいな。
おー久々にこの仏教論理理論。
仏教理論だね。
なるほど。
便利的に人間フィルターへ通すと6個に見えるかもしれないし、
そう見ないと見えない、見えてこないものもあるから教えてあげるけどねという話だね。
説明するけどねっていう。
ただ一回それを悟ってしまうと、
その6個っていうものは実は無意味で分けているのも。
実はもう分けられるものでもないみたいな。
まあ言わんとすることは分かるけどね。
確かに悟るとはとか成仏とはって結構難しい問題ではあるんだけれども。
ネハンが人間から見た6つの世界のうち、
ネハンっていうところが一番悟りには近いというか、
そういう場所ではあるみたいな感じなんだね。
そうだね。
いわゆる仏たちがいる世界みたいな感じだから。
さっき言ったネハンに行ってから悟るみたいなのもありうるのかな?
どうなんだろうね?
一緒なんだよね。悟り即ネハンなんだよ。
それでちょっと分かった気がする。
さっきのブッダが母大自動車で悟った瞬間にネハンに行ったんですか?
もしくはその後死んだ時にネハンに行ったんですか?
っていう質問自体が悟った側だったり、
仏教の世界観からするとナンセンスであって、
意味がない質問であると。
悟った瞬間に、
即身成仏の意味
今の人間の何以下か知らないけど、
身体と精神はあるんだけれども、
悟った瞬間に意識なのか何なのかは、
ネハン側に行ったりとか、
6つが全部一体っていう、
身体的理解を得ることになるから、
何かはネハンに精神がある状態になるから、
みたいな話か。
そこで生まれ変わるときに行くとかっていう概念からすらも、
下達するわけなんだね。
そういうことです。
なんとなく東洋の感覚が戻ってきた気がする。
そうだよ、ちょっとずつ戻ってきたね。
なるほど、なるほど。
禅の時とかにもそういう話をしたと思うんですけど、
即なんだよみたいな。
時間が因果じゃないんだよみたいな話をしたと思うんですけど。
もしこの辺、
本当にこの二人何言ってんじゃいっていう人は、
ぜひブッダの回とか最初の方、
遡っていただけると、
この辺の感覚を、
本当にゼロから話してると思うんで。
確かに、はい。
兄貴も分からん分からんって言ってたのが、
多分最初の方だったと思うんですけど。
もうちょっとだけ補足すると、
いわゆる、やっぱり仏教って、
なんだろうな、
僕らが普段生きてるみたいに、
何かこう、
変わることが起きたから、
こういうことが起きたみたいな、
順々にいくことはもちろんあるんですけど、
どっちかっていうと、
あらゆるものが、
一挙に同時に起こるみたいな、
そういうこう、
すごく広い世界観というか、
普段だと馴染みがない世界観があったりするんですよね。
なので、
ちょっとこの促進成仏みたいな話に関しても、
仏になるとは言ってるものの、
なんか、
人間だと観のハヤトが、
仏という別の存在になる、
みたいな感じではないんですよ。
なので、
これがまさに、
空海の密教の説明であるんですけど、
今みたいに考えちゃうと、
どこまで行っても、
この穢れた存在の自分が、
とか、
煩悩を確かめない人間としての私が、
仏になるってどうなるの?
っていう問いから、
逃れられないんだよね。
うーん、
そう思っちゃうもんね。
だってね、
慣れてやったら。
そうそうそうそう。
何か使用しなきゃとか、
いろんなものを落として、
それこそ、
無とか空とかに行かなきゃみたいになっちゃうんだけど、
そうじゃないんだと。
空海は何て言うかっていうと、
そもそも、
成仏っていうのが、
仏になるっていう理解が間違いであって、
人間も含めて、
あらゆる存在っていうのは、
本来的にはっていうのは、
さっき言った通り、
仏の目とか、
仏の世界からすると、
あらゆるものが仏なんだと。
そもそも仏であって、
仏になるっていうような、
変化するものじゃないんだっていう話なんだよね。
これは大乗仏教でね、
一切衆生を失う仏性っていう言葉があって、
いわゆる、
みんな要は仏になる可能性を持ってるんだみたいな、
結構有名な言葉があるんですよ。
これ実は近いようで結構遠くて、
仏になる可能性を秘めてるんだっていう、
まさに変化の可能性を伝えるのと、
そもそももともと仏なんだっていう、
あなたも今もうすでに仏ですよっていう話って、
結構大きな違いだなっていうのが伝わるかな。
まあそうだね。
確か同じようなことを言っている。
ゴールはね、
みんな仏になれる、
なれるって言ってる人に、
すでに違うと思う。
今の話から分かったんだけど、
理解してるんだけど、
いわゆる、
みんな仏性が、
みんな仏性がある。
みんなたぶん、
仏センサーがあるから、
そういうものを感じながら、
仏への道が開かれていますよ。
仏になれる可能性は必ずあるんですよ、
っていうところと、
今ハイトが言った密教では、
もうすでに仏なんですよ、
っていうのは、
全然違うよね。
そこは理解できると思う。
なれる可能性があるだと、
じゃあ今は何なの?
ってなった時に、
今は仏ではないじゃん。
仏性、そこ分かるセンスはあるけど、
仏ではないよね。
そうそうそう、そういうこと。
例えば密教だと、
もう仏なんだよと。
で、ちょっとその次のね、
話し方変化は分からないけど、
たぶんそれに気づいてないだけだったりとか、
それがただなんか、
蓋されてるだけみたいな。
その後の話が変わってくるんだろうなとは思う。
前提が違うことで。
まさにまさにそういうことなんです。
大前提として、
もともと仏であるっていうことを置いたっていうのが、
やっぱりすごく大きくて。
だいぶでも、
頑張ったというか、
独自な理論を打ち立ててる感じはあるよね、やっぱり。
発想の転換なんですけど、
これはちょっと厳密に、
空海自身がそう言ったとかってよりは、
その解釈本も含めて、
空海の密教ってこういうものだよね、
みたいなものがいろいろあるんですよ。
そういう意味で言うと、
空海はこう言ったよね、
っていう高年の研究が積み重なった上での、
空海の密教みたいな話もあるんですけど。
もともと大仏教で言ってたかもしれないし、
みたいなとこも含めてのかな、この辺は。
そうそう、そうだね。
いろんなそういう経典とかの話も引っ張ってきて、
っていう話はあるんだけど、
その意味では、即心定物って言葉って、
いわゆる四字熟語じゃない?
つまり漢字を読みがなというか、
日本語を出し読んだときに、
いろんな読み方ができるわけなんだよね。
その書き下し方がいろいろあるよね、と。
そうそう、そうなんですね。
これをちょっと今日は3つ紹介してるんだけど、
仏であることの難しさ
まず1個目が、
すなわちの身。
即心というのは即断とか即決の即ね。
身は身体、身体の心なんだけど、
すなわちの身、なれる仏っていう風に読むと、
この身はすでに、なれる仏っていうのは、
すでに仏になっている存在だ、
仏である存在だっていう風に読めるよね、と。
あー、なるほど。
そっかそっか、なれるっていうのは可能の意味じゃなくてね、
もうなったっていう意味で。
そう、なれるみたいな状態が続いてるよって話?
うんうんうんうん。
だから、上仏イコロ仏になるじゃなくて、
なれる仏、なっている仏だっていう風な解釈ができるよね、と。
はいはいはいはい。
というのがこの1個目の元々、
1個目のというか、
どうやって僕らは原石仏になるかっていう話の中の前提の話ですと。
ただね、たださっき兄貴が言った通り、
僕らすでに仏だって言ったとしても、
当然さ、今僕らは人間のこの世界に生きていて、
別に仏だっていう感覚もなく生きてるわけじゃない。
そう、眠つ世界があるって言われても、
えー嘘ってなるよね。
そうそうそう、別に見えないし分かんないし、みたいな。
なので、別に元々仏かもしれないが、
今は仏ではないんだよね。
うーんと、まあということを少なくとも認識はしていないって話だよね。
じゃなくて、この話でいうと、
まだ仏であるっていうところを前提外した状態?
前提している状態。
だから僕も兄貴も聞いている皆さんも、
もともと仏なんですと。
仏なんだけど、それをまさに自覚していないし、
そもそも今は人間っていう仏ではない存在っぽくなっちゃってるよねと。
うーんとして自覚しているよねと。
自覚しているよねと。
なので、だからこそ修行とか、
まあちょっとこれ唐突なんだけど、神秘体験みたいな、
いわゆる仏のお告げが聞こえるとか、
自分が仏であることを確信するみたいな、
そういう体験っていうのは必要なんだと。
そういうことを通ることで、
人間の世界に生きる、
この人間の身でありながら、
仏としての在り方っていうのを取り戻せるんだよと。
そうするとこの意味では、
促進成仏っていうのは、
身に即して仏となるっていう、
この自分の体で仏になるんだ、
戻るんだっていう感じなんだよね。
これはおそらく一般的に理解される促進成仏、
私が仏になりますっていうような意味として読めるんだよね。
なるほどなるほど。
これだと仏になるって言っても、
その大前提だよね。
もともと仏であって大前提は崩れないんだけど。
身に即してっていう前提があるかなと。
ありのままの自分に戻るのだと。
もともと仏だった自分の仏性っていうのを取り戻すのだと。
だからそういう前提の、
そもそも仏だっていう理解があって初めて、
なんで人間としての自分がとか、
人間以外の動物とか草木とかも含めて、
なんで仏になれるのとか、
仏であるって言えるのっていうところの答えになれるんだよね。
そういう意味で前提をガラッと変えたっていうのがすごい発想ではあるんだけど、
ただやっぱり話はここでは終わらないんですよ。
仏であり続けること
なぜかっていうと、
大乗仏教だったら、仏になったら、
さっき言ったみたいに、
涅槃に行くというか、
涅槃にいる自分というものに自覚して、
それで話は終わりなわけだよね。
要はこの現世から離れてるわけだから。
大乗さん、
密教の考え方で言うと、
仏になった後のこの世界で生きなきゃいけないじゃないですか。
まあそうだね、仏でもあるからね。
人間でもあるし。
人間でもあるし仏でもあるみたいな状態で、
この世で生き続けなきゃいけませんと。
何が起こるかっていうと、
修行をしてる時とか、
神秘体験に浸ってて、
仏の声がずっと聞こえるとかっていう時は、
仏であるって思えるんだけど、
そうじゃなくて、
ふとした瞬間、ご飯を食べてる時でも、
朝起きとけばいいんだけど、
ふとした瞬間に、
本当に仏なんだっけって思う瞬間が、
起きちゃうよねっていう風に言うんだよね。
苦しい時とかね。
ってなっちゃうと、
結局一生懸命修行したりとかして、
仏のあり方に戻ったとしても、
結局それでまた人間に戻っちゃったら、
そういう無駄な努力を一生続けるんじゃないですか、
みたいな話になっちゃうんだよね。
なるほど。
成りきりとか悟りきりみたいなことが、
できるのかね。
そうそう。
一回悟ったら終わりじゃなくて、
仏であり続けるっていう問題が、
出てきちゃうんですよ。
なるほど。
少なくとも、
この肉体がある限りは、
どうしても一切開空的な挙動からは、
佐藤たちとしても逃れられない部分もあるから、
そういった時に、
巣に戻る部分、
巣というか人間が出てきちゃう部分がある。
自分が細けになるということ
それを佐藤について言うには、
結構この人間界では、
佐藤を維持する努力が、
カロリーが半端ないよみたいな。
死んだらそっちに行けるかもしれないけど。
これがやっぱり空海の密教で出てきた問題で、
大乗仏教とか、
取ったらOKみたいな。
取った後のことは、
考えなくていいわけよね。
苦しみから逃れられるとしてるんだね。
してるし、それがゴールだから、
無限の先にゴールを果たしたら、
それでOKなんだよ。
来世以降のことも含まれてるから、
今生苦しいのはしょうがないでしょって。
当たり前。
まだ悟ってないでしょ。
次に生まれて、来世でも来々世でも、
そういう世界でも結局、
仏を目指して頑張るんだと。
面白い。確かにそれだと、
仏になるっていう感覚があるね。
それまでは苦しさ我慢しなさいよ、
その後は解放されますよ、
みたいな雰囲気がするね。
大学受験みたいな話なんだよね。
受験受けたら楽になれるとか、
ゴールだって思ってやっちゃうと、
入った後も大学生活続いていくから、
大変みたいな。
そんな感じだと思うんだよね。
どうやったら修行をして、
仏になるっていうのを達成できたとしても、
生活っていうものをちゃんと送れるんですか、
みたいな話が出てきたときに、
結局答えは結構シンプルで、
それを分かりながらも、
やっぱり修行を続けるんだと。
そうしているうちに、日常的な行為の一つ一つ、
それこそさっき言ったご飯を食べるとか、
朝起きた時のその瞬間とかも、
仏の在り方に近づいてくるから、
毎日でも仏としての在り方に立ち戻れるんだよ。
こういう意味での促進成仏が、
速やかに未仏となると言われていて、
要はすぐに仏になるんだと。
要は一回なった後も、
またすぐに仏に戻れるっていう、
そういう生ききってのはしょうがなくもあるんだが、
それっていうのも織り込みながらやっていこうぜ、
みたいな感じなんだよね。
なるほど、なるほど。
なので、今言ったように、
促進成仏っていう人の言葉でも、
すなわちの身になれる仏っていう、
そもそもみんな仏なんだよっていう話と、
身に即して仏になるっていう、
この私が仏になるんだっていう成仏、
一般的に理解されている意味での成仏っていう話と、
あとは、成仏した後も生きていかなきゃいけない時に、
速やかにこの身が仏となれるんだから、
一回なった後にまた人間に戻って、
悲しい、辛いとかじゃなくて、
ちゃんとそこを生きしようぜ、修行し続けようぜ、
みたいな、そういうストーリーが込められている、
っていうような話らしいんですよね。
なるほど。
日経を通じて悟った人の結構切実な、
悩みな感じも伝わってくるね、これは。
そうだね。
悟ったはずなのに辛い、みたいなね。
これは悟ってないのではないだろうか、
いやそうじゃないんだ、みたいなね。
そうです。だからやっぱり前提が変わると、
その後に出てくるものも変わるっていう、
本当にそういう話だと思うんですけど、
ここで加えなきゃいけないのが、
実は空海の説明っていうのは、
説明できるなと思って、今分かりやすい、
まだ伝えやすい話をしたんですけど、
空海に本当のところを言わせると、
この神成仏っていう言葉はね、
密教の何か、一つのコンセプトを説明しようとしているんじゃなくて、
この4つの文字の中に、
密教のすべてが込められているんだ、
ぐらいのことを言っているのね。
そうなんだ、説明どころじゃなくて、
これこそがイコール密教だと言っているぐらいの話。
そうそう、これに全部密教の考え方が含まれているんだ、
この4つの文字の中に。
これって比喩的な意味で、
それだけ大事なんだっていうことじゃなくて、
例えば、今言ったように束っていう、
束団とか束日の束ね、
体身体の神っていう言葉にも、
それぞれいろんな意味があるし、
それを組み合わせた促進っていう言葉も、
いろんな意味に関してができるらしいよね。
なるほど、なるほど。
例えば、一つの例として、
促進っていう言葉を事故と関係している他者を含む言葉なんだ、
っていう風に言っている箇所があるらしいんですよ。
だから、この促進っていう言葉で、
自分っていうことじゃなくて、
自分も含む他人だから、
自分には兄貴観音共助という存在が含まれるとか、
当然人間だけじゃなくて、
仏とか他の生き物も全部含んで、
そういう自分が含まれる世界っていうことを、
もう表すんだぐらいの広がりのある言葉だっていう風に
言われている箇所もあるんだよね。
これは実空間の本の中にあるんだけど。
そうなんだね。
そうか、促進って言うと、
さっきね、自分のことだけ自分が悟れるのかどうかみたいな
主点になっちゃうけれども、実はそうでもない。
そう。
そもそも、また空の話を出しちゃうけど、
空の中で自分というものもないし、
自分と世界は一体だみたいな感覚のことを
言ったと思うんですよ。
この私がって言った瞬間に、
限定しすぎちゃうというか、
そうなると結局、
この私っていうのは世界と繋がっていて、
世界と同一。
しかもその世界には仏も含まれるわけだから、
そういった存在としての私が、
もともと仏であり、
仏にもなり得る。
そもそも、
中にも仏の理というのはあるわけだから、
その仏の理を私を通して
世界に表していくんだぐらいの、
そういうようなことの説明にもなっちゃうんだよね。
わー、なるほど。
はいはい、
ちょっと前回、
ヴィトリエンシュタインっぽいみたいなのも
わかる気がするね。
促進成仏っていうものを理解した後は、
促進成仏を捨てなさいみたいなね。
ハシゴを外しなさいみたいなさ。
この促進成仏だったら、
世界観を理解するためには、
この促進成仏の概念を理解する必要があるんだけれども、
悟った後には、それは全部一つなんだよ。
一つでもあり、全でもある。
何も説明してないじゃん。
っていう風に見えちゃう。
感じがするね。
ほんのりそうだと思うし、
前回はさせた通り、空海は密教の話で言うと、
これまでの仏教を兼業って言って、
要は、表れている、
理解しやすい、
言葉で表される仏教だって言ってるわけなんだよね。
言葉でもちろん空海も
喋るし、書くんだけど、
言葉っていうのは、
いわゆるただの言葉じゃなくて、
仏様大日如来が語った言葉だから、
普通に読んじゃダメだし、
一つ一つの言葉に、
いろんな意味が織り重なってるんですよっていう、
そういう世界で受け取ってくださいねっていう話ではあるんだよね。
なるほど。
しょうがなく使ってるんだね。
しょうがなく使ってるし、
ただ空海はそれを理解して使ってたんだろうって言われてるから、
空海が使う言葉は、
僕らの普通の言葉ではないみたいな。
そこも空海もできる限り、
1個の言葉でも何個も意味があって、
みたいな話はしながら書いてくれてるってことだよね。
そういうことです。
注釈書いてくれてると。
そうじゃないとさ、
あっていう言葉に宗の全てと仏の全てが含まれているって言ってさ、
あしか言えない人だったらさ、
ちょっとその中に無理じゃん、その理解は。
まあね、そうだね。
はいはいはい。
今回は確かにハイトが3通りね、
促進成仏の読み方というか、
解釈を教えてくれたけれども、
すなわちというものに、
100個くらい意味があったとして、
100×100×100×100だから1億くらい?
そうだね。
解釈の方法はあるし、
仏教的に言わせれば、
すなわち即無限の意味があって、
さっきの3アコーディじゃなくて、
4アコーディくらいの意味がありますよみたいな、
そういう話をしたいくらいの気持ちなんだろうね、
したいくらいの気持ち。
そうだね、そうだと思う。
無限っていうのもさ、
無限とは何かみたいな話も僕もちゃんとわかってないんだけど、
要は、
それってやっぱ1とか2っていう発想があった上での無限だと思うんだよね。
でもさ、
仏教は一と全は一つとか、
そもそも分かれてない、
主客、身分みたいな話をするから、
そもそも無限っていう考え方に、
どういう意味があるのかみたいな話になってくるんだよね。
どっちかっていうと、
それは全体性であるとか、
分けて考えちゃダメだみたいな話なんだと思うんだよね。
数の大きさとか小ささで、
無限っていうのを捉えてる時点でちょっと、
イメージ違ってるかもねっていう話ね。
そうですそうです。
仏教の中での数学史みたいな話はめちゃめちゃ面白くて、
そんなのあるんだ。
やっぱりめちゃめちゃ途方もないんだよね、
仏教の中での数の大きさって。
10の60乗みたいな話とかもあるぐらいなんだけど、
3000対1000世界みたいな感じで、
1つの世界が100個あって、
それがさらに何千個もあるみたいな、
すごく途方もない世界観を結構持ってるんですよ、仏教って。
じゃあそれはそれで、
無限とは別の概念で、
数としての大小、ボリュームとしてそれを捉えてるんだ。
そうそう、一定ね。
だからやっぱりその仏教の数をどう捉えたかとか、
どう触れ合ってきたかみたいな話は、
テーマも受けて一回お伝えしてみたいなって思いましたね、
改めて。
いやでも面白いよね、
そういう数学的な概念もあった上で無限みたいな、
1は全みたいな無限あるみたいな、
そういうとこもきちんと論理的に、
世界観の中で説明し尽くそうとしてる。
そうだね。
やっぱりそこの説得感があるんだね。
無限を信じてるわけじゃないっていうかね。
そこだけじゃないみたいな。
それは面白そうだね。
数学はあんまり好きじゃないけれども、
その話は興味あるね。
そういう話もいろいろありながらなんですけど、
まず実は1個目の説明で、
どうやって自分が細けになるんだ、
それってどういうことだみたいな話で、
だいぶ時間を使っちゃったんですけど、
残り2つは次回またお伝えしようと思ってるんですけど、
内容だけお伝えしようと思うと、
今日促進成仏の3つの話はしたんだけど、
これは全部自分が細けになるとはどういうことかっていう、
1つのテーマの話しかまだしてないんですよ。
未来に向けた修行と仏の在り方
今日その3つだと、
3つ終わったんだと思ってた。
1の1の1かっこ1かっこ2かっこ3しか。
1のA。
今日の話で、
仏になるってどういうこと、
自分が細けになるって何なのっていう話を1個乗り越えましたと。
2個目の話、次回以降やろうとしてるのは、
細けになることと、
現世の人を救ってどうやって両立するのか、
どうやって両立しますかっていう話。
もう1個が、
仏としてどうやって生き続けるのかって、
これは今日も話した部分もあるんだけど、
この世で細けになった自分っていうのが、
どうやって生き続けていくんですかっていう、
その2つの問題っていうのをもう少し深掘っていきたいなという風に思います。
さっきも言った通り、
やっぱり空界が促進成仏さればかさるほど、
これまではやっぱり無限大の先にあったとか、
涅槃の方にある種追い出せていた、
細けになってどうすんねんっていう問題に向き合わなきゃいけなくなるんだよね。
要は細けになったら、
主上を救ってくれるとかさ、
涅槃っていうところから我々のために祈ってくれるとかっていう、
別世界の話だったら何とでも言えるじゃない。
でもこの世界で、
この私が細けだと言った瞬間に、
お前何してくれんねんみたいな。
なればわかるっていうのが通じなくなっちゃうのか。
遠い未来のことなんだよねみたいに言えなくなっちゃうんだよね。
今この場で、
仏としてのあなたは何をしてくれるんですかとか、
細けあった私は何ができるんですかっていうテーマが、
仏としての生き方と仏になった後の生き方について
急にやっぱり出てきちゃう。
突然的に出てきちゃうのよ。
あれでもね、禅門道とかあったらさ、
仏になった後は何をすればいいんでしょうって言ったら、
多分師匠に殴られるみたいなこともありそうじゃん。
そういうことじゃないって話ね。
禅と密教の違いって似てるよね。
結構大きくって。
なんとなくそんなものは考えなくていいんだとか、
それは裏の庭に生える木じゃみたいな話ではなくて、
ちゃんとそこに向き合うっていうのが密教なんだよね。
さっきの禅門道、適当に例に出しちゃったんだけど、
そこの感覚はやっぱり違うんだ。
全然違う。
禅だと多分怒られるよね。
仏になった後どうすればいいんですかって聞いたら、多分怒られるよね。
まあそんなことでは一生仏になれんみたいな。
そういう世界観だよね。
前の禅門道の話とか聞くと。
面白いね。
これは次回も言おうと思ったんですけど、
密教からすると、やっぱり禅っていうのは徹底しないっていう話で、
そのことも言っちゃってるんだ。
結局自然体にあろうとして、
結局仏のレベルにはいたってない、
結局は禅なんだみたいな。
そういう批判もあるみたいなんだよね。
時代の話で言うと、
当時も禅はあったのかな?
うん、あったあった。
ちょっとその辺の時代感忘れちゃったんだけど。
結構その禅も中国で流行っている時期だよね。
その時代で言うと。
あれ、ボダイダルマが云々っていうのが禅の話だけか。
ボダイダルマさんがインドから来て中国に来て、
その壁に向かいましたっていうのが禅の話で。
それが禅か。
前にやった禅でその辺の話はしてたね、確かにね。
そうですね、そうですね。
やっぱり禅違うんだね、密教って。
ここまで違うんだ。
大乗仏教とも違うし、禅の雰囲気とも違う。
そういった意味では密教のすごさというか、
逆に言うと空海がそのぐらい密教をすごいものとして
伝えてきたっていう話があるので、
ちょっとそこも踏まえつつですね、
次回は今お伝えした2つ。
どうやって仏になっていくってことと、
みんなを救う、民主を救うみたいな話では、
どう両立するかみたいな話と、
仏になった後どう生きていくのっていう、
その2点を次回またお伝えしたいと思っております。
はい、了解しました。
ちょっと密教の奥深さというかね、
世界観が見えてきて面白くなってきたので、
次回も見ていきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
43:59

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