仏教の基本的な教え
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回に引き続き仏陀の話ということで、前回は順に演技とか、あと演技の概念ということで、あるいは仏教そのものというか、かなり本筋の話ということで、
そもそも聞いたことあるけど、なんだ?というところが、少し雰囲気はわかったかな、みたいな感じで面白かったね。
ありがとうございます。そうだよね、言われてみて思ったんだけどさ、
普通仏教って、いわゆる生身打仏みたいな話とかさ、死んだら極楽園ぐらいの感覚じゃん。
そうだね。
だからさ、僕がさ、仏教の話をします。まずは演技についてみたいな話って、なんかずれてるんだなって、話し終わった後に思ったんだよね。
そうだね、ずれてるというか、だいぶ素人多い敵ぼりだよねっていう。
初学1年生のさ、「はい、算数始めます。」っていう話でさ、「じゃあまずは行列からね。」みたいなさ。
なにそれ?みたいな。
ええともないもんね。
そうそう、Xがとかさ、足し算やる前からXがあってとかってさ、おかしいでしょ?
そうですね。それは少し反省しなきゃなと思ったんですけど、
ごめんなさい、今回はそんな流れで突っ走っていくんですけど、
今回ですね、無常とか無我みたいな話もそうなんですけど、
仏教のね、これも根本的な教えみたいな形で4つにまとまって読むのがあるんですよ。
これが実は、ちょっと言葉で言うと諸行無常とか諸法無我、
一切皆苦、涅槃寂常っていう、この四字熟語が4つあるんですけど、
現象の捉え方
これをまとめて四方韻、4つの法則の法で印みたいなことで言うんですよね。
一切皆苦とか涅槃寂常って言葉自体は多分聞いたことありますよね。
まあなんとなくね。
でもなんかこれが4つまとまってるんだぜっていうのは多分知らないと思うんですよ、皆さん。
うーん、確かに四方韻なんて初めて聞いたね。
そうそうそう。なので、これがちゃんと関連してるんだよって話が、
前回お伝えした縁理って思うとめちゃめちゃ深く繋がってるんで、
これを理解すると、なんか僕は勝手に言ってるだけなんだけど、
なんかめちゃめちゃ仏教の根本の世界観理解できるんじゃね?って思ってるんで、
これを前回から引き続きお伝えしたいと思っておりますよと。
ネタモードというか参考にしたいのは、前回お伝えしたテイラーワードブックの
スマナサーラさんという人の書いたものとか、言ったことを参考に今日も語っていくんですけど、
まず1個目の諸行無常っていう話なんだけど、
これは諸行無常の響きありみたいな感じで、
古典の時間とかにみんな大抵音読とかしたと思うんですけど、
言葉としては知ってるとは思うんですよね。
これをいわゆる僕らの日常的な日本語に訳すと、
諸って諸々なんです。いわゆる全てって話で、
行っていうのは現象っていう風に訳せるらしいんですよね。
諸行無常ってのは常ではないってことなんで、
要は全ての現象は移り変わるんだよっていう風に言葉になります。
これがブッダが、真理っていうか事実、私が発見した事実だよっていう風に言ってたんだよね。
なんとなくイメージが湧くと思うんですけど、
演技って原因と結果があるみたいな話で、
原因があれば結果が生まれるし、その結果がまた次の結果を生むみたいな感じで、
ぐるぐる回るよっていう風なイメージだと思うんですけど。
あー、そう言われれば。
そのイメージなかったけど、そうか。
必ずしもこれは義であるとか、こっちは縁である。
その原因と結果ってどっちも持ってるのか。
そうそうそうそう。
一つのものがね。
そうですそうです。
リンゴの話だと思うんだけど、
リンゴっていう結果はまた次のリンゴから種が取り出したら、次のリンゴを生むじゃないですか。
あー、はいはいはい。
っていう風に、結果が次の結果を生む原因になるっていう風な話なんだよね。
あー、そっかそっか。
途中からもうその概念なくなってたけどさ、
初めにエントリーが順番だねみたいな話を前回しちゃってたと思うんだけど、
違うのか。縁であり義であるものがただ積み重なってるだけなのか。
そうそうそうそう。
あー、なるほど。
確かにそういうふうに言ってなかったかも。
だからその、いわゆる移り変わるとか縁みたいにぐるぐる回るみたいな、
結構そういう風な感覚なんだよね。
あー、あの、一週間経ってわかりましたみたいな話だね、その感覚。
オッケーオッケー、そっかそっか。
そうですね、失礼しました失礼しました。
そういう縁起だから移り変わる、無常だって話もあるんだけど、
それが諸行という現象の話になるとどうなるかっていうと、
例えばね、またリンゴを出すんだけど、
これはさ、リンゴが目の前にあるぞっていう時に、
いわゆるリンゴという個々のものがある、存在するっていう風に、
まあ普通捉えるじゃないですか、種語、術語みたいなね。
うん。
うん、なんだけど、
または、すごいのは、実はそれも現象に過ぎないんだっていう風に言ったんだよね。
ほうほうほうほう。
つまり、リンゴという主体があるじゃなくて、
リンゴがあるという現象が起きてるんだっていう風に捉えますと。
うーん。
なんだかわかる?
わかる、うん。
そうすると例えば、実際確かに細かく見ていくと、
それは人間の目では見えないかもしれないけれども、
例えば、光の当たり方って瞬間瞬間移り変わってるねとか、
もしかしたらリンゴの中の水分が抜けて空気の中に入り込んでるというか、
放出されてるとかっていうことももちろん起きてるわけじゃないですか。
うんうんうん。
うんうんうん。
っていう時に、リンゴがあるって固定した世界じゃなくって、
リンゴがあるという現象が続いているっていう風な捉え方をぶったはするんだよね。
うんうんうんうん。
そうすると、例えばリンゴそのものとか、
このリンゴっていうのがあるんじゃなくって、
移り変わってる存在としてリンゴというものが減少しているというか、
リンゴがあるという現象が続いているという風な考え方をします。
わー、はいはい。
現実を見据えることの重要性
いやー、にしてもちょっと視点がやっぱりすごいよね。
すごいよね、そう。
これが無常だって話なんだよね。
はいはいはいはい。
で、面白いなって僕は思ったのが、
基本的に人間っていうものはこの無常を嫌がるんだっていう話を
ノスマノサーラさんがしてたんですよ。
うんうんうんうん。
例えば不老不死なんてまさにそうだけど、
いわゆる一生死にませんっていえば変わりませんっていうことじゃないですか。
うん。
日常的にも永遠の輝きとか、
永遠の愛でもいいんだけど、
永遠ってすごい良いことみたいな感じで、
永遠が悪いって言われたらすぐには否定しにくいところがあるじゃないですか。
そうね、安定とかね。
そうそう、安定とかね。
ただね、仏教的に言うと、
永遠ってやっぱり存在しないんですよね。
これはさっきの縁起と一緒で、
物語がすべて変化していく、移り変わっていくし、
無常であるっていう話と近いんだけど。
うんうんうん。
これがさっきのノスマノサーラさんが、
例に出してなるほどって思ったんですけど、
やっぱりいわゆる仏教のお坊さんなので、
いろんな人から相談を受けるらしいんですよね。
うんうんうん。
ある子供がいる女性に、
昔は子供はすごく可愛かったんだけど、
今となったらすごい暴力を振るうんですみたいな。
そう相談されたんですって。
うんうんうん。
普通に考えたら、それは辛いですねとか、
そんな暴力は良くないですよみたいな話とかって、
なりそうじゃない?
そうだね。
なんでですか?
お子さんに何があったんですか?みたいなね。
具体的な方を聞いちゃいそう。
そうそうそう。
であるんだけど、
それに対してスマノサーラさんは、
それは良かったですねっていうふうに答えるらしいんだよね。
へー。
なんでだよって怒らしいんだけど、
そのスマノサーラさんに言わせると、
間違ってるのはそのお母さんの方だと。
うんうんうん。
だからなぜなら、
そのお母さんっていうのは、
その昔の子供と、
例えば今の子供を比較して、
昔の方が良かったとか、
昔の可愛かった子供に戻ってほしいって思ってるんだよ。
ほうほうほうほう。
思ってるとその可愛い子供が、
永遠に存在続けることを願ってるよねっていうふうに捉えるんだって。
はいはいはいはい。
そうするとそれは、
諸行無常っていうことを見てないじゃないか。
っていうふうに、
事実を見てなくって、
そういう空想とか妄想に囚われちゃってるから、
そういうふうなことを考えるんだって。
それは良くないですよ。
うんうんうん。
だからその、
いわゆる今すごい暴力振るんですっていう、
それは辛いかもしれないけど、
その可愛かった子供と比較して、
それを言うのはおかしい。
それは非合理的だよっていう話をするんだよね。
うわーすげー。
うん。
ね。
うん。
そう。
逆に子供が一切成長しなくて、
ちっちゃい子供のまんま、
あなただけ年老いたらそれって問題ですよねみたいな。
うんうんうんうん。
っていうのが仏教というか、
スマナーサーラさんの考え方なんだよね。
うーん、なるほど。
そう。
それで、
前回12縁起の話を何とか最後まで取り付いたときに、
一回の部分が無知というか無明という話で、
突然出てきたっていう感じもしたと思うんですけど、
実はこの無知とか無明っていうのは、
こういういわゆる非合理的なというか、
事実を見てない考え方のことを指してるという風にも捉えられるんだよね。
はいはいはい。
そうも言えると。
現実世界ではね。
そうも言える。
現実世界では。
うん。
頭では例えば子供は成長するとはもちろん分かってるし、
あらゆるものが変化するとは分かってても、
いざ大きくなって暴力を振るってなったら、
あの頃の方が良かったって、
例えばゆったよしとか。
うんうんうん。
あとはね、例えば他にもいろんな例があって、
自分が重たい病気になったらとか、
大事な人が例えば死んでしまったらとか、
信頼した人に裏切られたらとかって、
やっぱりもう辛いことっていっぱいあるし、
そういうことが起きたらさ、
やっぱりみんなね、
大体なんで自分だけこんなことに、
やっぱ嘆いたり悲しんだりすると思うんだけど、
それも無情っていうものを本当に理解すれば、
そんな気持ちにはなりませんっていう風に言うんだよね。
うーん、なるほどね。
はい。
だからまあ人間味としてはさ、
もう当然ね、苦しんだり悲しんだりする方が良いかもしれないけど。
まあね、その人間味をね、
どう捉えるかって話だよね。
それがやっぱり極端に出ちゃったりとか、
さっきので言うとやっぱり現実を見ずに、
昔は良かったみたいな話ばっかりしてても、
現実がきつくなる一方だから、
結局良くないって話だもんね。
そうね。
そういうのがあるんで、
この宗教は無情っていうことから目を逸らすっていうのが無知だし、
それが実は辛さを生んでるんだって話なんだよね。
はいはいはい。
仏教の基礎概念
だから悲しみとかその感情なんだろうな、
やっぱ仏教とかちょっと否定してるようにも聞こえるかもしれないけれども、
多分その、これも難しいけど、
過度な感情とかでもね、過ぎてる。
そこに対する、なんていうんだっけな、
処方箋じゃないけどね、
そういう考え方っていうのはありな気もしてきた。
そうね。最後にまた言おうと思ったんだけど、
やっぱり僕は普段生きる上では、
そのぐらいの受け止め方がいいかなって思ってるんだよね。
はいはいはいはい。
仏教的には全部犠牲なんだよね。
その認識とか意識とか感情も。
そうなるんだよね。
ゼロだもんね。
だって自我もないからさ。
自我もないからゼロなんだけど、
それはちょっと普段僕らが生きる中ではさすがにちょっと無理筋なので。
いわゆる定座部だから、
基本出家しましょうっていう、かなりやっぱりね。
無我の理解
自分の出家っていうものに向けましょうって話だよね。
出家というか悟りか。
うん。それだとやっぱ結末報告員はなっちゃうけどねっていう話だよね。
そうそうそうそう。
そういうのがね、諸行無常っていうだけでもそのぐらいに実はいろんな話があるんだけど。
次、無我、諸法無我っていうね。
これもね、結構本当わかりにくいんだけど、
これまでやってきたアートマンっていう考え方と、
さっきの無常とか縁起っていう考え方を組み合わせると、
結構ね、わかりやすいんじゃないかなと思っております。
ほうほう。ここで無我が出てくるのか。諸法無我。
諸法無我。
これどういうことかっていうと、ちょっとおさらいだけれども、
ウパニショットのアートマンっていうのはさ、
個々の存在とか、もっと言うと人間の奥底に本性みたいなものがあって、
それがアートマンだというような考え方だったじゃないですか。
仏教では当然無常っていうのを説くので、
人間の存在っていうものも固定されたものじゃなくて、
その瞬間瞬間で何らかの原因で生み出されてるんだっていうふうな考え方をするんだよね。
さっきリンゴの話をしたけど、
人間っていうものもこの半の生えとっていう存在が、
生きてる間から死んでる間まで続いてるじゃなくて、
瞬間瞬間生まれてるとか、
瞬間瞬間滅んでるみたいな、
そういう言い方とか考え方になってくるんですよ。
リンゴがあるっていう現象に出会ってるだけか。
リンゴがあるんじゃなくて、
リンゴがあるっていうことに出会ってるって話で言うと、
もう一個だよね。
ハヤト自体も同じようにすると、
ハヤトがリンゴに出会っているっていうものがあるみたいな話。
ハヤトが出会ってるっていうと、
ハヤトがあるみたいになっちゃうから、
ハヤトがリンゴに出会っている状態があるよねみたいな、
そこまで含めちゃうって話だよね。
そうですそうです。
そうすると自分もないというかね。
ないというか一緒になっちゃう。
そうそうそうそう。
自分とリンゴというものを丸ごと含んだ現象があるみたいな感じの方が、
より近いっていうことなんだよね。
そうすると、
瞬間瞬間そうやって現象としてある意味過ぎないから、
人間に関しても。
どこを見ても別にその本質とかではなくて、
演技っていう原因と結果の中で、
あり続けてるだけっていう感じなんだよね。
なるほどね。
ハヤトが病気で苦しんでいるじゃなくて、
病気で苦しんでいるハヤトがあるに出会ったみたいな話だね。
例えばね。
そうですそうです。
苦しいことで言うとね。
苦しいことで言うとね。
なので、そういうふうな本質とか本性ってものがないよね。
なくても成立するよねっていうところから、
無我っていうようなアートマンを否定する。
それは何でかっていうと、
無常だし演技だからっていうのね。
一瞬前の原因で今の結果が起きてるっていうと、
それだけで別に僕らの存在とか世界とかも説明できちゃうから、
アートマンとかブラックマンっていらないよねっていうのは、
この無我の発想なんだよね。
なるほど。
アートマンを想定すると、
ハヤトが病気で苦しんでいるっていう主体みたいなものが生まれちゃうんだけれども、
それもないよというね。
そういうハヤトがいるがあるみたいな。
それを今ね、
例えばリンゴとハヤトとか病気とハヤトみたいに一つ二つだけど、
これが多分全存在に対してそういう状態になっているって世界観だとすると、
このアートマンっていうのは確か不要になる感じはわかるね。
そうです。だからイメージアートマンって、
要は一本足で立ってるみたいな、
自分っていうものをアートマンっていうもので強固に一人の柱で立たせてくれるんだけど、
その演技っていうのは細いんだけど、
いろんな柱が何百本何千本ってあるから、
その中に自分っていう存在が生まれてくるみたいな、
ちょっと構造主義っぽいになるよな、そういうと。
要はその構造の中に空いた空間が自分だみたいな話。
ちょっと近づいてくる。
ほうほうほう。へー、そうなんだ。
そういう話があるので、
処方無我っていうのは要は、
アートマン、自分の本性っていうものはありませんよ。
一切皆苦の真意
そこら辺の話なんだけど、
3つ目ね、一切皆苦っていう話があって、
これは言葉としては聞いたことあると思うんですよね。
苦っていう苦しみっていう言葉は結構厄介で、
日本語だと一切皆苦しみだなので、
あらゆることは苦しいみたいなさ、
そんな役され方になっちゃうんだけど。
前回の12演技で言うと、
最後の11回、12回ではね、
生まれてきたから苦しいんだ、みたいな。
生まれてきたから死ぬんだ、みたいなさ。
生まれたこと自体が趣味じゃないけどさ。
苦しみの始まりみたいなさ。
逆アンパンマンみたいな。
そうね、救いなさすぎるよっていう。
そうそうそう。
しかも常識的にもさ、
いやいや別に見てて結構幸せもありますけどとかさ、
仏陀さんちょっとあなたの人生が
辛すぎただけなんじゃないですか、みたいな。
あなたがネガティブ思考だっただけじゃないですか、
みたいになりかえないじゃないですか。
ネガティブっていうか特殊だったからね。
王族で生まれてさ、大人までさ、
老人も見たことないみたいなさ。
病人も見たことないみたいなさ。
ちょっとおかしかったもんね。
水準、標準っていうかね。
水準がね、おかしかった。
ちょっと特殊例じゃないですか、みたいになっちゃうんだけど、
苦しみっていうね、日本語の漢字で書かれてる言葉に
実はこれ問題があって、
この言葉ってもともとパーリ語っていう
元々の仏陀使ったのかなっていう言葉で言うと、
パーリ語?
パーリ語。
サンスクリプトに近い言葉らしいんだけど、
パーリ語のドゥっていう言葉らしいんですよ。
ドゥッカ?
そう、ドゥッカっていうので、
お釈迦様、
仏陀は、
一切解くっていうのは何でできてるかっていうと、
仏陀が私に、
ドゥッカだっていう、
そういう聖なる真理が現れたっていう風に言ってるんだよね。
やっぱりこの苦しみって訳してる言葉は、
もともとはそういう聖なる真理なんだ。
で、そのドゥッカって何って言うと、
いろいろこの言葉を辿っていくと、
いわゆるこれ何だろうな、
執着するほどのものではないか、
何だろうな、
あらゆる存在は、
虚しく過ぎ去るものだ、
あらゆる存在っていうか、
そういう虚しく過ぎ去っていくみたいな、
そういう風な言葉らしいんだよね。
へー、はいはいはい。
虚しいって言うのもちょっとネガティブな言葉だからあれなんだけど、
一切皆苦っていうのは、
あらゆるものは常ならない、
常ではない存在なので、
執着するほどのものじゃないんだっていう風な意味なんだよね。
へー、なるほど、全然違うね。
全然違いじゃん、その苦しみだっていうのと。
あとね、ちょっとこれは正しい説明からなんだけど、
どっかっていうものを微訳してね、
思い通りにならないっていう風に、
訳してるものも見たことがあるんですよ。
それも結構分かりやすいなと思って、
例えばさ、
何かね、実は今すごい幸せだとかさ、
何だろうな、めっちゃハッピーだとしても、
それさ別にいいんだけど、
その幸せが、例えばじゃあ、
ずっと続いてほしいとかさ、
よくあるなんだ、
好きな人と一緒にいて、
時間が止まればいいのにとかっていう話があったりするじゃない。
それは確かにロマンスだし、人間味がある考えなんだけど、
事実はそんな風にはならないじゃないですか。
時間は当然思い通りにはならないし、
好きな人もいつかは、
それこそ、何だろうな、
もしかしたら分かれるかもしれないしとか、
好きな気持ちは減るかもしれないし、
起こりうるわけだよね。
っていうときに、
誰かを好きであるって気持ちも、
やっぱり思い通りにならなかったりします。
いうときに、
それに囚われて執着して、
心を乱されるっていうのが、
それは実はおかしいんじゃないっていうのが、
この一切改革の考え方なんだよね。
そうなんだ。
全ては思い通りになりませんとか、
全ては執着する必要がありませんっていう風に捉えるのが、
この一切改革。
なぜならそれは無常だからとか、
全ては現象だからっていう風な話なんだよね。
なるほど。
これはあれだね、
漢字を変えた方がいいね、言葉をね。
そう思うね。
何がいいかまでは分かんないが。
分かんないね。
漢字一文字じゃちょっと思い浮かばないね。
そうなんだよね。
こういう話ならさ、
それはそうだよねっていう感じもしない?
そうだね。
言ってることは最初の処理を無常化とちょっと似てる感じもするよね。
ただそれよりも、
もうちょっと短い引き寄せって、
自分のスタンスみたいなところに引き付けられそうな感じもするよね。
そうだね。
今はならないからね、みたいな。
そう。
そこから蕎麦野沙羅さんとかは、
この無常と無我と苦っていうのはイコールだっていう風に繋いじゃってて。
へー、ほうほうほう。
言葉としては別なんだけど、
言ってることは一緒だよぐらいに言ってたんだよね。
そうなんだ。
そうすると分かりやすいかもね、確かにパッと聞いたときに。
そうなんです。
この四方院って4つの教えって言ったんだけど、
この3つはもうほぼイコールなんで、
その上にさらに、
涅槃寂生っていう最後の4つなんだけど、
いわゆるこの3つをちゃんと理解して、
それに基づいて生きれるとか、
その知識を得ると辿り着ける、
ある種の安らかな人生の境地みたいなのが、
この涅槃寂生っていうふうな境地なんですよ。
そんなことなんだよね。
へー、あー、なるほど。
いわゆる原因と結果みたいな話。
要は、福は無常とか、処方無我とか、
一切悪いことを理解するっていう原因のもと、
涅槃寂生とセルフの解放
涅槃寂生に至るという結果が起こりますみたいな。
そういうふうな発想が、
ここに演技的なものが入り込んでるんだよね。
なるほど。
で、この涅槃寂生っていうものは、
最初、ヴァニシャットみたいにブラフマンに入り込んで、
意識がなくなる。
そのままではないんだけども、
自分みたいな概念は一切なくなっちゃうんだよね。
うーん。
前回、12演技の時にもお伝えした通り、
物事に執着するっていうのは、
何かを認識するとか、何かを識別するっていう、
そういう作用があるからだみたいな話をしたと思うんですけど、
自分が存在するっていう概念すら、
この物事的な考え方は否定されるわけなんだよね。
それも単なる現象だし、捉えられる必要はありません。
そうなると、自分と他人とか、
そもそも宇宙話とかってことは問題じゃなくなって、
荒れる現象っていうものを、
捉われずに見ることができるようになる。
はいはい。究極のフラット状態で見ることができるってことだね。
自分の感情だったり、自分の認識含めて全てってことだね。
そこには自分ってももちろんないから、
全て先が、自分というものがある、みたいなものを
どこから見ている感覚ってことだよね。
自分がちょっと痛いと思っている、みたいな。
その辺はストア派っぽいというか、
物事を正しく受け取りましょうという正しさみたいなところが
より徹底しているという感じなんだけど、
そうなると、それこそ以前から禅の時とか、
ちょっと仏教の界で増えた時もあったと思うんだけど、
やっぱり苦しいとか辛いとかっていう時も、
それに捉われるんじゃなくて、そういうことがあったね。
最近というと気づき、いわゆるマインドフルエンス的な考え方でいうと、
それにただただ気づけましょうみたいな話。
なるほどね。自分は今怒っているとかね、例えばね。
そういう話。
人が悲しんでいるとか、自分がいるということに気づいているみたいな。
そういう感覚なんだ、マインドフルエンスって。
自分がどう思っているかを客観的に理解しましょうみたいな感じなのか。
っていうのもあるみたいな。
ある、っていうのもある。
客観というと主観と対になっちゃうから、
具体的に言っても言いにくいんだけど、
ただそれを見るみたいな話っていうのが、こういうところから出てきている。
そういうふうに、さっきとおりアートマンとかというのもなくて、
ただね、玉ねぎ剥いたら何もなかったみたいな感じで、
数着がなくなってあらゆるものは消え去るみたいな。
そういう境地がまさに弱状という、静かなというふうな話になっていく。
というふうなのがこの4つなんだよね。
結構ね、イメージYとか理解できたんじゃない?この話。
いやー、そうだね。
だから全て前回の12演技もあるけれども、
この4つ四方因に関しても、
基本は仏教的に言うと方便というかさ、
少しでも悟りに近づくとか、世界観を理解するとか、
自分たちが目指しているものは何なのかということをちゃんと理解する。
もしくは理解し続けようとするための、
ツールって言うと安っぽくなっちゃうけど、
すごいそういう感じがするよね。
だから根本的にこの世は演技だから、
演技という仕組みで成り立っているから無常だっていう、
それが一番根本的な仏道の発見なんだよね。
それを無常と捉えられていないのは無知だからなんだぞ、お前らっていうね。
見たいものを見ているとか、物語に執着して、
それが常にあって欲しいとか、なくならないで欲しいと思っているからだぞっていう感じですね。
やっぱりそれを突き詰めていくと、
当然ね、アートみたいな我がもないし、
あらゆるものには執着する価値もないし、
それを本当の意味で理解できると、下達する、
下達するような涅槃寂静に至るんだっていうのが、
この16文字、四字熟語4つに含まれているんだよね。
仏教的視点と悟りの理解
はいはい。が悟りへの道ですよというね。
悟りの演技、まさに原因と結果ですよっていう。
はぁはぁはぁ。
なるほど。
やっぱりこういう仏教というかさ、
聞くといつも思うけど、やっぱりこの虚無主義と神人のような感じたまらないよね。
そう?たまらない?たまらないかな?
たまらないな、いや個人的にね。
どのあたりに感じる?
やっぱりこの一切皆苦、今日の苦は違うという話もあったけれども、
あと生きるから、生まれちゃったから死ぬつらいんだみたいな、
やっぱりいろいろさ、ちょっと間違えると虚無主義に行かれないような世界観を持ってるんだけど、
実は全然違うじゃんみたいな。
違う違う。
現世よりも、やっぱりちゃんと、来世では悟ってそっち行きたいとか、
あと少しを修行してみたいなのがあるけれども、
悟りの状態もそんなに、マシンのように無感覚になるとも多分違うだろうしっていうのが、
こういうのを少しずつ教えてもらうと、
虚無主義じゃないし、フラットというのはマシンみたいな無機質なものでもないし、
感情が多分全くなくなるわけでもないし、
多分、全然違う感覚なんだろうな。
でも、やっぱり生きても苦しいから、早く死んで次行きたいみたいな、
そういう変な虚無主義みたいなものにも生き返れないっていうね、
そのバランスがめっちゃ面白いなと思うな。
まあね、でもそれは本当にそうで、
今回取り上げなかったんだけど、文化でもう一個大事な概念で、
慈悲っていうのがあるんですよね。
慈悲の心って慈しみみたいな言葉なんですけど、
でもやっぱり他の人も豊かであるようにとか、
他の人に対する思いやりみたいなものもめちゃめちゃ大事にしますと。
このバランスが多分取れてないと、ただただ自分だけが悟ればいいとか、
そうするとこの世に未練もないし、存在価値もないみたいになっちゃうんだけど、
当然ブッダも自分が悟った後に弟子に教えたみたいな形でいくと、
やっぱりそういう誰かをより良くしてあげようとか、
気持ちが合ったとかってよく言われて、
慈悲の気持ちを拡大したのが大乗仏教で、
要は自分だけじゃなくてみんなで加えるんだと。
で、全員が成仏しない限り、自分も成仏しないっていうのはいわゆるアミダ仏だけど、
そういうふうな発想は、この慈悲の方を強くすると出てくるんだよね。
なるほど。そっかそっか、そうなるのか。
それがバランスの問題で、
やっぱりこの世は慈悲であるとは言ってないんだよね、ブッダは。
この世は無情であるとか、縁起では根幹だと言ってるんだけど。
そうだよね。
大乗、そっちになると信じるものは救われるって、
生アミダ仏っていうのは救われるだから、もうガチ宗教って感じだけども、
こっちの今日みたいな話だと、もうちょっと人生哲学みたいな話に近い感じは出てくるもんね。
自分で考えないといけない。
生アミダ仏ってあんま自分で考えてない感じがするじゃん。
考えなくていいっていう話だからね。
そうそう、むしろね。
ちゃんと自分の頭でそういう状態考えて近づきましょうっていう意味では、
かっこいいよね。かっこいいっていう一つの価値観だけど、
だから大丈夫っていうのは悪いじゃなくて、
慈悲と執着のバランス
宗教と哲学のグラデーションがあったときにより哲学よりだなっていうのは思ったね。
そうですね。
ごめんね。さっきハイトがストア派とかって言葉使ってた瞬間はあんまりストア派なんだっけって思ってたんだけど、
今ちょっと思い出してきてて、
確かストア派ってかなり感情マシーンみたいになってたよね、最後なんか。
そうそう、コントロールできるものとできないものを切り分けて、
自分が怒ってるっていうのも自分の原因から沈めれるみたいな。
何だっけ、家事があって子供を助けられなかったときに、万事尽くしたんだからOKみたいなさ。
マジで悲しまないみたいな、それはそれみたいなさ。
結構マシーンみたいな感じがあったじゃん。悔やむみたいなものもないみたいなさ。
そっちともちょっと違うなっていう感じが。
さっき言ったマインドフルネスに少し近いのかな。
分かんないけどね、悟った状態が何なのか知らないけれども、
自分、例えば誰か近しい人が泣くようなときに、
自分悲しんでるなっていうのを許される気が勝手にしてるかな。
なるほどね。それが一番受け取りやすい形なんだと思う。
でも突き詰めると、別に死んだから悲しむっていうのも執着だから。
それは無しなんだよね、本来。
原理的に解釈すると無しなんだ、それは。
無し。
執着だから。
逆にもし、親しい人が亡くなって悲しむんだったら、
全人類が亡くなったときに悲しまなきゃいけない。
平等だからね。
なるほど。
人類だけじゃないね。虫もそうだし。
あらゆる生命が亡くなったときに、
亡くなったらあり得るみたいな感覚なんだよね。
はいはいはい。
やっぱり深いね。
ちょっと難しいね、その境地っていうのはね。
想像がちょっとつかないな。
それはやっぱり無理だと思うし、
やっぱり人間みたいな話は遠いで大事だと思うんで、
やっぱり目の前の現象とか人に一輸して
執着してくるのも大事かなとは思うんですけど、
やっぱりさ、僕も思うけど、
こういうことを読んだときに、
やっぱり仏教かっこいいなとかすごいなって思うけど、
例えば変な話ね、今兄ちゃんが言ってる通りで、
娘が何か事故にあって怪我をしたとか、
死んでしまったというときに、
じゃあ心が動かないことが正解かって言ったら、
全くそうは思えないんだよね。
だし、やっぱり愛は愛でいいじゃないかと。
別に自分のね、自然凡人の自分のレベルでは、
全ては無常だっていうのはそれでいい考えだと僕は思ってるんだけど、
それも含めて執着して、
それはそれを楽しんで生きていこうよみたいな。
そのぐらいでいいんじゃないかなって思ってるんだよね。
はいはい、まあそうだよね、確かに。
その時の世界、実際の社会の雰囲気は、
多分相当違うんだろうけれども、
現代ではそこまで、
日に日にしてないからね。
食うものなくて死ぬとかさ、
責められて死ぬみたいな感じではないから、
ちょっとそこら辺は許される気もするよね。
今のハヤトのような感覚で。
でもさ、ほらブッダはさ、
自分の息子にラーフラっていう名前をつけて、
ラーフラって執着なんだけど、
お前は執着だって言って、
要は捨てようとしたみたいなこともやってるから、
やっぱ彼、ブッダはそこに本気で向き合って報道した人なんだよね、やっぱり。
やっぱちょっとイカれてるよね、よく。
そうね、一周回って執着してそうだけどね、それはね。
まあ確かにね、立ちきりがたいって思ってるってことはね。
まあそんな感じでウパネシャットから続いて話があるんですけど、
本当に言ってる通りで、
僕が普段触れてる仏教とかって、
まさに念仏さえましょうとかってやつなんだけど、
やっぱりもっともっとこのウパネシャットと接続してる時代の仏教って、
やっぱりこんだけ哲学的なこととか、論理的なこと、
もちろん抽象的なことはいっぱい語ってるんだけど、
やっぱりロジックとしてはちゃんとつなぎようとしている。
それが語られてるなっていうのは面白いと思うし、
演技の理解と仏教
やっぱり仏教だけで理解するよりも、
ウパネシャットと比較してとか、アートマンという考え方と比べると、
なんか僕ももう少しちゃんと話せたんじゃないかっていう、
今回に関しては、演技はごめんなさい、ちょっと難しかったんであれなんですけど、
司法院のほうはちょっと抑えできたんじゃないかななんて思ってるので。
うんうんうん、なるほど。
でもそうだね。
皆さんの仏教の理解っていうのが少しでも深まったなとか、
広がったなと思ってもらえたら嬉しいなっていう感じでお話させていただいたっていうところですね。
なるほど。でもね、たしかに十二演技自体はすごく難しい概念だよね。
それは悟りと同じって言われたら、それは難しいわって話だからしょうがないと思うけれども、
この演技の世界観だよね。
ここが何回か仏教とか禅とかいろいろやってくれたと思うけれども、
意外とこの演技っていうフィルターというか、色眼鏡というか、
ちゃんとそれをかけましょう、そのいう視点で見ましょうっていうのって、
話してくれてたかもしれないけれども、ちゃんと初めて認識したような気がして。
確かに確かに。
しかもその演技っていうのも、ちゃんとブラフマン、アートマンみたいな、
純粋な優みたいなものが、演技と比較対象として存在しないと、
演技そのものをいきなり演技そのものとして理解するって結構ハードル高いなと。
そうだね。
こうやって積み重ねてもらうとまた思えたっていうのが面白かったね。
面白かったです。
結構長かった。東洋久々だけどもうお腹いっぱいという方もいらっしゃるかなと思うんですけれども。
まずはお付き合いありがとうございましたと。
日本思想の難しさ
ありがとうございます。
次はですね、雑談を挟んで日本編に入ろうと思うんですけど、
本読んでたんだけど、昔の日本の思想ってちょっとむずいんだなって頭で思ってて。
むずいっていうのは、調べるのがむずいってこと?それと思想自体の話?
思想も残ってないって話だね。
はいはいはいはい。
そこでさ、ソクラテスが、その前のヘロドトスが描いているものが残ってますとか、
ヴェーダも繋がってます、二千何百年前のものがっていう話だと思うんですけど、
日本の思想をまとめた、じゃあ一千年前の本があるかっていう、一千年前あるか、
二千年前の本があるかっていうと、ないんだよねやっぱり。
わーはいはいはい。
なのでその中でも、いろんな人がこうね、こういうことじゃないかって考えてる本はいくつかあったんで、
それはもといいですね。みなさんにお勧めできるように台本作り頑張りますので。
でもその若者さんもぜひなんか教えて、なんかね、よくわかんないけど、なんとなく翔徳太子とかからになっちゃうみたいな、そんな感じなの?
大体そんな感じ。で、ちゃんと思想とかで言うと、なんなら鎌倉時代からみたいな。
わーもう千年越えちゃってる。
全然最近じゃんみたいな、そうそうそう。
へー、まあそうなるのか。やっぱり秘密校とかになってくると、ほんともう神話に近いというか。
そうそうそう、中国の本に書いてあったよ、名前が出てたよ、みたいな。
日本の本じゃなくて中国の本にこれらしきものが残ってるんじゃないかみたいな話。
金銀渡しよって言って、金銀出てきたよっていう話があるから。
こっちに残ってないんだもんね。
残ってないんだよね。
なるほどなるほど。
という風なところからどこまでちょっと行けるのかっていう話はちょっと僕もドキドキしてるんですけど、
それも面白いなと思ってるんで、次回ですね、日本編というところでまたお届けしていこうという風に思っております。
はい、では次回ですね、とっさつな挟んで日本編を楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。