1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #39 唯識論で「阿頼耶識(あら..
2022-09-07 37:20

#39 唯識論で「阿頼耶識(あらやしき)」が作り出す驚きの世界とは?

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

▼おたよりフォーム
ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!
https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7
00:00
(BGM)
はい、ソイル鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、有識思想を作った無邪気と世心という兄弟の話を教えてもらいました。今回は有識の中身について見ていきたいと思います。
はい、よろしくお願いします。
有識とは、改めてお伝えすると、根本的に、世の中のあらゆることは、自分の心の展開だよ、というのが根本的な思想です。
前提として、ある空だと、要は、そもそも本性ではないとか、そういうものを想定するのは間違いだ、みたいなことを言っていたんですけど、
有識では、実はそれ自体はあるよね、というふうに言ってしまうのね。
むしろ空だと、自分の心の存在すらも空みたいに、あらゆるものとしてやってたんだ。
あらゆるものだから、だから心があるとも言えないんだけれども、有識は空だと思うような心っていうのはあるよね、というところも言っちゃいます。
かつ心っていうのは、基本的に分別、要は物事の区別っていうのをつけますよと。
例えば仏教で言うと、あらゆるものは一つみたいな思想が根本的にあって、
それを分けて考えるのは、誤りだとか虚妄、間違いだ、みたいなことを、妄言だとかって言うんだけれども、
でも空っていうのはあるし、空があるからこそ物事を分けて考えてしまう。
要は本性がないけどあるって捉えてしまうみたいな、人間の基本的な働きとか、そういう心っていうのはあるよね、っていうのをまず言っちゃうというか捉えちゃうね。
まあ確かに今回もそうだよね、虚無主義的なところ、そこから確かにそれを乗り越えるにはこの前提っていうのは確かに必要なんだね。
そうそうそう、何もないって言っちゃったらやっぱり進めないし、全部があるって言っても進めない、要は全部があるっていうのは説一切有無で、
ないって言ったのが空なんだけど、そこから発展しないよねとか、ちょっとバランス悪いよねっていうのがあって、
だからないっていうことも認めて、でもあるっていうことも認めて、その上で何があると言えて何がないと言えるんだっけみたいなことをちゃんと考えていきましょうよ。
それは心っていうところから出発していきましょうよみたいな考え方なのね。
神奈川理事ども中庸みたいな感じ受けたけれども、さらにその中庸みたいな、やっぱ常にバランス、中庸っていうのも空なんだね、きっとね。
03:09
無常だね。
無常、やっぱり中庸はアリストテレスから言われるし、カットもやっぱり大陸合理論と技術経験論みたいなものをやっぱり中庸というか、ある種統合したいという意味があるんだけれども、
やっぱりそういうね、バランスをとっていくというか、アイデアをとりながら、でもそれだとすごくつまんなくなっちゃうから、また極端なアイデアが出てみたいな、結構思想って広がっていくなと思ったりするんですけど。
面白いわ。
ではまあ、有意識がバランスがいいかって言ったらそんなこともないっていうのをこれから話すんですけど。
ここまで話してもらえない。
面白いんですけど、まず今日話していくのは有意識30…30…10、全然言えない。30個の10っていうのが、いわゆる詞とかリズムに合わせた言葉みたいなイメージなんですけど、
その冒頭でね、まずさっき言ったような人間ってそもそもどういう存在なんだっけっていうことを定義というか提案するのね。定義はしないか。
仏教だと何か人間とはこうであるとは言わないんだけど。
ああ、定義しちゃうと、食うじゃないしみたいな。難しいね。
そもそもないから。人間とかいないからみたいな感じなんだけど。そもそも人間っていうのはだから常に変化してたまたま今ここにいますよねと。
でも普通に生きてると、自分とか我みたいな、なんか変わらないものとか、根本的な自分みたいなものが自分の中にあるよねって感じて生きてますよねっていうのね。
ただそのなんか変わらないものみたいなものを実が、実際の我みたいに呼んじゃうと、それを認める生活っていうのは自己執着とか自己導着っていうのかな、
自分に執着するとか自分っていうものが大事であるみたいな心を生んで、自分にとっていいものとか心地よいものっていうのは永遠に変わらずあってほしいし、
でも不都合なものとか自分にとって嫌なものは今すぐ消え去ってくるみたいに思い悩んじゃうと。
結局それって苦しみとか悩みとか産んじゃうよね。抱え込んじゃうよねっていうふうに言いますと。
すごいね。感覚とかじゃなくて構造の話をしているね。すごいね。
そうそうそう。でもそれはすごいわかるじゃん。ありありと確かに自分の人生もそうだなってやっぱり気持ちになるじゃない?
いやーすごい。そういう向上性っていうのをホメオスタシスだとか、働くよねっていう。
そうそうそう。だからその空的に、だからもう全ては空なんだ。そういった自分っていうのも空だし、求める気持ちとか何か世の中に物事があるっていうのも空なんだ。
06:11
何も問題はないんだって言ったとしても、日常生活ではとはいえお腹空いたらご飯食べたいし、眠たくなったら寝たいしみたいなのってもうどうしようもないよねと。
そうだね。腹が痛いのは治したいしみたいな。
そうそうそう。薬欲しいってなっちゃうじゃん。病気になるの嫌だって思った時に、やっぱりありありとして現実感とか目の前にリンゴがあったらリンゴはもうあるとしか思えないっていうようなものがやっぱり日常の素朴な感覚だし、
それがあきらめないよねって言われても取り付く島があるしなくなるよねということを言いますと。だからこそこれまで出てきた空みたいなものじゃなくて、新しいものの見方として有意識っていうのが必要となりますよねっていう風に言うのね。
じゃあその有意識が何よっていうのがここからの説明なんだけれども、結局前回もちょっとお伝えした通り、ただ仏教っていうのは全く新しい考えを出すわけにもいかないわけですよ。
ああ、そっか。
なぜならもうブッダが全部言っていて、
そこは絶対的なんだね。こんな空とベッド着ながら。
そうそうそう。あれブッダがこういったものは空であるとか、ブッダがこう言っていることが有意識として考えられるみたいなことをやっぱり言わなきゃいけないから、あくまでもそこにのっとっていくんだけれども、
例えばその有意識っていう識っていうものを捉えた時点で、意識があるじゃんって言われちゃったらおしまいなわけね。なので仏教としては、すべては分別っていう、要は分ける作業、本当は一体としてとか本体がないものを分けちゃうんですっていうことを考えるところから出発しなきゃいけなくて、
そこでそのいわゆる主客二元論って言うんだけど、要は世の中にものがある、関東的な感じなんだけど、そのもの自体とかものっていうのがあって、それを僕らの主観とか意識が捉えるんだっていう世界じゃなくて、
まず心がある。そこの心が見るものとか見られるものを分けていって、そこから認識が起きて世界が展開するんだっていうことを考えるのね。ちょっとわかりづらいと思うんだけど。
心が見るものと見られるもの? 例えば関東で言うと、関東のコペルニクス的展開って、世の中にものがあって僕らはそれを見てるんじゃなくて、僕らの認識作用が世の中にあるものを決めているとか、世の中の捉え方を決めているんだっていう認識の主体を、
09:03
僕らの理性っていうのに取り込んだっていうのが、なんだろう、展開だよ、すごい転換だよって言ってたじゃない。
そうかそうか、もの自体があるからあるんじゃなくて、それをこっちが捉えてるから、だからそのもの自体があるってことを証明できるのよねっていう、ちょっとその話。
認識できるかな。もの自体はあるってこともあるし決まってて、認識はできないんだけど、でもその認識の主体っていうのが僕ら、人間の側なんだみたいなことを言った、1200年くらいやったんだけれども、
有識っていうのはもっと強烈で、外にはもう物はない、だって全ては一つだというか本性はないから、でも世の中に物があるように見えるとか、自分があって目の前にリンゴがあるように見えるのは、
心っていうものがあって、心っていうものがリンゴって言うものと自分っていうものを作り出して、自分が見るもの、リンゴは見られるものっていう区別を心が作るから、その世界では僕とリンゴっていうのが対峙してるんだっていう世界になるんだってことを言うのね。
はー、はいはいはい。
お分かりだろうか。
うん、さっきのカントの例より分かりやすかった。
あー、すごいね、でもそれ何個入れ子になってるんですかね。2個くらいなんか、俯瞰、レイヤー、なんか自分っていうものがあった時に、2個くらいなんか、俯瞰で見てるな。
有識では8つの要素を考えております。
8つじゃなかった。
8つじゃないのです。
8個。
まあ大きく言うと3つなんだけどね。まさにそういうレイヤーの構造があって、大きく言うと3つの構造から、じゃあこの心っていうものだけがある世界からどうしてこういう豊かなとか、自分がいて他人がいてとか、自分っていうものが永続しそうな気がしてとかって世界が生まれるんだろうっていうことを考えるのが、まさに有意識、考えて説明するのが有意識ですと。
はいはい、すごい世界だな。
ちょっと面白くなってきたでしょう?
うん、なんか自分がいるとかじゃなくて、リンゴも自分も作ってるっていう視点を持ちながらも自分の視点からリンゴを見ているっていう、ちょっと怖い世界だな、まあすごい世界だなと思って。
そういう意味ではちょっとメタ的な確かに感じなんだけれども、今言った通りその世界を展開する心のメカニズムとして、8つの要素からなる構造っていうのを考え出しますと。
で、確かに兄貴が言ってくれた通り、大きく2つでは確かにあるんだよね。そのいわゆる深層心、深い層にある心って言われるものと、表層心、その表にある心っていうものがあって、でもこれ勘違いしないでいただきたいのは、いわゆる無意識とは全然違うのですよ。
12:18
なるほど、ここは言葉を間違っちゃうと理解が…。
だからあえてここでは無意識みたいなことは想定せず、純粋に深い層と表の浅い層、浅いとか表にある層があるんだなっていうふうに捉えていただきたいんですけど。
まだ実装通りイメージは入れずに。
そう、深層心と表層心ね。
表層心ね。それで、深層心、深いところにあるのが第八アラヤ式と第七マナ式、いわゆるアラヤ式だね。
あとマナ式っていうのがあります。
浅い層にあるのが、いわゆる第六意識、いわゆる普通の意識とか心って言われてるようなものと、認識とか意識って言われてるものと、あとは五識って言われてる、五感?いわゆる見る聞く話す感じるとかそういうやつ、あと味覚かな。
っていうので八つあります。
この構造を理解するにはまずアラヤ式っていうのがそもそも何かっていうことを理解しないと全然わからないので。
いきなり初めて来た概念から理解しなきゃダメなんだ。
根底だからね。
逆に言うとアラヤ式を理解できれば、この有意識っていうのは一定理解が進むので、ちょっと今日はここのアラヤ式の説明に時間がもう使えると思うんですけど。
じゃあまずアラヤ式っていうことを説明していくんですけど、アラヤって元々アーラヤっていうものがあるんだけど、これは蔵、いわゆる田舎とかに、別に僕も建ってなかったけど、物を入れる蔵ってあるじゃないですか。
その蔵のことで、いろんなものが溜め込まれている蔵のことなんですよ、このアーラヤ、アラヤっていうのは。
ああ、元々そうなんだ、仏教用語とかじゃなくて蔵とか、小屋みたいな、そういう感じか物置小屋みたいな。
そうそうそう、そういう意味があって。
だからその蔵の造式って言われたりするんだけど、いろんなものが溜まっている式の作用ですよと。
じゃあそれ何が溜まっているかっていうと、そこには自分の過去のあらゆる行動情報が溜まってますっていうのね。
例えばそれは目に見えるものだけじゃなくとか、実際自分がした行動だけじゃなくて、心の中でこれをしようと思ったとか、こういうことを考えたみたいなことも全部このアラヤ式に溜まっていきますということを言いますと。
15:02
例えば人に優しくして誰かを手助けしましたと、ただそこに見返りを求める気持ちがありましたってなった場合、その人に優しくしたっていう行動も見返りを求めたいっていう欲望も全部溜まりますっていうふうなことを言うのね。
思っていたアーカイブ作用みたいなことも言えるんだけど、そういう記憶容量みたいな膨大なハードディスクに、あらゆる自分の行動とか思ったことっていうのがバンバン溜め込まれていきますと。
そういう行動情報が溜まっていくから、その溜まったものがある条件に触れたときに、その行動情報から現実の情報が取り出されますっていう、過去の経験に基づいて今の経験で行動が起きますみたいなことを言うのね。
だから例えば、人間が自由かどうかみたいな話をしたときに、自由みたいなものを想定しちゃうと、いわば全く関係のないとか、いわゆる縁起というか因果の世界、仏教って因果とか縁起って大事にするから、原因と結果が常にある。
それによってあらゆるものが変化し続いていくっていう風に言うんだけど、自分の行動とか言動とか思いの原因は何ですかっていうと、このあらやしきにアーカイブされた過去の行動情報ですっていう風に言うのね。
なんだこの世界観って伝わるかなどうだろう。
その通り理解してるつもりなんだけれども、でもそうだね、確かにさっき無意識と違うよって言ったのは、無意識だと確かにそこには自分の過去の行動とか思考とか、もしくは感じたことだよね。
考えても感じたこととか、多分そういうのが全部アーカイブされてるってイメージを持ったんだけれども、無意識だとそういうのから生まれる感じしないもんね。
そうだね。
その人に由来してないみたいなさ。このあらやしきってものがあるとその人自身を構成するものとしてなんか捉えられる感じがする。
その空じゃなくて、無意識はなんか空な感じがする。
そうね。だからどこか分かんないところからやってくるとか、なんかよく分かんないけどあるみたいなものがちょっと空的だとか無意識的なものに感じられるとすると、あらやしきは常に自分の過去の経験とか行動っていうのが溜まってるっていうところが結構違うかな。
そう。で、あらやしきって今兄貴が実は言ってくれた通りで、人それぞれに個別なものなんですよ。
はいはいはい。
だからみんながみんな自分のあらやしきっていうのを持っているんだけれども、だからこそそこから描かれる世界とか、立ち上がってくる世界っていうのも全然違いますと。
18:06
ただそういう働き、誰もがあらやしきを持っていてとか、誰もがあらゆる行動情報が溜め込まれてってのは一緒ですっていう風に言うのね。
うんうん、みんなあれか、ハードディスクは持ってるよね。そこに保管してるものとか、保管の仕方とか、フォルダの階層の開け方は全然違うけどねみたいな話だね。
そうそうそう。だから全員が、フォルダ分けもたぶんされてないんだなあらやしきの中だと。とにかく起こったことを全部溜め込むっていう、超強力なハードディスクを全員が持っていますっていう設定は一緒っていう感じで。
実は結構怖いのが、怖いっていうか面白いのが、あらやしきの対象、過去の行動って何よっていう話なんだけど、これって実は行動情報と肉体と事故っていう3つがあるっていう風に言われてるんだけれども、事故を取り巻く環境化。
だからまさに自分を取り巻いているものとかある肉体とか、その中で起こること全てなんだけど、これは実は今生きている、例えば僕らで言うと30年40年くらいの人生だけじゃなくて、
いわゆる輪廻をした過去のあらゆる生における行動が蓄積されてますっていうね。 おー仏教っぽくなってきた。はいはいはい。 だから僕らはデジャビューみたいなものもちょっと違うかもしれないけど、
なんかそのこの人生での経験、そうしたら赤ちゃんはゼロで、要は何もないものになっちゃうじゃない。 うん、さっきそう思ったあらやしき。経験がないから。
でも赤ちゃんでもその前の生、それを一定あると捉えた時に、そこでの行動情報を持っているから、そのあらやしきに基づいて生まれてくるし、生きるし、世界を認識するし、ってことが起きるのね。
で僕らは前回人間かどうかもわかんないから、もしかしたら虫だったかもしれないし、とか、それも全部アーカイブされてます。
だから、そうやって人生が続いていくしとか、今の人生の自分だけじゃなくて、過去の自分の経験というのもあるし、頼りにしながら生きています。というのがこのあらやしきから出てくる人生観というか考え方です。
はいはいはい。
で、そのあらやしきっていうのは実は事故を取り巻く環境、だから例えば今僕らがその部屋の中にいて、その外に家があって、さらにその外では例えば晴れていてとか雨が降っていてとかっていうのが理解できると思うんですけど、
21:03
この環境みたいなものも直接的に認識されるっていう風に言われるのね。だから例えば、パントとかそういう考えで言うと、僕らが目の前のリンゴを見るからリンゴっていうものを認識できるっていう風に、互換を中心に、感性を軌軸として捉えるんだけれども、
そうじゃなくて、まずあらやしきっていうものと環境というのはすでにつながっていて、あらやしきの中に一気に世界がバッと立ち上がりますと。
はぁー、あ、五感とかで入っていったものがあらやしきの中に保存されるという順番じゃなくて、直で保存されるんだね。
そう。
直であらやしきっていう感覚みたいなものがあって、ま、繰り返って。
そう。だから僕らは過去の経験からまさに世界を認識していて、それがあらやしきの中にバッと立ち上がった時に、
その立ち上がった世界に対して、見るとか聞くとかっていう式を当てはめていって、世界を構築していくんだっていう。
はいはい。
なんか、一瞬一瞬世界を作り上げているんだっていうのはそういうことだね。
なるほどねー。わ、すごい、そう。
なんか、うん。
面白い。
うん。正しいかわからないけど、そうね。なんか、ハードディスクとかっていう例があったから、だけども、
うん。
パソコンでいうとモニターって最後だもんね。
あ、そうそうそう。最後だもん。
いろんな映像の結果がモニターにただ映るだけで、そのままにやっぱ処理されていて、っていう感じにちょっと近いかなと。
あ、でも近いと思う。だから、人間がそれ何かが起きたとか、見たっていうふうに理解するのは最後で、有識的に言うとね。
うん。
そもそも一個である、本性のないとか、分かれていない一個の世界があって、それを認識する中で世界を立ち上げて、
その中にいろんな、なんだろうな、構造物が配置されて、それを見たり聞いたりするっていうところで世界として捉えるみたいな、そういうものがバーって起きてるみたいな世界観。
うんうんうん。
すごいな。
それを食うっていう概念の上に、土台の上にこの有識値を立てたのってすごいね。
よくぞそれを立てたって感じする。
そうそうそうそう。
ギリ空の話のままというか、繋がるんだよね。
空を否定してないから、すごいよね。空を否定しないと人間の中ではあるとされるみたいなのって空では否定されそうなんだけれども、
ちゃんと空っていうものを尊重、リスペクトしながら、その上にこの有識、その物事を、その言語と自分をっていうものがパッと形作られてそれを認識していって、
すごいね。それは論的に破綻してなさそうっていうのが。
24:04
そうそうそう。もちろんね、僕らからしたら、じゃあ前世があってとか、その込め込まれる蔵なんてものはもちろん、科学的にじゃあわかるのかって言ったらもちろんわかんないし、
そうね、遺伝子の情報でしょとかって言っちゃいそうだけども。
そうそうそう。それを信じるかって言ったらね、素直には信じれないけれども、一旦そういったものがあるとか、あらやらしきっていう働きがそうだって、
一旦理解すると、確かに言えるよねとか、結構わかるよねみたいな感覚になると思うんだよね。
そうだね、それ自体も面白いし、やっぱりその思考プロセスもすごい面白いなと思ったし、まだ完璧に理解していないとはいえ、今の話聞いただけで。
なので、あらやしきっていう、優位識っていうのは8つの根先要素があるよって言ったんだけれども、
その識の働きによって、それがどんどんどんどん繋がっていくことで、この世界っていうものが生まれるとか認識する。
それぞれの人の心の中に立ち上がるよっていうのが結構重要な考え方ですと。
で、あらやしきの面白いところは、対象の得り好みをしないって言われるんですよ。
どういうことかっていうと、あらやしきは仏性に対して良いとも悪いともないっていうことなんですよね。
要は、あらやしき自体が仏性があるものだったら、仏性に近づくものだけを蓄えて、仏から遠ざかるものを捨てたらいいじゃないですか。
アーカイブするときに、使者を選択して。
釈迦フィルターみたいなものがあるはずってことだね。
そう、釈迦フィルター。
そう、ろ過されたらみんな仏になっていくじゃん。
そういうのはないんですよ。だから良い行いとか悪い行いも全部アーカイブされますよっていうふうに言いますと。
だから仏になるっていうのはあらやしきの働きじゃなくて、その上にあるまなしきとか意識とかの働きというか、それによるんだよってことを言うんだけども、この後。
あともう1個面白いのは、じゃあ死ってないよみたいな話があって、っていうのは、全てが心の現れる世界だったら、あらやしきがある限り死なないじゃんみたいな。
確かに、そうね。肉体っても存在しないし、死にようがないね、確かに。
そうそうそう。だからそもそも言ってくれたら、肉体ってのは存在しないっていう空的なところからすると、人間にとっては死もないとかって言っちゃいそうなんだけれども、
さっき言った通り、実はあらやしきっていうのは、その3つのことを認識してアーカイブしていて、それが行動とかそういった情報と事故を取り巻く関係があって、肉体っていうのがあるね。
つまりあらやしきは直接肉体を認識しているから、人間にとっての死っていうのは、その肉体っていうものがあらやしきの認識から外れることっていうふうに言いますと。
27:06
どういうことかっていうと、人間が生きているうちに心の世界に現れてくるものって、あらやしきが認識できるものだけっていうんだよね。
はいはいはい。
だから、あらやしきが認識されている限りは心の世界に存在するんだけれども、体っていうものを認識できなくなると、心の世界に現れないから、つまり人間的な死が起きますと。
でも心は死んでいないから輪廻っていうものは存在するというか、生理するよねっていうのが、この有意識から言えますよねっていうことを言うの。
あー恐ろしいなー。隙がなさすぎるというか。あるんだろうけど。
銀で説明できるもんね。前バッタで生きてたとすると、死んだとするとその時にバッタっていう体は手放します。
次に得た肉体が、じゃ仮にクマだったらっていうのはなんか想像できちゃうもんね。
そうそうそう。でもバッタとして起きた時の多分世界のトラヤ型とかの行動っていうのは残っているからみたいな。
でもクマになった時に現れるかというと別に現れたら現れなかったりするみたいな。っていうことが何となく言えちゃうじゃない。
言えちゃうよね。確かに。
社会フィルターがないっていうことで、現実として苦しんでいる人はいるし、悟れない人もいるし、っていうところの説明もできて、じゃあその人たちがどうせは悟れるかっていう逆算もできるみたいな。
すごいね。
面白いでしょ。
面白い。すごく面白い。
そうなんですよ。だからやっぱりこのあらや式っていうものを構造としてというか、概念としてボンと入れることで、やっぱりいろんな問題を解決できるっていう、すげえ思想だなって僕も思ってるんだけど。
そうか、だから式なんだね。さっきちょっと繰り返しになっちゃったけど、互換から捉えたものをあらや式に互換していくって考えたと違うっていう、そこも面白いと思ったね。
直であらや式で認識してるんだって。
そうだね。だからその式の働きっていうのがいろいろある中のあらや式は根本ですっていう風な感じで、他の意識、それこそ互換であっても、それはあらや式の働きから転じたもの、要は転じきっていうこともあるんだけど、
あらや式が本式、大元の式で、他のやつは全部転じき、あらや式が転じて出てくるものです。だからその働きも本当は全部一つなんだけど、僕らが理解しやすいのが分けて考えることだよねっていう。
エリゴの見しないで入ってきた情報そのものを転じきっていうことね、例えばこれ味覚として現れるかもしれないし、触覚として現れるかもしれないし、みたいな順番、むしろそういう順番ってことだね。
30:02
そういうこと、そういうこと。
逆だ、面白い。
逆なのよ。
だからインプットとアウトプットと逆っていうのがまさに面白いんだけれども、ただこのあらや式には実は人間にとってのエラーがあって、っていうのはさっき言った通り、こういうあらや式みたいなのが理解しちゃうと、
要は死んでも死んでも残っていくアーカイブとかハードディスクってなったら、なるほど、それが人間の根底にある不変な存在なんだとか、僕らの根底にある我なんだって思っちゃうじゃないですか。
はいはいはい。
でも諸行無常で諸法無我だからないのよ、あらや式も。
うんうんうん。
だし変化し続けるよね、あらや式も。なのに僕らは普通に考えると、あらや式っていうのは常なるもので、自分の根底にあって自分を支えてくれる実がだ、不変実体の我なんだっていうふうに思っちゃいます。
うんうん、ありそう、確かに。
しかもそこにも実はメカニズムがあって、この間違いを犯す元となっているのが、まさにこの第7マナ式っていう式の働きなのね。
うーん、そこが間違ってるんだ、間違いを犯しちゃう。
間違ってる、マナ式が間違いを犯しちゃってるの。
うんうんうん。
つまり心としては普通にあらや式っていうものがあって、それが我であって執着すべき事故であるみたいに考えちゃうんだけど、それは囚われなんだと。
で、それはそのマナ式とかっていう働きで実際起きちゃうんだけど、その執着を手放すことっていうのがある種悟りの一つ、悟りっていろんな形があるんだけど、その一つだっていうふうに言われますと。
うーん。
隙がなさすぎる。
いやまあね、よくよく見ると隙だらけというかね、割とガファガファだったりするんだけど、あらや式って何よみたいな。
そこから否定されちゃうとね、理念って何よとか言われちゃうと。
そう、言われちゃうと。でもそういう認識の主体としてとか、いろんなものが確かにアーカイブされているとするなら、それやっぱり自分とか、自分より大きな自分って捉えちゃうよね、みたいなのを思うだろうし。
でもそこで終わらせずに、それもでもあらや式の働きが出てくるものだって捉えるのが、すごい仏教の大事なとこなんだよね。
別のAとBという働きがあって、あらや式ってAに対して、まな式っていうBがあるんじゃなくて、あらや式から転じたまな式っていう働きがまさに執着とか自我を生むんだっていう、この構造で捉えてるのがめっちゃ面白い。
33:00
その上では隙がないっていう。だから面白いのかな、その世界観みたいなもの。
やっぱりイディアみたいなものを想定せずに、その世界観を語ってくれるから、そこが面白いのかな、パワーもあって。
そうだと思う。やっぱり一個の世界観とかストーリーっていう言い方はあれだけれども、捉えるとすごく感性されていたりとか、すごく共感できる部分があるっていうのは、やっぱりこういう仏教的な思想の力強さだし、面白さだなって思うかな。
すごいね、このあらや式だけでここまで。これがさらに次のまな式に影響を与えてくるってことなんですね。
そうです。
影響を与えるというか、それをさらに生み出す必要があったってことかな、そのあらや式を想定してまな式が必然的に生まれる必要があったみたいな話かな。
なぜならあらや式っていうのは、当然僕ら理解できないというか、そういう意味では意識に昇らない無意識の対象なんだよね。
でも僕らはそれによって生きているから、じゃあこのあらや式と僕らの日常をつなぐものってなんだっけっていうことを考えていくのが、まさに次からのまな式だったり意識だったりっていうふうな感じです。
今日のあらや式の説明はこんな感じなんですけど、でも結構言葉としてはあらや式かっこいい、あらや式みたいなのが出たりするじゃん、漫画の名前とかでも。
でもこうやって聞くと、なるほど、みたいな感じちょっとしてきたかな。
知ってきたね、大発覚まであるんだよとか、そういうレベルの話じゃなくて、なんでこれが必要だったかと、どういう機能を果たしてたかっていうのが面白いし、個人的にちょっとずれると思うんだけど、
知らない人もいるかもしれないんだけども、今回はあらや式がクラでハードディスクで、ただそれを実がと問われると間違いだっていう最後の流れまで含めて、ちょっと広角軌道体を思い出してしまって、ちょっと不気味なんだけど。
あれで電脳があって、そこに物理的にいろんな情報っていうか記憶とかも保存される。ただその電脳を、誰かが死んだ時にその電脳を、別の機体って体?機械の体があるんだけど、それにデータが詰まった、人生の全てが詰まった電脳を移植すれば、人格まで生き返るか人間が不死になれるかっていう時に、それは無理だみたいな話をしてて、
その電脳とは別にゴーストが存在するっていうのがテーマというかあるんだけど、なんかね、ごめん広角軌道体知ってる人だったらなんか教科してもらえるかなっていう喜びを今感じてしまった。これ電脳とゴーストだわみたいな。
36:04
もし広角軌道体がお好きな方がいたらぜひお便りいただけると。多分そういった考え方の根底にもこういった仏教的な思想だったりとか、私も物理学の中でもそういう情報とは何かみたいな考えがあったりするから、結構近いものはあると思う。
物理学的に感動してくれる、くれとかできる人もいるだろうし、なんか面白いと思った。
今回は一旦このような形であらやしく説明しましたというところで、次回はこの合集、あらやしく終われというふうに取られちゃう原因となるマナ式って何なのかとか、その後にある意識とか、前後意識たにゃみたいな話とかっていうのもちょっと次の回で見ながらですね、
よりこのミュージシック思想っていうものをしっかり見ていけたらなと思いますので、ぜひお楽しみという感じでございます。
いやー面白い。次回もお楽しみにしてますので、じゃあまた。はい。
はい。いい続きよろしくお願いします。
よろしくお願いします。ありがとうございます。
ご視聴ありがとうございました。チャンネル登録よろしくお願いします。
37:20

コメント

スクロール