1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #41 唯識の世界観は「有るので..
2022-09-14 36:38

#41 唯識の世界観は「有るのでもなく無いのでもない」である

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(テツラジオ)
はい、それテツラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回までで、有意識の8つの式というか仕組みみたいなものの構造を教えてもらいましたと。今回はどういった話になっていくんでしょうか?
はい、8つの構造というのはあくまでも構造の話だけなので、僕らがどういう構造を持っていますか?という僕ら側の話をしたんですよね。
はいはい、パソコンに言うとこれがハードディスクで、これがメモリでみたいな話をただしてくれたというところだね。
そうそうそうそう。
パーツパーツを。
ここにパソコンがあって中身はこうなっていますって話をこれまでしてきましたと。
じゃあやっとここからパソコンで何ができるんですか?という話ね。
一番大事そうな話だね。
そうそう、やっと使えるよっていうところなんだけど。ここまでもですね、お伝えしてきたように、その有意識っていうのは全てを我が心、その式の働きによって展開されるものだというふうに捉えますと。
なので、あれがあってこれがあってではなく心だけがあって、心が世界というのをブンと作り出すよみたいな、まさにパソコン的な感じなんですけど。
はいはいはい。
なのでつまり有意識っていうのは、僕らは心、守っているとあらや式から五式に至る構造によって知られた限りの世界で生きてますよっていうふうに言うよね。
うんうん、その五感で捉えてるんじゃないよって話だね。
そうそうそう。でもともにやっぱ全てのことを捉えられるわけじゃなくって限界があるよって話はしていて、もっと言うと究極的には自分が知っているかどうかが大事だよみたいなことを言うのね。
うーん。
もっと言うと、他の誰かが、例えば兄貴が知っていることでも自分が知らなかったらそれって、要は自分の世界にないというか使えないってことになっちゃうじゃん、現実世界においてもね。
はいはいはい、確かに。
例としてこれとかはすごいわかりやすいなと思うんだけど、あるね、AさんがBさんっていう友達の家に行って、四孔玉飲んで眠っちゃいましたと。
はいはい。
家で宅飲みしてね、酔っ払って寝ちゃいましたと。
で、友人Bさんは、Aさんが旅に行くっていうのを知っていたから、先別だと思って、この襟の内側に高価な宝石を縫い付けましたと。先別だと思ってね。
で、こうしたら忘れないし気付くだろうと思ってやって、で、ただBさんは用事があって、出かけちゃいますと。
で、Aさんは後に怒って、後から「ああー」って「目が覚めたわ」って起きるんだけれども、そこで旅に出かけていきますと。
ただAさんは、その襟に宝石があるなんて知らない、とか気付かないから、旅先にお金がない時に、もうお金ないお金ないって言っちゃって、すごい貧しい暮らしになっちゃいますと。
03:12
あー、なるほどね。自分の首のとこにあるのにね、売ればいいのにね、っていう。
そう、あるのにね、気付かないから。で、この話だと、友人Bさんは仏で、縫い付けられた宝石っていうのは仏性、仏性っていう、要は悟りに近づく教えみたいな感じ。
で、後日、友人のBさんが「おい、何してんのお前、その襟に宝石あってすぐ見たらわかるのに、なんでそれ使わないの?」みたいに言うんだけれども、そう言われても見えないものは見えないしとか、認識できないものは認識できないよねと。
つまり、僕らはその内側に仏性とか仏に近づく働きみたいなのを持ってるんだけれども、それでも気付かなかったら発達もできないし、当然仏にもなれないよねと。
あー、なるほど。
だから全ては心の働きなんだけど、その心の働きの中に仏に近づく道とか、そういうものを持っていない。それに気付けないと、結局何も起きない変わらないよね、みたいなことを言いますと。
これとかね、結構現代にも応用できそうだね。やっぱり内なる可能性に気付こうみたいな。
確かに、そっか、そうだよね。だし、いろんな本とか情報とかね、テクニックだけじゃなくて本質的なこともいろんな情報としては教えてもらえるし、そういう環境にいるけれども、いくらそれがあるんだよって言われても、分かんないことは多いかもね、確かに。
あるかもね。
だからね、やっぱり自分、あなたはこんな良いとこがあるんだよって言われても、やっぱり自分が「え、そんなんじゃないです」って言い続けてると、その良さがなくなっちゃうとか、自分で使えなくなっちゃうみたいなことってあると思っていて。
確かに、この宝石の話だとね、なんか「いや、バカじゃん」って、襟触れば分かるし、そこにあるよって言われたら「分かるじゃん」みたいな感じで理解してるけど、確かにね、違うかも。
そうな感じの。
そんな単純なものじゃない気がしてきた。
そうだね。目に見えないもの、思ってるというのは仏性、仏性みたいなもので、目にも見えないし、触れないし、言ってもやっぱり気づかないものだから。
「あなたは仏になれるんですよ」って言われても、やっぱり本当にそう思わない限りは、やっぱりそういう修行もできないよね、みたいなことを言いますと。
ああ、そうか確かに。宝石だとね、確かにみんなね、知ってるもんね、それが大事なもの、すごいものだってね。
そうそうそう。
これもあくまで例えと例えの限界みたいなのがあるんだけれども、じゃあね、そういう有意識の世界から、有意識の観点、要はさっき言った、前回やっぱりかみ合わなかったじゃない、兄貴と僕の中で使う言葉とか、世界の捉え方とか。
06:15
なんか光がセンサーでとかさ、熱を捉えるセンサーとかで全然違うよってなったもんね。
ああ、そうそうそう。で、それを今度は説明していくのね。じゃあ有意識の立場から見ると世界ってどうなりますかと。
すごいざっくり言うと、ふわっと言っちゃうと、要は理工的な自分しかいない世界になっちゃうのみたいなこともあるじゃない。要は自分のあらやしきだけがあって、とかってなっちゃうんで。
で、実はそうじゃないんだよっていうお話なんだけど、実は結構これって西洋哲学でもすごいけんけんガクガク言われる問題なんですよね。世界って何とかどうやって捉えるのみたいな。
ああ、そう。なんでそれはまた今度ね、西洋哲学の方でもやっていきたいと思うんですけど、まずこの有意識で言うと、三性、三つの性、性質というか、世界みたいなのがあるよっていうふうに、世界というか捉え方があるよっていうふうに言うんだけど。
もし言葉を知りたい人はですね、三性、三つの性質の性でググってください。漢字とか言っても絶対分かんないというか、漢字に意味があるかっていうところでもないので、仏教用語で。
っていうのでお伝えしていくんですけれども、一つ目がですね、変化初心者と言います。もう分からないよね。
この変化初心者っていうのは、要は意識、第6の意識が、見るものと見られるものに分かれて、分別、ものを分けるっていうね。分別の世界であれやこれらの認識を生じて、かつそれを一個一個が存在する、括弧たる存在だっていうふうに思って執着しちゃうことですと。
一般的な人の生きてる世界というのはこれで、仏教的に言うと本当はそんな一個一個のものなんて妄想でどこにもないのに、あると思う世界を作り出しちゃってるよねっていうのがこの一個目の捉え方ですと。
さっきのあれだね、四つの既本能に近いか。
そうそう、前回話したね。我ってものを作って、それに執着しちゃいますよっていう話です。
これが一般的や仏教的で言うと間違った世界の話で、二つ目が仏教的に正しい世界で言うと、得た希少っていうのがあって、これは演技的な話で、あらゆるものは他のものを原因にして生じていますと。
だから見られるものっていうのはない、要は外に世界というのがなくて、見るもの、つまり自分とか心だけがいますよ、ありますよっていう話ね。
09:07
っていうのが二つ目なんだけど、三つ目が縁状実象っていうのがあって、縁っていう、円満とか完成してる、丸って書けてるものがないみたいな話なんだけど、
そういう真実性を持っているっていうことで、さっき二つ目の得た希少だと、自分だけであり心だけがいるって言ったんだけれども、そもそも心もない空なんだけど、
でもそれは心が完全性とか究極性を持っているから、そういう演技の世界が生まれるんだっていうような話をしていきます。
絶対的な共知っていうのが三つ目の縁状実象っていう話なんだけど、これは1、2、3ってあるからそれぞれバラバラなのっていう感じなんだけど、実は二つ目と三つ目は結構行き来をしていて、
要は世界が円満で一つも欠けたことがない、欠けたものがないっていうふうに思うと、世界というのは分からない、要は無分別、AやBやって分からない世界になって、
全ては演技の中にある、全ては一つでそれが移り変わっているだけだよっていうことがわかるし、全てが演技で繋がっている、他のものからできているって思うと、
あらゆるものは繋がっていて一つだから完成されたものっていうふうに立ち上がってきますよねっていうのは、
1個目の全てを分けちゃう世界と、2つ目と3つ目の全ては一つであって繋がりを持っている世界っていうのが、それぞれ分かりますよねっていうふうに言いますと。
(ヨウ)これはあれだね、3つって言ったけれども、全部こう1つ目の変化所周称、1つ目全部を包含していくようなイメージだね、玉ねぎみたいに。
(深井)ああ、そうだねそうだね。 (ヨウ)一番内側が分別がある世界、しちゃっている世界で、それを包み込んでいるのが分別がない、2つ目のエータ気象か。
さらにそこを包み込むっていうと、2つ目と3つ目は包み込むという概念とはちょっと違うのかもしれないけれども、どの中で包み込んでいる感じはするかな、今の話だと。
(深井)そうだね、さっきの玉ねぎって言うと玉ねぎしかないのですよ、仏教の世界で言うと。 (ヨウ)何玉ねぎしかない?
さっきの玉ねぎの例で言うと、要はあらやしきというか心しかないから、要は玉ねぎが宇宙全体、この世の全体としたら玉ねぎしかないのね、本当は。
でも僕らが玉ねぎには層があるよねとか、こっちの層は外側で、こっちは内側でとかって分けちゃうから、そういう玉ねぎの層みたいな発想が出てきますと。
12:01
(ヨウ)はいはいはいはい。で、経験論的に玉ねぎには層があるよねっていう世界で生きちゃってるよねって話だもんね、うちらは、まず前提として。
(深井)私は、それは僕らは認識して捉えちゃうから、玉ねぎには層があってって考えちゃうよねって話だもんね。ちょっと僕何言ってるか分かんなくなってきてるね、たぶん。
(ヨウ)ここだけ言っちゃうとちょっと面白いんだけど、あのさ、頭に玉ねぎがイメージされちゃうとちょっと面白すぎるな、ちょっと。それが宇宙でとかって言われるとさ。
(深井)ちょっと今ここだけ聞いてられたらやばいなってちょっと今思った。
(ヨウ)ちょっと絵面がちょっと面白すぎてごめん。話が入ってこなかったごめん。でも分かりやすいかも、分かりやすいよ、たぶん、玉ねぎ。
(深井)たぶんね、この辺がちょっとね、全問答っぽくなってくるんだよね。
(ヨウ)玉ねぎが宇宙だ、みたいな。
(ヨウ)そうだね、その外には何もない無だ、みたいなね、とすると、みたいなね。
(深井)そうそうそう。
(ヨウ)こういうふうにね。
(深井)ちょっと面白かったな。
(ヨウ)すごい分かりやすいのにね、乾燥してきた、玉ねぎが。
(深井)いやいやいや。だから、3つの世界があるんじゃなくって、あくまでも世界は1つなんだけど、それを分けたり考えたりしちゃうと、そういうふうに見えちゃうよねって話を今してますっていう感じね。
(ヨウ)はいはいはい。
(深井)そうそう。なんかその辺りなんとなくイメージ湧くかな。
(ヨウ)いや湧いたよ、湧いた。何度もあれだけど、玉ねぎのつなぎ目がなくなっていくと考えると、なくなっていくか。
(ヨウ)だってある世界に生きちゃってるから、本当はないのにっていう意味で、それが本当はないんだよっていう、あんまりこのアンラーニングって言葉は連発したくないけども、それはちょっと話だと思う。
(深井)いや素晴らしい。あのね、今めちゃくちゃいい、確かに反射をしてくれて、ですがね、ここで満足しちゃいけないんですと。
(ヨウ)えーうん。
(深井)兄貴は今、まさにその玉ねぎの層がある世界からない世界に行ったじゃない。
(ヨウ)そう、それをなんか目的な感じにしてる。
(深井)つまりこれっていうのは、実はこの3つの世界、3つの層、3層っていうのは、世界を言う世界があるっていう視点から見てるのね。
(ヨウ)へー、はいはいはい。
(深井)そう、つまり玉ねぎには層があるっていう世界から見ると、一個一個溶けほぐしていったらなくなって、つながりがゼロになって全体になりますと。
(深井)だから世界があるっていうふうに理解する観点からはこういうふうに言えるんだけど、でも優衣識って、リュウジュの空の世界から考えてるから、世界はそもそも実体がないんですよっていうところなのね。
(ヨウ)だから僕はさっき玉ねぎが全てであるとか言ったんだけど、要は玉ねぎが全てであるっていう世界もセットで理解しなきゃいけないの。
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(深井)あー、そっか。さっき笑っちゃったけど、玉ねぎのイメージが干渉してくるって言ってるようじゃまだあるの世界で生きてるってことだね。
(ヨウ)そう、そう。
(ヨウ)玉ねぎそのものっていうのを理解していれば、あの形をイメージするんじゃなくて、もっと存在そのものをただ感じろみたいな話みたいな。面白いわけがないんだよね、たぶんね。
(深井)あのね、円満の欠けることのない玉ねぎっていうのは想像できるかどうかなのね、ヨウは。
(ヨウ)うんうんうん。
(深井)そうですと。そうなのかなと、ちょっとうまく伝わってる自信が。
(ヨウ)ごめんごめん。あるものの話しちゃってるからね。
(深井)そう、あるものの話しちゃってる。
(ヨウ)それがないって言われたらもう限界だよね。もう。あの、限界って理解の限界を超えるよね、たぶん。言語化の限界か。
(深井)言語化の限界を超える。やっぱクールはね、そこが難しいんだけども。
(深井)だからある世界から辿っていって、ない世界を見つけるっていうのはもちろん正しいっていうかね、わかりやすい筋道なんだけど、
(深井)そうだとやっぱりある世界からない世界っていう順序を想定しちゃうから、ない世界もちゃんと考えましょうと。
(ヨウ)はいはい。そこ、たぶんそこのハードルというかそこの壁がさっきハエトンが言ってた、身体的理解のものの壁な気がするね。
(深井)うん。だってないものは考えれないから、僕らの普通の発想で言うと。
(深井)ただ、あるを前提とする今言った3つの三性という性質と世界の切り分け方と、ないっていうのを前提とする三無性っていうのがあって、
(ヨウ)はー、はいはい。
(深井)3つの無の捉え方ね。これを同時に理解することが優識の正しい理解ですよっていうふうに言いますと。
(深井)なぜなら、あるって聞くと実在を認めちゃうからね。完全な世界っていうのはあるのではなくないのでなければならないみたいな、もうちょっとわけわからなくなってきた。
(ヨウ)うん、確かにここだけ、そうだね。今この流れで聞いてるから、まだね、そうかもって思えるけど、意味わからないよね。
(深井)普通にね、ここだけ入ってるとか。
(ヨウ)まさに全問答だよ。
(深井)いやー、そうそうそう。で、それがどんなふうになるかっていうと、その一つ目の変化初心者っていうのは、分別の世界みたいなのは、
(深井)クーの立場から言うと、あとちょっと読み方合ってるかあれなんだけど、相無性?
(ヨウ)要は、さっき言ったみたいに、まさに相、どっちかっていうと愛対するとか、相対的な時の相ね。
(ヨウ)っていうものがないんだよっていう、結局その分別されて認識されたものっていうのは、そもそも実体がないんだよっていう、これまで常々言ってきた空的な話だよねっていうふうに言いますと。
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(ヨウ)世界には実体がないです、空がないですと。
(深井)で、二つ目の得た気象っていうのは、これもちょっと読み方合ってるかあれなんだけど、相無性っていう、相ずる?生まれる?ことっていうのはないですよっていうふうに言われますと。
(深井)僕らは演技だっていうと、そうやって陰と我が連続して繋がっていって、あるあるあるあるって思っちゃうんだけど、
(深井)そもそも演技っていうのも一時的にそうあるだけで、決してそれもの自体があるとか、生まれてきたわけではないんだよと。
(ヨウ)うんうんうん。
(深井)ただただ偶然その繋がりとか重なりがあって、そこに存在するように見えるとか捉えている、認識しているだけで、それはないんだよっていうふうに言いますと。
(深井)だから相無性ね、生まれることはない立場とか世界。
(ヨウ)で、3つ目の炎上実証っていうのは、正義無性っていう言葉になるんだけど、正義っていうのは仏教で言う最も優れた道理とか、教治みたいな言葉を勝利の性に義理の義で正義っていう言葉があります。
(ヨウ)これ仏教用語なんだけど。なので、炎上実証はもともとあらゆる究極の完全な世界とか真理だから、それっていうのは正義っていう仏教の最も優れた教えなんだけど、それもないんだよと。
(ヨウ)他の実体的なものと同じく、無の性質を持っているとか、無として捉えなきゃいけないんだよっていうふうに言いますと。
(ヨウ)わかりやすく言うと、色素で空と空素で色がセットであるっていうのと同じなのね。
(ヨウ)多分、リュウジュの時にも言ったんだけど、要は必ず反対とセットにしないと、色素で空って言って、色、物事っていうのは空だよって言うと、ないんだから虚無かなとか、じゃあ無意味なのかなって思っちゃうし、
(ヨウ)空足是識って言って、ないものはあるって言われると、やっぱあるじゃんみたいになっちゃう。だから片方だけで理解しないっていうのがすごい大事。
(秋木)すごいね。確かにこれ、空の時に自分が驚いたというか、面白いなと思ったのが、結局空っていうものも、こうやって言葉で説明したらあるような感じがするけれども、結局あらゆるものは相対的にしか表現できないんだみたいなところがすごい面白かったんだよね。
(ヨウ)絶対的なものなんて存在しなくて、あらゆるものは相対的にしか、何かとの関係の中でしか存在しない、認識しないみたいなところがすごいなと思ったんだけど、そこを字で言ってるというか、すごいよね。
21:04
(秋木)めちゃくちゃありがたいことを教えてくれてるのに、やっぱりそれは存在しないっていうことを想定すると、さっきの引き即、是空、空足、是識みたいに、それと対となるというか、まあ対となるとなっちゃうとおかしいんだけど、それと相対的なものをセットにすることで、
初めて本当に伝えようとしたことを汲み取ってくれっていう、言語化の壁を何とか越えようっていう、そのためには相対的に物事を全部表現しないといけないっていう、
これはもしかするとあれなのかな、仏教超頭いい人たちがそういった身体的な理解みたいなものを、どうしても、もうあれだよね、あるもので言語だったりとか認識できるもので表現しなきゃいけないっていう、
その苦肉の柵みたいな、そういう努力の結晶みたいなものをすごい感じた。
三相と三無相の対比ですごい感じた。
でも本当にそうで、やっぱり仏陀がもう全ては無駄、仏陀が諸術は無常だって言っちゃったから、それを僕らは理解しなきゃいけないけど、普通に生きてるとどうしてもあるじゃん、世界って。
僕らも生きてるしあるじゃん、一人一人。そこにやっぱり絶対的な矛盾というか違和感があって、それをどう乗り越えるかっていうのをまさに突き詰めていくと、こういう構造とか説明が出てくるだろうなと思っていて、
兄貴がまさに、キリシカも相対的だって言ってくれたし、ちょっと次の感想で僕触れようと思ってるんだけど、面白いのが、この仏教の考え方が、いわゆる最新の物理学でいうところの、一般相対性理論、それこそアイシュタインが作ったような、
要は時間とか空間っていうのも、相対的なものでは絶対的なものじゃないよみたいな話とか、ある種の量子論、要はミクロの世界でいうと物体っていうのは、存在しているとは言えないみたいな話と、世界観的に近いよねみたいなことを言う人たちもいて、
そうなんだ、はいはい。
だからこそ、別に彼らが別に相対性理論を酒取りしていたとか、一種意義学を作っていたみたいに言うと言い過ぎなんだけど、完全に。
やっぱりそういう「ない」とか「無」みたいなものを向き合い続けて考えたからこそ出てきた発想っていうのは、多分物体とか物質はあるあるって思っていたものが、原子っていうのも原子の中に原子核と電子があってみたいな、すごい細かいところまであった時に、
24:03
でも実は動いてすらいないみたいな、今でいうと。ちょっと次その辺もお話しようと思ってるんですけど、その感想っぽいでね。
あと面白いのが、世界は関係であるみたいに言う哲学者も最近いるんだけれども、兄貴は相対的って言ってくれた通り、逆に西洋というかキリスト教においては神っていう絶対物を立てることによって、
すべてを神との関係で説明しようとしたのがある種キリスト教というか宗教、一神教なんだよね。 仏教は神というか絶対的なものを立てられなかったから、だからこそすべてを相対的なというか何かと何かが関係しているって世界において説明しなきゃいけなかった。
だからこそこういうあらやしきとか、まなしきみたいないろんな関係性とかが出てくるよねっていう風に捉えてるかな僕は。
なるほどね、お釈迦様よね、仏陀。何してくれてんだって話は無とか言ってんじゃねえと。後の人は苦労しただろうね。黙って仏陀が神であってくれればもっと楽だったのに。これはキリスト教が楽って話をするわけじゃないけども、
仏陀が決めたルールっていう制約条件が結構難しかったんだね。 そうだね、ルールを超えたことを言っちゃったから、だからこそ僕らは逆に仏陀とか仏教のこうやって人たちが考えてきた、いわゆる西洋にはない、ある東洋的な無等は何かとかそういう世界っていうのを僕らも受け取って考えられるから、それはやっぱりすごい人類の財産だよって思うよね。
はいはい、そこは深みだったりとか、もちろんあるってことなんだね。全然知らなかったし、まだ分かってはいないと思うんだけど。
仏教面白いっていうのはまさにそんな感じなんですけど、ちょっと今日の話としては最後あともう一個お話したいなと思っていて、ここまでで有識の説明が終わりますよと。
要は8つの構造があって、世界っていうのはあるっていうところから発生した3つの捉え方と、ないっていうところから捉えた3つの捉え方があって、それをちゃんとセットで考えましょうねと。
それをちゃんと理解しながら仏の道に近づくために修行をちゃんとしていきましょうねっていう話をこの有識三重十の後半でしていくんだけれども、結構ね大変とか不穏なことが書いてあって、
例えば仏になろうって心出すんですけど、仏の世界ってこんだけ深遠さというか深い、分かりにくい世界だし、自我も断ち切れないような、マナー識なんてよくわからないものをどう相手にするのみたいなのを知って、
27:00
修行を諦めたりとか躊躇したりすることもあるよみたいなことも指摘されたりします。
その大変さっていうのは認めてるんだね、教える方も。
うん、だしそもそもね、修行をワンステップごとに進めていくんだけど、そのワンステップ進む状態を変えるために、一、阿蘇義行っていう時間が必要だって言われますと。
ああ、単位なんだ、阿蘇義行っていう単位なんだね。
阿蘇義っていうのが単位で、実際日本にもあるのよ、講話者阿蘇義、習った不可思議みたいな。
はいはい、不可思議とか聞いたことある、ああ、その一つなんだ。
そうそうそう、これが仏教から来てるんだけれども、結構頭おかしい表現で、日本の数字言うと10の56乗みたいな、一応数として表せるものなんだけど、
この仏教の説明で言うと、例えば、一辺が10キロ、これまあ、なんかいろんな説があるんだけど、何キロっていうのは。
一応10キロある岩、立方体の岩があった時に、100年に一度天神の羽衣があって、それで吸って払うのよ、その岩を吸って。
それが削ってなくなりきるまでの時間とか、あとは10キロ四方のお城があった時に、空っぽのね、そこに血しつぶを満たしますと。
それが100年に一粒ずつ取り除きますと。で、なくなるまでの時間くらいワンステップ進むのにかかるよっていうのね。
なるほど、それを現代的に言うと10の56乗みたいな話なんだ。
そうそう、だから要は永遠に近い時間修行しなきゃいけないよっていう話で。
これ第一回の時に、その「有意識は仏になるまで途方もない時間がかかるよ」って話をちょっとしたんですけど、具体的にというか、あの象徴的に言うとこのぐらいに言われてて。
はぁー。
そう、まずなぜならやっぱり、荒屋敷っていうこれまでのどこまで遡れるかわからない過去っていうものに蓄積されたアーカイブされた情報とか、
あるいは「マナ式」っていう荒屋敷を自我だと捉えてしまう意識できない働きっていうのを乗り越えなきゃいけないから、それは大変ですよね。
結構ゆるくないね、これ。
ゆるくないのよ。
人生何回やれみたいな、それは確かに今の人生で諦める人も出るね、これはね。
出てもおかしくないね。
だからね、人心得がたしみたいな、人っていうのはそういう風に考えたりとか、仏のことを想像することもできるから、仏なりにはすっげえいい環境だよみたいなことはあるんだけど、
それを信じて一生修行できる人ってどんだけいるのよみたいな話があって、それはそれは広まらないよねみたいな、こういう世界観自体はね。
30:01
確かに、でもこれも一応大乗仏教ではあるんだよね。
大乗仏教はみんなが頑張ったら仏になれるよっていうのは共通してるから、一生、永遠に修行し続ければね。
はいはいはい。
でもその、正常仏教とかアビダルマの人たちは、そもそも仏になれる人となれない人は違うっていう話だから、仏になれない人もいるよっていう世界観だから。
だからこそ日本では、アビダ仏って唱えれば救ってくれるよとか、座禅で悟れば一気に仏になれるよとかっていうのがやっぱり中国を通って入ってきたっていうのは多分そういう理由もあるんだろうと思うんだよね。
はいはい、なるほどね。そっか、時間軸だったりとか、内容はちょっと違いだけど、さっき言ってた仏教を間違って使う?
例えば、自分の個人的な苦しみを癒すためだけに仏教的な考え方を使うみたいなのがあったけど、もちろんそこまで悪いことじゃないと思うけど、ちょっと近いのかもね。
アビダ仏って言えば、みんな今の苦しみから救われますよみたいな。ある意味ちょっと使い方が変わった場面ではあったのかな?
そうだね、やっぱり原哲理学みたいな、今生きてるのが大事だよねみたいなのは間違いなくそうなんだけど、実際に平安とか神奈川仏教とかもそうやって広まっていくっていうのは間違いないけれども、
やっぱりじゃあ仏教を知って、自分の人生を豊かにしようとか、それは仏教的に素晴らしいとかって言われると、本当に?ってやっぱ思うよね。
あくまでこういうものの上に成り立っているんだよっていうのは、もし仏教というものを勉強しようとか、思想としてね、っていうのは踏まえておくといいかもねっていうのは確かにね。
うん、そうそう、間違いなくなるよねって感じかな。
そうか、その阿弥陀仏みたいなのもちゃんとこの上に立っているからここまで広まってるって話だもんね、たぶん。
そうそうそう、なぜなら、阿弥陀仏っていう人が「三太の本願」っていう、自分は全ての衆生っていうのを極楽浄土に連れていくよっていうのを立てましたと、仏になるときにね、仏になろうとするときにね。
で、自分みたいな凡夫とか、そのペッパッパラパーな人間よりも、阿弥陀様の方が当然仏に近いしすごいんだから、阿弥陀様っていう人にすがって、阿弥陀様に救ってもらえるように頑張ろうよっていう方が現実的に救われるよねっていう発想も、
こういうふうに普通に自分が仏になろうと思ったらもうそれは途方もないよねというところから当然出てきたりする発想だし。
みたいなことを考えると、もともと言った通り、自分の苦しみを解消したいとか、世界を楽しく生きたいとかっていうふうにもちろん使うこともできるんだけど、
33:07
ちゃんと思想とかね、そういう哲学として捉えようと思ったらここまで、僕としては、ある程度捉えられてるつもり、気持ちではあるんだけど、本当に捉えてる人からしたらね、全然浅いよとかお前間違ってるって言われるとはもちろん思うんだけど、
っていうような感じで理解をしておりますというところですね。
有意識の使い方、これでみんな使えるようになりましたと。
使うのがいいかどうかで言うと、僕は使わない方がいいと思います。無限にかかっちゃうので。
というところでね、いずれにしても有意識っていうのは、物事を細々と分別、切り分けていって、あれは好ましいとかこれは好ましくない、だから遠ざけろとかっていうんじゃなくて、
トータルの包括的な荒屋敷という働きから自分自身が世界を生み出してるんだよと。そういう無分別という世界がちゃんとあるというか、そういうのに僕らは生きてるんだよっていう。
そういう無分別っていうのは、まさに仏の世界だし、そういう知恵だよみたいなことを理解した方がいいよねっていうような世界でしたと。
はいはい、なるほど。確かにね、そうだよね。「苦」っていうものに対して虚無主義とか、これじゃ悟れんとかって思ってる人がいたとしたら、やっぱりこういう話をして、
やっぱり頑張って、これだけ大変だけれども、ちゃんと悟りに向かって進んでいきましょうっていう意味で、すごく強力な思想だったりとか、武器っていうとちょっとテクニックすぎるけど、
すごい話なんだなっていうのは、そういうちょっと抽象的だけれども、すごい感じた。
やっぱりね、将来にわたって宗教を続けなきゃいけないとしても、今からちゃんと行動を変えていかないと、どんどん悪いというか、仏に遠ざかっちゃう行動がアーカイブされちゃうから、あれやしきに今すぐやりましょうよみたいな。もしかしたらそういう勧誘をしてたかもしれないしね。
確かに人間的な話もあるとね、今からでも間に合うとも言えるし、確かにそういう意味ではすごい救いがあるね。大丈夫って感じしてきた。大変そうだけど。なるほど、面白いね。
みたいなところがね、こういう意識の説明でございます。というところですね。 なるほど、ストーリーとしてはすごい面白かったし、あとはすごい難しさもあったからね。
これはもう何回か聞かないと、自分も理解できないなと思ったから。 そうだよね。いろいろ聞いてみよう。
なんかね、分からないと思うので、それを分かるためにどうしたらいいかって僕も分からないんだけど、その辺を分からないなりに話す会議とかがあってもいいかなと思うので、雑談的にね。
36:00
自分はさっき言った通り、自分はこういうふうに世界を捉えてたけど、こうやって変わったみたいな話もできなくはないんじゃないので。
次回の雑談とかでもしかしたらそういう話も触れながら、有識を踏まえてワイワイ兄貴とまた話していこうと思いますので。
了解。有識は今回で終わりということで、また次回もよろしくお願いします。
よろしくお願いします。皆さんもありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
(♪ BGM)
36:38

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