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みなさん、はじめまして。4次元から来ました、マヨラー成人19歳、マイアンこと白石舞です。
精一杯頑張ります。よろしくお願いします。
今回のトークは、人名についてお話ししていこうと思います。
人の名前ですね。これは、もしかしたら言語学というよりは、もうちょっと他の分野に属するものかもしれませんが、
人の名前といえど、言葉には違いないので、言語学で扱ってもいいんではないかなと思います。
まあ当然、今言ったように、人の名前っていうのは、その土地土地の文化とね、強く結びついているので、
その名々ってなった時に、いろんなやり方があるわけですね、当然。
で、ある文化では、生まれてきたその子供に、生まれてきた番号を振っていくっていうね、
そういう命名の仕方をする文化というか地域もあるんですね。
まあひどいと思われたかもしれませんけど、これは日本のことですね。
一郎とか二郎とか三郎っていうのは、生まれてきた順番に従って命名しているわけです。
今回メインでお話ししようと思うのは、欧米と言っていいかなと思います。
欧米での、もっと言うとキリスト教圏での名前の付け方です。
まあこれもご存知の方多いんじゃないかと思うんですが、
このキリスト教圏での命名っていうのは、聖書に出てくる聖人の名前から付けられているっていうのが非常に多いんですね。
例えば、英語圏の名前で代表的なピーターっていうのは、これはペテロから来ています。
このペテロっていう名前自体も元々は岩っていう意味だったんですね。
あるいはポールっていうのもよく聞きますよね。
このポールっていうのもキリスト教において重要な人物であるパウロから来ています。
このパウロっていうのは小柄なっていう意味らしいです。
面白いのが、この聖人にちなむ名前っていうのが、英語に限らずいろんな言語で共通してみられるということです。
例えば先ほどのピーターっていうのは、ドイツ語だとペーターだし、フランス語だとピエールだし、ロシア語だとピョートルになるんですね。
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あるいはこれも英語圏でメジャーな名前のジョンっていうのも、これはヨハネから来ていて、ドイツ語だとヨハン、フランス語だとジャンに対応します。
こういうふうに共通した名前が言語を飛び越えてみられるっていうのは女性の方もそうで、
キャサリンっていう英語名はフランス語だとカトリーヌだし、ロシア語だとエカチェリーナに対応するんですね。
このことからわかるのは、文化っていうのは言語の境目を飛び越えるものなんだっていうことですね。
他にもキリスト教圏で共通した人名っていうのはたくさんあるので、ぜひ皆さん調べてみてはどうでしょうか。
おすすめなのはね、僕が今見てるのは人名の世界地図っていう文春新書から出てるもので、
この文春新書から出てる何々の世界地図シリーズって眺めてて結構面白いんですよね。
今までの話は姓名の方でしたけど、姓名字の方も結構面白いことがあって、
英語圏の名前でマックアーサーとかねマクドナルドっていうのは日本人にとってもいろんな意味でなじみがあると思います。
このマックアーサーっていうのはマックとアーサーに分けられて、マクドナルドもマックとドナルドに分けられます。
でこのマックっていうのが何々の息子っていう意味なんですね。
アーサーの息子、ドナルドの息子、これが苗字になっていると。
もっとわかりやすいのはジョンソンとかピーターソンとか、これはそのままジョンとかピーターにソンっていうのがついて何々の息子ということになっています。
で同じシステムはロシア語にもあって、イワノフとかパブロフって言った時の最後のオフっていうのが誰誰のっていう意味で、
イワノとかパブロノっていう意味なんですね。
このロシア語のオフみたいな誰誰のみたいなのは感覚としては日本語の源ノとか平ノとかそういったものと近いかもしれません。
あとはね英語圏の苗字は結構職業名に由来しているものが多いんですよね。
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テイラーとかだと舌手屋だし、スミスだと鍛冶屋だし、これに比べると日本人の苗字っていうのは川とか山とか田とかこういったものが入っていることが多いので、
あとは村とか丘とか、なので職業というよりはその土地の特徴とか地形が由来になっているものが多いと言えるかもしれません。
ここでお便り読み上げたいと思います。ケイリンさんからいただきました。
しがさんこんにちは。今日は最近気になっている言葉の用法について伺いたいことがあります。
それは何々かのようにという言葉の使い方についてです。
最近この言葉が名詞に直接ついて、例えば悪者かのようにのような言い方をしているのをよく聞いたり読んだりします。
というよりそれ以外の使い方を耳目にすることがほとんどないようにすら思えます。
ですが私はこの言葉は先ほどの例で言えば、悪者であるかのようにというふうに何々であるなどとセットで使われているものだと考えていました。
最近まで前者の用法を見ることはなかったと思うのですが、私が知らずにいただけなのでしょうか。
変化があったとすればそこに何か理屈のようなものは見出せるのでしょうか。ご教示いただけると幸いです。
ということでケイリンさんお便りありがとうございます。
これは僕自身は全く気にしたことがなくて、悪者かのように、悪者であるかのように、どちらで言ってもいいんじゃないかなという気はします。
ちょっと調べてみたところ、日本語教育の現場では名詞に直接何々かのようにつけるというふうに解説があるものもあったので、それほど変なというかルールから逸脱した用法ではないみたいですね。
ただ確かにね、ツイッターでこれを調べてみると、この世の終わりかのようにとか、初めてかのようにとか、そういう例がいっぱい出てきて、名詞によくついてるなあっていうのは思ったんですけど、
小名言っていう書き言葉の文をいっぱい集めたコーパスっていうものがあって、それで検索できるんですよね。これも概要欄リンク貼っておこうと思うんですけど、そこでかのようにっていうのを調べたところ、
けいりんさんのおっしゃるように、前に出てくるのは何々であるとか、あるいは動詞なり何なり、いわゆる用言ですね、がくっついてるものばっかりで、名詞に直接かのようにっていうのがついてるのはざっと見たところあんまりなかったので、
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もしかしたら最近の傾向として、名詞に直接つくようになっているのかもしれません。ただ歴史的に言えば、かっていうのはもともと形助詞っていうか係助詞って言われるもので、名詞に直接つくものだったんですよね。
で、それが時代がどんどん下りに従って、修助詞って言って文末に出るように変化していったので、歴史的な観点から言うと、名詞というか対言につくのはそんなに変なことではありません。いわゆる係り結びの時に出てたやつですね。
というわけで、ケイリンさんお便りありがとうございました。今回のトークはここまでということで、また次回お会いいたしましょう。お相手はシガ15でした。