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志賀十五の壺です。お便り頂いているので、読み上げようと思います。こちら、レイレイから頂きました。ギフトと一緒に頂きました。ありがとうございます。
志賀十五、こんにちは。いつもなるほどと思いながら聞いております。さて、今日は質問のお便りです。私もRadiotalkで配信をしているとかです。
先日、ライブ配信をした際にコメントを下さったリスナーさんに、久しぶりにお会いできて嬉しいですと言いました。
ここで、ふと疑問に思ったのですが、私の中では、本来、会うとは、同じ場で顔を合わせることだと思っていました。
しかし、この場合、顔出しもしておらず、リスナーさんは文字で、私は声での言葉だけのコミュニケーションで、同じ空間にいないのにも関わらず、
会うという単語を使ったのは意味からずれているのではないかと、と同時に、この状況を会う以外でしっくりくる言葉を見つけられませんでした。
この状況での動詞は何なのでしょうか。それとも時代や環境とともに、言葉の意味も移り変わるという観点から、この状況で会うを使ってもいいのでしょうかというお便りです。
例々どうもありがとうございます。面白いですね、これね。
こういう機会がどんどん増えていくでしょうね。このコロナ禍の時代において、Zoom等を使ったミーティングで会うとか言っているんじゃないのかな。
ともともミーティングという、この英単語がmeetという動詞の変化形なので、英語でももしかしたら似たような問題が起こっているかもしれません。
この状況で会うを使ってもいいのでしょうか。
良いか悪いで言えば良いと思います。良いというかどうでも良いと言った方が正しいかもしれませんけど、
これ突き放しているとかそういうわけではなくて、
なんて言うんですかね。やっぱり母語話者の口から出てきたものなので、間違いではないと思うんですよね、そもそもね。
で、レイレイがここで実際に面と向かってないにも関わらず、会うって使ったというかね、使ってしまったというかね。
っていうのは意味変化と言えば意味変化かもしれないけど、意味拡張という言い方をした方が適切かもしれません。
今日はちょっとねこういう意味拡張っていう観点からこの会うっていう動詞の使い方をお話ししていこうと思います。
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言語学では時々プロトタイプっていう考え方をすることがあります。
中心的な意味というか中心的なメンバーとかそういった意味なんですね。
例えば鳥のプロトタイプっていうと、普通は飛ぶものを思い浮かべて、ペンギンとかダチョウが中心的なメンバーとはあまり考えられないんですね。
もし私が鳥だったらとか言った場合、ペンギンとかダチョウを思い浮かべる人はいないと思います。
まあそういった意味で中心的なメンバーということです。
これは何て言うんですかね。
名詞だけに限らず動詞でも見られることで、例えば飲むっていうのは液体を口の中に含んで体内に取り込むっていうのが多分プロトタイプだと思うんですね。
でも日本語だとそこから意味が拡張されて、液体じゃなくても薬を飲むみたいな言い方ができるし、さらにはもっと抽象的な意味に拡張していって、相手の要件を飲むみたいな言い方もできますよね。
こういうふうに中心的な意味があってどんどん意味が拡張されていくっていうのはよくあることなんですね。
どういうふうに意味が拡張されていくかっていうのは言語によって異なって、わかりやすいのはやっぱり英語だと思うんですけど、英語では薬を飲むっていうのはドリンクは使えなくて、takeっていう動詞を使わなきゃいけないんですよね。
これもまた言語の多様性を見る上で面白いところだと思います。
今回お便りにあった会うっていうのも、レイレイが違和感を感じたのはやっぱりプロトタイプの中心的な意味としては面と向かって顔を合わせるっていうことなんですけど、そこから意味がずれるというか拡張されるっていう言い方が一番いいと思うんですけど、
スマホなり何なり端末を通してコミュニケーションするときにも会うというのが使えているということですね。
ただ中心的な意味ではないにしろ会うっていうのが使えるっていうことは共通した意味がそこにあるっていうことですよね。
鳥だったらなんですか、くちばしがあるとか羽毛があるとか、その飛べるっていう中心的な特徴がないとしても拡張されているっていうことですよね。
で、この会うっていうのもコミュニケーションをとっているっていう共通した意味合いがあるので、面と向かっていなくても使えているっていうことだと思います。
これが例えばツイッターの投稿とかインスタの投稿とかね、そういった場合は会うとは使えないんじゃないかなと思います。
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一方的なやりとりの場合はやっぱり会う以外の動詞を使うと思うんですね。
お互いにやりとりするっていう意味があるからこそ、面と向かっていなくても会うっていう動詞が使われているんだと思います。
なんか似たようなこと言っちゃってますね。
この意味拡張はね、もうちょっと中傷的なところでも観察されるというか、
例えばね、日本語の多動詞っていうのは目的語にをっていうのがつきますよね。
ただこのをっていうのが常につくかっていうと、そういうわけでもなくて、まさに会うみたいな動詞の場合は
誰々に会うとか誰々と会うっていう風にをは出てこれないですよね。
あるいは何々が好き、ラーメンが好きとかいう場合はこれ目的語にががついてるわけですよね。
この辺が言語によって異なって、英語の場合はmeと人とかね、likeものとかっていう風に
他の目的語と同じように扱うわけですけど、日本語の場合はちょっと違うように表されています。
これはどういうことかっていうと、多動詞のプロトタイプっていうのがやっぱり想定されて、
一つはね、意思的に何かをするっていうのがあるのと、
もう一つはその対象物に何か状態変化が起こるようなものっていうのがプロトタイプなんですね。
だから言語学ではね、ちょっと物騒ですけど、殺すっていうのが一番多動詞らしい多動詞なんですね。
意思的に何かをして、さらに生きている状態から死ぬ状態に変わるっていうことで、
状態変化を伴う動詞ということで、どんな言語でも多動詞で表されるだろうと考えられてるんですね。
あるいは温めるとか。これに比べると、ぶつかるっていう動詞は微妙に多動詞っぽくないんですね。
というのが、ぶつかった相手に何か状態変化が起こるかもしれないけど起こらないこともあるので、
なので日本語の場合は誰々にぶつかるっていう風に、ちょっとプロトタイプな多動詞とは違う形で表現されてるんですね。
会うとかもそうですよね。会うっていうのは相手に何か変化を与えるわけではないので、
これもプロトタイプな多動詞とは違う、誰々と誰々に会うっていう言い方をしています。
さっき挙げた好きも同様ですね。好きっていうのはむしろ逆っていうかな。
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どういうことかというと、何々が好きって言った場合に、その対象物に自分が何か働きかけてるというよりは、
対象物から自分の方に働きかけて自分自身が変化してるので、あんまりやっぱり多動詞っぽくないっていう説明ができるんじゃないかなと思います。
こういう風に言語の表現っていうのは連続体で、0か1かっていうデジタルではないっていうかな。
っていうのが最近の言語学、特に認知言語学と呼ばれる分野では主流な考え方だと思います。
僕が苦手な分野です。
関連トークがあるので、そちらも併せて聞いていただけたらと思います。
こういう風にプロトタイプがあって、そこから意味拡張をして、いろんな意味を表すことができるからこそ表現の幅が広がってるとも言えるので、
今回のAUもそうですね。バーチャルな世界って言うんですかね。
であってもAUっていうのが使えるっていうのは、ある意味人間の根本的な能力と言ってもいいかもしれません。
というわけで、今回はお便りに回答するということでやっていきました。
どうもレイレイお便りありがとうございました。
お便りは随時募集しておりますんで、もし何かあれば送っていただけたらと思います。
ではまた次回のトークでお会いいたしましょう。
お相手はシガー15でした。