1. レイ・イナモト「世界のクリエイティブ思考」
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2024-04-23 36:54

#074 芸大学長・日比野克彦さんが語る「アーティストになった理由」

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第74回は、アーティストで、東京芸術大学の学長をされている日比野克彦さんがゲストで登場。レイ・イナモトが中学生の時に影響を受けた日比野さんに数十年ぶりに再会し「アーティストになった理由」についてお話を伺いました。日本を代表する世界のトップランナーが芸術を志した意外なきっかけや、挫折を感じた瞬間とは?クリエイティブ思考を武器に21世紀を生き抜くヒントを紹介します。


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This is Reina Moro's Podcast. 世界のクリエイティブ思考。
Hi everyone. This is Reina Moro. 皆さん、こんにちは。
ニューヨークと東京を拠点にするグローバルイノベーションファーム I&CO 共同創業パートナーのReina Moroです。
この番組では、世界で活躍するトップランナーのクリエイティブ思考に迫り、21世紀を生き抜くヒントを探ります。
今回のゲストは、アーティストで東京芸術大学の学長をされている日比野克彦さんです。
30歳くらいの頃からビッグスターで、そしてずっとアートの世界のトップランナーで、
それこそこの番組の趣旨でもある、世界で活躍するトップランナーのクリエイティブ思考に迫るというお題の最もストレート、ど真ん中を行っているゲストかなと思います。
実は僕が彼にお会いしたのは、彼がまだ30代、そして僕がですね、14歳だったと思いまして、
父親がですね、昔からの彼とのお友達で、30何年くらい前に僕の家、それも平高山の山奥にある家に彼が遊びに来てくださって、
そこで父親と雑談をしていたときに父親が僕と僕の兄弟2人を呼んで、
今日本ですごくホットなアーティストが遊びに来たらちょっと話してみたらということで父親の書斎に呼んでくれて、そこで会ったのを今でもすごく鮮明に覚えています。
今回はそんな日比野さんにアーティストになった理由についてお話を伺いました。
では始めましょう。
クリエイティブボイス
日比野さん改めまして、久しぶりです。
本当にね、お久しぶりって何年間有効なんだろうかぐらいのお久しぶりだよね。
もう本当そうで。
賞味期限が切れるぐらいのお久しぶり。
もう全然切れていて、僕が記憶にあるのはですね、12歳とか13歳ぐらいのときなんですけども。
僕だから今日お会いして、あ、大きくなられたなと思って。
こんなこんなちっちゃかったみたいな。
本当に小さい頃にね、5兄弟でって感じのイメージですね。
僕の父親とお付き合いをいただいていて。
そうですね、お父さんと、僕も岐阜出身で、稲本さん、れいさんのお父さんもね、岐阜高山の方でずっと活動されていて、
オークビレッジっていう会社の中で。
で、僕も一番最初に、稲本さん、れいさんのお父さんとお会いしたのは本当古いよね。
自分がそれこそ20代の頃。
なのでもう40年ぐらい前にお会いして、県内での活動や東京でもいろんなシンプルジウムとかでもお会いして。
で、その中であの息子お二人いるんだみたいなところでどこかで会場でお会いしたんだと思うんですけども。
いやえっとですね、僕が覚えているのは、実は秀野さんが家に遊びに来てくださったんですよ。
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高山の、秀田高山の清見村の山奥の家。
で、僕の父親のその実家に所在がありまして、そこで話をされているときに父親がちょっとすごいアーティストが来てるから来なさいっていう風に僕らを呼び出して。
で、その時未だにもう鮮明に覚えているのが、僕が秀野さんにお伝えしたのは、僕はアートが好きなんですと。
で、ずっとアートやっていきたいんですけど、どうしたらいい?
で、その時もうすでに、それ多分20代がもしかしたら30代になられていて、段ボールアートですごくご活用されているときで、僕も興味があるんですっていうことをお伝えしたら、アートが好きなんだったらとにかくまず100回やりなさい。
好きなことを100回続けなさいって言われて、で、100回やってまだ楽しかったらまた100回やりなさいっていう風なアドバイスをいただいたのを未だに覚えてるんですよ。
やり続けて飽きないことはやり続けれるんだよね。当たり前だけどね。
それが僕が秀野さんに、もしかしたらそこが一番最初じゃないかもしれないんですけども、一番最初の記憶で、多分12歳とか13歳ぐらいでもう30年以上前のお話なんですけども、
それがある意味僕の学校で、その後ビジネスのことをやったりとかコンピューターサイエンスもやったりするんですけども、一つの教訓となって、今こういう形となってまた再開できるのが非常に光栄です。
やっぱり縁はいいなもので、本当今日お会いできて、30年前の言葉、自分が発した言葉は自分で忘れてるけども、発して聞いた人が覚えてるってよくあるパターンだけどね。
鮮明に覚えてます。
今日ちょっとお伺いしたいことがいくつかあるんですけど、ご自分のことで言うと、自分の癖だったりとか、これで俺はやっていこうと思ったのは、大学に入られる前からそう思ってらっしゃったのか、その辺のきっかけみたいなのがありました?
大学、それこそ僕は岐阜で高校までいるんですけども、高校1年生になるとなんとなく高校の中で大学受験のことを進路指導の先生たちが言い始めるじゃない。
中学校の時までは岐阜の普通の中学校だから、あんまり将来のことを考えてなくて、高校入るとなんとなくどうするの、文系?理系?みたいな話になってきて、え、そんなこと考えてないな。
サッカー好きだったからサッカー部に入ろうみたいな。先輩もいて、同級生もいてっていうようなところで、ちょっと先の大学受験のことを先生たちから自分がどんな大学に志望するのか、ちゃんと考えなさいみたいなタイミングがあって。
それが高校1年生くらいのときで。理系も文系もあんまりピンとこなくて。あるとき、これは僕が時々する話なんだけども、テレビ見てて、モダンダンスの番組があって、すごい激しいダンスで、なんとなくぼーっと見てて、すげー踊りだなと。
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結構長いダンスで終わって、すごい汗かいた。踊ってすぐの段差にアナウンサー、インタビュアーが出てきてて、お疲れ様でした、ありがとうございました、みたいなこと。
それでインタビュアーの質問が、あなたはどうして踊っているんですか?って聞くわけですよ。そんな失礼な質問をするのかよ、みたいな。随分なんか失礼な質問をするなと思って、言ったらそのダンサー、なんと答えるかなと思って聞いてたら、私は自分のことを表現するために踊ってますっていうわけ。
そうか、自分のことを表現するために踊っているんだ。なんかクラシックバレエとか日本舞踊とかじゃなくて、すごい不思議な踊りだったんで、そういうことなんだね、自分のことを表現しているんだと。
そしたらまたアナウンサーがやっつき場合に、どうして自分のことを表現するんですか?って聞くわけ。また失礼なアナウンサーだなと思ったら、そのダンサーは、自分のことを表現しているときが生きている実感を味合うことができるんですって答えた。
それで、そうか、生きるっていうことは自分のことを表現することなんだって、高校1年生のときにそのテレビ見て、そうだ明日ちょっと先生にどこの大学行くかとかどういう方向に行くかって言わなくちゃいけないからなって。
自分のことを表現する。じゃあ俺は何で自分のことを表現しようかなって振り返ってみたときに、サッカーは好きだったけども、その頃Jリーグも何もなかったし、絵は嫌いじゃなかったし、好きといえどもそんなにもうガンガン描いてたわけじゃなくて普通に絵は好きだったので、
アート、美術、絵だったら自分のことを表現できるような気がするなと思って、次の日、担任の先生に美術の方の大学を考えてますって言ったら、じゃあお前今日からデッサンしろみたいな話になって、美術の大学には実技の入試があるから学科だけじゃなくてって言われて、それではいわかりましたみたいな形でサッカー部を辞めてデッサン始めたっていうのが高校1年生のときです。
それで、でもそのときはバックゼンド美術っていうのをやっていて、やっていてっていうかそのときはもうバックキャストだよね。芸大入ろうみたいな。
で、こう調べて、入試何があるのかって調べて、一浪して入るわけだけども芸大入って、現役の時芸大をこっちで多摩美に1年間行ってたんですけど、多摩美術大学で私学の方にね。
そこも多摩美のすごい楽しかった。東京に来るってこと自体が楽しかったから、同世代で美術やってる奴がこんなにたくさんいるんだみたいな。そこが岐阜だとそんなにたくさんいなかったから、そこは楽しくって。
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それで、今度だんだん自分の表現みたいなものになっていくのは、やっぱり一人じゃわかんないですよ。大学1年生、2年生のときって今でも芸大のカリキュラムもそうだけども、多くはそうだけども、まず基礎的なことをやるのね。
課題が出て、みんなで同じ課題をやっていくっていうのが2年間ぐらいあって。
例えば僕の場合だとデザイン科だったので、いろいろやるんです。日本画もやるし、彫刻もやるし、映像作品もやるし、建築モデルみたいなのも作るし、いろんなジャンルのものを1年のときにやると、同じ課題なのにクラスメイト45人いて、45人の中で同じ課題だけでもやっぱり少しずつ個性が出てくるんですよね。
自分じゃわかんないんだよね。
例えば2年間ぐらい同じ課題をやっていくと、例はこういう癖あるなみたいなのが見えてくるじゃないですか、友達から見ると。
でも自分って結構わかってなくて、あるとき僕がわらばんしとかにラフな紙にガーッとスケッチして、そのスケッチを今度ちゃんときちんとした紙に書き写して作品にしようとしていたら、
友達とかがこっちのスケッチの方が自分らしいんじゃねえの?みたいなのを言われて、え、そうなの?これまだちょっとこれから下書きだけだもん。
下書きの方がお前らしいみたいな言われ方をして、こっちでいいのかなみたいな形で少しずつ自分のダンボール。
ダンボールも綺麗な紙というか、例えば学生紙ぐらい1枚300円の紙とか1200円ぐらいのボードって高いじゃない。
これ失敗できねえなと思ってやっぱり下書きしてトレースしたりして綺麗に使っていくと、その前の普通のスケッチブックでガンガンガンガン書いてたときの勢いとかスピード感っていうのはやっぱりなくなるわけですよ。
それが作風になる個性になる学生も同級生もいれば日々の場合なんか違うということに他社から言われて気が付いて、それで割と安い紙の方をそのまま作品として提出していくっていう中にダンボールっていうのもあって、
やっぱり一人じゃ気が付かないね自分らしさっていうのはっていう学生時代でしたね。
その後、卒業されてからすぐ学生のときから僕の印象だと見てもらわれていて、すぐアーティストとして活動されてきたのかなっていう印象なんですけども、挫折だったりとか逆境だったりとか、俺これやってけないんじゃないかなみたいな思ったことはなかったんですか?
大学院生のときにコンペティションがあったりして、パルコが主催するコンペティション、日本グラフィック展っていうのでグランプリもらっていろいろ仕事をし始めるのが大学院の1年生のときなんですね。
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例えば挫折というか、自分の迷いっていうのはいくつかあるんだけども、あの頃っていうのはこの上野の中にあると、横に東京都美術館とか国立博物館とか文化施設がたくさんあって、公募店っていうのもあるわけです。
公募店の一番、みんなが知っている一番大きな日展っていう大きな公募店が今でもあるけども、団体展って呼ばれてるやつね。日展とかにか展とかなんとかなんとか会とかっていうものがたくさんあって、
そういう公募店しかなかったんだけども、そこに1回出したことがあって、なんか見事落ちて、展なんか見に行ったりすると、ちょっと言葉を選ばなきゃいけないけども、ちょっと自分とは合わないような伝統的な絵が並んでいくと、こういうのはどうしようかなみたいな。
自分もやっぱりこっちの方に行った方がいいのかなみたいな。自分のやりたいことはこっちじゃないような気がするんだけども、でもそっちにちゃんと団体展に入るにはみたいなとか、世の中に認めてもらうためにはとかっていうのを考えたりとか。
あと大学4年生ぐらいのときに就職も考えるわけです。就職しようみたいな。で、就活的な、就活っていうのかな、いろんな有名なアートディレクターに自分の絵を持ってたりして、いろいろ見せてもらったときに、もう全然、そのときも段ボールの絵とかドローイングとか描いてると思ってた。
ダメだよ、こんなの全然ダメみたいな。好きな絵描いてるだけじゃダメだよ、ちゃんとこっちの注文通りというかイメージ通り、お前描けるのかみたいな。描けるかな、描けないかなみたいな。で、もう一周されて、くっそー、くっそーみたいな。
なんで、と思って、そのときにふっともう決めたと。もう自分の好きなことだけやっていこうみたいな。で、もし今ここでそのアートディレクターが言われたように、あと団体展に入るように自分の好きなことじゃないようなことで入選したり認められて何かに採用されたりしたとしても、その後自分の絵を描いてる時間って辛くなるなと思ったんで。
なんか注文通り描こうとか、世の中に評価されるために絵を描こうみたいな。で、それが一回認められるとか評価あったりすると、じゃあまたそれをなぞらなくちゃいけない、描き続けなくちゃいけない。
それって楽しいかなみたいな。それこそ高校時代みたいな、自分のことを表現することが生きることなんだって。これは自分のことを表現するってことになってねーよなーみたいな。じゃあ好きなことだけを自分のことを表現するっていうことで自分を表現することだけをやり続けようと。
で、世間の評価とかっていうのは、人生、その時20代だからあと例えば60年あるとしたら1回ぐらい回ってくるだろうみたいな。すぐ来るか30年後に来るか60年後に来るかわかんないけども1回ぐらい来るだろうみたいな。
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っていうので自分の好きなことをもう描き続けていって、段ボールとかそういう立体作ったりっていうのでやり始めたのがそうだね、4年生ぐらいの学部の。ちょっとそんなちょっとこうトライしたけどもダメだった時期があって。
それでパルコっていうコンペティションが出てきて、お、これちょっといいんじゃないのみたいな感じで応募して、僕がグランプリいただいたのは3回目なんだけど、だから大学院の1年生の時に3回目だから学部の3年生ぐらいの時に第1回グラフィック展があって、だからその時はまだ自分の作風っていうのかな。
自分の表現するっていうことかどうやって表現したらいいのかっていうことに出会ってなかったので、出す作品がなかった時にパルコの第1回グラフィック展が始まり、見に行ったりするとちょっと上の理大生、芸大生たちが作品出してて、いいなこっちの方向だなみたいなものを思って、そんなことがあって大学院1年の時に出したのをグランプリにもらって、
いつか自分のことを認めてくれる時が来るだろうって思ったのが、わりと早く来たなみたいなところで始まったっていう。
なるほど、でもその後はずっとそのまま順調に来たって感じですか?それともさっきサイクルじゃないですけども、認められる時もあればもしくは認められない時も来たとかそういうのは全然なかったんですか?
それこそ日本で作品を発表するようになりました。一番最初に海外に行ったのがドイツのケルンで、日本の国際交流基金が日本の展覧会を持っていくっていうので行った時があったんですよね。ケルンでその交流基金の展覧会があって、
その時にドイツの評論家みたいな人に、今でも覚えてるけどポップって言われたっけ?ポップみたいな。ポップじゃねえよなって思ったけど、でもポップっていう言葉の意味が全然違ってて、僕らが言うポップはポップアート。
アンディ・ウォッホールとか、リヒテン・シュタインとかって当時アメリカのポップアートっていうのがポップで、自分の作品はどっちかというとヨーロッパに憧れてた部分が色の質感とか肌合いとか、僕は大学2年生の時に海外旅行を始めていくんだけども、パリに憧れてパリに行くわけです。
でも当時大学2年生の時に僕がパリに行くったら同級生が日々のパリもう終わってるよ、今はもうアメリカだぜみたいな、当時だから70年代後半か。
まあそうなんだよね、パリはもう終わってます、これからアメリカですよ、西海岸ですよみたいな時代で、みんな同級生たちはアメリカに夏休みとか西海岸ニューヨークに行ったりしてて、
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僕はどっちかというとなんかポップアートのなんかあれじゃなくてやっぱりマチスとかユトリーロとかパリのしっとり感の風合いなものが好きだったからパリに行くわけです。
ダンボールで肌感でそういう質感で作るのもパリから帰ってきてからさっきの自分探しみたいな作風、自分らしさを表現するのでそういう作風になっていくんだけども、
それででもドイツのキュレーシターなのか評論家ジャーナリストに、You are popって言われて、え、なんでアメリカなんだよみたいなことを思って、いやいや違う違ったんだけども、
その時のポップっていうのは後から考えるとやはりコンセプトの部分で僕のモチーフがその時は例えば身近なもののサッカーゲームとかグローブとか好きなものを描いていたっていうところのコンセプト的な部分とあとモチーフなのかっていうところがポップっていう感想を持たれたのか。
もっと言えばじゃあ浮世絵もある時にはポップっていう解釈もあるだろうし、でもそのまだ20、そこそこ20代前半の日々の方に占めればポップイコールもうアメリカだったから、なんでこのおっさん俺の絵見たらポップって言うんだみたいなことを感じたりとか、
あとその後パリで展覧会やるんだけども、パリに行った時もとても日本的だって言われて、え、その時の日本的だって言われたのがなんでこれが日本的なのみたいな、なんだろうね、やっぱりヨーロッパに憧れていて、いやもっとこう日本的なものじゃなくてみたいなことを思ってた。
だから自分の絵の中にも文字入れて、アルバレットの文字入れたりなんかしながら、なんかいやこれ日本的じゃないけどなって言うけども、そういうやっぱり違う文化圏に行くと自分の考えていた自分の像とはえらい違う評価があって、さてさてどうしようかなみたいなのがあったりとか、
その後ニューヨーク行くんですけども、なんかそうだね、あの頃ヨーロッパで展覧会やる機会が多くて、でもなんとなく反応が薄い、薄いというか、なんかボールをなんかもっとパーンと来てほしいんだけども、なんとなくこう、これやっぱりニューヨークに行かなきゃダメだな、勝負だなみたいな。
で、キーセーリングとかは同じ年だし、バスケアがちょっと下でもう彼らがどんどん来てた時だから、やべえやべえやべえ行かなきゃ行かなきゃみたいな感じでニューヨークに行って、っていうアートマーケットニューヨークにどんどん来た頃で、
で、もう日本も本当こう、ロックフェーラーも日本のキーを買ったりとかさっていう時代、バーブルの時で次のアートの市場はトップは東京だぞみたいな動きの中で動き始めながら、でもなかなか今で言えば奈良くんとか村上隆とか様さんのような雰囲気にはまだ全然なくて、アートマーケットも含めて日本の評価も含めてね。
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なんかもっと日本の文化、今でもそうだけども、やっぱり欧米の文脈の中での日本のアートっていう評価しかないんだよね。
そこは今でもちょっと違う動き方を世界のアートの芯の中でも作っていきたいなと思うんだけども、東京芸術大学自体が東京美術学校っていうものの品型はフランスとか音楽流、ドイツとかをお手本にして動いているので、そこはちょっと大きな大きなテーマではあります。
だから今の話はドイツの人がフランスの人が俺ってそういう見え方してるんだっていうものは人によって見え方が違うんだなっていう認識を持って、もっと言えば自分で言ったように変わらないと自分は。
きっと10歳の時も今もなんとなく考えていることは変わらないので、っていうところで会ってきたっていうよりか自分は変わらないんだなっていうのと人によって自分の見方は違うんだなっていうところを腹をくくって好きなことをやっている。
それっていうのがものづくりだけじゃなくて、今は大学っていう立場で大学の大きなアートプロジェクトを一緒になっていろんな人たちとやっていこうという作品作りをしているっていうようなそんな感覚ですかね。
ここまでお送りしてきましたレイナモトの世界のクレイジー思考。今回は日々の勝彦さんにアーティストになった理由についてお話を伺いました。
これは紹介の時にもお伝えしたんですが、20代の頃から彼はスーパースターで、その当時80年代だったんですが、ダンボールアートというダンボールの切れ端に絵の具だったりとかクレヨンとかで子供が描くような絵を描いてそれでスターになったのが氷室さんのアートなんですね。
今回の話で聞いてみるとそうなのかっていうふうに思ったんですが、意外だったのがやっぱり彼も最初の頃特にその学生の頃は悩んでいて、そんなに最初から彼の自分の作風とかが見つかったわけではなかったんですよね。
話の中に彼がおっしゃっていたのは、大学に行くとデッサンとか絵を描く、そして特に日本の大学芸大だったりとか日本の美術大学って技術がすごくて、僕もアメリカで美術学部には所属していてデッサンとかをたくさんやっておいたんですが、
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多分その技術を持っても僕は日本の芸大だったりとか美術大学には、例えば大学を卒業して、そして大学生にもう一回になろうとして試験を受けても入れないぐらい日本の大学の受験、そして日本の大学の絵を描く技術っていうのはすごいんですね。
彼がおっしゃっていたのは、大学でそのデッサンとか絵を描くのをキャンバスだったりとか画用紙に描くわけなんですけども、そのまず下書きとして茶色い安い紙、ダンボールとかそのわらばん紙にざざっと下書きをしてたそうなんです。
それを見た彼の周りの学生の友達の人たちが、こっちのわらばん紙に描いてる絵の方が日々野らしいよっていうふうに言ったことがきっかけで、彼はそこをもっともっと追求していこうと思って、彼の作風が徐々にそこから見つかってきたっていうことをおっしゃっていました。
あともう一つすごく印象的だったのは、彼が高校生の時にテレビを何気なく見ていて、そこに出ていたダンサーの人のインタビューがすごく衝撃的だったそうです。
インタビュアーの人がなぜ踊るのかというすごくシンプルでたわいもないご質問をしたそうなんですけども、それに対してこのダンサーの方は自分を表現するために踊っている。なぜなら自分を表現していると、生きていると実感するからっていうことを一言さらっとおっしゃっていて、それに衝撃を受けたそうなんですね。
この話を聞いた時に僕も自分で今後こういうことをやっていきたいなと思ったきっかけは、高校生より少し若い14歳の時なんですが、実は似たような衝撃的な体験というか経験をしているんですね。
別にそれは大事ではなくて、本当に些細なことなんですが、ちょうどその時に80年代か90年代前後ですかね、利川進さんという科学者がいらっしゃって、その方がノーベル賞を取られたんです。
ノーベル賞を取られた後に橘隆さんというジャーナリストが利川さんにインタビューをして、それが書籍化された本がありまして、精神と物質という書籍なんですけども、科学をやる意味だったりとか科学の目的だったりとか、利川さんが研究されていた内容が一般人にも分かるように橘さんという有名なジャーナリストが根掘り葉掘り聞いていく本なんですけども、
それが僕の中では人生の築きの一つのすごく大きいターニングポイントだったのかなと思います。
ただ正直内容ははっきりそこまで覚えていないんですが、今でも覚えているのは利川さんがおっしゃっていたことで、人の人生そして人の脳みそっていうのはすべて科学で説明できるはずだと。
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人間動物というのは細胞でできていて、何らかの形で科学反応だったりとか、その細胞の中で起きること、そして脳みその中で起きること、脳みその中のいろんなシグナルが行ったり来たりしていて、それが思考になり、そしてこういう話をしたりとかこういう表現をしたりとか、それを見たときに聞いたときに人々がこれこれこうだから感動するという。
なかなかその曖昧なこと、人間の感情のような不可解なこともいずれは科学で説明できて、そして科学で証明できるようになるっていうことを利川進さんが言い切ってたんですね。
それを聞いて僕は、僕はアートもその時からもう10歳、小学生から中学生の頃からもう好きで絵をいっぱい描いてたりとか、あと小学校の先生が絵画に熱心な担任の先生がいらっしゃって、その人の教えがあったりとか、あと小学生から中学生の頃、デッサン教室に学校とは別に通っていたりとか、そういうふうに絵を描く機会にはすごく触れていたんですね。
なんですけども、その利川進さんの本を読んで、内容はあまり理解をしてなかったかもしれないんですけども、その科学で人間の感情は説明できるっていうことを読んで、あっ、だったらアートと科学を掛け合わせていけば人間にこういう感情とかこういう感動を与える仕組みだったりとか表現がもっと科学的に作れるんじゃないかなということで、
その頃からぼんやりとなんですけども、その科学とアート、アートとサイエンスを掛け合わせたようなこと、そしてその境目を走っていって新しいことを見つけるっていうことをやりたいなっていう時に、その時に今こう振り返ると、それがそのすごく些細なきっかけではあったんですが、今でもやっていることにつながっています。
秀野さんのこの話を聞いて、彼がダンサーの話をテレビでほんの数分見て、この自分の表現をするっていうことが生きていると実感することっていうふうに聞いて、それが彼が理大、芸大に行こうと思って、そして今でも教育者の立場に立たれているんですが、そんなちっちゃいほんの数分の出来事が彼の人生のテーマになっているっていうのはすごく素敵だなと思いました。
それでは今回の秀野さんとの話の中の僕なりの3つのキーテーカベーをお届けします。
まず1つ目は人生のきっかけは些細なことから。
2つ目、楽観主義の大切さ。
そして3つ目は人生は自分らしさの追求。
この3つが今回の特にここの前編での僕の中にすごく印象に残った3つのポイントなんですね。
この1つ目のきっかけは些細なことからっていうのは、今説明したみたいに秀野さんが高校生の時に見たテレビのほんの数分のインタビューが人生のテーマになった。
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そして僕も中学生2年生の時に父親からもらった本、内容は分かってなかったんですが、でもそこで印象に残ったことが、今振り返ってみるとすごくそんな些細なことが大きなきっかけとなって、何らかの形でずっとテーマとしてあるっていうのがあるので、
人の話だったりとか考え方だったりとか、あと日常的にテレビでも、ポドキャストでも人の話でもいろんなところに気づきっていうのはあると思うんですよね。
それを探そう探そうと思って見つける場合もあるとは思うんですが、少しだけでもちょっとアンテナを張っていたりとか、少しだけでもその人が言っている言葉、その人がやっていることの裏側にどういうことがあるのかっていうことだけ、そのダイヤルをちょっとだけ上げることで、
なんかほんの些細なことがこういう大きなきっかけになっていくっていうのを、今ひびのさんの話を聞いて、そして自分の14歳の時のことを振り返って、あの時にこういう話を聞いたから、こういう本を読んだから、それがある意味今でも記憶の中に鮮明に残っていて軸になっているっていうのは、なかなか狙ってできることではないとは思うんですが、
何歳になってもそれは12歳13歳14歳15歳の時でも、もしくは50歳55歳の時でもあるかもしれないので、その辺のことは薄だと気にしていてもいいのではないかなと思いました。
2つ目、楽観主義の大切さ。ひびのさんともう30何年間もお会いをしていなくて、それこそその最初に会った時に大きくなったねっていうふうに言われたんですけど、確かにその14歳の時に会ったのと、もう40歳を超えた立派なおじさんで大きくなるのは当たり前なんですが、この歳になって大きくなったねって言われるとは思ってなかったんですが、
彼と話していてですね、すごく印象的だったのが、すごく深い内容ではあるんですけど、複雑にはあまり考えずに、そしてあまりこう重たく物事を捉えてないなっていうのがいい意味で、彼のこの楽観主義なところがああやってアートという少し不可解なものを人生のテーマにして、
そして今大学という場所で、大学でもう10年以上教えられていて、そして今学長になられているわけですけども、深いっていうことと難しいっていうことは全然違うんだなっていうことがすごく印象的でした。
それっていうのは、彼の性格として昔から子供の頃から持っていることかと思うんですが、あまり深刻になりすぎずに、深いんだけどでも軽やかに物事を考えられて、難しいことでもシンプルに捉えて、そしてでも深く考えるっていうところが、これは全く予想していなかったことですね。
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そこの裏っかおにあるのは、彼の性格もあると思うんですけども、楽観主義なところがあり、それをアートというすごく重たくなっちゃうようなことを軽やかに考えて、でも深みを追求しながらどうやってこれが社会に還元できていくかっていうところを教育という場でやっていらっしゃるので、でもやっぱりその楽観主義の大切さっていうところがそういうところに生きてるんだなっていうふうに思いました。
いろんなコンペとかに応募して、公募店に起こったことも何回もあるっていうふうにおっしゃったんですね。
でもずっとやっていれば人生で1回ぐらい自分の番が回ってくるだろうっていうふうに思い直したというか開き直って、そうなったら周りの評価があまり気にならなくなり振り回されなくなったっていうふうにおっしゃってたんですよね。
これもすごく深いことをさらっと軽やかにおっしゃられてるなと思ったんですが、やっぱりある程度の楽観主義、ある程度深刻に考えすぎないっていうのは人生成功する一つのヒントなんじゃないかなとは思います。
そして3つ目は人生は自分らしさの追求。
これも先ほどお伝えした彼がアーティストになろうと思ったきっかけ、その理由っていうのも、大学の頃に自分が下書きで捨てるような絵を描いていて、下書きだったものを周りの友達が見てこれがいいじゃんっていうふうに言ってくれて、
そこがやっぱり自分らしさがあるんだなっていうところを彼が築いて、そっちに作風っていうのをシフトしていくわけなんですけども、やっぱりそこって自分らしさが出ていて、今この時代、ソーシャルメディアとかで自分の考えだったりとか自分の動画だったりとか自分のことを前に出すっていうのがもう当たり前になっていますけども、
やっぱり今そういうことをやるにしても仕事をするにしても、自分らしさを常に常に追求していて、それも例えば20代の頃でそれが見つかったからずっとそのままでっていうわけでもないとは思うんですよね。
自分らしさっていうのは進化することでもありますし、もしくはそれが20代ではなくて30代に見つかるかもしれないですし、そして40代に見つかるかもしれないですし、もしくは50代になってからでもその自分らしさっていうのはずっと追求して、それを探す旅っていうのが人生なんじゃないかなと思います。
まとめますと、今日の氷室さんとの対談、僕なりの3つのキーテークアウエーは、1つ目、人生のきっかけは些細なことから、2つ目、楽観主義の大切さ、そして3つ目は人生は自分らしさの追求、この3つがすごく勉強になったことでした。
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今回は東京芸術大学学長の日見の勝彦さんに、アーティストになった理由についてお話を伺いました。そして、もしこの番組を気に入っていただけましたら、Apple PodcastやSpotifyで5つ星の評価をいただけると嬉しいです。
次回も引き続き日見の勝彦さんと、才能とは何かについてお届けします。どうぞお楽しみに。世界のグリードよろしく。お相手は麗奈本でした。
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番組詳細欄にあるリンクより是非ご覧ください。
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