下えつけとか上えつけっていうのがあって。
下えつけは一回その釉薬をつける前に素焼きって800度ぐらいで磁器とかを焼いたりとかするんですけど。
そこに絵の具の作用をするものを塗って透明の釉薬をかけて本焼きするっていうものがざっくり言うと下えつけで。
上えはもうすでに焼き上がってるものに対して澱粉を塗ってさらにえつけの絵の具のような釉薬を塗ってもう一回焼き直すっていうのが上えつけなんですけど。
まずなんでそこに至ったのかっていう話ですよね。
新しいリスナーさんもおられるかなと思ってまた僕がそもそも何をやってる人なのかっていうことなんですけど。
ずっと一人でしちゃうかもしれない。
司会権独り語りみたいになってきてる。
うみさんが自分語りを結構意識的に避けてるせいで、うみさんが何者なのかよくわからないっていうのは結構あるかもしれない。
あるかもしれないです。
一旦まず自分の何者なのかっていうか基本何やってるかの話からしたほうがいいかなって思いましたけど。
ちょっと新年なんで改めてね。
千恵うみさんはどうか。
千恵うみさんは大学で金属工芸の歴史と技術を勉強したことがあって、卒業後もしばらくちょっとやってたんですけど。
どっちかっていうとデジタルの仕事をしてここまで来たんですが、ある時にふと思うところがあって。
工芸とデジタルをそもそもが人間と技術の関係って何なのかって言ってまたコジラス法アイデアが浮かんできたので、
いろんな人に話を聞いて工芸って何だろうなっていうのを考えてるちょっとめんどくさい人っていうことなんですよね。
ちょっとそういう話もわかりにくいんで。
自己紹介の仕方面白い。
深原翔さんとHAEっていうアートグループをやってて、その中で作ってる作品の中で、
僕は工芸作品とは思ってないんですけど、工芸って何なんだろうっていうのをテーマにした作品であったり、
器にNFCチップを埋め込んだりとか、工芸技法でオートバイのパーツを作ったり、
たどるとあるんですけど、倉田氏ラジオでも昔の話とかで。
そういうのを作りながら工芸ってどういうことなんだろうなっていうのを考える材料を作品でやったりもしています。
ただ作品としてはどっちかというと、大きな括りで言うと現代美術の扱われ方をしてるんじゃないかなっていう気がしていますけど、
その辺は深原さんどうなんでしょう?
気がしてますけどって。
そういうのも結構自分ではわかんないんですよ。
僕最近面白いと思ったのは、ロバート・アキヤマの村上隆のコラボ企画のYouTube見てて、
現代アーティスト。
そっくりにちょっと中年、初期高齢者向けの体型をしたロバートが完全にビジュアルを村上隆に寄せて、
弟っていう手なのかな?
言ってて、彼は架空のキャラクター、皆さんご存知のひょうい芸みたいなやつですけど、
ロバートが演じるアーティストは現代アーティストに対して過去アーティストって言ったんですよね。
それ僕面白いなと思ったんですよ。
そうやって言うことによって現代アーティストって何なのかっていうのを対照的にみんなに考えてもらいやすいような感じで。
それはでも普通のコメディなんで。
でもちょっといろいろと思うところがあるなと思いながら、
美術関係者のSNSとかでも割りかしロバートの過去アーティストのYouTuberがさらっと話題になったりしてるのも見かけたんですけど、
たぶん僕らはもう現代美術なのかなと思ったりしてます。
とはいえ工芸のことを勉強したことがあって、
どこに立ってるのかが自分ではわからないっていうのは工芸の立ち位置がわからないからっていうのに関係していると僕ずっと思ってたので、
ずっとそういう単体で見たらわからないから工芸の周辺との比較で何か状況を浮かび上がらせようというような個人的なモチベーションがあって、
いろんな人に話を聞くっていう、岩田さんと出会って倉田市ラジオっていうことを始めたりとかして、コンクラっていうコンセプトを練っての上なんですけど、
そういうのが自分の個人的なテーマにもフィールドワークになっているっていう状況がまずありますっていう。
なんかすっごい説明的になってません?
大丈夫。
うるって言うとかぶすなって怒られるから黙って聞いて。
すいませんね。
すべて静かに聞いてしまう。
そうですね。工芸にもかたしつっこんでるつもりなんだけど、いろんな人に話を倉田市ラジオとして聞いてる上で、
シーズン3の終わりぐらいですかね、ほとほと僕は結局、いわゆるアートっていう分野の人の思考回路なんだなっていうことを、
すごい強く思ったというか、いろんな人がいろんな考え方をしていて、しかもどれも僕とはだいぶ違う感覚だぞっていうのがあって、
別に違うことをどう違うのかを知ろうとしてたから、それは僕の目的にはあってるんですけど、
僕はどっちかっていうと、工芸を勉強してるけど相当アートによってる人なんだろうなっていう自覚を、
倉田市ラジオももう100回以上続けていく中で思ってるっていう、ここ最近の自己認識がありますよっていう。
私と逆な感じがする。
私、現代美術家って自分で言うことに違和感が、
ここ1年ぐらいずっと持ってるから、アート辞めるって宣言。
去年、あれもう一昨年か。
去年か、したよね。
そういう話はちょいちょいしてますよね。
あんまり現代美術っていう市場に乗るような作品を作り続ける気は全く昔から到底ないから、
だからあんまりアートフェアとかで作品を売るとかいうための積極的な活動はしてないし、
だけど社会活動だとは思っては、社会活動っていうか、一社会人、一社会のメンバーとしての活動。
だから誰かのためにっていう社会活動じゃなくて、社会の一員として活動することで、
周りも社会の一員なんで、みんなもこうやってポッドキャストやったり音楽やったりとかするじゃん。
じゃあ、二人の展示とか、何かしら1年の中で何回かやったりされてるじゃないですか。
ああいうのは、今の潮さんの言葉で言うと社会活動として、
アートの市場みたいなところとは全く違うところで活動してる。
売らないから。
売るって言うこともない。
一応すら値段はついてはいる。
つけてないし、ただ買いたいっていう人いるんですよ。そしたら売るみたいな感じ。
買うっていうのは、作品同士交換したこともある。
相手がパフォーマンスで返してくれる。
わらび餅をもらったりとか、めちゃくちゃおいしいわらび餅を作れる子に頼まれて、
作品作って、わらび餅長者を入れて、そういうYouTubeチャンネルで作品パフォーマンスし合って交換するとか、
そういうのはやるんだけど。
僕もさっき全く違うって潮さん言ってたんですけど、基本的には僕も一緒ですね。
立ち位置がわかんないっていうのは、自分がどう名乗りたいかっていうよりは、
いろんなカオティックな状況の中で、ただ考えを整理するためにやってるだけなので、
比較の問題で相当、アートって呼ばれてるものの思考回路なんだなっていう自己認識であると同時に、
別に自分は、だからといって自分がアーティストだっていう自覚はものすごく希薄ですね。
全然まだ今日の主題じゃないんですけど、
何となくわかったのが、僕逆にアートの業界のこともわかんないし、歴史のこともあまり詳しくないながらで、
ずっと二人と一緒に喋ってて、何となく前よりは理解ができてきたかなって思ってる中で言うと、
アートの市場みたいなこともよくわかってないわけですよ。
でも、村上隆とか成功してるなみたいなことはぼんやりわかるみたいな。
でも、アート作品みたいなの作ってたらアーティストなんじゃないのっていう認識ではいたけど、
結構業界みたいなものがあるから、そこで商品としてのアート作品がそこの市場の中で出回ってなかったらアーティストではないみたいな
認識みたいなものがちょっとあったりするわけですか?共通認識として。
でも、それも一側面あると思うんですよね。そういうのも。
ちょっと今、工芸の話につなげるために重要なことを言及していただいたのであれなんですけど、
すごく狭い意味でアートって言うと、
アートっていう概念はここ100年か200年で、
すごいヨーロッパのアートサロン的なところとか非評価筋とかが
積み上げていってた理論体系に依存せざるを得ないという状況がありますという前提を、
分かってそうで分かってない人も多いかなと思っていて、あえてちょっと強調しておくんですけど、
分かりやすく言うと、昔宮廷とかの人とか宗教画とか描いてた絵とかが、
産業革命とか、主権が国民に移ってきたことによって、
まずテーマが民衆のものになったり、民衆からさらに個人のものになったり、
個人のものがさらには意味自体が剥奪していったりとか、
倉田シェラジオムでもベンヤミと複製技術の話をしましたけど、
複製の技術がまた発達することによって、
絵画の抽象度がさらに上がってくるとか、そういう状況が発生したりとかして、
簡単に言うと、一つの分岐点がデュシャンとかだと思うんですけど、
工業製品の便器の角度を変えておいて、これはアート作品だというような状況で、
基本的には意味がそもそも剥奪されているという状況。
それだけ見ても何で作品なのかが分からない。
文脈を知らないとよく分からないというところに到達していると思うんですよ。
20世紀の初頭に。
そこからさらに、間すごくいろいろあるんだけど端折りますけど、
80年代とか70年代後半に、
ショーさんの方がたぶんいろいろ本を読んでいると思うんですけど、
ボイスっていうデューステルドルフの人がいて、
社会彫刻ってまた新しい、活動自体があの作品みたいな、すごいショートに言うと話が出てきて、
またさらにアートの概念が変わってきたというようなところがあって、
簡単に言うと、これ今日の話で重要じゃないのではしょるんですけど、
コンセプトとかそういうものがものすごく大事になってきて、
イギリスのアーティストとかで顕著なんですけど、
コンセプトさえカッチリしていれば、
例えば絵を描くだろうが立体を作るだろうが、
発注して誰がやってもいいみたいな、
そういう状況が極端に言うとあったりします。
それのちょっと逆転して、
ホックニーとかのイギリスの画家ですけど、
AIとかそういうことで英語を簡単に描けるような時代を反映してか、
今はキャプションで、これは手で最初から最後まで描いたものですっていう風に、
一部反動が起こっているような現象もあるようなんですけど、
基本的にはもう自分が描かなくてもいいという、
コンセプトが一番大事、市場主義というような状況があって、
さらにそのコンセプト重視の作品というのに、
世の中がすごい疲れているというか、
作品そのものを見てもよく分からなくて、
展覧会に行ってキャプションとかコンセプトシートを見て、
ああって何となく分かった気になろうとするみたいな状況も、
その干渉者としても多分ある程度疲弊している部分もあるような気がしてて、
そういう部分で今アートマーケットで格強を呈していて、
日本ですごく可能性を国内外の人が見出されているのが、
工芸の技巧というところに対するアート性の担保ってやつなんですよね。
ちょっと分かりにくいですよね。
アート性の担保っていうのがよく分からないですね。
そうですね。
技巧がすごいとやっぱりこれってアートなんじゃないかっていう、
これってすごいって普通に誰しも思えるよねっていう。
要は何だろうな。
もう便器でも作品になります。絵は描けなくてもいいです。
なんならAIが描けます。
そういうことがあって、
これって人がここまでやれるのってすごいよねっていう反動が
今時代的に来てると思うんですよね。
なんかすごく一頃の抽象絵画とかっていうよりは描写的なものとかが
すごくアートマーケットで受けがよかったりとかするんですよね。
描写的?
描写的です。
写実的?
写実的なものとか。
デッサン力とかをベースにしたものとかの受けがよかったりとかしてて、
それがある種のコンセプト疲れの反動なんじゃないかなと思っていて。
日本の工芸的なこととかものが
そういう文脈とかアートマーケットに乗っかりやすいから
アートとしての工芸っていうのを
輸出するっていう動きがすごく活発になりつつあるだろうなっていうような
状況を今すごい感じてはいます。
それはなんとなくね、僕目線ですごくバイアスがかかってる自覚を持って言うんですけど
すごいバイアスだなって聞いてる。
そうなんですね。僕はその辺のバイアスわかんない。正直わかんないですけど。
コンセプト疲れっていうのは
それは人によるんじゃないかなと思うし
トレンドとして今コンセプト
コンセプチュアルアートっていうのがあるんですよ。
本当にコンセプトですって言ってる名前で。
そういうのが主流じゃないよっていうのはわかる。実際そうだし。
だけど例えばそのネットとかインスタグラムに
手で書いてます?手で書いてません?みたいなのがすごいバズるじゃないですか。
これ実は鉛筆で全部書きましたとか。
そういうこと言いたいなと思うんだけど
ただそれは超絶に上手いっていうのはアート市場ではまだやっぱり強みにはならない。
もう一個言うのが
批評家とギャラリストの分断っていうことを話さないといけなくて
コンセプチュアルアートってコンセプトがアートだから
理解ができないんですよね。あれはしにくいんですよ。
できる?全然。
全然できるんだけど
例えば
ショウさんお金があったらモナリザ買いますか?みたいな話なんですよね。
モナリザ売ってないです。
まあまあ僕それを言っていて
教科書に載っていたりとかその売り替えされないものの作品で
ただみんながそれを知っていてそれにまつわる言説とかを聞くだけで
そのままある作品ってやっぱりあるわけですよね。
むしろ逆で売ることが目的の作品ってすごくあるわけですよ。
それはアートバーゼルとかでもちょっと大きめのマーケットで
スイスとかでやってるマーケットとかは基本的には値段をつけたりとかするものですよね。
すごく言われているのがギャラリストと批評家の扱うアートっていうのがどんどん分離してしまっている。
売り替えできなくてもみんながその作品を知っていて
その作品についてあれこれ批評を聞いたり自分で何か考えたりすることに対する価値と
所有したいっていう
あんまり別に批評家の批評はいらんけどとにかくそれを所有したいとか
そういうものの欲求っていうのが完全にはないですけど
かなり分化してるっていうことがちょっと言いたい。
ギャラリストとかはわりかし描写的技巧的なものっていうのが
その反動的にある種のアートマーケットの一定の需要っていうのをすごく見込んでいて
僕が日本の美大とかだった頃よりは
そういった意味での日本の学生の青たがりっていうのは
もうここ落ち着いたと思うんですけど
すごくえぐいぐらいちょっと見られたっていうのが
5年ぐらい前とかは
そんな状況はたぶん
ある種世界的に珍しいデッサンで入学するっていう
日本人の学生のアートマーケットでの可能性を買ってると思うんですよね
っていう状況を踏まえております
今ってそんな状況なんだろう
アウトバブルがちょっと弾きつつあって
一旬したんじゃないですか
アウトバブルっていうか
日本人学生青たがりみたいな
それ上手いからじゃないんですよ
私の知ってる理由としては
そうなんですね
安いからはっきり言うと
なんか怖い話
それはめちゃめちゃわかるんですけど
安いってのは仕入れが安いのであって
技術があればもっと高く売れるので
リザやが大きいっていう
僕はそういう理解ですね
だから一定の作品の値段がついちゃってる人は
下げられないっていう問題が
売る側にはもちろんあるでしょ
だから青たがりの理由は安いからっていうのが
やっぱりどうしてもついてきちゃう
もちろん才能を認めてって人もいるから
全員が安いからって言ってるわけじゃないんだけど
ただじゃあなんでアジアの中でも
他にもヨーロッパにもいっぱい若いアーティストがいるのにも関わらず
5年前ぐらいとかに一時日本のアーティストが
若手の卒業展とかで作品があって買われたかっていうと
手に入れられる今の値段
だからここから手垢がついちゃうと値段上がるから
その前に安いし買っとこうと
手垢がついたらどうなるんだっていうのが私の疑問
その後どうなったんだろうっていう
嫌っておっしゃったんですけど
同じこと言ってると思いますけどね
安いってのは売り方がイメージついてるわけですよね
ギャラリストにとって
その文脈ってどうやって売っていくのかっていうのは
技巧的なものっていうところが一定の需要があると思ってるわけですよ
アートマーケットとかって
例えば小美術とか中国の
それこそ後で話そうと思ったんですけど
すごく技巧的な装飾とか
そういうもののブースの隣に現代アートのブースとかがあったりするので
境目がないんですよね
骨董的な作りの良さとかそういうもので売ってるところと
ちょっと松尾さんの意見に付き合ってるのもすごくいいんですけど
話を進めながらちょっと意見を伺う感じにしてってもいいですかね
ちょっと自分も
私の意見で
多分これ2エピソードに渡る感じになる気がしてきた
僕はそれでも全然大丈夫です
そうですね
だからそういうアート的な目線で
今のアートシーンと工芸の状況を見てきた
海さんが絵付けやってるっていう最初の話に
たどり着くところに進まないといけないですね
そろそろね
最後にこれ言っていい
まずアートマーケットをあなたは日本しかちゃんと見てないねってやっぱり思いました
中国とかのアート
バーゼルとか私たち行ったことないけど
技術的にすごい中国のアーティストってめちゃくちゃいっぱいいるし
人数で言ったらはるかに中国の方が多い可能性が人口的にもある
大勢の数だって日本よりはるかに多いし
日本に来て中国人の留学生の作品はやっぱり技術力がすごい高い
それは日本のデッサンの入学を超えたからだけではない
何かちゃんとベースにあるものを持った子たちが
留学してきてるって可能性も非常に高いし
すごい超絶技巧な現代美術の作品の横に工芸が置いてある
これも日本の状況だけであって
例えば香港アートバーゼルはどういう状況かって
見てからそれって日本特有だよねって言った方がいいんじゃないかって
この前やっぱ中国行ってすごい
中国の現代っていう場所じゃないけど
北京とか行ってないけどちょっと端っこ見たから
思ってた中国と今の中国の現代って全然違ったのに衝撃を受けたので
なぜアートが中国で売れるんだろうっていうことがちょっと考えて帰ってきた
なので逆に言うと安いからっていうのは
それはもうただ縁のせいだと思ってほしいし
生活費も安い日本だから