僕が行った時のあのエリアっていうのは、まだやっぱり治安が悪かったり、誰々がこの間ここで打たれて殺されたんだよとか、
西海岸みたいな派手なギャングの構想はないんですけれど、小さいギャングで誰々と誰々がすごい揉めたみたいだから気を付けた方がいいよとか、店員さんが刺されちゃったよみたいな。
とはいえ、まだローアイソサイドって言われる文化で、ニューヨークがすごくギラギラ輝いていた文化発信している時代だったので、
ちょっと危険の隣り合わせなスキャンダラスなニューヨークの魔力的な魅力みたいなのはある時代でしたね。
今おっしゃったように、私はニューヨーク一回しか行ったことないですけど、ロンドンは結構好きで、
この間もコロナギリギリの時に行ってて、ショーディッチとかのあの辺にいたんですけど、
やっぱりブルックリンとかもそうだと思うんですけど、もともとすごい治安が悪いところほど、おっしゃったように新しいものが生まれるみたいなのをすごく感じて、
たぶんブルックリンもそうだと思いますし、ロンドンのショーディッチとかもそうですけど、
ジェントリフィケーションじゃないですけど、結構いわゆるおしゃれな感じになってきていると思うんですけど、
そういう意味ではブルックリンもまだそういう犯罪のニューがしたみたいな、
時から今完全に勝者な感じになっちゃって、両方見てこられてるって感じなんですかね。
なんかこのニューヨークにいてね、僕がすごくいいなと思うのって、
ジェントリフィケーションのきっかけが僕らなんですよ。
つまりどういうことかっていうと、お金がなくて地価が一番安いところにアーティストはたまらざるを得ないんです。
それはまずお金がないからなんですね、我々は。
そこにニューヨークの場合は、コミュニティがあると治安が悪くなったりするんですよ。
それがラテンコミュニティでも、そこにコミュニティが存在することで地元のカラーができて、
そこでアメリカみたいな経済格差があるところですと、貧困の差が出てきて格差が出てくる中に、
だいたいアーティストコミュニティが住めるところってそういうエリアになるんですよ。
そうするとアーティストが住みだすと、だんだんそこに一番最初はバーができてきて、
その後に飲食の職ができてきて、ギャラリーができてきて、
そうするとカッコイイっていうメディアが話題になるとファッションが入ってきて、
最後レジリニスが入ってくると、一番最初に追い出されるのは一番最初に住んだ僕らなんですよ。
それが50年代の双方から始まって、トライベッカですとかウエストビレッジですとか、
文化発信するところが文化から経済に繋がっていって、
そのままアーティストはノマド的に新しい場所を見つけ出すっていう。
それが今度ローアイソサイドになって、僕がニューヨークに行った時にはブルックリンに移ってたんですよ。
今でこそブルックリンってオシャレなのは、ボロボロの工場地帯にアーティストが勝手に住みだして、
ロフトって言われる工場なのかエネなのかわからないところで、創作活動に没頭しながらそこに暮らす。
それが今度かっこよく見えてしまって、そこに人がまた介入してくるって感じなんですよね。
なるほど。
今はニューヨークの話を伺いましたが、
今日は東京都内のエンパイアステートビルじゃないドコモのタワーがありますけど、
ちょっとニューヨークと無理矢理くっつけてみましたけど。
ニューヨークですよね。
やっぱり似てますよね。
ちょうどおそまきながら、この間新宿の花男さんを直接見てきてですね。
僕自体、いつでもどこでも仕事できるような職業なので、
あんまりもう新宿とか最近行ってなかったんで、
あそこに松山さんの作品が、もちろん映像では見てますけど、どうなのかなと思って、
これ個人の感想なんですけど、思った以上に完全に馴染んでるなっていう感じが受けて、
夜に行ったんですけど、本当に今ね、なかなか新宿は人わい雑な感じであったんですけど、
本当に人が癒やしな感じでサークルのところに座ってて、
なのでファブリックアートって当然そういうものなんでしょうけど、
何が伺いたいかというと、
松山さん、ファブリックアートって文字通りなんて言うんでしょう?
ファブリックアート、あと普通のご自身の作品もあると思うんですけど、
ご自身の手を離れたら、作品はファブリックアートであろうが、他のアートであろうが、
なんて言うんでしょう?
同じなんですかね。それかファブリックアートは、
なんかよりもう完全に自分が作ったものじゃない感じなのか、
つまり、ちょっとすみません、まどろっこしかったんですけど、
例えば私、小説家の方とかともよくやりとりするんですけど、
作品って一回もう出版して夜に出されたら、
実はあんまりもう手離れしてるから、
なんか愛着はもちろんあるけど、
なんか自分のものだとか、それをどう批判されようが、
あんまり気にしないみたいなことを言ってる方が結構いたりするんですけど、
いわゆる松山さんにとって、
その作品、特にファブリックアートって一回手離れしたらどういう感覚なのか?
素晴らしい質問なんですよ。
っていうのが、どこをもって作品とするのかが違うんですよ。
要は今おっしゃってた作家さんですと、
書いたものがパソコンでも筆でもいいんですけれども、
出て流通するシステムに乗って、
それで作品が共有されたことで、
どこをもって作品とするかっていう物語と一連の流れ、
インフラが整備されてるわけですよね。
ファブリックアートの場合は少しそれが違うんです。
人が接点を触れたときに作品として完成するのか、
僕が作品が終わった時の完成なのかを見極めないといけないんですよ。
それはロケーションが持っているキャラクターだったり、
機能というものと作品というものが結びつかないと、
ただのエゴになるんですよね。
要は公共の施設に自分のアトリエで作っているものを持ってきても、
そこに対話性がないと、
あと親和性がないと関わる人が乖離してしまうんですね。
あれはアイデアとして尺形みたいな形で、
周りにあるロゴの色を集約してるんですよ。
だからあそこ歩いた時に、なんでこんな色が馴染むんだろうっていうのは、
あの周りに散らばってる色を下に僕は整理しておいてるだけなんで。
色としては。
そこに今度、もちろん植栽として自然も置いてますし、
人工的に作られた植物っていうのも地面に描かれてるんですね。
彫刻自体に。
人工物と都会の中にある自然っていうものの接点を持ちたいと思ったことと、
新宿の機能を持っていくことによって、
あそこにある乱雑な情報っていうものが、
あそこで集約して整理するようにできてるっていうことなんですよ。
なおかつ機能的に見た時に、
僕はニューヨークという場所で活動していると、
様々な文化都市で展覧会をする機会に巡らせがあって、
非常に光栄なことなんですけれど、
そうすると僕が仕事で行ける場所って大体経済都市なんですよ。
ロンドン、パリ、ロサンゼルス。
そういうところに行くと必ず駅っていうのは巨大なコミュニティスペースがあるんですね。
新宿って駅は300万人1日使うのに、
あれだけ大きくてコミュニティスペースがないんですよ。
そうした時に、地球にある方にはグラウンドセンタルステーションが乗って、
行こうという観光する場所になっているのに、
新宿駅に行こうって誰もならないじゃないですか、バンドが来た時に。
ただ、新宿の中にある歌舞伎町でもゴールデン街でもそこへ行くんですよね。
駅自体がアイコニックな文化象徴として成り立っていないので、
ランドスケープのデザイナーと一緒に機能できる巨大な台座みたいなものが円卓になってみんなで座れるとか、
夜になると照明もギロまで選んだので、カップルがイチャイチャできたりする環境になったりとか。
アートが持つことでそこの地場が変わって、
あそこに最も人が来ないところに人の動線を作れれば、
それが文化効果から経済に直結するんじゃないかって、
僕はニューヨークで見てきたさっきのジェントリフィケーションというものを、
違った形で体系化できないか体現化できないかと思って、
あそこに2年間くらいかけて様々な方の協力をいただき、
もちろんJRさんもそうですし、ルミネさんもそうですし、
いろんな人たちがこういうものをやることが今の日本とって意味があるんだということを、
理解いただきながら進めていったって感じなんですよ。
ありがとうございます。でもそうやって丁寧に案内していただくと、
なおさらですけど本当になんて言うんでしょう、まさにちょっと後出しになっちゃいますけど、
新宿とか池袋って個人的には、そういう人もちろん多いですけど、
憩いの場が本当の意味でなくて、普通っちゃ普通の意見ですけど、
なのでやっぱり苦手なんですけど、本当に馴染んでいると同時に、
ちょっとボキャブラリーなくて恐縮ですけど、やっぱりほっとあそこに入った瞬間に一息ついて、
ただつくづく思ったのが、やっぱりアートってそこに行かないとわからないなというふうに思って、
今回はなおももちろん、はなおさんですね。
はなおさんもいろいろ事前にこちらの写真集とかでもいろいろ見させていただいてたんですけど、
当然ですけど、やっぱり行かないと伝わらないっていうか、その辺のホット感とか全然わからなかったので、
実際どうなんでしょう、松山さんパブリックアートでも既存の作品もそうですけど、
当然今もう活躍されていて、松山智一がやるものだったらっていい意味でも、
場合によっては悪いというかプレッシャーもあるかもしれないですけど、
ある程度松山さんが出すものだったらってみんなイメージを抱くかもしれないですけど、
特に最初とかって、遠く離れたところにいる人が、例えば僕が松山さんのこと全然存じ上げなくて、
この美術手帳とかで例えば知って、見た時に、もちろんこの作品は素晴らしいと思いましたし、思う人もいると思うんですけど、
本当にリアルで見るのと、写真とかを通して見るものって全く違うなっていうことを改めて気づいて、
なのでその作品を作り上げる時に、パブリックアートの場合が特に特殊かもしれないですけど、
両方って見てるんですか?つまりこれを当然その場で見る人、触れる人と、
あとはその前の段階、もしくはそこまでは来られないけど、何かメディアを通して見る人とかが見た時にどういうふうに見えるんだろうとか、
どんな感じなんですかね?
またすごく非常に高度なご質問で、もう少し噛み砕くと、考えてるんです。
ニューヨークっていう場所で、僕25歳の時にニューヨークに行ったんですよ。
最初は芸術家になろうと思ってないで行ったんですね。
ニューヨークに行ってからアート活動っていうものを始めて、
それまではデザインだったり商業的なこと、何かをやろうと思って行ったんですけど、
向こうに行ってからアーティストっていう存在が身近にいることに気がつき、
衝撃を受けてこういうことをやりたいと思ったんですよ。
発表の場が外部になかったんで、あの手この手使ってカフェで発表したり、
街中に筆画を描いたりするということで、自分の表現を行う場所、プラットフォームを自分で作ってきたんですよ。
今20年こうして発表するようになって、
ギャラリーだったり美術館っていういわゆる敷居が高いところで発表できるようになると、
美術館なんかっていうのも入場料払って見に行くような、究極な目的地化されたような場所ですよね。
そこに行けば行くだけ、本来行きたいと思ってたところに行ってるんですけれど、
限られた限定的な人にしか自分がコミュニケーションを、
作品を介して図られてないって思うことは増えてたんです。
美大を行ってなく、アカデミックなアートの教育を受けてなかったので、
壁画を描いたりしてる時も、コミュニティ、大衆性っていうものとの関わり方とアートっていうものの中で作品を発表してきたんですね。
そこまで僕は人種云々ということよりも、
いろんな形で僕らの位置付け、定義付け、文化帰属性というのが曖昧になっていくじゃないですか。
がゆえに非常に面白いと思うんですよ。
肌の色というものが、
より顕著に差が出ながらも、
個人というものの定義付けがより曖昧になっていっている時代でもあると思うんですね。
肌の色だけじゃなくて、自分の個人の定義ができるようになるというか、
なおかつそれの操作もできるというか、
よく言うんですけど、SNSとかで自分で撮ったものを画像をいじると。
要は自分のリアリティをフェイク化できるみたいな。
リアリティとフェイクというものの間を作品を介して作ることで、
見てる人が面白いって入ってこれるようなものを作りたいんです。
僕がやりたいことというのは、作品を介して何かの答えを出すんじゃなくて、
最高の問いを見たいんですよ。
アートというのは答えを出すことじゃなくて、質問を作ることだと思っているんですよ。
そうすれば自分が没入しているように、見てくれる人も
何だろうこれって言って自分の世の中に勝手に入ってくれるっていう。
質問を作るか。
じゃあちょっと同業者ですね。
そうですね。
そうなんですよ。本当にそうなんですよ。
考えてもらうきっかけを作るというのが芸術家の仕事なんです。
僕のやってるポップで、東洋と西洋を混ぜているとか、
伝統と現代を混ぜているとかっていう、
表層的なことをよくサブタイトルって言われることはあるんですけど、
実は違って、ぶつかる価値観みたいなものをできるだけ多く
一つの画面の中だったり作品の中に組み込むことで、
いい居心地の良さと変な居心地の悪さみたいなものが両立することで、
何だろうって思ってもらえるきっかけができればなと思っています。
だからさっき新宿で馴染むっていうのは僕にとって最高の褒め言葉ですけど、
多くのアーティストにとっては、作家ってどちらかというとエゴイスティックに
どうだ俺はって見せる方だからそれが嫌がる人がいるんですけど、
僕の場合、アーティストにとって珍しくバランスっていうものはすごく意識するんです。
そのバランスの中に見えてくるアンバランスさみたいなものは楽しい。
これから伺いたいことにもいろいろ関係するのかなと思うんですけど、
そのバランスって言っても当然、例えば平均点100点満点ってすると、
平均点50点と言っても50点取った人の50点と、
100点と0点の2回取ったら平均点50点じゃないですか。
やっぱりダイナミックにバランスを取っている感じがするんですけど、
いわゆるど真ん中じゃやっぱりそれはそれで。
やっぱり何かのタイミングというのが大事だと思うんですよ。
ありがとうございます。